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寛元二年(1244年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月1日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條経時の沙汰による椀飯の儀あり。前右馬頭北條政村(狩衣)が御剣を、若狭前司三浦泰村(狩衣)が御弓箭を、秋田城介 安達義景(狩衣・平礼)が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬(鞍置き)は  左近大夫将監北條時頼   右衛門尉梶原景俊
   二の御馬は  遠江次郎左衛門尉佐原(蘆名)光盛   同、左衛門尉三浦(佐原)五郎盛時
   三の御馬は  左衛門尉武藤景頼   同、左近将監兼頼
   四の御馬は  新左衛門尉平盛時   同、四郎胤泰
   五の御馬は  北條六郎時定   弥次郎左衛門尉
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将軍家(藤原頼経)並びに若君(後の五代将軍藤原頼嗣)と御台所(大宮殿)と二棟の御方(頼嗣の生母)が御行始め(外出初め)として武蔵守北條経時邸に渡御した。
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今日将軍家の御願として久遠壽量院(頼経の持仏堂)で大納言法印隆弁による如意輪法を修した。他に初夜(元旦の前夜)には最勝王経の転読を、日中には観音経を、日暮れからは大般若経の精読を行なった。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 四代執権北條経時は19歳・五代執権になる北條時頼は16歳・六代執権になる北條長時は14歳・
七代執権になる北條政村は39歳・ 北條朝時は51歳・ 三浦泰村は60歳・ 足利義氏は55歳・
結城朝光は76歳・ 将軍藤原頼経は1月16日で27歳・ 次期将軍藤原頼嗣は4歳・
第88代後嵯峨天皇は23歳。(全て満年齢)
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月2日
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吾妻鏡
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相模右近大夫将監北條時定の沙汰による椀飯の儀あり。左近大夫将監北條時定が御剣を、但馬前司藤原定員が御弓箭を、石見前司能行(大江氏一族だが系図に記載なし)が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬(鞍を置く)は  相模七郎  小河右衛門尉
   二の御馬は  駿河式部大夫三浦家村  同、八郎左衛門尉三浦胤村
   三の御馬は  但馬左衛門大夫藤原定範  斎藤左近将監
   四の御馬は  山城前司本間元忠  対馬佐々木太郎重綱
   五の御馬は  越後次郎  同、三郎
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   ※相模七郎: 北條時定が相模六郎だから次弟の持定だと思うが...確信が持てない。
   ※佐々木重綱: 佐々木信綱の長男で大原氏の祖、寛元元年(1243)11月1日に 弟泰綱と所領を争っている。
   ※越後次郎、三郎: 北條光時と次弟の時章かと思うが...これも確信が持てない。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月3日
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吾妻鏡
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晴。遠江入道北條朝時の沙汰による椀飯の儀あり。兵衛大夫毛利廣光が御剣を、遠江式部大夫北條時章が御弓箭を、備前守北條時長が御行騰沓を献じた。
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   一の御馬(鞍を置く)は  遠江修理亮北條時幸  左衛門尉大見実景
   二の御馬は  新左衛門尉平盛時  同、四郎
   三の御馬は  左衛門尉廣河五郎  同、八郎
   四の御馬は  左衛門尉佐原七郎政連  同、兵衛三郎(盛連の子蘆名光盛(生母は矢部禅尼か)
   五の御馬は  左衛門尉遠江三郎北條時長  飯田五郎家重
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   ※大見実景: 大見実政の系だと思うが宇佐美氏との系図が錯綜して確認不可。
   ※同、四郎: 盛時は三郎だから四郎は息子か弟、悪名高い長子の頼綱は仁治二年(1241)前後の誕生だから
除外できるが、盛時の弟は記録に残っていない。
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   ※佐原政連: 佐原(三浦)義連の次男で盛連の弟(本領は会津)、だと思う。
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   ※飯田家重: 頼朝頼家の時代から仕えた御家人で本領は現在の横浜市泉区一帯。いずみ中央駅近くにある
長福寺地図)は家重が頼家の菩提を弔うため建立したと伝わるが、建暦三年(1213)2月下旬に勃発した源頼家の遺児千寿丸を擁立して北條義時の打倒を謀った泉親衡とも関連があるらしい。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月4日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)になって将軍家(藤原頼経が内々の使者を送って大納言法印 隆弁に伝えさせた。
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今年の(私の)本命宿は月曜だが来る16日には月蝕がある。天文道の輩も陰陽道の輩も行動には慎みが必要だと言っているため、今回は月蝕が現れないよう祈ってもらいたい。と。
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隆弁は無理だと上申したが重ねて求められたため領状(了承)した。
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   ※本命宿: 古代中国で信じられた九星(一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫)を産まれた年に
当て嵌めて運勢を占う陰陽道の習慣。
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   ※頼経の行動: 月蝕制御を命じた記事には頼経が愚昧だった可能性と共に、吾妻鏡編纂者(北條得宗シンパ)
が意図的に頼経の資質を貶めた可能性(頼家排斥の例あり)を考える必要がある。
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この年、頼経の外祖父で関東申次を兼任し北條氏との関係を比較的良好に保っていた西園寺公経が実務から退き(8月に死没)、頼経の父で鎌倉と敵対的な関係にあったもう一人の関東申次九条道家と将軍頼経が協力して幕府に政治的な介入を試みるようになっていく。更に北條一族の反得宗勢力を巻き込んで対立軸となる深刻な状況となった。
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当然ながら頼経と執権北條経時の関係は悪化し、4月22日の藤原頼嗣元服・将軍着任に伴って頼経は将軍職から退く結果となる。
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   ※関東申次: 承元四年(1210)に常設された朝廷の役職で、西園寺家の世襲職となっていた(一時期は複数が
着任)。幕府側の六波羅(探題)と共に京都朝廷と鎌倉幕府の関係を調整する窓口となり、鎌倉中期から幕府の滅亡まで続いた。
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   ※将軍退位: 吾妻鏡は頼経の意思による息子頼嗣への譲位を匂わせているが、実質的には執権経時の決断で
頼経を切捨てたと考えるのが妥当。寛元四年(1246)閏4月に勃発する宮騒動の前哨戦である。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月5日
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吾妻鏡
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御弓始めあり。秋田城介安達義景が取り次いで射手の名簿を持参、将軍家は御簾を上げて観覧された。
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  射手
     一番  武田七郎 vs 岡辺左衛門四郎
     二番  桑原平内盛時 vs 早河太郎
     三番  眞板五郎次郎経朝 vs 対馬太郎佐々木頼氏
     四番  肥田四郎左衛門尉 vs 工藤三郎
     五番  小野澤次郎時仲 vs 山内左衛門次郎
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月6日
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吾妻鏡
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窮冬(具体的には前年12月29日を差す)に白虹が太陽を貫いた変異に対応して祈祷を行うよう仰せがあった。
中原師員朝臣がこれを差配する。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月8日
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吾妻鏡
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天変に対応して祈祷が催された。
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  内法(仏教)
     八字文殊は卿僧正   北斗は常住院僧正
     薬師は大蔵卿僧正   尊星王は信濃法印
     金剛童子は如意寺法印圓意   愛染王は大夫法印賢長
     金輪は大貳法印
       以上は護摩行
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  外典(陰陽道)
     天地災変祭は泰貞朝臣   属星祭は晴賢朝臣
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月11日
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吾妻鏡
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同様の祈祷として、鶴岡八幡宮で大般若経の転読あり。伊豆山権現と筥根(箱根)権現では本地仏への祈祷を行うため別当が参籠した。供料は政所の沙汰、三嶋大社でも禅暹僧都本地供を行なった。
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   ※本地仏: 本地垂迹説に基づく考えで、簡単に書くと神は仏の化身であり本来は一体であると考える思想。
神仏を択一するのではなく、併存を合理化するための抜け道として考え出された。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月12日
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吾妻鏡
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孔雀明王供を大納言法印守海、仏眼護摩を大納言法印隆弁が行なった。
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   ※孔雀明王供: 孔雀明王(wiki)を供養する法要、仏眼護摩は人の眼から菩薩の眼までの四種類を備えた仏陀
の眼(五眼)を神格化して供養する護摩行。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月16日
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吾妻鏡
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晴。朝から戌刻(20時前後)まで雲一つない晴天だったが、月蝕の時間になると未申(南西)の方角から一片の雲が現れて間もなく空に広がり小雨まで降り始めた。月蝕が終わる時間になって雲が晴れ、月が鮮明に眺められた。
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丑刻(深夜12時前後)に将軍家(藤原頼経)は御自筆の御賀札(礼状)を添え、鞍を置いた御馬(直山という名馬)と白造りに誂えた御剣などを 隆弁の壇所(祈祷所)に贈った。
使者は肥後三郎左衛門尉為重(父は前太宰小貳狩野為佐、現在は御厩別当に任じている者である。
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隆弁法印は(1月4日に将軍家の仰せを受け)去る8日から明王院(現在の五大堂明王院・公式サイト)の北斗堂(仁治二年(1241)8月25日落慶供養)に参籠して祈願を続けていた。
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   ※明王院: 不動を含む五大明王を本尊とする寺としては鎌倉唯一。
寛永年間(1624~44)の火災で全ての堂宇と仏像は焼失し、本尊の不動明王像のみが辛うじて被災を免れた。
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本尊は作風から運慶の弟弟子の仏師定慶(肥後法橋、「仏師の系図」を参照)が造像を担当したと推定されている。
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その根拠としては作風と明王院の開基が藤原頼経である事、文暦二年(1235)に頼経の正室竹御所の一周忌追善供養のため彫らせた仏像の作者が肥後法橋と記載(同年5月27日の吾妻鏡を参照)されている事で、共に頼経が概ね同時代に関与している事実が傍証となっている。
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右画像は明王院の本尊不動明王像(クリック→拡大表示)
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   ※百錬抄: 月蝕の全容が見えた。元に戻ってから踏歌節会あり、但し帝の出御なし。
           (公家の日記などを編纂した歴史書で鎌倉時代後期の成立、編著者は不明。)
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   ※踏歌節会: 宮中の年中行事。正月14日か15日に男の、16日に女の踏歌(群舞)を帝が紫宸殿で観覧し、
終了後に五位以上の朝臣に宴を賜わるのが通例だった。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月17日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が二所詣の精進潔斎を開始、潮に浴するため由比浦に出御した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月20日
