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寛元四年(1246年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。夜になって武蔵守北條経時の沙汰による椀飯の儀あり。
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申酉の間(18時前後~20時前後)に日蝕があると諸道(司天・陰陽道)が報告していたが、前年末の決定は右大将家(頼朝)時代の建久九年(1198)正月に起きた日蝕の例に倣って御所を覆う作業はしなかった。結局日蝕は現れず、或いは他の地域だったのかも知れない。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※年令: 四代執権北條経時は21歳(閏4月1日に死没)・五代執権になる北條時頼は18歳・
六代執権になる北條長時は16歳・七代執権になる北條政村は41歳・ 三浦泰村は62歳・
足利義氏は57歳・ 結城朝光は78歳・ 将軍藤原頼経は1月16日で29歳(7月に京都に更迭)・
次期将軍藤原頼嗣は6歳・ 第88代後嵯峨天皇は25歳(1月29日に退位し89代後深草天皇へ)。
3月11日に即位礼を行う第89代後深草天皇は2歳      (表示は全て満年齢)
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   ※葉黄記: 前年末から三壇を設けて祈祷し、更に四ヶ寺(延暦寺・薬師寺・興福寺・東大寺)で読経を行なった
結果、推定した時刻を過ぎても日蝕は現れなかった。安倍晴継は「日没の時間帯に現れるかも知れない」と述べたが、他の天文担当らは蝕は全くなかったと報告した。
日蝕が起きる事は以前から全員が予告し、算道(学問としての算術)の雅衡は「僅かの蝕が起きるかも」と語っていたが、遂に確認できなかった。信仰の効果である。
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   ※百錬抄: 日蝕が起きることは陰陽道の輩が既に報告していたが算博士の雅衡は日蝕は起きないと主張して
おり、遂に蝕の確認はできなかった。
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   ※日蝕の例: 建久九年の吾妻鏡は欠落しているため頼朝がどんな指示をしたのかは確認できない。
守覚法親王(後白河法皇の子で仁和寺第六世門跡)の書跡に正月に日蝕の記載がある。
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            葉黄記はこちら、百錬抄はこちら(共にwiki)を参照されたし。
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西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月2日
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吾妻鏡
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将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が鶴岡八幡宮に御参宮。
西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月4日
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吾妻鏡
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晴。入道(前将軍藤原頼経)並びに将軍家(五代将軍藤原頼嗣)御行始め(外出初め)として左近大夫将監北條時頼邸に入御した。御台所と若君(頼経の次男道増)は若狭前司三浦泰村邸に、将軍頼嗣の御母(二棟局)と将軍の御台所(武蔵守経時の妹檜皮姫、前年7月26日に婚姻)は秋田城介安達義景邸に入御した。
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西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月6日
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吾妻鏡
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晴。御弓始めあり。
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   一番   大井太郎 対 平井七郎
   二番   小笠原六郎 対 長井彌太郎
   三番   波多野小次郎 対 工藤六郎
   四番   佐貫次郎兵衛尉 対 眞板五郎次郎
   五番   佐原七郎 対 春日部次郎
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西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月10日
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家(前将軍藤原頼経)と将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が蔵人大夫入道西阿(毛利季光)邸に入御。
明夜の立春節に対応しての御方違えである。
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今日将軍家が始めて御甲冑を着けた。寝殿西の簾中での非公式行事である。出雲前司波多野義重と弥籐次左衛門尉盛高の両人が補佐し、武蔵守北條経時のみが立ち会った。
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西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月12日
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吾妻鏡
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大殿(前将軍藤原頼経)と将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が毛利入道西阿邸から御所に還御した。立春節の御方違えに加えて11日が東が太白方(凶)のため、一昨日から昨日までの逗留である。
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今朝、毛利入道西阿が御引出物として各々に御剣・砂金・鷹羽・御馬一疋を献じた。
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西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月17日
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吾妻鏡
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晴、風は鎮まった。
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西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月19日
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家(前将軍藤原頼経)が牛車で鶴岡八幡宮に参宮。大夫将監北條時頼と若狭前司三浦泰村らが供奉した。
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西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月28日
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吾妻鏡
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主税頭雅衡(算道・数学者)の書状が京都から到着、内容は以下の通り。
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今年正月の蝕については起きないと予め前上申し、それが符合した賞として正四位下に叙された。宿曜道(占星)の珍覺法眼も同様に上申し権少僧都に転じた。14日に行なった御斎会の除目のついでである。
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中原師員朝臣がその書状を読み上げ、殊に感動したとの返事を送るよう命じられた。
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   ※御斎会: 正月8日から7日間、高僧を集め金光明最勝王経を講義させ国家安泰と五穀豊穣を祈願した法会。
朝廷では結願の日に御前で内論議 (解釈の論争) が行われた。
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西暦1246年
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88代後嵯峨天皇
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寛元四年
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1月29日
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資 料
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譲位あり。88代後嵯峨天皇 → 89代後深草天皇(満2歳)。
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   ※後嵯峨天皇: 西園寺公経の孫娘を中宮として立場の安定を図り、将軍藤原頼経の京都更迭に伴って朝廷の
実力者九条道家も失脚したため、制約を受けずに院政を行なう事ができた。政治的には幕府との協調を主軸として執権政治に協力し、宮将軍の実現により政情の安定化が実現している。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月4日
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吾妻鏡
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晴。御台所(五代将軍藤原頼嗣の正室檜皮姫北條時氏の娘)が病気となり、但馬前司藤原定員が担当して祈祷が行われた。

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   ※檜皮姫: この年の閏4月に執権北條経時が死没し北條時頼が執権職を継ぐと共に執権派と将軍派の対立が
深刻化する中、病床の檜皮姫は宝治合戦直前の翌年5月に病没する。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月9日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が鎌倉に参着、先月29日に皇太子(着位して後深草天皇・四歳)が受禅(先帝の譲位を受け帝位に就くこと)したと報告。丑刻(深夜2時前後)に関白(九条道家の次男二条良実)らが冷泉第から劔璽(神器)を携えて春宮御所(東宮御所)の冷泉富小路に徒歩で参上した、と。
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   ※後深草天皇: 在位中は後嵯峨上皇の院政によって直接政務に関わる事はなく、17歳の正元元年(1259)に
後嵯峨上皇の求めにより90代亀山天皇(後深草の弟で後嵯峨の第七皇子)に譲位した。
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更に文永五年(1268)には再び後嵯峨の意思により、後深草の皇子熈仁ではなく亀山の皇子世仁親王が立太子し、後深草退位後の91代後宇陀天皇)となった。
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この時点から後深草の系(持明院統)と亀山の系(大覚寺統)の対立が始まり、両統が交互に帝位を継ぐ形で幕府を含めた合意を交わすのだが...
