寛元五年・寳治元年(1247年)

.
前・寛元四年(1246年)の吾妻鏡へ       翌・寳治二年(1248年)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示するには 吾妻鏡を読む のトップ頁 で。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。
.
指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。

西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
1月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴、風が鎮まった。左親衛北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。前右馬権頭北條政村が御剣を、能登前司三浦光村が御弓箭を、大隅前司毛利季光が御行騰沓を献じた。
.

.
   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
.
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
.

.
   ※年令: 五代執権北條時頼は19歳・ 六代執権になる北條長時は17歳・七代執権になる北條政村は42歳・
三浦泰村は63歳・ 足利義氏は58歳・ 結城朝光は79歳・ 安達義景は36歳・ 安達泰盛は16歳・
京都追放となった前将軍藤原頼経は30歳・ 将軍藤原頼嗣は7歳・第89代後深草天皇は3歳・
先帝の後嵯峨上皇は25歳      (表示は全て満年齢)
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
1月3日
.
吾妻鏡
.
.
晴。五代将軍藤原頼嗣の御行始め(外出初め)として左親衛北條時頼邸に入御した。若君(頼嗣の弟)は毛利蔵人大夫入道西阿(毛利季光)邸家に渡御した。
.

.
   ※頼嗣の弟: 次弟の乙若(後の道増、生年不詳だが吾妻鏡が脱落している仁治三年か)で生母は三位中納言・
持明院(藤原)家行の娘・大宮殿(正室扱い)。その他に寛元元年(1244)に産まれた三男(源恵・生母不明)があり、本覚寺門跡→日光山別当→勝長寿院別当を経て正応五年(1292)に97世の天台座主に就任している。
.

.
   ※百練抄: 巻16 正月十二日、今夕降雪。噂では伊豆国で長さ12町・巾8町~10余町(1.2km×1km前後)
が失われ、その跡があたかも湖水の如くになった、と。  百練抄の解説はwikiで。
.
この地殻変動が熱海の伊豆山漁港沖で起きたと考える説があり、実際に伊豆山権現に関連する石造物が海底から発見されてダイビング・スポットになっている。伊豆山海底遺跡の詳細は参考サイト(外部)で。
.
石橋山合戦の際に平家側による拘束を避けるため、頼朝の妻政子が避難していた伊豆山阿岐戸郷の沖にあたる。
.
海底の石造遺物が地殻変動で水没した祭祀遺跡である可能性は高いと思うが、百練抄の記事がこれに該当するのかは判らない。右は旧・阿岐戸郷周辺の鳥瞰図。
.
画像をクリック→ 伊豆山阿岐戸郷の詳細(別窓)へ。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
1月13日
.
吾妻鏡
.
.
右大将家(頼朝)法華堂の前で数十軒の人家が焼失、陸奥掃部助北條実時邸も含まれていた。
.

.
   ※頼朝法華堂: 現在の白旗神社の場所。詳細は頼朝法華堂の跡で。大倉幕府時代には御所郭内または隣接地
だったと推定される。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
1月17日
.
史 料
.
.
   ※百錬抄: 今夜亥刻(22時前後)に関東の若宮神社(鶴岡八幡宮)の前庭に螻(羽蟻または小型の昆虫)が
数十万匹が充満した、翌朝には消え去ったとのこと。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
1月26日
.
吾妻鏡
.
.
夕刻以後に雷鳴が数回あり。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
1月29日
.
吾妻鏡
.
.
羽蟻が群れをなして飛び鎌倉中に充満した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
1月30日
.
吾妻鏡
.
.
越後入道勝圓(北條時盛)の佐助邸背後の山に光る物が飛び、対応して祈祷を催した。
.

.
   ※佐助邸: 前年6月27日に藤原頼経の上洛に際して記載あり。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
2月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮に御供(神饌に同じ、祭神に備える食事)を備えようとした際に扉が数時間開かなかった。
.