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吾妻鏡
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陰陽師の安倍業氏朝臣が敵により殺害された。
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   ※敵により殺害: 安倍晴明の実力によって陰陽道の本流となった安倍氏は内部の告発合戦と衰退を繰り返し、
晴明の直系子孫が嫡流に復活するのは足利幕府の時代を待つことになる。
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1月22日の記事(百錬抄)では安倍業氏の殺害は京都での事件だが、寛元五年(1247)にも後継者争いが原因で殺人事件を引き起こし、双方が大きなダメージを負っている。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月21日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が二所詣に御進発、供奉の指揮は左親衛北條時頼
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月22日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が筥根(箱根神社)に御奉幣。衆徒と供奉人らと延年(歌舞宴会)となり、各々が芸を披露した。

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   ※百錬抄: 噂によれば前右京亮安倍業氏朝臣が権漏刻博士泰継朝臣により謀殺されたとの事、遺恨を抱いて
いたのが露見し召喚された。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月23日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が三嶋大社に御奉幣。将軍家および供奉の人々は千度詣での後に管弦・歌舞などを楽しんだ。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月24日
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吾妻鏡
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暴風雨あり。将軍家(藤原頼経)が伊豆山(走湯権現)に御参拝。激しい降雨のため供奉人は皆鼻を舐めるような有様だった。伊豆山の衆徒を含めて終夜の歌舞演芸を楽しんだ。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月25日
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吾妻鏡
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夕刻まで雨。将軍家(藤原頼経)が走湯山に御奉幣。昨日が坎日(忌み日)によって今朝に延期していた。夜になって濱部の宿に着御した。
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   ※濱部の宿: 嘉禎四年(1238)10月28日、京都からの帰路に将軍頼経
が宿泊した記録がある。
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「新編相模国風土記稿」に拠れば、「東海道から北に折れた町並み、北側に土手の痕跡が残る付近を御所小路と称した」との記述がある。将軍家が宿所とした「伝・濱部御所」は西酒勾二丁目付近(詳細地図)の可能性がある。
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右画像は伊豆山神社から濱部までのルート図。
現在の道路に落とし込んであるが、建久元年(1190)1月20日の頼朝ニ所詣の記録には
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ニ所詣初日の伊豆山権現に向かう途中で 石橋山合戦場に立ち寄り、佐奈田与一と郎従豊三の討死を思い出した頼朝が涙を流した、不吉なので次回からは順路を逆にした。
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と書かれており、現在と大差のないルートが通じていたと想像できる。
ちなみに、与一らの討死は治承四年(1180)8月23日夜、雨中の乱戦だった。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月26日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に将軍家(藤原頼経)が鎌倉に戻り幕府に入御した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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1月27日
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吾妻鏡
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御所で椀飯(1月1日参照)があり、人々は布衣(狩衣・武士の略礼服)で参入した。終了後に二棟の御方(後の五代将軍藤原頼嗣の生母)の御所で酒宴あり。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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2月3日
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吾妻鏡
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晴。故前右京兆禅室(北條泰時)の孫女(富士姫公と号す)が駿河国富士郡に下向した。
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   ※富士郡: 当時の得宗領で現在の富士市と富士宮市(右画像)
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   ※富士姫: 北條時氏泰時の長男で早世したため執権は継いでいない)の
娘で、後に足利泰氏の正室として嫁した。
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それまでの正室だった北條朝時の娘は側室に移され、彼女が産んだ(それまで嫡子扱いだった) 長氏は尾張足利氏に入って吉良氏の祖となり、足利宗家の四代当主(泰氏の後継)は富士姫が産んだ頼氏が継いでいる。
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得宗家との血縁を深めることで相互の関係を強化したのだろうが、泰氏の父北條時氏も泰時の娘(異腹らしい)を正室に迎えているから少しやり過ぎだった感はある。
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更に遡れば、足利義氏の父義兼北條時政の娘を正室に迎え、庶長子義純は正室だった新田義兼の娘と息子二人を離縁し義時政子の意向を受けて畠山重忠の寡婦(時政の娘で政子の妹)を正妻に迎え、畠山の名跡を継いでいる。そして、「因果は巡る糸ぐるま」でもないだろうが...
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北條氏と鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義貞足利尊氏(高氏)で、更に元弘三年(1333)に幕命を受けて鎌倉から楠木正成追討のため西に向かった高氏が三河の吉良領に入り、その際に倒幕の挙兵を勧めて決心を促したのが吉良長氏の孫・貞義だというのも面白い。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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2月15日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に雷鳴あり。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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2月16日
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吾妻鏡
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今日評定衆による協議があり数件の法令が定められた。
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  一.奴婢の養子について
奴婢を支配する立場の者は売買に関与してはならない。
  一.寛喜の飢饉の際に認めた養子の売買について
血縁ではない非人の身分には関与しない。血縁は一代のみ認めるが子孫までは及ばない。
  一.売買された奴婢を買い戻すことについて
この法令以前の事例は元の所有者に返還する。今後は人身売買に当たる犯罪であり認められない。
  一.六波羅による西国守護の管理範囲について
鎮西(九州)は大将家(頼朝)の時代に準じて処理し、式目に拠る必要はない。その他の西国は式目に従って処理するよう、六波羅に指示を行う。
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   ※頼朝の時代: 鎮西は九州惣追捕使に任じた天野遠景の管理下にあったが、実質的には順調に推移したとは
言い難く、鎮西の国人(地侍)の反発を受けて建久元年(1194)に解任されている。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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2月23日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に若君(後の五代将軍藤原頼嗣)が体調不良の気配あり。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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2月24日
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吾妻鏡
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若君(頼嗣)の体調不良に対応して祈祷が行われた。霊気は安倍泰貞、二座の鬼気祭は(国継と文元が任じた。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月1日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼経)が鎌倉中の諸堂を巡礼、また各所の桜花を見物した。天変地異があって思いついたものである。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月2日
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史 料
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   ※平戸記: 晴。早朝に筑後前司孝行(光行の三男)が来訪し、父の光行法師(源光行)が去る2月17日に関東
(鎌倉)で死去した。鎌倉には(長男の親行を始め)何人かの猶子(準・養子)や庶子がおり、在京している自分たちと法事について相談している。両方で催すべきではないため京都で行うことになるだろう。在京の子息らには何も問題なく暮らしており、法事には支障がない、と。
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平戸記の詳細はwikiを参照されたし。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月6日
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史 料
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   ※平戸記: 今夜追加の除目があった。正五位下に平泰村(三浦泰村)、従五位上に平時頼(北條時頼.

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      ※両者の年令: 三浦泰村は60歳、ワンランク上に叙された時頼は16歳。不満の蓄積はあっただろう。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月12日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に若君(後の五代将軍頼嗣)が再び体調不良。但馬前司藤原定員の担当で祈祷が手配された。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月13日
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吾妻鏡
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若君(頼嗣)を守護する祈祷に加えて陰陽道による祭祀を催した。泰山府君祭は安倍晴賢、土公祭は泰貞、鬼気祭は国継。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月14日
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吾妻鏡
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若君(頼嗣)の病気に対応する祈祷について、武州(北條経時)から特に指示があった。
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今日隆弁法印が御所に呼ばれ、不動呪による加持祈祷を行った。更に重ねて安倍晴賢による泰山府君祭、文元による鬼気祭、国継による呪咀を催した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月15日
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吾妻鏡
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若君(頼嗣)の病気が快方に向かい少々の食事を摂れるようになったが更に祈祷のため御所で不動護摩を修した。大納言法印隆弁がこれを務めた。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月17日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に若君の体調不良が再発し、ふたたび祭祀が催された。七座(七人)による招魂祭は晴賢・文元・晴長・宣賢・国継・廣資、霊気祭は泰貞が努めた。奉行は但馬前司藤原定員
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   ※招魂祭: 生きている者から遊離した魂を呼び戻す陰陽道の祈祷。七座なのに六人? 泰貞を含む?
