仁治四年・寛元元年(1243年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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1月1日
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吾妻鏡
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晴。左馬入道足利義氏の沙汰による椀飯の儀あり。前右馬権頭北條政村が御剣を、若狭前司三浦泰村が御弓箭を、壱岐前司 佐々木泰綱が御行騰沓を献じた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 四代執権北條経時は18歳・五代執権になる北條時頼は15歳・六代執権になる北條長時は13歳・
七代執権になる北條政村は38歳・ 北條朝時は50歳・ 三浦泰村は59歳・ 足利義氏は54歳・
結城朝光は75歳・ 将軍藤原頼経は1月16日で26歳・ 第88代後嵯峨天皇は22歳。(全て満年齢)
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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1月5日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が御車で秋田城介安達義景の甘縄邸に入御、駿河守北條有時・遠江馬助清原清時・備前守北條時長以下が供奉し隠岐太郎左衛門尉佐々木政義(義清の嫡男)が弓箭を携えた。
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御台所と乙若君は各々輿で前右馬権頭北條政村邸に入御、若君(藤原頼嗣)と御母儀(二棟の御方)も輿で若狭前司三浦泰村邸に渡御した。全て御行始め(外出初め)の儀で接待は豪華、引き出物も見事だった。
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   ※御台所と乙若: 頼経の次男(詳細不詳)で生母は三位中納言・持明院(藤原)家行の娘大宮殿(正室扱い)。
他に寛元元年(1244)に産まれた三男(源恵・生母不明)が本覚寺門跡→日光山別当→勝長寿院別当を経て正応五年(1292)に97世の天台座主に就任している。
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   ※若君と御母: 将軍藤原頼経の嫡子頼嗣と、その生母で側妾の二棟の方(藤原親能(wiki)の娘)。藤原親能は
従二位で権中納言、持明院家行より特に身分が低い筈もなく嫡子まで産んだのになぜだろう。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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1月9日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(18時前後)に大夫判官足利(斯波)家氏の亀谷邸筋向いの人家数軒が焼亡した。
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   ※足利家氏: 足利泰氏の長男で生母は北條朝時の娘で嫡子だったが、後に泰氏が北條泰時の長男(早世した
時氏)の娘を正室に迎えて産んだ男子(頼氏)が五代棟梁と決まったため廃嫡となり、尾張足利氏(後の斯波氏)の祖となった。朝時の娘は側室に格下げされたのだから無茶な話だね。
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源姓足利氏は義兼の時代から北條氏に全面協力(露骨に言えば隷属)して筆頭御家人の地位を守ってきた。義兼の庶長子義純は正妻(新田義兼)の娘と男児2人を離縁して畠山重忠の寡婦(北條時政の娘)を正妻に迎えて畠山の名跡を継いでいるし、義兼を継いだ三代棟梁義氏も時政の娘を正妻に迎えている。まぁ最終的には足利氏の子孫高氏(尊氏)と新田氏の子孫義貞に滅ぼされてしまうのだから、まさに「禍福は糾える縄の如し」だ。
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   ※亀谷邸: 亀谷坂切通しが山ノ内に下った地点、鎌倉時代で言えば
巨福呂坂亀谷坂の交差点にある 長寿寺足利尊氏の屋敷跡に四男基氏が建立した菩提寺で、右画像は鎌倉街道に面した現在の長寿寺山門。 (右上画像をクリック→ 長寿寺・後の尊氏の鎌倉邸跡(別窓)へ
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建長寺伝延宝図(徳川光圀が描かせた絵図)に拠れば建長寺山門は当時の主要道だった巨福呂坂に面していた。
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ちなみに、八幡宮から北鎌倉に続く現在の鎌倉街道(洞門のある切通し)の開削は明治19年(1886年)で、荷馬車が蛇行しながら辛うじて通れる程度の小道が現在と同じルートの、5m以上は高い場所を越えていた。
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明治初年までは(現在は廃道の)旧・巨福呂坂が洞門の真上を通って建長寺総門の近くに下っていた、らしい。
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足利家氏邸が長寿寺の敷地にあった。
家氏の弟頼氏→ 嫡子家時→ 嫡子貞氏→ (長男)高義→ 嫡子高氏(後の足利尊氏に伝わった可能性は充分にあり得る、と思う。
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  右画像は現在は廃道の旧・巨福呂坂ルート(クリック→ 拡大表示)
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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1月10日
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吾妻鏡
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晴。御弓始めあり。前太宰少貳狩野為佐の差配で各々二射づつ五度的を射た。箭員(当たった矢の数)に応じて殿上人を介して褒賞が与えられた。
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  射手
     一番 佐原七郎左衛門尉    渋谷六郎
     二番 伊太郎    山内左衛門次郎
     三番 眞板五郎次郎    小河左衛門尉
     四番 神地四郎    対馬太郎
     五番 岡部左衛門四郎    肥田四郎左衛門尉
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   ※殿上人: 四位・五位の中で特に昇殿を許された資格のある者、および六位の蔵人。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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1月19日
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吾妻鏡
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陰、日中以後雨。午刻(正午前後)に将軍家(藤原頼経)鶴岡八幡宮に御参り。能登守三浦光村が御剣を持ち、駿河又太郎左衛門尉三浦氏村(義村の庶長子(つまり泰村)の庶兄である朝村の長男とされているが、詳細は不明)が弓箭を携えた。
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前右馬権頭北條政村・駿河守北條有時・遠江馬助清原清時・備前守北條時長・大夫判官足利家氏(1月9日参照)・摂津前司中原師員・甲斐前司長井泰秀・若狭前司三浦泰村・秋田城介安達義景・佐渡前司後藤基綱・壱岐前司佐々木泰綱・下野前司宇都宮泰綱・太宰少貳狩野為佐・大蔵権少輔結城朝広・佐渡大夫判官後藤基政・左衛門尉小山長村・駿河五郎左衛門尉三浦資村・上野五郎兵衛尉結城重光(朝光の七男で朝広の弟)・近江四郎左衛門尉佐々木氏信・左衛門尉大須賀重信(胤信の四男で奈古谷氏(本領は成田市奈古谷)の祖)・梶原右衛門尉景俊(景茂の嫡男)らが供奉した。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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2月2日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(朝8時前後)、故前左京兆(北條義時)が崇敬していた大倉薬師堂が失火により焼亡、本尊の薬師如来は持ち出すことができた。
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   ※大倉薬師堂: 健保六年(1218)12月2日に建立の記録がある。
建立の経緯は同年7月9日の吾妻鏡に記載があり、吾妻鏡は翌年2月8日に次のように記録して、それとなく「義時の欠席は薬師如来が戌神を派遣して警告を与えたからで、実朝殺害には関係ない」と仄めかしている。
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右京兆北條義時が大倉薬師堂(前年の7月9日の条を参照)に詣でた。霊夢のお告げに依って創建した堂である。先月27日の戌刻(20時前後)に八幡宮に供奉した時、傍らにまるで夢の様に白い犬が見えてから急に悪寒がした。御剣役を源仲章朝臣に譲り、伊賀四郎朝行(朝光の四男)だけを伴って退去した。
