仁治二年(1241年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。前武蔵守北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。右馬権頭北條政村(狩衣)が御剣を、前甲斐守長井泰秀が御弓箭を、佐渡前司後藤基綱が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は  左近大夫将監北條経時   駿河又太郎左衛門尉(泰村の嫡子景村か)
   二の御馬は  上野五郎兵衛尉結城重光(結城朝光の七男で山川氏の祖)   同、十郎(河原田朝綱か)
   三の御馬は  信濃三郎左衛門尉(二階堂行綱)   同、四郎左衛門尉(二階堂行忠
   四の御馬は  五郎左衛門尉佐原盛時   同、六郎兵衛尉時連(盛時の弟)
   五の御馬は  兵衛尉北條五郎時頼   新左衛門尉平盛時
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今日、御所に於いて大納言僧都隆弁が焔魔天供の祈祷を行なった。
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   ※年令: 三代執権北條泰時は57歳・ 四代執権になる北條経時は16歳・五代執権になる北條時頼は13歳・
六代執権になる北條長時は11歳・ 七代執権になる北條政村は36歳・ 北條朝時は48歳・
三浦泰村は57歳・ 足利義氏は52歳・ 結城朝光は73歳・ 四代将軍藤原頼経は1月16日で24歳・
五代将軍になる嫡子頼嗣は11月21日で2歳・ 四条天皇は2月12日で10歳。 (全て満年齢)
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。左馬頭足利義氏朝臣の沙汰による椀飯の儀あり。宮内少輔足利泰氏が御剣を、秋田城介安達義景が御弓箭を、太宰少貳狩野為佐が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は  足利五郎(吉良長氏)   高弥太郎
   二の御馬は  新田太郎政義(義兼の孫で新田氏棟梁)   阿保弥次郎
   三の御馬は  多々良小太郎重光   同、次郎通定
   四の御馬は  兵衛尉武小次郎通定   同、三郎
   五の御馬は  畠山三郎   大井田十郎
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   ※武通定: 建保七年(1219)1月、公暁に討たれた三代将軍実朝
首を波多野に持ち込んだのが三浦義村の郎党武常晴。
右画像をクリック→ 実朝首塚と波多野城址(別窓)へ
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伝承に拠れば、首を波多野に埋葬した常晴は三浦に帰らず出家し実朝の菩提を弔って二年半後に没している。通定の正確な出自は確認できないが、武の姓から推定して常晴の系累だった可能性が高い。
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武一族の本領は三浦氏の本拠・衣笠城の南側、ツツジで知られた武山の北西(地図)に位置する。
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   ※畠山三郎: 元久二年(1205)に北條氏に謀殺された畠山重忠
正室(北條時政の娘で政子の異母妹)が足利義兼の庶長子義純に再嫁し、義純が畠山の名跡を継いだ。二人の間に産まれたのが畠山三郎泰国(母親は重忠の娘と考える説あり)。
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関連する話として、足利義純は既に新田義兼の娘と婚姻して二人の男子を産ませている。彼女は二人を連れて新田に戻り(厳密には通い婚の可能性あり)、義兼の養育を受けて岩松時兼・田中時朝として成長する(源氏の系図中段・新田源氏の項を参照)。
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   ※大井田氏: 新田義重-分家した長男里見義俊-嫡子義俊-次男義継-氏継と続く。
氏継は越後国妻有郷(現在の新潟県中魚沼郡津南町・地図)に住んで大井田を名乗り、大井田氏の率いる越後新田勢は元弘三年(1333)の新田義貞挙兵に際して真っ先に駆け付けている。
この項目は鎌倉街道枝道の一つ(別窓)に記載した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月3日
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吾妻鏡
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朝のうち雪、巳(10時前後)から晴。遠江前司北條朝時の沙汰による椀飯の儀あり。備前守北條時長が御剣を、若狭前司三浦泰村が御弓箭を、大蔵少輔遠山(加藤)景朝が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬は  周防左馬助北條光時   遠藤五郎左衛門尉
   二の御馬は  遠江式部大夫北條時章   小井弖左衛門尉
   三の御馬は  遠江修理亮北條時幸   廣河五郎左衛門尉
   四の御馬は  遠江五郎北條時兼(朝時の五男、時章の次弟)   廣河八郎
   五の御馬は  陸奥七郎北條時尚(義時の七男、政村實泰の弟)   平左衛門四郎
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月4日
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吾妻鏡
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晴。吉書始め。前武蔵守北條泰時が持参し、信濃民部大夫二階堂行泰これを将軍家(藤原頼経)に献じた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月5日
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吾妻鏡
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晴。御弓始めあり。
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  射手
     一番 下川邊左衛門尉行光   佐原六郎兵衛尉時連
     二番 信濃三郎左衛門尉二階堂行綱   海老名左衛門三郎
     三番 渋谷六郎盛重   工藤三郎光泰
     四番 横溝六郎義行   古庄四郎
     五番 小笠原六郎時長    岡邊左衛門四郎
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   ※百錬抄: 主上(四条天皇・11歳)が御元服。加冠は摂政太政大臣(近衛兼経・wiki)、理御鬢(前髪を落とす)
は左大臣(二条良実・wiki)、理髪は内蔵頭頼氏朝臣。巳刻(10時前後)北廂(私室)に渡御し遊戯。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月8日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に雷鳴。今日、御所で心経会(般若心経を詠む法会)、将軍家(藤原頼経)も出御。夜になって京都の使者が到着して報告、常住院僧正坊(道慶、後京極殿(九条良経)の子)が将軍家の御挙により大僧正に転任された。その(僧に関する)除書を持参した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月11日
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吾妻鏡
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申と酉の両刻(15時前後と19時前後)に雷鳴あり。椀飯の後に安倍晴賢朝臣を御所に呼び、内蔵権頭資親を介して御扇を与えた。これは常住院僧正が大僧正に転任するよう推挙した件について去る7日に許否を占わせた際に晴賢が「既に転任は見えている」旨を言上したからで、その翌日にその通り転任する叙書が届いた。その結果を喜んだためである。
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   ※転任の件: 太政大臣だった九条良経の息子道慶(35歳前後・庶子)が甥の鎌倉将軍 (藤原頼経)から推挙を
受けている。常識的には、実現しない筈がない。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月14日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(16時前後)に地震あり。今日、将軍家(藤原頼経)が鶴岡八幡宮に御参拝、供奉は下記の通り。
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前右馬権頭北條政村・宮内少輔足利泰氏・大夫将監北條経時・備前守北條長時・伊豆前司若槻頼定
甲斐前司長井泰秀・秋田城介安達景盛・下野前司宇都宮泰綱・佐渡前司後藤基綱・若狭前司三浦泰村
河内前司三浦光村・出羽前司二階堂行義・大蔵少輔行賢・大和前司伊東祐時・太宰少貳狩野為佐
壱岐前司佐々木泰綱・信濃民部大夫二階堂行泰・伊賀守小田時家・出羽判官中条家平
佐渡判官後藤基政・上野判官結城朝広・小山左衛門尉小山朝長・上野左衛門尉結城重光
近江四郎左衛門尉佐々木氏信・駿河五郎左衛門尉三浦資村・同八郎左衛門尉三浦家村
大多和新左衛門尉・大須賀六郎左衛門尉為信・和泉次郎左衛門尉天野景氏
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今夕将軍家の祈祷として百日の天冑地府祭が始められ、安倍晴継朝臣がこれを担当した。
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   ※小田時家: 八田知家の八男で朝重(知重)の弟、高野氏の祖。
   ※中条家平: 中条家長-時泰-家平と続く。将軍頼経の側近を務めた。
   ※後藤基政: 後藤基綱の嫡男。将軍頼経の近習番を務めた。
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   ※大多和氏: 三浦氏の傍流で三浦義明の七男義久が三浦郡大多和村(現在の横須賀市太田和・地図)を相続
して大田和氏を称したのが最初。和田合戦の際は義盛に味方せず、宝治合戦の際は泰村に味方せず、鎌倉陥落の際は義久から五代目の義勝(義行)が多摩川分倍河原の合戦で新田義貞側に駆けつけ、北条氏滅亡の一端を担った。新左衛門尉の系図の位置は不明。
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   ※大須賀為信: 千葉氏の傍流で千葉介常胤-四男大須賀胤信-嫡男胤氏-四男六郎左衛門尉為信と続いて
いる。大須賀氏は北條得宗家と近い関係を保ち、幕府の滅亡まで下総に勢力を保ち続けた。
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   ※天野景氏: 天野政景の次男で光景の弟。
   ※結城重光: 結城朝光の七男で朝広の弟。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月17日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)の御台所が鶴岡八幡宮に御車で参拝。
今日春日社と二所(箱根と伊豆山)と三嶋社で御神楽を奉納するよう政所に命じられた。毎日の行事としたい旨の(将軍家の)希望だったが、去年12月の評議により毎月に減じたものである。
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   ※御台所: 天福二年(1234)7月に竹御所が死去した後の正室(継室)が誰なのか、公式記録は見当たらない。
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頼経を継いで五代将軍となった頼嗣の生母は従三位・参議・権中納言の公卿藤原親能の娘大宮殿、親能は承元元年(1207)11月に没しているから、彼女の年齢は今年で33歳以上になる。
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異説として正三位・参議・権中納言の公卿持明院家行の娘説もある。家行の死没は嘉禄二年(1226)2月だから、彼女の場合は15歳以上、どちらなのか確定はできない。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月19日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が参着。去る5日に主上(四条天皇、11歳)が御元服。加冠は摂政太政大臣(近衛兼経・wiki)、理御鬢(前髪を落とす)は左大臣(二条良実・wiki)、理髪は内蔵頭頼氏朝臣。
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また去年11月1日に発生した洛中の群盗を駆逐せよと(六波羅の責任者)相模守北條重時に命じるよう、摂政近衛兼経の書状が届けられた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月23日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が馬場殿に渡御し、前武蔵守北條泰時が参上、遠江前司北條朝時・駿河守北條有時・宮内少輔足利泰氏・摂津前司中原親實・上総権介・出羽前司二階堂行義以下数人も加わった。
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まず若者らに遠笠懸と小笠懸を射させ、次に弓場で宿老の御家人を加えて的を射た。伊豆入道光蓮(武田信光)・ 左衛門尉海野幸氏・左衛門尉望月重隆らが召されて見聞役を務め、それぞれが今日の催しは後日の語り草になるだろうと語った。その後に通例の通り椀飯の儀あり、続いて褒賞が分け与えられた。
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ここで幸氏が「右大将家(頼朝)の時代には御前で其々の家に伝わる作法などを聞いて記録に残していた。今日の催しはその趣に沿っており、後の自慢になる事だろう。」と語った。
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  笠懸の射手
     左近大夫将監北條経時   同五郎兵衛尉北條時頼
     駿河八郎左衛門尉三浦胤村   武田五郎三郎政綱
     山内左衛門次郎?   信濃三郎左衛門尉二階堂行綱
     上野十郎結城朝村   上総五郎左衛門尉千葉泰秀
     城次郎安達頼景   長江八郎四郎景秀
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  的の射手(二射づつ五度)
     一番 若狭前司三浦泰村   氏家太郎公信
     二番 下河邊左衛門尉行光   駿河四郎左衛門尉三浦家村
     三番 左衛門尉小山五郎長村   上野五郎左衛門尉結城重光
     四番 伊東大和次郎   横溝六郎義行
     五番 小笠原六郎時長   加治八郎左衛門尉信朝
     六番 壱岐前司佐々木泰綱   葛西六郎
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   ※三浦胤村: 三浦義村の九男で三浦泰村の異母弟。
   ※武田政綱: 武田(石和)信光の嫡男信政の次男で北條得宗の被官。
   ※結城朝村: 結城朝光の八男で朝広の弟、白戸氏の祖。
   ※千葉泰秀: 常胤-嫡子胤正-次男の上総介常秀-嫡子秀胤-三男泰秀と続く千葉氏嫡流。
   ※安達頼景: 安達義景を継いだ泰盛の庶兄。六波羅評定衆を経て文永九年(1272)の二月騒動に連座して
所領二ヶ所を没収された。弘安八年(1285)の霜月騒動で内管領平頼綱により安達一族は滅亡したが頼景は泰盛に与しなかったため難を逃れた。
   ※長江景秀: 鎌倉権五郎景政の子孫、景政-景継-長江義景-師景-秀景-頼景-景助-重景-次男景秀
に続いている。本領は現在の三浦郡葉山町。
   ※氏家公信: 宇都宮朝綱の息子で氏家24郷(現在の栃木県さくら市氏家・地図)を支配した氏家公頼の長男。
   ※下河辺行光: 行平-行綱の息子または孫だと思うが確定できない。
   ※小山長村: 朝長の嫡子で小山氏四代当主。
   ※結城重光: 結城朝光の七男で朝広の弟、山川氏の祖。
   ※伊東大和次郎: 伊東祐時の長男で早川次郎を名乗った祐朝か。
   ※横溝六郎義行: 近江国横溝郷(現在の東近江市横溝町・地図・湖東三山の近く)の武士で五郎資重の弟で
共に得宗被官。太平記の「関戸河原の合戦」には主人の北條泰家を守り討死の記事があり、民家の庭に「武将塚」が残っている(多摩・関戸の合戦を参照)。
   ※加治信朝: 加地信実の息子だと思うが、系図には載っていない。
   ※葛西六郎: 清重の息子清経または清家らしい。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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1月24日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)は二所詣に出発する際に精進潔斎を行うため去年新築した建物に転居の儀式が必要か否かを摂津前司中原師員・出羽前司二階堂行義・佐渡前司後藤基綱らに調べさせた。
