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寛元三年(1245年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月1日
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吾妻鏡
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晴・強風、夜更けに雷鳴あり。武蔵守北條経時の沙汰による椀飯の儀あり。左近大夫将監北條時頼が御剣を、能登前司三浦光村が御弓箭を、左衛門尉 三浦五郎資村が御行騰沓を献じた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 四代執権北條経時は20歳・五代執権になる北條時頼は17歳・六代執権になる北條長時は15歳・
七代執権になる北條政村は40歳・ 北條朝時は52歳で死没・ 三浦泰村は61歳・ 足利義氏は56歳・
結城朝光は77歳・ 将軍藤原頼経は1月16日で28歳・ 次期将軍藤原頼嗣は5歳・
第88代後嵯峨天皇は24歳。(全て満年齢)
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月9日
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吾妻鏡
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晴。弓始めの儀あり。
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   一番は  駿河三郎 と 印東次郎
   二番は  工藤八郎 と 横溝七郎
   三番は  井伊介 と 小河左衛門尉
   四番は  眞板次郎 と 棘源太
   五番は  小笠原七郎 と 山内兵衛三郎
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今日評定衆による協議があり、西国の諸社神職らが神威を振り翳して庶民を苦しめているとの情報があるため沈静化させるよう六波羅に指示を与えた。書状の内容は以下の通り。
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西国の神人が拒捍使を拒んだり平氏の残党や部下などを神人に補任して徒党を組み、領家や地頭の所領管理を妨害しているとの通告がある。事実ならば許し難い行為であり、元凶の神人と新たに任じられた神人の行為を停止させ、更に詳しい調査のため身柄を鎌倉に送るよう通達する。
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       寛元三年 1月9日    武蔵守(北條経時)     謹上 相模守(北條重時) 殿
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   ※神人: 神社に奉仕する役目の下級職員。神社の保護下で特権を受けて課役を逃れ、強訴を行うなどの弊害が
頻発した。下級の武士や農民からも神人になる者が多かったという。
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   ※拒捍使: 税や物品の納入を拒否する者からの強制徴収のため派遣した官人で、主に検非違使が任命された。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月11日
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吾妻鏡
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曇。戌刻(20時前後)に雷鳴が数回あり。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月15日
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吾妻鏡
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月蝕が正常に観測できた。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月18日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)に地震あり。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月20日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に地震あり。
今日、京都朝廷の使者が到着し、去る13日に将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が近江介兼任となった旨を報告。
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   ※頼嗣の官暦: 寛元二年(1244)4月に元服し同月に従五位上・右近衛少将・征夷大将軍宣下。翌年1月13日
に美濃権介兼任<となり、建長二年(1250)1月に美濃権守。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月21日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に雷鳴あり。
今日、大納言家(前将軍藤原頼経)から、父祖代々が尽くした奉公の内容を記録するよう廣御出居衆(身近に起居して仕える者)に指示を行った。
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   ※代々の奉公: 頼経は鎌倉幕府の前・征夷大将軍、父の九条道家と祖父の九条兼実と外祖父の西園寺公経
朝廷を動かした高位の公卿だから奉公の対象は朝廷と幕府の両方を含む事になる。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月27日
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吾妻鏡
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晴。丑刻(深夜2時前後)に客星(彗星)が天市垣巽斗度(天球の東南)に出現した。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月28日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に客星(彗星)がなおも牛宿(山羊座西部)の南に出現。卯刻(朝6時前後)に前陰陽大允の安倍晴茂朝臣が勘文(上申書)を提出し、その後に武州(北條経時)ら天変に驚いた幕臣が御所に集まった。
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大殿(藤原頼経)が広間に出御して対面した。この時に筑後左衛門次郎茂木知定が若狭前司三浦泰村の上座に着したため言い争いを引き起こした。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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1月29日
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吾妻鏡
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曇天のため客星(彗星)は確認できない。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月1日
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吾妻鏡
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晴。彗星が牽牛(彦星・wiki)の方向へ、二夜で三丈(9m強)ほどの距離を動いた。今日、天変に対応する祈祷が催され、天地災変祭を泰貞・三万六千神祭を晴賢・属星祭を晴茂が行なった。
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   ※天地災変祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異や怪異・厄年などの時に行う。
   ※三万六千神祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異を排除し天下泰平を願う。
   ※属星祭: 国土安穏・五穀豊饒を祈祷する星供養(星祭)が個人の守護星を供養する属星祭に発展したもの。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月2日
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吾妻鏡
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晴。昨夜の戌刻(20時前後)から今暁に至るまで司天の輩(天文担当)を御所に集めて天体の動きを観測させるとの仰せがあり、泰貞・晴茂・晴賢らの朝臣が東侍の南縁に集合した。
朝まで続けた観測の間も客星(彗星)は現れず、巽方(南西)から南極(南の地平線)に入ったと思われるとの意見が多かった。奉行は但馬前司藤原定員
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月3日
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史 料
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   ※百錬抄: 今暁から客星が観測できない。.
西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月5日
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吾妻鏡
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殺生を禁じるべきかの評議を行った。 (天変への対応と思われる)
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月6日
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史 料
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   ※平戸記: 晴・曇。伝聞に拠れば1月21日に関東で落雷と強風があり、幕府がこの天変を畏怖したらしい。
昔から正月の落雷は災禍を招くとされるためで、今年二回も起きたのは承久三年(承久の乱が勃発した1221年)正月の強風の再来だろうか。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月7日
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吾妻鏡
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晴。大殿(藤原頼経)並びに将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が鶴岡八幡宮に牛車で御参宮、変異(彗星)に対応する祈祷を催した。大殿の祈祷は晴茂による属星祭、将軍家の祈祷は晴賢による三万六千神祭である。
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両方とも陰陽師の自宅で行なわれたが、その他に天地災変祭のみは大殿のために泰貞が去る5日から御所で行なっており、今夜南庭で結願を迎えている。
将軍家の使者(代理の参席)は能登右近大夫仲時、奉行は摂津守中原師員朝臣。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月8日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で大般若経の転読が催された。大納言法印隆弁らがこれを担当した。
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   ※大般若経転読: 百聞は一見に如かず、動画(wiki)の中から実態の確認を。信仰と言うより形式の世界だ。
一回パラパラすると一巻を精読したことになる、らしい。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月9日
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吾妻鏡