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下手人の阿闍梨公暁は義時が御剣役を務めるのを事前に知っており、剣役を狙った結果として仲章の首を斬ってしまった。
ちょうどこの時間、薬師堂の中には戌神が居なかったという。
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   ※戌神: 仏と信者を守護する十二神将に十二支を当て嵌めた中の犬神将。右画像は京都木津川の浄瑠璃寺
(wiki)に伝来したらしい十二神将立像・戌神(東京国立博物館収蔵)、鎌倉時代中期に慶派仏師の作とされる。木造・彩色・切金・漆箔・玉眼、75.3cm(クリック→ 拡大表示)。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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2月13日
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷が始められた。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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2月15日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)から若君(のちの五代将軍藤原頼嗣)が体調不良。
西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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2月16日
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吾妻鏡
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評定衆による決裁事項の記録について、特に重要な件は二ヶ月間、通常の件は一ヶ月間、小さな件は二十日間の公布を行なうよう問注所執事の加賀民部大夫町野(三善)康持に通達した。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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2月23日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)の祈願として、絹糸と綿布を二所(走湯権現(伊豆山神社)と箱根権現)に奉納した。
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これは神主と社僧に向けたた布施であり、伊豆山への使者は左衛門尉本間(海老名)忠行で箱根への使者は駿河五郎左衛門尉三浦資村、摂津前司中原師員が務めた。
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また、今日の申刻(16時前後)に御台所(1月5日を参照)が今年最初の鶴岡八幡宮参拝に御車で参拝に出御、30余人が狩衣を着して供奉した。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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2月25日
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吾妻鏡
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御家人の任官(朝廷の官職に就く事)について、従来は内々に将軍家の認可を経ていたが、今日の評議で決定事項があった。式部丞や所司の助に就任(買官)を直接朝廷に申請するのは一切禁止し、その両職については従来の靭負尉に準じて一万疋と定めていたが、昨今の世情に合わせて二万疋とするべきか。
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   ※一万疋: 一疋を20文前後とすると一万疋は20万文で概算で米100石、約1000kg程度になるのかな。
仮定の計算だからダイレクトに信用しないでね。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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仁治四年
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2月26日
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吾妻鏡
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庶民の訴訟に関する決裁が遅れないよう、今日左親衛(四代執権)北條経時邸で決定があった。日程を定めて必要な人数の配置を行う、と。
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   訴訟の日程と当番に関する定め.
     一番(3日・9日・13日・17日・23日)
        摂津前司中原師員  若狭前司三浦泰村  下野前司宇都宮泰綱  対馬前司三善(矢野)倫重
        大田民部大夫三善(太田)康連
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     二番(4日・8日・24日・28日)
        佐渡前司後藤基綱  太宰少貳狩野為佐  出羽前司二階堂行義  右衛門尉清原満定
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     三番(6日・14日・19日・26日・29日)
        信濃民部大夫入道二階堂行盛  甲斐前司長井泰秀  秋田城介安達義景
        加賀民部大夫町野(三善)康持
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   以上の予定を守り遅延や過怠なく参勤する事    仁治四年二月日
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   ※百錬抄: 代始(新帝の着位)による改元あり。仁治四年を改め、寛元元年とする。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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2月27日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)、若君(後の五代将軍藤原頼嗣)の体調不良が回復しないため、摂津前司中原師員の奉行による祈祷を行ない、合わせて占いも催した。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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2月29日
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吾妻鏡
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晴。恩賞に関する評議あり。闕所の決定前に場所を指定して要望するような輩は恩賞の対象から除外する、と。
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   ※闕所: 没収などで確保した恩賞の候補地。承久の乱から20年が過ぎて恩賞に使える土地が逼迫している。
宝治合戦(1247年)で一息ついても、文永十一年(1274)と弘安四年(1281)の元寇が深刻だ。
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   ※恩沢奉行: 鎌倉時代の初期には政所別当や問注所の執事が恩賞に関する事務を担当していた。嘉禎年間
(1235~1238年)以後は後藤基綱・中原師員・清原満定らが恩沢奉行として記録されている。
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更に下って建治年間(1275~1277)には安達泰盛が任じており、第一次元寇の文永の役(1274)に伴う恩賞問題に対応したらしい。
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右画像は「蒙古襲来絵詞」前巻絵九、恩沢奉行の安達泰盛(左)に軍功を訴える竹崎季長(右)。
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この時期には官位の推挙を扱う官途奉行が恩沢奉行から分離しており、得宗専制期になると恩沢を扱う職員の中に御内人(得宗被官)が増え始め、奉行に任じられたケースもあった。これは北條得宗が御家人を統制する目的で恩賞に関する権限の独占を図ったものと考えられている。
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       安倍首相が内閣法制局長官に横畠裕介を任命して憲法解釈を恣意的に操作させたのと同じ事例だ。
       それに容認した創価学会と公明党も、憲法違反を許した戦犯として歴史に残る。

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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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3月15日
