延応二年・仁治元年(1240年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。匠作(北條時房)の沙汰による椀飯の儀あり。右馬権頭北條政村(狩衣)が御剣を、武蔵守北條朝直が御弓箭を、佐渡前司後藤基綱が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は(鞍置き)  相模式部大夫北條時直   佐原六郎兵衛尉時連
   二の御馬は       相模七郎時弘   本間源内左衛門尉忠直
   三の御馬は       佐原太郎左衛門尉胤家   同佐原四郎左衛門尉光連
   四の御馬は       吉良大舎人助政衡   原四郎左衛門尉泰綱
   五の御馬は       相模右近大夫将監北條時定   山城前司本間元忠
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今日、吉書初めあり。椀飯の後に将軍家(藤原頼経)の御行始め(外出初め)があり、前武蔵守北條泰時邸に入御。修理亮北條時長が御剣を持ち、右馬権頭 北條政村ら数人が供として従った。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※佐原氏: 佐原義連の嫡子で、北條泰時に嫁した三浦義村の娘(後の矢部禅尼)が再婚した相手が酒乱の果て
に追討された三浦(佐原)盛連。矢部禅尼は盛時との間に数人の男子を産んだ六男が時連だが、系図上では四男の四郎は光連ではなく光盛とされている(たぶん同一人物)。
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ただし、矢部禅尼が再嫁して産んだ男子は宝治合戦(1247年7月)では北條方に味方して三浦一族を滅ぼしており、三浦方戦死者の中に佐原胤家と光連の名が載っている。従ってこの二人が盛連の前妻が産んだ男子であり、父親の本家三浦方に味方していた可能性もある。
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   ※本間氏: 人名辞典には本間元忠のみを記載した。他は延應元年(1239)4月14日の吾妻鏡を参照されたし。
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   ※相模七郎時弘: 北條時定が相模六郎だから弟(北條時房の末子?)だと思うが、供奉人として何回か記載が
あるのみで詳細は判らない。
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   ※吉良政衡: 足利氏三代当主義氏の庶子で吉良氏の祖となった吉良長氏、またはその弟で西条吉良氏の祖
となった吉良義継の近縁らしいが、系図上の位置が確認できない。
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   ※年令: 北條時房は63歳(1月死没)・ 北條泰時は56歳・ 北條朝時は47歳・ 北條政村は35歳・ 北條経時
15歳・北條時頼は12歳・ 三浦義村は前年12月に死没・ 三浦泰村は56歳・ 足利義氏は51歳・
結城朝光は72歳・ 将軍藤原頼経は1月16日で23歳・四条天皇は2月12日で9歳。(全て満年齢)
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。前武蔵守北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。駿河守有村(狩衣)が御剣を、甲斐守長井泰秀が御弓箭を、秋田城介安達義景が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は(鞍置き)  左近大夫将監北條経時   信濃三郎左衛門尉二階堂行綱
   二の御馬は       兵衛尉北條三郎時頼   近江四郎左衛門尉佐々木氏信
   三の御馬は       陸奥掃部助北條実時   伊東六郎左衛門尉祐盛(伊東祐時の次男で稲用氏の祖)
   四の御馬は       新左衛門尉平盛時   同、四郎(?)
   五の御馬は       陸奥七郎時尚   南條八郎兵衛尉忠時
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夜になって将軍家の若君が輿で前武蔵守北條泰時邸に御行始め(外出初め)。
戌刻(20時前後)に彗星が申方(西南西)に現れた。尾の長さは三尺(90cm)で巽方(南東)を指し色は白赤。前陰陽権助安倍親職朝臣が真っ先に御所に参上して報告、取次は藤原定員である。但しこれは去年12月末日の夜に出現し人々が確認したものである(吾妻鏡には記載なし)。
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   ※駿河守有村: 貞応二年(1223)4月~嘉禎三年(1237)11月の駿河守は北條重時、嘉禎三年(1237)~
文永七年(1270)は北條有時。有村という名の駿河守は存在しないし、そもそも北條氏にも三浦氏にも有村なる人物は存在しない。北條有時の誤記だろう。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月3日
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吾妻鏡
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晴、夜になって曇。 越後守北條時盛の沙汰による椀飯の儀あり。備前守北條時長(朝時の三男)が御剣を、伊豆守頼定が御弓箭を、秋田城介安達義景が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は(鞍置き)  左近大夫将監遠江五郎時兼(北條朝時の五男)   小井弖左衛門尉
   二の御馬は       左衛門尉笠間朝時(嘉禎四年(1238)5月20日も参照)
五郎左衛門尉宇都宮宗朝(頼綱の四男、本領は宇都宮氏南部)
   三の御馬は       信濃三郎左衛門尉二階堂行綱   同四郎左衛門尉二階堂行忠
   四の御馬は       陸奥七郎時尚(北條義時の七男・末子)   大和判官代次郎宗綱(?)
   五の御馬は       相模左近将監北條時定   同七郎時弘(北條時房の次男時村の次男時広か)
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   ※伊豆守頼定: 若槻(森)頼定に同じ。源義家の孫にあたる若槻頼隆の次男。父の所領だった相模国毛利庄を
継承して森氏を称した。毛利庄は現在の厚木市西部(地図)、森林地帯の「森」が毛利に転じた。
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   ※小井弖氏: 小出とも。読みは「こいで」、藤原南家工藤氏の傍流で信濃国伊奈郡小井弖(伊那市西春近・地図
を本領とし、後に尾張に移っている。
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   ※北條時広: 父時村が早世したため祖父時房の養子となり、引付衆・評定衆・四番引付頭人の要職を務めた。
和歌に優れ、一門で最も優れた風流人だったと伝わる。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月4日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)、申方(西南西)に彗星が出現。四尺(120cm)ほど尾を引き巽方(南東)に進んでいる。
色は赤が少し混じった白、核の部分は土星ほどの大きさである。
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   ※平戸記: 今夕戌刻に彗星が西の方角に見えた。坤方(南西)に向かって薄明るい光芒が五、六尺月の光に
映えて間もなく山に入った。この一両年は天変が続き、去年の冬からは特に激しい。恐ろしい事だ。
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平戸記(へいこき)は正二位民部卿平経高(wiki)が遺した日記で鎌倉時代を物語る貴重な資料。
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今月24日の北條時房死没に際しては「後鳥羽上皇の祟りだ、関東の衰微が漸く始まった」と書いているが、やがて将軍 藤原頼経九条道家が失脚し、鎌倉幕府寄りの立場を重視する後嵯峨上皇の院政が始まると共に朝廷での影響力を失い、建長二年(1250)に政界を退いた。
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平戸記の写本を読みたければ宮内庁所蔵資料で。こんなのを読める人が本当に羨ましい。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月5日
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吾妻鏡
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夜になって雨。前武蔵守北條泰時邸に匠作(北條時房)・遠江守北條朝時・甲斐守長井泰秀らが集まった。天変の件があったため酒宴は少々のみ、特に引き出物があった。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月6日
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吾妻鏡
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晴、夜になって曇。彗星は現れなかった。
今日、御弓始めあり。
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  射手
     一番 佐々木八郎左衛門尉    橘次右衛門尉
     二番 神地四郎    小諸左衛門尉
     三番 本間源内左衛門尉    廣河五郎
     四番 下河邊左衛門次郎    秋庭小次郎
     五番 横溝六郎    藤澤四郎清親
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月7日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に彗星が歳星(木星)の近く、三尺(90cm)ほどの地点に現れた。尾は北東を指して長さは五尺(150cm)、本星(核)は太白(金星)ほどで芒気(尾)は艮方(北東)を指している。
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   ※平戸記: 今夜また彗星が出現。光芒は月光に映えて長さは明確ではないが概ね五、六尺(約150~180cm)
で光芒(核)坤方(南西)を向いている。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月8日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に彗星が歳星(木星)に二尺(約60cm)余の距離に近付いた。今日、天変に対応する祈祷と護摩を催した。  薬師は承快法印  熾盛光は宰相僧正  尊星王は道禅法印  八字文殊は良信法印
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月9日
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吾妻鏡
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彗星は雲間に透けて見えるが芒気(尾)の長さは確認できない。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月10日
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吾妻鏡
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雨、辰刻(20時前後)に雷鳴あり。今夜は彗星が現れなかった。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月11日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に彗星が壁(ペガサス座・wiki)第一星の領域二尺の距離を犯し、同時に月が東井星(双子座・wiki)に入った。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月13日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に地震あり。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月14日
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吾妻鏡
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御所に於いて天地災変祭を行なった。担当は安倍維範朝臣、将軍家(藤原頼経)が祭祀を催している庭に出御し、周防前司 中原親實が代参に任じた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月15日