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陰陽師は「行うべきでしょう。精進潔斎の前に済ませるなら来る27日が適しています。」と答えたが、ある者は「先ず転居してから」と言い、ある者は「精進潔斎を始める日に行うべき」と言い、ある者は「27日は右府将軍実朝の月違い命日だから望ましくない」などと主張して一致しない。
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将軍家は「今年に限っては御所の部屋を清掃して精進の部屋とすべきだろうか」と考え、師員と基綱を介して前武蔵守北條泰時に意見を求めた。泰時は「本来の御所を使うのが宜しいでしょう」と答え、これが結論となった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月4日
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吾妻鏡
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曇。戌刻(20時前後)に白色と赤色の筋雲三筋が現れ、それが消えてから東側に七尺(約210cm)の赤い筋雲が現れ、それが薄くなってから東側に再び四尺(約120cm)の赤い筋雲が一筋現れた。
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人々はこの変異を怪しみ、安倍泰貞朝臣が真っ先に御所に駆け付けて報告した。「この変異は彗星の一種で別名を異名火柱、村上天皇の御世である康保年間(964~968年)に同様の変異があった。」と。前武蔵守北條泰時が御前に参上し、続いて佐渡前司後藤基綱・秋田城介安達義景・太宰少貳狩野為佐・法印珍誉らも集まった。
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更に晴賢・廣資らも参上し、晴賢が「今夜は曇り空のため星が満足に判断できず、彗星の類や核になる軸星の確認もできない。晴天になってから調べるべきである。と語り、廣資朝臣も泰貞の意見に賛成したが、各々の意見が異なるため決定には至らなかった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月5日
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吾妻鏡
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晴。二所詣に伴う将軍家(藤原頼経)の精進潔斎が始まった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月7日
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吾妻鏡
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巳刻(午前10時前後)に大地震。古老の話に拠れば、建暦年間(1211~1213年)にも同様の大地震があって和田左衛門尉義盛による謀反の前兆と考えられた。その他には関東で同様の例はない、と。
その後、午刻と子刻(正午前後と深夜0時前後)の二度、小さな揺れがあった。
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   ※建暦地震: 和田合戦(1213年5月)が起きる前々年の建暦元年(1211)7月4日に次の記載がある。
「酉刻(18時前後)に大地震。牛馬が驚いて騒ぎ立てた。」
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月8日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に地震。二日間で合計五度の揺れがあった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月9日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での臨時の祭(地震対応?)は通例の通り。大夫将監北條経時が束帯姿で奉幣使を務めた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月10日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が二所詣に御進発。予定は昨日だったが、鶴岡臨時祭により順延となっていた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月12日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に常陸国の鹿嶋神宮(公式サイト)が焼けた。但し閉め切っていた本殿と奥殿などは被災を免れた。開闢以来この様な災害は起きなかったと古老は語っている。
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   ※百錬抄: 先日、鹿嶋社が焼亡した。垂跡(仏や菩薩が仮の姿(神の姿で)現れること)以来このような災害は
起きなかった。但し閉め切っていた御殿は焼けず、神官も被災しなかった。御神体は供僧らが避難させて難を免れた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月14日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に将軍家(藤原頼経)が走湯山から還御。二日の行程である。
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   ※二日の行程: 2月10日に出発して14日夜に帰って来たら四泊五日だと思うけど?
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月16日
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吾妻鏡
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去る4日の天変について、将軍家(藤原頼経)の仰せにより、前武蔵守北條泰時が将軍家の持仏堂外廊下に天文道の輩に質問した。太宰少貳狩野為佐・出羽前司二階堂行義・加賀民部大夫町野康持らも列座し、安倍泰貞・晴賢・資俊・国継・廣資ら天文道の担当官が集められた。
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「去る4日に現れた赤い雲についての実否を調べよとの仰せである。各人が考えを述べてその是非を問答せよ。」と指示し書面での提出となった。
泰貞の文書には「雲に遮られて見極められませんでしたが、天変であれば火柱の形と考えられます。」とある。
晴賢の文書には「推古天皇二十八年(639年)および天慶二年(939年)と元永五年(1122年)に赤い雲が現れました。 この三回は今回と同じですが、野火の疑いもあります。」とあった。ただし各々の実態を確認していないため実否の判断はできない、と。資俊と国継の文書には「赤い雲である。」と、廣資の文書には「火柱である。」とあった。
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対馬前司倫重三善(矢野)倫重の奉行としてこれらの書類を読んだ泰時は内容を整理し、為佐・行義・康持を介して御所に上程した。三人が戻るまでの間、天文道の輩が意見を述べて議論を交わした。
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晴賢が異議を唱え、「天変であれば火柱だろうと泰貞の文書に載っているのは言葉不足である。天文道として結論を出せなければ上司(将軍家を差す)は天変の実否を知る事もできない。」と語り、泰時はこの意見に感心した。
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その間に三人が御所から戻って将軍家の仰せを伝えた。「天変であれば京都から通知があるだろう。その際に判断しよう。」とのことである。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月22日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が御方違えのため輿に乗って遠江守北條朝時の名越邸に入御した。前右馬権頭北條政村と 大夫将監北條経時らが供奉した(各々直垂、立烏帽子)。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月23日
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吾妻鏡
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将軍家が名越邸から還御、北條朝時から御馬・御剱・鷲羽などが献上された。今日若君(後の五代将軍藤原頼嗣)が御前魚味・御着袴・御馬召始めなどについて決定された。佐渡前司後藤基綱がこれを差配する。
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   ※魚味: 初めて魚肉を食い初めする儀式。平安・鎌倉時代は三歳、室町時代は101日が基準で、着袴も同様。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月25日
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吾妻鏡
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長掃部左衛門尉秀連と高田武者所盛員が前武蔵守北條泰時の御前で訴訟の対決を遂げた。上野国菅野庄(現在の富岡市高田・地図の一帯)内での境界に関する争いである。盛員の訴えが偽りである事が明白になり、式目の条文に従って盛員の所領一ヶ所を没収する旨を決裁し、籐内左衛門尉能兼と加世五郎李村らを執行官に任命した。
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   ※長秀連: 吾妻鏡の治承四年(1180)5月15日に記載のある長兵衛尉信連-嫡子朝連-四男仲連-嫡子の
秀連と続く。信連は以仁王に仕えた滝口武者で、源三位頼政と共に挙兵した際には以仁王を逃がし、奮戦の末に捕縛された人物。平家物語に拠れば、六波羅で宗盛の尋問を受けても以仁王の行方を黙秘し、勇猛さに感心した清盛は罪を減じて伯耆国日野郡に流罪とした。
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文治二年(1186)4月4日の吾妻鏡には頼朝に臣従して御家人となった記載があり、後に能登国珠洲郡大家荘を与えられて本領とした。曾孫の秀連が菅野庄の一部を継承したと思われる。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月26日
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吾妻鏡
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兵衛尉広沢三郎實能と同弥次郎が郎従の事について訴訟となり、今日その結果について實能が将軍の御前で裁許を受けた。郎従などは實能に従うように記した書類を清原満定(仁治元年(1240)に評定衆着任)がその場で書き、その命令書に前武蔵守北條泰時が花押を加えて實能に与えた。
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   ※広沢氏: 波多野義通の兄弟または息子の実方が久寿二年(1155)8月の大蔵合戦では悪源太義平に従って
功績を挙げ、武蔵国広沢郷(現在の朝霞市栄町一帯・地図)を得て広沢氏を名乗ったのが最初。
実方は元暦元年(1184)12月の藤戸の合戦でも功績を挙げ、恩賞として備後国三谷郡十二郷(広島県三次市)の地頭職を得た。
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実方の嫡流は武蔵国広沢郷を本領としたが、嫡流以外は三谷郡に土着して栄えたと伝わる。実能と弥次郎はその子孫だろうと思うが、系図などの確証は得ていない。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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2月30日
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吾妻鏡
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去る4日の赤い雲の件、都を含む各地で彗星の出現らしいとの噂が広まっている。一條殿(禅定殿下九条道家)から書状が届くまでの間に安倍泰貞と晴賢らの注進状(報告書)を明暁京都に送るよう協議し手配した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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3月6日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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辰刻(午前8時前後)に地震あり。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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3月15日
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吾妻鏡
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細かい雨、巳刻(10時前後)に地震。今日永福寺で一切経会があり、将軍家(藤原頼経)も聴聞のため輿で出御。
前右馬権頭北條政村・武蔵守北條朝直・備中守北條時長・甲斐前司長井泰秀・若狭前司三浦泰村らも供奉した。
夕刻になって還御し、その次いでに甲斐前司邸に入御し御馬・御剱などの献上を受けた。この馬(黒)は最近の鎌倉では日頃から諸人が入手を競っていた屈指の名馬である。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵を纏めた仏教基本の聖典で
大蔵経に同じ。鎌倉では上巳節句(3月3日)前後に催す通例の法会として定着している。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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3月16日
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吾妻鏡
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最近の習慣として、将軍家(藤原頼経)が御灸を五、六ヶ所に据えられた。
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今日、評定衆による協議があり、その後に前武州北條泰時が議事の記録を御前に持参して披覧に供してから散会した。泰時はそのまま評定所に戻り、庭に散る桜を見て一首を吟じた。
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               ことしげき 世のならひこそ 物うけれ 花のちるらん 春もしられず
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   ※散る桜: 旧暦の3月16日は西暦4月28日、山桜の散る季節だったらしい。多忙にかまけて桜花が散る春にも
気付かなかった、と。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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3月17日
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吾妻鏡
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晴、丑刻(深夜2時前後)に巽(南西)の強風あり。前浜の民家の失火で甘縄山麓までの人家数百軒が焼失した。千葉介時胤の旧宅、秋田城介安達義景・伯耆前司葛西清親(葛西清重の嫡子)らの家も含まれている。
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   ※前浜: 文字通り鎌倉の前の浜、具体的には小坪浜手前の和賀江嶋の南
(材木座6丁目・地図)~滑川の流れ込みまでを西浜、滑川~坂ノ下(地図)までを前浜と呼んだ。
前浜と西浜の総称が由比ヶ浜、東西約2kmの範囲を差す。西なら滑川~坂ノ下と考えるべきだが、実際は反対だった。
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坂ノ下付近から出火して千葉邸・安達邸を焼き今小路の和田駅付近まで延焼したと仮定すれば「数百軒が焼失」も納得できる。
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   右の甘縄付近の概略図を参考に(クリック→ 拡大表示)
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   ※千葉時胤: 安貞二年(1228)に千葉胤綱の死没により10歳で千葉介を
継承した千葉氏の七代当主。千葉胤綱の長男、または胤綱の父千葉成胤の三男とする説がある。北條泰時に偏諱を受けて時胤と名乗り24歳で死没し、長子の頼胤が跡を継いだ。