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吾妻鏡
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晴。御所に於いて泰貞朝臣による天地災変祭(天変地異に対応する祈祷)を行なった。将軍家の御使(代参)は水谷左衛門大夫重輔(将軍頼経の近臣)、差配は蔵人入道西阿(毛利季光)が務めた。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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3月19日
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吾妻鏡
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晴。午刻(正午前後)に将軍家(頼経)が駿河守北條有時邸に設けた二所御精進屋に入御した。
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   ※御精進屋: 仁知元年(1240)12月16日に「二所詣の精進潔斎を行なう建物を御所の巽(南東)角に建てて」
との記載があり、翌年2月4日にも関連記事が載っている。これは御所に建てる予定が北條有時邸に変更された、という事だろうか。ちなみに、有時邸の位置は不明。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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3月23日
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吾妻鏡
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晴。将軍家が二所詣に御進発。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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3月27日
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吾妻鏡
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曇。酉刻(18時前後)に将軍家が二所詣から還御。往還の間に雨は降らず、夜になって激しい降雨があった。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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4月8日
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吾妻鏡
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御所の御持仏堂に於いて仏生会(釈迦の生誕祭)を行なった。導師は岡崎僧正坊。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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4月10日
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吾妻鏡
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大甞會(wiki)の費用負担を未納の者に催促を行なうよう、政所に仰せがあり、直ちに実施された。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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4月20日
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吾妻鏡
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奴婢などの処遇についての評議が行われた。本来の所有者の元から逃亡した奴婢だと知らないまま地頭が長い期間使役した場合は論議の対象とせず、10年以内の場合は元の所有者(使役者)に返還することになる。加賀民部大夫 町野(三善)康持がこの件の差配に任じる。
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   ※奴婢の処遇: 山椒大夫(または安寿と厨子王丸)は平安時代末期を舞台にした苛烈な境遇の奴婢を描いたが
鎌倉時代中期の待遇はやや改善されていたらしい。延応元年(1239)4月14日の吾妻鏡には「人身売買の禁止」を明記しているが、次項で「借金の場合は双方が協議して...」と補足する実質的なザル法でもあった。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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4月21日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に於いて最勝八講を行ない、将軍家が御参宮した。
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   ※最勝八講: 法華八講に同じ。法華経八巻を八座に分け、通常は朝夕二座を講じて4日間で完了する法会。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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4月28日
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史 料
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   ※百錬抄: 佐渡院の御遺骨は康光法師が首に懸けて大原に渡御した。
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       ※佐渡院: 承久の乱後に佐渡に流された順徳天皇で、仁治三年(1242)9月29日に佐渡で崩御した。
佐渡と大原の御陵などは承久三年(1221)7月20日に記載してある。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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5月13日
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史 料
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   ※百錬抄: 佐渡院の御骨を今日大原の御墓所に納め、岡崎殿で中陰(四十九日)の御仏事を始めた。
世人には30ヶ日の穢となる。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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5月23日
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吾妻鏡
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晴。子の一点(23時過ぎ)に大地震。
今日、左親衛北條経時邸で摂津前司中原師員と若狭前司三浦泰村が集まり御家人の訴訟について検討した。
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次に経時は書状を加賀民部大夫町野(三善)康持に送り、評定衆の会議で決定しても通告が遅れれば関係者が困惑する、今後は訴訟内容と通告内容を照合して内部で仮決定し、その後に決裁書類を清書するように定めた。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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5月28日
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吾妻鏡
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晴。夕暮れになって将軍家(藤原頼経)に赤痢の症状あり。丹波時長と廣長らの朝臣が治療のため御所に入った。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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6月15日
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吾妻鏡
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晴。故・前武州禅室(北條泰時)の周関(一周忌)法事を山内の粟船御堂で催した。左親衛 北條経時および武衛北條時頼が参席、遠江入道北條朝時・前右馬権頭北條政村・武蔵守北條朝直以下の多数が集まった。
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曼陀羅供の法要があり、大阿闍梨信濃法印道禅と讃衆(讚を唱える僧)12人がこれを務めた。この供は存命中の北條泰時が深く進行していたものである。