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晴。窮冬27日と28日の両日に客星(彗星)出現した事について維範朝臣が勘文(上申書)を提出、その内容が晴茂(同僚)の勘文に符合するため御感の言葉を受けた。
暫くして大納言家(藤原頼経)が卿僧正の御堂壇所に入御し、維範の勘文を僧正と院圓法印に提示した。その内容を把握して祈祷の精度を高めるのが目的である。
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   ※窮冬: 冬が終わる頃を差すが、彗星の出現は新春の1月末。縁起などの意味で表現を変えたのか。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月10日
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吾妻鏡
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晴。大殿(藤原頼経)は日頃から御飲水の気(糖尿病の症状)があり、また御陰(漢方では消化器系の病気を差すらしい)を患っている。これにより医師の丹波時長・頼行・忠憲・以長・廣長が当番を決めて各々が一日一夜ごとに詰めるよう指示があった。但馬前司藤原定員がこれを差配した。
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   ※鎌倉の医師: 丹波氏と鎌倉の関係は嘉禄元年(1226)1月の四代将軍頼経就任に伴い朝廷の施薬院(wiki)
から丹波良基が鎌倉に派遣されて頼経の主治医に任じたのが最初となる(ただし翌・嘉禄二年11月の頼経の病気の際には良基の名前がなく、空白期間があったのかも)。
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いずれにしろ京都に限定されていた「先進的な医学知識」が鎌倉に定着したのは頼経の鎌倉下向と同時期で、仁治元年(1240)に死没した良基の跡を頼行と廣長が任じていたらしい。
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建長四年(1252)には頼経の嫡子で五代将軍の頼嗣が廃されて後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が皇族出身として初の六代将軍になり、朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、医術の知識は北條氏にも提供され始める。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月16日
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吾妻鏡
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諸国の守護人が掌握する権限範囲について定めがあった。遠隔地である鎮西で発生た違法行為については守護人の対応ができないため右大将家(頼朝)時代の例に準じた対応を行うよう指示があり、必ずしも貞永(御成敗)式目に依拠しなくても良い。その他の西国については式目に定めた内容を守るよう六波羅に指示を与えた。
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   ※頼朝の時代: 前年(寛元二年)2月16日に定めた法令の四条と重複している。
鎮西は九州惣追捕使に任じた天野遠景の管理下にあったが、実質的には順調に推移したとは言い難く、鎮西の国人(地侍)の反発を受けて建久元年(1194)に解任されている。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月19日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(朝8時前後)に若君御前(五代将軍藤原頼嗣)に体調不良の気配があり、宮内卿法印に命じて薬師如来に祈る護摩行が行なわれた。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月20日
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吾妻鏡
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晴。夜になって若君御前の病気に対応し、晴賢による霊気祭と廣資による鬼気祭が催された。
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   ※霊気祭と鬼気祭: 病の災厄を祓う陰陽道の祈祷。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月21日
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吾妻鏡
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晴。重ねての祈祷があり、泰貞が呪咀祭を奉仕した。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月22日
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吾妻鏡
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晴。今夜若君の体調不良に対応した祈祷があり、法印珍譽が七曜供を奉仕した。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月24日
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吾妻鏡
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晴。大殿(藤原頼経)の病状が悪化している。当番の医師の治療も効果が見えないため卜占が行われた。陰陽師7人の意見では特に(祟りなどの)外的な要因はなく、暦日に応じた病気の増減である、と。奉行は中原師員朝臣。
西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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2月25日
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吾妻鏡
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晴。久遠壽量院(頼経の持仏堂)で法印圓意を導師に八万四千基の泥塔供養(前年の6月8日を参照)を催した。
諸大夫(五位の者)が布施を配り、聴聞する僧俗多数が集まった。
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今日大殿(頼経)の体調不良に対応して祈祷が行われた。七壇(中壇を七壇が囲む)薬師如来の護摩行である。
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   中壇(中央)は大僧正御房
   一壇は卿僧正   一壇は信濃僧正   一壇は如意寺法印
   一壇は大夫法印   一壇は師法印   一壇は民部卿法印   一壇は弁僧都
   不動御修法は大僧正御房
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この他に二所(箱根権現伊豆山(走湯)権現)および三嶋大社で本地仏を祀る供養、鶴岡八幡宮では大般若経の転読と泰山府君祭・呪咀祭・霊気祭などの祭祀が始まった。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月1日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)彗星が建物の間に確認できた。長さ2尺(約60cm)、連日の彗星出現は未だに例がない。申子の両時(16時前後と深夜0時前後)に地震あり、不吉な揺れである。
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   ※百錬抄: 今暁、司天の輩(天文担当)一同から東方に彗星を確認したとの報告あり。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月2日
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史 料
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   ※平戸記: 晴。昨日の明け方に彗星が出現、司天(天文担当)らが確認した後に今暁改めて観察した。
彗星は寅刻(早朝4時)に東方に出現、光の尾は南方を指している。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月5日
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吾妻鏡
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将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の体調不良について、多少の発熱はあるが特に異常は見られない。今朝はやや悪化が見られるため改めて祈祷を開始した。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月6日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の病状に対応して更に祈祷を続けた。
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   ※百錬抄: 今暁からは彗星が確認できない。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月8日
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吾妻鏡
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晴。京都朝廷の使者が到着、今月1日と2日の早暁に彗星が出現、安倍晴継朝臣の報告が最も早かった、と。
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   ※安倍晴継: 正四位下陰陽頭に任じた安倍国道の次男。発見が早い=優秀、でもないだろうが...。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月11日
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吾妻鏡
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晴。夜に入ってから彗星の出現に対応する祈祷を行った。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月14日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の体調が平常に戻り、未刻(14時前後)に病の穢を祓う御沐浴を行った。医師時長・頼幸・以長・廣長大学らが褒賞として各々御剣一腰・御馬一疋を下賜された。奉行は中原師員朝臣。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月16日
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吾妻鏡
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晴。彗星出現に対応する祈祷として御所で宣賢朝臣による天地災変祭を行なった。戌刻(20時)に大納言家(藤原頼経)が日光別当の犬懸谷坊に入御した。二所(箱根権現と伊豆山権現+三嶋大社)に奉幣使を派遣するための精進潔斎が目的である。
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   ※犬懸谷: 釈迦堂ヶ谷と宅間ヶ谷の間にある小さな谷津が犬懸ヶ谷。
釈迦堂口遺跡に近い岩場に数ヶ所の「やぐら」が確認できる。日光別当とは二荒山神社の別院だろうか。
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右画像は犬懸ヶ谷と古道・田楽辻子を中心にした地図。
時々は雑踏を離れ昔日の風情を残す小道を歩いてみよう。
田楽辻子嘉禄三年(1227)1月2日にも火災に関連してコメントを書き込んである。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月19日
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吾妻鏡