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鎌倉幕府の滅亡後に大覚寺統の後醍醐天皇が持明院統に帝位を渡すのを拒んで息子の後村上天皇を擁立し、56年間も続く南北朝の対立を招く結果となる(天皇家の系図を参照)。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月10日
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吾妻鏡
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午刻(正午前後)に鳶(鳶職じゃなくて鳥のトビ、ね)が常の御所(寝殿造りの居間)に飛び込んできた。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月13日
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吾妻鏡
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晴。大殿(前将軍藤原頼経)が頻りに上洛を望んでいるが様々な異論があって延期となっている。そのため上洛を望む趣旨についての仰せがあった。
今日、(頼経持仏堂の)久遠壽量院で結縁の灌頂(仏縁を結ぶ儀式、簡易版の授戒か)を行なった。
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   ※異論: 頼経としては実父で関東申次(幕府との交渉役)の任にある九条道家と協力して幕政に圧力を加えたい
意図があり、北條執権側としてはその事態を避けるため頼経上洛を阻止したい思惑がある。
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   ※授戒: 奈良時代の中期、仏教の繁栄と共に権力の腐敗や民心の離反により戒律を守らなくなった僧や勝手に
出家した農民が課税を逃れるなどの事件が常態化した。
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朝廷はこの状態を打開するため正式な授戒(仏弟子となるための道徳基準を授ける儀式)を行える高僧を唐から招き、統一したシステムを確立しようと考えて使者を唐に派遣した。
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この招聘に応じたのが律宗の開祖・鑑真和尚で、天平勝宝五年(753)に来日し正式な授戒の権限を持つ三ヶ所の寺院(三戒壇)が定められた。南都東大寺(公式サイト)、筑紫観世音寺(wiki)、そして東海道の足柄峠と東山道の碓井峠から東の授戒を受け持った下野薬師寺である。
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このシステムも時の流れと共に既得権化して腐敗し有名無実になっていくのだが...その話は別の機会に譲るとして。
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右画像は下野薬師寺資料館の戒壇模型(クリック→ 拡大表示)。
     さらに詳細は下野国分寺と薬師寺跡(別窓)の中段以下で。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月15日
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吾妻鏡
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晴。御台所(五代将軍藤原頼嗣の正室檜皮姫の病状について占ったところ深刻であるとの結果が出た。邪気の疑いはあるが、取り敢えずの措置として灸による治療を行った。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月16日
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吾妻鏡
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晴。御台所の病気に対応して御所で千度の御祓いを行なった。晴茂・宣賢・晴貞・廣資・泰房・晴憲・晴成・以安らの担当である。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月17日
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吾妻鏡
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晴。御台所には重ねて灸の治療を行なわれた。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月18日
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吾妻鏡
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御台所の病状は、今日は特に悪化は見られなかった。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月22日
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家(前将軍藤原頼経)が二所詣に備えて精進潔斎を始めた。七日間の御精進屋参籠で、特別な御願のためである。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月28日
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家が二所詣に出発。越後守北條光時・相模右近大夫将監北條時定・相模八郎時隆・太宰少貳狩野為佐・但馬前司藤原定員・備後前司廣将・能登前司三浦光村ら数人が供奉した。
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   ※相模八郎時隆: 北條時房の孫。時房-時村-時隆と続く。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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2月29日
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吾妻鏡
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曇、未刻(14時前後)に雷鳴あり。 今日、萩原九郎資盛とその父遠直の所領没収のうえ身柄を拘束された。これ悪党を庇護し援助しているとの訴えが大胡五郎光秀から出され、調査したところ罪科が明白となったためである。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月3日
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吾妻鏡
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暴風雨。入道大納言家(前将軍藤原頼経)が走湯山から直に還御した。風雨のため早暁までを要した。
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   ※直に還御: 走湯山は現在の伊豆山神社(サイト内リンク・別窓)。吾妻鏡の記録では最初の二所詣は文治四年
(1188)1月、箱根→ 三嶋→ 伊豆山の順路である。(右下の地図画像を参照)
二度目に実施した建久元年(1190)から帰還した1月20日の吾妻鏡には以下の記載がある。
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頼朝は夜になって二所詣から鎌倉に帰着した。
今後の参詣は最初に三嶋大社と箱根権現に奉幣し伊豆山を経て鎌倉に戻る経路と定められた。
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伊豆山権現に参拝する途中で石橋山合戦場に立ち寄り、頼朝は佐奈田余一と豊三(余一の郎従)の墳墓を見て涙を流した。治承合戦でこの両人が敵に討たれた悲しみを思い出すためで、これは参拝の途上で縁起が悪く、前途が憚られると先達が申し出て経路を変えたものである。
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その後に順路を戻した記載はないから寛元四年も同じ筈で、28日から3または4泊の日程だった事を含め、原文の「自走湯山直御下向也」を「(箱根と三嶋に寄らず)伊豆山から直帰した」と解釈し難い。とすると、この「直」は何を意味するのか。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月8日
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吾妻鏡
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海賊渡辺党の仲間・柴江刑部丞源綱法師の本来の職務である摂津国榎上庄南方下司職名義の水田について、領家に没収されたと源綱入道が訴えている件の裁決が下された。没収した海賊の占有地には関東から地頭を補任しており、領家の勝手な行為には根拠がないとの警告を下すことになった。追って地頭補任の沙汰がある、と。
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   ※榎上庄: 東寺領の摂津国垂水荘(大阪府吹田市垂水町・地図)に榎の旧地名があった。かつての渡辺津から
約8km北に過ぎず、榎上庄の可能性はありそうだ。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月12日
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吾妻鏡
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評定衆による臨時の会議を催した。有間左衛門尉朝澄が提出した懸物押書について明石左近将監兼綱を奉行として決裁が下された。この件を訴えた越中七郎左衛門次郎政員の主張は「押書にある串山郷については元々の持ち主の養母だった尼が有間朝澄一代限りとして相続させた土地であり、押書に載せるのは不当である。」との内容だったが、審査の必要なしと却下された。
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また肥前国の御家人安徳三郎右馬允政康所領については兄の政尚・政家の例に倣い、地頭職および所領安堵の下文を受けた土地以外の私領である肥前国三根西郷のうち刀延名の三分の一を没収とする。これは越前兵庫助の奉行である。

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   ※懸物押書: 訴訟の濫発を防ぐために提出を義務付けた制度。告訴人が敗訴した場合は自分の所領を相手方
または幕府を含む第三者に引き渡す事を約束する書類。
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   ※串山郷: 肥前国高木郡の東部(現在の雲仙市小浜町西部・地図)。元々は平家没官領で本所は仁和寺、高木
東郷の惣地頭が越中氏だったらしい。
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   ※三根西郷: 肥前国高木郡の東部(現在の三養基郡上峰町・地図)、吉野ヶ里遺跡の近くだね。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月13日
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吾妻鏡
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信濃国善光寺の供養、導師は大蔵卿法印良信。名越故遠江入道生西(北條朝時)の息子たちが遺言を受け大檀越として催した。勧進上人(寄付を集めを担当した僧)は親基である。
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   ※名越: 朝時の生母は泰時の正室姫の前(比企朝宗の娘)で、祖父時政から
名越の屋敷を相続した事などから北條嫡流の意識が強く、朝時の息子ら(名越流北條氏)は反執権の企てを数回起こしている。
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二ヶ月後の閏4月に起きた宮騒動では長男の光時が所領を没収され伊豆流罪、次男北條時章は文永九年(1272)の二月騒動で殺害、三男時長は許されたが四男時幸は出家して降伏(自害説あり)、六男教時は二月騒動で追討されるなどの処遇を受けている。
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このような時代背景から、今回の善光寺供養の法要はクーデターの下準備だったと考えられている。
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   ※大檀越: 大檀那に同じ。寺院の維持に必要な経済的援助を担った者。
善光寺は治承三年(1179)に焼失、吾妻鏡の文治三年(1187)7月27日には「頼朝が全国の御家人に善光寺再建に尽力せよ、と下命した」と記録している。 頼朝は善光寺の大檀那だった。