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寛喜三年(1231)10月19日の吾妻鏡に五大明王堂の候補地として「甘縄の城太郎(安達義景)邸の南で千葉介邸の北、西山の麓である。両国司(時房と泰時)が再び巡検した。」との記事があり、ここには「西山の麓」に関する参考資料も書き加えた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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3月20日
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吾妻鏡
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晴。海老名左衛門尉忠行が使節として上洛の途に就いた。これは禅定殿下(将軍藤原頼経の父九条道家)の灌頂(貴人が出家する儀式)に伴い供物などを贈るためである。
今日、六波羅に申し送る件があった。訴訟関連の質疑や証拠書類の添付などに不備があり、また遅延が発生している事についての注意喚起も含んでいる。
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   ※海老名忠行: 左衛門尉は海老名忠綱のみで忠行は見当たらない。系は北條被官として佐渡本間氏に続く。
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   ※六波羅: 承久の乱(1221)後に京都守護を改編して六波羅の南北に設置した組織。厳密には「六波羅探題」
の呼称が現れるのは鎌倉時代末期、それまでは単に六波羅と呼ばれ、北方が上位とされた。
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設置当初から暫くは任命が出世のステップと受け取られていたが実際には鎌倉からの権限委譲に制約があり、特に望ましい役職ではなかったらしい。仁治二年現在の北方は北條重時、南方は北條時盛
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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3月25日
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吾妻鏡
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左衛門尉海野幸氏と伊豆入道光蓮武田信光が上野国三原庄と信濃国長倉保との境界を巡って争論している。幸氏の主張に理が認められ、式目の条文に従い押領に準じる措置を加えて処理するよう伊豆前司若槻(森)頼定と布施左衛門尉康高(三善氏の一族で実務官僚)らに指示しておいた。
光蓮がこれを恨んで一族や友人と語らって前武蔵守北條泰時に報復を企てているとの噂が流れている。更に細かく調べても結論は変わらず、泰時は次のように語った。
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恨まれるのを考慮して理非を決めるのは政道のあるべき姿ではない。
敵愾心を恐れて決裁を避ければ公平さを疑われる事となる。
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去る建暦年間、和田義盛謀叛の際に囚人の和田平太胤長の赦免を求めて一族が集まっても許さなかったし、胤長を面縛して一族の面前を引き立て囚人として扱った結果義盛の決起を招いたが、その場で義盛を拘束しなかった。無私の心掛けを保つのが当然である。
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また庄田四郎次郎行方が盗人の新五郎なる男を訴えた件についても同じく沙汰が下った。新五郎の主人岩本太郎家清も同罪に処すべきとの行方の主張を破棄し、従者が犯した罪を主人に問うのは道理に反するとした。
対馬左衛門尉仲康の奉行である。
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   ※三原庄: 現在の群馬県北西部の嬬恋村・長野原町・草津町・六合村
(現在は中之条町)一帯で平安時代前期に海野氏の祖先で名族滋野一門の下屋幸房らが開拓し、海野氏が継承したもの。長倉保は浅間山を隔てて南側の軽井沢町で「しなの鉄道」の信濃追分駅近くに長倉の字名が残っている。 右画像・群馬県の行政区分地図を参照(クリック→ 拡大表示)。
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   ※和田合戦: 泰時の公平な心根を強調し、併せて義盛を追討した正当性を主張したい編纂者の意図だろうが、
「無私の心掛けを保つのが当然」と言えるような行動ではなかった。幕政の実権を掌握するために主家の源氏および競合する御家人を次々に粛清(騙し討ち)してそれを正当化しているのは北條氏の一貫した手法であり、その事実を曲筆により隠蔽し続けたのが吾妻鏡である。
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和田合戦の詳細は老雄和田義盛の最期で。関連する吾妻鏡の記述は和田義盛の乱・記録に纏めてある(この二項は共に別窓ではなく、ページ内でのリンクにした)。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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3月27日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に大倉北斗堂の立柱と上棟を行ない、前武蔵守北條泰時が現地に立ち会った。前兵庫頭藤原定員・信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛)らが奉行である。また深澤の大仏殿も同様に上棟の儀を行った。
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   ※北斗堂と大仏殿: 仁治元年(1240)10月13日の吾妻鏡に「五大堂(明王院)の敷地に北斗堂を建てる事を
決裁した。」との記載、嘉禎四年(1238)3月23日の吾妻鏡に「今日、相模国深澤里の大仏堂の建設が始まった。」との記載あり。併せて、掲載した関連記事を参照されたし。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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4月2日
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吾妻鏡
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御所の東回廊で千度の御祓いを催した。将軍家(藤原頼経)が小御所の簾中に着座され、安倍泰貞・晴賢・宣賢・国継・資宣・廣資・泰房・晴平・晴尚・泰兼らが御祓いを担当し、内蔵権頭泰親が簾下に控えて御贖物を献じた。雑務は諸大夫五人と手長(配膳などの手伝い)の小侍ら。(陰陽師の)報奨は各々絹一匹(二反)、政所の手配による。
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   ※贖物(撫物): 身の穢を清めるための呪物。陰陽師が祈禱を行う際に人形や衣類を用意して依頼者を「撫でて」
穢れを移し、川に流す。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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4月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。戌刻(20時前後)に大地震。南風に加えて由比浦の大鳥居内の拝殿が
潮に引かれて流失し着岸の船10余隻が破損した。
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   ※由比浦の大鳥居: 現在は失われた「浜の大鳥居」を差す。若宮大路を改修
した平成二年(1990)に出土した鳥居の痕跡は若宮大路を横断する唯一の歩道橋北側の交差点両側(地図)に記念プレートとして残されている。ただしこれは天文二十二年(1553)に小田原北条氏の三代当主氏康が寄進した鳥居の跡で、鎌倉時代と同じ位置かは不明。
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三ヶ所の下馬橋が等間隔(約500m間隔)なのだから、三ヶ所の鳥居も同じ500m間隔で同一箇所にあった可能性を考えるべきなのかも知れない。
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上の下馬橋は八幡宮前の赤橋、中の下馬橋は二の鳥居前の扇川の暗渠・地図)、下の下馬橋は下馬交差点だから各々の感覚は約500m。
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更には、一の鳥居とは別に「由比浦の大鳥居」があった可能性も捨て切れない、と思う。また鳥居の痕跡出土地点の標高は約6mだが大量の人骨が出土した簡易裁判所敷地(約400m南)の標高は約8m、集団埋葬地の方が高台なのも少し合点できない部分だ。
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滑川の右岸(西の和田塚側)の方が左岸(材木座側)より標高が高く、現在の一の鳥居北側が数m低いのは材木座方面からの入江だった可能性もある(右下画像を参照)
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この地形を前提に鎌倉時代の姿を想像するのも面白い。
人骨が大量に出土した集団埋葬地と推定される裁判所と由比ヶ浜周辺は、当然ながら水没していた場所ではなかった筈、だから。
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   ※潮に引かれ: 大地震直後なら津波の引き波か。下馬交差点は標高約8m、鎌倉時代の海水面が現代よりも
数m高かったのを考えれば、5~6mの津波で大鳥居に付属した祠が流失したのは理解できる。「着岸の船」は浜の沖に投錨していたか、和賀江島に停泊中の貿易船を指すのだろうか。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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4月5日
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吾妻鏡
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晴。六浦道の築造を開始した。去年の冬に評議を経て早急の実施を目指したが、大掛かりな犯土となるため翌年3月以後と改めて決めていた。今日前武蔵守北條泰時が現地を視察、大勢が集まって各々土石を運び始めていた。
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   ※去年の冬: 11月30日に記載があり図面を添付した。新設ではなく拡幅整備の工事らしい。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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4月16日
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吾妻鏡
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武田伊豆入道光蓮(武田信光)が先月(3月25日)の決裁に関する件を謝罪した。無論のこと、執権 泰時に敵対する意思など持たず、噂になったのを知って驚き恐れた結果である、と。子々孫々まで悪事を企てる事はないとの起請文を書き左衛門尉平盛綱を介して泰時に提出した。
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これを受け取った泰時は評定の座で左衛門尉清原満定を経て評定衆に回覧させた。起請文の趣旨は妥当で誰でもそう考えるだろうと話し合い、今日集まっている評定衆から然るべき御家人の当主に告知しようと結論づけた。
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   ※百錬抄: 禅定太閤(将軍藤原頼経の父九条道家)が東寺に於いて灌頂(出家の儀式)あり。
介助は行遍僧正大阿闍梨(東寺四長者の一人)、多くの公卿が参集した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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4月25日
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吾妻鏡
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田畑を博奕の賭物とした場合は、その土地を没収すると定めた。これは大宮三郎盛員と豊嶋又太郎時光が武蔵国豊嶋庄の犬食名(東京都足立区の一部らしい)について訴訟を起こした。原因は大宮有忠の行った四一半が原因で各々が相手を訴えた状態だったが、最終的には遂に所領没収の結果となった。奉行は対馬左衛門尉仲康。
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また若狭四郎忠清は命令に背いた罪により安居院大宮の篝屋および膳所屋を造進せよとの命令が下った。これは忠清の所領である若狭国瓜生庄(福井県三方上中郡若狭町・地図)の雑掌(徴税を含めた荘園事務担当)の成安が訴え出たためである(未納か?)。
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   ※四半一: 骰子の四と一の目が出たときは賭け手の賭金の半分を胴元が取る賭博。胴元の大宮盛員と所領を
賭けた客の豊嶋時員との間に起きたトラブルらしい。
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   ※膳所屋: 厨房の建物を意味するが次に造進(造って献じる)とあり、朝廷の厨房だった可能性がある。
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   ※若狹忠淸: 島津忠久の異父(惟宗広言または惟宗 忠康)兄弟と思われる津々見(若狭)忠季(若狭国守護)の
系累らしいが、誰の子なのか不明。
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   ※安居院大宮: 鞍馬口通と大宮通の辻(地図)辺りの篝屋だろうか。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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4月27日
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吾妻鏡
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天変地異に対応する祈祷として御所の巽(南東)角で安倍泰貞朝臣による天地災変祭を行ない、将軍家(藤原頼経)もその庭に出御した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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4月29日
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吾妻鏡
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(御家人が預かっている)囚人が逐電した場合は預人(預かった御家人)の罪科は軽くない。過怠料を徴収し新大仏殿の造営に寄進するよう左衛門の尉清原満定の奉行として今日決定した。
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新田太郎政義の分として絹三千疋、毛呂五郎入道蓮光(紀伊国三上庄(和歌山市の紀の川河口南岸・地図)で狼藉を働いた政所(家政人)の次郎高氏を預かった)の分として五千疋、各々来る8月中に納入せよとの内容で、蓮光は「(逐電は)孫の深利五郎為経の所業である」と訴えたが、調査しても蓮光の咎は逃れ難いとの結果である。
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   ※新田政義: 新田義兼の孫。今回の怠慢に続いて寛元二年(1244)
には大番役を勤めた京都で幕府に無許可で定法に背く昇殿と任官を朝廷に要求して拒否された。臍を曲げたらしい政義は幕府に無届けで出家し、大番役を放棄して新田に帰った上に幕府への出頭をも拒否した。
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結果として政義は所領の一部を没収され隠居、惣領権は同族の世良田(得川)義季(義重の四男)と岩松時兼が引継ぎ、新田宗家は宗家としての権限まで失ってしまう。
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政義が重ねた愚行により所領が激減した新田宗家は四代後の新田義貞まで長い不遇と貧困の時代を過ごす。
