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暦仁二年・延応元年(1239年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。匠作北條時房の沙汰による椀飯の儀は通例通り。周防右馬助北條光時(束帯)が御剣を、武蔵守北條朝直(狩衣)が御弓箭を、肥前守佐原家連が御行騰沓を献じた。
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      一の御馬は(鞍置き)  相模式部大夫北條時直   本間次郎左衛門尉信忠
      二の御馬は       相模右近大夫将監北條時定   横地太郎兵衛尉長直
      三の御馬は       佐原太郎左衛門尉家胤   同四郎左衛門尉光連
      四の御馬は       佐原七郎左衛門尉政連   同六郎助連
      五の御馬は       相模七郎時弘   橘右馬允公高
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 北條時房は62歳・ 北條泰時は55歳・ 北條朝時は46歳・ 北條政村は34歳・ 北條経時は14歳・
三浦義村は12月に73歳ほどで死没・ 三浦泰村は55歳・ 足利義氏は50歳・ 結城朝光は71歳・
四代将軍藤原頼経は1月16日で22歳・四条天皇は2月12日で8歳。(全て満年齢)
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。前武蔵守北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。右馬権頭北條政村(束帯)が御剣を、若狭守三浦泰村(狩衣)が御弓箭を、秋田城介安達義景(頂を折った烏帽子・帯剣)が御行騰沓を献じた。
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      一の御馬は    周防右馬助北條光時(狩衣・帯劔)   同、修理亮北條時幸
      二の御馬は    左近大夫将監北條経時(狩衣・帯劔)   梶原右衛門尉景俊(梶原景茂の長男)
      三の御馬は    陸奥掃部助北條実時   原左衛門尉忠康
      四の御馬は    大曽祢太郎兵衛尉長経   同、次郎兵衛尉盛経
      五の御馬は    五郎兵衛尉北條時頼   弥次郎左衛門尉親盛 .

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   ※大曽祢長経: 文面通りに読めば安達盛長-次男時長(景盛の弟、分家して大曽祢氏の祖)-嫡男長泰-嫡男
長経(上総介)なのだが、長経は寛喜四年(1232)生まれ(満7歳)だから整合性は乏しいし、盛経は叔父(長泰の弟)に当たる。この記事はなにかの錯誤だろう。ちなみに北條時頼は満11歳、公式行事には初めての登場で、2年前の嘉禎三年(1237)に元服している。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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1月3日
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吾妻鏡
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晴。遠江守北條朝時の沙汰による椀飯の儀あり。右馬権頭北條政村(狩衣)が御剣を、周防右馬助北條光時が御弓箭を、内藤七郎左衛門尉盛継(内藤盛家の息子?)が御行騰沓を献じた。
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      一の御馬は(鞍置き)  遠江式部大夫北條時章   小見左衛門尉親家
      二の御馬は       南條八郎兵衛尉忠時   同平四郎
      三の御馬は       陸奥掃部助北條実時   梶原右衛門尉景俊(1月2日参照)
      四の御馬は       新左衛門尉平盛時   同四郎
      五の御馬は       遠江五郎北条時兼(北條朝時の五男)   飯田五郎家重
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椀飯の後に将軍家(藤原頼経)の御行始め(外出初め)があり、前武蔵守北條泰時に入御した。.

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   ※飯田家重: 飯田氏の初見は治承四年(1180)8月24日の堀口合戦で、ここでは渋谷重国の五男飯田家義と
して書いたが、大庭景親の郎党説・甲斐国の住人説・駿河国の住人説等があって釈然としない。
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   ※北條泰時邸: 現在の寳戒寺(公式サイト)を中心とする一帯 (地図)。ここが鎌倉幕府の滅亡まで、代々執権の
公邸として使われていた。訪問レポートも参考に。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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1月5日
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吾妻鏡
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御弓始めを催した。
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  射手
     一番   三浦駿河五郎左衛門尉   佐貫左衛門次郎
     二番   同佐原四郎左衛門尉   大河戸太郎兵衛尉
     三番   南條八郎兵衛尉   平左衛門四郎
     四番   藤澤四郎   本間源内左衛門尉
     五番   横溝六郎   原三郎
     六番   小笠原三郎   神地四郎
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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1月11日
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吾妻鏡
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雨雪(みぞれ、または雨混じりの雪)。将軍家(藤原頼経)が鶴岡八幡宮に御参拝。午二点(11時半前後)に御束帯・御車で出御、陸奥掃部助北條実時か御剣を持ち、佐渡判官後藤基政・上野判官結城朝広らが供奉した。
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今日、陸奥国郡郷の所当についての検討があり、徴税する税吏も農民も布によって納付する決まりを忘れて銭貨を利用し、所定の納付額を守っていないとの噂がある。白河関から先へ下向する者以外は銭貨の所持を禁止し、同時に絹布の品質についても以前の通りに納付するよう定めた。
将軍家(藤原頼経)の奉書(決裁書)が匠作(北條時房)を経て前武蔵守北條泰時に命じられた。
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   ※所当: 国衙または領主に納付する物品や雑役。鎌倉幕府は貨幣経済の浸透に抵抗を続けている。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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1月17日
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吾妻鏡
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晴。ニ所詣にそなえて将軍家(藤原頼経)の精進潔斎が始められた。
西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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1月19日
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吾妻鏡
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一晩中小雨。今日京都の使者が到着し、去年12月28日に宣秋門院が崩御した旨を報告、享年67。
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   ※宣秋門院: 後鳥羽天皇の中宮、父は摂政関白九条兼実
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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1月27日
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吾妻鏡
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晴、夜になって雨雪、深夜になって晴。巳刻(10時前後)に将軍家が二所詣から還御、一昨日(25日)に三嶋大社と伊豆山権現に御奉幣した、と。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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2月3日
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吾妻鏡
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御所に於いて大般若経の信読が始められた。権少僧都澄弁の担当である。
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   ※真読: 省略せずに経典を全部通して読むこと。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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2月4日
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吾妻鏡
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快晴、夜半になって雨雪、雷鳴が数回あり。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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2月5日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)強い雷雨あり。
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西暦1239年
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84代 順徳
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暦仁二年
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2月7日
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百錬抄
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改元あり。世の中では「暦仁は略人(人を滅ぼす)を意味するから支障がある」と噂していたため延應に改めた。
ただし改元の詔書には天変に対応したと書いてある。

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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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2月14日
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吾妻鏡
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武蔵国の小机郷鳥山などの荒野を水田にするべく開墾せよとの指示を大夫尉佐々木泰綱に仰せ付けた。
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今日、筥根山(箱根権現)の読経法会が中止になった。これは別当興實と職衆(法会などの際に補助を務める僧衆)の間に起きた紛争が原因である。
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   ※小机郷鳥山: JR新横浜駅の西側、鶴見川の南岸一帯(地図)にあった河崎荘の一部。
「在地領主の佐々木泰綱が弘長三年(1263)に浄財を集めて荘園内にある勝福寺(後年の宗三寺・川崎駅近く)の梵鐘を鋳造した」との記録があり、父の佐々木信綱あるいは祖父の佐々木定綱から継承した所領を持っていた泰綱が命じられたらしい。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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2月16日