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晴。大納言家(藤原頼経)が日光別当の日光別当の犬懸谷坊から鶴岡八幡宮と亀谷山王の宝前に参拝した後に幕府に還御し、戌刻(20時前後)彗星に対応した祈祷のため、御所で七座の泰山府君祭を催した。
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祈祷任じたのは泰貞・晴賢・資俊・国継・晴秀・廣資・以平、大納言家は衣冠束帯祭姿で庭に出御し泰貞の上座二丈(約6m)ほど外側の敷皮に着座し御都状(陰陽道の祭文)に官位官職を自著した。奉行は美濃前司 藤原親実
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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3月30日
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吾妻鏡
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御家人による訴訟に関して、奉行人を指名している場合は一方に肩入れして偏った決裁になっているとの風評がある。今後は訴訟を扱った奉行人に姓名を記載させ、場合によりその記録に基づいて懲戒などの処分を行うとの沙汰が下った。この件は加賀民部大夫町野(三善)康持が担当する。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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4月6日
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吾妻鏡
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晴。入道従四位下行遠江守平朝臣北條朝時(法名生西)が没した(享年53)。数ヶ月にわたり脚気と痮病(腹が膨れる病気、具体的には不明)に苦しんでいた。公私の両面で惜しい人物を失ってしまった。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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4月8日
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史 料
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   ※平戸記: 晴。今日平野祭。今夜臨時の除目があり、正五位下に平光村(三浦光村)。
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   ※平野祭: 京都北区の平野神社(wiki)の例大祭。かつては4月と11月の2回だったが現在は4月2日のみ。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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4月11日
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史 料
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   ※百錬抄: 関東から飛脚、今月6日に遠江守平朝臣北條朝時入道が死去した、と。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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4月21日
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吾妻鏡
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晴。左馬頭入道足利正義(出家した足利義氏の法名)が美作国(現在の岡山県)の領所から取り寄せた猿を御所に献じた。まるで人のように踊る猿で、これを見た大殿(藤原頼経)と将軍家(藤原頼嗣)も珍しさに感嘆した。
近臣の清原教隆は「尋常の姿に非ず」と言葉を発した。
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右画像は足利義氏の菩提寺・法楽寺。足利両崖山の東麓に造った広大な浄土庭園の跡である。
昭和末期に再建した現在の本堂は、義氏の偉大な子孫の一人・足利義政が建立した銀閣寺を模して建てられている。
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     画像をクリック→法楽寺の明細(別窓)へ。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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4月22日
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吾妻鏡
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鎌倉中の保々の奉行人(決定権のある町内会長とでも訳すべきか)が承知しておくべき事項を定めた。担当奉行は佐渡前司後藤基綱
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   保司奉行人が存知るべき事項
     一.道を作らざる事(勝手に道を造ってはならない)
     一.宅檐を路に差し出す事(私宅の軒を道に出してはならない)
     一.町屋を作り漸々路を狭める事(店舗を作って徐々に道を狭めてはならない)
     一.小屋を溝上に造り懸ける事(溝(水路)の上まで拡張してはならない)
     一.夜行せざる事(夜間に出歩いてはならない)
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以上の五ヶ條を保々奉行人に通知し徹底させるように。また通告してから七日が過ぎても是正しない場合、奉行人は幕府の使者を伴って破却する事を命じる。
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   寛元三年四月二十二日     武蔵守(北條経時)     佐渡前司(後藤基綱)殿
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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4月27日
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吾妻鏡
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後藤基綱が去る22日の御教書(命令書)を写し、各保の奉行人に通告した。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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5月3日
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吾妻鏡
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御家人の訴訟に関する規則を定めた。まず問註所(訴訟を担当する部署、現代の裁判所)に通知したのは、理由をつけて当事者が出頭しない事例が五回続いた場合は姓名を書き出して処罰の対象とする事。また当事者が出頭したにも関わらず奉行人が連絡もなしに現れなかった場合にも同様である。
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訴訟に関わる諸国の守護人や地頭が六波羅の召喚に三度応じなかった場合には所職を解任する事も定めた。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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5月7日
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吾妻鏡
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懸物の年記(訴訟の担保として差し出した所領の処理)に関し、美濃国芥見庄を山田郷の付属物件とする。
管理する代官は万年入道(得宗被官)、奉行は左衛門尉清原満定
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   ※美濃国芥見庄: 岐阜市北東部(地図)。山田郷は更に北東に隣接している。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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5月9日
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吾妻鏡
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金津蔵人次郎資成が再審を訴えている上野国新田庄米澤村の名主職について、訴訟の担保を提出し更に詳細の説明もしているが(前回の判決は)文暦年間の通達に合致している。再審するべき要件ではないと定められた。
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   ※金津資成: 越後国蒲原郡金津郷(現在の新潟市西部・地図)を本領とした一族。吾妻鏡の承久三年(1221)
6月8日に以下の記載がある。
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今日、式部丞北條朝時結城七郎朝光佐々木太郎信實らは越後国小国源兵衛三郎頼継・金津蔵人資義・小野蔵人時信以下の御家人を伴って上洛を目指し、越中国般若野庄で宣旨の書状を受け取った。
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金津氏は承久の乱当初には越後国人と共に朝時の徴兵に応じて北條氏に従ったと思われる。
ここに記載のある資義は源義家-六男の石川義時-次男の平賀有義-嫡子の金津資義と続く清和源氏義家流で、同じ平賀氏でも 新羅三郎義光を祖とする平賀(大内)義信の系とは異なる。
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   ※新田庄米澤村: 新田庄の東部で現在の大田市米沢町一帯(地図)。今回の訴訟は資成(資義の子らしい)が
米澤村名主の権利復活を求めて棄却された。ただし長楽寺文書にある弘安四年(1281)6月15日付の寄進状には「金津氏が新田荘の所領を長楽寺に寄進した」と記載されており、金津蔵人資義の子孫が婚姻を介して新田荘に融合していった事を思わせる。
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ひょっとすると太平記の鎌倉攻めに金津氏の名が現れるかも知れないね。
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   ※長楽寺文書: 承久三年(1221)に新田義重の四男世良田義季
開いた古刹で数多くの古文書を収蔵している。
詳細は長楽寺と東照宮で。
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徳川氏に拠れば新田荘の得川郷を領有した世良田義季は家康の遠祖である、従って徳川家は清和源氏の子孫だと言うから笑っちゃうけど。
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長楽寺文書に含まれている新田義重置文も参考に。
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右画像は長楽寺の勅使門。画像をクリック→長楽寺の詳細(・別窓)へ
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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5月22日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條経時の管理下にある浜の倉庫に小蛇が現れた。数日間苦しんだ末に今日の申刻(16時前後)に死んだため、平左衛門入 道盛阿(平頼綱)に命じて占いと祈祷を行わせた。北條得宗家が武蔵国の年貢を収めている倉庫である。