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吾妻鏡
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評定衆による会議始めあり。正月過ぎに行う筈が彗星の出現により遅延していた。前武蔵守北條泰時も参席した。
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  評定衆
     右馬権頭北條政村   武蔵守北條時直   摂津前司中原師員  佐渡前司後藤基綱
     出羽前司二階堂行義   秋田城介安達義景   太宰少貳武藤資能   対馬前司三善(矢野)倫重
     加賀民部大夫三善(町野)康持   民部大夫太田(三善)康連   右衛門大夫清原季氏
     民部大夫佐藤業時
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月17日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮寺に於いて、百人の僧による仁王百講を行ない、将軍家(藤原頼経)も参席された。これは彗星の出現に対応した祈祷で、この他にも数基の祈祷が催され、兵衛蔵人親季御使が将軍家の使者に任じた。
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   筥根本地護摩は圓親法印   伊豆山本地護摩は賢長法印
   七壇北斗供  中壇は安祥寺僧正  脇壇は定雅僧都 成恵僧都 定清僧都 征審僧都 隆弁僧都 守海僧都
   愛染王法は内大臣法印   天冑地府祭は権暦博士定昌朝臣
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   ※仁王経: 大乗仏教の経典で、仏教における国王のあり方について述べている。
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   ※本地: 神仏習合時代の箱根権現には別当寺として箱根山東福寺(明治初期に廃寺)があり、本地仏として
文殊菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩を祀っていた。同様に伊豆山権現には走湯山密厳院(現在の般若院の原型)があり、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音を本地仏として祀っていた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月18日
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吾妻鏡
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彗星が奎に近付いた。昨夜からり御所に於いて安倍晴賢朝臣による属星祭が行われている。
今夜は将軍家(藤原頼経)が祭祀を行なう庭に出御し、右馬権頭北條政村が使者に任じた。
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   ※奎: 星座を28にまとめた「星宿」の一つで西方のアンドロメダ座から魚座にかけての星座群。
   ※属星祭: 生まれた年の十二支によって北斗七星の一つを本命属星として祀る。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月19日
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吾妻鏡
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彗星が奎の中に入った。今夕に再び変異に対応する祈祷が行われた。 七曜供は珍譽法印。子刻(深夜0時前後)に御所に於いて前大蔵大夫安倍泰貞朝臣による三万六千神祭、左馬頭足利義氏朝臣の沙汰である。
将軍家の使者は内蔵権の頭資親、将軍家(藤原頼経)が祭祀を催す庭に出御した。
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また廣経・資俊・晴茂・国継・晴秀・資宣・晴尚らによる七座の泰山府君祭が行われ、内蔵権頭資親・安藝守親光・兵衛蔵人親家の三人が将軍の使者に任じ、将軍家が出御した。
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通例に従って安倍親職朝臣は泰山府君祭を自宅で行ない、安藝守親光が将軍の使者を務めた。祭祀の費用に加えて鞍置きの御馬と御剣(九柄)・御双子筥(一合)などを与えた。
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    「御剣(九柄)・御双子筥(一合)」の内容は浅学のため判らない。剣と箱なのは間違いないが...。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月20日
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吾妻鏡
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祈祷のため更にて護摩行を催した。
金輪は左大臣法印、不動は眞忠法印、仏眼は宰相僧正、五大虚空蔵は厳瑜僧都、金輪供は道禅法印。
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戌刻(20時前後)に彗星が出現した。去る17日から今夜まで光芒は次第に明るくなった。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月22日
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吾妻鏡
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左衛門尉清原満定(清定の息子)が評定衆に加えられた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月23日
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吾妻鏡
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晴。匠作(北條時房)が突然体調を崩した。
辰刻(朝8時前後)から特に病状が悪化、昼頃になって前武蔵守北條泰時と左典厩足利義氏が見舞いに訪れた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月24日
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吾妻鏡
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晴。今暁正四位下行修理権大夫平朝臣北條時房が死没した(66歳)。
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昨日の辰刻(朝8時前後)から病状が悪化し夜になって意識を失った。重篤な脳卒中と思われる。今日の午刻(昼前後)に死去というのが公式発表だが、実際の臨終は今暁丑刻(2時前後)らしい。
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   ※時房死没: 荼毘や葬送の記録が皆無なのは、得宗家の家長のみを特別に
扱う習慣に従っているのだろうと思う。
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墓所は伊豆の北條寺に一族の墓域があるだけで鎌倉市内には伝承さえも確認されておらず、黒子に近い存在に徹して幕政を支えた人物の扱いとしては少し寂しい。
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墓所に関する記述は伊豆長岡の北條寺の末尾に載せてあるが、ここに遺骨が埋葬されたのか否かは判らない。墓誌には創祖時房と31代・32代の名が刻んである。
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右画像は北條寺墓地の(時房系)北條家累代の墓。
画像をクリック→ 北條寺の明細(別窓)へ
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月26日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に彗星が出現し王艮の五星(?)を犯した。光芒は薄くなっている。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月27日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が今年の御上洛を希望されていたが、彗星の出現が続く凶兆が続いており、窮民救済に配慮し禍を祓う事を優先して延期する事となった。
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その子細を六波羅に連絡するべきなのだが前武蔵守北條泰時北條時房の軽服(軽い服喪)のため御教書(命令書)が発行できない。先ず後藤基綱と行然(二階堂行盛)が将軍家の意向を承って以下の書類にした。
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今年の将軍家上洛は延期となった。これは偏に庶民の負担を避けるためであり、且つ天変に対応する祈祷を優先するのが趣旨である。この意向を承知し畿内から鎮西に至るまで御家人らに周知させるよう通達する。
           延應二年正月二十七日  前佐渡守(後藤基綱)  進上 相模守(北條重時)殿
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   ※北條重時: この時点の六波羅探題北方に任じていた。北條得宗家と距離を置いていた同母兄朝時に比べて
協力的な立場を守り、宝治合戦(1247)で三浦一族が滅亡した後には執権北條時頼の要請を受けて鎌倉に戻り、時房死没後は空席となっていた連署に就任している。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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1月28日
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平戸記
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曇、時々小雨。今暁、関東の飛脚が六波羅に到着し修理権大夫北條時房朝臣が去る24日に急死した。
日頃から持病などは無く、23日に身心の異常を訴えたが警戒する程ではなかったらしく、戌刻(20時前後)に病状が悪化したまま24日戌刻になって死没した。
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時房朝臣は北條時政の息子で、故北條義時の舎弟として政務を良く補佐していた。承久の乱から既に20年が過ぎた今になって急死するのは奇怪であり、噂では去年の暮れには三浦義村が、今年また時房が急死したのは顕徳院(後鳥羽上皇)の怨念が原因で、関東の衰退が漸く始まったのだろうか。
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時房朝臣の息子越後守北條時盛(六波羅南方)は明暁鎌倉へ。今日の出立を望んだが予定が合わなかった。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鎌倉中で禁止する事項が決定し今日発布された。保々(行政単位)ごとに奉行人を定め厳重に取り締まる、と。
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   一.盗人の事  一.旅人の事  一.辻捕り(誘拐)の事  一.悪党の事
   一.丁々辻々で(勝手な)売買を行なう事  一.小路に敷地を広げる事
   一.辻々の盲法師(の興業)並びに辻相撲(興業)の事  一.押し売りの事
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   これらの趣旨を理解し、奉行が怠りなく保々を警固せよ。仰せに従って命令する。
              延應二年二月二日  前武蔵守(北條泰時
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月6日
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吾妻鏡
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政所および幕府の倉庫などが焼亡した。延焼はなく、失火との報告はあったが放火の疑いもあるらしい。
夜に入って彗星が出現。正月4日から今日まで連続して現れている。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月7日
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吾妻鏡