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右画像は甲斐善光寺が収蔵する頼朝坐像。文保三年(1319)の銘があり、上杉謙信との合戦による焼失を恐れた信玄が信濃善光寺(公式サイト)から甲斐に移送した。 詳細は頼朝の肖像で。
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   ※下準備: 葉黄記(権中納言葉室定嗣の日記)など複数の史料には前将軍藤原頼経と関東申次に任じた父親
九条道家が今後の対応について、内密に連絡し合っていた事を示す史料が残っている。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月18日
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吾妻鏡
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讃岐国の御家人藤原左衛門尉が海賊を捕縛し連行したとの報告が同国の守護人能登前司三浦光村の代官から六波羅を経て鎌倉に届いた。五代将軍藤原頼嗣からは感心できる功績であるとの言葉が六波羅を経て伝えられた。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月20日
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吾妻鏡
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評定衆による臨時の会議あり。市河次郎左衛門尉が強盗や海賊を再三捕縛した功績に対して感状の御教書が与えられた。御恩(恩賞としての所領)の沙汰の際には(この功績を)書類に書き加えよとの仰せがあった。
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   ※市河次郎: 現在の山梨県市川三郷町にあった院領の市河荘(地図
に本拠を置いた甲斐源氏の子孫と思われる。
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源義光の次男義清が常陸での濫行のため嫡子の清光と共に常陸から甲斐に配流され、市河荘に土着していた末弟・覚義阿闍梨の勢力範囲に定住したのが市河荘平塩館とされる。基本的には甲斐守に赴任した実績のある義光の縁故を利用したという事か。
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義清はここで「いととしく 埴生の小屋のいぶせきに 千鳥なくなり 市河の森」(みすぼらしい我が家の姿に 千鳥さえも鳴いている 市河の森)との和歌を詠んでいる。
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右画像は平塩館に隣接した平塩寺(開山は行基と伝わる)の跡地。
      画像をクリック→ 義清と甲斐市河荘(別窓)へ。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月21日
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吾妻鏡
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武蔵守北條経時の病状が深刻となり、治療と共に逆修(生前に死後の冥福を祈る仏事)を行なった。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月23日
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吾妻鏡
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武蔵守北條経時邸で内密の協議があり、執権職を舎弟の大夫将監北條時頼朝臣に譲る事が決まった。既に存命の見込みがなく、二人の息子も幼いため政務の牢籠(停滞・行き詰まり)を防ぐため、執権として真実本心からの決断である。時頼は直ちに了承した。
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   ※二人の息子: 庶長子は満5歳、後に隆弁の元で出家(法名を隆政)して23歳で病死。次子は正室腹で満2歳、
同様に出家(法名を頼助)した後に鶴岡八幡宮別当を経て東寺長者などを歴任、東大寺別当に任じた後に53歳で死没している。
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吾妻鏡の原文では経時の言葉は「真実趣出御意云々」、この言い方は捏造っぽくて嫌だね。
時頼自身も若干20歳だが背後には生母(松下禅尼)の実家安達氏や北條実時もいる。頼助を後継指名しても実質的な支障はない筈だ。
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仁治二年(1241)11月29日に下馬橋の近くで三浦一族と結城一族の乱闘未遂事件があり、翌30日には当時の執権北條泰時が事件に対応した経時の軽率を叱咤し、時頼の判断を賞賛している。吾妻鏡に特有の、勝者に阿(おもね)る後付けの曲筆と考えるべきだろう。
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悪意に考えれば時頼が執権継承を主張し、経時の意向を無視した可能性もある。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月24日
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吾妻鏡
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晴。京都朝廷の使者が着いて報告、先月13日に新帝(89代後深草天皇)が閑院に遷られた、と。
今夜戌刻(20時前後)に大白(金星)が熒惑星(火星)の軌道を犯した。
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   ※閑院: 一般的には里内裏、この場合は冷泉富小路殿(御所南小学校の運動場横に石柱あり・地図)。
当初は西園寺実氏の所有で、後嵯峨天皇の中宮となった娘(大宮院)の御所となり皇子(後深草天皇)が産まれると東宮御所となった。3月11日にはここで即位の礼を催している。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月25日
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吾妻鏡
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雨。左親衛北條時頼が将軍家(藤原頼嗣)並びに入道大納言家(藤原頼経)の両御所を訪問、執権相続に祝賀を受けた事に礼を述べた。将軍家への取り次ぎは摂津前司中原師員、大納言家への取り次ぎは但馬前司藤原定員
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月26日
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吾妻鏡
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雨。今日、左親衛北條時頼の執権継承に伴う評定が始められ評定衆が参席した。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月27日
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吾妻鏡
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雨。武蔵守北條経時の素懐(出家)について、内々に大殿(藤原頼経)に報告した。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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3月30日
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吾妻鏡
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評定衆による評議あり。甲斐国一宮(浅間神社・公式サイト)の権祝(神職)守村が申請している鷹狩り禁止に伴う鳥の献納を遅れについての沙汰が下され、神社への供祭が認められた。摂津前司中原師員朝臣を介して通達。
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   ※鷹狩り禁止: 前年11月10日に記載のある諏訪大社に準じた禁止の例外許可だろう。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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4月3日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に月が大奎(星座の一つだろうが、不明)の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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4月5日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が天変の連続に驚き、陰陽道に勘文(諮問に対する上申書)を求めた。
三河前司教隆がこの件を奉行する。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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4月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。入道大納言家(前将軍藤原頼経)が御持仏堂(久遠寿量院)で供花供養が始まった。御所の居間から御持仏堂の庇まで階段を設けて通路とし女房(女官)や当番衆らが交替で献花を続けた。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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4月14日
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吾妻鏡
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大殿(藤原頼経)と将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の意向による祈祷が始まった。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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4月17日
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葉黄記
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晴。山門(比叡山)の衆徒が蜂起し、昨日制止の院宣を下された。今日は更に六波羅から両門跡にも(騒動を防ぐよう)警告が発せられた。
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   ※両門跡: 奈良興福寺にあった門跡寺院の一乗院大乗院(共にwiki)。武装勢力を擁し再三紛争を起こした。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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4月19日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條経時の病状が悪化し、既に執権職は(時頼に)譲っているため今日剃髪して法名安楽を号した。
大蔵卿法印良信が戒師を務めた。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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閏4月1日
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吾妻鏡
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晴。今日、入道正五位下行武蔵守平朝臣北條経時が死去(法名を安楽・33歳)した。行程3日を指定された飛脚が京都に向かった。
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   ※百錬抄: 関東の前武蔵守経時が病没。後日、京中三十ヶ日の触穢(死の穢れ)が定められた。
百錬抄の詳細はwikiで。
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   ※経時の事: 執権としては執務期間18年の三代泰時と在職10年+実権7年の五代時頼に挟まれてやや印象
が薄く、執務期間も4年に満たない経時の実績は乏しいように見えるが...