.
   ※扉が開かず: 事件が起きる前に記載される吾妻鏡の通例。寳治合戦は神意、と予告しているのだろう。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
2月6日
.
吾妻鏡
.
.
申刻(16時前後)に越後入道(北條時盛)が体調不良。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
2月20日
.
吾妻鏡
.
.
左親衛(北條時頼)邸に於いて、将軍家藤原頼嗣が浜に出御して犬追物を催す際の射手などについての沙汰があり、掃部助北條実時がこれを差配した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
2月23日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家藤原頼嗣が浜に出御する初日で、左親衛(北條時頼)が現地に出向き桟敷席などの指示を行なった。
.
  犬追物の射手
.
     上手は
        北條六郎時定   若狭前司三浦泰村   上野十郎結城朝村
        薩摩七郎祐能   遠江六郎佐原時連   小笠原余一長経
.
     中手は
        武蔵六郎   武田五郎三郎政綱   駿河五郎左衛門尉三浦資村
        千葉次郎   佐々木壱岐前司   城九郎
.
     下手は
        陸奥掃部助北條実時   相模八郎北條時隆   三浦式部大夫三浦家村(重複?)
        大隅太郎左衛門尉重村   小山大夫判官長村   駿河四郎式部大夫三浦家村(重複?)
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寛元五年
.
2月28日
.
史 料
.
.
   ※葉黄記: 雨。改元について協議あり。式部大輔菅原朝臣らが上申した寛正と宝治が候補となり、勅定によって
寳治に決した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
3月2日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
今暁寅刻(4時前後)、宮内少輔足利泰氏の室が死去した。左親衛北條時頼の御妹である。
今日、不動明王と慈慧大師像を摺写(版木から刷る)よう政所に指示があった。
.

.
   ※時頼の妹: 実際には姉。泰時の偏諱を受けた泰氏の正妻は北條朝時の娘だったが、後に四代執権北條時氏
の娘を正室に迎えて彼女が産んだ頼氏 が足利氏五代当主なり、朝時の娘は側室待遇となった。
この頃の足利氏は得宗家に従順で縁戚関係の強化に腐心し、鎌倉期では最も繁栄している。
.
   ※慈慧大師: 第18代天台座主で延暦寺中興の祖となった元三大師良源(wiki)を差す。鬼の姿に変身し疫病神
を追い払ったことから絵像が護符となり、厄除け大師として信仰を集めた。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
3月3日
.
吾妻鏡
.
.
御所で闘鶏の会が催される中で若狭前司三浦泰村らが喧嘩沙汰を起こした。
.

.
   ※葉黄記: 以良が関東に下向した。東山殿(九条道家)の使者である。
.
   ※以良: 九条家の家司を勤めた橘以政の孫。九条道家は何とか時頼と関係修復ができないか試みたのだろう。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
3月11日
.
吾妻鏡
.
.
由比浜の海水が血のように赤くなり、諸人が群集してこれを眺めた。
.

.
   ※天変地異: 只の赤潮なのだろうが、吾妻鏡にとっては戦乱の前触れである。宝治合戦まで、残り三ヶ月。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
3月12日
.
吾妻鏡
.
.
戌刻(20時前後)に大流星が艮方(北東)から坤(南西)に音を立てて走った。長さは五丈(約15m)、圓座のような大きさは比べ様のない現象である。
.

.
   ※葉黄記: 今夜戌刻、落雷のような音を発して大流星があった。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
3月16日
.
吾妻鏡
.
.
戌四点(20時半過ぎ)に鎌倉中で騒動が起きたが特に何事もなく、暁になって静謐に戻った。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
3月17日
.
吾妻鏡
.
.
黄蝶が群れをなして飛んだ。巾は一丈(約3mで三段ほどの列となって鎌倉中に充満した。これは兵乱の兆しであり、承平の頃に常陸と下野で平将門の戦乱が起きた際や、天喜の頃に陸奥と出羽で安倍貞任が戦乱(前九年の役)を起こした際にも同様の現象があった。古老は東国で兵乱が起きる前兆だろうと疑っている。
.