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   ※粟船御堂: 嘉禎三年(1237)12月13日に北條泰時の室が母親の
追善供養のために建立した、後の常楽寺を差す。
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右画像は常楽寺仏殿裏手の北條泰時五輪塔。
     画像をクリック→拡大表示。
     更に詳細は大船の粟船山常楽寺で。
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   ※曼陀羅供: 大壇(正方形の大型)を設け、前の礼盤(導師の座席)に
導師が登って独自の修法を行う、密教では最も華やかな法要とされる。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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6月16日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に小雨と雷鳴あり。深澤村に建立した仏殿に八丈余(約24m)の阿弥陀像を安置して落慶供養を催した。導師は卿僧正良信で讃衆(供養に参加した僧)は10人。勧進聖人浄光房が六年間勧進に務め、身分の尊卑や出家世俗の区別なく勧進に加わった。
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   ※深澤の大仏: 嘉禎四年(1238)3月23日に大仏殿の建造が始まったとの記事がある。この時の大仏は木造
でその後の火災または地震で失われ、建長四年(1252)8月17日に「金銅八丈の釈迦如来像」(現在の高徳院大仏、実際は釈迦如来ではなく阿弥陀如来)の鋳造が開始される。
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高徳院の大仏像は11.31m(台座を含めると13.35m)、八丈は23.68m(鎌倉期の1尺は29.6cm)だが坐像の場合は立像換算だから2分の1で11.84m、概ね正しい。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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6月18日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が参着し去る10日の午刻(正午前後)に皇子が誕生したと報告。この加持祈祷のため大納言僧都隆弁 が去年上洛しており、この褒賞として同20日に法印に叙された。外戚にあたる将軍家(藤原頼経)にとっても慶事であり、御息災を祈る費用の拠出が命じられた。
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   ※外戚: このとき産まれたのは後の第89代後深草天皇で、生母の西園寺実氏(公経の長男)の娘(大宮院)は
7年後に後の第90代亀山天皇も産んでいる。頼経の父親は九条道家で 生母は西園寺公経の娘だから、第89代後深草帝と将軍頼経と第90代亀山帝は従兄弟同士となる(「天皇家の系図」を参照)。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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6月20日
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吾妻鏡
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来る8月の鶴岡八幡宮での放生会で任に就く役人などについての沙汰があった。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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7月10日
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吾妻鏡
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御家人同士が関係する訴訟について、両方の証拠書類などが明白な場合は論争を省いての結審も認める旨、問注所に指示を下した。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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7月15日
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吾妻鏡
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将軍家の御持仏堂に於いて盂蘭盆(wiki)。導師は卿僧正良信、将軍家(藤原頼経)の出御あり。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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7月16日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に安倍泰貞朝臣が命令を受けて由比浦でを行なった。大和前司春日部実平が祈祷の費用を負担し、左衛門尉宮内公景が代参の使者を務めた。
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   ※風伯祭: 東西南北の四方に存在する風の神を祀る祭事。
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   ※春日部氏: 紀氏一族の実直が国衙の官人として武蔵国に土着した
のが最初。当時の春日部は下河辺荘に含まれており、実直も下川邊氏と同様に荘園領主源三位頼政の郎党だった(本所は八條院説が有力)らしい。
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平安末期に下川邊氏が開発した土地を頼政を経由して八條院に寄進、後に頼朝が管理権を安堵したが北條氏の覇権が確立した1200年代後半の下川邊氏は御内人(陪臣)に組み込まれ、支配権を奪われている。
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右画像は宇治川合戦で自刃した頼政の首を郎党の下川邊某が持ち帰り葬ったと伝わる古河の頼政神社(地図
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元々は下河邊行平が本拠を置いた古河城(絵図・別窓で拡大表示)の南端にあったが大正期の渡良瀬川改修工事に伴って現在地に移転した。まぁ「誰々の首を何処々に葬った」という話は多いし、平家物語では「郎党の渡辺長七唱が自刃した頼政の首を落として石を括りつけ、平家に奪われぬよう宇治川の深みに沈めた」とあるから、あまり信頼できる由来ではない。
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実直の息子らは大井氏・品川氏・春日部氏・堤氏・潮田氏の祖となり、実春の弟実高は現在の春日部市浜川戸(地図)周辺を本領として春日部氏を名乗った。
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実高の嫡子実平と嫡孫実景は勢力を広げて有力氏族となったが宝治合戦(1247)では三浦泰村に与して実景は自刃、嫡流は滅亡した。実景の孫・実行の時代になって元弘の乱では新田義貞に従って功績を挙げ、後醍醐天皇から春日部郷地頭職を安堵されたという。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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7月17日
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吾妻鏡
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定例以外の将軍家出御の際に供奉人として加わるのか否かが判らず、毎回改めて決めるのが奉行人の負担となり更には遅延の原因になる。予め参加する順番と時刻が判っていれば昼夜を問わず対応できるだろうとの仰せが陸奥掃部助北條実時に下され、現在祇候していない人数を基礎にして順番を定めた。
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前大蔵少輔二階堂行方が小侍所で清書し台所(D.K)に貼り出した。在国中の御家人は記載していないが、伺候していた場合には人数に加えて伴う事になる。予定の人数に欠員があれば他の番に予定した者を以て補填する。
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   供奉の結番告知(次第(順)不同)
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   上旬
     前右馬権頭北條政村   遠江馬助北條清時   遠江式部大夫北條時章   大夫判官足利家氏
     相模右近大夫将監北條時定   甲斐前司長井泰秀   遠江修理亮北條時幸   能登守三浦光村
     上総権介千葉秀胤   秋田城介安達義景   周防前司中原親實   毛蔵人毛利経光
     越後次郎   前大蔵少輔遠山(加藤)景朝   大和前司伊東祐時   大隅前司大河戸重隆