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その鬱屈が伏線となり、弘安三年(1333)に北條高時が派遣した徴税使の強引な取立てに立腹して斬り殺し倒幕の兵を挙げた、とも言われている。
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   右画像は政義が建立した新田宗家菩提寺の円福寺墓所。累代の五輪塔が並んでいる。
   画像をクリック→ 円福寺の詳細(別窓)へ。

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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事が通例の通り行われ将軍家(藤原頼経)が御参宮、前武蔵守北條泰時が扈従した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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5月6日
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吾妻鏡
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昨日の鶴岡神事により延期した評定衆による臨時の会議があり、外記左衛門尉俊平の差配により本庄四郎左衛門尉時家が財産没収のうえ放逐となった。
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これは小林小次郎時景の従者籐平太の妻女が道を歩いていた際に時家が馬二疋(一疋は乗馬、一疋は荷馬)を強奪し馬を引いていた小次郎の従者も拉致した事件で、狼藉の罪科を時景が訴え出た結果である。
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   ※小林時景: 奥州合戦に出陣する直前の文治五年(1189)7月17日の吾妻鏡に次の記載がある。
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北陸道の大将軍は比企四郎能員宇佐美平次實政。下道を経て上野国の高山・小林・大胡・佐貫などの武士を傘下に加え、越後国から出羽国念種関へと北上して合戦を遂げよ。頼朝は大手の軍勢を率いて中路から陸奥国を目指す。先陣は畠山次郎重忠を呼び申し付けた。
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上野国小林郷は現在の群馬県藤岡市小林(地図)、小林一族は奥州合戦で勲功を挙げたらしく、後に奥州を経て北海道の松前藩に仕えている。
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   ※本庄時家: 児玉党の本宗家五代当主・庄家長の四男で本庄氏の始祖、後に本宗家八代当主を継承した。
かなり広大な領地を所有する当主が馬と荷を強奪した事件には謎が残るし、時家側の主張が記載されていない事を含めて事件の背景は謎。ちなみに本庄氏の系図は「始祖は時家」と載せておらず、何らかの犯罪に関わった人物として忌避されたと推測されている。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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5月10日
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吾妻鏡
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問注所(訴訟部門)の奉行である民部大夫大江以康は非勘(失策?)を咎められ所領一ヶ所の没収処分を受けた。
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同僚の間では(問注所の)裁決に関して将軍家の決裁を受ける手順の明確化のため宮内左衛門尉を介して意見の提出が求められた。これは紀伊五郎兵衛入道寂西と同七郎左衛門尉重綱が争っている、陸奥国小田保の追入と若木村についての処理についてである。
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また河内式部大夫親行が担当している、寄人の兵衛次郎景村の所領である陸奥国賀美郡栗谷澤村を没収して中に与えるよう決裁された。これは景村が賭博を常習しているとの訴えが同僚の野田左近将監秀遠から提出され、その罪科が明らかになった事による。
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今日、(3月20日に派遣した)海老名左衛門尉忠行が京都から鎌倉に戻り、去る先月16日に禅定殿下(将軍藤原頼経の父九条道家)が東大寺に於いて灌頂(貴人が出家する儀式)を無事に済ませた旨を報告した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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5月14日
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吾妻鏡
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六浦路を造る工事が遅れている。今日前武蔵守北條泰時が現地を視察して御乗馬で土石を運ばせ、その場に居た者たちも奔走せざるを得なかった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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5月20日
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吾妻鏡
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雨。今日、佐藤民部大夫業時が罪科により評定衆を解任された。落書などの奇行が理由である。
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   ※佐藤業時: 評定衆を設置した嘉禄元年(1225)12月から、落書の罪で流罪になった仁治二年(1241)まで
評定衆に任じた実務官僚で後に赦免され鎌倉に帰還した。別称は相模大掾。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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5月23日
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吾妻鏡
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肥後国の御家人大町次郎通信と多々良次郎通定が同国大町庄の地頭職について争っている。業務に当たって私心を挟まない通信の性格を熟知している 北條泰時が恩賞として得た土地の売買禁止の定めを避け別の理由で通信に与えた土地である。この所領を没収されたら生活の拠り所を失うと嘆く通信に配慮した処遇である。
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   ※大町庄: 肥前国(長崎県・佐賀県)には数ヶ所の大町があるが肥後(熊本県)には上益城郡甲佐町大町(地図
のみ。ただし、ここが大町庄か否かは確認できない。
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   ※生活難: 清潔な人柄の中小御家人まで貧困化が拡大、やがて徳政令でも対応し切れなくなる。嫌な時代だ。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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5月26日
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吾妻鏡
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散位佐藤業時の件(5月20日)、罪科を見過ごす事はできず鎮西に配流となった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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5月28日
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吾妻鏡
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散位従五位上の大江(長井)朝臣時廣が死去した。法名は斎阿。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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5月29日
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吾妻鏡
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評定衆による評議あり。鶴岡八幡宮の職掌(下級官吏、この場合は八幡宮の歌舞担当)である常陸国国井(水戸市上国井町・地図)の住人悪別当家重が賭博の罪で神職を解任された。会合衆(同僚)の飯野兵衛尉忠久と五郎三郎・孫三郎らも罪科に問うよう、彼等の主人である国井五郎三郎政氏と那珂左衛門入道道願に命令が下された。
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また八幡宮の神人(神社の下職)を称して人々に迷惑を掛ける者がいるとの噂があり、担当の人数を決めて把握するよう宮寺に申し入れた。外記左衛門の尉俊平がこれを担当する。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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近江入道虚假(佐々木四郎信綱)が隠居、今後は子孫には関与せずと言上した。
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   ※佐々木信綱: 承久の乱で院方に味方して斬られた長兄広綱の遺児を強引に殺して父定綱が残した所領の
ほぼ全てを独占した冷徹な譜代の御家人。4人の息子は琵琶湖周辺の所領を相続し、大原氏・高島氏・六角氏・京極氏として戦国大名へと発展していく。
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建久元年(1190)12月4日には京都から戻る途中の源頼朝が、嘉禎四年(1238)2月14日と10月14日には上洛した将軍藤原頼経が往路と復路に宿泊した信綱の居館・近江小脇館の記録が載っている。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月9日
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吾妻鏡
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降雨のない状態が10日も続いているため鶴岡八幡宮別当僧の定親が将軍(藤原頼経)の命令を受け江ノ嶋で祈雨の祈祷を行ない、同様に千度御祓いを催した。定昌・泰貞・晴賢・宣賢・国継・資宣・廣資・泰房・晴平・泰宗らがこれを担当し、褒賞として各々絹一疋(二反)を得た。将軍の代参に任じたのは宮内左衛門尉公景と近江大夫。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月10日
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吾妻鏡
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洛中で勃発した殺害事件などに関し、重大な犯罪は検非違使の担当分野だが、六波羅から検非違使に申し入れて引渡しを受け、相当する罪科に問うよう六波羅に通達した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月11日
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吾妻鏡
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雑人の訴訟は国ごとに分けて担当の奉行人を定める。再三の通達にも拘らず訴訟の進展が見られない場合、立場の弱い訴訟人が何回も出頭する負担を避けるため将軍の御教書(決裁の命令)を必要とせず、奉行人の奉書(通告書)を以て裁決の命令とする。
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   ※雑人: 元々は身分の低い者の総称だが平安末期~鎌倉時代には一般庶民を差して使われている。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月12日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)から慈雨あり、酉刻(18時前後)になって晴。既に数日の炎天が続き、昨日は少し雲が出て小雨が見られた程度。夜になって安倍晴賢朝臣が御所で属星祭を行った。将軍家(藤原頼経)が祈祷の庭に出御したが暑さが酷く、内蔵権頭資親に命じて御撫物(4月2日を参照)を渡させた。
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   ※属星祭: 国土安穏・五穀豊饒を祈祷する星供養(星祭)が個人の守護星を供養する属星祭に発展したもの。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月15日
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吾妻鏡
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六波羅の問注記(訴訟に関する記録)および文書などを将軍家の高覧に呈し、朝廷への精勤を命じられた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月16日
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吾妻鏡
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小河高太入道直季が出仕を停止された。これは源八兼頼(筑後国の御家人)の妻女に密懐した罪科による。
その上で男女共に所領の半分を没収する、と。該当する領地は全て筑後国に在り、御教書を発行して守護人の遠江式部大夫北條時章に命令した。この件の決裁は去る3月末の夜で翌日が三御精進に当たることから実施を持ち越していたもので、内記兵庫允祐持(伊東氏か?)がこれを担当した。
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また御家人が謀反人(犯罪者、禁を犯した者)らを預かって拘留している際に逃亡された場合は重罪に該当するので所領没収となり、財物は寺社に寄進して維持費用に充当するとの議定があった。ただし逃亡から三ヶ月は執行を猶予し、その間に拘束できなければ処分を行うなどの旨を侍所司に通達した。
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   ※小河直季: 武蔵七党の一つ西党の武士。本領は武蔵国の勅旨牧・小河牧(あきる野市小川・地図)らしい。
小河氏は後に薩摩国甑島(地図)に所領を得て土着している。
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   ※密懐: いわゆる密通。貞永(御成敗)式目の第34条には次の記載がある。
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人妻と密通をした御家人は所領の半分を没収、所領がない場合は遠流に処す。相手の人妻も同様に所領の半分を没収、所領がない場合は遠流に処す。
また、道路上で女性を拉致することを禁止し、その禁を犯した御家人の場合は百日間の出仕停止、郎従以下の武士は頼朝公からの先例に従って片側の髪を剃る。僧侶の場合は状況に応じて罰を決める。
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   ※三御精進: 4月2日に御所で「千度の御祓い」が行われている。これに伴う精進潔斎だろうか。
   ※侍所司: 御家人の統制や刑事事件に関する検断を行う幕府の組織。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月17日
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吾妻鏡
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若君(後の五代将軍藤原頼嗣)の御生髪があり、前武蔵守北條泰時が布衣を着してこれを務めた。毛利蔵人泰光・左衛門大夫定範ら父母が健在の諸大夫(四位および五位)が補助し、中原師員朝臣と後藤基綱らがこれを差配した。逐一雑掌(下働き)を呼ばず、将軍家の儀式として丁重に執り行った。
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   ※生髪: 幼児の頭髪を剃るのを止めて伸ばし始める儀式で髪置・櫛置とも。武家は数え年三歳で行なった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月18日