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訴訟制度の改革や将軍頼経解任、更に妹を頼経の正室にして将軍外戚の地位を確保し反執権勢力を押さえ込むなど、短い執務期間の中で次期執権の時頼が動きやすい体制確立に大きな役割を果たしている。個人的には、22歳で早世しなければ更に実績を積んだ、と思う。
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吾妻鏡には時頼を偉大に見せるため経時を恣意的に貶めている部分が多く、歴史の真実を後世に伝える気概には著しく欠如している。嘆いても意味はないが、紀元前でさえ権力者の意に諾々とせず自らの意思で史記を著した司馬遷のように、正面から史実と向き合う人物は実に少ない。
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安倍晋三に羊の如く盲従する小物だけが次々に現れるのは島国の悲しさか。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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閏4月2日
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吾妻鏡
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禅室(北條経時)を葬送、佐々目山麓に葬った。
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   ※佐々目山麓: 現在の笹目町(地図)を差すが、本来の経時墓所は不明。
仁治元年(1240)に経時が創建した蓮華寺に葬った、或いは蓮華寺は寛元元年(1243)に材木座に移転して光明寺に改めた、或いは蓮華寺は建長三年(1251)に時頼が経時の菩提を弔って建てた、などの伝承があり、確認できていない。
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蓮華寺の跡は現在の佐助1-13-6(鎌倉税務署の筋向かい・地図)に鎌倉青年団による石碑が建っているが県道の工事で動かされており、旧跡は既に不明。光明寺(公式サイト)の創建時期にも1259年説があるなど、不確定要素が多い。
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光明寺墓地にある墓石(右画像・クリック→ 拡大)には正確な刻銘が確認できるため、本来の墓所である佐々目山麓から移設したのは間違いなさそうだ。
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   ※葉黄記: 関東の経時入道が去る一日の酉刻(18時前後)に逝去した。
去年六月からの病気で先月に出家。病の様子は様々な噂もあったが実態は不明である。今朝鎌倉の飛脚が到着し私も参院して書状と共に(六波羅探題北方の)北條重時への弔問をするよう指示を受けた。為康法師を使者として派遣した。   葉黄記の詳細はwikiで。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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閏4月8日
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吾妻鏡
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六波羅(探題)を含めて各所から弔問の使者が鎌倉に入った。鎌倉の飛脚が去る4日申刻(16時前後)に京都に入り、経時死没の報は洛中に知れ渡った。
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   ※鎌倉の飛脚: 葉黄記は「1日酉刻(18時前後)に死没」と書いており、指示通り3日弱で着いた計算になる。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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閏4月18日
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吾妻鏡
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亥刻(22時前後)に鎌倉中で騒動あり。甲冑姿の武士が町に集まり、明け方になって沈静化した。様々な噂あり。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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閏4月20日
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吾妻鏡
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鎌倉周辺に本拠を置く御家人が御家人が数知れず鎌倉に集結し、連日の騒動が鎮まらない。
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   ※葉黄記は: 4月末から閏4月末まで、延暦寺と鞍馬寺の周辺で戦闘など騒動が続いている、と記録している。
鎌倉の執権交代との直接的な因果関係はないが、並行して勃発した九条道家の関東申次罷免に続く失脚と関係があるのかも知れない。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事は通例の通り。戌刻(20時前後)に月が軒轅大星の軌道を犯した。
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   ※軒轅大星: 獅子座の頭部から北の山猫座に伸びる星列が軒轅(龍の姿を表現)、大星はその頭部の一等星
レグルスだそうな。天文の知識が皆無なので詳細は不明、間違ってたらゴメン。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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5月7日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(22時前後)に地震あり。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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5月14日
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吾妻鏡
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晴。天変および月蝕が起きたのは慎みが求められていると判断して祈祷が催された。
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    入道大納言家(前将軍藤原頼経)の分として
       薬師護摩 を 岡崎僧正成源が、
       愛染王供 を 按察法印賢信が、
       月曜祭 を 安倍文元朝臣が、
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    将軍(五代将軍藤原頼嗣)の分として
       月曜供 を 助法印珍譽が、
       羅喉星祭 を 安倍国継が、
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    将軍御台所の分として
       羅喉星供 を 安倍晴賢が、
       月曜祭 を 安倍定賢が執り行なった。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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5月16日
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吾妻鏡
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晴。月蝕は現れず、概ね満月の状態である。ただし夜半を過ぎてから雲に隠された。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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5月22日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に秋田城介安達義景の屋敷および屋敷のある甘縄周辺が騒がしくなり、騒動は周辺まで広がった。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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5月24日
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吾妻鏡
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鎌倉中の騒がしさが静まらず、家財を運び隠す姿が少なくない。すでに辻々を武士が警護し、渋谷氏一族は左親衛(北條時頼)の命令を受けて中の下馬橋(地図)を封鎖している。
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太宰少貳(狩野為佐が御所に向かおうとしたが、橋を封鎖している警備兵に阻止された。警備兵が北條執権邸に行く場合は通って良いと通告したため小競り合いとなり、一層の騒ぎとなった。
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夜半には全員が甲冑を着して旗を挙げ、各々の判断により幕府へ駆け付ける者や時頼邸に集まる者など様々である。故遠江入道生西(北條朝時)の子息(光時時幸時長ら)による謀反の計画が発覚したとの事だ。
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   ※狩野為佐: この時は評定衆の一人だが今回の宮騒動に連座して
解任された。ただし数年後には引付衆として幕政に復帰しており、関与の程度は軽かったらしい。
中の下馬橋を固めた渋谷氏には時頼から敵味方のリストが渡っていたと考えるべきか。
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右画像は中の下馬橋(画像をクリック→ 拡大表示)。本来は扇ガ谷から流れる扇川に架かる橋だが、現在は暗渠となり橋桁だけが残っている。すぐ右手が二の鳥居。
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   ※宮騒動: 皇族ではない頼経の事件が「宮騒動」なのかは、鎌倉時代末期に成立した「鎌倉年代記」の裏書に
「宮騒動と呼ぶ」とあるのが最初。この騒動以後の幕府は摂関家出身の将軍を求めず、六代将軍に宗尊親王(後嵯峨天皇の第一皇子)が就任する遠因になったため、と考えられている。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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5月25日
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吾妻鏡
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晴。騒動が続いている。左親衛(北條時頼)邸の警固は続けられ、甲冑の軍士が周囲を囲んでいる。
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卯一点(朝5時過ぎ)に但馬前司 藤原定員が(前将軍藤原頼経の)使者と称して時頼邸を訪れたが邸内に入るのを許されず、諏方兵衛入道・尾籐太平三郎左衛門尉らによって退去させられた。
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将軍御所に宿直していた越後守北條光時は家人に呼び戻されたが自邸には戻らず剃髪し、髪を時頼に届けた。
これは時頼追討を目指して心変わりしない事を署名した起請文を書き、その中心になったのが名越流北條一族であるとの噂があったためこのような措置になった。
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光時の舎弟尾張守北條時章・備前守北條時長・右近大夫将監北條時兼(朝時の五男、光時らの弟)らは以前から野心を持っていない旨を言上していたため特に処分を受けることはない。
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その後に但馬前司定員が出家剃髪し、秋田城介安達義景が彼を拘束し、息子の兵衛大夫定範も連座した。
昼過ぎ、群参していた武士らが再び旗を揚げて騒いだ。今日、遠江修理亮北條時幸が病気のため出家した、と。
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   ※保暦間記: 江間越後守光時(朝時の嫡子)は将軍の近習として寵臣の立場にあったが驕る心を持ち、自分は
義時の孫であり時頼は彦(曾孫)であると称して将軍の権威を取り戻そうと企み、将軍も光時に心を寄せてこの結果になった。   保暦間記の詳細はwikiで。
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   ※宮騒動: 光時の弟らが「野心を持っていない」と事前に告げているのを考えると、情報は筒抜けだったらしい。
今回の騒動にクーデター未遂の実態があったのかは疑わしい。解任された前将軍頼経は元々実権を持たず、光時が動員できる兵力も多寡が知れている。不満分子が集まって愚痴を語り合っている程度ではなかったか、あるいは時頼が不満分子を早めに排除しただけではないか、と思う。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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5月26日