     上総式部大夫千葉時秀   甲斐守春日部実景   大夫判官宇都宮頼業   但馬左衛門大夫藤原定範
     判官笠間朝時   左衛門尉小山五郎長村   新田三郎
     上野弥四郎左衛門尉結城時光   同十郎結城朝村   掃部助宇都宮時村
     左衛門尉関政泰   左衛門尉宇都宮五郎泰親   駿河五郎左衛門尉三浦資村
     左衛門尉佐原五郎盛時   葛西三郎左衛門尉   近江左衛門尉佐々木四郎氏信
     和泉左衛門尉天野次郎景氏   同、左衛門尉天野七郎景経   左衛門尉宮内公重
     左衛門尉大須賀七郎重信   木内次郎胤家   籐左衛門尉宇佐美祐時
     左衛門尉小野寺四郎通時   信濃四郎左衛門尉二階堂行忠   新左衛門尉後藤政景
     左衛門尉多々良次郎通定   籐内左衛門尉山内通重   渋谷次郎太郎武重
     佐貫太郎時信   大和次郎宗綱   益戸三郎左衛門尉
     左衛門尉本間次郎信忠   左衛門尉大見実景
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   中旬
     武蔵守北條経時   備前守北條時長   相模式部大夫北條時直   摂津前司中原師員
     佐渡前司後藤基綱   下野前司宇都宮泰綱   遠江右近大夫将監北條時兼   大蔵権少輔結城朝広
     駿河式部大夫三浦家村   掃部助河越泰重   相模七郎北條時弘   上総修理亮千葉政秀
     美作前司宇都宮時綱   江石見前司大江能行   前太宰狩野為佐   右衛門大夫水谷重頼
     大炊助佐原経連   能登左近蔵人仲時   隠岐大夫判官二階堂行久   信濃大夫判官二階堂行綱
     左衛門尉薬師寺朝村   佐竹八郎助義   駿河八郎左衛門尉三浦胤村   武田五郎三郎政綱
     梶原左衛門尉景俊   左衛門尉武藤景頼   淡路又四郎左衛門尉長沼宗泰
     園田弥三郎   左衛門尉塩谷四郎朝業   摂津左衛門尉
     大多和新左衛門尉   肥前太郎左衛門尉佐原胤家   左衛門尉伊賀次郎光房
     兵衛尉土肥次郎朝平   左衛門尉狩野五郎為広   常陸太郎
     千葉八郎胤時   長江八郎四郎景秀   弥善太左衛門尉三善康義
     左衛門尉内藤七郎盛継   左衛門尉後藤三郎基村   同、木幡三郎左衛門尉
     左衛門尉雅楽時広   豊田源兵衛尉   太宰三郎左衛門尉藤原為成
     左衛門尉安積六郎祐長   海老名忠行左衛門尉   源内左衛門尉飯富長能
     左衛門尉加藤行景
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   下旬
     丹後前司足利泰氏   陸奥掃部助北條実時   左兵衛尉北條五郎時頼   若狭前司三浦泰村
     越後掃部助北條時景   伊豆前司若槻頼定   壱岐前司佐々木泰綱   少輔左近大夫将監大江佐房
     陸奥七郎北條業時   出羽前司二階堂行義   隠岐前大蔵少輔二階堂行方   美濃前司中原親實
     肥前前司佐原家連   前隼人正伊賀光重   伊賀前司小田時家   伯耆前司葛西清親
     加賀民部大夫町野(三善)康持   信濃民部大夫二階堂行盛   佐渡大夫判官後藤基政
     但馬前司藤原定員   淡路式部大夫   常陸修理亮重継   城次郎安達頼景   小笠原六郎時長
     判官河津尚景   上総左衛門尉千葉五郎泰秀   上野兵衛尉結城五郎重光
     駿河九郎三浦重時   兵衛尉大曽祢長泰   駿河左衛門尉三浦又太郎氏村
     隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清   佐原六郎左衛門尉   中務丞東胤行
     左衛門尉伊東三郎祐綱   弥次郎左衛門尉親盛   左衛門尉長掃部秀連
     左衛門尉加地七郎佐々木氏綱   同、八郎左衛門尉加地七郎佐々木氏朝
     大隅太郎左衛門尉大河戸重村    肥後四郎兵衛尉大見行定   左衛門尉紀伊次郎為経
     左衛門尉長尾三郎光景   左衛門尉廣澤三郎実能   波多野六郎左衛門尉
     出羽次郎兵衛尉二階堂行有   左衛門尉伊賀四郎朝行   左衛門相馬五郎胤村   海上五郎胤有
     左衛門尉押垂基時
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   以上の順を守り参勤すること、仰せに依って定める。    寛元元年七月日
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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7月18日
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吾妻鏡
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去る八日の除目の聞書(記録の控え)が到着、親衛北條経時が武蔵守に任ぜられた。前武蔵守北條朝直は遠江守に遷任である。
今夜戌刻(20時前後)に安倍泰貞朝臣が天変に対応する祈祷を行なった。将軍家の使者は式部次郎蔵人、補助者は河野左衛門入道。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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7月20日
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吾妻鏡
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佐藤民部大夫業時が赦免を受けて鎮西から鎌倉に戻った。
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   ※佐藤業時: 評定衆を設置した嘉禄元年(1225)12月から、落書の罪で流罪になった仁治二年(1241)5月
20日まで評定衆に任じた有能な実務官僚で別称は相模大掾。
嫡子の業連は建治二年(1276)に評定衆・翌年に寄合衆に任じて幕政の中枢を担っている。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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7月29日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)に上洛の意向があり、六波羅の御所を修理するよう仰せがあったが王相方のため新築も修理も支障があり、この節が過ぎてから手配するよう相模守北條重時に命令があった。
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   ※王相方: 陰陽道で祀る王神と相神で月ごとに所在の方角が変わる。その方向は移転・建築などを忌む。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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閏7月2日
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吾妻鏡
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御持仏堂に供花を続けた結願日にあたり、将軍家(藤原頼経)が兼ねてから手書きで書写した法華妙典の献納供養を行なった。導師は岡崎僧正、布施は諸人が刮目するほどの見事さである。
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   ※供花: 期間を定めて仏に花を捧げる法要。法華八講に伴って行なったのが最初らしい。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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閏7月6日
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吾妻鏡
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洛中の辻々各所に篝屋を設けて警備の要員を定めたが土地の確保が遅れて数ヶ所が未完成である。
今日沙汰があり、その土地については承久の乱での没収地から交換するなどで設定するよう六波羅に通達した。
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   ※篝屋: 六波羅の指揮下に置かれ運営は御家人に割り当てた。常駐した守護人は盗賊を警戒して京都市街を
巡回し、冬は篝火を焚き夏は灯火を点して警備した。洛中48ヶ所に設けたという。
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篝屋の初出は嘉禎四年(1238)6月19日、「洛中の治安を守るため町の辻々に篝(かがり火を焚く鉄製の籠)を置いて灯す事が決まり、その役を御家人らに割り当てる事になった。」との記載があった。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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閏7月7日
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吾妻鏡