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吾妻鏡
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近年、西国の諸社の神人(神社の下級職員)や権門の寄人が主人の威光を翳して狼藉を行ない庶民に迷惑を掛けているとの噂があり、この件について評議を行なった。このような輩は荘園領主に通告して身柄を確保し、罪状の確認次第で鎌倉に連行するよう、六波羅に通達した。
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   ※寄人: 高位の家柄で働いたり、社寺や貴族が所有する荘園で働く下級職員。この場合は後者か。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月27日
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吾妻鏡
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前武蔵守北條泰時がやや体調不良。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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6月28日
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吾妻鏡
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評定衆による臨時の会議あり。故佐貫八郎時綱の養子太郎時信が訴えている(時綱の)後家・藤原氏の娘の改嫁(再婚)について決裁があり。式目(貞永式目)を布告する前の再婚は罪科に問わず。従って亡夫の遺領である上野 国赤岩郷は後家の領有と認める、と。対馬左衛門尉仲康(4月25日に記載あり)が奉行である。
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また左親衛(左近大夫将監)北條経時および甲斐前司大江(長井)泰秀が評定衆に加えられた。

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   ※上野国赤岩郷: 現在の千代田町赤岩(利根川北岸・地図)。5kmほど上流側
の新田荘近くには後醍醐天皇の忠臣として名高い児島高徳を葬ったと伝わる高徳寺がある。たぶん単なる伝承だろうが、新田義貞の弟で高徳らと転戦した南朝の忠臣・脇屋義助の本領がすぐ近くなので単純に否定する事もできない。
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右画像は尾形月耕(明治~大正期の日本画家)の「桜の詩」。
    画像をクリック→ 児島高徳と高徳寺(別窓)へ。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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7月3日
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吾妻鏡
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大納言僧都隆弁が将軍家(藤原頼経)の使者として、筥根山の般若嶺に参籠し大般若経十六会(16部600巻)の転読を行った。
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   ※般若嶺: 箱根権現の元宮がある駒ケ岳(旧称を般若ヶ嶺)を差す。こちらのサイトを参考に。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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7月4日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に地震。今日、御所の御持仏堂に於いて将軍家の息災を祈るため八万四千墓の泥塔供養を行なった。導師は宮内卿僧都承快。
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   ※泥塔供養: 紀元前5世紀頃に没した釈迦の遺骨を紀元前3世紀中盤
にマガダ国のアショーカ王が取り出して八萬四千の舎利に分骨し、新たな仏塔を造ったことに由来する。
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この仏塔を模した土製の小塔を供えて供養を行う風習が平安中期以降には盛んに行われ、京都の六勝寺や鳥羽離宮跡から多数出土している(右画像・クリック→ 拡大表示)
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円盤の形はインド古代墳墓の形を模したのが原形らしい。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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7月5日
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吾妻鏡
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前武蔵守北條泰時邸で七座(7人による)の泰山府君祭を行なった。泰時の体調不良による。
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神で生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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7月6日
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吾妻鏡
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左親衛北條経時と同・武衛北條時頼らが鶴岡上下宮(大石段の上と、石段の下右)で百度詣を行なった。
これは祖父(泰時)の息災と長寿を祈るのが目的である。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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7月8日
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吾妻鏡
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御所に於いて、定昌・泰貞・晴賢・資俊・国継・廣資・以平らが七座の泰山府君祭(7月5日を参照)を行なった。
御厩舎人(厩舎の係員)らが褒賞の御馬を庭に引き出した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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7月20日
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吾妻鏡
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北條泰時の体調不良は特に心配する程ではなかった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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7月26日
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吾妻鏡
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御台所(将軍藤原頼経の継室で正室・権中納言藤原親能の娘)が石山の局の里亭(私邸)に渡御した。辛蒜を食べるのが目的である。
夜に入り珍誉法印が大属星供を催し、また文元朝臣も属星祭を始めた。これらは将軍家の息災を祈るため上総国皆吉郷の知行権を寄進した事に拠る。
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   ※辛蒜: 蒜はニンニクなどの古名で精は付くが好ましい食べ物ではないとされた。葷酒山門に入るを許さず、か。
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   ※大属星供: 国土安穏・五穀豊饒を祈祷する星供養(星祭)が個人の守護星を供養する属星祭に発展したもの。
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   ※上総国皆吉郷: 現在の千葉県市原市皆吉(地図)、道の駅・あずの里市原の近くだ。静かで落ち着ける道の駅
だけど、周辺は関東でも一二を争うゴルフ場銀座だ。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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7月27日
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吾妻鏡
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今夕、定昌朝臣が如法(規則に従った)泰山府君祭を催した。これも将軍家(藤原頼経)のための祈祷である。
今月は将軍家が慎みを要する時期に当り、特に心を込めた祈りを行った。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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7月28日
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吾妻鏡
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大納言僧都隆弁が筥根山の般若嶺から鎌倉に戻った。
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   ※般若嶺: 箱根権現の本宮・奥の院である駒ヶ岳山頂の旧称、現在の元宮神社(公式サイト)を差す。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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8月7日
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吾妻鏡
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新造の北斗堂供養について、御所に於いて導師などの検討を行なった。開催の日時は陰陽師が兼ねてから来る25日を挙げていたが、間もなく九月節(9月9日は重陽の節句)を迎えることから息災を祈るには九月を避けるべきとの意見がある。今日陰陽師の安倍晴賢朝臣等を召して確認したところ、「五月と九月は齋月(行動を慎むべき月)ではあるが堂塔供養の先例もまた多くある」と答えた。これにより予定の変更は起きなかった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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8月11日
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吾妻鏡
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駿河四郎三浦家村(式部丞)が先月25日の除目の聞書(記録)を持参して推挙の礼を述べた。
6月27日付けで式部丞に任官である。
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   ※北條九代記: (8月12日の記録として、)北條経時が従五位に叙された。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会があり、将軍家(藤原頼経)が出御した。牛車を繋ぐ際に兵庫頭藤原定員が御剱を取り役人の上総式部丞千葉時秀(千葉(境)常秀の孫)に渡そうとしたところ御剱が鞘から抜けて濡れ縁に落ちた。
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これは両者の過ちではなく明らかな怪異である。すぐに左衛門大夫金窪行親を召してこの件について質問し、行親は「人と物は通じ合えないが太刀は神宝だからこの事態になったのだろう」と語った。
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行親は刀剣の鑑定に通じた人物で、その深い造詣を何回も披露している。この御剣については過日に夢のお告げがあった事も符合するため将軍家は信仰心を催し、この剣を走湯山(伊豆山神社)に献納するよう時秀に命じた。その後に出発して御参宮、若狭前司三浦泰村が御剱を持ち、近江四郎左衛門尉佐々木氏信が御弓箭を携えた。法会と舞楽の献納は通例の通り、酉刻(18時前後)に還御となった。
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夕方から空が晴れ渡り、将軍家は庭に面した広間の御簾を上げさせて明月を鑑賞した。前右馬権頭北條政村・相模三郎入道北條資時・式部大夫入道伊賀光宗・佐渡大夫判官後藤基綱らが参上してそのまま和歌の御会となり女房が懐紙(和歌を記す懐紙)を渡した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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8月16日
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吾妻鏡
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昨日に続いて将軍家(藤原頼経)が御参宮。大夫尉後藤基政二階堂行久らが供奉、馬場での神事は通例の通り。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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8月22日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に新造の北斗堂に三尺の北斗七星(妙見大菩薩・wiki)像および一尺の二十八宿と十二宮神像を各々一 体と三尺の一字金輪像などを安置し、夜になって堂を鎮護する祈祷を行なった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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8月25日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に北斗堂の落慶供養があり将軍家(藤原頼経)が御束帯・牛車で御参堂。曼陀羅供の法要は大阿闍梨卿僧正快雅による。執蓋(渡御の際の日傘)は肥前太郎左衛門尉佐原胤家、兵庫頭藤原定員と石見前司大江能行が日傘を支える綱を執った。讃衆(供僧)は八人、前隼人正伊賀光重が会場全体を差配した。
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  供奉人の行列
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    前駈(下臈(官位が下の者)が先)
       周防前司中原親實   能登前司伊賀仲能   少輔左近大夫将監大江佐房
       左近蔵人毛利季光   白河判官代安倍為親
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    御後
       前右馬権頭北條政村   宮内少輔足利泰氏   左近大夫将監北條経時
       陸奥掃部助北條実時   備前守北條時長   若狭前司三浦泰村
       越後掃部助北條時景   佐渡前司後藤基綱   秋田城介安達義景
       能登守三浦光村   下野前司宇都宮泰綱   太宰少貳狩野為佐
       大蔵権少輔結城朝広   壱岐前司佐々木泰綱   前大蔵少輔下加藤(遠山)景朝
       出羽前司二階堂行義   伊賀前司小田時家   信濃民部大夫二階堂行泰
       左衛門尉小山五郎長村   左衛門尉関政泰   左衛門尉薬師寺(古山)朝村
       大曽禰兵衛尉長泰   駿河左衛門尉三浦五郎資村   左衛門尉三浦(佐原)五郎盛時
       大多和新左衛門尉   左衛門尉伊賀次郎光房   左衛門尉安積六郎祐長
       加藤左衛門尉行景   左衛門尉武藤景頼   左衛門尉後藤説尚
       左衛門尉宇佐美祐政   宇都宮五郎宗朝左衛門尉   大隅太郎左衛門尉重村
       左衛門尉太宰三郎為成   弥善太左衛門尉三善康義
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    廷尉
       佐渡大夫判官後藤基綱   大夫判官宇都宮頼業   隠岐大夫判官二階堂行久
       判官河津尚景   判官笠間時朝