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吾妻鏡
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晴。左親衛(北條時頼)邸に於いて内々の評議があった。右馬権頭北條政村・陸奥掃部助北條実時・秋田城介安達義景が参席者である。
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   ※参席者: 時頼は29歳・北條実時は22歳・北條政村は41歳・安達義景は36歳。評定衆の中でもこの事件で
罷免される後藤基綱千葉秀胤町野(三善)康持はもちろん加わっていないし、既に敵対勢力としてマークされている三浦一族も参席していない。
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   ※評定衆: この時のメンバーは北條時頼北條資時北條朝直北條政村三善(太田)康連町野(三善)康持
矢野倫長(三善(矢野)倫重の嫡子)・ 二階堂行盛二階堂行義中原師員後藤基綱三浦泰村
三浦光村清原満定毛利季光・ 毛利忠成(大江廣元の五男)・安達義景長井泰秀伊賀光宗
宇都宮泰綱。 北條実時は評定衆ではないが時頼の側近として引付衆に任じ、建長五年(1253)に評定衆に昇格している。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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6月1日
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吾妻鏡
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晴。今日入道修理亮従五位下平朝臣北條時幸が死去した。
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   ※葉黄記: 先月22日以後、関東で大きな騒乱があったとの連絡が届いた。   葉黄記の詳細はwikiで。
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   ※時幸死去: 名越流北條氏の中では最も強硬なアンチ執権派だったらしい。葉黄記の6月6日には「光時舎弟の
修理亮時幸が自害」と書いている。自殺を強要されたという事だろう。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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6月6日
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吾妻鏡
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深夜になって駿河四郎式部大夫三浦家村が密かに諏方兵衛入道蓮佛(諏訪盛重)を訪れて相談を申し入れた。
蓮佛はすぐに左親衛北條時頼に報告し、家村を座敷に待たせたまま御所を数回往復したのは何かの交渉があったと思われる。明け方になって家村は退出した。
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   ※葉黄記: 関東の飛脚が到着し、入道将軍(藤原頼経)の御所を警護(封鎖)し近習の藤原定員を拘束した。
越後守北條光時は出家して伊豆国に配流、その舎弟修理亮北條時幸は自害。また上総権介千葉秀胤を領国に追放し、降伏した者は拘禁した。これらは時頼の命令であり、様々の噂が流れている。
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   ※光時配流: 韮山の北條邸近くか、頼家範頼が流された修禅寺と思うが、吉川本は江間郷(地図)としている。
伊豆に住む人間としては頗る無念ではあるが、光時の墓所どころか消息も確認できない。
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   ※秀胤追放: 若年の時頼としては千葉氏との決定的な対決を避けたらしい。ただし翌年の宝治合戦での秀胤は
同族の大須賀氏・東氏の軍勢に攻められて滅亡している。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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6月7日
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吾妻鏡
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前佐渡守後藤基綱・前太宰少貳狩野為佐・上総権介千葉秀胤・前加賀守町野(三善)康持らは事件への関与により評定衆を罷免、康持は問注所執事を解任となった。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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6月8日
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史 料
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   ※百錬抄: 関東騒動の情報が届いた。明日飛脚が入洛の予定で、入道将軍藤原頼経が叛逆を企てた、と。
              百錬抄の詳細はwikiで。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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6月10日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼邸に於いてまた極秘の評議があった。時頼・右馬権頭北條政村・陸奥掃部助北條実時・秋田城介安達義景に加えて今回は若狭前司三浦泰村も参席している。各々が本音で意見を述べ合うのが目的で、他に諏訪入道盛重と太平三郎左衛門尉尾籐景氏も同席した。
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   ※葉黄記: 日を追って世間が騒がしく噂が飛び交っている。今朝は東山殿の御所付近で変異との情報があり、
確認したところ特に異常はなかった。天狗の所為だろうか。
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   ※泰村参席: 事件の決着後に、当初の会議に呼ばれなかった泰村が加わったのは牽制に加えて恫喝の意味が
含まれる。泰村は早めに決起すべきだったか、弟の光村を慰撫して和平を求めるべきだったか。
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   ※尾籐景氏: 得宗家の初代家令として貢献した尾藤景綱の養子。時頼の側近として政務の中心を担った。
宝治合戦(1247年6月)で三浦氏が滅亡した後は諏訪盛重と共に寄合衆(鎌倉時代後期の実質的な政治の中枢)に任じている。能力の秀でた得宗被官が実力を発揮する時代を迎える。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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6月13日
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吾妻鏡
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出家した越後守北條光時(法名蓮智)が伊豆国に配流となった。越後国務などを含めた所領などは没収となった。
また上総権介千葉秀胤は光時との共謀が露見し、上総国に追放となった。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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6月15日
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史 料
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   ※葉黄記: 晴。東山殿(御所)に参内。北條重時の使者が来訪した。鎌倉の使者として安達泰盛が昨日上洛、
入道将軍(藤原頼経)が来月11日に上洛の予定である、と。噂は様々にあるが、騒動は決着したと思われる。
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   ※安達泰盛: この時が吾妻鏡の初見で満15歳、鎌倉時代の後半を彩るキーパーソンの一人となる。
翌年には父の義景と共に三浦泰村を滅ぼし、執権時頼の外戚として御家人筆頭の地位を確立するのだが...好事魔多し。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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6月20日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の臨時祭・神事あり。ただし将軍家の御参宮も奉幣使の派遣もなく、八幡宮寺単独の行事である。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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6月27日
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吾妻鏡
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入道大納言家(前将軍藤原頼経)が入道越後守北條時盛の佐介邸に渡御した。御上洛を控えた御門出の儀で、近習ら多くが供奉した。道中の宿舎や雑事などについて手配の指示が下された。
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   ※時盛邸: 北條時房の長男。時房を継いで貞応三年(1224)~仁治
三年(1242)まで六波羅南方に任じた時盛が佐介谷(現在の佐助ヶ谷・地図)に住んだ事から佐介流と呼ばれた。
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谷の奥にある佐助稲荷神社が語源で、更に源典は祭神の化身が佐殿(兵衛府四等官の次官が佐(すけ)、頼朝の若い頃の官職)を助けたから、或いは上総介・三浦介・千葉介の三人が屋敷を構えていたなどの説がある。
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右画像は佐助稲荷神社(wiki)の鳥居を臨む参道。鎌倉駅から約1kmの徒歩圏内で、八幡宮本殿までの距離と大差ないのだが、境内は深山幽谷の趣がある。
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参道を少し戻って北に入ると銭洗弁財天(wiki)。30年ほど前に財布にあった万札5枚を洗ってみたが何の効果もなかった。信仰心の欠片もない癖に現世の功徳を求めてもダメ、なのだ。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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7月1日
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吾妻鏡
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晴。左親衛(北條時頼)が酒肴を入道大納言家(前将軍藤原頼経)の御旅宿(北條時盛の佐介邸)に届けさせた。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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7月2日
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吾妻鏡
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晴。午刻(正午前後)に地震あり。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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7月5日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に地震あり。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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7月11日
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家(藤原頼経)が今朝早くに帰洛の途に就いた。
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  供奉人
   前讃岐守中原親實   前石見守能行
   前隼人正光景   山城入道元西
   信濃権守   隼人太郎左衛門尉光盛
   信濃右馬允   高橋右馬允光泰
   彌五郎右馬允盛高   齋藤左衛門尉清時
   籐四郎左衛門尉秀實   十郎兵衛尉
      以上は、京都に滞在して仕える。
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   相模右近大夫将監北條時定   前佐渡守後藤基綱
   前太宰少貳狩野為佐   前能登守佐原 (蘆名)光盛
   前大隅守忠時   前筑前守二階堂行泰
   主計頭頼行   毛利蔵人経光
   下妻四郎長政   大曽祢左衛門尉長泰
   上野彌四郎左衛門尉時光   宇都宮五郎左衛門尉泰親
   駿河五郎左衛門尉資村   肥前太郎左衛門尉胤家
   武藤左衛門尉景頼
    以上は、道中の供奉のみ。
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  この他に三室戸大僧正、宰相僧正以下の高僧が数人および陰陽道の輩少々が同行する。.