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月18日
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吾妻鏡
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隆弁法印が御所で不動法を修した。これも若君の病気に対応する祈祷で、隆弁が最も霊力を有する人物である。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月24日
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吾妻鏡
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御所に於ける加持祈祷が結願終了した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月27日
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吾妻鏡
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若君(頼嗣)の病気が平愈。大納言法印隆弁が二棟の御所(頼嗣の生母の御所)で褒賞(五衣一領)を下賜された。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月28日
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吾妻鏡
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武州(北條経時)が訴訟人と面談し、数人が集まった。訴訟を却下され再審を求めている者である。
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経時は「その理非を分担して聞き取り、摂津前司中原師員と佐渡前司後藤基綱と信濃民部大夫入道二階堂行盛に報告して評定所の判断を求めよ」と命じ、平左衛門四郎・万年馬允・安東左衛門五郎を添えて評定所に送り届けた。
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   平四郎・万年馬允・安東五郎はいずれも得宗被官(御内人)。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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3月30日
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吾妻鏡
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若君御前(頼嗣)の病気が癒え、今日沐浴によって病の穢を払う儀式が行なわれた。
御湯の加持祈祷は常住院大僧正坊、医師の以長も加わった。儀式が終わってから鞠の中庭で以長に御剣と御馬(鞍置き)を下賜され、 武州・左親衛北條経時・前右馬権頭北條政村・丹後前司足利泰氏らが列席した。
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今日若君の息災を祈るため大納言法印隆弁を筥根山に派遣した。先ず精進潔斎の家に入り来月三日に出発するよう厳命があり、三七・二十一ヶ日の参籠を行なう。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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4月3日
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吾妻鏡
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若君御前(後の五代将軍藤原頼嗣)の元服についての沙汰があった。
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まず御祈りのため春日大社の祈壇で唯識経講じ讃する法会を始めるよう指示が下り、布施として被物十重・裹物十・供米十石は六波羅の相州北條重時に手配を命じた。この吉事は来る21日と定め、併せて吉書始めを行なうため後日同様に春日大社に周知を図るよう六波羅に通達した。
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   ※春日大社: 奈良春日大社は藤原氏の氏神、興福寺は氏寺。唯識はwikiを参照。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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4月10日
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吾妻鏡
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晴。富士姫君(2月3日を参照)が駿河国から上洛の途に就いた。有棲河黄門の御猶子となるためである。
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   ※有棲河黄門: 富士姫は正室として足利泰氏に嫁する。泰氏には既に正室(北條朝時の娘)がいるから、彼女を
押し退けて正室になるためには「中納言の娘」の格式が必要なのだろう。有棲河黄門が誰か正確には判らないが、大納言藤原泰通(wiki)の次男国通が該当する可能性があるから面白い。
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元久二年(1205)7月の北條時政夫妻の失脚に連座して娘婿の平賀朝雅が京都で追討され(吾妻鏡の閏7月26日)、朝雅の妻(時政夫妻の娘)は権中納言藤原国通に再嫁した。
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時政が没した建保三年(1215)1月以後の牧の方は京都の娘夫妻の元に身を寄せて贅沢に暮らしていたらしく、藤原定家は明月記でその様子を悪し様に批判している(嘉禄三年(1227)1月23日の「明月記」の項を参照)。定家の息子が為家、為家の後妻が阿仏尼だね。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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4月21日
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吾妻鏡
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晴。今日将軍家の若君(六歳、御名は頼嗣、御母は中納言(藤原)親能卿の娘・大宮の局)が御元服。
嘉禄の例に倣って、前佐渡守後藤基綱の差配により、申刻(16時前後)に執り行った。
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        ~ 元服の所作は煩雑のため略す。 ~
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再三の儀式が長く続いたが若君には特に緊張などは見られず偏に成人の如くで、貴賤は誰もが感嘆した。また御任官については嘉禄の例に任せて後日とし、同時に将軍職継承の宣旨を受けることになる。
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これらは天変地異によって(将軍頼経が)突然譲位を思い立ったもので、5月と6月は御慎み(新たな行動を慎む月)に当たるため今月に行なう事となった。御名字は兼ねて噂になっていた兼頼で京都で選定した中の一つだったが、命名を頼嗣と定めたのは将軍家の意向である。
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次いで武州北條経時が評定衆を伴って政所に入り吉書始めの儀があり、左衛門尉清原満定が書記を務めた。
終了後に武州経時が御所に運び、将軍(藤原頼経)が寝殿南面(公式の座)で摂津前司中原師員朝臣が読み上げるのを聞いた。参席した評定衆も着座してこれを聞き、その後に政所に戻って献盃した。信濃民部大夫二階堂行泰・同二階堂次郎行頼・大夫判官二階堂行綱・四郎左衛門尉二階堂行忠らが(評定衆の)所役に就いた。
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  着座の次第
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  一方
    前右馬権頭北條政村  若狭前司三浦泰村  秋田城介安達義景  下野前司宇都宮泰綱
    能登前司三浦光村  上総権介千葉秀胤  備前守小笠原時長  民部大夫三善(太田)康連
    外記大夫矢野(三善)倫重
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  一方
    遠江守北條朝直  摂津前司中原師員  甲斐前司長井泰秀  佐渡前司後藤基綱
    出羽前司二階堂行義  前太宰狩野為佐  左衛門尉清原清定
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次に御元服が無事に終わった件と、新冠(頼嗣)の任官叙位について京都朝廷に申し入れる件を書状に整え、征夷大将軍を冠者殿(頼嗣)に譲る件を含めて新左衛門尉平盛時を使節と定めた。すでに黄昏だが吉日であり急を要する事案でもあるため、行程六ヶ日の予定で上洛の途に就いた。
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   ※嘉禄の例: (1227年)2月13日の吾妻鏡で「京都から帰着した佐々木四郎信綱が「藤原頼経を征夷大将軍
に任じる旨の宣下があり、右近衛少将に任じ正五位下に叙位となった。」と報告している。頼経の元服(八歳)は前年の12月29日、明けて1月11日には信綱が使節として上洛の途に就いた。
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   ※突然の譲位: もちろんこの譲位には伏線があり、1月4日の記事(下記)を参照されたし。
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「頼経の外祖父で関東申次を兼任し北條氏との関係を比較的良好に保っていた西園寺公経が実務から退き(8月に死没)、頼経の父で鎌倉と敵対的な関係にあったもう一人の関東申次九条道家と将軍頼経が協力して幕府に政治的な介入を試みるようになっていく。更に北條一族の反得宗勢力を巻き込んで対立軸となる深刻な状況となった。」
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ただし西園寺公経の退任時期と、道家と頼経による幕政介入について裏付ける具体的な資料が手元にないため、状況証拠に依拠している。
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   ※二階堂行頼: 行泰の嫡子で満14歳。建長二年(1250)に近習番、文応元年(1260)に従五位下・加賀守、
弘長二年(1262)に引付衆を経て政所執事に任じている。翌年12月に33歳で死没。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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4月25日
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史 料
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   ※平戸記: 晴。今年は旱魃の気配があり農地の乾燥が続いている。また疫病で落命する者も現れている。 .
西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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4月26日
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吾妻鏡
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晴。今夜四角四堺の鬼気祭を行なった。咳と発熱を伴う疫病が貴賤を問わず流行し、将軍家(この時点では藤原頼経)の若君二人も罹病したことに対応している。乙若君は未だに治癒する気配が見られない。
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   ※四角四堺: 四角は御所敷地の四隅、四堺は鎌倉と外界とを隔てる
境界(右画像を参照)。小坪と稲村は判りやいが、山内は建長寺(公式サイト)の付近から粟船山常楽寺の北(横浜市の一部)までが含まれる。
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また朝夷奈切通し朝夷奈切通し(wiki)を抜けた辺りから六浦に含まれるから、北側の山内と六浦の二ヶ所の正確な位置の指定はむずかしい。
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嘉禎元年(1235)12月20日の吾妻鏡には「北の巨福呂坂、南の小坪・東の六浦・西の固瀬河」とあるから、それほど厳密な位置指定ではなく多少の使い分けがあったようだ。
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   ※鬼気祭: 疫病などの災厄を防ぐための陰陽道の祭祀。
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   ※乙若君: 頼経の次男(詳細不詳)で生母は三位中納言・持明院(藤原)家行の娘大宮殿(正室扱い)。
他に寛元元年(1244)に産まれた三男(源恵・生母不明)が本覚寺門跡→日光山別当→勝長寿院別当を経て正応五年(1292)に97世の天台座主に就任している。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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4月27日
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史 料
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   ※平戸記: 晴。関東の飛脚が到着、将軍頼経の息子(五歳)が先月22日に元服した旨を報告した。将軍の職を
譲ることになる、と。また名前などについても殿下(西園寺公経)から早く新将軍に補任する件と官位の叙目について非公式に申し入れがあった。今日の措置は延引され明日行なうことになる。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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4月28日
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史 料
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   ※平戸記: 晴。今日除目あり。征夷大将軍に藤原頼嗣(正二位藤原朝臣の譲任)  右近権少将藤原頼嗣
従五位上藤原頼嗣(臨時)  五歳の将軍は如何なものか。この時点で(将軍職を)譲補するのは世間の疑惑を招くだろう。 鎌倉の思惑は不審である。
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   ※百錬抄: 小除目有り。征夷大将軍藤原頼嗣(正二位藤原朝臣の譲任)。去る21日に元服、右近少将に任じ
従五位上に叙された。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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4月29日
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吾妻鏡
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   ※平戸記: 疫病が蔓延し、家毎に病人が臥せっている。このような災厄は近年起きなかった事、恐るべし。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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5月5日
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吾妻鏡
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新左衛門尉平盛綱が京都から帰還し、先月28日の宣下と除書を持ち帰った。冠者殿(藤原頼嗣)が征夷大将軍の宣旨を受けて右近衛少将に任じ、従五位上に叙された。盛時はこの使者として先月22日に鎌倉を出発していた。
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武蔵守北條経時は宣下と除書を携えて御所に赴き、前大納言家(前将軍藤原頼経)にこの書類を呈上した。
また祝賀の儀式を行ない、盛時を召し出し藤原定員を介して御剣を与えた。
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夜に入り、御所に於いて端午節を祝う和歌の御会あり。源式部大夫親行(光行の嫡子)・能登前司三浦光村・式部大夫入道光西(伊賀光宗)らが参席した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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5月11日
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吾妻鏡
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将軍私邸に於いて御酒宴あり。大殿(藤原頼経)・武蔵守北條経時・左親衛北條時頼らが列席し舞女祇光(今出河殿(西園寺公経)お抱えの白拍子、22歳)が見事な芸を披露した。大蔵権少輔結城朝広・能登前司三浦光村・和泉前司二階堂行方・佐渡五郎左衛門尉基隆(後藤基綱の四男)らが猿楽を演じてみせた。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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5月15日
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吾妻鏡
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前将軍藤原頼経の御持仏堂(久遠壽量院)で供花の法要。諸人が群参し前大納言家(頼経)が自ら花を供えた。
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   ※久遠壽量院: 別当次第(別当が書き残した記録)は現在京都の東寺が収蔵する。将来の公開に期待しよう。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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5月18日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に前大納言家(前将軍藤原頼経)と新将軍(藤原頼嗣)が体調を崩し意識がはっきりしない状態になった。他にも二位殿と三位殿も同様に患っており、最近は誰もが罹病している。俗に三日病と呼んでいるらしい。今夜から三夜続けての鬼気祭を文元が勤め、但馬前司藤原定員がこれを奉行する。
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   ※二位殿: この時点では九条道家の四男で頼経の次兄一条実経(wiki)が正二位だが、該当する根拠はない。
三位殿も同様に、不明。ひょっとして頼嗣の弟二人を差しているのかな。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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5月20日
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吾妻鏡
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両御方(頼経と頼嗣)が罹病しているため重ねて祈祷を行なった。大殿(藤原頼経)の御方の呪咀は安倍晴賢朝臣で招魂祭は宣賢、将軍家(藤原頼嗣)の御方は安倍国継による鬼気祭である。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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5月21日
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吾妻鏡