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焼失した政所を早急に再建するよう仰せが下り、今日御倉などの工事が始められた。
夜になって六波羅探題の越後守北條時盛が鎌倉に入った。匠作(北條時房)の逝去に伴う下向である。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月12日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に雷鳴。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月14日
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吾妻鏡
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天文道の担当者らが終夜星空を観察していたが彗星は見られず、既に去ったと思われる。
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   ※彗星: ヨーロッパでの発見の記録は見当たらない。小さかったのか、不吉な現象として無視されたのか。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月16日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に雨混じりの雹が降った。雷鳴が数回あり。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月19日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に政所と御倉などを上棟した。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月22日
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吾妻鏡
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卯刻(18時前後)に地震。鶴岡八幡宮別当寺が倒壊し北山の土砂が崩れた。本尊は宮寺別当の坊に遷した。
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   ※本尊: 右画像は別当寺の本尊だったと推定される薬師如来坐像。
吾妻鏡の承元二年(1208)12月17日に次の記載がある。
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神宮寺薬師如来像の開眼供養である。
相模守北條義時と大官令大江廣元が参席、導師は眞智房法橋隆宣(八幡宮供僧の首座で日光山別当を兼ねる)、若宮の供僧25人を招いている。
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その他、7月5日と12月12日以降を参照されたし。現存する数少ない鎌倉初期の仏像で、表面の損傷は「鎌倉年代記」の弘安三年(1280)11月14日に書かれた火災によるものらしい。
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亥刻(22時前後)に鶴岡八幡宮の上宮と下宮が焼失。火元は大学厨子、(10月28日と11月12日に続く)三度目の火災で、火を免れた建物は殆どない。将軍の御所は被災を免れた。
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明治初期の神仏判然令により壽福寺に移され、現在は鎌倉国宝館(公式サイト)が収蔵している。
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   ※平戸記: 巳刻(10時前後)に大蔵卿菅原為長(wiki)が来臨して世事を語り、その際に以下の話があった。
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「昨夜、関東の知人から便りがあった。天魔の蜂起があったような未曾有の騒動である。連夜の放火が起きたため辻毎の警備の者を配置した。下手人を一人拘禁したのだが朝には縄で縛った木の株だけが残っていた。再三の火災後の去る4日には大きな火災が起き、六波羅探題にも天魔が現れたらしい。武家が政治を掌握した承久の乱から既に20年が過ぎ、この現象は魔が滅びる瑞兆である。」
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平戸記の明細は1月4日を参照されたし。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月23日
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吾妻鏡
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去る二日の布告を保々の奉行人らに送付した。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月25日
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吾妻鏡
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天変地異が続いたため敬神の心を重んじるよう、前武蔵守北條泰時が語り、実施に移した。まず鎌倉中の鶴岡八幡宮寺領についての三ヶ條を定めて神宮を喜ばせた。差配は民部大夫三善(太田)康連、内容は次の通り。
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  一.稚児や職掌(楽士など)及び神官に支給した土地は、特に罪科なく職を続けている限り没収してはならない。
  一.同様に、彼らに支給した土地は、幕府の決裁なく別当の独断で遠所や狭少の地に取り替えてはならない。
  一.社司として仕える者に支給された土地で息子のない場合、または後家や女子や養子・公卿らに譲渡すれば
新任の者に支給するき土地が失われる。今後は息子に譲渡できない場合は職を継ぐ者に継承させること。
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   社家は以上の内容を理解し確実に実施するよう命令する。   延應二年二月二十五日  前武蔵守(泰時)
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   ※宗教者の優遇: 宮寺の別当を含む住僧などが僧坊を構えたのが
八幡宮北側の御谷。彼らが鎌倉幕府を宗教面で支えたのだが、同時に住僧の堕落や既得権の擁護などの退廃によって時宗や禅宗や新興の法華宗(日蓮宗)などの興隆を招いた側面も持つ。
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宗教と政治が結託すると双方が利権を貪る結果を招くのは古今東西を通じて数多く見られる事実。
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創価学会が結果として憲法違反の集団的自衛権行使を含む新安保法案を容認して安倍政権を支えているのも、典型的な既得権擁護の例だ。
宗教と政治の、腐敗したウィン・ウィンの関係。
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右画像は「五海道其外分間見取延絵図」の二十五坊部分拡大図。クリック→ 拡大表示。
    更に詳細は由比若宮と鶴岡八幡宮の末尾で。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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2月29日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が御馬二疋(鹿毛と鴾毛)を大宮大納言(西園寺公相卿・wiki)に贈った。来月に公相卿が勅使として伊勢神宮を訪れることに拠る。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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3月6日
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吾妻鏡
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晴。京都の使者が到着。去る2月22日に法性寺禅定殿下(九条道家)の姫君(将軍家の妹・実際には孫娘・長男の関白教実の娘)が尚侍(御名を伶子)に任じた、と。
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   ※尚侍: 内侍司(帝の秘書室)の長官を務めた女官の官名。平安時代中期から女御や更衣に準じた後宮(側妾)
の女性であり、女官としての業務は典侍以下が担った。
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九条道家)の姫君(将軍家の妹・実際には孫娘・長男の関白教実の娘)伶子(史料では彦子)は翌・仁治二年に入内し12月に四条天皇の女御となるが...27日後に四条天皇が急死(満11歳)、この頃から徐々に道家の凋落が始まる。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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3月7日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に将軍家(藤原頼経)の若君(後の五代将軍藤原頼嗣)の御五十日百日が寝殿南面で催され、前武蔵守北條泰時(狩衣・武家の礼服)が西侍(控えの間)北に着座し、御家人数輩が参候した。
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定刻に政所から餅などの品物を北の縁に飾り付けた。信濃民部大夫二階堂行泰(狩衣)がこれを差配し、北條大夫将監北條経時(狩衣)が陪膳(給仕の担当)に任じた。前隼人正伊賀光重・前山城守本間元忠(共に布衣)が侍北の引戸に入り将軍座所の簾外に揃え、親衛(=将監=経時)がこれを御前に置き、その後に御剣・砂金などを献じた。
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  役人(献上役)
    将軍家御方  御劔は遠江守北條朝時   砂金は右馬権頭北條政村
    若君御方    御劔は右馬助北條光時   砂金は民部大夫北條時章
    御馬一疋(鞍を置く)は上野弥四郎右衛門尉時光(結城朝光の五男で寒河氏の祖)と、
同五郎兵衛尉重光(同六男で山川氏の祖)
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次いで侍所に於いて献杯・酒宴あり。
今日の費用は全て前武蔵守泰時が負担し平盛綱と天野景氏(政景の次男)らがこれを担当した。
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   ※五十日百日: 頼嗣は前年11月21日の誕生で137日目、起源は不明だが無事成長を祝賀する儀式だろう。
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   ※伊賀光重: 将軍頼経の側近。朝光の三男または四男で伊賀光宗の弟。貞応三年(1224)に兄らと共に謀反
の冤罪を受け、政子死没後の嘉禄元年(1225)に幕政に復帰している。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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3月9日
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吾妻鏡
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晴。政所の新造に伴い、今日吉書始めを行なった。前武蔵守北條泰時が出席し、評定衆の前摂津守中原師員と蔵人大夫入道西阿(毛利季光)以下の評定衆が集まった(全員が布衣・武士の礼装)。
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また、御所に於いて尊勝陀羅尼を唱え書写する法会供があった。導師は岡崎僧正(成源)。
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   ※尊勝陀羅尼: 悟りや功徳を説いた陀羅尼(呪術の一種)。読誦すると罪を許され除災や延寿の功徳がある。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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3月12日
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吾妻鏡
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理由なしに当番の義務を果たさなかった者五人を出仕禁止とした。左衛門尉宇都宮五郎宗朝・廣澤三郎兵衛尉・塩谷四郎朝業・結城上野十郎・海老名左衛門尉らである。陸奥掃部助北條実時がこれを担当した。