.
   ※前九年の役: 奥州の悲劇① 安倍一族の滅亡を参照されたし。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
3月20日
.
吾妻鏡
.
.
故武州禅室(北條経時)一周忌の仏事があり墳墓で供養が行われた。導師は宰相法印信助、左親衛北條時頼・松下禅尼(経時の母で北條時氏の正室)らが聴聞、僧俗を問わず多数が参席した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
3月27日
.
吾妻鏡
.
.
今暁、越後入道北條時盛の息女が上洛の途に就いた。六波羅の相模大夫将監北條長時に嫁すためである。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
3月28日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家藤原頼嗣の御祈祷として不動明王と慈慧大師の像(3月2日を参照)一万枚を摺写し終わり、今日供養を行なった。導師は松殿法眼、奉行は信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛)。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
4月3日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮での恒例の神事が延期となった。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
4月4日
.
吾妻鏡
.
.
今日、秋田城介入道覺地(俗名は安達景盛籐九郎盛長の息子)が高野山から下着し甘縄の本家に入った。
.

.
   ※景盛の出家: 建保七年(1219)1月の二代将軍実朝暗殺に伴い出家剃髪、高野山に入ったが幕政への関与
を続け、承久の乱(1221年)の際にも鎌倉に戻って京都への出兵を主張していた。
.
三代執権泰時との関係が深く、泰時の嫡子時氏に嫁がせた娘(松下禅尼)が産んだ外孫の経時が四代執権、その弟時頼が五代執権に就任している。
.
   ※高野山入り: 戦国武将や著名人が高野山奥の院に墓所を求める理由の、簡単な解説を。
.
釈迦没後56億7千万年後に弥勒菩薩が救世主として現世に再来し、私が先導を務める」と空海(諡(おくりな)を弘法大師)が遺言した事に由来する。
.
敬虔な仏教徒(特に真言宗徒)は空海の眠る奥の院の墓所で眠り、弥勒菩薩と空海の再来に立会いたい夢を持っているんだね。
.
まぁ現実問題として惑星に過ぎない地球が56億年後まで残っているか疑わしいし、生物の絶滅が起こるかも知れないから価値観の問題だけど。
.
右は弘法大師が今も生きて眠っている奥の院遠景。
今でも一日二回の食事が運ばれている。撮影が許されているのはこの橋まで。

.
ついでに...信仰心は関係なし、名誉欲や金の力で高野山に墓地を求める輩も多い、らしい。
また信仰さえあれば財力のない人でも身代わりの石を奥の院参道に置くのは可能、だと聞いた。
.
景盛の墓所は既に判然としないが、昔からの表参道だった九度山慈尊院から大門までの一町毎に180基の石塔婆が立てられ、更に壇上伽藍から奥之院まで36基が立っている。
.
当初は木製だった卒塔婆を北條政子安達景盛義景泰盛の援助を得て石塔婆に建て替えたもの、と高野山は伝えている(真偽不明)。高野山の絵図表参道案内(共に別窓)も参考に。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
4月11日
.
吾妻鏡
.
.
最近は高野入道覺地連が再三に亘り左親衛北條時頼邸を訪れており、今日は特に長時間滞在した。密かに打ち合わせる事があるらしい。 また子息の秋田城介安達義景を激しく叱責し、孫の九郎泰盛には説教を行っている。
.
内容は最近の三浦一族が武威を以て傍若無人の態度を繰り返している事への憤懣であり、安達一族は三浦の風下に甘んじる事への怒りである。この有様は偏に義景や泰盛が武力による備えを怠っているためだ、と。
.