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   ※供奉人: 後藤基綱と狩野為佐は共に評定衆だったが頼経に連座して罷免され、後に幕政復帰を果たしている
から関与は軽微なのだろう。ただし、三浦資村を含めて頼経に近かった幕臣を供奉人に加えたのは制圧に成功した余裕か、懐柔して服従を受け入れたのだろうか。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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頼経の
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行程記録
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吾妻鏡
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7月12日 72km・鮎澤   7月13日 19km・木瀬河   7月14日 32km・蒲原   7月15日 29km・手越
7月16日 25km・嶋田   7月17日 19km・懸河   7月18日 20km・池田   7月19日 27km橋本
7月20日 28km・豊河   7月21日 29km・矢作   7月22日 42km・萱津   7月23日 30km・墨俣
7月24日 15km・垂井   7月25日 24km・馬場   7月26日 35km・   7月27日 17km・野路
7月28日 21km・入洛・若松
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   地名をクリック→ ルート地図へ(厳密ではなく概略)。全体の日程は従来の将軍上洛の場合と大差はないが、
初日に足柄峠を越えて鮎澤まで72kmの移動はかなりの強行軍だった。頼経に与する御家人の関与を防ぐため相模国での宿泊を避けたのだろう。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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7月27日
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吾妻鏡
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野路に着御し昼の宿舎としたがここで日暮れとなり、夜半の出発となった。未の日(27日)は御衰日(運気の弱まる日)である。
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   ※百錬抄: 関東の前将軍入道大納言頼経が上洛。謀反による追放である。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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7月28日
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吾妻鏡
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寅刻(16時前後)に(藤原頼経が)粟田口(蹴上)を経て御入洛。
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   ※葉黄記: 今日寅刻、入道将軍が重時朝臣が提供した若松宅に入った。
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「中央区若松町にあった重時の家」の意味と思っていたが、北條九代記の建長元年(1249)4月18日には「(解任された)五代将軍藤原頼嗣が若松殿に入った。護送の武士20人」との記載がある。
六波羅の敷地にあった若松殿、と解釈すべきだろうか。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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8月1日
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吾妻鏡
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民部大夫太田(三善)康連が問注所執事(長官)に就任、加賀前司町野(三善)康持と交替である。
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   ※康持と交替: 前将軍頼経に連座しての康持の罷免だが、暫く後には引付衆として幕政に復帰している。
加担の程度が軽微だったか、訴訟関係の人材として不可欠だった可能性もある。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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8月12日
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吾妻鏡
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入道大納言家(前将軍藤原頼経)の帰洛に供奉していた相模右近大夫将監(北條時定)が京都から戻り、付き従っていた人々も鎌倉に帰ってきた。
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先月27日(28日の早暁)に祇園大路を経て六波羅の若松殿に入り供奉人も1日に京都を出発したが、能登前司三浦光村だけは御簾の前に残って数時間退出せず涙を流していた。光村には20余年も将軍家に仕えていた思いがあったのだろう。
光村は「何とかして再び鎌倉にお迎えしたい」と人々に語っていた。
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   ※葉黄記: 入道将軍(前将軍藤原頼経)が密かに東山殿に入った。
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   ※東山殿: 九条道家邸。嘉禎三年(1237)に道家自身が建立していた
東福寺(公式サイト)の奥に建立し、翌年ここに隠棲した光明峯寺(推定地)を差す。
室町時代の応仁の乱(1467~1477)で焼失し、そのまま廃寺となった。
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右画像に粟田口から六波羅へのルート、若松町の位置(中央上の鴨川沿い)、光明峯寺の推定地(中央下)を記載した。画像をクリック→ 拡大表示
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会があり、将軍家(五代将軍藤原頼嗣・満6歳7ヶ月)が出御した。
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  供奉の行列
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    先陣の随兵
       足利次郎兼氏    上野三郎畠山国氏
       遠江六郎兵衛尉佐原時連    右衛門太郎梶原景綱
       右衛門尉田中知継    壱岐次郎右衛門尉宍戸宗氏
       遠江右近大夫将監北條時兼   城九郎安達泰盛
       越後右馬助時親    相模式部丞北條時弘
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    次いで諸大夫
    次いで殿上人
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    次いで御車
       左衛門尉佐原七郎政連    左衛門尉雅楽時景
       佐貫次郎兵衛尉    大胡五郎光秀
       阿曽沼小次郎光綱    長井弥太郎
       那須次郎    江戸六郎太郎
       山内中務三郎    波多野小次郎宣経
         以上の10人は直垂を着して帯剣し御車の左右に続く。
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    次いで御後五位六位(布衣を着して裾を括る)        遠江守北條時直    尾張守北條時章
       相模右近大夫将監北條時定    備前守北條時長
       上総介千葉秀胤    甲斐前司長井泰秀
       若狭前司三浦泰村    上野前司畠山泰国
       参河守新田頼氏    秋田城介安達義景
       佐渡前司後藤基綱    掃部助河越泰重
       下野前司宇都宮泰綱    壱岐前司佐々木泰綱
       伊賀前司小田時家    前太宰少貳狩野為佐
       大蔵権少輔結城朝広    淡路前司園田俊基
       壱岐前司宍戸国家    肥後前司内藤盛時
       伯耆前司清原清親     駿河式部大夫三浦家村
       越中守    長門守
       筑前前司    伊勢前司二階堂行綱
       内藤豊後前司    長沼淡路守
       上総式部大夫千葉時秀    城次郎安達頼景
       駿河五郎左衛門尉三浦資村    下野宇都宮七郎経綱
       遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛    肥前太郎左衛門尉佐原胤家
       遠江五郎左衛門尉三浦(佐原)盛時    左衛門尉関政泰
       近江四郎左衛門尉佐々木氏信    和泉次郎左衛門尉天野景氏
       佐渡五郎左衛門尉後藤基隆    加治七郎左衛門尉佐々木氏綱
       同八郎左衛門尉佐々木信朝    大隅太郎左衛門尉
       信濃四郎左衛門尉二階堂行忠    豊後十郎左衛門尉
       春日部次郎兵衛尉    石戸左衛門尉
       太宰次郎兵衛尉    兵衛尉相馬次郎胤綱
       出羽次郎兵衛尉二階堂行村    左衛門筑後次郎知定
       鎌田籐内左衛門尉    左衛門尉飯富源内長能
       兵衛尉本間三郎元忠    下野木内次郎胤家
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    後陣の随兵        甲斐前司春日部實景    左衛門尉長江三郎義景
       左衛門尉大曽祢太郎長経    左衛門尉壱岐六郎朝清
       淡路弥四郎宗員    左衛門尉足立太郎直光
       左衛門尉伊東六郎祐盛    佐々木孫四郎泰信
       河越五郎重家    千葉八郎胤時
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    参会の廷尉(検非違使)
       大夫判官薬師寺(小山)朝村    大夫判官小山長村
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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8月16日
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吾妻鏡
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八幡宮放生会に続く馬場の神事あり。流鏑馬が16騎と揚馬を催したが、射手の一人が体調を崩して出場ができない旨を申し出た。神事の例に倣うため、桟敷の将軍家(五代将軍藤原頼嗣)から雅楽左衛門尉時景を介して「射手を務めよ」と駿河式部大夫三浦家村に仰せが下った。家村はこれに答えて、
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亡父の義村の時代にはまだ壮年でしたから二度ほど射手を務めましたが長い年月が過ぎ、普段練習していてさえ実際にできるものではありません。ましてや当日に突然の出場はとても無理です。
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時景がその旨を言上すると将軍家は泰村を呼び「どうしても射手を務めさせよ」と命じた。泰村は座を立って家村の前に行き仰せに従うよう伝えたが、馬の用意がないと答えた。泰村は何かの支障に対応するため深山路という名馬を鞍を付けて流鏑馬舎の近くに用意していた。逃げ場を失った家村は自ら敷き皮を持って下手の垣に沿って馬舎へと歩み、全ての観衆は馬場の下手に目を向けて家村を待ち受けた。
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家村は狩衣を射手の衣装に改めて深山路に跨り、四番目の射手として馬場に乗り入れた。その姿は昔の名人に劣らないと人々は賞賛し、家村は見事に弓射を終えてから狩衣に着替えて元の座に戻った。将軍家からは感動の言葉があり、三浦一族も他家の者も家村の美技を褒め讚えた。
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   ※揚馬: 流鏑馬などの際に騎手が最後に乗って走る馬を差す。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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8月17日
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吾妻鏡