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   ※武士の詳細: 宇都宮宗朝頼綱の末子(四男)、下野国児山郷(現在の下野市下古山・ 地図)を領有して児山氏
の祖となった。後に上杉謙信の攻撃により廃絶。
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廣澤三郎は波多野氏の庶流で本領は広沢御厨(現在の桐生市広沢町・地図)。
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結城十郎は結城朝光の八男朝村、嘉禎四年(1238)5月16日に二条良実邸で九条道家の五男福王が籠から逃がした小鳥を傷付けずに射落とす妙技を見せている。
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海老名左衛門尉は忠行、同じ嘉禎四年3月18日の吾妻鏡に次の記載がある。
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海老名左衛門大夫忠行が位記(叙位の辞令)を取り消され、旧来の左衛門尉とする旨の宣下があった。関東の許可を受けず直接朝廷に昇叙を願ったのが理由である。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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3月15日
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百錬抄
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公卿勅使(権大納言西園寺公相卿)が京都を出発。供奉人らの行粧き煌びやかで威風は周囲を圧している。

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   ※勅使: 伊勢神宮への勅使。2月29日に頼経が馬を贈っている。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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3月17日
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吾妻鏡
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六波羅の使者が鎌倉に到着、去る七日に尚侍が入内したと報告した。

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   ※尚侍: 九条道家の孫娘(伶子)の官職。詳細は3月6日に記載。
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   ※百錬抄: 入道太政大臣(九条良平)が播磨国で没した(57歳)。
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   ※九条良平: 九条道家の三男。兄良経(wiki)の養子となり20歳で参議、後に権中納言、権大納言、大納言を
歴任し、元仁元年(1224)に内大臣に就任。安貞元年(1227)に左大臣に昇ったが病気で辞任、暦仁元年(1238)に太政大臣として復帰し、翌年に再び病気で出家していた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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3月18日
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吾妻鏡
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関東の御家人および鎌倉に祇候する人々は全てに過差(不相応な贅沢)をせず倹約を励むようにとの沙汰があり、今日その制符(成約する文書)が作られた。来る4月1日から厳しくこれを禁制する。
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また今後は御家人が京都朝廷の郎党として任官する事を禁止し、関東の支配下にある者と判ればその主人を糾弾する。この内容を六波羅探題の北條重時に通知し、朝廷の蔵人らにも周知させるよう指示を下した。
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   ※禁制: 北條氏は所詮は陪臣に過ぎず、如何に強力な実権を掌握していても鎌倉の主になり得ない。
本来は対等の立場である御家人に主従関係を認識させ、得宗家に忠誠心を抱かせる必要がある。
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その方策が数々の禁令発布であり、陪臣の御家人への昇格であり、有力御家人の烏帽子親として一字を与え(偏諱)支配関係に組み込む(足利泰氏三浦泰村佐々木泰綱などの例)形で現れ続ける。
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結局は支配関係にあった筈の足利氏・新田氏が率いる御家人連合に滅ぼされてしまうのだが。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月1日
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吾妻鏡
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新制の条例について、今日以後の厳守が命じられた。遵守しない場合は法に基づいて処罰する、と。
今日、京都の使者が到着し、先月15日に大相国(太政大臣九条(藤原)良平・wiki)が死去した(56歳)旨を報告、
将軍家(藤原頼経)の御伯父に当たる。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月3日
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百錬抄
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梅宮社(現在の梅宮大社・wiki)の例祭・梅宮祭あり。
夜になって摂政九条道家の直廬(執務室)に於いて群議あり。高麗国の牒状(国書)の件である。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月8日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0事前後)に前武蔵守北條泰時邸の厩舎詰所で鵺(ぬえ)の鳴き声がした。
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   ※鵺(ぬえ): 平家物語に拠れば、仁平年間(1151~1154)に源頼政が近衛院の御殿に潜み院を悩ました鵺
(ぬえ・頭が猿、胴体が狸、尾は蛇、足は虎)を退治して近衛天皇から宝剣獅子王(画像・東京国立博物館蔵)を下賜されたと伝わっている。
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実際は野鳥・トラツグミの声から連想した架空の怪物。「トラツグミ」で検索して声と姿の確認を。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月9日
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吾妻鏡
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晴。鵺(ぬえ)の怪異に対応して前武蔵守北條泰時が公文所で百怪祭を催した。
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   ※公文所: 元々は治承四年(1180)に鎌倉入りした頼朝が京下りの官人に訴訟や公文書の業務を任せたのが
最初で、後に政所の一組織として移行したもの。別の意味として幕政の実権を掌握した北條氏が邸内に設置した家政機関も公文所と呼ばれた。この場合は後者を差しているのだろう。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月10日
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吾妻鏡
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晴・若君(後の五代将軍藤原頼嗣)の祈祷を担当する者を定めた。岡崎僧正成源・助僧正厳海・助法印珍譽。陰陽師は一番が泰貞、二番が晴賢、三番が国継(いずれも安倍氏)。兵庫頭藤原定員の担当によりの順序を定めた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月12日
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吾妻鏡
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故匠作(北條時房)の遺領について、分与の詳細を決めないまま死没したため一昨年12月23日の目録に従って子息らに配分した。また若狭前司三浦泰村・河内前司三浦光村・左衛門尉三浦家村・資村・胤村・重村らについては(前年12月5日に没した)三浦義村の遺領を安堵する旨の御下文を発行した。その謝礼があり、兄弟各々が御所および前武蔵守北條泰時に贈与の品を持参した。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月14日
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吾妻鏡
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晴。子刻(深夜0時前後)に月蝕あり、皆虧(皆既)の状態が確認できた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月18日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に地震。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月25日
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吾妻鏡
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晴。評定や会合・訴訟後の退席についての順序を定めた。祖父母、養父母・養子孫、相舅(夫婦の舅)、伯叔父、甥、従父兄弟、小舅夫妻、烏帽子子、聟の順である。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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4月27日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)のための祈祷として七座(七人)の泰山府君祭を行なった。任じたのは泰貞・晴賢・国継・晴貞・廣資・以平 ・文元、これは兵庫頭藤原定員に夢のお告げがあったためである。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月1日
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吾妻鏡
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人倫売買(人身売買)を一切禁止する旨の布告が今日発せられた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月2日
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吾妻鏡
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勝長寿院の別当法印良信の本坊が放火により焼失した。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月4日
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吾妻鏡
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祖父母に対する訴訟提起について、今日これを禁止した。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月6日
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吾妻鏡
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師員中原師員後藤基綱・行然(二階堂行盛)の担当として、綸旨(帝の命令)に従い人倫売買を禁止する命令を改めて発布した。 .