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吾妻鏡
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晴。京都朝廷の使者が到着。去る7日に改元し暦仁二年を改め延應元年とした。藤原経範朝臣の撰進である。
また先月19日侍従僧正信恵が入滅。去年9月24日に弁僧正定豪が死没してから東寺一の長者を務めていた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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2月22日
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百錬抄
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隠岐の法皇(後鳥羽上皇)が崩御した(六十歳)。去る承久三年(1221)以後19年、誰もが悲しむ出来事である。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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2月30日
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吾妻鏡
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長く知行してきた御家人の所帯(所領)について、自分が本来の所有者であると称して訴えを起こす者がいる。
このような無法な訴訟を防ぐために定めたのが式條(御成敗式目)であり、その様な訴えを取り上げる必要はないとの沙汰があった。
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   ※所有者: 分割相続による所領の細分化などが中小御家人の貧困化を招き、所領を担保として借金をする例が
増えている。本領は担保に設定できるが、御成敗式目では恩賞で得た所領には抵当権・質権などの設定を認めていない。抵当流れによるトラブルの多発を防ぐ目的である。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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3月5日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。先月11日の巳刻(10時前後)に京都で日暈の変異があった。密奏の者たちの意見が様々なので再度の勘文を命じ、大蔵卿菅原為長と大外記清原頼尚が勘状(上申書)を提出した。
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今日その内容が鎌倉に届き、中原師員が将軍家(藤原頼経)の御前でこれを読み上げた。天文道の忠尚・良光・季尚朝臣らは「重暈である」と、家氏朝臣は「交暈である」と、また晴継朝臣は「白虹が太陽を貫いている」と答えた。
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大蔵卿菅原為長が後漢書を調べてその記述を引用し、「暈とは虹であり、概ね白虹であると説明している」と評価し、大外記は「暈とは虹であるとの先例を確認したのみ」と答えた。
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   ※日暈: 太陽の周囲に架かる傘。単純な光学現象なのだが、更に詳細はwikiで。
   ※密奏: 天体の異常が観測された際に観測状況と占星術による解釈を内密に帝に上奏すること。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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3月11日
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吾妻鏡
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内匠頭経長が京都から鎌倉に到着した。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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3月15日
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吾妻鏡
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司天の輩(天文担当)が呼ばれて御所に参上し、2月11日の天変(太陽の暈)に関する京都の勘文(天文担当が提出した上申書)についての意見を求めた。維範・泰貞・晴賢らは「重なった暈である」と述べ、中原師員朝臣は「晴継朝臣が勘文で「白虹だと考える」と述べた事には感心した。古い文書にも明確に述べられている。」と述べた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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3月17日
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吾妻鏡
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六波羅の使者が到着して報告。
去る2月22日、隠岐の法皇(後鳥羽上皇を差す)が遠嶋(隠岐)で崩御(60歳)し25日に埋葬した、と。
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   右画像は 国宝の宸翰御手印置文 クリック→ 拡大表示
朱の手形を挿した宸翰(手紙の概略内容は以下。)
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この病は大事ではないと思ったが日ごとに重くなるようで、往生も近いものと思われる。日頃の奉公に応える所領も少なく、力不足が無念である。
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摂津にある水無瀬と井口の両地を知行して私の菩提を後々まで弔って欲しい。また出雲の持田も親成に与えるから親成の父も遺志には背かないだろう。加賀は弟の信氏にとも思ったが一方に兄の親成がいて何の科もなく、弟に与える理由もないと考えて同じく親成が知行せよ。
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ただし親成が判断して信氏に与えるのならそれでもよい。信氏は摂関家の家来にでもなれば官位の昇進もあろうし父も大切に思うだろうが、この押手(手形)に背いてこれらの領地を親成から奪う事があってはならない。

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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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3月29日
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吾妻鏡
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匠作(北條時房)と前武蔵守北條泰時が評定所に入り評定衆が集合した。筥根山(箱根権現)の別当興實と智蔵三郎法橋良實と対決を遂げた。これは2月(14日)の読経法会の際に別当興實が桟敷を職衆(法会の職務に任じる僧衆)の座前に設けた。職衆がこれを怒り良實が指導して法会を中止させた、その責任を明確にする目的である。
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双方とも罪を逃れることはできず、興實は花河戸橋を架け、良實は廻廊22ヶ間(スパン)の檜皮(屋根)を葺き替えるよう命じられた。
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   ※花河戸橋: 罰として回廊の檜皮(屋根)を葺き替える内容は判るが、
花河戸橋が判らない。回廊と同じ神域と考えるべきだろうから、二の鳥居前の川ではないと思うし。
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箱根神社の約4km北西に現在地(箱根神社本殿横)に遷る前の九頭龍神社、箱根権現の実質的な創設者・萬巻上人が芦ノ湖に棲む悪龍を鎮め祀った神社がある。
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その湖畔側にある旧弁財天社(現在は箱根神社宝物殿の横に遷っている)に下る橋の可能性を考えている。いつか確認してみようと思う。  右画像と、箱根神社(公式サイト)→「九頭龍神社・他、本宮」を参照。
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時間があれば山岳信仰の聖地から始まった箱根神社も参考に。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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4月13日
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吾妻鏡
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今日評議を経て、六波羅に通知する数件の事項を決定した。
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  一.僧徒の武装禁止の件
朝廷の命令が再三発行されたにも拘らず更に勝手な行動が見られれば法に従って処理する。
  一.近年賭博を行なう者が増えている件
京中市内での賭博は検非違使別当に通知し、保管人に命じてその家を破却させる。
市外の場合は本所に連絡して身柄を拘束し関東に連行する。
  一.京都に拘留している犯罪人についての件
大番勤務の者が下向する際に関東に連行する。
  一.武士が捕縛した犯罪者の住居の件。
大理(検非違使別当の唐名)に連絡し保管人の措置に任せ、市外の場合は本所の措置に任せる。
  一.篝屋(シ中継後のため篝火を焚く番所)に備える武器の件。
その場所の管理を担当する武士に任せる。
  一.諸社の神人らが在京の武士の宿舎に対して神宝・神輿などを振って狼藉を行なう場合の対処。
仲間に警告する意味を含めて首謀者を関東に連行させる。
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以上の事柄を文書にして御教書(命令書)に記載する。
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   ※保管人: 行政単位としての「保」を管理する者。
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   ※本所: 荘園に関する人事・年貢・公事の増減などについて最終的な決定権を持つ荘園領主。式目抄には
「本所とは領家であり、元来の領主を差す」との記載があるのだが、荘園領主や知行国主などの上級管理者全般を含む場合や、現実に支配権を持っている者を差すケースもあるから面倒くさい。
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   ※式目抄: 室町時代後期の学者(公家の家柄)清原宣賢が著した御成敗式目の注釈書。注釈書としては最も
高い評価だが、家柄などから考えて実用的ではないとの評価もある。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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4月14日
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吾妻鏡
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信濃民部大夫入道二階堂行盛・大和前司伊東祐時・山城前司本間元忠・甲斐前司大江(長井)泰秀・民部大夫太田(三善)康連・内記太郎らによる検討を経て以下の制度を発布した。
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  一.関東の御家人が京都に申す傍官所領上司への補任を望む事。
  一.惣地頭が所領内の名主が管理する土地を押妨(不当に侵害)する事。
  一.官位や官職を望む者が鎌倉幕府に推挙状を申請する事。
  一.鎌倉に住む僧徒が勝手に官位を競って争う事。
     以上の項目を禁止する。
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  一.勾引人(誘拐・かどわかし)および人身売買を行なう者を逮捕拘禁する事。嘉禄元年(1225)10月29日の
宣旨を遵守する事。
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子に関しては、事餓死者が多発した寛喜三年(1230)の頃に「飢えた者を救済するのは主人の責務である」と定めた。これを借金として扱い、土地の所有権と交換する根拠はない。ただし双方が協議し和解して現行法による所有権の変更を行う場合はその限りではない。