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両所(頼経と頼嗣)の病状には回復の兆しが現れている。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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5月26日
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吾妻鏡
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乙若君(頼嗣の次弟)御前の病状は相変わらず快方に向かわず、午刻(14時前後)に参河前司清原教隆の奉行として陰陽師を呼び、護身(の加持祈祷)を行うべきかを尋ねた。晴賢・文元・晴茂・国継・廣資・泰房らが占ったところ様子を見るべきとの結論が出た。夜になって七座(七人)の鬼気祭および四方四角の祭祀を御所の外で行なった。
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     艮方(北東)は晴賢  東方は文元  巽方(南東)は為親  南方は晴茂
     坤方(南西)は晴長  西方は国継  乾方(北西)は晴貞  北方は泰房
     如法(規則に従って行なう)泰山府君祭は廣資
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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5月29日
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吾妻鏡
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若君御前(五代将軍藤原頼嗣)の祈祷として十壇の炎魔(閻魔)天供を行なった。
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     一壇 大蔵卿僧正    一壇 宮内卿法印
     一壇 大貳法印      一壇 宰相法印縁快
     一壇 三位法印頼兼   一壇 播磨僧都厳懐
     一壇 弁僧都審範    一壇 宮内卿僧都
     一壇 大納言僧都    一壇 三位僧都
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この他に鶴岡八幡宮に於いて大般若経の転読を行なった。
また八幡宮の上宮と下宮および二所(箱根権現と走湯(伊豆山)権現)・三嶋大社に各々神馬一疋を献納した。
摂津前司中原師員朝臣と前太宰小貳狩野為佐が奉行である。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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5月30日
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吾妻鏡
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若君(頼嗣の次弟・乙若)の病気に対応して引き続き祈祷を行ない、廣資が代厄祭(災厄を避ける祈祷)に任じた。
今年が太一定分の厄に当たり、助法印珍譽から厄除けの祈祷が必要であると上申した結果である。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月1日
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吾妻鏡
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御台所並びに新将軍(頼嗣)の病気が平癒し、今日病の穢を払う御沐浴の儀あり。医師は頼幸。
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   ※御台所: 頼経の正妻である三位中納言(持明院(藤原)家行)の娘大宮殿。次男乙若の生母でもある。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月2日
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吾妻鏡
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日照りに対応して祈雨の祈祷を行うよう鶴岡八幡宮の供僧に指示を下し、出羽前司二階堂行義がこれを差配した。奉行は信濃民部大夫入道二階堂行盛、政所から供米10石が支給された。また御所に於いて七ヶ日連続の不動経読誦が始まり、政所の沙汰として衆僧20人に各々一石の米が下賜された。奉行は中原師員朝臣。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月3日
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吾妻鏡
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天変に対応して祈祷が行なわれた。
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  前大納言家(藤原頼経)分として、
     一字金輪を信濃法印   孔雀経法を二條法印
     尊星王法を如意寺法印   天地災変祭を泰貞
     太白星祭を晴茂   歳星祭を文元
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  将軍家(五代将軍藤原頼嗣)分として、
     北斗護摩を大僧正   薬師供を民部卿法印   天地災変祭を晴賢
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月4日
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吾妻鏡
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前大納言家(藤原頼経)は御願として後鳥羽院を追善供養するため兼ねてから法華経百部の摺写を行なっている。
この形木(版木)は後鳥羽院の宸筆(上皇の直筆)を彫ったもので、今日百部の供養を遂げられた。
導師は大蔵卿僧正良信で請僧は七人、布施を配ったのは坊門少将清基と水谷左衛門大夫重輔。
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また一旬を越えた日照りに対応して降雨を祈る十壇の水天供が始められた。任じたのは権僧正良信と良勝、法印賢長・承快・頼兼・定親・隆弁、僧都良全・定清・守海。
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この日、前対馬守従五位上の三善(矢野)倫重朝臣が死去した(55歳)。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月5日
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吾妻鏡
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申刻(16時前後)に雷鳴と降雨あり。日照りに対応して雨乞いの祈祷を行なった結果の雨だが国土を潤せるほどの量ではなく、水天供は更に続けられる。
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今日、千田判官代入道蓮性と市村小次郎景家の裁判が結審した。 この事件は景家から蓮性が行なったという人拐いを訴え出たもので、その事実なしと判断され讒訴の過料として橋を一ヶ所補修する義務を課した。平内左衛門尉と鎌田三郎入道がこれを管理する。
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   ※千田と市村: 千田姓の一つは下総千田荘(香取郡多古町・地図)を本領
とした千葉氏庶流、もう一つは長野市南部を流れる犀川北岸の稲葉千田(地図)を本拠にした千田氏。
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一方で市村氏は木曽義仲が初めて史料に現れた市原合戦(吾妻鏡の治承四年(1180)9月7日)が行なわれた北国街道市村の渡し付近(稲葉千田に隣接、市原は吾妻鏡の誤記らしい)を本領とした在地の武士。
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この地域が千田氏と市村氏の双方に共通しており、千田氏と市村氏の名は信濃国史にも現れている。
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   右画像は旧・市村の渡し北側に建つ市村神社。
   市原合戦の詳細は画像をクリック→ 善光寺裏(市原)合戦で。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月8日
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吾妻鏡
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御所の大納言家(藤原頼経)の持仏堂(久遠壽量院)に於いて八万四千基の泥塔供養※: を行ない、曼陀羅供を奉じた。導師は大阿闍梨三位法印猷尊、讃衆(唱和する僧)は六口(六人)。
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   ※泥塔: 紀元前5世紀前後に没した釈迦の遺骨を紀元前3世紀中盤に
マガダ国のアショーカ王が取り出し八萬四千の舎利に分骨して新たな仏塔を造ったことに由来する。
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この仏塔を模した土製の小塔を供えて供養を行う風習が平安中期以降には盛んに行われ、京都の六勝寺や鳥羽離宮跡から多数出土している(右画像・クリック→ 拡大表示)
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この円盤形はインド古代墳墓の形を模したのが原形とされる。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月9日
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吾妻鏡
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雨。これこそは甘雨と言うべきか。
祈祷に任じた僧徒が読み上げた経巻数の数を書いて中原師員朝臣に提出、水天供は延期となった。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月10日
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吾妻鏡
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肥前国の御家人久有志良左衛門三郎兼継が訴え出た安徳左衛門尉政尚の一族五人が(幕府に無断で)任官した件について、政尚と政家の所領三分の二を没収する処分となった。前兵庫助藤原定員がこの件を奉行する。
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   ※安徳: この地名は島原市南部(地図)にあるが、該当の有無は不明、久有志良も該当なし。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月13日
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吾妻鏡
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将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が元服し任官して最初の吉書始めの儀があり、更に御行始め(外出初め)として秋田城介 安達義景の甘縄邸(地図)に入御した。
前大納言家(前将軍藤原頼経)が見物に牛車を小町口(現在の大町四ツ角・地図)の西に停め、供奉人(上括りの布衣)がその近くに控えた。岡崎僧正道慶も同様に牛車を停め、未刻(14時前後)に将軍家が出御した。
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  行列
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  先ず随兵(三騎が並ぶ)
    一番 壱岐前司佐々木泰綱 河越掃部助泰重  常陸修理亮重継
    二番 大蔵権少輔結城朝広   駿河式部大夫三浦家村  左衛門尉大須賀七郎重信(胤信の孫?)
    三番 遠江式部大夫北條時章   上野前司畠山泰国   陸奥掃部助北條実時
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  次いで(将軍の)御車
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    左衛門尉三浦資村  兵衛尉結城五郎重光  下総小太郎
    河越五郎重員  左衛門尉佐々木次郎宗氏  氏家余三経朝
    武田三郎政綱  相馬次郎兵衛尉胤継  幸嶋次郎時村
    下河邊左衛門三郎  遠江左衛門尉三浦(佐原)五郎盛時  上野十郎結城朝村
    小野澤次郎時仲  伊豆六郎左衛門尉  式部兵衛太郎伊東光政
    土屋左衛門三郎  廣澤三郎左衛門尉  左衛門尉小野寺四郎通時
    武藤右近将監兼頼  波多野小次郎宣経
      已上帯劔・直垂、御車の左右に候す。
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  次いで御調度懸け
    梶原右衛門尉景俊
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  次いで五位六位(布衣・下括り)
    一番 遠江守北條朝直  越後守北條光時
    二番 宮内少輔足利泰氏
    三番 左近大夫将監北條時頼  兵衛大夫毛利廣光
    四番 出羽前司二階堂行義  石見前司大江能行
    五番 隼人正伊賀光重
    六番 弥次郎左衛門尉親盛  肥前太郎左衛門尉佐原胤家
    七番 遠江次郎左衛門尉佐原光盛  信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 .

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   ※河越泰重: 当主の重頼と長男の重房は義経の縁戚として追討され、宗家は次男重時から三代当主泰重へと
続き北條氏とは良好な関係を保っていく。
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   ※畠山泰国: 足利義純の三男。元久二年(1205)に畠山重忠が追討され、彼の正室(北條時政娘)が足利義兼
の庶長子義純に再嫁し、義純は妻子(新田義兼の娘と男児二人(後の岩松時兼と田中時朝)・清和源氏の系図を参照)を離縁しも畠山重忠の所領と名蹟を継承した。実際に畠山を名乗ったのは義純ではなく泰国が初代となる。
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   ※結城重光: 朝光の七男で山川氏の祖、朝村は八男で白戸氏の祖。
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   ※河越重員: 重頼と長男の重房が義経の縁戚として追討され、家督は次男重時-泰重と続き、三男重員の方は
秩父氏から河越氏に相伝した名誉職・武蔵国惣検校職を継承した。北條氏の内部分断策と考えられ、以後の河越氏は北條氏の思惑通り二流に分裂していく。
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   ※佐々木宗氏: この名は鎌倉時代中期の佐々木氏系図には存在せず、この時代に左衛門尉だった佐々木氏信
ではないか、と思う。仁治三年(1242)に父の佐々木信綱が没し、江北の六郡と京都の京極高辻館を継承して京極氏の祖となり、文永三年(1266)には評定衆に名を連ねている。
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   ※氏家経朝: 宗円-三男公頼が氏家郷(現在のさくら市氏家・地図・鬼怒川東岸に見事な城址あり)に土着し、
嫡男公信へと続く宇都宮氏の傍流。一族の一部は奥州探題となった斯波氏(大崎氏)に従って奥州に入ったが、氏家に残った宗家は南北朝時代(六代目の綱元)に断絶した。
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   ※武田政綱: 武田(石和)信光-三男で嫡子の信政-次男が政綱。長男の信時は安芸国守護として赴任し甲斐
に残った政綱の孫が甲斐守護に任じたが南北朝時代には信時の子孫が甲斐に戻り、室町時代に甲斐守護に任じて戦国大名武田信玄へと続いていく。
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   ※相馬胤継: 千葉常胤千葉(相馬)師常-二代義胤-三代胤綱-長男胤継と続いたが継母(天野政景の娘)
に義絶され、継母が産んだ胤村が四代目を継いでいる。
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   ※幸嶋時村: 下川邊氏の一族現在の茨城県古河市新和田(地図)を本拠にした武士。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月15日
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吾妻鏡
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故・前武州禅室(北條泰時)の三周忌法事あり。
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   ※泰時三周忌: 当然ながら、会場は大船の常楽寺(サイト内リンク・別窓)だろう。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月16日
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史 料
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   ※平戸記: 干天が10日以上続いても降雨の気配はなく、祈祷も効果を現さない。(幕府の)政治の誤りにより
人々の苦しみが続き病人も日毎に増えている。私も暫く出仕していない。  平戸記の詳細(wiki)
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月17日
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吾妻鏡
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新田太郎政義は上野国の所役である大番勤務のため在京していたが、病気を称して突然出家してしまった。
その間の事情を六波羅および(大番役を差配する)番頭の城九郎安達泰盛にも通知していない旨の報告書が鎌倉に届き、評定衆による会議の場で、定めてある規則に従って所領の一ヶ所を没収する沙汰が下された。
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また遠国からの訴訟については、西収(秋の収穫)の前に召喚の命令書を発行してはならない、と定めた。
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   ※新田政義: 新田義兼の孫。今回の怠慢に続いて寛元二年(1244)
には大番役を勤めた京都で幕府に無許可で定法に背く昇殿と任官を朝廷に要求して拒否された。臍を曲げたらしい政義は幕府に無届けで出家し、大番役を放棄して新田に帰った上に幕府への出頭をも拒否した。
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結果として政義は所領の一部を没収されて隠居、惣領権は同族の世良田(得川)義季(義重の四男)と岩松時兼が引継ぎ、新田宗家は宗家としての権限まで失ってしまう。
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政義が重ねた愚行により所領が激減した新田宗家は四代後の新田義貞まで長い不遇と貧困の時代を過ごす。
その鬱屈が伏線となり、弘安三年(1333)に北條高時が派遣した徴税使の強引な取立てに立腹して斬り殺し倒幕の兵を挙げた、とも言われている。
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右画像は政義が建立した新田宗家菩提寺の円福寺墓所。累代の五輪塔が並んでいる。
   画像をクリック→円福寺の詳細へ(別窓)
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   ※安達泰盛: 当時は13歳。9年後に父の義景が死没し満22歳で家督を継承する。この時点の上野国守護職は
安達氏が世襲しているが、現任の守護が先代の安達景盛か義景かは不明。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月22日
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史 料
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   ※平戸記: 晴。今夜除目あり。従四位上に平重時(北條重時)、従四位下に平政村(北條政村)。.