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    随兵十二騎(最末)
       兵衛尉北條五郎時頼   遠江式部大夫北條時章   掃部助河越泰重
       駿河式部大夫三浦家村   修理亮上総政秀   武田六郎信長
       大須賀七郎左衛門尉重信   近江左衛門尉佐々木四郎氏信   左衛門尉和泉次郎景氏
       左衛門尉伊賀三郎祐盛   兵衛尉上野五郎重光   左衛門尉梶原景俊   武藤景頼
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   ※河津尚景: 宝治元年(1247)6月14日の吾妻鏡に「今日、三浦駿河三郎員村(系図の位置が不明)子息の
幼児が囚人として河津伊豆守尚景に預けられた。」とある。尚景は 加藤景廉の次男で加藤景朝の弟、詳細の確認はしていないが河津郷を得て河津姓を名乗ったと推測される。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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8月28日
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吾妻鏡
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今日、評議あり。訴訟の際に両方の訴人が対決する場合は懸物状を提出することを定めた。
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   ※懸物状: 原告と被告が奉行所に提出した文書で、敗訴した場合は係争した所領の一部を相手方に引き渡す
旨を書いた誓約の文書。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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9月3日
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吾妻鏡
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信濃国の住人奈古又太郎は承久三年(1221)大乱の際に勲功を挙げたにも拘らず恩賞から漏れた事を常々嘆いていたが、適当な土地がないとの理由で長い年月を虚しく過ごしていた。運に恵まれなかった武士が多い中で奈古の軍忠は特に優れているから恩賞に値するとの故匠作北條時房の遺命もある。
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左親衛北條経時その趣に沿うため彼の上申書に推薦の言葉を添えて御澤奉行人(恩賞担当)の中原師員朝臣に送付した。師員の返状は次の通り。
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奈古又太郎が申請した勲功の賞については書類にして早急に申請します。 北條大夫将監殿(御返事)
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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9月7日
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吾妻鏡
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臨時の評定が行われた。出羽前司二階堂行義の奉行として細工所の輩に恩賞の沙汰があり、野世五郎が相模国横山五郎の遺した新田および垣内(付随する集落)を拝領した。これは細工人の故日向房實圓に支給された土地で、娘が相続を主張したが實圓個人ではなく細工所の技能に付与されていたものである、と。
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   ※細工所: 朝廷や国衙や幕府などに置かれた組織で、調度類の制作や加工を担当した手工業者の工房。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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9月9日
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吾妻鏡
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(重陽の節句に伴う)鶴岡八幡宮の神事は通例の通り。将軍家(藤原頼経)の御参宮あり。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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9月10日
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吾妻鏡
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朝廷に於ける御禊ぎと大甞会の費用負担について、田地一段(反)あたり銭200文を献納せよとの宣下があった。関東御分国および没官領の場合は直接朝廷に納付し、その他の地頭分については今日の評議により10月までに処理せよとの御教書(命令書)が発行された。
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   ※関東御分国: 朝廷を介さず幕府が直接支配した知行国。時期により変動があり、仁治二年の時点では駿河・
武蔵・伊豆・相模・越後・遠江・陸奥・備前。
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   ※没官領: 平家滅亡により幕府が没収した土地、および承久の乱により朝廷と敵対した公卿から没収した土地。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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9月11日
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吾妻鏡
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洛中の警備について厳命が下された。篝屋(篝火を焚く警備拠点)を辻々に設置する薪の経費として一ヶ所当り毎年千疋分を支給し、その費用を拠出する土地に対しては幕府の労役や守護の関与を禁止する。
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   ※疋: 通貨の単位だが銭(文)との換算が不明確で、一疋=10文または30文との例がある。鎌倉時代中期の
玄米価格は一石(約1500kg)当り1000文前後、10kg換算で七文前後だったらしい。
一疋=20文と仮定すると、現代の精米10kg(小売価格が3000円前後として)篝屋で使う薪の年間経費千疋は60,000円に該当する。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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9月13日
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吾妻鏡
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今夜御所の広間出居(客室部分)に於いて柿本影供を行なった。卿僧正快雅が式伽陀(讃歌)を読詠し、前髪の稚児は羅喉丸・如意丸・摩尼珠丸・妙珠丸。管弦の稚児および楽士も傍らに控え、その後に和歌を詠み合った。
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前右馬権頭北條政村・陸奥掃部助北條実時・相模三郎入道北條資時・佐渡前司後藤基綱・同大夫判官後藤基政・三浦能登守三浦光村・式部大夫入道伊賀光宗・河内式部大夫親行(源光行の嫡子で和歌奉行)らが参席した。
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   ※柿本影供: 平安時代後期の歌人藤原顕季が始めた歌聖柿本人麻呂を祭る儀式。人麻呂を神格化して肖像を
掲げ、和歌を献じて歌道の研鑽を願った。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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9月14日
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吾妻鏡
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左親衛北條経時が狩猟のため藍澤に向かった。若狭前司三浦泰村・左衛門尉小山五郎長村・駿河式部大夫三浦家村・同五郎左衛門尉三浦資村・下河邊左衛門尉行光・左衛門尉海野太郎長氏(海野幸氏の嫡子)らが同行し、甲斐と信濃両国の御家人数輩が猟師たちを伴って待機していた。
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   ※藍澤: 足柄峠の西麓一帯(現在の御殿場市東部)の古名が藍澤原、
頼朝頼家も狩猟のため数回訪れている。
承久の乱終結後に鎌倉に連行される途中の中納言藤原宗行がこの地で斬首され藍澤五卿神社(別窓)に祀られている。
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    右画像をクリック→ 藍澤五卿神社の詳細(別窓)へ。
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ちなみに御殿場の地名は家康が駿府と江戸を往復する中継地として現在の吾妻神社近く(地図)御殿を建てたことによる。
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また家康の遺骸を久能山東照宮から日光東照宮に移送する中継地点に一泊するため御殿を建てたと考える異説もある。
その両方かも知れないし、いずれにしても家康がらみか。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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9月15日
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吾妻鏡
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月蝕が完全に確認され、これに対応して圓親法印と珍譽法印が祈祷を催した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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9月22日
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吾妻鏡
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左親衛北條経時が藍澤の狩猟から帰還、数日の間山野を駆け回り多くの熊や猪や鹿を獲た。その中で熊の一頭は経時が引目(の矢)によって射取めたもので、先代未聞の珍事だと諸人一同を驚かせた(自殺願望の熊か)。
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また下河邊左衛門尉行光は幼少の頃から大田や下河邊の僻地に住み(藍澤のような)狩場に馴れている、腕前を試してやろうと考えた朋輩が獲物を行光の近くに追い出したが、行光は狙いを違えず確実に射止めた。
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若狭前司三浦泰村「行光は代々から弓の名手と言われた家柄に加えて毎年那須の狩場で鍛えているうえに大勢が行光の前に獲物を追い立てている。獲物の多さは当たり前だ。」と嘆いてみせた。
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   ※引目の矢: 鏃を装着しない鏑矢の一種。明けた穴が音を立てること
から響目(ひびき目)、また穴の位置がひき蛙の顔に似ていることから名づけた、とも。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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10月9日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に大流星が天を横切った。その跡が白い雲となって暫く消えず、人々はこれに危惧を覚えた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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10月11日
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吾妻鏡
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雨。御所に於いて和歌の御会あり。前右典厩北條政村隆弁僧都・河内式部大夫親行(源光行の嫡子で和歌奉行)・佐渡前司後藤基綱と同大夫判官後藤基政伊賀光宗らが加わった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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10月13日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に地震あり。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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10月19日
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吾妻鏡
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群盗の首領新平太郎と同八郎・田井十郎らが逃亡して行方不明となった。大和国に潜んでいるとの噂があり、身柄を拘束して引き渡すよう興福寺の別当僧正坊に通告した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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10月22日
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吾妻鏡
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武蔵野を開墾して水田を拓く計画が決定した。そのために多摩河の水を堰から引き込むべきか、犯土(土木工事による掘削)を必要とするのか、将軍家による公共事業とすべきか、私計(武蔵守北條泰時の私的事業)とすべきか、安易には決裁できない。
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今日、北條泰時が陰陽師の安倍泰貞と晴賢らを集めて検討させた。各々の意見は以下の内容だった。
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堰や田畑の耕作などは方角の良し悪しの制約を受けないが既に検討を始めているのだから大犯土と考えるべきか。将軍家の事業でなくても方違えは必要で、それを避けたいなら国司の事業とすべきである。
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これを受けた泰時の決済は次の通り。
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国司の事業であっても耕作が始まれば御所の配慮として人々に与えるのだから御所の事業でもある。
北方は今年の王相(避けるべき方角)で、明年からは大将軍方(犯土には凶)となる。御方違えを考える場合の本所(基点)を確認せよ。
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武藤左衛門尉頼親が安倍泰貞と晴賢を伴い奉行として武蔵国海月郡を訪れ、対象としているのは更に北方(亥方)だと確認し泰時邸に戻ってその旨を報告した。秋田城介安達義景の所領である同国鶴見郷を方違えの御本所(基点)とするべきとの意見が陰陽師らに共通している。
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摂津前司中原師員・蔵人大夫入道西阿(毛利季光)・民部大夫入道行然(二階堂行盛)・佐渡前司後藤基綱・出羽前司二階堂行義・秋田城介安達義景・太宰少貳狩野為佐・加賀民部大夫町野(三善)康持らが協議して結論を定め、二階堂行義と安達義景を安倍泰貞・晴賢に同行させて御所に報告した。
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将軍家(藤原頼経)は御前に呼んで詳細報告を受け、次のように下問した。
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冬至以後の鶴見は艮方(北東の鬼門)で王相方の方角である。塞方(凶の方角)に方違えを始めるのは憚られるから冬至の前に行うべきか、何日を用いるのが良いか。