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   ※蛇と三鱗紋: 使い始めた時期は不明だが、北條時政が江之島弁天
に参籠した結願の前夜に弁財天が夢に現れ、「良い行いを重ねれば一族は繁栄するが、道を外れた場合には滅亡する。心せよ。」と言って消えた。目を覚ますと龍と思われる鱗が三枚残っており、時政はこれを家紋とした。」との説話が残っている。
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多分後世のこじつけだろうが、蛇(水神)は龍の遠戚とされているから経時が卜占と祈祷まで命じたのは多少の自覚があったのかも知れない。
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北條義時の長男安千代丸が大蛇に呑まれた伝承とか、文応元年(1260)10月に北條政村の娘が物の怪に取り憑かれて蛇の如く動き回ったとか...北條氏と蛇って色々と接点があるんだよね。
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右画像は鎌倉宝戒寺門扉に掲げた三鱗紋。斜めで少し見にくいけれど。
     画像をクリック→ 宝戒寺の明細(別窓)へ。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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5月23日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼嗣・数え七歳)が御嫁を迎える運びとなり、日取り(6月20日)および増改築(女房(女官)の部屋と厩の拡張)などについて決裁があった。
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御方違えのため遠江守(北條朝直)邸(御所の巽(南東)方向)を選んだがここは御厩の西方向になり、秋節(8月15日)以後は王相方(凶の方向)なるため大僧正御房(恵良)の祈祷所を選定し、今夜から渡御することになる。
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   ※頼嗣の妻: 婚姻は7月26日、嫁さんは北條時氏の娘・檜皮姫で生母は松下禅尼(安達景盛の娘・15歳)。
檜皮姫の誕生は寛喜二年(1230)、父の時氏は同年6月に早世している。前将軍藤原頼経と五代将軍藤原頼嗣の権威失墜が続く中で、檜皮姫は宝治元年(1247)5月に17歳で病没する。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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5月26日
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吾妻鏡
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晴。大納言家(藤原頼経)が御所を五代将軍藤原頼嗣に譲渡した。これにより増改築に伴う御方違えは不要となり、着工の日取りを選ぶ必要もなくなった。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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5月29日
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吾妻鏡
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晴。執権の武蔵守北條経時が体調不良、黄疸を患っている。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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6月3日
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吾妻鏡
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晴。前将軍(藤原頼経)が右筆の輩を召し集め、(持仏堂の)久遠壽量院で一日に大乗経五部を書写し終え、三位法印頼兼を導師として供養の七僧法会を催した。
更に同日中に卿僧正良信を導師として法華五種の法会を催した。これは後鳥羽院の追善供養(七回忌?)である。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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6月7日
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吾妻鏡
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鎌倉中の民家は人数に応じて松明を準備して置き、押し込み強盗や殺害事件などが起きた際には各々が松明を掲げて集まるよう、保々(町内単位)に通達した。担当奉行は左衛門尉清原満定と万年九郎兵衛尉(得宗被官)。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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6月10日
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吾妻鏡
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晴。金泥で書いた法華経を五種妙行(受持、読、誦、解説、書写)により供養法会を行なった。導師は三位法印頼兼、これもまた後鳥羽院の菩提を弔う法会である。
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   ※金泥: 金粉を膠(にかわ)の液で泥のように溶いたもの。
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奥州藤原氏の三代藤原秀衡が中尊寺に納めた国宝の紺紙金字一切経(平泉最初の堂塔群 中尊寺の本文中断を参照)が太字で見た目も豪華なのだが、高解像度の資料が手元になく、ここでは平清盛が厳島神社に納めた国宝の紺紙金字法華経を載せた。  画像をクリック→ 拡大表示
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各巻の書き出しは清盛、その後を平頼盛が書き継いでいる。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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6月12日
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史 料
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   ※平戸記: 晴。鎌倉の飛脚が六波羅に入ったらしい。詳しい内容は不明だが、噂では権武(執権)北條経時
病気が深刻な状態のようだ。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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6月14日
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吾妻鏡
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大納言家(前の将軍藤原頼経)の御祈りとして法印隆弁が六字供を修した。
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   ※六字供: 六観音を祀って調伏や息災を祈る密教の修法。六観音とは、地獄道に聖観音・餓鬼道に千手観音・
畜生道に馬頭観音・修羅道に十一面観音・人間道に准胝または不空羂索観音・天道に如意輪観音。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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6月19日
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吾妻鏡
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武蔵守北條経時の病気が平癒し、病の災厄を祓う沐浴を行なった。医師の時長朝臣・頼幸・廣長が褒賞として各々御馬一疋と御剣一腰を下賜された。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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6月20日
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吾妻鏡
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大納言家(前の将軍藤原頼経)の御祈りとして助法印珍譽が日曜供を修した。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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6月27日
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吾妻鏡
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晴。20日と同じく(大納言家の御祈りとして)安倍晴賢による羅喉星祭を行ない、但馬前司藤原定員が雑事の手配を担当した。
今日戌刻(20時前後)に武蔵守北條経時邸(故武州北條泰時邸の北隣)および左親衛北條時頼邸で転居の儀あり。兼ねての新築工事が完成した事による。
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   ※羅喉星: 九曜星の一番目で本尊は大日如来、方位は南東。この年に当たる場合は大凶(厳密には、喉の偏は
口ではなく目)となる。木火土金水の五惑星に太陽と月を加えたのが七曜で、七曜に羅喉星と計都星を加えたのが九曜星。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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7月1日
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吾妻鏡
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晴。日蝕あり。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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7月5日
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吾妻鏡
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晴。前大納言家(藤原頼経)が(持仏堂の)久遠壽量院で御素懐(出家剃髪)を遂げた。御戒師は岡崎僧正(成厳)、御剃手は師僧正、燭を捧げたのは院圓法印。讃岐守藤原親実が束帯姿でこの行事を差配した。出家は以前からの宿願であり、今年の春に彗星が現れて変異を示した上に病気等が重なって思い立った結果である。
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   ※百錬抄: 前大納言頼経卿が出家し法名の行智を名乗った。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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7月6日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が御方違えのため若狭前司三浦泰村邸に騎馬で渡御、供奉人は徒歩で従った。
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入道大納言家(藤原頼経)が御所を将軍家に譲り、御厩と侍の間を北の対に建てる工事が来る10日に完成する。
この北の対が現在の住居から見て西方に当たり、秋節(8月15日)の前に御方違えを済ませるためである。泰村邸は御所を起点にして北に位置する。
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   ※秋節前に: 秋節(8月15日)以後の西方向への移転は王相方(凶の方向)となる。