西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月27日
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吾妻鏡
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有間左衛門尉朝澄が申し出ている肥前国高木東郷の地頭職について懸物状(訴訟を起こす担保状)を提出した。
しかしこの件は故武州禅室(北條泰時)の時代に結審しており、特段の理由なしに変更する必要はない。
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遠江入道北條朝時がこの件を議題に取り挙げたことから 清原清定の奉行として臨時の評定を催したが、結果として廃案となった。
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また今後は問注記(原告と被告両方の主張記録)を読んで当事者と担当官が確認するべき日に奉行人(裁判官)の出席が遅延するような事があれば正確に記録して提出せよ、との指示があった。
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   ※高木東郷: 高木郡の中の、現在の国見町一帯(地図)。
承久三年(1221)8月の関東下知状には平家没官領(本所は仁和寺)と記録されている(右画像を参照。)
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寛元四年(1246)3月13日の吾妻鏡に有馬朝澄と越中政員が同じ高木郡内の串山郷について叉も争っている記録があり、要するに在地の土豪だった有馬氏と東国の御家人で高木郡の一部を恩賞として得た越中氏が利権を争っていたらしい。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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6月29日
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吾妻鏡
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山城国の平河兵衛入道は武威を振り翳して朝廷の政道に違背しているとの通達が(朝廷から)届いた事について評議があり、今後の法令を定めた。御家人ではない者の違法行為に対応せよとの綸旨(勅命)が下っても(幕府の権限範囲ではないとの)仔細を説明し、行動で対処してはならない。ただし刃傷や殺害狼藉などについては対応する範囲に含まれる。また罪科が定まる前に没収地を望むなどの関与する事については、幕府が判断する範囲ではない。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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7月5日
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吾妻鏡
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晴。永福寺並びに両方の脇堂(北側の薬師堂と南側の阿弥陀堂)の修理に取り掛かった。今日が作事の開始となり、肥前前司久良と民部大夫中原元業が儀式の進行役に任じた。
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この寺は右大将軍(頼朝)時代の文治五年(1189)に特別な素願により建立したのだが、数十年の星霜を経て既に破損が進んでいた。

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   ※永福寺: 鶴岡・勝長寿院と並んで頼朝が建立した三大寺社の一つ。
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文治五年9月の奥州合戦で遠征した平泉で見た二階大堂(大長寿院)に深い感銘を受けた頼朝が同じく平泉にあった無量光院を模して建造に着手し、三年の歳月を費やした建久三年(1192)11月25日に落慶供養を行なった。
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数回の火災を経て応永十二年(1405年・室町幕府の将軍足利義満の頃)に全焼し、そのまま廃寺となった。
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右画像は1206年夏現在の鳥瞰図(クリック→ 拡大表示)。
最終的に明細が掴めない建造物は復元せず庭園や苑池を整備して歴史公園にするらしい。 復元の推定画像などは永福寺跡発掘調査のサイト(外部)で。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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7月13日
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吾妻鏡
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久遠壽量院(前将軍藤原頼経の御持仏堂)で仏陀に供花する法要が行なわれ、大殿(頼経)と将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が供花した。女房(女官)数人が順番に補佐役を務めた。
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   ※御持仏堂: 御所の敷地に建てられた久遠寿量院。この名称が吾妻鏡に載るのは延應元年(1239)5月12日
が最初となる。久遠寿量院の別当を務めていた教雅が記録した「別当次第」などは彼を経由して東寺の別院に移っている。 この文書は詳細を調査中、いずれネット上でも公開されるだろう。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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7月14日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に地震あり。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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7月15日
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吾妻鏡
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皆既月蝕の様子がはっきりと確認できた。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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7月16日
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吾妻鏡
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久遠壽量院で催した供花法会の結願日である。大殿(前将軍藤原頼経)と将軍家(藤原頼嗣)が入御し、岡崎僧正・内大臣法印・大蔵卿法印らが参集した。垂髪の稚児と僧徒および俗人が分かれて延年(俗謡・歌舞)を演じ、 三浦光村三浦家村らもそれに混じって芸を披露した。
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今日評定があり、筑後国の御家人吉井四郎長廣と同じく御家人矢部十郎直澄が争っている生葉庄内の得安名にある屋敷と田畠について、虚偽によって発行した下知状を返却させ貞応の御成敗に基づいて本所(荘園の所有者)の判断に委ねる、とした。
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次に日野六郎長用と平五郎季長法師(法名妙蓮)が争っている伯耆国日野新印郷および下村得分物(年貢として得た収益)の件は6月20日の御教書を虚偽によって得た罪科が明白なので日野長用を出仕停止に処した。この二件は共に対馬前司三善(矢野)倫重が奉行に任じる。
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   ※平戸記: 今朝聞いた話では関東の飛脚が一昨夜六波羅に到着し、遠江入道北條朝時法師(北條泰時の弟で
相模守北條重時の兄)が痢病(赤痢・疫痢など)のため緊急事態に及んでいる。これにより重時の息子が明日早暁に京都を発って鎌倉に向かう、と。
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朝時の死没は翌年4月、今回は大事に至らなかった。また在京の息子が誰かは確認できない。
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   ※生葉庄: 現在の福岡県うきは市に吉井町生葉く(地図)の地名がある。得安名は確認できない。
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   ※日野新印郷: 現在の鳥取県西伯郡伯耆町(地図)長用と季長は共に日野一族で、文永二年(1272)にも同族
の内部で再び所有権を争っている。
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   ※貞応の御成敗: 吾妻鏡の貞応二年(1223)8月3日に次の記載がある。
所領に関して訴訟を起こした者が寺社などへの寄付を装って没収を逃れる事を禁止する。
これに違背した例らしいが、両者とも御家人なのに本所の判断に委ねる理由が判らない。
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   ※対馬前司: 三善(矢野)倫重の筈なのだが、6月4日に死没の記事がある。倫重は公事奉行(恩沢・寺社など
の総称)の家柄だが叔父の町野康俊(祖父三善康信の嫡子で問注所執事を世襲している)の系を誤記した可能性あり。また建久七年(1196)には康信が恩賞として筑後国生葉郡を得た記録があり、康俊も一時期生葉郡に下向している。今回の紛争と何らかの関係があるか。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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7月20日
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吾妻鏡
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別府左近将監成政による相模国の成松名の訴訟について懸物(訴訟を起こす担保で敗訴の場合は没収)を提出させ、大江新民部丞の奉行により真偽を明らかにする。この件は大殿(前将軍藤原頼経)から式部大夫三浦家村を使者として特に武蔵守 北條経時に仰せがあった。
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加えて今日、落合蔵人泰宗と市河掃部助高光法師(法名見西)の元妻(藤原氏の娘)に対し、7日間荏柄天神社 (公式サイト)に参籠した上で起請(誓約書)を提出せよと、奉行の対馬前司河匂平右衛門尉から命令が下った。
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その上で平右近入道寂阿と鎌田三郎入道西佛を派遣して結果を見届けるように、との事である。これは市河掃部助高光法師(法名見西)が藤原氏(の娘)と落合泰宗の密通を訴え、女の方がそれを否定して訴えているためである。
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   ※事件の経緯: 市河氏は甲斐源氏の子孫。源頼義の四男新羅三郎義光が甲斐守に任じていた経緯から、義光
の末子覚義阿闍梨が甲斐市河荘に土着し、御崎神社(現在の表門神社)の婿に入っていた。
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一方で義光の次男義清清光の親子が常陸での無法行為を咎められて甲斐市河荘に流され、覚義の助力を得て甲斐源氏の基盤を築いていく。石和信光の系が甲斐源氏の宗家となった鎌倉中期の市河氏は信濃国船山郷(現在の千曲市戸倉小舟山(地図)の一帯)を得ていた。
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今回の訴訟の発端は、市河高光と婚姻する際に藤原氏の娘が「離縁させるような事があれば信濃・伊勢・甲斐にある所領を譲る」との契約を交わしていた。
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これによって彼女は訴訟を起こし、それを回避したい高光が彼女の密通を捏造したらしい。
結果として彼女の勝訴になった、と伝わっている。この頃から婚前契約があったとは、実に面白い。
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   ※甲斐市河荘: 甲斐源氏武田一族の甲斐に於ける最初の基盤。
周辺には義清の館跡と伝わる平塩の岡や覚義の本拠表門神社など、数多くの史跡が点在している。
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右画像は義清館跡の碑。詳細は画像をクリックして 常陸武田郷から甲斐市河荘(別窓)で。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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7月23日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼嗣)による祈祷として薬師法を催した。担当は大納言法印隆弁
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月3日
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吾妻鏡
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市河女子藤原氏(7月20日に記載のある市河掃部助高光法師の元妻)の件、荏柄社で落合蔵人泰宗と密通していないとの起請文を書いて参籠させ、その状態を寂阿と西佛に確認をさせた。
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七日七夜の間神仏から叱責などの様子は見えなかったとの報告があった。これにより市河掃部助入道見西が訴え出ていた信濃国船山内の青沼村・伊勢国光吉名・甲斐国市河の屋敷等などは彼女が所有する結果となった。
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ただし市河の屋敷に限り彼女の一代限りとし、その後は見西の子孫に与えるよう決裁が下された。
彼女は見西の旧妻であり、嫁いだ際にもし離別させられる事があれば上記の土地などを譲渡するとの契約を交わしていたと彼女が訴え、見西は泰宗との密通を主張して譲渡を免れようとした。確認する術がなかったため起請文の提出と参籠を命じたものである。
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また領家(荘園の所有者)と地頭の関係について、御家人が代々継承している場合は失態などがない限り領家であっても改易は許されない。既に発布した御教書に従って仔細の報告が必要との指示を六波羅に下した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月8日
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吾妻鏡