西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月7日
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吾妻鏡
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山城前司本間元忠が京都から帰参した。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月11日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が体調不良、両時(4時間)霍ほどでやや回復した。霍乱(日射病・熱中症)か。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月12日
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吾妻鏡
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御所で和歌の会あり。題は深山の郭公・隣家の橘・社頭の神職、御所の居間で詠み合った。一條少将能継・右馬権頭北條政村・秋田城介安達義景・佐渡前司後藤基綱・河内前司三浦光村・伊賀式部大夫入道伊賀光宗・卿僧正快雅・兵庫頭藤原定員らが参加し、前武蔵守北條泰時が置物・砂金・羽・色革・美絹などを提供した。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月14日
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吾妻鏡
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信濃の国落合家の尼と子息太郎の訴訟沙汰について今日評定が行われ子息の訴訟を棄却する裁決が下った。また教令(道徳律)に背いて(親を訴えた)罪科は重篤、今後も同様の行為があれば重科に問う、と。
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   ※落合家: 信濃の落合家だけでは判断しかねる。小笠原長清の七男朝光が承久の乱の軍功で佐久郡の大井庄
地頭に任じたので佐久郡を調べたが落合の姓や郷は見当たらない。いづれ資料が出てくるかも。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月20日
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吾妻鏡
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恩賞の決定があり、対象者が下文を受けた。担当は佐渡前司後藤基綱、下文は御所から対象者に与えられた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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5月25日
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吾妻鏡
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今日評定があり、御家人が雲客(殿上人・昇殿を許された者)から上位の者を聟にして所領を譲る事、元々の私領や恩賞として得た土地を 武士より下の者や御家人以外の武士に売り渡す事、山僧(比叡山の衆徒・僧兵)を代官に任じる事、今後はこれらの行為を禁止する。
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   ※禁止する: 理由はその行為が頻発して行政に支障が起きているからで、背景に世情の乱れや弱小御家人の
貧困の顕在化がある。禁止や徳政令を発布だけでは対症療法にしかならないのだが...。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月1日
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吾妻鏡
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御所にある将軍家の御持仏堂に於いて八万四千基の泥塔を供養した。導師は三位僧都頼兼、請僧(招いた僧)は七人、公卿および雲客(殿上人)が布施を献じた。 今日、最勝王経による加持祈祷を開始、若宮別当法印定親がこれに任じた。
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   ※泥塔: 紀元前5世紀前後に没した釈迦の遺骨を紀元前3世紀中盤に
マガダ国のアショーカ王が取り出し八萬四千の舎利に分骨して新たな仏塔を造ったことに由来する。
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この仏塔を模した土製の小塔を供えて供養を行う風習が平安中期以降には盛んに行われ、京都の六勝寺や鳥羽離宮跡から多数出土している(右画像・クリック→ 拡大表示)
この円盤形はインド古代墳墓の形を模したのが原形とされる。
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   ※最勝王経: 正式には金光明最勝王経。国を豊かにするため王が守る
べき心得を説いた経文。読誦して正法を施せば諸天善神が国を守護する、と書いている。
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   ※若宮別当: 八幡宮を管理する宮寺別当。初代圓暁-尊暁-定暁-公暁定豪-定雅-定親-隆弁-頼助
北條経時の次男)-有助(北條兼義の子・鎌倉時代最後の別当)と続いている(一部省略)。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月2日
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吾妻鏡
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炎天が10日以上続いている。雨乞いの祈祷を以前から若宮別当法印に命じて催しているが効果が見られず、今日勝長寿院の法印良信に仰せ付けた。
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   ※雨乞いの祈祷: 義経の愛妾で龍神と心を通わせていた白拍子がもしも生きていたら、70歳になっている。
後白河法皇を「汝は神の子か?」と驚嘆させた元暦元年(1184)の神泉苑のように、見事な舞で豪雨を呼んだかも知れない、老年の美魔女(笑)だ。
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吾妻鏡ではないが、神泉苑 義経と静の出会いと、静の話題は能「船弁慶」の知盛怨霊で。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月8日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)の二所詣でについて、中原師員朝臣の担当として手配するよう命じられた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月9日
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吾妻鏡
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良信法印が雨乞いの祈祷を行ったが未だに霊験が現れず、今日永福寺別当の荘厳房僧都に変更が命じられた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月11日
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吾妻鏡
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前武蔵守北條泰時邸で臨時の評議(評定衆による会議)があり三ヶ條を定めた。
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  一.新補地頭が納める年貢について。
本年貢が(耕地二反について)一斗の所は参分の一に減額する。
  一.辻々で篝火を焚く場所に勤務する際の犯罪発生について。
謀反犯や殺害犯には守護所に引き渡す事。それ以外は勝手に判断してはならない。
  一.山僧(比叡山の僧)を(所領管理・徴税の)代官に任命する事。
地頭には禁止を命じる(山門領は制限に含まず)。比叡山を離れて長期を過ぎた者はその限りに非ず。
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今日(陰陽師の)安倍晴賢朝臣が中原師員朝臣を介して次の通り将軍家(藤原頼経)に言上した。
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第71代後三條院の時代(1068~1073)、日曜星(九曜星の一つ)に当たった年は天下が日照りで、関東でも貞應年間(1222~1224)の故禅定二位家(政子)が日曜星に当たった年には鎌倉が日照りで、属星祭・日曜祭・七座の泰山府君祭などに加え霊所での御祓い・十壇の水天供などを行ないました。将軍家は今年23歳で日曜星に当たっていますから、先例に倣ってそれらの御祈祷を催すべきです。
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将軍家は「早急にその沙汰を執るように」と命じられた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月15日
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吾妻鏡
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雨乞いのため日曜祭および霊所七瀬(水の流れる七ヶ所の霊地)での祭祀を行なった。泰貞・晴賢・国継・廣資・以平・泰房・晴尚(各、安倍氏)らがこれを担当した。
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   ※霊所七瀬: 貞応三年(1224)6月6日に祭祀の記録がある。その際
の地名は由比ヶ浜・金洗沢・固瀬河・六浦・柚河・杜戸・江島龍穴の七ヶ所、奇しくも数日後には執権北條義時が突然死去する大事件が勃発する。
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         右画像は霊所七瀬を含む周辺地図(クリック→ 拡大表示)
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月16日
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吾妻鏡
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雨乞いのため安祥寺僧正が孔雀経(大乗密教経典)の加持祈祷が始められた。
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   ※安祥寺: 京都山科区に同名の寺はあるが、この寺(吉祥山安祥寺(wiki)・嘉祥元年(848)に54代仁明天皇
の皇后藤原順子の発願による建立・地図)が該当するかは不明。宗旨が真言密教で孔雀経も密教系の経典だから可能性はある。鎌倉には(廃寺を含めて)安祥寺の名は見当たらない。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月17日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に突然の雨、間もなく晴れた。土地を潤すほどの雨ではない。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月18日
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吾妻鏡
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陰陽師の安倍泰貞朝臣が今日から三ヶ間、江ノ島で千度の御祓いを行なうよう命じられた。政所の沙汰である。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月22日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮宮寺に於いて最勝王経の読経法会を行なった。夜になって属星祭、担当は権暦博士定昌朝臣で雨乞いが目的である。佐渡前司後藤基綱と兵庫頭藤原定員が奉行である。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月24日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)将軍家(藤原頼経)が体調不良。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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6月25日
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吾妻鏡
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(将軍家の)体調不良は痢病(下痢)である。これに対応して今夜前武蔵守北條泰時が御所で痢病祭を催した。
祈祷に任じたのは安倍泰貞朝臣。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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7月1日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)の痢病(下痢)は昨日より治癒しつつある。続いている炎天に対応して水天供(水天宮(wiki)を祀る祈祷)を行なうよう鶴岡八幡宮寺の供僧に命じた。出羽前司二階堂行義がこれを差配した。
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   ※平戸記: 蒸すような炎暑が既に10日以上も続き、世間は疲れ切っている。今日は特に 耐え難い暑さとなり、
貴賎を問わず水を浴びる以外に方策が無くなっている。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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7月4日
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吾妻鏡
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(6月11日の将軍家の命令に従って)、雨乞いのため特別に十壇(10人)の水天宮の加持祈祷を行った。
法印定親・良信・良賢らがこれに任じた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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7月8日