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安倍泰貞らは「適しているのは来月の4日、その後は立春の頃に御方違えに向いている。」と上申した。
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今夜半、亀谷の付近で突然の騒動があり、程なくして鎮まった。群盗が武蔵大路の民家に押し入り、隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清と左衛門尉加地八郎信朝および近隣の武士が駆け付けて捕らえたものである。
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   ※海月郡: 別称を久良肢郡、現在の鶴見地区(地図)に広がっていた沼沢地の開墾を目指したらしい。
   ※佐々木泰綱: 佐々木義清の次男で信濃守などを歴任、隠岐と出雲両国の守護職で六波羅評定衆。
   ※加地信朝: 加地信実の末子で佐々木盛綱の孫。泰綱は信朝の叔父にあたる。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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11月3日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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畿内および西海の悪党が徒党を組んでいる事および諸国での賭博を禁止する事について評議を行なった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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11月4日
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吾妻鏡
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晴。今朝、将軍家(藤原頼経)が武蔵野開発の御方違えのため秋田城介安達義景の武蔵国鶴見別庄に渡御した。将軍家は布衣(狩衣・簡易な礼装)で三人が御輿を担ぎ供奉人は水干、宿老は野箭(狩猟用の矢)を、若者は征矢(戦闘用の矢)を帯びた。各々が装いを凝らした様子は極めて壮観である。
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前武蔵守北條泰時も参上し、将軍家が申刻(16時前後)着御、すぐに笠懸が始められた。勝負を決め、鎌倉に戻ってから所課(賞)を定めようとの仰せがあり、各々矢の数を確認した。
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  射手
     大夫将監北條経時   武蔵守北條朝直   相模式部大夫北條時直
     兵衛尉北條五郎時頼   遠江式部大夫北條時章   陸奥掃部助北條実時
     壱岐前司佐々木泰綱   若狭前司三浦泰村   後藤大夫判官後藤基政
     上総式部大夫千葉時秀   左衛門尉伊賀次郎光泰   左衛門尉佐原(三浦)五郎盛時
     上野十郎結城朝村   左衛門下河邊次郎宗光   左衛門尉加地(佐々木)八郎信朝
     城次郎頼景(安達義景の庶子で次男)   小笠原六郎時長   兵衛尉佐原六郎時連(佐原盛連の六男)
     左衛門尉小山五郎長村   駿河式部大夫三浦家村
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  念人(勝負事の際の応援・世話役)
     御所(将軍藤原頼経)   前武蔵守北條泰時   宮内少輔足利泰氏
     遠江前司北條朝時   右馬権助北條政村   蔵人大夫入道西阿(毛利季光
     甲斐前司長井泰秀   駿河守北條有時   秋田城介安達義景
     佐渡前司後藤基綱   能登守三浦光村   大蔵少輔遠山(加藤)景朝
     下野前司宇都宮泰綱   大蔵権少輔結城朝広   出羽前司二階堂行義
     大和前司伊東祐時   太宰少貳狩野為佐   加賀民部大夫三善(町野)康持
     信濃民部大夫二階堂行盛   伊賀前司小田(筑後)時家   近江四郎左衛門尉佐々木氏信
     但馬守藤原定員
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  その他の供奉人
     隠岐大夫判官二階堂行久   隠岐前大蔵少輔二階堂行方   判官笠間時朝(嘉禎四年5月20日を参照)
     左衛門尉大須賀重村(千葉氏庶流)   隠岐次郎左衛門尉泰清(佐々木義清の次男)
     大多和新左衛門尉(三浦氏庶流)   左衛門尉大隅重村(薩摩に土着した三浦氏庶流)
     右衛門尉三村時広   左衛門尉狩野五郎為広(親光の嫡子)
     左衛門尉加地七郎氏綱   左衛門尉加藤行景(遠山氏?)   左衛門尉宇佐美祐政(祐茂の子)
     左衛門尉弥次郎親盛   弥善太左衛門尉三善康義(三善氏系図に記載なし)
     信濃四郎左衛門尉二階堂行忠   左衛門尉武藤頼親   兵衛尉長尾三郎光景(定景三男)   土肥次郎
     田中太郎   和泉七郎左衛門尉天野景経(天野政景の六男)   左衛門尉宇都宮五郎宗朝 (頼綱の七男)
     前隼人正伊賀光重(光宗の弟)   蔵人毛利泰光(季光三男)   但馬左衛門大夫藤原定範
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   ※鶴見別庄: 畠山重忠が滅亡した元久二年(1205)6月22日の二俣川合戦に次の記載がある。
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追討の軍兵は一番乗りを目指して襲いかかった。
中でも安達景盛は郎党の野田與一・加治次郎・飽間太郎・鶴見平次・玉村太郎・與籐次らを率いて主従七騎が真っ先に進み弓を構えた。
これを見た重忠は「竹馬の友である景盛が真っ先に来るとは嬉しい限りだ」と語り、(次男の)重秀は「命を惜しまず攻めて来い」と声をかけた。

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鶴見平次の館は現在の総持寺(公式サイト・地図)付近と推定され、現在の鶴見川東岸の一帯は現在でも海抜2~5mの低地が広がっている。総持寺敷地から西は25~40mの台地となるため、安達氏の鶴見別庄も総持寺の付近にあったと考えるべきか。
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右画像は鶴見川と多摩川に挟まれた低湿地帯。流程の短い鶴見川ではなく水量の多い多摩川による灌漑を考えたらしい。低湿地帯の概略面積は東西5km×南北5km程度か。
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   ※結城朝村: 結城朝光の八男。嘉禎四年(1238)5月16日に二条良実邸で弓の妙技を見せている。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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11月5日
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吾妻鏡
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(将軍家が)鶴見から還御、そのついでに海辺を遊覧された。また犬追物(三十疋)あり。
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   ※犬追物: 流鏑馬・笠懸と並ぶ騎射三物の一つ。時代により変遷は
あるが、最も大きな催し物の場合は40間(約72m)四方を囲って馬場とし、12騎×3組の騎馬武者と2騎の判定者(検見)が入場して150匹の犬を追い込み、所定の時間内に何匹を射たかを競った。
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もちろん矢には鏑を付けて殺傷能力を減じているが、犬にとって苦痛なのは間違いない。犬派の私としては許しがたい蛮行である。もちろん猫でも同じ。
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右画像は土佐光茂が六角氏の居城観音寺城本丸の障壁画として描いた「犬追物図」の模本を更に部分的に模写したもの。画像は明治時代の作で、原本の障壁画は弘治元年(1555)前後の作、既に失われた。)
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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11月17日
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吾妻鏡
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晴。まだ老齢にも達せず病気でもない御家人が許可を得ずに出家し、そのまま所領を知行し続けている例や、鎌倉の御恩を受けて所領を与えられながら京都に居住している例もある。今後はこれらを禁止するべきか、との評議が行われた。 また、将軍家の若君(後の五代将軍藤原頼嗣)の御魚味(魚の食べ初め)などについても評議した。
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今日、箕匂太郎師政が去る承久 三年(承久の乱)での勲功により武蔵国多摩野の荒野を拝領した。これは父の左近大夫政高が故匠作(北條時房)の軍陣に加わり、勢多橋の合戦で顕した功績を認めるよう求めていたが、適当な土地が見当たらないため延引していたもので、今回の新田開発を充当する配慮である。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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11月21日
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吾妻鏡
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晴、風が鎮まった。今日の未刻(14時前後)、御所南面の簾中で将軍家若君の御着袴と魚の食始めが行われた。先ず魚味、次に御着袴である。承久の佳例に倣って前武蔵守北條泰時が腰紐を結んだ。陪膳(給仕)は北條大夫将監北條経時、運び役は筑前権守水谷重輔、その手伝いは彌次郎左衛門尉親盛と但馬左衛門大夫定範が務めた。その後に始めての綿衣を着した。
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   ※承久の佳例: 21年前の承久二年(1220)12月1日の吾妻鏡に以下の記載がある。
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定刻を迎えて左衛門尉後藤基綱が広い蓋の箱に収めた着袴の装束を持って前に進み、北條義時が袴の紐を結んだ。二品(政子)が若君を補助し、次いで兵具の献上が行われた。剣は北條泰時、弓箭は前武州足利義氏、刀は三浦義村、兜(鎧を収めた唐櫃の蓋に載せる)は結城朝光長沼宗政が運んだ。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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11月25日
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吾妻鏡
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今夕、前武蔵守北條泰時邸で酒宴があり、親衛北條経時・陸奥掃部助北條実時・若狭前司三浦泰村・佐渡前司後藤基綱が集まった。 信濃民部大夫入道二階堂行盛・民部大夫三善(太田)康連ら数人の文官も加わって世間話や政道の事について話し合った。
泰時が親衛(経時)に忠告して「学問に励む事は結果として武家による執政に役立つ。諸般については陸奥掃部助北條実時に相談し、互いに助け合う関係を保つように。と。今夜の会合ではこれが最も貴重な教訓だった。
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   ※泰時の忠告: 跡を継ぐ筈の実子二人(時氏・時実)を続けて失った泰時は孫(時氏の嫡子)の経時(現在17歳)
を後継の執権と定めている。経時と同年齢で温厚な実時に補佐を委ね、名越流の北條朝時一門など反主流派を抑える役割を期待し、酒席を利用して告知したのだろう。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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11月27日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)から、現在の関東に於ける射手の姿を描いて残したいとの沙汰があり、今日評定のついでにその人数を書き出した。陸奥掃部助北條実時・若狭前司三浦泰村・佐渡前司後藤基綱・秋田城介安達義景らが審査し、京都の求めに応じるため選び出した。
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r> 前武蔵守北條泰時の祇候人(被官)で技術の優れた者を加えるか否かが議論になり、再往の沙汰(再検討)となった。泰時は辞退の意向を見せているが、今は北條被官である彼らも元々は御家人で公職を務める立場、除外する理由はないとの決定に至った。横溝六郎義行・山内左衛門次郎がそれに含まれている。
ただし泰時は横溝については頻りに辞退した。これは片目に疵があるのが理由だろうか。
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   ※京都の求め: 主語が曖昧だが、朝廷から「将軍頼経時代の弓の名手を絵像に残したい」と求められたらしい。
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   ※横溝義行: 吾妻鏡の初出は承応元年(1222)7月3日、以下の記載がある。
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讃岐中将(一条実雅)が大倉の屋敷で百日連続の小笠懸を始めた。毎日の日の出前、あるいは涼しくなった頃に集合するよう数人と約束を交わした。
今日の射手として結城七郎朝廣・駿河次郎泰村・同四郎家村・小笠原六郎時長・佐々木太郎兵衛尉重綱・同八郎信朝・伊東六郎兵衛尉・嶋津三郎兵衛尉忠義・原左衛門尉忠康・岡辺左衛門尉時綱・横溝五郎・同六郎・伊具右馬太郎盛重が参加した。
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横溝氏の出自には諸説(相模・近江など)あって確定し難いが当初から北條被官だった可能性がある。太平記には義行の同族と思われる横溝八郎主従が元弘三年(1333)の関戸河原の合戦で主人の北條泰家を逃がすため壮烈な戦死を遂げる場面が描かれ、多摩ニュータウンには八郎の墳墓「武将塚」が残されている。多摩・関戸の合戦)を参照されたし。
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しかし...権力構造が固まると、権力者の周囲には「言われる前に「意向を忖度して」追従する人物が増えてくる。これは北條得宗の治世でも現代でも同じだね。
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総裁任期の延長を画策し、議場では起立して安倍晋三の拍手に同調する愚か者が典型的な例。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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11月29日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に若宮大路の下の下馬橋付近で騒動が起きた。小山一族と三浦の輩が喧嘩となり、双方の縁者が駆け付けて一触即発の事態となった。これを聞いて驚いた前武蔵守北條泰時はすぐ佐渡前司後藤基綱平盛綱を送ってこれを宥め、双方を沈静化させた。
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この事件の発端は若狭前司三浦泰村・能登守三浦光村・四郎式部大夫三浦家村の兄弟と親類が下の下馬橋西側の知人宅で盛大な宴会を開いており、一方で下馬橋の東側では大蔵権少輔結城朝広・左衛門尉小山五郎長村・長沼左衛門尉時宗(長沼(小山)宗政の嫡子)らの一門が同様に酒宴を開いていたのが背景にある。
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ここで上野十郎朝村(朝広の弟)が座を起って遠笠懸を行うため由比浦に向かうところで先ず門前で犬を射て追い出したのだが、その矢が誤って三浦一族の宴会場に飛び込んでしまった。
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朝村は雑色を送って矢の返却を願ったが三浦家村は返却を拒み、これが原因で罵り合いに発展してしまった。両家は元々親密な間柄で互いに遺恨などを抱いておらず、今日の紛争は魔が差した結果だろう。
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   ※下馬橋東: 正確な位置は不明だがこの付近には小山朝政邸があったらしい。 佐助稲荷(参考サイト)近くから