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   ※本間元忠: この人物についての詳細な情報は確認できないので本間氏の素性についての概略を。
元々は武蔵七党・横山党系の一族で、武蔵国小野郷(多摩市聖蹟桜ヶ丘・地図)を本領とした。
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吾妻鏡には嘉禄三年(1227)7月12日に元忠が伊勢国に派遣されて悪党と戦ったとの記載があり、彼が系図のどこに位置するのか判らないのが実に残念ではある。
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いずれにしても鎌倉幕府滅亡の際に極楽寺坂を突破した新田勢の大館宗氏主従と坂ノ下付近で死闘を展開し殲滅した本間山城左衛門(泰宣か有綱?)の同族なのは間違いないのだが...。
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   この項は大館宗氏主従を弔った十一人塚を参照されたし。
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承久の乱後の貞応二年(1223)に北條朝時(大仏流)が佐渡国守護に任じ、鎌倉中期には本間六郎左衛門重連が守護代として年に一度佐渡に訪れ、一族の何人かが代官として駐在していたと考えられる。この頃が本間氏と佐渡の関係が本格化した最初となる。
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以前に書いた通り本間氏館跡は相模国依智郷(厚木市金田の妙純寺(wiki)一帯(地図)で、良く保存された土塁の痕跡(右画像 クリック→拡大表示)が確認できる。
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日蓮遺文にある「午の時計りに、えちと申すところへゆきつきたりしかば 本間の六郎左衛門がいへに入りぬ」の場所で、日蓮はここから流刑地佐渡に向かっている。金田の近辺には日蓮の教化を受けて改宗した数軒の日蓮宗寺院もある。
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   ※傍官所領上司: 御家人が在京の荘園領主により上級荘官(上司)に任じるのを禁じる規定。幕府が任命した
地頭は下司か中司が多く、同じ御家人の間に上下関係が生まれる事を防ぐ目的があった。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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4月15日
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吾妻鏡
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晴。月蝕は確認できなかった。対応する祈祷は助僧正厳海、宿曜道(仏教に基づく天文道)は助法印珍譽。日蝕については争論があり、部分蝕との意見や蝕ではないとの意見、また他国の蝕と主張する者もいる。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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4月16日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に小さな地震があった。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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4月23日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に乾方(北東)に妖気があり光の帯が巽(南西)を指した。長さは八尺で巾は一尺(240×30cm)で色は白赤、元になった星はなく、その光は空に映えて野火の如くである。御所にいた人々はこれを怪しんだが一時(2時間) ほど過ぎてから消えた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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4月24日
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吾妻鏡
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晴。辰の一点(朝7時過ぎ)に司天の者を呼び昨夜の奇雲について質問、維範と晴賢は見ていなかったと答えた。
承和(834~848)と元暦(1184~1185)に現れた彗星は元の星がなく暫くして須臾して消えたが今回は見極めるよう指示が下った。
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今日評定衆の協議があり、諸社の神人(神社の下級職)による狼藉について、六波羅からの連絡では本所(荘園領主)に通知しても対処しないとの事、 将軍家の仰せとして「犯意が明確なら関東に連行せよ。また三度通知しても対処しなかった場合は文書で報告させ、将来の紛争により訴訟となっても取り扱わないとする。」と相模守北條重時(北方)と越後守北條時盛(南方)に通達した。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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4月25日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に前武蔵守北條泰時が突然の急病、戌刻(20時前後)からは意識を失う状態になった。多勢が駆け付け、織部正伊賀光重(光宗の弟で頼経の近習)が将軍の使者として訪れた。
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この頃に匠作(北條時房)邸(泰時邸の向い側)では酒宴乱舞の最中で、「泰時が急病」と連絡しても宴会を止めず見舞いの使者も送らなかった。 古参の御家人らがこれを非難すると時房はこれに答えて
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泰時が生きているからこそ酒宴を楽しめる。泰時の急病が大事に至れば二度と再び酒宴など楽しめず隠棲を続けることになる。これが最後の酒宴になるかも知れないのだから、中座する訳にはいかないのだ。」と語った。諌めた人々は涙を流して感動した。
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   ※時房の言葉: 有名な挿話だが余り意味がない。吾妻鏡の編纂者は
泰時の優秀さと、時房が寄せる信頼を描きたかったらしいが、単なる危機管理意識の欠如に見える。
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ちなみに北條時房邸は後の若宮大路幕府跡から段葛を隔てた西側、鎌倉彫の「山水堂」と酒の「三河屋」の間の路地「小池小路」の奥に案内板と層塔が置かれている(地図)。この一帯のかなり広範囲を占めていたのだろう。  右画像は小池小路奥の標識と層塔。(画像をクリック→拡大表示)
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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4月26日
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吾妻鏡
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晴、寅刻(早暁4時前後)から雨。それより前に妖気があり、軸星の有無について天文方が論争した(意味不明)。
今日、前武蔵守北條泰時の病状は未だ回復していない。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月1日
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吾妻鏡
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今後は人身売買を禁止する、と定めた。飢饉の頃には食い繋ぐために妻子や従者を売り払ったり、富裕な家に雇われて生き延びた例も少なくない。庶民を救うために努めてきたが、近年になって人身売買に伴う訴訟が頻発し政道に支障が起きているためである。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月2日
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吾妻鏡
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五十嵐小豊次太郎惟重と遠江守北條朝時の伺候人・小見左衛門尉親家が日頃から争っている越中国国吉名の所領について、前武蔵守北條泰時邸で決裁が行われた。泰時は病気が癒えないまま綿布を額に巻き脇息に凭れて論争の場に臨み、匠作(北條時房)も出席、主計頭中原師員・駿河前司三浦義村以下の評定衆も列席した。
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惟重の主張は「越中国の国吉名は承久の乱での勲功として拝領したものを親家が押領している」と訴え、親家は「惟重の知行分は国吉名の全体ではなく、私の知行糞まで含んでいる」と主張した。
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双方の主張を確認した結果は親家に非があるのは確実で、泰時は特に怒りその場で侍所司の金窪左衛門大夫行親を呼び親家を拘禁せよと命じ、同時にその経緯を(主人の)北條朝時に伝えさせた。朝時は恐縮している。
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   ※五十嵐惟重: 建歴三年(1213)の和田合戦5月2日に以下の記載がある。
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御所南門を突破した朝夷名義秀は鬼神の如き武威を表し、敵対した五十嵐小豊次(小文治とも)・葛貫三郎盛重・新野左近将監景直・礼羽蓮乗ら数輩が討ち取られた。
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御所を守っていたのは北條泰時次郎朝時足利義氏の軍勢で、朝時は下馬した義秀と斬り合って負傷している。ここに載っている五十嵐小豊次は惟重ではなく近親だろうが、この頃から北條氏(たぶん当時30歳の泰時)の被官だったと推測する。
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   ※国吉名: 現在の高岡市国吉(小矢部川左岸・地図)。寿永二年(1183)の倶利伽羅峠合戦の前哨戦、義仲
部将今井兼平が平家の先鋒平盛俊軍と戦った場所の近くだ(同年5月9日(平家物語)を参照)。越中と言えば平家の勇将越中次郎兵衛盛嗣」を思い出すね。
五十嵐氏は元々越後中越の武士で、現在の三条市にも館跡が残っている。
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   ※朝時の恐縮: 朝時は北條義時の次男(生母は姫の前)で執権泰時の弟。名越流北條氏の祖となった朝時には
嫡流の意識を持ちながらも特に露骨な反抗的態度は見せなかったが、息子らは反得宗の姿勢を強めて宮騒動・二月騒動などの事件を引き起こしている。
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朝時の伺候人小見親家の事件に朝時に対する無言の威嚇があったか、あるいは吾妻鏡の編纂者に得宗家を持ち上げると共に名越流を貶めようとする意識があったかどうか。
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吾妻鏡の嘘に触れ続けると北條氏の背後を疑うの癖がついて..精神衛生上は宜しくない、か。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月3日
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吾妻鏡
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国吉名の件、五十嵐惟重に所領安堵の御下知状が与えられた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月4日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に将軍家(藤原頼経)がやや体調不良。中原師員の奉行として祈祷を催した。土公(土着の神)の祟りとして重くなる可能性に留意するべきと言うのが陰陽師七人の占いである。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月5日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家(藤原頼経)の体調不良に対応して祈祷が行われた。
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   焔魔天供の担当は岡崎法印、 右馬権頭北條政村の沙汰
   薬師護摩の担当は大蔵卿法印で、 甲斐守長井泰秀の沙汰
   泰山府君祭の担当は安倍維範朝臣で、 佐渡前司後藤基綱の沙汰
