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仁治三年(1242年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1242年
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87代 四条天皇
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仁治三年
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 月 日
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史 料
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この年は吾妻鏡の記載なし、散逸と推測される。
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四条天皇の崩御(1月)、泰時の死没(6月)、佐渡院・順徳天皇崩御(9月)、など幾つかの事件あり。
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   ※年令: 三代執権北條泰時は58歳・ 四代執権になる北條経時は17歳・五代執権になる北條時頼は14歳・
六代執権になる北條長時は12歳・ 七代執権になる北條政村は37歳・ 北條朝時は49歳・
三浦泰村は58歳・ 足利義氏は53歳・ 結城朝光は74歳・ 将軍藤原頼経は1月16日で25歳・
四条天皇は1月9日に10歳11ヶ月で崩御、後継は第88代後嵯峨天皇(21歳)。(全て満年齢)
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西暦1242年
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87代 四条天皇
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仁治三年
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1月8日
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史 料
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   ※北條九代記: 丑刻(午前2時前後)に帝(四条天皇)が閑院清涼殿で崩じた(12歳)。
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北條九代記とは...鎌倉時代末期編纂の歴史書で編者は不明。寿永二年(1183)~元弘二年
(1332)の鎌倉幕府関連の重要事件などを編年体で記録している。
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   ※次期天皇: 五代帝王物語(鎌倉時代後期の歴史物語)は、「四条天皇は近習や女房を転ばせて楽しもうと考え
御所の廊下に滑石(wiki)を撒き、誤って自らが転倒したことが直接の死因である」と書き、百錬抄(鎌倉時代後期の歴史書)は崩御の数日前に起きた事故」と書いている。
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四条天皇には兄弟も皇子もなかったため皇位を継承できる皇子は絶え、九条道家ら有力公卿は次期天皇として順徳上皇の第五皇子(忠成王・岩倉宮、21歳)を推したが...
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承久の乱を主導した後鳥羽上皇と順徳上皇の系統を嫌った幕府(泰時)はそれを拒否し、11日の空白期間を経て温厚な立場だった土御門天皇の皇子邦仁王(後嵯峨天皇)が即位した。
皇統について露骨な関与を受けた公卿の間には相当の不満が渦巻いていたらしい。
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西暦1242年
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87代 四条天皇
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仁治三年
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1月14日
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史 料
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   ※北條九代記: 秋田城介安達義景と出羽前司二階堂行義が使節として上洛の途に就いた。
建仁の聖主(土御門天皇)の第五皇子の皇位継承が(鎌倉の意向として)定まったためである。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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1月20日
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史 料
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   ※皇代記: (皇子が)御元服(23歳)の後に践祚(帝位を継承)。四條天皇が崩御して関東との調整が済むまで
12日間の空位があった。
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皇代記とは...神代から南北朝時代の北朝第五代後円融天皇の康暦二年(1380)までiに起きた
事件を治世別に記録した年代記。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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3月18日
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史 料
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   ※玉蘂: 今日新帝(後嵯峨)が即位した。
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玉蘂とは...九条道家が書き残した日記で1209~1238年の記録が現存する。祖父の 九条兼実
日記「玉葉」にちなんで名付けたもの。「蘂」はめしべ・おしべを意味する。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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5月9日
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史 料
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   ※北條九代記: 前武蔵守北條泰時が体調悪化により出家、法名を観阿房上聖と。戒師は信濃法印道禅。.

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             ※出家: この場合は死期が迫っている事を前提にした、臨終に備えての出家。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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5月11日
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史 料
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   ※北條九代記: 遠江守北條朝時が出家した。.

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   ※朝時出家: 泰時の死没前後の京都には「鎌倉で合戦が起きる」あるいは「鎌倉に通じる街道が封鎖され将軍
御所が厳重に警護された」との情報が伝わっており、朝時を軸にした暗闘があったと推定される。
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結果として朝時が死没する寛元三年(1245)4月までは何事も起きず、その翌年閏4月には将軍藤原頼経を擁した朝時の嫡男(名越)光時が反乱未遂事件(宮騒動)を引き起こす。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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5月17日
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史 料
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   ※平戸記: 四條大納言・吉田中納言・大蔵卿・新宰相らが集まって情報交換。泰時朝臣が出家した際に彼の
従者が50人ほどが出家した。翌10日夜になって遠江守北條朝時(泰時朝臣の舎弟)も出家した。
日頃は仲の良い兄弟ではなかったのに不思議な事だ、と世間は噂している。
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   ※朝時出家: 兄弟の中で出家したのは朝時のみで、泰時と親しい関係にあった次弟の北條重時を含めて誰も
出家はしていない。北條嫡流に恭順を要求されたと考えるべきだろう。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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6月15日
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史 料
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   ※北條九代記: 入道(前武蔵守)正四位下平朝臣北條泰時が死去した(60歳)。新善光寺の智導上人が知識
(悟りに導く徳の高い僧)として念仏を勧めた。
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   ※新善光寺: 現在の新善光寺は葉山町の上山口(地図)にあるが
頼朝没後の建仁年間(1201~1204)に北條政子が信濃の善光寺如来を名越に勧請したのが最初。
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信濃善光寺の大檀那だった頼朝の遺志を継いだのだろう。新善光寺は戦国時代の弘治二年(1556)に戦火を避けて葉山に移転したらしい。
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右画像は名越の弁ヶ谷周辺の鳥瞰図。ここには北條時政千葉常胤らの屋敷があったと伝わっており、新善光寺も時政が権力を握っていた時代に、政子が名越邸の近くに建てたと推測できる。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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6月16日
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史 料
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   ※尊卑分脈 他: 北條経時(満17歳)が四代執権に。泰時の嫡男時氏の長男、生母は安達景盛の娘矢部禅尼
後の五代執権北條時頼の同母兄である。 連署は置かないまま重鎮の重時が補佐に任じ、同じ満17歳の北條(金沢)実時が力を合わせる。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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6月19日
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史 料
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   ※百錬抄: 深夜に関東の飛脚が(京都に)到着し、泰時朝臣が去る15日に死没したと報告した。
後継は嫡孫の左近大夫将監北條経時(満18歳)に相違なし、天下は30日間の喪に服す、と。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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9月29日
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史 料
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   ※増鏡: 佐渡院(順徳上皇)が特に病気などのないまま46歳で崩御した。
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         ※順徳上皇: 佐渡配流の詳細は承久三年(1221)7月20日を参照されたし。
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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 月 日
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吾妻鏡
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予備
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   ※:
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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 月 日
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吾妻鏡
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予備
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   ※:
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西暦1242年
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88代後嵯峨天皇
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仁治三年
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 月 日
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吾妻鏡
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予備
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   ※:
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