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将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が突然の体調不良となり諸人が群参した。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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8月20日
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吾妻鏡
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将軍家の病気が平癒し、医師・護持僧・陰陽師らが褒賞を受けた。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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8月25日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に月が軒轅女御星(5月5日の記事を参照)の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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8月26日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に月が太白(金星)の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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8月27日
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葉黄記
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晴。病気ではあるが輿で(六波羅の)相模守北條重時朝臣を訪ね、暫く待たされた後に面談した。
重時からは「世間の噂では仙堂(院の御所)周辺で不穏な動きがある。鎌倉から私に届いた書状(左近大夫将監北條時頼から重時に宛てたもの)を内々に御覧に入れよう」との事だった。
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は「その書状を頂戴して奏覧に呈すべきか」と尋ねたが重時は「私信であり、奏覧は恐れ多い」と答え、私は「では書写ならよろしいか」と尋ねた。重時は「それも恐れ多い」と答え、私は「内容を箇条書きにしよう」と言って承諾させた。私は二枚を書いて後日のため重時に一枚を渡した後に参院し、噂を聞いた円満院宮(後嵯峨天皇の皇子円助法親王)・大相国(西園寺実氏)・前内府(九条忠家)も同様に参院した。
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私は院の御前に進んで余人を混じえず箇条書きの内容を奏上した。特別な内容ではなく、大納言入道(前将軍藤原頼経)が上洛して出家引退した件、将軍(五代藤原頼嗣)は通常通り家人が守護している件、謀反を企てた者に多少の処分を下し関東は静謐である件、天下の政道は仰せに従って徳政に務め叡慮に背かず優れた者を重用する件、関東申次の人事は追って申し入れるとの件、などがその内容である。

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   ※私、とは: 日記・葉黄記を書き遺した正三位権中納言葉室定嗣(wiki)のこと。鎌倉側の史料・吾妻鏡に対して
葉黄記は公家の立場から書かれた史料として貴重な存在とされる。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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9月1日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼が若狭前司三浦泰村を招き、政治の方向性などについて話し合った。その中で「知恵も十分ではない若輩でありながら武士の政治を預かっており、自分勝手な動きに陥るのも防ぐ必要がある。六波羅から相模守北條重時を鎌倉に呼んで万事を話し合おうと思うが、どうだろうか。」と尋ねた。泰村は「それには賛成できません。」と答え、時頼はこの件を暫く実施しない事にした。
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   ※重時の件: 重時の合流によって執権体制が強化されるのを泰村が警戒したか、あるいは時頼が泰村の考えに
探りを入れたか。もちろんこの面談が吾妻鏡編纂者の捏造で、(謀反の心を抱いている)泰村が執権体制の強化を嫌っていたと匂わせた可能性もある。
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そもそも宝治合戦について、時頼が三浦氏との対決を避けたいと考えていたとか、安達氏の単独行動に引きずられて時頼も踏み切ったなどの話は全く信頼に値しない。元久二年(1205)の6月に圧倒的な兵力で畠山重忠主従を殺戮した北條義時が凱旋して語った台詞を想起しよう。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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9月9日
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吾妻鏡
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晴。今暁に太白(金星)が微執法皇星(不明)の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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9月12日
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吾妻鏡
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将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の近習を六組の勤番制とし、左親衛北條時頼が自筆で勤番の名簿を書いた。理由のない欠勤が三回あった場合は罪科に処すとの附則が載っている。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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9月16日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に太白(金星)が太執法皇星(不明)の軌道を犯した。離隔は九寸。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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9月27日
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吾妻鏡
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晴。左親衛北條時頼が兼ねて所願に従って薬師如来像の造立に取り掛かった。今日、大納言法印隆弁に材料にする木材の加持祈祷を委ねた。隆弁は去年から在京しており、時頼の護持僧としての下向を再三求めたため一昨日(25日)に鎌倉に入った。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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10月6日
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吾妻鏡
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曇、夜になって雷鳴あり。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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10月8日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼が盃酒を将軍家(五代将軍藤原頼嗣)に献じ、舞女が廻雪の袖を翻した。
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   ※廻雪の袖: 舞姿を修飾する定形語。文治二年(1186)4月8日に静が八幡宮で舞った際にも「憖廻白雪之袖」
(原文・なまじいに(不本意ながら)白雪の舞う如く袖を翻す)との記載がある。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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10月9日
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吾妻鏡
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晴。左親衛北條時頼が宿願により私邸に於いて今夜から如意輪の秘法(祈祷)および大般若経の信読(経典の全てを省略せず読む)を催した。両方とも大納言法印隆弁の担当である。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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10月13日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼が右大将家(頼朝)の法華堂を訪れ、恒例の御仏事(13日は月違い命日)を聴聞した。
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   ※葉黄記: 関東から時頼の使者として安藤左衛門光成が上洛した。関東申次の任は九条家(九条道家)から
相国(西園寺實氏)に交替させ、徳政に努めさせるよう院に申し入れがあった。
また故泰時朝臣の発案により最近の8~9年は洛中の要所に守護の武士を置き篝火を焚いていたため人々は安眠できたのだが、これらは停止するらしい。理由は判らない。
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   ※関東申次: 鎌倉との窓口が一本化されたとする説もあり、また上皇や道家から直接鎌倉に申し入れがあった
との記録が残っている事から、必ずしも一本化とは言えないと考える説もある。いずれにしろ道家が失脚または失脚に近い状態になったのは間違いない。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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10月16日
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吾妻鏡
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御所の馬場殿で笠懸が催され、将軍家(五代将軍藤原頼嗣・満6歳)を特に楽しませた。射手は12騎、その中で左親衛左親衛 北條時頼は工藤六郎と横溝五郎資重の好成績を予想した。
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射手は北條六郎時定  城九郎安達泰盛  遠江六郎北條時連  上野十郎結城朝村  武田五郎三郎政綱
薩摩七郎祐能  工藤六郎祐光  横溝五郎資重  左衛門尉三浦五郎資村  若狭前司三浦泰村
相模八郎北條時隆  小笠原余一長経
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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10月24日
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史 料
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   ※葉黄記: 晴。大甞會に備えた御禊ぎあり。(後嵯峨上皇・wiki)は二條東洞院(地図)の桟敷(五間四面に
唐紙障子、(九条忠家・wiki)の設置)で見物された。
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   ※大甞會: 現代の新嘗祭で天皇が五穀を献じて収穫に感謝する宮中祭祀。現在は11月23日、鎌倉時代は
旧暦の11月13日~24日の卯の日に催され、この年は24日だった。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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10月29日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼が(10月9日から催していた)如意輪法の祈祷が結願の日を迎えた。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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11月3日