   大土公祭の担当は安倍親職朝臣で、 陸奥掃部助北條実時の沙汰
   霊気祭の担当は安倍廣相朝臣で、 兵庫頭藤原定員の沙汰
   鬼気祭の担当は安倍泰貞朝臣で、 信濃民部大夫入道二階堂行盛の沙汰
   呪咀祭の担当は安倍晴賢朝臣で、 和泉前司天野政景の沙汰
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月11日
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吾妻鏡
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今日、将軍家(藤原頼経)の病が癒えて(穢を落とす)御沐浴を行ない、医師の丹波良基朝臣が治療を受け持った褒美として御馬・御剣を下賜された。また再度の祈祷が催され御、如意輪護摩を安祥寺僧正(御湯加持)、天地災変祭を陰陽頭安倍維範朝臣が執り行った。
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   ※丹波良基: 関連記事が嘉禄元年(1225)7月6日にもあり、コメントを記載しておいた。
嘉禄二年1月の四代将軍頼経就任に伴って朝廷の施薬院(wiki)から丹波良基が鎌倉に派遣されて頼経の主治医に任じ、京都の医術が鎌倉に定着した。
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建長四年(1252)には頼経の嫡子で五代将軍の頼嗣が廃されて後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が皇族出身の六代将軍になると朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、朝廷が独占していた最高レベルの医術が北條氏にも提供され始める。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月12日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が大納言僧都隆弁に指示し、久遠壽量院に於いて最勝王経の転読を行わせた。
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   ※久遠壽量院: 将軍頼経の持仏堂。前年の12月26日にも記載があるが、名称が載るのは今回が最初。
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   ※最勝王経: 正式には金光明最勝王経。国を豊かにするため王が守るべき心得を説いた経文。読誦して正法を
施せば諸天善神が国を守護すると書いている。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月14日
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吾妻鏡
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現在訴訟を提起している者は勧農が済んでから当事者双方が立ち会いの上で裁決に臨むよう定めた。
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   ※勧農: 農業を奨励する意味の他に灌漑事業や耕地の配分・収穫・徴税などの意味も含まれていた。
「勧農が済んで」は「秋の収穫と納税が済んで」の意味らしい。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月15日
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吾妻鏡
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前武蔵守北條泰時の病気は完治せず未だ(穢れを祓う)沐浴も済んでいないが、御下知の書類に御判(花押)を入れる作業は連日行っている。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月16日
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百錬抄
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隠岐法皇(後鳥羽上皇)の遺骨は左衛門尉能茂法師が首に懸け、今日大原に運んで禅院に納めた。
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   ※能茂法師: 宝治合戦(1247)で三浦一族が滅亡した6月14日の
吾妻鏡に次の記載がある。
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三浦光村の後家は後鳥羽院の北面医王(院に仕えた僧)左衛門尉能茂法師の娘で当世無双の美人である。光村は哀惜の念が強く、(頼朝法華堂で)最期の時を迎える際に妻と小袖を取り替えていた。夫の香りが未だに残る悲しさに嗚咽を漏らしていた。
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左衛門尉能茂法師光村の舅にあたる人物だった。
大原で昔の知人に出会ったような気がするね。
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右画像は大原三千院門跡隣の後鳥羽・順徳陵(クリック→拡大)、 地図はこちら
隠岐にある火葬陵はこちらで。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月23日
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吾妻鏡
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小雨。申刻(16時前後)に六波羅探題の飛脚として赤木右衛門尉平忠光が鎌倉に到着、20日未刻(14時前後)に京を発ち僅か4日で駆け付けたのは飛ぶ鳥の如くである。前武蔵北條泰時邸の庭で下馬し、去る13日法性寺禅閤(頼経の父・九条道家)が体調を崩し容態が悪化している旨を報告した。
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将軍家(藤原頼経)は狼狽して陰陽頭維範朝臣以下七人を呼んで占いを行わせた。各々は特に心配は不要と申し述べ、維範は重病と考えるべきと述べた。前弾正大弼藤原(三条)親實がこれを差配した。
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   ※赤木忠光: 松本市南部の寿小赤赤木(地図)を本貫地とした武士で、秩父平氏良文流の忠兼が信濃に入って
白河氏を称し、息子の親忠が赤木郷を所領として赤木を名乗った。親忠の嫡子忠長は承久の乱による恩賞で得た備中穴田郷(現在の高梁市宇治町穴田・地図)の地頭として土着し、一部の親族が残って赤木を継承したらしい。
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   ※僅か4日: 記載の通りなら4日ではなく3日と2時間(74時間)で約440kmを走り抜けば平均時速約61km、
1日間違えたとしても98時間で時速45kmだから、とても信じられない。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月24日
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吾妻鏡
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晴。兵庫頭藤原定員が使節として上洛する。禅閤(九条道家)の病気見舞いが目的で、前武蔵守北條泰時が派遣する使者には左衛門尉平盛時が任じた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月26日
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吾妻鏡
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前武蔵守北條泰時は禅定二位家(政子)の御得脱(悟りを得て菩提に向かう事)のため毎年怠らずに追善供養を行っている。その一つに法華堂(勝長寿院敷地内の廟所)の近くに温室を建て、薪などを担当する当番を決めて毎月の六齋日に僧徒が浴すように定めた。
また後の世まで怠らずにこの積善を続けるよう、左衛門尉平盛綱に命じて次の通りの置文(書置き)とした。
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  南新法華堂で六齋日に施す湯に使う薪の費用について。
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湯を立てる前に、担当する責任者に宛てて費用を拠出するよう申し付ける。受け取った費用は寺務所に納めて受領書を受け取ることとする。
もしも規定を10日過ぎても滞納する者がいれば、担当する責任者が挙銭(相手に貸し付けてある銭)を回収して寺家に納めた後に、滞納している者から延滞日数の多少に拘らず倍額を徴収すること。更にその支払いも怠る場合には担当している責任者から報告を上げ、所領を没収して他の者への戒めとする。
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ただし責任者が公共の利益を軽んじ、個人の判断を優先して滞納への対処をせず寺家の訴訟となった場合は、滞納している者の処分を保留にして責任者の所領を没収する。温室運営についてこの様に定めた後は混乱を防ぐため一切の異論は許さず、従わなければ同様の罪に問うことになるし責任者は追放処分とする。
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そもそも、関東の御家人が身分の上下を問わず一郷一村の所有を認められているのは二品禅定(政子)恩徳なのは誰もが知っていること、この程度の義務を忌避するのでは木石の類に過ぎない。木石の類であれば恩恵を与える値打ちはなく、所帯を没収しても何ら支障はない。 早々にこの御下知状を書写して各々が座右に置き、恩顧を忘れぬよう務めるべきである。    延應元年五月二十六日     左衛門尉盛綱
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   ※勝長寿院: 頼朝が文治元年(1185)9月3日に落慶供養を行なった大寺。源氏の氏寺に近い存在で、義朝
遺骨を初め実朝や政子も埋葬されたが享徳四年(1455)に鎌倉公方の足利成氏が古河に退去した後は庇護者を失い、やがて廃絶したらしい。
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康元元年(1256)、永仁三年(1295)など数回の火災で焼けた記録があり、政子と実朝の五輪塔が壽福寺に移設(あるいは新設)された時期は不明。享徳四年以後と考えるべきか。
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   ※温室: 当時の「温室」が浴槽を差したか蒸し風呂を差したかは確証がない。
湯浴みと信仰を結びつけた記録は光明皇后(第45代聖武天皇妃、701~760年)が最初で、千人の垢を洗う願を立てた千人目が癩病(ハンセン氏病)だった。
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光明皇后は心を決めて病人の垢を洗い流した結果、病人は阿閦(あしゅく)如来の化身だったという寓話で、光明皇后は阿閦寺(飛鳥の法華寺(公式サイト)近くにあったらしい)を建てた、と伝わる。
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吾妻鏡の建久三年(1192)3月20日には次の記載がある。ここでは一応「蒸し風呂」と訳しておいた。
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山ノ内に百日間の蒸し風呂を設けた。往来の人々や農民が入浴するようにと道筋に札を立てて周知させた。これは後白河法皇追善のためで担当は藤原俊兼、今日の分は頼朝が負担する。
今後の差配は平民部丞盛時堀籐次親家ら、百人で終了し雑色10人がその中に含まれる。
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   ※六齋日: 在家の者が八戒を守るべき6日。この日は四天王(または悪鬼)が人間の行動を見張る、という。
具体的には、8日・14日・15日・23日・29日・30日を差す。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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5月29日
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百錬抄
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侍従中納言藤原為家 (wiki・定家の長子)が到着、大外記師兼を召して隠岐院 (後鳥羽上皇)を顕徳院と号す旨を伝えた。治承の崇徳院の例に倣って勅書はなく外記が承ったのみ、謚号は式部大輔為長卿が勘じたものである。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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6月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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今暁に京都の飛脚が到着、禅定殿下(九条道家)の病気は問題になるほど重くなかったとのこと。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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6月6日