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先月26日に後嵯峨天皇の閑院への遷幸が無事管理用との連絡が京都から届いた。
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   ※閑院: 里内裏に同じ。内裏の外に仮に設けられた御所。多くは外戚の摂関家の邸宅で、現在の京都御所も
元々は里内裏で、長承二年(1133)に藤原忠実(wiki)の娘・泰子が第74代鳥羽天皇に入内する際に建てた土御門東洞院殿の御所が原型になっている。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月9日
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史 料
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   ※百錬抄: 在京の武士が南都に馳せ向かった。興福寺の衆徒が高齢者と若者に分かれて各々陣地を構えて
戦いに備えており、これを制止する目的である。ただし、間もなく高齢者の側が解散したらしい。
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   ※平戸記: (10日)南都で合戦があり、制止するため武士を派遣しが今朝早くに鎮まったらしい。
1日には比叡山延暦寺でも合戦があった。南北(奈良と京都)がこの有様とは実に嘆かわしい。
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         百錬抄平戸記(それぞれwiki)を参照されたし。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で放生会。大殿(前将軍藤原頼経)および将軍家(藤原頼嗣)が参宮し、まず御祓いあり。坊門少将清基が陪膳(給仕役)を、水谷左衛門大夫重輔が役送(運ぶ役目)を務めた。
舞楽を御覧の後、酉刻(18時前後)になって御所に還御した。
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  供奉人の行列
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    先陣の随兵
     河越掃部助泰重    上総修理亮千葉政秀(秀胤の次男)
     肥前太郎左衛門尉佐原胤家    隼人太郎左衛門尉光義
     上野弥四郎左衛門尉結城時光    和泉次郎左衛門尉天野景氏(遠景-嫡男政景-景氏と続く)
     兵衛尉大曽祢長泰    千葉七郎太郎師時
     遠江式部大夫北條時章    相模左近大夫将監北條時定
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   次いで(将軍家の)御車
     佐竹八郎助義    式部兵衛太郎光政
     千葉次郎泰胤千葉成胤の子で千田氏の祖    海上五郎胤有(東胤頼の孫?
     木村太郎政綱    六郎左衛門尉伊東祐盛(祐時の孫で稲用氏の祖)
     右近将監武藤兼頼    渋谷十郎経重
     立河兵衛尉基泰    葛山次郎
     新左衛門尉平盛時
       以上の十一人、直垂に帯剣で御車の左右に列す。
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   御後に五位と六位(足首で括った狩衣)
     前右馬権頭北條政村朝臣    遠江守北條朝直
     北條左近大夫将監北條時頼    越後守北條光時
     宮内少輔足利泰氏    陸奥掃部助北條実時
     甲斐司長井泰秀    若狭前司三浦泰村
     摂津前司中原師員    能登前司三浦光村
     秋田城介安達義景    下野前司宇都宮泰綱
     上総権介千葉秀胤    駿河式部大夫三浦家村
     佐渡前司後藤基綱    出羽前司二階堂行義
     前太宰少貳狩野為佐    兵衛大夫毛利廣光(毛利季光の次男)
     大蔵権少輔結城朝広     石見前司大江能行
     壱岐前司佐々木泰綱    伯耆前司葛西清親(清重の嫡子)
     民部大夫大河戸俊義    甲斐前司春日部實景
     淡路前司薗田俊基    壱岐前司完戸家周
     但馬前司藤原定員    隼人正伊賀光重
     加賀民部大夫町野(三善)康持    伊賀前司小田時家
     但馬兵衛大夫藤原定範    常陸修理亮重継
     左衛門尉小山五郎長村    右衛門尉梶原景俊(景茂の嫡子)
     駿河五郎左衛門尉三浦資村    壱岐左衛門尉佐々木六郎朝清
     弥次郎左衛門尉親盛    遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛
     同六郎兵衛尉佐原時連    佐渡五郎左衛門尉後藤基隆(後藤基綱の次男で後藤基政の弟)
     六郎左衛門尉安積祐長    肥前太郎左衛門尉佐原胤家
     左衛門尉伊賀次郎光泰(光宗の次男宗綱の嫡子)   左衛門尉大須賀胤氏(胤信-通信-胤氏と続く嫡流)
     左衛門尉宇佐美祐泰(祐茂-祐政-次男祐泰と続く)
         左衛門尉加藤行景(景廉-三男景長-嫡子行景と続く)
     出羽四郎左衛門尉中条光家(家長-時泰-次男光家と続く)    新左衛門尉薬師寺政氏
     右衛門尉関政泰    淡路左衛門尉長沼又四郎宗泰(宗政-時宗-宗泰と続く)
     左衛門尉相馬五郎胤村(師常-義胤-胤綱-胤村と続く相馬氏嫡流)
         左衛門尉武藤景頼(資頼-資能-頼茂-景頼と続く)
     信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
         左衛門尉後藤次郎基親(基清の子か孫と思うが系図になし。基成のことか?)
     一宮右衛門三善次郎康有    左衛門尉小野寺四郎通時
     左衛門尉内藤七郎盛継    出羽兵衛尉二階堂次郎行有
     佐竹六郎次郎    上野三郎国氏
     阿曽沼小次郎光綱    木内次郎胤家
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   後陣の随兵
     上野前司畠山泰国    三河守新田頼氏
     遠江左衛門尉三浦(佐原)五郎盛時    左衛門太郎梶原景綱
     下野四郎小山長政    新左衛門尉宇都宮朝基(宇都宮泰綱の弟・石見守宗朝の次男。)
     城次郎安達頼景    土屋次郎時村
     武田五郎三郎政綱    小野澤次郎時仲
     山内籐内通景    廷尉(検非違使).

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   ※随兵: 外出する将軍を護衛する武装騎馬武者。一般的には鎧を着用し兜を従者に持たせて従ったらしい。
若宮大路幕府から放生会を催した源平池までは僅か300m、本殿も500mほどなのに...。
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   ※河越泰重: 当主の重頼と長男の重房は義経の縁戚として追討され、宗家は次男重時から三代当主泰重へと
続き、北條氏とは良好な関係を保っていく。
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   ※結城時光: 結城朝光の六男で朝広の弟、寒河氏の祖。
   ※渋谷経重: 渋谷嫡流の高重重国の嫡子)は和田合戦で義盛に与して討死している。経重は傍流か。
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   ※春日部實景: 本領は武蔵国浜川戸(現在の春日部市中心部・地図)、父実平が頼朝に仕えて以来の幕臣だが
宝治合戦では三浦氏に与して息子3人と共に討死し、美濃国にあった一族の地頭職も没収された。許されて御家人に復帰した實景の孫重行は後に新田義貞に仕え鎌倉の合戦で戦功を挙げ本領春日部郷の一部と上総国山辺郷(現在の東金市付近)の地頭職を得ている。
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   ※大江能行: 初出は嘉禄三年(1227)8月18日に「兵衛尉大江能行」として、仁治二年(1241)8月25日には
「石見前司大江能行」とあり、順調に出世している。承久の乱の後に京から鎌倉に入った実務官僚らしいが大江氏系図には見当たらない。
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   ※伊賀光重: 将軍頼経の側近。朝光の三男または四男で伊賀光宗の弟。貞応三年(1224)に兄らと共に謀反
の冤罪を受け、政子死没後の嘉禄元年(1225)に幕政に復帰している。
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   ※小山長村: 小山政光朝政 → 朝長 → 長村と続く小山氏の四代当主(建保五年・1217年生れ)。
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   ※佐原時連: 佐原盛連の六男で通称は遠江六郎。宝治合戦(1247)では兄弟と共に執権北條時頼に与した。
康元元年(1256)には時頼の出家に従って出家し観蓮を名乗っている。
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   ※三善(太田)康有: 三善(太田)康連の七男。弘長二年(1262)に病気で引退した康宗(問註所執事・評定衆)
の跡を継ぎ、その後の21年間を幕政の実務に任じて過ごしている。
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   ※二階堂行有: 二階堂行義の次男で武芸にも堪能な文官。文永二年(1265)に引付衆、文永七年(1270)に
評定衆に任じている。
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   ※小野寺通時: 下野国都賀郡小野寺(地図)を本貫とした武士で始祖義寛の子道縄は足利忠綱(藤姓足利氏)と
共に平家の郎党として宇治川合戦で源三位頼政と戦っている。その後関東に下って挙兵当初から 頼朝に従い、奥州合戦の恩賞として出羽国に所領を得て一族の一部が土着した。義寛-秀通-通時と続く。小野寺氏に関しては建保六年(1218)3月23日に関連記事を載せておいた。
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   ※内藤盛継: 藤原秀郷の子孫で頼朝に仕えた内藤盛家-盛親-盛継と続く(系図により盛家の三男が盛継)。
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   ※畠山泰国: 元久二年(1205)に北條氏に謀殺された畠山重忠の正室(北條時政の娘で政子の異母妹)が
足利義兼の庶長子義純に再嫁し、義純が畠山の名跡を継いだ。二人の間に産まれたのが畠山三郎泰国(母親は重忠の娘と考える説あり)。
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   ※新田頼氏: 新田義重の四男世良田義季の次男で実質的な世良田氏の祖で新田氏棟梁政義の叔父。
世良田氏は新田一族の中では宗家よりも大きな財力を保った(清和源氏の系図を参照)。
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   ※梶原景綱: 景時景時の三男景茂-嫡子景俊-嫡子景綱と続く。
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   ※小山長政: 小山朝政を継いだのが長男の小山朝長、その跡が長男の小山長村で、長政は長村の弟。
朝政から常陸国下妻の地頭職を継承した。
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   ※安達頼景: 安達義景を継いだ泰盛の庶兄。六波羅評定衆を経て文永九年(1272)の二月騒動に連座し所領
二ヶ所を没収された。弘安八年(1285)の霜月騒動で内管領平頼綱により安達一族は滅亡したが頼景は泰盛に与しなかったため難を逃れた。
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   ※土屋時村: 中村宗平土屋宗遠-次男宗光(長兄の義清岡崎義實からの養子)-光時-次男宗長-時村
と続く相模中村党の武士。武田氏が甲斐天目山で滅亡した時に当主勝頼が自刃する時を稼ぐため奮戦した土屋惣蔵昌恒は中村党土屋氏の子孫とされるが、正確な系図は確認できない。武田氏滅亡に関しては武田勝頼終焉の地(サイト内リンク・別窓)を参照されたし。
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   ※武田政綱: 武田(石和)信光-三男で嫡子の信政-次男が政綱。長男の信時は安芸国守護として赴任し甲斐
に残った政綱の孫が甲斐守護に任じたが南北朝時代には信時の子孫が甲斐に戻り、室町時代に甲斐守護に任じて戦国大名武田信玄へと続いていく。
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   ※小野澤時仲: 氏祖で父親の仲實以来の得宗被官として藤原頼経頼嗣・宗尊親王の三代の将軍に近侍した。
一族の本領は埴科郡坂城町の上平地区(地図)。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月16日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮放生会に伴う馬場での行事があり、将軍家の宿願により特に豪華な催しとなった。内容は去年と同様で五位と六位の者が十列と的立と競馬の役人を務め、昨日供奉した者でこの役に就いた者は今日の供奉の任務から除外した。午一刻(12時過ぎ)に将軍家が御参宮、出御に当たっての祓などは昨日と同様である。
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  馬場の儀
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    十列
       一番   左衛門尉長掃部秀連
       二番   左衛門尉飯高弥次郎
       三番   左衛門尉紀伊次郎為経
       四番   大多和新左衛門尉
       五番   左衛門尉遠江六郎時連
       六番   左衛門尉狩野五郎為広
       七番   伊勢五郎左衛門尉
       八番   弥善太右衛門尉三善康義
       九番   兵衛尉肥後四郎行定
       十番   兵衛尉土肥次郎朝平
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    流鏑馬
       一番   入道長江八郎師景    射手は 子息八郎四郎   的立は 能登前司三浦光村
       二番   左近大夫将監北條時頼    射手は 武田五郎三郎政綱   的立は 宗左衛門大夫
       三番   佐渡前司後藤基綱    射手は 孫の弥四郎   的立は 摂津左衛門尉狩野為光
       四番   上総介千葉秀胤    射手は 子息六郎秀景   的立は 弥次郎左衛門尉親盛
       五番   城介安達義景    射手は 子息次郎頼景   的立は 押垂左衛門尉時基
       六番   出羽前司二階堂行義    射手は 子息次郎兵衛尉行有   的立は 左衛門尉狩野五郎為広
       七番   左衛門尉小山五郎長村    射手は 上野十郎朝村   的立は 武藤左衛門尉景頼
       八番   和泉次郎左衛門尉景氏    射手は 阿曽沼七郎   的立は 出羽四郎左衛門尉伊賀光宗
       九番   壱岐六郎左衛門尉葛西朝清    射手は 子息左衛門次郎   的立は 和泉六郎左衛門尉
       十番   甲斐守春日部実景    射手は 子息次郎兵衛尉   的立は 左衛門尉小野寺四郎通時
       十一番 近江壱岐前司佐々木康綱    射手は 舎弟左衛門尉佐々木四郎氏信