.
   ※義景を叱責: これまでの吾妻鏡には特に「三浦泰村が傍若無人な行為を繰り返した」との記載は見られない。
もし泰村の横暴を義景が認識していたなら父親の景盛に報告していた筈だし、合戦に備えよとの指示が発せられていた、と考える方が理に叶っている。
.
義景も泰盛(満16歳)も、泰村を討伐するほど深刻な問題とは受け取っていなかったから報告しなかった、と私は考える。もちろん頼経更迭に伴う三浦光村ら強硬派との摩擦はあるが、これは時頼の勝利で既に決着している。「三浦の横暴」は40年前に「頼家は鎌倉殿には不適格」として失脚させたのと同じく、執権時頼グループが対立軸排除の理由にしたのだろう。
.
高野山の景盛に「三浦の横暴」を告げたのは執権時頼側、景盛は上手に操られた...と書くよりも、従順とは言い難い有力御家人を排除したい北條得宗と、幕政での既得権を失いたくない安達一族が結託したウィン・ウィンの計画、と考える方が正しい。
.
蘇我入鹿を殺し父の蝦夷を自殺に追い込んで覇権を簒奪した皇極天皇四年(645年)6月の乙巳の変(wiki)の中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足と同じ、権力さえ握れば歴史は簡単に書き換えられる。安倍晋三や日本会議が「日本は侵略などしなかった」と言ってるのも、同じ
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
4月14日
.
吾妻鏡
.
.
御台所(五代将軍藤原頼嗣の正室、北條時頼の妹桧皮姫)の病気に対応して大納言法印隆弁が参内し炎魔天供の祈祷と大般若経の転読を行なった。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
4月20日
.
吾妻鏡
.
.
御台所の病気は邪気(風邪または軽い悪寒)らしい。左親衛北條時頼は特に心を痛めている。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
4月25日
.
吾妻鏡
.
.
巳一点(朝9時過ぎ)に太陽に嵩(かさ)が掛かった。
.
今日、後鳥羽上皇の御霊を鶴岡八幡宮の乾(北西)の山麓に勧請した。
これは上皇の怨霊を慰撫するための社壇建立であり、別当職として重尊僧都が任命された。
.

.
   ※社壇建立: 後鳥羽院を祀ったのなら、現在の今宮神社(旧新宮神社・
地図)が該当する。実際には八幡宮本殿の北に当たるのだが鎌倉街道の開削により東側に移転したらしい。
祭神は承久の乱で流罪となった土御門上皇・後鳥羽法皇・順徳天皇の三柱。
.
右画像は今宮神社(画像をクリック→拡大表示)、小さな祠で参拝する観光客も殆ど見られない。鶴岡文庫と併せての見学がお薦めだ。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
4月26日
.
吾妻鏡
.
.
御台所(北條時頼の妹桧皮姫)邸で千度の御祓いを行なうため陰陽師10人が集まった。この際に晴茂・晴長等が「御軽服(軽い喪)の90日間は、除服を済ませても御祓いは憚られます。」と言上し、晴賢朝臣らは「喪明けを済ませれば、日数の多少に拘わらず憚る必要はなく、90日の中であっても同様です。」と主張した。
.
晴茂が前言を翻してこれに賛成したため晴長は怒ったが他の九人は同じ意見を述べ、先ず御除服を済ませてから御祓いを行なった。その九人とは晴賢・晴茂・宣賢・為親・晴長・廣資・晴憲・泰房・晴成(晴茂の子息)である。越後右馬助時親と相模式部大夫時弘が供応役に任じた。
.

.
   ※除服: 喪明けの儀式。3月2日に実姉(足利泰氏の室)が死没している)
.
   ※北條時親: 北條時房の長男(庶長子説あり)で佐介流の祖となった北條時盛の次男。和歌に優れ、父と共に
在京した期間が長かった関係で朝廷との接点も多かったらしい。
.
   ※北條時弘: 時広に同じ。北條時房の次男時盛の嫡子。父が22歳前後で早世したため祖父時房の養子となり、
引付衆・評定衆・四番引付頭人などの要職を務めた。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
4月28日
.
吾妻鏡
.
.
御台所の病状が長引いているため長能僧都が御験者(祈祷の担当)として出仕した。
今日、秋田城介安達義景が造立した愛染明王像の開眼供養を行なった。導師は法印隆弁、特別の祈願があるため密教の秘法を催した。
.