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吾妻鏡
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武蔵国の年貢として地頭から京都に納入する荘園別の明細を定めた。国務(国司)は匠作(北條時房)である。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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6月12日
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吾妻鏡
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晴。前武蔵守北條泰時の病気が癒え、今日(穢れを祓う)御沐浴を行なった。医療を担当した施楽院使の丹波良基朝臣(5月11日を参照)父子と典薬頭の丹波時長朝臣は御衣と御剣および各々に一村を拝領した。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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6月19日
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吾妻鏡
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晴。(5月24日に九条道家の病気見舞いに派遣された)兵庫頭藤原定員が京都から下着した。禅定殿下の病気は本復し去る12日に穢れを祓う御沐浴を行なった、と。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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7月2日
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吾妻鏡
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陰陽道の七人を御所に呼び、各々に御剣一振りを下賜した。禅定殿下(九条道家)の病気に対応した御祈祷を行ない、更に去る5月23日に病気を知らせる飛脚が下着した際に「重篤な病気に非ず」と占ったのが理由である。 司天(天文担当を含めた陰陽師らについては既に内々のお褒めが伝えられていた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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7月15日
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吾妻鏡
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御所の御持仏堂(5月12日に記載した久遠壽量院)で盂蘭盆経を賛嘆する法会を催した。導師は信濃法印道禅、大江佐房・廣時らが布施の配布に任じた。今日、前武蔵守北條泰時が所領の田地から徴収する年貢を念仏料所とし、期限を定めず信濃国の善光寺に寄進すると決定した。泰時は以前から善光寺に帰依しており、更に今回の病気の際には阿弥陀如来の加護を願った経緯もあってこの寄進に至り、圓全法橋が寄進状を起草した。
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                右下画像は信濃善光寺の本尊・阿弥陀三尊像(前立仏)。
                 画像をクリック→善光寺の由来と変遷(別窓)へ。
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  寄進
    信濃国善光寺の不断念仏用途の件、水田陸町陸段(六町六反)の
所領は武蔵国小泉庄室賀郷。念仏衆12人は期待に値する。
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  一.田疇(うね)の配分について。
前記した六町六段の中で六町は念仏僧侶の免給(免税)地で、六段は灯明の油を賄う費用に充当する。免田六町は12に区分して一人当り五段を12人に分与し、他の6反を灯明の費用として分与し長く仏への奉仕に充てるように。すなわち、灯油として3斗6升で仏に奉仕するの分が3斗6升である。ただし肥沃な田畑と荒れた田畑の差異を考慮して配分するように。
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  一.免税を中止せず継続すること。
小泉庄を知行する者は、北條一門以外であっでも寄付の約束を変更してはならない。子々孫々までこの契約を守らなければ仏の加護を受けず、更に本願施主(泰時)の恨みを受ける結果となる。
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  一.担当者の順番を定める件。
まず信仰の深さを考え、悪口を言わずに争いを避け仏縁を重んじれば極楽浄土との結縁も得られる。
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  一.僧侶の席次に関する件。
長年の修行を詰んだ高齢の僧であっても上位であると考えてはならない。才能豊かであっても目下の者への礼節を忘れなければ争いも起きず、覚樹の花報(菩提樹の下で悟りの果報)に入れるだろう。
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  一.僧侶の意見を集約する件。
担当は12人の僧侶であり、7人以上の意見集約を結論とせよ。5人以下の意見は異議であり、学識経験者であっても衆議には従わねばならない。ましてや愚者が異議を挟むなどありえない事だ。
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  一.連日の参加ができない場合。
如何なる場合でも二ヶ月に亘って欠席する場合は代官を定めて勤めを果たすべし。重病であっても服喪の期間であっても不参加が100日以上になった場合は衆議に従うこととする。
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  一.僧としての所職を譲る場合について。
師の僧からの継承であっても衆議を経なければならない。推挙ではなく衆議に拠って補任すべきであり、継承した後に任期の短縮などを行うのを禁じる。
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各々が七ヶ條の式目を守り心を一つにするように。特に則ち二品禅尼(政子)を始めとする数人の先君を敬って先祖を供養し早世した息子や孫を慈しみ、現世と彼岸の仏縁と御利益を願うように。~ 云々 ~
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                        延應元年七月十五日   正四位上行前武蔵守平朝臣(泰時)
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   ※盂蘭盆経: 死者の菩提を弔う思想に基づく法会。更に詳細はwikiを参照されたし。
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   ※小泉庄室賀郷: 武蔵国と表記してあるが、小泉庄は現在の長野県
上田市西部の浦野川流域(地図)が中心、室賀郷は北西の支流室賀郷の流域を差す。小泉庄は建暦三年(1213)謀反を計画した咎で追討軍を派遣され、逐電して行方不明になった泉小次郎親平(泉親衡)から北條義時が没収した所領。
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まぁ本当に謀反だったのか、信憑性が疑われる事件ではあった(吾妻鏡の2月15日・16日・18日・20~3月2日を参照)。
私の好きな道の駅・あおきのエリアだ。
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右画像は浦野川上流の青木村にある国宝・大宝寺の三重塔。南側の山並みを越えると塩田流北條氏(家祖は北條重時の五男義政)の本領で、鎌倉幕府滅亡の元弘三年(1333)には一族が北條得宗家に合流して滅亡している。
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右画像は裏手から見た大宝寺三重塔。 画像をクリック→ 信州青木村・大法寺(別窓)へ。
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    この時代の為政者が仏門に帰依するのは別に珍しくないが、御家人や僧侶の精神世界まで踏み込み行動の
規範まで示すのは珍しい。泰時(56歳)の余命は3年、俗世を離れて宗教の範疇に入ろうとしている様だ。
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北條一族としては珍しく生真面目で善意の人だったらしいが、何となく右翼三流政治家に過ぎない安倍晋三が人間としてあるべき姿を演説している様な姿にダブって...後味は著しく悪い。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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7月20日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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深夜、風の鎮まった月明りの中を将軍家(藤原頼経)は突然に牛車を用いて佐渡前司後藤基綱に渡御した。
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従者は丁度伺候していた周防右馬助北條光時・陸奥掃部助北條実時・蔵人毛利毛利季光・河内守三浦光村・兵庫頭藤原定員・織部正伊賀光忠(光宗の異母弟)・駿河四郎左衛門尉三浦家村(義村の六男)・同五郎左衛門尉三浦資村(義村の七男)・上野判官結城朝広のみ。後藤基綱邸に勝長寿院の稚児を呼び寄せて管弦・舞曲を楽しんだ。
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   ※後藤基綱邸: 父の基清の家は大倉郷にあったと伝わっているが、当時の大倉は実朝が建保二年(1214)7月
に建立した大慈寺(明王院の東側・地図)まで含んでいた。基清は承久の乱で院側に味方して息子の基綱に斬られ、基綱が父の家を相続したとしても、場所の特定はできそうもない。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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7月25日
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吾妻鏡
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越中国の東條・河口・曽祢・八代などの保は、請所として朝廷が定めた米百斛(一斛は石と同じで=10斗=180リットル)を準備して送る旨を去年11月に地頭が連名で禅定殿下(九条道家)に書類を提出していた。これにより国衙の干渉や院による賦役などの要求を停止すると、同年の12月に国司の廰宣(公示)に書き加えられた。
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去る1月には国司の廰宣と地頭の寄進状の内容に従い東福寺領として全ての国役などを停止し、地頭の請所として年貢百石を納付する決まりになった。その中で当家領の宮嶋保を国領に返却する旨の禅定殿下政所の御下文が下された。これは東福寺に寄付する分として相続した所領である旨を将軍家に連絡し相互に了解した結果である。
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   ※地名: 東條は射水市の庄川右岸(地図)。 河口は射水市の庄川河口右岸一帯(地図)、寿永二年(1183)5月
10日、義仲が主力軍一万(誇張だけどね)を率いて2日後の倶利伽羅峠合戦に備えた六渡寺(地名)の近く。曽祢は河口の東に隣接したエリア。八代は氷見漁港の北側、八代・箭代の地名あり(地図)。
宮嶋は小矢部市の子撫川中流域(地図)か。
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   ※請所: 現地を管理する地頭・荘官・名主などが領主に対して毎年一定額
の年貢納入を請け負い、それ以外の権限を全て委任されることを差す。地頭は道家の権力に依存して国衙の干渉を排除させ、その代償として幕府領の宮島保を国衙に引渡し、将軍頼経は父の利益とするため譲渡を了解したという構造。
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   ※東福寺: 九条道家が祖父九条兼実の屋敷があった土地に建てた寺。
東大寺の「東」と興福寺の「福」の字を併せた京都最大の伽藍建立を目指し絶大な権力を誇った嘉禎二年(1236)に着工、建長七年(1255)に完成するまで19年を費やした (地図)。