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   ※政情不安: 一年後の寛元四年(1246)閏4月に北條光時が主導したクーデター未遂「宮騒動」が勃発する。
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御所の女房だった阿波局(加地(佐々木)信実の娘か)が産んだ庶長子 泰時が掌握した得宗家に対して元々の正室(討伐された比企氏の娘のため義時から離縁となった)が産んだ次男朝時の名越一族は対抗心が強く、同年4月の北條経時死没を絶好の機会と捉えた光時は執権体制に不満を持つ頼経側近の御家人らと連携して次期執権となった北條時頼打倒を計画した。
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結果として不発に終わった事件の顛末は後述するが、これから一年間の動きが宮騒動の伏線になる事を前提にして捉えると一段と興味深い。
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   ※得宗家: 北條嫡流一族の意味で使っているが北條嫡流の当主を得宗と記録した例は少なく、行政上の呼称に
過ぎなかったらしい。語源には泰時の呼称か戒名(観海または徳宗)と考える説や、禅宗に帰依した五代執権時頼が浄土宗を信仰していた義時に追贈したと考える説などがある。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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7月13日
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吾妻鏡
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武蔵守北條経時邸に於いて四角四方(敷地の四隅と東西南北の方角)の鬼気祭(邪気を祓う祭祀)を行なった。
西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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7月16日
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吾妻鏡
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月蝕あり、全容が視認できた。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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7月19日
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吾妻鏡
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幕府で大納言法印隆弁による六字供(6月14日を参照)を行なった。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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7月20日
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吾妻鏡
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御所の工事が完了し、(前の将軍家が)特に儀式は行わず今夜静かに転居された。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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7月24日
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吾妻鏡
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体調不良の気配に対応し、武蔵守北條経時邸に於いて大納言法印隆弁による如意輪供を修した。今日が勤修を始めてから七ヶ日に当たり、小康を取り戻したようだ。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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7月26日
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吾妻鏡
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晴。今夜、武蔵守北條経時の御妹(檜皮姫公、16歳)が将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の御台所として御所に入り、近江四郎左衛門尉佐々木氏信・小野澤次郎時仲・尾藤太景氏・下河邊左衛門次郎宗光らが行列に従った。
特に大袈裟な儀式はせず内輪だけの催しとして済ませ、追って正式に発表することになる。
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今日は天地相去日とされ、縁起の悪い先例ありと言う者もあったが問題にしないまま挙行した。
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   ※天地相去: 日本書紀の「国産み」に同様の記述あり。是時天地相去未遠...天地は特に遠くなかった、と。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。鶴岡八幡宮の神事により将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が御持仏堂の回廊に入御した。
ここは御所の真東か否かの確認を命じ、陰陽師を呼び集めて参河守清原教隆が方角の計測に任じた。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月2日
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吾妻鏡
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晴。漏刻博士の安倍泰継と大膳権亮の安倍孝俊が囚人として各々御家人に召し預けられた。泰継は大蔵権少輔加藤(遠山)景朝が、孝俊は駄三郎八郎入道則俊と臼井九郎が預かった。泰継と孝俊は安倍季尚朝臣の弟だったが、去年の正月20日に兄の家で、季尚の嫡男である右京亮業氏を殺害した。この犯行が露顕した結果である。
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   ※漏刻博士: 水時計を使って正確な時刻を計測する陰陽寮の専門職で行幸などの際には小型の漏刻を携えて
従ったらしい。院政時代(白河上皇の1086年~鎌倉が支配権を握った1185年前後を差す)には漏刻を扱うセクションは衰退し、陰陽寮の他部署に吸収されてしまう。
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奈良・明日香村の甘樫の丘東麓にも時を刻む漏刻の跡を伝える「水落遺跡」があったっけ。
詳細は明日香村 訪問記の後半部分で確認を。
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   ※犯行が露顕: 吾妻鏡の同年10月16日に「先月26日から上総権介秀胤が預かっていた殺害犯人の泰継が
上総国へ、孝俊は大蘇我七郎左衛門尉が下野国に流罪となった」との記載がある。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月5日
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吾妻鏡
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武蔵守北條経時の病状が回復したのは重ねて大納言法印隆弁の祈祷が奏功したとの沙汰があり、今日入道大納言家(前の将軍藤原頼経)が御自筆の御書により謝意を表し御剣を与えた。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月6日
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史 料
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   ※平戸記: 曇時々小雨。関東から様々な噂が届いている。(六波羅に)再三の飛脚が到着するなど、武蔵守経時
の病状が深刻なのは疑えない事実のようだ。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴・鶴岡八幡宮の放生会あり。将軍(五代将軍藤原頼嗣)が出御し、行事の全てが華美を尽くしていた。
法会と舞楽の奉納が済んだ酉刻(18時前後)に還御した。
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  御出の行列
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  先陣の随兵      上総式部大夫時秀   駿河五郎左衛門尉三浦資村
     千葉次郎泰胤   式部兵衛太郎伊賀光政
     梶原右衛門尉景俊   阿曽沼小次郎光綱
     越後五郎北條時員   遠江四郎北條時仲
     北條六郎時定   相模八郎北條時隆
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  次いで諸大夫
  次いで殿上人
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  次いで御車
     大曽祢次郎左衛門尉長経 上野十郎結城朝村
     梶原右衛門三郎景氏 善右衛門次郎三善康有
     齋藤左衛門尉基時   雅楽左衛門尉時景
     渋谷次郎太郎武重 佐々木孫三郎泰信
     伊東次郎祐朝   小野寺四郎左衛門尉通時
     武藤四郎頼隆   淡路又四郎小山宗泰
     武石三郎朝胤   上総六郎秀景
     平次左衛門尉平岡實俊   橘薩余一公員
     瀬下太郎   本間次郎兵衛尉信忠
        已上18人は直垂を着して帯剣し御車の左右に列歩。
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  次いで御劔役人   若狭前司三浦泰村
  次いで御調度役人   伊勢加藤左衛門尉
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  次いで御後五位
     前右馬権頭北條政村   左近大夫将監北條時頼
     遠江守北條朝直   宮内少輔足利泰氏
     相模右近大夫将監北條時定   越後右馬助北條時親
     遠江左馬助清時   毛利兵衛大夫廣光
     秋田城介安達義景   上総権介秀胤
     甲斐前司大江(長井)泰秀   能登前司三浦光村
     伯耆前司葛西清親   前刑部少輔忠成
     大蔵権少輔結城朝広   太宰少貳狩野為佐(為祐)
     上條美作前司宇都宮行綱   出羽前司二階堂行義
     駿河式部大夫三浦家村   上條修理(宇都宮)長高
     壱岐前司佐々木泰綱   遠江大蔵少輔加藤景朝
     摂津前司中原師員  内藤肥後前司盛時
     江石見前司大江能範   備後守町野(三善)康持
     但馬前司藤原定員   和泉前司二階堂行方
     隼人正伊賀光重   筑前前司二階堂行泰
     伊勢前司二階堂行綱   伊賀前司時家
     但馬兵衛大夫藤原定範   陸奥掃部助北條実時
     足利次郎兼氏   上野三郎畠山国氏
     若狭次郎三浦景村   大須賀次郎左衛門尉胤氏
     壱岐六郎左衛門尉葛西朝清   和泉次郎左衛門尉二階堂行章
     上総五郎左衛門尉泰秀   弥善太左衛門尉三善康義
     肥後次郎左衛門尉景氏   伊賀次郎左衛門尉光房
     伊賀六郎左衛門尉朝長   廣澤(波多野)左衛門尉實能
     宇佐美籐内左衛門尉祐泰   常陸次郎兵衛尉二階堂行雄
     大曽祢(安達)左衛門尉長泰   三村(小笠原)新左衛門尉親時
     信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
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  次いで後陣の随兵
     足利三郎家氏   河越掃部助泰重
     下野(宇都宮)七郎経綱   出羽次郎兵衛尉二階堂行有
     辛嶋次郎時村   土屋新三郎光時