.
   ※愛染明王: 煩悩や愛欲を焼き尽くし全ての怨敵を滅ぼして衆生を救済する神。戦争の神でもある。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月3日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮の神事あり。(3月3日に予定していた上巳節句を)二ヶ月延期して実施した分である。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月5日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮の神事は通例の通り。今日、秋田城介安達義景が催した祈請が結願し阿闍梨の退出に伴って布施の品を届けた。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月6日
.
吾妻鏡
.
.
若狭前司三浦泰村の次男駒石丸を左親衛北條時頼の養子とする約束を交わした。
.

.
   ※駒石丸: 後の景泰で沼田氏の祖になったとの話もあるが信頼に値しない。吾妻鏡6月22日の自殺・討死名簿
には「若狭前司泰村・同子息次郎景村・同駒石丸 ...」と記載されている。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月13日
.
吾妻鏡
.
.
未刻(14時前後)に御台所(桧皮姫・18歳)が死去。先般からの病気に対応して治療や祈祷を行ったが効果がなかった。故修理亮北條時氏の息女で左親衛北條時頼の妹にあたる。
時頼は御軽服(軽い服喪)により若狭前司三浦義村邸に渡御した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月14日
.
吾妻鏡
.
.
戌刻(20時前後)に御台所を左々目谷の故武州禅室(北條経時)の墳墓の傍らに葬った。人々は素服(白の喪服)を着して供養した。
.
   備前前司北條朝直    越後右馬助北條時親(4月26日参照)    遠江左近大夫将監(北條重時の子?)
   甲斐前司春日部実景    美濃左近大夫将監時秀    能登右近大夫仲時
   左衛門尉関政泰     常陸修理亮重継    城次郎頼景
   左衛門尉大隅太郎重村    肥前太郎左衛門尉佐原胤家    左衛門尉後藤三郎基村
   駿河九郎三浦重時    千葉八郎胤時    安積新左衛門尉
   宇佐美七郎左衛門尉    左衛門尉宮内公景    弥次郎左衛門尉親盛
   左衛門尉伊賀次郎光房    左衛門尉太宰三郎為成    小野澤次郎時仲
   加地六郎左衛門尉佐々木氏綱    信濃四郎左衛門尉二階堂行忠    出羽次郎兵衛尉二階堂行有
   摂津左衛門尉狩野為光    左衛門尉小野寺四郎通時    内藤四郎左衛門尉
   左衛門尉押垂時基    左衛門尉紀伊次郎為経    左衛門尉海老名忠行
.

.
   ※春日部実景: 武蔵国浜川戸(現在の春日部市・地図)を本領とし、父・実平と共に御家人として幕府に仕えた。
宝治合戦で宇都宮氏・毛利氏らと泰村に与して敗れ、息子三人と共に頼朝法華堂で自刃した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月18日
.
吾妻鏡
.
.
晴。今夕、光る物が西より東の空に飛び、その光は暫く消えなかった。その頃に秋田城介安達義景の甘縄邸に一筋の白旗が現れるのを見たという人がいる、と。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月21日
.
吾妻鏡
.
.
「若狭前司三浦泰村は幕府に従わず我儘勝手が過ぎるため近日中に討伐する沙汰が下された。深く反省して謹慎すべきである。」と書いた簡面(竹の札)が鶴岡八幡宮の鳥居の前に立て掛けてあるのを多くの人々が確認した。
.

.
   ※討伐の沙汰: この挑発の首謀者が北條時頼安達義景かは判らないが、この時点で北條執権側の戦闘態勢
が整っただろうことは容易に推定できる。
.
つまり宝治合戦は北條執権側の緻密な計画に基づいた殺戮で、和田合戦 より畠山重忠を殺戮した二俣川合戦の姿に近い。ただし、和田合戦に際しては挙兵前に和田義盛から相模国の横山党などに檄文が発せられていたため後半で援兵が駆け付け、予定外に勝敗の帰趨が遅れた。
.
北條執権側ではこの教訓を生かしたのだろう、今回は鎌倉に入る道が既に封鎖され、外部からの援軍は望むべくもない。学習能力は北条執権の方が格段に優れている。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月26日
.
吾妻鏡
.
.
若狭前司三浦泰村に味方する約束を交わしていた土方右衛門次郎義政が逐電(行方をくらます)した。彼がある神社に奉納した一通の願書の内容を左親衛北條時頼が思いがけず知り、そこには「三浦一族の叛逆に加わる意思はなく、神仏の加護により安全でありますように」と書かれていた。
.