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ただし栄華は永遠には続かず、寛元四年(1246)の宮騒動により頼経が将軍職を追われると共に道家の権限は衰退する。
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更に建長三年(1251)の12月には第五代将軍藤原頼嗣(道家の孫)らによる幕府転覆計画が露見し道家の関与が疑われる中で翌年2月には失意のまま死没。東福寺が落慶供養を催すのは更に9年後である。
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右画像は東福寺収蔵の仏鑑禅師(無準師範)(wiki)の絵像、巾55×125cm、国宝・絹本着色
中国五山の一位・径山万寿寺の第34世で、日本での臨済宗普及に大きな影響を与えた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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7月26日
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吾妻鏡
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評定衆による評議あり。犯罪者について、軽微な犯罪については恩赦として赦免の措置を執る場合もあるが、重い罪科の場合は赦免を適用しないと定めた。また強盗などの重大犯罪で拘禁された者は検非違使に申し出て関東に連行するよう、六波羅探題に指示を行なった。
次に、今後は地頭の命令に従わないとの理由で庄官や百姓の拘束は行わず、居住地に退去させよと命じた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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7月28日
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吾妻鏡
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去る11日から連夜の天変が続いている。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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8月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴、風が静まった。午刻(正午前後)、二棟の御方が御着帯。御加持は岡崎僧正(成源)、御祓いは大膳権大夫維範朝臣。密議(非公式)のため御所以外で催した。祈祷は去る4月から行っていた。
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   ※二棟の御方: 将軍家(藤原頼経)の側妾・大宮殿、藤原親能(wiki)の娘。親能は承元元年(1207)の11月に
死去しているから大宮殿は間違いなく31歳以上、頼経は22歳なのだからもっと若い娘を...なんて大きなお世話、勝手に趣味趣向を書き込んではいけないね(笑)。
この11月に産まれるのが頼経の嫡子で後に五代将軍となる藤原頼嗣、継室の大宮殿は正室の扱いを受けない、と言うことか。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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8月11日
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷を催した。北斗護摩は大蔵卿法印良信、鎮星供は助法印珍譽、御祭は維範朝臣である。
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また将軍家(藤原頼経)は以前から抱いていた所願により御持仏堂(久遠壽量院・5月12日参照)に於いて百部の金光明経供養を行なった。導師は三位法印頼兼、称名を唱える僧は10人(僧綱と凡僧が混在)、布施を渡役は皆諸大夫(所謂仲能・親實・佐房・親光・廣時)。
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  御願文に云く、(儒教の世界観と中国の古典を引用した内容で特にく意味は見られない。省略。)
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の放生会あり。将軍家(藤原頼経)は遠慮すべき事があって出御されず、匠作(北條時房)が白襖(表裏ともに白の狩衣)で奉幣使を務め、賢息の武蔵守北條朝直・式部大夫北條時直・右近大夫将監北條時定が従った。また佐渡前司後藤基綱・前大蔵少輔加藤(遠山)景朝・伊豆守若槻(森)頼定・出羽前司二階堂行義らは舞楽が奉納される間を下宮の廻廊に待機した。
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   ※若槻頼定: 源義家の孫にあたる若槻頼隆の次男。父の所領である相模国毛利庄を継承して森氏を称した。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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8月16日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)は流鏑馬を見物するため馬場の桟敷に出御した。左近大夫将監北條経時・左馬助北條光時が御輿寄せに控え、織部正伊賀光重(伊賀光宗の弟)が御剣持ちを務めた。続いて前の武州北條泰時が参上、大夫判官佐々木泰綱が家の子2人を従えて供奉し、出羽判官中条家平(中条家長の嫡子)は出御の供奉はしなかったが別の指示により馬場の警護に任じた。陸奥掃部助北條実時が御桟敷前の床子に座して控えた。
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   ※家の子: 厳密には次男以下の息子や庶子を含む血縁者で、一族の家長を 継いだ嫡子の支配を受けた者。
広い意味での郎党に含めて呼ぶ場合もある。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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8月22日
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吾妻鏡
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晴。二棟の御方(8月8日を参照)が初めて大倉の御産所に渡御(出産に備えての転居)した。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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9月11日
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吾妻鏡
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諸国の地頭が山僧や商人・借上げの輩を代官に補任する事を全面的に禁止する。彼らは利潤のみを求めて結果がどうなるかなど配慮しない。この様な輩を代官に任命すれば納税の備えを忘れて自分の蓄財だけを考える、その情報が聞こえているのが禁止の理由である。
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   ※山僧や借上: 「山僧」は比叡山衆徒の指導的立場の者で大部分が妻帯者。延暦寺と公家や武家の間を調整
する役を請け負いつつ高利の貸金業を営み、いざ合戦の際には衆徒を指揮して利得を狙う例が多かった。「借上」は平安時代末期から出現した高利の金融業者、商人は通常の商いを営みつつ金融を兼業する者、の意味だろう。織田信長による全山焼き討ちも、部分的には理解できる。
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資金と権力を手にした宗教団体は更なる資金と権力を欲し、いつの間にか「平和を守り海外派兵に反対する」なんか忘れてしまう。800年近くが過ぎても、愚かな歴史を確実に繰り返す。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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9月16日
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吾妻鏡
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京都で道々の輩が武士と称して権限外の仕事に手を出す噂があり、六波羅に停止させる措置を命じた。
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   ※道々の輩: 職人・芸能・念仏者・医師・陰陽師など様々な職種の者、武士や官人を除く自由業の者。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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9月20日
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百錬抄
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武士が洛中を駆け巡っている。天王寺別当職の任命権を山門(比叡山延暦寺)に与えるよう衆徒が要求し、日吉社の神輿を中堂(延暦寺の総本堂)に入れて洛中に出動する準備をしている噂に対応する警護である。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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9月21日
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吾妻鏡
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尾張の国の住人中嶋左衛門尉宣長は承久の乱の際に官軍(後鳥羽院 側)に味方したため所領を没収した。
現在は将軍(藤原頼経)の御所に伺候してこの処遇を頻りに嘆いているため、屋敷と付属する田畠に限って返還する旨を錦織中務丞を介して通達した。
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   ※中嶋宣長: 第52代嵯峨天皇の12番目の子源融(wiki・光源氏の
モデルの一人)の子孫(13代)で嵯峨源氏の武士。
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貞和四年(1348)創建の臨済宗の巨刹長嶋山 妙興報恩禅寺(wiki・地図)の寺伝に「尾張国中島城主中島蔵人の次男滅宗宗興が亡き父母の報恩に感謝するために創建した」とあり、敷地に一宮市博物館を併設している。
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右画像は国の重文・妙興寺勅使門。貞治五年(1366)に北朝の第四代後光厳天皇の勅願により建立したと伝わる禅宗様式の四脚門。 (画像をクリック→ 拡大表示)
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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9月30日
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吾妻鏡
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晴。評議が行われた。御家人の妻が再婚するに当たって、前夫の所領や前夫一族の資産を処分したり現状変更を行う事を禁じると定めた。
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夜になって御所で和歌の会が催された。題は「行く道の紅葉」と「暁の擣衣(砧 (きぬた) で衣を打つ)」と「九月づくし」、右馬権頭北條政村・左親衛北條経時・相模三郎入道北條資時・式部大夫入道伊賀光宗・兵庫頭藤原定員・佐渡判官後藤基綱らが各々懐紙に和歌を書いて献じた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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10月8日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)に前武蔵守北條泰時が二所詣に出発、去る4日に精進潔斎を始めていた。
左親衛北條経時も同道している。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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10月9日
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吾妻鏡