流れてきた佐助川が裁許橋を経て若宮大路を過ぎる地点が下の下馬橋となる。
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鎌倉時代初期の裁許橋近くには問注所(裁判所)跡の碑があり、重罪判決を受けた罪人は裁許橋を渡って飢渇畑と呼ばれた処刑場で斬首なった。罪人の霊魂を地獄から救って弔ったのが六地蔵(和田塚の中盤を参照)だったと伝わっている。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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11月30日
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吾妻鏡
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駿河四郎式部大夫三浦家村と上野十郎朝村(結城朝広の弟)が出仕停止の処分を受けた。昨日の喧嘩は彼等の武勇自慢から起きたもので、同様に叱られた輩も多い。特に親しくもないのに縁戚を称して二手に分かれ、当事者のように争ったのが理由である。また左親衛北條経時が武装した祇候人(被官)を若狭前司三浦泰村宛に派遣したが、武衛北條時頼は双方の言い分を受け付ける事もしなかった。
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結果として、北條泰時は次のように注意を与えた。
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各々は将来の将軍家を補佐するべき立場であり、御家人に対し異なる基準で対応してはならない。経時の対処は軽率であり当分の出仕を禁じる。時頼の配慮は道理に適っており、追って報奨があるだろう。
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次に若狭前司三浦泰村・大蔵権少輔結城朝広・左衛門尉小山五郎長村を呼んで叱りつけた。それぞれは恐縮して弁解すらできなかった。
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一族を束ねる棟梁として行動を慎み不慮の凶事を防ぐべき立場なのに武威を 誇って身を滅ぼす危険を招くのは愚かである。今後は特に謹慎せよ。
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今日、駿河守北條有時から評定衆辞任の申請が提出されたが認可されなかった。
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   ※時頼を褒める: 長期政権を樹立した執権を持ち上げるのは吾妻鏡の常套手段、これも一種の曲筆と言える。
泰村を批判したのも、6年後の宝治合戦で泰村が滅亡することの布石だとも考えられる。特に失政の記録がない二代将軍頼家の素行を再三指摘したり、泰時を褒め上げたた事と同様の作為。経時も標準以上の人物だが、吾妻鏡は泰時・時頼・時宗が贔屓だから。
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   ※評定衆辞任: 北條有時はこの年の前半に評定衆に任じており、辞任申請の理由は不明。北條一族での序列
が最下位だった事も一因か。寛元元年(1243)になって病気を理由に辞任を許されている。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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酒宴などを行なう際に風流菓子(果物など)を飾ったり料理を載せる盆などの器に漆で絵を描くような贅沢な行為は御所以外では全面的に禁止すると御家人らに告知した。豪奢な行いを禁じる布告は既に発しているが、ややもすれば違犯する恐れもあるため改めての通告である。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月5日
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吾妻鏡
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武衛(北條時頼)が前武蔵守北條泰時から一村を拝領した。これは御所での宿直任務を真摯な姿勢で勤めているのが理由である。前の武州泰時が体調を崩した時だけでなく、成人してから毎月六昼夜の当番を精勤している。
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また左親衛(北條経時)の出仕停止が今日許された。前右馬権頭北條政村や若狭前司三浦泰村らの執りなしによるもので、同様に駿河式部大夫三浦家村と上野十郎朝村(結城朝広の弟)も同様に出仕を許された。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月8日
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吾妻鏡
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小侍所(将軍家近臣の部署)の勤務割りを変更し、一つの勤番毎に諸般の技能・芸能に秀でた者を必ず一人加えるようにした。手跡(書道)・弓馬・蹴鞠・管弦・郢曲(俗曲・歌謡)など、将軍家の好みに合わせて一芸に習熟するように、陸奥掃 部助北條実時を通じて周知させた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月11日
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吾妻鏡
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夜になって御所に於いて安倍泰貞朝臣大土公祭を行なった。将軍家(藤原頼経)もその庭に臨席した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月13日
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吾妻鏡
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六波羅の事務処理について、問注奉行人(訴訟の担当者)の業務が遅延しているとの噂があり、時刻を定めて関東に届けるよう(六波羅の)相模守北條重時に通知した。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月21日
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吾妻鏡
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夜になってから小侍所の小庭で将軍家若君(後の五代将軍藤原頼嗣)の御乗馬初めを行なった。
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前武蔵守北條泰時がこれを補佐し、遠江守北條朝時・前右馬権頭北條政村・前宮内少輔足利義氏・甲斐前司大江(長井)泰秀・秋田城介安達義景・下野前司宇都宮泰綱・壱岐前司佐々木泰綱・佐渡前司後藤基綱・出羽前司二階堂行義・太宰少貳狩野為佐・大和前司伊東祐時・大蔵少輔遠山(加藤)景朝・大蔵権少輔結城朝広以下の数人が庭上に列座し、近江四郎左衛門尉佐々木氏信が御馬を引き出した。
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若狭前司三浦泰村が若君を抱き上げ、左衛門尉小山五郎長村が御鐙を抑えた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月24日
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吾妻鏡
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多磨河の流路を変えて堰から武蔵野に揚水し水田を開く命令を既に発している。柏間左衛門尉・多賀谷兵衛尉・恒富兵衛尉らがこの開拓の差配に当たり、今日現地に向け出立する。
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   ※水田を開く: 地図および鶴見別庄は11月4日の記載を参照。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月27日
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吾妻鏡
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伊豆入道光蓮(武田(石和)信光)が次男の信忠(通称を悪三郎)を義絶(勘当)すると御所および前武蔵守北條泰時に申し入れている。公私の両面で功績を挙げた息子であり、泰時はどのような過失による処分なのかを尋ね宥めようとしたが、許容し難い事が数件あるとして撤回しなかった。
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今日光蓮が泰時と面談するにあたり、信忠もその場に推参して次のように語った。
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私は父に孝行を尽くす事を怠っていないのに義絶とは何事でしょう。去る建暦年間の和田合戦の際には誰もが 朝夷名三郎義秀の武威を恐れて対戦を避けていた時、父の光蓮は武蔵守(北條義時)殿を探して若宮大路東の米町前を経て由比ヶ浜に向かっていました。
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義秀は牛渡津橋を西側に渡り御所を目指して駆ける所で父と出会い、各々が相手を妻手番(右側)に見て遭遇しました。義秀は光蓮を見て馬を進めようとし、光蓮は目を合わせず浜に向かおうとしたが既に矢を射る頃合に入ったため、馬首を西に向けて弓を取り直しました。
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私はそれを見て父の身代わりになる覚悟で両者の間に割り込みましたが、太刀を抜いた義秀は一瞥して軽く言葉を掛けたまま戦わずに駆け抜けました。これは私の力を知っていたからでしょう。
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また承久の乱の際には京方の陣地を攻める度に一番乗りを果たし、共に戦った舎弟たちの功績も私に及ぶものではありませんでした。これらは亭主(泰時)殿も御存知の通りであり、父が息子を憐れむ心を忘れているとしても上司としての助言を頂ければ幸いです。
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これを聞いていた泰時は涙を浮かべ、「双方に仔細はあるだろうが私に免じて許してくれないだろうか」と光蓮に問いかけた。
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光蓮は「お言葉を重く受け止めるのは勿論ですが、この件については枉げて認めて頂きたい」と答え、信忠に向かって「お前の言っていることに嘘はない、武略に於いては見事な働きを見せてきた。私の慈愛もお前の孝心も忘れてはいないが、様々に考えた上での義絶である。己の狂気を充分に考えよ。」と語った。泰時はそれ以上の言葉を掛けられず信忠も虚しく座を去り、見ていた者は皆彼を哀れんだ。
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   右画像は下馬交差点東側のスタンド前の「下の下馬橋」碑。裏手が滑川に架かる延命寺橋となる。
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   ※武田信光: 甲斐源氏棟梁の座を握るため実兄の一條忠頼板垣兼信逸見有義を裏切り、結果として父親の
武田信義まで破滅に追い込んだ人物。個人的に嫌いなタイプなので彼の言葉は信用しない。
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   ※牛渡津橋: 名前も含めて現存しないが、下の下馬付近の若宮大路の東側・米町付近なら滑川に架かる橋で、
現在の延命寺橋(11月26日に載せた地図を参照)が考えられる。延命寺は北條時頼の室(正室の毛利季光娘か継室の北條重時娘か不明)が開いた浄土宗の寺。正確な創建年代は不明だが仁治二年には存在しなかった。従って当時の名前が牛渡津橋だった可能性がある。
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   ※妻手番: 体を右に捻って右手の敵を射る場合も例外的にあるが、騎馬での矢戦は敵を左に見るのが原則。
若宮大路を右に見て由比ヶ浜に向かう信光と西側を八幡宮方面に向かう義秀が矢を射るには方向転換が必要になる。信光と義秀の出会いは吾妻鏡の建暦三年(1213)5月2日に記載あり。
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   ※己の狂気: これは意味が掴めない。3月25日に記載のある海野幸氏との係争に信忠が何らかの関与をした
可能性もある。また信忠の武勇に関しては義秀に対抗できるレベルではない。
応保2年(1162)生まれの信光の次男または三男だから和田合戦の際は23歳前後。信忠自身も歴戦の猛者・義秀と一騎打ちは死を覚悟しての行為だろう。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月28日
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吾妻鏡
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言を左右にして祈祷に関する費用の負担分を納付していない者は名簿に記載し、不忠の行為として厳罰に処すよう政所に命じた。担当奉行は中原師員である。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月29日
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吾妻鏡
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若君(後の五代将軍藤原頼嗣)の近くに仕える祇候人の数を定めて六組を構成した。将軍家(藤原頼経)の例に倣い、撫物(穢れを移して流す人形など)の担当や御格子を上下する役などを細かく定めた。陸奥掃部助北條実時がこの奉行を務めた。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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12月30日
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吾妻鏡
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前武蔵守北條泰時が右幕下(頼朝)と右京兆(北條時房)の法華堂に参拝し、また獄囚や乞食への施しを行なった。担当奉行は三津籐二、その後に山ノ内巨福礼の別宅に渡御し秉燭以前(暗くなる前)に執権邸に戻った。
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   ※山ノ内巨福礼: 山ノ内ならば嘉禎三年(1237)に泰時が開いた大船の粟船山常楽寺だが、大船までを巨福礼
(巨福呂坂)のエリアに含めて良いのかどうか。むしろ建長五年(1253)に蘭渓道隆が開いた建長寺(公式サイト)になった場所に別邸があったと考える方が理に叶っている、かも。
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常楽寺は嘉禎三年(1237)12月に泰時の後妻(安保実員の娘だろう)が亡き母の菩提を弔って建てた堂が原型で、半年後の6月に死没する泰時の墓所でもある。
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現在の臨済宗に改めたのは渡来僧の蘭渓道隆(wiki)、彼の来日は寛元四年(1246)で鎌倉入りは1250年前後だから、仁治二年当時はまだ密教寺院だった。
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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 月 日
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吾妻鏡
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予備
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西暦1241年
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87代 四条天皇
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仁治二年
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吾妻鏡
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西暦1241年
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吾妻鏡
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