的立は 左衛門尉淡路四郎時宗
       十二番 伯耆前司葛西清親    射手は 子息五郎   的立は 能登四郎左衛尉
       十三番 信濃民部入道二階堂行盛    射手は 子息六郎左衛門尉
的立は 左衛門尉宇佐美與一祐時
       十四番 上野入道結城朝光    射手は 子息兵衛尉五郎重光   的立は 左衛門尉大須賀七郎重信
       十五番 右馬権頭北條政村    射手は 左衛門尉伊賀四郎朝行   的立は 薗田淡路守俊基
       十六番 若狭前司三浦泰村    射手は 舎弟五郎左衛門尉資村   的立は 完戸壱岐前司家周
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    競馬
       一番   左は 左衛門尉雅楽時広   右は 秦次郎府生兼種
       二番   左は 富田次郎兵衛尉   右は 渋河次郎
       三番   左は 下條四郎   右は 秦三郎清種
       四番   左は 河村小四郎   右は 高橋六郎兵衛尉
       五番   左は 浅羽左衛門四郎   右は 河村三郎
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   ※十列: 馬を10頭並べて走る・20人が2 騎ずつ走るなどの説があるが、鶴岡の馬場では現実的ではない。
実際にどんな姿だったのか判断できない。
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   ※競馬: 一騎が先行し、ひと呼吸置いて一騎が追走するマッチレース。逃げ切るか捉えるかで勝負が決まる。
八幡宮境内を東西に横切っていた馬場は200m強なので片道だけでは短か過ぎるから往復かも。
競走中の打擲や妨害が認められ、組み打ち・落馬もあったというのが実戦っぽくって面白い。
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   ※流鏑馬: 番の代表者と射手と的立ての姓名を全て記録した流鏑馬は鎌倉草創以来初めての例。神事と勝負
両方の意味合いが強調されていて面白い。
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   ※的立: 文治三年(1192)8月4日に頼朝から流鏑馬の的立て役を命じられた熊谷直実が断固拒否して所領の
一部を没収される事件があった。直実には徒歩=身分が低いとの固定観念があったらしい。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月17日
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吾妻鏡
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御所の南殿(公式の場)で大般若経の転読を行なった。
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   ※大般若経転読: 一度パラパラすれば一巻の精読に等しい、信仰よりも形式の世界。動画(wiki)を参考に。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月19日
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吾妻鏡
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同じく御所に於いて今日から五壇法を行なって国家鎮護を祈る。
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   ※五壇法: 中央に不動明王を祀る壇を設け、東に降三世・南に軍茶利・西に大威徳・北に金剛夜叉を祀る壇を
設ける、主として密教の祈祷。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月22日
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吾妻鏡
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晴。御所の御持仏堂(久遠壽量院)で法要あり。導師は竹中法印、七僧による法会である。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月24日
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吾妻鏡
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伊勢国の阿曽山(現在の度会郡大紀町・地図)および熊野山で悪党(犯罪者・反逆者)が蜂起している件について臨時の評議があった。悪党討伐に出動せよとの命令が地頭の御家人に下され、加わった者には相応の配慮があるが参加しなかった者は姓名を書き出して報告せよと守護に指示があった。
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また今出河殿(西園寺公経・この年8月29日に死去する)から申し入れのあった検非違使の職分などに関して摂津前司 中原師員朝臣と佐渡前司後藤基綱の奉行として検討した。
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鎮西守護代の兵庫大夫資範による違法行為については、右大将軍家(頼朝)の時代から別枠の対処を定めており、代々将軍家の御下文に依拠して決裁しているから他の国の守護に倣う必要はないとの結論に達した。
ただし細かい違法行為については必要な措置を行なう事も結論に含まれている。
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   ※別枠の対処: 平家滅亡後の文治元年(1185)、頼朝は義経探索を名目に守護地頭の設置を後白河法皇
認めさせ、鎮西には九州惣追捕使を創設して天野遠景を任命し、律令制以来続いた太宰府の権限を支配下に収めた。この体制がそのまま継続されている。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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8月29日
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吾妻鏡
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大殿(前将軍藤原頼経)の明春御上洛予定が決まった。
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   ※平戸記: 今日殿下(前の関白西園寺公経)が出家剃髪し申刻(16時前後)に死去(74歳)した。朝廷を害した
奸臣であり、春宮(皇太子)外祖父、関白殿、右大臣殿(二条良実・wiki)の外祖父である。
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   ※百錬抄: 入道太政大臣公経公(法名覺勝)が薨去した。日頃から痢病(赤痢・疫痢など)を患っていた、と。
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          史料の詳細は平戸記および 百錬抄(共にwiki)で。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月1日
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吾妻鏡
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晴。京都朝廷の使者が参着。先月25日に将軍家(五代藤原頼嗣)が正五位下に叙された。前の将軍家(藤原頼経)が閑院(郷内裏・8月8日を参照)を修造した功績に拠る。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月2日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(22時前後)に六波羅の飛脚が鎌倉に参着し、先月29日に今出河相国禅閤(西園寺公経)が薨御(御年74)した旨を報告した。

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   ※政局: 鎌倉幕府との融和によって権勢維持を心掛けた西園寺公経の死去により頭を抑えられていた政敵の
九条道家が朝廷での支配権を取り戻し、関東申次の職を介して幕政に干渉し始める。
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単純な関与だけではなく息子の前将軍頼経や反得宗家の北條一族(名越流北條朝時の息子、など)を抱き込む動きを強めたため、執権の北條時頼との対立を深めていく。
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寛元四年(1246)の宮騒動と同年の北條光時らの陰謀、宝治元年(1247)の三浦氏滅亡(宝治合戦)を招き、更に建久三年(1251)には五代将軍藤原頼嗣と足利氏を巻き込んだ倒幕計画への公経の関与が露見し、頼嗣追放と共に道家も完全に失脚する。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月3日
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吾妻鏡
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相国(西園寺公経)の死去により前大納言家(前将軍藤原頼経)が御軽服(軽い服喪)となった。
現在の五代将軍藤原頼嗣が公経の曾孫に当たるため評定衆から20日間の議事協議の休止が決定した。
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   ※縁戚関係: 九条道家と正室(西園寺公経の娘)の間に生まれたのが藤原頼経
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月5日
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吾妻鏡
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近江前司佐々木氏信が使節として上洛の途に就いた。今出河殿(西園寺公経)の死去による弔問である。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月8日
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史 料
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   ※平戸記: 晴・曇。群盗事件が頻発し、連夜のように上下の区別なく人家を襲っている。先夜は中将實直朝臣邸
(私の旧宅)と備中入道信阿宅に押し入った挙句に放火し焼き払った。辻々を警備する武士も役に立たない。これは関東の威勢が衰えているためだろうか。
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   ※平戸記の著者: 民部卿平経高(wiki)はかなり強硬なアンチ幕府派で、手厳しい記述が散見される。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月11日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に小さな地震あり。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月13日
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吾妻鏡
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明春の前大納言家(藤原頼経)の上洛が先月の評定で決定し、今日関連する諸般の担当奉行などを定めた。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月15日
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吾妻鏡
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後鳥羽上皇追善供養のため摺写した法華経を御持仏堂で読み始め、定親法師がこれに任じた。
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   ※摺写: 版木を用いた法華経の複写らしい。上皇が隠岐島で崩じて5年半、何の供養だろうか。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月19日
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吾妻鏡
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晴。来春の大殿(前将軍藤原頼経)上洛について但馬前司藤原定員の奉行として決定あり。日程は2月1日の出発を希望されているが四不出日(出立には縁起の悪い日)と考える向きもあり、維範と晴賢朝臣を呼んで確認した。
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各々が言うには、「四不出日なのは確かだが賀茂家ではこれを問題としない。賀茂保憲による暦書には丙寅と丙午を選んで書き込んであるから禁忌とは言えず、吉日の2月9日に入洛を予定すれば良いでしょう。1日に出発して16日に入洛すると厭対日(忌み日)になりますから、いずれにしろ9日を予定すべきです。」との内容だった。
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   ※賀茂保憲: 安倍晴明と同時代を生き、陰陽道宗家を二分した陰陽師。更に詳細はwikiで。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月20日
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吾妻鏡
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大膳権大夫維範朝臣の担当による天地災変祭を行なった。
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   ※天地災変祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異や怪異・厄年などの時に行う。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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9月28日
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吾妻鏡
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寅刻(朝4時前後)に地震あり。今日、尼三條局が死去した。女性ではあったが御所での古い慣習に精通した貴重な存在で、誰もが彼女の死を惜しんだ。
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   ※三條局: 縫殿別当に任じていたキャリアウーマン。承久元年(建保七年・1219年)2月4日には実朝を殺した
公暁の後見人・備中阿闍梨から没収した家と土地の下賜を望んで与えられるなど優遇を得ている。