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が鎌倉に到着し、先月24日に(大甞會に備えた後深草天皇(満3歳)による)御禊行幸が無事に完了した旨を報告した。今回は先例にない閑院殿(里内裏)からの出御となった。
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   ※閑院殿: 天皇が皇居の火災などに伴って高位の公卿や外戚の屋敷
に内裏を置くようになった。
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平安時代の中期に天皇家との外戚関係などを利用して摂関政治の基礎を作った正二位・左大臣の藤原冬嗣(wiki)の屋敷を第52代嵯峨天皇が里内裏としたのが始まり。
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冬嗣の時代から正元元年(1259)5月に焼失するまでの約90年間・九代の天皇が里内裏とした冬嗣邸跡は現在の二条城東、西福寺の門前(地図)に石柱が建てられている。
              右画像をクリック→ 拡大表示。
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ただし宮中の公式行事に皇居ではなく里内裏から出御する例は今回が初めてで、以後は里内裏も皇居に含むと考える習慣になったらしい。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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11月9日
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吾妻鏡
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晴。今暁に螢惑(火星)が房的星(蠍座の星)の軌道を犯し、同じく太白(金星)が建閇星(同じく)の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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11月10日
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吾妻鏡
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将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が再び体調を崩し、近習らが周章てて祈祷などを手配した。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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11月14日
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吾妻鏡
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由比ヶ浜での犬追物観覧は延期となった。将軍家の病状が好転していないためである。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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11月27日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)に大地震あり。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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12月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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(大甞祭に伴って)先月23日の除目の内容が鎌倉に届き、将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が従四位下に叙された。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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12月6日
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吾妻鏡
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将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の病状は特に問題なく回復した。
西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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12月7日
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吾妻鏡
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先月27日の除目聞書が鎌倉に届いた。将軍家将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の少将は従来通り。
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   ※聞書: 除目の叙位任官に関する協議の内容を聞き書きした文書。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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12月12日
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吾妻鏡
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入道大納言家(前将軍藤原頼経)の書状が左親衛北條時頼に届いた。色々と申し入れが書かれており、了承の返事を出すべきか否かを周囲の者に質問し、詳細には触れずに返信を書くべきとの結論に達した。
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   ※頼経の書状: 内容は不明だが幕府への影響力を多少とも維持したい九条道家・頼経親子の気持ちと、本気で
相手にする意思がない時頼の思惑が見て取れる。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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12月17日
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吾妻鏡
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悪党を庇護・援助する輩を厳重に規制するよう普段から命令が下されており、今日改めて御教書が諸国の守護・地頭に下された。その内容は次の通り。
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   悪党および四一半(サイコロ賭博)を行う者を庇護した場合の所領没収について。
最近は諸国から夜討ち・強盗事件の情報が報告されているのは、偏に各地の地頭が悪党や賭博の常習者を匿ったり放置しているのが原因である。そのような地域がある場合は所領没収の措置を執るから、知行している地域内にその旨を周知させるように。以上、将軍家の仰せに従って通告する。
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                   寛元四年十二月十七日     左近将監    某殿
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   ※悪党: 幕府の統治システムや荘園体制に反発して徒党を組んだ在地領主・新興商人・有力農民らの集団で、
山賊や海賊などの犯罪とは異なる。反執権勢力と連携した動きに発展する事を危惧したのだろう。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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12月25日
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史 料
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   ※葉黄記: 前相国(頼経の実兄一条実経(wiki)が関東に派遣していた使者・友景が昨夜帰洛した。何らかの
極秘の協議があったらしい。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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12月27日
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吾妻鏡
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今暁、将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の御息災を願う祈祷が催された。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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12月28日
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吾妻鏡
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追われた者が幕府の台所に逃げ込み、追い掛けてきた者も続いて参入した。昼の当番として詰めていた松田弥三郎常基が双方を捕縛し、御所が大騒ぎになった。
相模守(北條重時)が左衛門尉平盛時と兵衛入道諏訪盛重を派遣し、各々に経緯を問い質した。
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追われていたのは紀伊七郎左衛門尉重経の従者で、重経の所領である丹後国の年貢を運送する役目に任じながら持ち逃げした人物である。追い掛けた方の者は各地を探し回った末に米町の辺りで見つけて追い掛け、夢中になって御所に入り込んでしまった、と申し述べた。
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主人の行為ではないが、この郎従の行為は主人の命令を受けてである。該当する丹後の所領を没収するとの沙汰が下された。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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12月29日
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吾妻鏡
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左馬権頭入道昇蓮と上野入道日阿(結城朝光)が下総国松岡庄(現在の常総市豊田・地図)の田久郷と安両郷の訴訟があった。去る文歴元年(1234)に未納となっている年貢は当給人(管理者・地頭)だった上野入道日阿に弁済する義務がある、と言うのが預所(上級の荘官)・入道昇蓮の主張である。
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これに対して日阿の主張は、この土地を(地頭として)拝領したのが文暦元年12月16日であり、年貢の徴収と納付には関与していないとの内容である。今日この件が決裁され、入道日阿の前任者・忠幹が弁済を命じられた。
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   ※忠幹: 下総国豊田郡は桓武平氏常陸大掾氏の勢力範囲で「幹」は大掾氏の支族多気氏の通字。
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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 月 日
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西暦1246年
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89代後深草天皇
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寛元四年
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 月 日
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記事
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