.
   ※土方義政: 会津郡菱方郷(郡山市の猪苗代湖南岸一帯・地図)を本拠とした武士。見え透いた言い訳っぽい
状況説明は時頼側への疑念を深くさせるのに、ね。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月27日
.
吾妻鏡
.
.
左親衛北條時頼は御軽服(5月13日の妹桧皮姫死没に伴う軽い喪)のため若狭前司三浦泰村邸に寄宿している。
三浦一族が集まっている様子は窺えるが時頼に挨拶するため現れる気配はなく、饗応の準備をしているようにも見えるが他の準備に没頭しているのかも知れない、と思われた。
.
夜になってから甲冑や腹巻(胴を守る部分)を準備する音も聞こえていた。今回は三浦一族の叛逆を警告する意見を気に掛けずにいた時頼も流石に危険を感じて泰村邸から退去し、太刀持ちの五郎四郎だけを従えて自分の屋敷に帰った。これを聞いた泰村は狼狽して、陳謝の意志を伝える使者を派遣した。
.

.
   ※武装の準備: 敵対する相手が宿泊しているのを知りながら甲冑などの音を立てる武士がいる筈はないのに。
吾妻鏡の編纂者は恣意的に過ぎる記述を繰り返しているのに気付かないほど愚かなのだ。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月28日
.
吾妻鏡
.
.
世の中が落ち着かない。三浦一族が謀反の心を抱いているのを知った人々がこれを恐れているためである。
.
三浦の一党は官位官職も所領も満ち足りている筈なのに、入道大納言家(前将軍藤原頼経)が更迭され京都に追放されたことを不満に思い日毎に懐かしんでいる。特に能登前司三浦光村は幼少の頃から側近として仕え、日夜の起居や遊興も共にしてきただけに事毎に懐旧の思いを禁じ得ず、密約まで交わしている状態である。
.
そもそも幕府の鬼門に当たるとして五大明王院を建立し、智徳に優れた高僧や陰陽師などを重用し、側近として長く侍っていた武士を引き立てるなどは乱世を招く基となる。光村の考えは既に発覚しており、左親衛北條時頼は今夜のうちに三浦泰村および親類や郎従の家に使者を派遣して様子を窺い、家中に兵具を整えているのを確認した。
.
加えて安房や上総にある所領から船で甲冑などを運び込んでいるのは隠れた企てに違いないと判断した。
.