     薩摩七郎(伊東)祐能   善右衛門五郎三善康家
     上野五郎兵衛尉結城重光   佐渡五郎左衛門尉後藤基隆
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今日武蔵守北條経時の病状が回復に向かったため、大納言法印隆弁は祈祷を締め括って本坊に帰った。
経時は宮内兵衛尉公氏を使者として剣と馬と巻絹30疋を贈らせ、また左馬頭入道足利正義も同様に絹糸20疋と呉綿100両を贈った。他にも若狭前司三浦泰村と秋田城介安達義景が各々祝賀を述べた。
経時の平癒は関東にとっての大きな慶事である。
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   ※宮内公氏: 実朝の側近として、和田合戦の直前と実朝が暗殺された朝の二度吾妻鏡に登場している。
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建暦三年(1213)4月27日、宮内兵衛尉公氏が(将軍実朝)の使者として和田義盛邸を訪れた。これは義盛が合戦の準備をしているとの噂が流れているため、その実否を問うためである。
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公氏が侍の間に入り、暫くして義盛が私室から侍の間との境(無橋)を飛び越えた際に烏帽子が脱げ、まるで首が落ちる如く前に落ちた。公氏はこれを見て「この人がもし叛逆すれば誅殺される、その運命の暗示だろう」と考えた。
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公氏が将軍家の申し付けた趣旨を伝えると義盛は「右大将家(頼朝)の時代には功績を挙げる機会に恵まれ多くの恩賞を得たが、崩御されて20年も経ていない今は零落し、泣いて願っても叶えられる事はない。衰運を恥じているのみで、もとより謀叛の企てなどない。」と語った。

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建保七年(1219)1月27日、実朝が(右大臣拝賀に謝する)出発の直前に大江廣元が御前に進んで言上した。「私は成人してから涙を流した事がありませんが(不吉な前兆が重なった)今は落涙を抑えられません。東大寺落慶供養の日に右大将軍(頼朝)の前例に従い、御束帯の下に腹巻(鎧の胴)を着けますように」と。
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源仲章朝臣が「大臣大将に昇叙する人にその例はありません」と言って腹巻の件は中止となった。
また公氏が御髪を整えた際に実朝は髪を一筋抜き、記念にと称して公氏に与え、庭の梅を見て禁忌の和歌を詠んだ。   「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」
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宮内公氏と、「悪辣な政商」と呼ばれたオリックスの元会長宮内義彦(wiki)との縁戚関係は不明。
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政府と共謀して国民の血税を騙し取っても一流の財界人と呼ばれるんだから嫌な世の中だ。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月16日
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吾妻鏡
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快晴。鶴岡八幡宮馬場の神事が豪華に催された。詳細は去年と同様で将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が出御し供奉人は昨日に同じ。御奉幣が行われ、昨今と同じく安倍晴賢による御祓いがあった。坊門少将清基と尾張中将が陪膳(補佐・給仕)を、水谷右衛門大夫重輔が運び役を務めた。また大納言法印隆弁が加持祈祷に任じた。馬場での行事は去年と同様だが豪華さは類まれな素晴らしさで、入道大納言家(前将軍藤原頼経)も桟敷で見物された。馬場の儀(田楽舞の奉納と馬長(飾り馬の行列)などは通年の通り)。
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  十列
     一番 大隅太郎左衛門尉大河戸重村
     二番 豊後十郎左衛門尉
     三番 石戸左衛門尉
     四番 足立太郎左衛門尉直光
     五番 三浦新左衛門尉
     六番 加地七郎右衛門尉氏綱
     七番 田中右衛門尉知継
     八番 相馬四郎兵衛尉
     九番 佐貫次郎兵衛尉
     十番 佐原六郎左衛門尉時連
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  流鏑馬
     一番   長江四郎入道明義    射手 同小次郎(孫)   的立 遠江大蔵少輔
     二番   伊豆入道武田信光    射手 同五郎七郎  的立 壱岐前司佐々木泰綱
     三番   小笠原六郎時長    射手 同四郎太郎   的立 前隼人正伊賀光重
     四番   上総介千葉秀胤    射手 子息六郎秀景  的立 内藤肥後前司盛時
     五番   佐渡前司後藤基綱    射手 隠岐左衛門四郎行忠  的立 内藤豊後前司
     六番   信濃民部入道二階堂行盛    射手 子息四郎左衛門尉行忠  的立 宮内左衛門尉公景
     七番   出羽前司二階堂行義    射手 子息次郎兵衛尉行有  的立 肥前太郎左衛門尉胤家
     八番   小山判官長村    射手 山内兵衛三郎  的立 肥前四郎左衛門尉光連
     九番   上野入道結城朝光    射手 同孫三郎  的立 遠江六郎左衛門尉時連
     十番   淡路四郎左衛門尉長沼時宗    射手 子息弥四郎  的立 肥後次郎左衛門尉二階堂行義
     十一番 和泉次郎左衛門尉二階堂行章   射手 渡部右衛門四郎  的立 豊後四郎左衛門尉島津忠綱
     十二番 壱岐前司佐々木泰綱    射手 佐々木六郎左衛門尉  的立 和泉次郎左衛門尉天野景氏
     十三番 相馬小五郎胤村     射手 相馬左衛門三郎  的立 上総式部大夫時秀
     十四番 左近大夫将監北條時頼    射手 武田五郎六郎  的立 上野大蔵少輔結城朝広
     十五番 右馬権頭北條政村    射手 伊賀六郎光重  的立 石見前司能行
     十六番 若狭前司三浦泰村    射手 佐原七郎左衛門尉政連  的立 能登前司三浦光村
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  競馬
     一番 左 工藤右衛門二郎   右 秦次郎府生
     二番 左 富田次郎兵衛尉   右 相良彌五郎
     三番 左 本間三郎兵衛尉   右 河村小四郎
     四番 左 山口三郎兵衛尉   右 下條四郎
     五番 左 樟曽祢小二郎   右 葛西又太郎
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月18日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が突然の体調不良、邪気(悪気、物の怪)か。大納言法印隆弁に祈祷を指示した。先日来北條経時の病気に対応した祈祷に専念して余裕がないし発病後では辞退したいと述べたが再三の求めに従って御所に参籠した。隆弁の他にも内外(仏教と陰陽道など)数種類の祈祷が催された。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月19日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の件は病気の進行に邪気が重なって首が腫れた状態らしく、御所で泰山府君 と大土公の祭祀が行われた。同様に巽方(南東の方角)で属星祭、内蔵頭資親がこれらの件を差配した。
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   ※泰山府君: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神で生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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   ※大土公: 陰陽道に基づく遊行神で春には竈、夏には門、秋には井戸、冬は庭に棲む。その季節にその場所を
犯すような行為をすると祟る、という。
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   ※属星祭: 国土安穏・五穀豊饒を祈祷する星供養(星祭)が個人の守護星を供養する属星祭に発展したもの。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月20日
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吾妻鏡
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晴。昨日に続いての祈祷として文永朝臣による代厄祭を行なった。今日二條殿(藤原頼経の同母兄二条良実・wiki)から小車(小型の牛車)が送られてきた。嬉しさが病気の苦しさを多少は癒してくれる。
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   ※代厄祭: 陰陽道に基づく祭祀の一つ。取り憑いた厄を体から取り出して祓う。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月21日
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吾妻鏡
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晴。勝長壽院の別当僧正良信が冥道供を行なった。前日と同じく病気に対応した祈祷である。
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   ※冥道供: 閻魔 大王を本尊として罪障の消滅と長寿を願う密教の供養法。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月24日
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吾妻鏡
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晴。今日霊所(神仏の霊験あらたかな場所)の御祓いを行なった。将軍家の病気平癒を願う祭祀である。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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8月26日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の病状が未だ好転しないため夜に御所で千度御祓いを行ない、更に安倍晴賢が規則通りの泰山府君祭を行なった。祭料を下賜し、加えて白鞍を置いた御馬一疋と銀作りの御剣をそれに加えた。讃岐守中原親實(衣冠)が使者である。
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   ※平戸記: 噂では入道大納言(頼経)の息子で五代将軍で新羽林(左近衛中将)の藤原頼嗣(六歳)が腫物に
侵されて重体と武士が話している、と。その使者が巳刻(10時前後)に六波羅に到着したらしい。
関東での病気頻発は尋常ではない。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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9月4日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に武蔵守北條経時の室が死去した。没年は15歳、下野前司宇都宮泰綱の息女である。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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9月6日
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史 料
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   ※平戸記: 情報に拠れば螢惑(火星)が哭星(山羊座の星を差す?)の軌道を犯し既に分裂して彗星が現れた。