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吾妻鏡
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夜になって少々の降雨あり。地を湿らす程ではない。
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   ※平戸記: 今日から神泉苑に於いて仏教による雨乞いの祭祀があり、醍醐寺の座主實賢がこれを務めた。
この様な読経が行われた前例はないが、同様の指示が全国に下された。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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7月9日
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吾妻鏡
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降雨があり、水天供の霊験との判断されたが、なお滂沱(十分に流れる)と言える程ではない。
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今暁、六波羅(探題南方)の越後守北條時盛(時房の嫡子)が京都から鎌倉に戻ってきた。匠作(北條時房)の死去に伴う帰国である。鎌倉に戻る許可を願ったが朝廷の許可が得られず、北條泰時からは4日に左衛門尉平盛綱を介して「5日に出発せよ」との指示が出ていたが、太白方に当たるため延期を願った結果である。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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7月11日
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吾妻鏡
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水天供(7月1日を参照)は昨日で七ヶ日満願を迎えたが、更に延長しておこなう、と。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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延応二年
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7月13日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に激しい降雨があり、巳刻(10時前後)になって晴れた。
水天供を催している間に数度の豪雨があったため奉仕した僧の各々に御剣一腰が下賜された。また御剣を鶴岡八幡宮に寄進し、神馬を二所(伊豆山権現と箱根権現)と三嶋大社に献納した。
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西暦1240年
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84代 順徳
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延応二年
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7月16日
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彗星の出現・地震の頻発・夏の旱魃などにより改元、延応二年を仁治元年とする。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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7月26日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が二所詣に伴う精進潔斎を開始、未刻(14時前後)に潮に浴するため一乗房阿闍梨を先達として由比浦に出御した。
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夜になって由比浦で風伯祭(風の神への祭祀)、左馬頭足利義氏朝臣による差配である。寛喜の例に倣って安倍泰貞朝臣がこれを行ない、前隼人正伊賀光重(光宗の弟)が使者に任じた。今年の大旱魃の原因は風神が雲を吹き飛ばした事に因る、と判断した対応でもある。
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   ※寛喜の例: 寛喜三年(1231)6月15日(西暦の7月16日、台風の影響か)の記事を参照。
同年の6月6日にも風による漂流船についての評議が催されている。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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7月27日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)に将軍家が再び由比浦へ出御、二所詣の精進潔斎として潮に浴するためである。
今日、京都朝廷の使者が到着。去る16日に改元があり、延應二年を改め仁治元年とした。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月2日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(18時前後)に将軍家(藤原頼経)が二所詣へ。まず鶴岡八幡宮宮寺に参詣して鳥居の内側から遙拝し、先達の僧が合流して進発となった。
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  行列
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  先陣の随兵 十二騎
     佐原四郎左衛門尉    同六郎兵衛尉
     葛西四郎左衛門尉    豊嶋小太郎
     江戸太郎    小林三郎
     和泉新左衛門尉    同五郎左衛門尉
     千葉八郎    海上五郎
     下河邊左衛門の尉    太胡左衛門尉
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  次に御引馬五匹  次に御弓袋差し  次に御甲着け  次に御冑持ち  次に御小具足持ち
  次に御調度懸け(惣持王丸)  次に御油  次に御先達
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  次いで御駕(御浄衣)
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     狩野五郎左衛門尉    武小次郎兵衛尉
     平賀三郎兵衛尉    長兵衛三郎
     渋谷三郎    俣野彌太郎
     山城次郎兵衛尉    飯富源内
     小河左衛門尉    加治左衛門尉
     伊佐右衛門尉
        以上歩行、御駕の左右に侯す。
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  後騎
     左兵衛督(頼氏卿)    八條少将(實清朝臣)
     右馬権頭    駿河守
     宮内少輔    陸奥掃部助
     甲斐前司    秋田城介
     摂津前司    佐渡前司
     太宰権少貳    上総権介
     出羽前司    内蔵権頭
     前弾正少弼    中條右近大夫将監
     周防前司    兵庫頭
     近江大夫判官    加賀民部大夫
     信濃民部大夫    施薬院使良基朝臣
     散位晴賢朝臣    権暦博士定昌朝臣
     小山五郎左衛門尉    薬師寺左衛門尉
     上野彌四郎右衛門尉    上総五郎左衛門尉
     佐渡五郎左衛門尉    隠岐判官
     壱岐小三郎左衛門尉    信濃三郎左衛門尉
     近江四郎左衛門尉    加地七郎左衛門尉
     伊賀次郎右衛門尉    和泉七郎左衛門尉
     足立木工権介    宮内左衛門尉
     長尾平内左衛門尉    加藤左衛門尉
     伊東六郎左衛門尉    宇佐美左衛門尉
     武田五郎次郎    南部次郎
     武藤左衛門尉    内藤七郎左衛門尉
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  後陣の随兵 十二騎
     武田六郎    大井太郎
     薗田又太郎    木村弥次郎
     相馬左衛門尉    筑後左衛門次郎
     春日部三郎兵衛尉    品河小三郎
     三村右衛門尉    長掃部左衛門尉
     長尾三郎兵衛尉    秋葉小次郎
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月3日
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吾妻鏡
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筥根(箱根権現)に御奉幣。
当山の衆徒と供奉の人々は酒宴を催して各々が延年(宴会芸)を披露し、楽しい宴会となった。
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   ※酒宴: 供奉した御家人にとっては現代で言う慰安旅行の要素があったらしい。この気持ちは判るね。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月4日
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吾妻鏡
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三嶋に着御した。今日は奉幣の儀式は行われず、昨日に続いて延年となった。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月5日
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吾妻鏡
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今暁に三嶋大社への奉幣を行った。夜になって走湯山に奉幣、当山の衆徒と共に延年(酒宴・宴会)となった。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月6日
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吾妻鏡
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激しい雨。将軍家は今日鎌倉に向かい、夜になって酒匂の宿に着御した。
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   ※酒匂の宿: 「新編相模国風土記稿」には「東海道から北に折れた町並み、北側に土手の痕跡が残る付近一帯
を御所小路と称した」との記述がある。将軍宿所と伝わる「濱部御所」は西酒勾二丁目付近(地図)の可能性が高い。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月7日
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吾妻鏡
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終日暴風雨。二所詣からの帰路は散々の天候で、随兵以下の供奉人は誰もが笠を取る事もできず衣装を濡らす始末だった。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月10日
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吾妻鏡
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去る3月(12日)の不事によって出仕停止の処分を受けた輩(五人)が許された。陸奥掃部助北條実時が将軍家(藤原頼経)の仰せを受けてその旨を各人に通達した。
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   ※不事: 理由なしに当番の義務を果たさなかったこと。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月14日
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吾妻鏡
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晴。夜に入り武衛北條時頼)が除服(服喪明け)。
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   ※武衛: 兵衛府の唐名。時頼は嘉禎三年(1237)4月22日に御所で元服(満10歳10ヶ月)、将軍頼経の偏諱
を受けて時頼と名乗り同年9月1日に左兵衛少尉に任官した。除服は1月の北條時房死没か。8月初頭の将軍家二所詣には北條一族の主だった者が同行していてないのも喪中のためだろう。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の放生会があり将軍家(藤原頼経)が御参宮。廊下の車寄せで暦博士定昌朝臣(衣冠)が反閇を務めた。相模右親衛北條時定が御剣を持ち、佐原七郎左衛門尉政連(佐原(三浦)義連の次男)が弓箭を携えた。
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   ※反閇: (へんばい)は貴人の移動に際して祈りと共に独特の歩行を行う陰陽道の作法。動画も参考に。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月16日
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吾妻鏡
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晴。昨日に将軍家(藤原頼経)が御参宮。近江大夫判官佐々木泰綱(束帯)と出羽判官らが供奉した。
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   ※中条家平: 武蔵横山党の武士で評定衆の初代メンバーの一人だった中条家長の孫とされる。
系図の錯綜などにより、父親が誰かは確定できない。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月21日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に地震、揺れが大きかった。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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8月22日
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吾妻鏡
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去る2月(22日)に倒壊した鶴岡八幡宮宮寺の修理が完成し、今日避難していた本尊を本堂に戻して安置した。