.
   ※謀反の心: 御家人筆頭の力量を蓄えた三浦一族が藤原頼経を擁して幕府の実権を握ろうとした、執権時頼が
安達一族と協力して先手を打ち三浦氏追討に決起した...それが宝治合戦と考えられている。
.
しかし、北條氏が支配している鎌倉市内で幕府体制を転覆させるだけの軍事力を三浦氏が動員できる筈はない。三浦側が軍備を整えていた事を匂わせる吾妻鏡の記載にしても合理性に欠ける。
.
そもそも「泰村討伐」の掲示まで出されたら防衛の準備をするのが常識。時頼と安達が協力した「騙し討ち・不意打ち・殺戮」に近い事件と考えるべきだと思う。
.
三浦側の「主だった死者」は120人以上(つまり郎従・小者を含めて数百人)。和田合戦の際には北條側の「主だった死者」として51名の姓名が載っているが、宝治合戦では人数の記載すらない。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
5月29日
.
吾妻鏡
.
.
三浦五郎左衛門尉(三浦(佐原)盛時)が左親衛北條時頼邸を訪れて次のように報告した。
.
去る11日に陸奥国津軽の海辺に死人のような姿の大魚が流れ着きました。
先日(3月11日の記載)由比ヶ浜の海水が赤くなったのは、この魚が死んだ事と関わりがあるのかも知れません。同じ頃に奥州の海辺でも海水が紅の如くになりました。
.
この件を古老に尋ねたところ、悪い先例があると語った。
.
文治五年(1189)の夏に同じような事例があり、同年秋に藤原泰衡を殺した。
建仁三年(1203)の夏にも再び流れ着き、同年の秋には左金吾(将軍頼家)の事件が起きた。
建保元年(1213)の4月に出現した翌月には和田義盛の兵乱があった。大事件の予兆である。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
左親衛北條時頼が近江四郎左衛門尉佐々木氏信を使者として、若狭前司三浦泰村に伝言を託したが、その内容は不明である。氏信は泰村邸に入り、まず案内を求めて侍所の上座に着した。
.
泰村を待つ間に傍らを見ると弓が数十張と征矢(実戦用の矢)および鎧の唐櫃が数十本が置いてあった。氏信は郎従の友野太郎(ここへ案内してきた供者)に命じて邸内の様子を窺わせたところ、屋敷の各所に積み置いた鎧の唐櫃が120~130本あるのを確認して氏信に報告した。
.
泰村は氏信を居間に招き入れて伝言を聞き、その後に雑談を交わして次のように語った。
.
世の中が騒がしいのは自分の責任だろう。私の兄弟は既に幕府の宿老を越えて五位の官位を得たし、その他の一族も五位に準じている。守護職は数ヶ国で荘園は数万町を掌握しているが栄華も窮まりつつあり、神仏の加護も測り難い上に讒訴まで受ける状態になっている。
.
氏信は時頼邸に戻って返答の仔細を報告し、泰村邸の様子も詳しく報告した。時頼邸は更に警戒を厳重にした。
.

.
   ※吾妻鏡の曲筆: 常識的に考えて、敵対する立場の時頼が派遣した使者に見られるような場所に武具を置く筈
はないし、合戦の準備を整えている事と泰村が発した言葉は、明らかに整合性が乏しい。
どちらかが吾妻鏡の見え透いた曲筆と考えるべきだろう。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月2日
.
吾妻鏡
.
.
近国の御家人が鎌倉に駆け付けて左親衛北條時頼邸の周囲を固め、多くの武者が各々旗を掲げた
.
相模国の住人は南側に布陣、武蔵国と駿河国と伊豆国の住人は東西北の三方に軍陣を構えた。既に四方の門は閉鎖して誰も入れず、辻々は荷車を集めて封鎖し遠江守佐原(三浦)盛連の子息全員が時頼邸に詰めている。
.
彼らは同族でありながら泰村に与せず、また佐原 (蘆名)光盛とその弟(時連と三浦(佐原)盛時)は故匠作北條時氏の旧交を大切にして二心を持たず、兄の二人(広盛と盛義)も同様である。
.
佐原太郎経連・比田次郎廣盛・次郎左衛門尉光盛・藤倉三郎盛義・六郎兵衛尉時連らは時頼邸の門を封鎖する前に参入したが、五郎左衛門尉盛時は遅れてしまい光盛らを慌てさせた。時連は「門が閉じられても五郎盛時は必ず駆け付ける。」と言った言葉が終わらないうちに盛時は塀に手を掛け飛び越えて庭に立ち、兄弟を喜ばせた。
.
人々はこれに感心し、時頼は兵衛入道蓮佛(諏訪盛重)を介して嬉しさを伝え、御前に招いて甲冑を与えた。
.