この異変は重大で、司天(天文担当)の輩が密談を交わしているらしい。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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9月8日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に螢惑星(火星)が天関(牡牛座の星)の軌道を犯した、と。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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9月9日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の病状に関し、生母二品局の夢に丹念な祈祷によって快方に向かうとのお告げがあり、病床の将軍家は祈祷を行っている大納言法印隆弁に近寄って二拝した。18日に祈祷の指示を受けた法印も同様に、25日には霊験が現れるだろうとの霊夢を見たという。
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   ※平戸記: (9月10日) 晴。後日の噂では、螢惑(火星)が哭星(山羊座の第一星)に六寸まで迫った、と。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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9月11日
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吾妻鏡
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晴。将軍家の病状に回復の気配が現れた。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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9月14日
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吾妻鏡
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晴。将軍家の病状が回復に向かい、阿闍梨隆弁の祈祷も結願して御所から退出した。これにより入道大納言家(前将軍藤原頼経)は御馬と御剣に自筆の御書を添え、隼人正伊賀光重に隆弁の雪ノ下本坊に送り届けさせた。
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御書には「三位中将(従三位・左近衛中将の頼嗣)の病状は深刻だったが、母親には「間もなく回復する」との霊夢があり、更に北條経時の病気もまた回復した。言葉に表せない程の霊験に褒賞を行なうものである。」とあった。
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   ※隆弁: 13歳で圓城寺(三井寺)に入ってから順調に昇進し、将軍の藤原頼経や執権北條経時の信頼を受けて
圓城寺と鎌倉を往復する生活を送った。当時の天台宗座主は九条(藤原)兼実の実弟慈円九条道家との関係が深く、更に真言宗も朝廷の実力筆頭の道家に従う傾向が強かった。
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やがて寛元二年(1246)に道家・頼経連合が背後で宮騒動の糸を引き、翌年には三浦一族を巻き込んで宝治合戦を巻き起こす。結果として九条道家の失脚と共に延暦寺も力を削がれ、時頼調伏のため多くの祈祷を行なった密教勢力も排斥されて禅宗が鎌倉の公式な宗教として認められていく。
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その中で、宮騒動の時代から時頼勝利の祈祷を続けた隆弁だけは信頼を失わず、鶴岡八幡宮別当に補任され更に執権時頼の圧倒的な信任を得る結果となる。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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9月23日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に辰星(水星)が垣星(紫微垣(wiki)を参照)に二寸まで近接した。
子刻(深夜0時前後)には月が軒轅大星(獅子座のレグルス(wiki)を参照)の軌道に一尺まで近接した。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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9月27日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條経時の病状が再び悪化し、酉刻(18時前後)には突然意識を失った。鎌倉中が騒ぎとなり、夜になって経時邸で七座(壇)の泰山府君・霊気・招魂などの祭祀を行った。
西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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9月29日
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家(前将軍藤原頼経)が八人の僧を招き、(持仏堂の)久遠壽量院で法華八講を行なった。 灯火の頃を迎えて水谷左衛門大夫重輔と内蔵権頭資親と讃岐守藤原親実が布施を配った。この法事は故大相国(西園寺公経)の一周忌追善の法要である。
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今日、将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の(首の)腫物が悪化、医師の丹波時長と以長朝臣が御所に駆け付けた。
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   ※法華八講: 法華経八巻を八座に分け、通常は朝夕二座を講じて4日間で完了する法会。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月6日
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吾妻鏡
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寮米入道の後家が改嫁(再婚)する件について出羽前司二階堂行義と明石左近将監兼綱の奉行として決裁があった。後家が前夫から相続していた所領は本主(寮米入道)の息子である次郎国朝の所有とする、と。
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   ※寮米入道: どこの誰だか判らないのは困る。もう少し正確な記録を残して欲しいものだね。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月9日
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吾妻鏡
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晴。治部権少輔頼氏の奉行により、入道大納言家(前将軍藤原頼経)が主催する天変対応の祈祷が始められた。
      金輪法を本覺院僧正  尊星王供を猷聖法印
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  将軍家(五代将軍藤原頼嗣)のためとして、
      八字文殊法を大僧正御房   属星祭を安倍晴賢
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月10日
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吾妻鏡
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雨。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の息災を祈る属星祭を御所で行った。担当は安倍晴賢、激しい雨の中で唐傘を差してこれを務めた。将軍家の使者(代参)は治部権少輔頼氏。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月11日
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吾妻鏡
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雨、辰(朝八時前後)から晴。平将門の合戦記録を元にした絵物語が昨夜京都から届き、将軍御所に於いて大殿(藤原頼経)がこれを見た。詞書を読んだのは清原教隆、終ってから武蔵守北條経時が準備した酒宴が開かれた。
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   ※将門合戦記: 原本は現存せず、康和元年(1099)に複写した真福寺本と時期不詳の楊守敬旧蔵本、二つの
写本が現存する。共に冒頭部分が失われているため元々の題名も著者も不明、鎌倉時代には将門合戦章あるいは将門合戦状と呼んでいたらしい。
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脱落による最初の記述は不明だが延長九年(931)の一族の内紛から始まり、新皇を称した天慶二年(939)を経て平貞盛藤原秀郷連合軍に討たれた天慶三年(940)2月まで、および死後に起きた超常現象などが語られている。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月12日
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吾妻鏡
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晴。(頼経の持仏堂)久遠壽量院で本覚院僧正を導師とした如法法華経十種供養が行われ、直ちに永福寺の奥山に奉納された。大納言家(前将軍藤原頼経)の宿願として以前から勤行と共に写経を続けていたものである。
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   ※法華経十種供養: 仏陀が法師に説いた十種類の供養、すなわち華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・絵蓋・幢幡・
衣服・伎楽による供養を差す。更に詳細は検索されたし。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月13日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の病状が平癒に向かい、今日病の穢を祓う御沐浴を行なった。医師六人が召されて蹴鞠の中庭に集まり、各々褒賞の御馬と御剣を受けた。時長・頼行・忠憲・以長・廣長・時清らである。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月15日
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吾妻鏡
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晴。天変に対応した祈祷が内外(仏教と陰陽道)の双方で数壇が催された。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月16日
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吾妻鏡
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晴。殺害人の安倍泰継は先月26日から上総権介秀胤に召し預けられており、今日上総国に流された。
また(もう一人の殺害人)大膳権亮の安倍孝俊は大蘇我七郎左衛門尉が連行して下野国に向かった。
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   ※殺害人: 前年8月2日に事件の詳細が載せられている。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月19日
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吾妻鏡
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晴。今日、由比浜の大鳥居を建立した。左親衛北條時頼が立ち会い、多数の人々が集まった。
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   ※浜の大鳥居: 仁治二年(1241)4月3日に「(地震直後に)由比浦の大鳥居内の拝殿が潮に引かれ流失した」