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所属する土地から逃亡した下人について、重ねての沙汰があった。地頭の下人と百姓の下人を差別しては根本的な解決が遠ざかってしまう。済んだことは特に追求せず、今後は逃亡した全ての下人を元の所有者に受け入れさせるよう、加賀民部大夫町野(三善)康持に申し付けた。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会、将軍家(藤原頼経)の出御は御車で通例の通り。御剣は越後守北條光時、御調度(弓箭)は梶原左衛門尉景俊が携えた。信濃大夫判官二階堂行綱と河津大夫判官尚景が各々家の子を伴って供奉した。
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   ※家の子: 一族の総領と主従関係を結んだ一族の庶流。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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8月16日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)の御参宮は昨日と同じ。御立願があって今年から三年間は馬場の催事を豪華に催した。
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十列は左衛門尉武藤景頼・加藤左衛門尉行景・加地七郎左衛門尉佐々木(佐々)氏綱・紀伊次郎左衛門尉為経・左衛門尉長掃部秀連その他による騎乗、信濃大夫判官二階堂行綱小笠原六郎(伴野)時長・駿河左衛門尉三浦五郎資村・上野十郎結城朝村・加地八郎左衛門尉佐々木信朝その他が流鏑馬の射手に任じた。
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同じく的立ては能登前司・但馬前司・隠岐前大蔵少輔・上野大蔵権少輔・大隅前司・上総権介その他が行なった。競馬は雅楽左衛門尉時広・左府生兼見・左衛門尉本間信忠・中村三郎その他が勝敗を決した。
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   ※十列: 本来は「儀礼的な競馬の一種」らしいが具体的な様式は不明。飾り立てた騎馬の練り歩き(馬長・うまの
おさ)とする説もある。馬長と書かずに十列と書いた理由が判らない。
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   ※競馬: 単純な競走ではなく、先にスタートした者の背後を追い掛けて捕らえるか逃げ切るかの勝負。競走中の
打擲や妨害も認めたのが実戦的で面白い。文治五年(1189)4月3日に画像と共に記載した
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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8月24日
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吾妻鏡
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晴。御所の廊下に於いて千度御祓いを行ない、泰貞・晴茂・泰守・晴長・国継・晴憲・晴貞・以平・泰房・泰兼(各々衣冠束帯)がこれを担当した。この順序を決めたにも拘らず安倍宣賢が泰守の下座は容認できないと称して息子の資宣を推薦したため出仕停止の処分を受け、泰兼を代理とした。陪膳(接待役)は相模右近大夫将監北條時定・遠江式部大夫北條時章(布衣・狩衣)、摂津前司中原師員朝臣がこれを差配した。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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8月26日
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吾妻鏡
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三嶋大社の神事があり、(鶴岡八幡宮の)放生会で流鏑馬に任じた射手以下の役に任じた者がこれを遂行した。将軍家(藤原頼経)に特別な祈願があった事に拠る。
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今日武蔵守北條経時が書状をを問注所に送った。これは武州禅門(北條泰時)の時代に結審した件で、原告が懸物の押書(敗訴の場合は没収を容認する念書)を提出しなければ、互いに問答を行えとの御書があっても再審を認めないとの内容である。執事の加賀民部大夫町野(三善)康持が請文(諮問に対する請書)を提出した。
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夜になって将軍家が前右馬権頭北條政村邸に移られた。小御所および御持仏堂などを解体して建て直すまで45日の方忌(方角を忌む、方違え)である。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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9月5日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)が佐渡前司後藤基綱の大倉邸に入御した。
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武蔵守北條経時および左近大夫将監北條時頼・前右馬権頭北條政村・遠江守北條朝直・越後守北條光時
丹後前司足利泰氏・備前守北條時長・陸奥掃部助 北條実時・遠江式部大夫北條時章・相模式部大夫北條時直
若狭前司三浦泰村・秋田城介安達義景・能登前司三浦光村・下野前司宇都宮泰綱・壱岐前司佐々木泰綱
上総権介千葉秀胤らが供奉し、隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清が御調度(弓箭)を携えた。
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基綱邸では和歌と管弦の会が催され、能登前司三浦光村と壱岐前司佐々木康綱が琵琶を奏で、二條中将教定・
壬生侍従・相模三郎入道北條資時・河内式部大夫源親行(源光行の嫡子で和歌奉行)らが座に加わった。
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この家は閑静な山の陰にあるのみならず紅葉に混じる松の緑が美しく、黄色の菊や青い苔が露を帯びるの姿も一層の趣を感じさせる。また薄暮を迎える頃に舞女三人が加わって廻雪の袖を翻し、人々は猿楽を楽しんだ。
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将軍家は明け方になって還御、基綱は御贈物を献じた。
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   ※廻雪の袖: 舞を意味する。雪が風に吹き上げられて燦めくような袖の動きから「美しい舞姿」を想起しよう。
   ※猿楽: 能狂言の源流とされる古典芸能で、鎌倉中期までは滑稽が主体。更に詳細はwikiで。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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9月19日
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吾妻鏡
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晴。亥刻(22時前後)に若君(後の五代将軍藤原頼嗣)が疱瘡に罹病、安倍泰貞朝臣が里亭(将軍の逗留場所)で如法(規則通りの)泰山府君祭を行なった。これは武州北條経時の命令に拠るもので、信濃大夫判官二階堂行綱を祭祀の使者として派遣した。
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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9月20日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に散位従五位下清原眞人季氏(嘉禎二年(1236)から評定衆)が死去した(65歳)。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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9月25日
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吾妻鏡
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御家人の訴訟に関して評定衆による会議があった。訴訟の経緯と結審の書類を将軍家に提出して決裁の許可を得てから実施するのが順序だが、施行の遅れは避けられない。
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今後は訴訟を担当する者が判断し、結審書類の内容に従って命令書を作成する。問注所で結審書類と命令書の内容を照合して相違がなければ施行する。そのように決定して加賀民部大夫町野(三善)康持に指示が下された。
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   ※決裁手順: 従来の手順から将軍の決裁を省く画期的なシステム変更。執権経時 の英断だが、将軍藤原頼経
の周辺と北條執権の間に齟齬が深まり、寛元四年(1246)に勃発する宮騒動の伏線にもなった。
特に名越流北條氏と頼経の関係が緊密だった事が執権側の警戒感を助長させている。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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9月27日