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強い風雨、夜になって落雷あり。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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10月10日
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吾妻鏡
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天変に対応して、内典(仏教)と外典(陰陽道)による祈祷が数人で催された。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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10月11日
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吾妻鏡
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晴。齋藤左兵衛尉藤原長定法師(斉藤浄円(長定)・法名浄圓)が死没した(43歳)。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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10月12日
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吾妻鏡
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晴。亥刻(22時前後)に前武蔵守北條泰時が二所詣を終えて鎌倉に帰着した。
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   ※百錬抄: 昨夜、日吉社の神輿が本社に帰座した。衆徒の蜂起があれば関東の軍士が鎮圧に向かうとの命令
が発せられた結果である。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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暦仁二年
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10月13日
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吾妻鏡
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兵庫頭藤原定員による堂供養あり、導師は岡崎僧正成源。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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10月17日
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吾妻鏡
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二棟の御方(8月8日を参照)の安産を願う祈祷として七人による呪咀祭(災厄を祓う祈祷)を行なった。維範・親職・資宣・晴貞・晴平・廣資・範定(いずれも安倍氏の陰陽師)がこれを催した。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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10月20日
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吾妻鏡
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晴。午刻(正午前後)に陰陽師の廣経が御所に参上し、今日の巳刻(10時前後)に太陽に両耳が付くと称して描いた絵を提出、兵庫頭藤原定員を介して将軍の御前に持参した。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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10月21日
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吾妻鏡
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晴。昨日廣経の申し出た変異について司天(天文担当)に問合わせた。維範朝臣は「暈(かさ)や虹が日蝕や月蝕の際に現れればその都度に報告する。耳が付く件のみで奏聞するのは京都朝廷では前例がない。」と答えた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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10月28日
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吾妻鏡
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二棟の御方の安産祈祷があり、属星祭を維範朝臣が催した。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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11月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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寅刻(早暁4時前後)に西の方角で雷鳴が数度、午刻(正午前後)以後になって震動があり、風雨も激しくなった。
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近日中に着任する信濃国司による初任検注について沙汰があった。そんな時に諏方(諏訪大社)の五月会の主催者および御射山の指導者らが訴訟を検討している。神事を担当する当番の者にはその年に限って免税される通例があり、それ以後の年には恩恵を受ける事はないらしい。この件に関して評議があり、免税の先例を諏訪大社大祝信濃権守諏訪信重に問い合わせた。
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   ※初任検注: 新たに赴任した国司が前任者から引き継いだ課税台帳に基づいて確認の検地を行うこと。
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   ※五月会: 5月2日から三日間の御射山での狩猟後に饗宴を催し流鏑馬などを行う恒例の神事。
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   ※御射山: 諏訪上社(公式サイト)の境外摂社で、現在の富士見町原村(地図)にある御射山神社。諏訪大社の
狩場であり、上社大祝らが宿泊・参籠して神事を行う場所でもあった。
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   ※大祝: 神社の宮司に当たる神職で、諏訪大社の場合は一帯のかなり広い範囲を支配する領主を兼ねた。
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   ※諏訪信重: 諏訪社大祝職で北條得宗の被官として活躍した諏訪盛重の嫡男。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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11月2日
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吾妻鏡
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北條五郎時頼(満12歳)の嫁取りの儀あり。蔵人大夫入道西阿毛利季光の息女である。時頼は今夜西阿の宿所(大倉幕府の前)に入った。
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   ※時頼婚姻: 三浦義村の娘を妻にしていた毛利季光は宝治合戦(1247年)では妻の意向および義弟との信義
を重んじて三浦泰村に味方し自刃、当時20歳の時頼は毛利季光の娘を離縁とした。
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その後に大叔父(祖父泰時の弟)である重時の娘・葛西殿(後に八代執権となる時宗と評定衆・筆頭引付人として時宗を補佐した宗政の生母)を継室に迎えている。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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11月5日
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吾妻鏡
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薩摩與一公員と伊豆前司頼定(8月15日を参照)が争っている出羽国秋田郡湯河湊について、今日御前で決裁を得た。散位三善(太田)康連がこれを奉行し、公員の勝訴となった。頼定の妻女の父の遺領であると確認できた。
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   ※薩摩與一公員: 橘(小鹿嶋)公成の嫡男。秋田郡湯河湊は南秋田郡井川町 (地図)、文治六年(1190)初頭
に奥州藤原氏の遺臣大河兼任が反乱を起こした場所の近くだね(同年1月6日を参照)。
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史料には「父から湯河・澤内・湊の地頭職を譲られた」とあるから、橘(小鹿嶋)公成の遺領なのだろう。澤内と湊の位置は確認できない。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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11月6日
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吾妻鏡
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二棟の御方(8月8日を参照)の安産を祈って霊所祭を催した。安倍維範朝臣の差配である。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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11月9日
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吾妻鏡
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信濃国司による初任検注について諏方大祝信重が請文(諮問に対する上申書)を提出した。
諏訪大社の五月会と御射山などの役職者が国司検注について、当番の年に限らず役職に任じている間は税を免除するのが先例、との内容である。 この請文を受けて改めて協議し、先例に従うとの決裁を行なった。(詳細は11月1日を参照)
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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11月12日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に大地震。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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11月20日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に二棟の御方(大宮殿・藤原頼経の側妾・詳細は8月8日)に御産の気配があり、(8月22日に産所としていた)大倉から施薬院使・丹波良基朝臣の薬師堂の家に移って御産所とした。
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加持祈祷を担当する御験者の助僧正厳海らは全て同行し、鳴絃の役人が進み出た。兵庫頭藤原定員が奉行として祈祷その他の行事を差配した。
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   ※薬師堂: 鎌倉で薬師堂と言えば大町にある辻の薬師堂(地図)だが
元は後藤基綱実朝の追善供養のため永福寺のそばに建立した大倉堂が原型だろうと考えられている。
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江戸時代に名越切通し近くの長善寺(廃寺)を経て大町辻に移り、火災に焼け残った薬師堂だけがここに移転した。
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大倉堂の跡は医王山東光寺を経て理智知光寺に変遷し建武二年(1335)にはこの寺の土牢で後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王(wiki)が殺されるのだが...