との記載があるが、鳥居の倒壊は記録にない。単なる建て替えか倒壊かは不明。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月28日
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吾妻鏡
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熊野河頬の尼の子息定憲の申し出による評定衆の臨時評議があった。榎本氏の娘が召喚状に応じないため彼等の訴訟は既に判決が下っているのだが、熊野河頬の尼は判決を無視して作毛(稲の収穫)を占有している。
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今後はこの訴訟を締め括り、榎本氏の娘には糺返(原状回復)させるよう命令が下った。この件の奉行は長田兵衛太郎が任じている。
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   ※熊野河頬の尼: 武蔵国の入間川沿いに河頬(かわつら)村という地名があり、「河頬=川沿い、熊野川沿いに
住む尼」と解釈して良いだろうが、それ以上の情報は得られない。
そもそも熊野河頬の尼と榎本氏の娘の関係が判らないし、榎本氏の娘が判決に従わず熊野河頬の尼が収穫を占有してるって...何のこっちゃ。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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10月30日
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家(前将軍藤原頼経)が(持仏堂の)久遠壽量院で報恩の舎利講(仏の遺骨を供養する法会)を行なった。唱導は本覚院僧正唱、稚児舞も献納され全て華美を尽くした催しだった。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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11月4日
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吾妻鏡
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入道大納言家(前将軍藤原頼経)の明春御上洛について決定した。供奉人の数は53人、既にその通知は侍所別当の陸奥掃部助北條実時に届けてある。更に能登前司三浦光村と信濃民部大夫入道二階堂行義を補佐として副え、2月14日出発を厳守するよう命じられた。
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   ※頼経上洛: 2月の上洛は結果として実現しなかった。閏4月1日に北條経時が病没して 北條時頼が執権職を
継承する混乱に乗じて、頼経と北條(名越)光時らによる北條得宗家を排除する動きが露見した。
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これには評定衆を含むアンチ執権派の御家人も同調しており、頼時は5月25日に鎌倉全域を封鎖して彼らの動きを封じた(宮騒動)。6月になって北條時幸は自害、光時は伊豆流罪、頼経の側近だった評定衆の後藤基綱千葉秀胤町野(三善)康持は罷免、7月11日には頼経も京都に強制送還されて事態は収束した。
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皇族ではない頼経の事件が「宮騒動」なのかは、鎌倉時代末期に成立した「鎌倉年代記」の裏書に「宮騒動と呼ぶ」とあるのが最初。この騒動以後の幕府は摂関家出身の将軍を求めず、六代将軍に宗尊親王(後嵯峨天皇の第一皇子)が就任する遠因になったため、と考えられている。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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11月5日
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吾妻鏡
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晴。丑刻(14時前後)に雷鳴あり。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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11月10日
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吾妻鏡
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鷹狩りを禁止した。現在まで続いていた(神事として)神社に供する行事は例外とし、石見前司大江能行と左衛門尉清原満定がこの奉行を担当する。
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   ※鷹狩り神事: 諏訪大社の上社本宮(公式サイト)にある「贄掛の大欅」
が知られている。人通りの少ない東参道の鳥居石段を下った右手、「二の御柱」の横にある。
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案内板には「鎌倉時代に禁止された鷹狩りは諏訪大社の神事だけが認められたため、諸国の有力御家人は各々が領内に諏訪大社を勧請し自分の所領でも鷹狩りができるようにした。その謝礼として鷹狩りで得た獲物を「贄掛の大欅」に捧げる習慣が定着した」とある。
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鷹狩りは禁止の通達が何度か出されているが、御家人にとっては抜け道を使っても続けたい娯楽だったらしい。
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この大欅(右画像)は樹齢千年とも伝わる。鎌倉時代には横枝に手の届く若木だった、かも。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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12月13日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に地震あり。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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12月16日
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吾妻鏡
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鷹狩りについては長く禁止とし、違反した輩は処罰を受けて後悔する事になる。ただし神社の神事として行う場合は例外とし、更に六齋殺生については重ねての厳守を諸国に命じる。ただしこれも神事の場合には例外とする。
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   ※六齋: 在家の者が出家に倣って戒律を守るべき、8日・14日・15日・23日・29日・30日の6ヶ日。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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12月17日
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吾妻鏡
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法に背いた悪党を匿ったり庇護した者は所領を没収する旨を諸国の守護人に命令した。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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12月20日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に大きな地震があった。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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12月24日
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吾妻鏡
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晴。来年の正月に起きると予想される日蝕についての沙汰があり、今日祈祷が始められた。但馬前司藤原定員がこの奉行を務める。
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  入道大納言家による祈祷として
      一字金輪護摩を卿僧正快雅
      薬師護摩を師僧正
      日曜祭を安倍晴賢
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  将軍家による祈祷として
      北斗護摩を鶴岡別当法務定親
      日曜祭を前縫殿頭の安倍文元
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  若君御前による祈祷として
      月曜供を助法印珍譽
      羅喉星祭を安倍廣資喉
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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12月25日
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吾妻鏡
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晴。松浦荘の事務執行官である源授が拘禁され、上野入道日阿(結城朝光)の預かり処分になっている。
これは源授と鶴田五郎源馴が肥前国松浦庄西郷の佐里村と壱岐泊と牛牧について訴訟沙汰となっており、敗訴が明白になったため「源馴が問註奉行人である越前兵庫助政宗の悪口を言っている」と言い始めた。
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証人に確かめた結果、太田太郎兵衛尉康宗と志村太郎入道寂圓が誓紙を提出して悪口を言っていないと証言し、源馴の所領は従来の通りに安堵する裁決となった。中山城前司盛時の奉行である。
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   ※松浦荘: 肥前国松浦郡(佐賀県唐津市の松浦川西岸一帯・地図)にあった最勝光院(後白河法皇の仙洞御所
法住寺殿の一郭)領の荘園。壱岐泊と牛牧も松浦荘の地名と思われるが確認できない。
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松浦党は源頼光四天王の一人渡辺綱を祖とする滝口武者渡辺党の系で、松浦郡宇野御厨の荘官を経て土着し松浦を名乗った一族。当初は平家の家人として水軍を率いたが壇ノ浦では源氏に味方し九州北部の地頭職を得た。平家滅亡後の頼朝は平家の家人だった九州の御家人に信頼せず、少弐氏・島津氏・大友氏らを下り衆として送り込み彼らを統治下に置いている。
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元寇での松浦は主戦場となり、蒙古軍に蹂躙されて松浦党数百人が討ち死にしたと伝わっている。
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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寛元三年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1245年
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西暦1245年
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88代後嵯峨天皇
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記事
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