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吾妻鏡
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正六位上の越後掃部助平朝臣北條時景が死去した(享年38)。
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   ※北條時景: 北條時房の孫。時房-庶長子時盛-長男時景と続く。時盛は分家して佐介流北條氏の祖となり、
次男時村と三男資時は20代の始めに出家したため時房流北條氏は四男朝直が継いでいる。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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10月1日
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吾妻鏡
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晴。若君(後の五代将軍藤原頼嗣)の病気が回復した。今日の午刻(正午前後)に穢れを流す御沐浴の儀を行ない、医師の丹波頼行および廣長朝臣に報賞を与えた(各々御剣一腰と御衣一領)。
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   ※丹波頼行: 丹波氏は医師・典薬の家系だが頼行が系図のどこに位置するのか不明。丹波氏と鎌倉との関係
は嘉禄元年(1226)1月の四代将軍頼経就任に伴って朝廷の施薬院(wiki)から丹波良基が鎌倉に派遣されて将軍頼経の主治医に任じたのが最初となる(ただし翌・嘉禄二年11月の頼経の病気の際には良基の名前がなく、空白期間があったのかも)。
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いずれにしろ京都に限定されていた「先進的な医学知識」が鎌倉に定着したのは頼経の鎌倉下向と同時期で、仁治元年(1240)に死没した良基の跡を頼行と廣長が任じていたらしい。
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建長四年(1252)には頼経の嫡子で五代将軍の頼嗣が廃されて後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が皇族出身の六代将軍になり、朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、医術の知識は本来は陪臣に過ぎない北條一族にも提供され始める。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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10月7日
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吾妻鏡
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晴。今日小御所の建築に伴う作事始め。佐渡前司後藤基綱と出羽前司二階堂行義がこれを奉行する。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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10月21日
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吾妻鏡
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大納言法印隆弁が京都から鎌倉に戻った。去る6月10日の皇子誕生の加持祈祷のみならず同21日の今出河入道相国 (西園寺公経)の瘡病の祈祷も行ない、直ちに治癒させたという。
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   ※瘡病: 一般的にはできもの・腫れものを差すが、後の安土桃山時代には伝播した梅毒の意味もあったらしい。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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11月1日
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吾妻鏡
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壱岐前司佐々木泰綱が相伝してきた近江国に散在する所領を没収し同族の人々に分け与えた。これは左衛門尉佐々木太郎重綱法師(泰綱の長兄)からの訴えに拠る。
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泰綱は守護の権威を振り翳して近江国内に散在していた土地を奪って専有した。また式目(貞永式目)の趣旨に背いて所領を没収された犯罪者を管理者として配置している。その結果として今回の処分になったのだが、佐々木泰綱から今日父祖や兄弟の勲功を載せた嘆願書の提出があった。
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この中には承久の乱で挙げた佐々木信綱の功績、嘉禎元年(1235)に高野山に蟄居した事、仁治二年(1241)に隠居(6月8日)した際に「子孫については配慮を加えるから憂慮の必要はない」との将軍家の御教書などを得て心置きなく往生できたことなどが記してある。
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これらの領地は父の信綱入道が承久の恩賞や父祖伝来の所領について本主(元の権利者)の譲渡書類を得た上で個別の御下文を受けて知行していた、或いは本所が所有する土地の和与状(管理を預託する委任状)に基づいて領掌していたものである。式目を制定した貞永元年以後に報告せず領有するのは犯罪だが、この散在領地の殆どは式目以前の承久の頃に知行を開始している。
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(兄の)重綱法師は私(泰綱)を陥れるため不忠不幸を企み死骸(死んだ父親信綱)に敵対しているのは重科に問うべきである、と。
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   ※佐々木重綱: 理由は不明だが信綱は生存中に三男の泰綱を後継として
家督と所領を譲った事になっている。
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結果として長男重綱が坂田郡大原荘を(子孫は大原氏)、次男高信が高島郡田中郷を(子孫は高島氏)、三男泰綱が宗家を継いで江南の神崎郡・蒲生郡・野洲郡・栗太郡・甲賀郡・滋賀郡を(子孫は六角氏)、四男氏信が江北の高島郡・伊香郡・浅井郡・坂田郡・犬上郡・愛智郡を(子孫は京極氏)を分割継承した。
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信綱は承久の乱で院方に味方した長兄広綱の遺児勢多伽丸(13歳)を殺して兄の遺領を独占した人物。
息子たちも泰綱の独占相続には各々不満があり、ここから佐々木氏の分裂・弱体化がスタートする。
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   ※嘉禎元年: 7月29日に信綱の次男高信が比叡山衆徒による神輿の入洛を阻止しで神人を死傷させ豊後配流
になった事件。高信は後に赦免を受けて復帰し、信綱はしばらく高野山に蟄居したと思われる(吾妻鏡には記載なし)。翌嘉禎二年(1236)9月5日には「今日、近江入道虚仮(佐々木四郎信綱)が評定衆を辞して俄かに上洛の途に就いた。以前から隠居の希望を抱いていたらしい。」との記載があり、この時点では鎌倉に戻っていた。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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11月2日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼経)の持仏堂と小御所および御室戸大僧正の坊と(修法の)壇所の立柱・上棟を行なった。
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   ※御室戸: 現在の宇治三室戸寺(公式サイト)の古名、大僧正は頼経の叔父(九条良経の息子で頼経の父親
九条道家の弟)。弘長三年(1263)に平等院(公式サイト)の執事に任じている。なぜ坊と壇所が必要なのか不明だが、鎌倉来訪の際の対応だろうか。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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11月10日
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吾妻鏡
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在京御家人の大番勤務免除について評議を行なった。
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例えば西国の所領に常駐しながら時々上洛する者は、京都に常駐する御家人に準じた扱いをしてはならない。
六波羅に勤務するのは幕府への奉公であり、大番役から免除される。また大谷中務入道は六波羅に伺候せず所領に下向している。早急に大番役に復帰するよう命令が下された。