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   ※本尊: 薬師如来坐像の避難や移転の経緯などは吾妻鏡の2月22日を参照されたし。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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9月7日
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吾妻鏡
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御所の将軍家持仏堂で催した彼岸法華懺法が結願した。法会を務めた僧らには五十二種の品物にその他を加えて布施とし、八條少将・前弾正大弼・内蔵権頭らを介して与えた。
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その後に仏師参河法橋が呼ばれて持仏堂に入り、北斗七星・二十八宿・七曜・十二宮などの像を造り始めた。
9月であっても仏像の造立には支障なしとの仰せである。兵庫頭藤原定員がこの件を奉行した。
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   ※法華懺法: 天台宗の重要な儀式の一つ。法華経を読誦して罪障を懺悔し後生善所を願う。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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9月8日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に施薬院使(医療点薬を司る部署)の正四位上丹波朝臣良基 が死没(55歳)。伊豆国北條の小那温泉に滞在していた。
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   ※丹波良基: 吾妻鏡に丹波氏の名が載った最初は正治元年(1199)5月7日、医師の丹波時長が頼朝の次女
乙姫(三幡)の治療に派遣された。丹波氏は医師の家系だが時長と良基の血縁は確認できない。
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その後は嘉禄二年(1226)1月の四代将軍頼経就任に伴って朝廷の施薬院(wiki)から丹波良基が鎌倉に派遣されて頼経の主治医に任じ、京都の医術が鎌倉に定着した。
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建長四年(1252)には頼経の嫡子で五代将軍の頼嗣が廃されて後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が皇族出身の六代将軍になると朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、医術の知識は北條氏にも提供され始める。
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   ※小那温泉: 伊豆半島で最も古い湯治場の一つ、現在の伊豆長岡・古奈温泉を差す。源三位頼政の後添えと
なった菖蒲御前の出身地。伊豆長岡 菖蒲田の風景などを参照されたし。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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9月16日
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吾妻鏡
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月蝕を明確に視認した。欠け始めは未刻(14時前後・二十分)、元に復したのは戌刻(20時前後・二十八分)。
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   ※二十分: 文中の二十分・二十八分は意味不明。一般的な皆既月食の場合だと欠け始めから満月状態までは
3時間20分前後が普通らしい。未刻は13~15時・戌刻は19~21時だから、この時の月蝕は15時近くに始まり19時過ぎに終わったらしい。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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9月30日
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吾妻鏡
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任官した御家人が行幸などで護衛の任務を果たさないのは恐れ多い事であり、罰則を定める旨の評定があった。
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左・右衛門尉は1人当り百疋、左・右兵衛尉は1人当り七十疋、左右近将監は1人当り三十疋、左・右馬允は1人当り五十疋、内舎人の場合は1人当り二十疋である。行幸などに供奉できない場合は毎年の義務として納入とする。徴収の基礎資料として名簿を提出するよう、諸国の守護人に指示が下された。
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   ※疋: 布か銭かが不明。鎌倉時代中期の米一石は1000文前後だったらしいが、疋との換算が判らない。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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10月10日
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吾妻鏡
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前武蔵守北條泰時邸で、山内への道路を造る決定があった。安東籐内左衛門尉がこれを差配する。
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   ※山内への道: 山ノ内つまり北鎌倉方面に続く道は亀ヶ谷坂切通しと巨福呂坂切通しが知られている。
この日に決定したルートがどちらは諸説あるが、吾妻鏡の建仁二年(1202)12月19日に下の記載がある事を前提にすれば、亀ヶ谷坂切通しは既に存在したと考えるべきだろう。
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七寸(約21cm)ほど積雪。将軍家(頼家)は鷹狩りの狩場を視察するため山内庄に出御した。
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夜になって堤判官知康を供にして還御する際に亀ヶ谷の付近で(知康の)乗馬が暴れ、瞬く間に近くの古井戸に落ちた。大事に至らなかったが、御所に入ってから知康に小袖20着を与えた。
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亀ヶ谷は寿福寺から海蔵寺に至る谷津で「鶴ヶ岡に相対する場所」として亀ヶ谷、時には扇ヶ谷と呼ばれた地域で文面通り読めば堤判官知康は「亀ヶ谷坂を越えて亀ヶ谷に下った辺り」で落馬。建仁二年には「辛うじて騎馬で山ノ内と往来できる道」があったのだろう。
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ただし切通しとして切り下げ工事が行われたのは後世で、鎌倉時代中期には未だ峠に近い高度を通っていたらしい。以上の経緯から今回の道路工事は巨福呂坂切通しと考えるべきか。
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右画像(現在の巨福呂坂切通し)をクリック→ 今は廃道となった巨福呂坂切通し(別窓)へ。
本文の上の項では「亀ヶ谷坂切通し」についても記載しておいた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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10月13日
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吾妻鏡
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晴。前武蔵守北條泰時並びに評定衆らが御所に参集し、五大堂の敷地に北斗堂を建てる事を決裁した。
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   ※五大堂: 現在の十二所にある明王院(公式サイト)を差す。建保二年(1214)7月に三代将軍実朝が開いた
大慈寺(既に廃寺)の西側に、四代将軍藤原頼経が文暦二年(1235)6月に建立した大寺。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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10月19日
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吾妻鏡
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晴。大倉北斗堂の地曳き(区画縄張り)を始める件は佐渡前司後藤基綱と兵庫頭藤原定員がこれを奉行する。
また前武蔵守北條泰時の指示により、山内の道路(10月10日に記載した巨福呂坂)の工事が始められる。
これは現在の道が険しく、往還に苦労するためである。
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   ※往還に苦労: つまり道路の新設ではなくて、現在通じている峠道の
拡幅整備だった。巨福呂坂の途中の高台にある青梅聖天社には以下の伝承(新編鎌倉志)がある。
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病床の鎌倉将軍が季節はずれの青梅を欲しがり、探し回った末に祠の前に実っているのが見付かった。
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この将軍は頼家か実朝か、あるいは藤原頼経か。
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      右画像は青梅聖天社に登る石段。 画像をクリック→ 拡大表示。
           詳細は今は廃道の巨福呂坂切通しで。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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10月22日
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吾妻鏡
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人々恩沢に浴した(恩賞を受けた)。佐渡前司後藤基綱がこれを差配する。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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閏10月3日
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吾妻鏡
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先月20日の大臣任命の除書が鎌倉に届いた。左大臣に九条実経(一條家の始祖で九条道家の三男)、内大臣に近衛家良(近衛流衣笠)。主計頭中原師員が御所に持参し、祝賀の書状を送るよう仰せを受けた。
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   ※九条実経: 九条教実、二条良実、藤原頼経(将軍)に続く四男。三男とした理由は不明。
   ※近衛(藤原)家良: 正二位だが政治家よりも歌人として著名。藤原定家の弟子で続古今和歌集の撰者の1人、
新勅撰和歌集などには118首が載っている。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
 
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陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは10月の次が閏10月)。
西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→西暦の変換はこちらのサイトが利用できる。

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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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閏10月5日
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吾妻鏡
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訴訟の記録について、審理の内容を当事者が持ち出した場合は罪科に処す旨を関係者に周知させるよう定めた。太宰少貳狩野為佐と加賀民部大夫町野(三善)康持が奉行に任じる。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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閏10月23日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時)に前陰陽権助正四位下の安倍親職朝臣親職が死没した。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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閏10月28日
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吾妻鏡
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御所に於いて、北斗堂の着工に関する決定があった。式部大夫入道伊賀光宗と民部大夫太田(三善)康連がこれを差配する。
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   ※北斗堂: 10月13日に十二所の五大堂敷地に建築が決定している。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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11月17日
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平戸記