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太刀に噛み付いた護良親王の形相に怯えた討手の淵辺義博門が首を門前の藪に捨て、住僧が首を葬った場所が現在の護良親王陵石段前(地図)、だと。
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それは兎も角として、この大倉堂旧跡と伝わる付近に丹波良基の家があった可能性は捨てがたい。詳細は貞永元年(1232)12月27日の吾妻鏡を参照されたし。
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   ※丹波良基: 正四位上・施薬院使の丹波良基。将軍頼経の主治医を務めた。丹波氏は医師・典薬の家柄。
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良基は延応二年(1240)に死没するが、建長四年(1252)に宗尊親王が鎌倉に下って六代将軍に就くと最先端医術(と言っても低レベル)をマスターしていた典薬頭(典薬寮の長官)丹波長忠と玄蕃頭(寺院の管理と対外の接待を担う玄蕃寮の長官)の丹波長生が鎌倉に入った。
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長生は正治元年(1199)に院宣を受けて乙姫治療のため鎌倉に入った丹波時長(同年5月7日と8日、6月14日を参照)の息子で、吾妻鏡の記事からは時長も共に下向したと思われる。
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長忠は宗尊親王専属として、時長と長生は(高位の)北條一族まで治療の範囲を広げ、京都の先端医術が鎌倉にも広がる契機となった。
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弘長三年(1263)11月22日の北條時頼葬送の記事に「医師の長世朝臣らは(死去した)去る22日の夜に至るまで、最明寺禅室(時頼)のために祈祷と医術を巡らした」と記載されている。
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   ※鳴弦: 邪気・魔物を払うため弓の弦を鳴らすこと。元は朝廷、後に武家の病気・誕生などの際に行われた。
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   ※医王山東光寺: 一説には頼朝が建立したとも伝わる。既に廃寺となり、詳細は全く不明らしい。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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11月21日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(朝8時前後)に二棟の御方が男子を平産した。先ず御験者三人・民部卿僧都・宰相僧都・大夫僧都に褒賞として(五衣(男子の正装)で単衣も含むが、御衣の意味もある)と鞍を置いた御馬、次に女医博士丹波頼行に水干袴と三枚重ねの衣を庭に於いて与えた。次に陰陽道の大膳権大夫安倍維範朝臣に絹二枚重ねの衣と馬、次いで御祓衆の資宣と廣資には二枚重ねの衣と馬、これらは佐渡前司 後藤基綱の差配である。
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出産の(宿星などに関する)明細報告は維範、最初は巳刻(10時前後)と書いたが助法印珍譽の申し出によって辰刻の終わり(9時前)に改めた。
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   ※男子出産: 今回産まれたのは6歳で五代将軍となる藤原(九条)頼嗣。14歳の建長三年(1247)に解任され
生母と共に京都に追放、康元元年(1256)8月の頼経死没に続き翌月に18歳で病死する。
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   ※女医博士: 典薬寮に所属して女性の病気治療を担当する。婦人科医(当時は全て男性)だね。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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12月5日
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吾妻鏡
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酉刻(14時前後)に前駿河守・正五位三浦義村が頓死、大中風(脳梗塞の類か)で没したとのこと。
夜になって武蔵守北條泰時が三浦邸に入って息子らを弔問した。多くの人々が集まり、左馬助北條光時が将軍家(藤原頼経)の使者として三浦邸を訪れた。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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12月13日
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吾妻鏡
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将軍家若君(後の頼嗣)の御行始め(外出初め)について将軍家から検討して良い方角を選べとの指示があった。
安倍維範朝臣が東または坤方(南西)が吉である旨を答え、頼経は次のように命じた。
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東方は吉であっても21日には太白方(木星の方角)となる。坤方(南西)は吉方だから、御産所の施薬院使良基朝臣の大倉邸から坤方の方向に然るべき家を選び出すように。
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これを受けて左衛門尉平盛綱が調査し、加賀民部大夫町野(三善)康持と武田入道(信光)らの名越の家が方角に合うと報告、頼経は「康持の家を手配せよ。信光は遁世者(隠居し出家した者)だから適していない。」と答えた。
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   ※良基邸の南西: 11月20日に記載した大倉堂は、名越から見て北西に該当する。良基邸が二階堂近辺だった
のは確実だと言えそうだ。
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   ※町野康持: 町野(三善)康俊の子で、三善康信の孫にあたる。問注所執事や評定衆を務めた実務官僚だが
寛元二年(1244)の将軍頼経の失脚に連座して任を解かれることになる。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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12月15日
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吾妻鏡
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御所に於いて年始の行事日程などについて協議し、安倍維範と安倍時賢朝臣が連名で勘文(諮問に対する上申書)を提出、その中には「丙寅の日を吉書の日とする」とあった。安倍国道朝臣に拠れば経緯は次の通り。
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去年国道がこの日を撰んだ際に中原師員朝臣が「丙寅の日に吉書を行うべきではない」と異議を申し立てたため、国道は丙寅の例を挙げて上申した。将軍家がその例を示すよう仰せがあり、各々が丙寅の日を吉書とした例を上申して決裁を得た。
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 貞観十二年(870)1月13日丙寅、藤原朝臣氏宗(64歳)と源朝臣融(74歳)と源朝臣多(57歳)。
 承平五年(936)6月3日丙寅、藤原朝臣實頼(小野宮殿、71歳)  同日、藤原朝臣師輔(九條殿)
 天禄三年(972)2月5日丙寅、藤原朝臣兼家(法興院殿、62歳)
 治安元年(1021)8月23日丙寅、藤原朝臣實資(90歳)
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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12月21日
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吾妻鏡
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晴。輿を利用して将軍家若君の御行始め(外出初め)あり。午刻(正午前後)に御産所よから町野加賀民部大夫康持の宿所(吉方)に入御した。供奉人は立烏帽子で直垂、康持からの御引出物が多数あり。申刻(16時前後)になって御所に渡御となった。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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12月27日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に前武蔵守北條泰時邸の南側で失火があり民家数軒が焼失した。
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   ※泰時邸南側: 地図はこちら、滑川を渡った東の山裾に元弘三年(1333)に北條一族が滅亡した東勝寺跡
ある。 この寺の開基は泰時で開山和尚は退耕行勇なのは判っているのだが、完成した年月の記録がない。泰時の死没が仁治三年(1242)6月で退耕行勇の没年が仁治二年(1241)7月だから、その前なのは間違いないのだが...
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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12月29日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に武蔵大路の下にある隠岐入道佐々木義清の家を含む数10軒が焼失した。失火らしい。
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   ※武蔵大路の下: 北は亀ヶ谷坂と化粧坂に分岐する扇ヶ谷で始まり、壽福寺
山門前~巽神社~今小路を経由して~六地蔵~塔之辻~旧道を海岸へ~星の井通りを極楽寺へ~稲村ヶ崎に下る、約4kmの総称が武蔵大路。
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ただし鎌倉時代の1270~1280年代に忍性極楽寺坂を整備するまでは海沿い(坂ノ下埋立地)を辿って稲村ヶ崎に下るのが主要道の稲村路だった。
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部分的には狭いエリアの名称が使われ、名称の重複区間(例えば六地蔵~塔之辻を大町大路に含む場合など)もある。また、「下」が亀ヶ谷や化粧坂など「坂の下」なのか「南側」を意味するのかも判断できない。
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右画像をクリック→ 拡大表示。現代の地図に落とし込んだため正確さには欠ける。
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   ※極楽寺坂: 切通しが現在の状態まで切り下げられたのは昭和元年(1926)、それまでは荷馬車が辛うじて
通れるレベルの急峻な坂道で、明治維新前は紫陽花の名所・成就院の山門前を通る山道だった。
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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 月 日
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吾妻鏡
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整理中
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   ※:
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1239年
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87代 四条天皇
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延應元年
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 月 日
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記事
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   ※:
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