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   ※大番役: 平安末期までは3年勤務、頼朝の時代に半年に短縮され、鎌倉時代中期には3ヶ月勤務となった。
貞永式目には召集は守護の権限と明文化されている。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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11月18日
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吾妻鏡
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天変に対応し将軍家の意向を受け安倍泰貞朝臣による天地災変祭を行なった。差配は陸奥掃部助北條実時、水谷左衛門大夫が将軍家の使者として派遣された。
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   ※天地災変祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異や怪異・厄年などの時に行う。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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11月26日
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吾妻鏡
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摂津国渡部の海賊の罪状について、太田民部大夫三善康連の奉行により評定を行なった。この海賊事件により、刑部丞源綱法師の所領を管理する下司職が領家により没収となった。
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   ※摂津国渡部: 現在の北浜駅に近い天神橋(地図)付近にあった港湾施設が渡辺津。摂津国府直轄の港として
繁栄した。ここに本拠を置いたのが摂津源氏源頼光に仕えた渡辺党で、後には源三位頼政の郎党として宇治川合戦を戦っている。 頼朝と同じ時代を生きた僧文覚も元は渡辺党遠藤氏の出身で、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていた。
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元暦二年(1185)2月18日に屋島の平家を攻めるため義経が阿波に強行船出したのも渡辺津、京都を脱出した義経が文治元年(1185)11月6日に鎮西を目指して出航したのは淀川北岸の大物浦(地図)だった。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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12月2日
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吾妻鏡
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晴、風は鎮まった。未刻(14時前後)に将軍家(藤原頼経)が小御所への転居し、武州北條経時が整えた酒宴の席に入った。評定衆も同様に参席した。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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12月10日
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吾妻鏡
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晴。丑刻(深夜2時前後)に新造の壇所(御所の巽(南東)角)の大僧正坊(11月2日に記載した将軍頼経の叔父大僧正房道慶)が転居された。佐渡前司後藤基綱・能登前司三浦光村・但馬前司藤原定員・出羽前司二階堂行義らが加わり、毛利蔵人大夫入道毛利季光が豪華な宴席の準備を整えた。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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12月22日
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吾妻鏡
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奴婢および雑人の息子・娘の処遇について評議あり。10歳までは父母の保護下とし10歳を過ぎれば年令に応じた処遇とする。京都朝廷の管理下にある者には関与しない。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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12月25日
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吾妻鏡
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晴。信濃法印道禅が南御堂(勝長寿院)の廊下で(仏との)結縁の灌頂(wiki)を行なった。将軍家(藤原頼経)および御台所と同御母が臨席し併せて人々も群参した。
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   ※御台所と乙若: 頼経の次男(詳細不詳)で生母は三位中納言・持明院(藤原)家行の娘大宮殿(正室扱い)。
他に寛元元年(1244)に産まれた三男(源恵・生母不明)が本覚寺門跡→日光山別当→勝長寿院別当を経て正応五年(1292)に97世の天台座主に就任している。
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   ※若君と御母: 将軍藤原頼経の嫡子頼嗣と、その生母で側妾の二棟の方(藤原親能(wiki)の娘)。藤原親能は
従二位で権中納言、持明院家行より特に身分が低い筈もなく嫡子まで産んだのになぜだろう。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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12月29日
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吾妻鏡
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晴。午一点(11時過ぎ)に白虹が太陽を貫いた様子を将軍家(藤原頼経)が視認され、人々も同様に確認した。
太陽が中天を過ぎて傾き始めた未申刻(14時~16時)にかけてこの変異は終わり、将軍家は司天(天文担当)を呼んでこの変異について直接質問した。
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まず上席にある安倍泰貞が「この虹に関しては以前から論争があり、今回まで意見の一致はありませんが、雲が太陽を遮っている際には確認できません。」と語り、安倍晴賢は「明らかに日を貫いています。」と語り、国継・晴茂・廣資らは「白虹に間違いありません。」と述べた。
武州北條経時が参上し、その後に御所南庭で七座の泰山府君祭が催された。
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   ※白虹の変異: 霧などの際に見られる白色の虹で兵乱の兆しとされた。延應元年(1239)3月5日と15日にも
白虹に関する記載があり一応の結論が出た筈だが、また同じ論争を繰り返している。
兵乱の兆しだとしても三浦合戦は4年後だから予兆としては早過ぎる。
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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 月 日
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吾妻鏡
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整理中
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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吾妻鏡
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整理中
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西暦1243年
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88代後嵯峨天皇
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寛元元年
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 月 日
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吾妻鏡
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整理中
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