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前夜から暴風雨。寅刻(早暁4時前後)に雷鳴が三、四度、最初は遠かったがやがて大きくなり暫く止まなかった。
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冬の雷鳴があると必ず武家(鎌倉)で事件が起きる。近い例では故実朝事件の前年冬(12月か)には積雪の鎌倉に雷鳴があり、北條義時と尼二品(政子)が没した際も前年の冬に雷鳴があった。武家は行動を慎むべきだろう。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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11月19日
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吾妻鏡
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前淡路守従五位下の藤原朝臣長沼宗政法師が没した(79歳)。居住地は下野国長沼郡(栃木県真岡市・ 地図)。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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11月21日
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吾妻鏡
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今日、鎌倉市中警備のため辻々篝(かがり火)を灯すよう沙汰が下された。保内の居住者の負担とし、順番を定めて務めるよう保々の管理者に通告した。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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11月23日
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吾妻鏡
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清左衛門尉清原満定の奉行として、まだ洛中に設けていない篝屋などについて決定し、費用負担を御家人に割り当てた。 元々の地頭も新補(承久の乱の恩賞で得た)地頭もこの命令を守らなければ所領を没収するとの規則が布告されたが、没収を実行に移せば多くの訴訟が発生するのは目に見えている。従って必要な費用の徴収、もし50町の所領があれば銭50貫文の徴収と定めた。ただしこれは地頭の収入からで、農民の負担としてはならない、と。
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   ※清原満定: 清定の次男で、貞永式目執筆者の一人で評定衆のメンバーだった斎藤長定の弟と推定される。
前年の長定死没に伴って評定衆に補任され、会議の奉行人(議長か)や右筆役も務めている。
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   ※一貫文: 原則は1000文だが実質は960文。一町(約110m四方)で960文は米一石(1000合)は当時の
男子が一年間に消費する基準量に近い。篝屋の経費としては高すぎるが計算を間違えたかも。
暇なときに再計算してみよう。当時の物価などについては詳しい資料も見たいし...。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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11月28日
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吾妻鏡
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京都大番役の勤怠について定めた。遅れたり欠勤したりする事例に対応するためである。もし一ヶ月遅参した場合は1000疋を徴収し、未だ設置していない篝屋の経費に充当する、と。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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11月29日
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吾妻鏡
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洛中で群盗が出没しているとの噂があり、篝屋の管理者や在地の御家人が過怠している疑いがある。
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今日、前武蔵守北條泰時邸で評定を開き、右馬権頭北條政村・摂津前司中原師員・佐渡前司後藤基綱・秋田城介安達義景・出羽前司二階堂行義・太宰少貳狩野為佐・加賀民部大夫町野(三善)康持らが集まって意見を述べた。
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その内容は様々だが、篝火を置いた辻々に太鼓を置き事件が発生したらその音に従い松明を持って集結するよう、保の管理者に周知させる。この命令に従わない場合は罪に問う、と。太鼓の準備は京畿の御家人に負担させるよう六波羅に指示を与えた。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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11月30日
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吾妻鏡
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晴。鎌倉と六浦津の間に初めて道路を造る決定が下され、今日縄を張って計測し御家人に担当ヶ所を配分した。
来春の3月以後に着工するよう仰せがあり、前武蔵守北條泰時が現地を確認した。中野左衛門尉時景がこの業務を奉行し、安倍泰貞朝臣が着工などの吉日を選定する。
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   ※鎌倉~六浦: 峠付近の岸壁に和田義盛の次男で数々の武勇伝で
知られた和田(朝比奈)義秀が一夜で切り開いたと伝わる切通し部分を残している峻険な峠道。
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もちろん伝承の信憑性は乏しいが、小坪の沖に唐船の係留施設(和賀江島)が完成するまでは六浦(唐船の寄港が可能)と鎌倉を結ぶ物流の一部を担っていた。
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金沢流北條氏の祖北條實泰は父義時の遺領として六浦荘を継承しており、彼の狂気は別にしても六浦と鎌倉の交通路はそれなりに確保されていたと考えるのがノーマルで、今回の道路開削は10月19日の巨福呂坂と同様に既存道路の拡幅整備だろう。
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右画像は十二所神社から朝比奈の峠まで約1200mの地図。全体で6%の傾斜だから峻険ではないが見通しが悪い湿地続きで、楽しいウォーキングではない。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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12月1日
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平戸記
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ある夜(日付は不詳)脩明門院の四辻殿に群盗が押し入り、この恐怖によって院は四辻堂御所に遷られた。女房も女院も衣服を剥ぎ取られたという。乱世の極みだろうか、貴賎を問わず連日の如く同様の事件が起きている。
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   ※脩明門院: 後鳥羽天皇の寵妃で順徳天皇の生母(国母)。治安の乱れを象徴する前代未聞の事件だった。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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12月12日
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吾妻鏡
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洛中の辻々を警備するため篝屋を設けたにも拘らず当番の任務を果たさない例が起きている。過怠した罰金の多少によって造るべき篝屋の数を割り当て、更にその姓名を報告するよう六波羅に命じた。
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   ※治安の乱れ: と同時に、御家人の規律も乱れているらしい。「平戸記」の嘆きも当然か。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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12月15日
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吾妻鏡
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左衛門尉藤原基行法師(二階堂元(基)行・法名行阿)が死没(42歳)。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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12月16日
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吾妻鏡
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二所詣のため精進潔斎を行なう建物を御所の巽(南東)角に建て檜皮で屋根を葺き、門を別に建てると決まった。
今日、御所に於いて評定衆の会議が催され、次の各項が協議された。
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将軍家(藤原頼経)の立願により、二所(箱根と伊豆山)と三嶋大社に加えて(鶴岡にある)春日大社の摂社にも毎日神楽を奉納する費用が莫大である。毎月の費用も御家人の大きな負担になっているため、その費用に充てる土地を寄付する方策が協議されたが適当な所領が見当たらず、銭の寄進を代用する事となった。
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次に御家人が官位官職を受ける際の費用について協議があり、その上下により100貫または50貫を朝廷に納入して受領証を受け取るよう六波羅に命じた。その他、地頭の所領と管理について次の条項がさだめられた。
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  一.以前からの地頭に任じている土地の検地は先例の通りに行なうこと。
  一.神領または御厨の求める役務は元々か新補(承久以後)を問わず全て禁止する(牧草や薪は対象外)。
  一.人身売買犯は全て関東に連行する。売られた者は即刻解放し、関所にもその旨を通告すること。
  一.神職(上下を問わず)の起請文は他の神社で書いてはならず、京都の場合は北野天満宮で書くこと。
  一.罪科にはその理由を明確に記載した命令書を見せること。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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12月21日
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吾妻鏡
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今朝、前武蔵守北條泰時が評定衆を伴って右大将家(頼朝)の法華堂に参集して法事を催した。導師は荘厳房僧都行勇、12月5日に没した故隠岐次郎左衛門入道行阿(二階堂元(基)行・法名行阿)の初七日である。今後は評定衆以下の公務に関わる者の死没に当たっては必ず追善供養の法事を催すよう話があった。
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   ※評定衆: 翌・仁治二年のメンバーは下記の20人。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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12月23日
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吾妻鏡
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春日社および二所(箱根・伊豆山)と三嶋大社に奉納する毎月の御神楽について、明春正月17日に始める旨を今日兵庫頭藤原定員の奉行として政所に命令が下った。
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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 月 日
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吾妻鏡
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予備
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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 月 日
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吾妻鏡
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予備
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西暦1240年
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87代 四条天皇
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仁治元年
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 月 日
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吾妻鏡
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予備
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