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頼朝の母親(源義朝の正室由良御前)と三條局の父親(大津円満院の坊官・法眼範智)が兄妹(姉弟かも。また異母か同母かも不明)だから頼朝と三條局は従兄妹の関係になる。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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10月2日
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吾妻鏡
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西園寺公経の死去に伴い弔問に上洛していた)近江前司佐々木氏信が京都から帰参した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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10月3日
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吾妻鏡
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夜に入り大殿(前将軍藤原頼経)が大相国禅閤(西園寺公経)の死没に伴う服喪明けの御祓いを行なった。担当は陰陽師文元。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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10月9日
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吾妻鏡
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御所での祈祷が始められた。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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10月13日
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吾妻鏡
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備後守の奉行として博奕などについての決裁があった。双六は侍が行なう場合は許可するが侍以外の低い身分の者には禁止、四一半銭・目勝などの骰子博奕は身分を問わず禁止する。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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11月3日
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吾妻鏡
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終日雨。丑刻(深夜2時前後)に大洪水となり道路の大部分が水没した。家屋と
家財の流失などの被害は近年にないほどの惨状である。
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今日、御台所(藤原頼経の正室・権中納言藤原親能の娘)が春日大明神の御神体の供養を行なった。導師は大納言法印 隆弁、布施は百物(百種の詰め合わせ)と南廷(銀の延べ板)二つである。
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   ※鎌倉の洪水: 現在の鎌倉市街地の標高を確認すると下記の通り。
一の鳥居で13m・鎌倉警察署の前で9m・下馬交差点で8m・二の鳥居で11m・三の鳥居(八幡宮社頭)で13m。
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海水面は時代により異なるが土地の標高は大きく変っていない筈で、警察署付近から二の鳥居までが明らかに低地となっている。下馬付近は佐助川が滑川に合流する地点でもあり、この辺で洪水が多発していたと思われる。
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右画像は概略の標高を記入した地図(google earthを利用、多少の誤差はあると思う。)
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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11月12日
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吾妻鏡
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晴。早暁に螢惑(火星)が庫門星(?)の範囲を犯したと司天(天文担当)が報告した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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11月16日
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吾妻鏡
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評定衆による会議に於ける経営(接待饗応)について、今後は倹約を心掛けるよう雑掌人(担当する者)に改めて指示した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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11月22日
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吾妻鏡
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晴。今暁に歳星(木星)が大微宮(北斗七星の南・しし座)の範囲に入ったと司天(天文担当)が報告した。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月1日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)に地震あり。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月7日
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吾妻鏡
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晴。新将軍の御読書始めが行われ、午刻(正午前後)に北條経時の補佐を受けて御所東面に出御した。筑後守正光朝臣(布衣・狩衣)読書の補助を務め左親衛北條時頼以下の人々が出仕すした。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月8日
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吾妻鏡
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晴、風は鎮まった。 今日申刻(16時前後)に寝殿で大納言家(前将軍藤原頼経)の乙若君御前が御着袴および魚味の儀式を行なった。人々は布衣(狩衣・下括り)を着して参集し、武蔵守北條経時椀飯を献じた。
まるで正月三が日の如くである。経時が若君の腰紐を結び、また大殿頼経が魚を食べさせる役を務めた。
これらの給仕は左親衛北條時頼、儀式が終わってから御引出物を献じた。
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  大殿(前将軍藤原頼経)への献上は
     御剣を 陸奥掃部助北條実時
     一の御馬(鞍を置く)を 佐原肥前太郎左衛門尉と同、四郎左衛門尉
     二の御馬(同じく鞍を置く)を 弾正左衛門尉と同、十郎
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  将軍家(藤原頼嗣)への献上は
     御剣を 越後守北條光時
     一の御馬(鞍を置く)を 小山四郎と同五郎
     二の御馬(同じく鞍を置く)を 大隅太郎左衛門尉と同、次郎
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  乙若君への献上は
     御馬(鞍を置く)は 甲斐太郎
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   ※乙若君: 頼経の次男(詳細不詳)で生母は三位中納言・持明院(藤原)家行の娘大宮殿(正室扱い)。
他に寛元元年(1244)に産まれた三男(源恵・生母不明)が本覚寺門跡→日光山別当→勝長寿院別当を経て正応五年(1292)に97世の天台座主に就任している。
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   ※着袴と魚味: 共に平安時代からの通過儀礼。着袴は五歳になった際に初めて袴を着ける朝廷の儀式、魚味は
初めて動物性食品を与える儀式で標準は生後20ヶ月、11ヶ月~数え三歳まで様々だった。
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乙若の誕生は記録にないが、長男頼嗣が延応元年(1239)11月生まれで三男の源恵が寛元元年(1244)生まれだからその中間の年令なのは間違いない。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月12日
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吾妻鏡
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幕府に仕える公務については、特に指示命令のない限り父祖から継承したものは各々協力し合い、分担した勤めを果たすこと。また継承以外の勲功などで得た所領に付帯した公務は継承分に加えて果たすのが務めである。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月18日
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吾妻鏡
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晴。子刻(深夜0時前後)に月が歳星(木星)の軌道を犯したと司天(天文担当)が驚いて報告した。
今日、大殿(前将軍藤原頼経)の指示による祈祷が始められた。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月20日
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吾妻鏡
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大膳大夫中原師員朝臣の奉行として、式部大夫大友頼泰が申し出ている蔵人への任官について評議があった。息子が六位の時に任官させて五位に昇叙し、頼泰の任官は大殿(前将軍藤原頼経)が上洛した際に左右馬之助に任じるよう手配すると定めて納得させた。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月24日
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吾妻鏡
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晴。大殿(前将軍藤原頼経)の指示による祈祷を継続して行っている。天変に対応した祈祷である。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月26日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)に武蔵守北條経時邸および左親衛北條時頼邸が失火により焼失、政所まで延焼した。
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   ※北條邸: 執権執務場所と北條得宗邸および若宮大路幕府は若宮大路
から小町大路を挟んで滑川までの範囲を占めていた。
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元弘三年(1333)5月に鎌倉幕府が滅亡してから後醍醐天皇が崩御した延元四年(1339)までの6年間に、後醍醐天皇の勅命を受けていた足利尊氏が北條邸の跡地に慰霊の寺を建てたのが現在の宝戒寺と伝わっている。
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小町大路は大倉幕府の時代からあった幹線道路で、得宗私邸と御所および幕府の公邸が小町大路を挟んで東西に分かれていた可能性は高い。また旧・宇都宮辻子幕府敷地の北部は若宮大路幕府の南部と重複していたと考えられている。
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右画像は三ヶ所の鎌倉幕府政庁の概略地図(クリック→拡大表示)
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月27日
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吾妻鏡
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晴。今日の評定衆による協議によって大殿(前将軍藤原頼経)御上洛について延期する決定があった。
これは兼ねての希望に従って明春2月9日に必ず出発すると定めていたが政所の火事(26日)によって上洛に必要な機材が全て焼失したのが原因である。
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   ※頼経上洛: 結局実現せず翌年7月に出家することになる。将軍職を罷免されても父九条道家のバックアップを
受けて北條得宗家との暗闘を続けたが...寛元四年(1246)には京都に送還され六波羅若松殿に軟禁同様の措置を受け、同時に九条道家も関東申次を罷免され失脚する。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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12月30日
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吾妻鏡
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晴。今暁、歳星(木星)が大微宮の右、執法上将星を入犯す(相去ること一寸の所と)。
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   ※大微宮: 北斗七星の南に位置するエリア。古代中国では天帝の座は北極星を中心にした紫微宮で、大微宮は
行政府を司ると考えられていた。執法上将星はその一つだろうが、明細は判らない。
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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寛元二年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1244年
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88代後嵯峨天皇
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西暦1244年
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