.
   ※北條勢、集結: 吾妻鏡は時頼側の臨戦態勢を語り、周到さでは三浦を上回っていると自慢している。
この時代の合戦は準備した矢の数で勝敗の帰趨が決まり、周囲を封鎖され補給を絶たれた側が圧倒的に不利になる。ましてや人数に劣る三浦勢の勝ち目は乏しいのは明らかだ。
.
建仁三年(1203)9月に時政頼家を追放した比企の乱と、元久二年(1205)6月に義時の軍勢が畠山重忠を殺した二俣川合戦を思わせる。唯一のきわどい勝負が和田合戦だった。
.
そもそも北條時政が主君頼家の妻子一族比企氏を騙し討ちに近い形で皆殺しにしたのが「比企の乱」で、武装もしていない僅か134人の重忠主従を、完全武装の5000騎で皆殺しにしたのが「合戦」なんだから、吾妻鏡の編纂者も冗談がきついよね。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月3日
.
吾妻鏡
.
.
晴、風が静まった。左親衛北條時頼無事安穏を願う祈祷を始めた。大納言法印隆弁が五穀を断って御所に於いて如意輪の秘法だけに集中して行った。そして今日、若狭前司三浦泰村邸の南庭に桧板の落書きが見つかった。
.
     世の中が騒がしく落ち着かないのは貴方が討たれるべき立場にいるためである。熟慮して心得るように。
.
泰村は 「私の滅亡を願っている者の所業だ」 と言って直ぐに破却させ、左親衛時頼に申し入れた。
.
世間が騒がしく勝手な噂が流され、何が起きても不思議ではない雰囲気になっています。私は何の野心も持っていないにも拘わらず騒ぎを聞いた諸国の郎従が集まり更なる疑念を招く結果になっています。
疑念があるのなら国元に帰らせる指示を下しますが、鎌倉の大事を支えるには衆の力も欠かせません。
いずれにしろ、全ては貴方の命令に従うつもりでいます。
.
時頼からは「特に疑念はもっていない」との返事が届いた。先月27日の夜中に時頼が突然泰村邸から自宅に帰る事件があってから泰村の心配は募っており、既に寝食にも差し障る状態になっている。
.

.
   ※郎従の集結: この日と翌日の記事では「泰村が近国の所領から戦力を集めている」と強調している。
不思議なことに、話題になるほどの動員を泰村が行なった割には6月22日の戦死・自殺者名簿には三浦一族の他には宇都宮氏・春日部氏・佐野氏の一部と毛利季光上総秀胤が単独に近い形で加わっているのみで、組織的な動員令があった様子は見られない。
.
安達一族の奇襲によって三浦が決起した既成事実を作り、その後は既に集まっている圧倒的な戦力(6月2日の記載のある相模・武蔵・伊豆・駿河の御家人)をつぎ込み波状攻撃で討伐するのが時頼の計算だったと思う。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月4日
.
吾妻鏡
.
.
曇。若狭前司三浦泰村および一族の郎従と眷属が近国の所領から集まっている。泰村の西御門邸には甲冑を着けた士卒が列をなし、一方で他の御家人や左親衛北條時頼の祇候人(北條被官)も集まっている。日を追って人数が増えて鎌倉中に満ち溢れ、敵味方の区別もできないという、既に重篤な状態である。
.
幕府からは保々の奉行人(町内の監督者)を介して解散せよとの支持が下され、更に兵衛入道諏訪盛重と万年馬入道ら(共に得宗被官)が使者として直接制止を命令した。ところが関左衛門尉政泰が命令に従い所領の常陸国に帰る途中で泰村が追討されるとの噂を聞き、助力するために鎌倉に戻ってきた。
.
また子刻(深夜0時前後)に入道西阿(毛利季光)の妻(白小袖に濃色の上衣を着して従女一人を同伴)が突然兄泰村の西御門邸を訪れ、「今回の騒動は兄上の追討が目的と聞きましたが、何としても勝たねばなりません。(夫の)毛利入道は間違いなく味方するでしょう。もし躊躇うような事があれば私が諌めて必ず合流させます。」と語った。
.

.
   ※関政泰: 承久の乱では宮方に味方し降伏して御家人に加わった武士で泰村の妹を妻にし、三浦側の戦死者
名簿に載っている。毛利季光は武装して時頼勢に加わろうとするが妻から「武士の所業ではない」と説得されて三浦方に加わり、子息4人と共に死没することになる。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月5日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴、辰の刻(朝8時前後)に小雨。早暁から鎌倉の情勢が著しく緊張し、左親衛北條時頼は先ず万年馬入道を 三浦泰村の許に派遣し、郎従らの騒動を鎮めよと命じた。次に左衛門入道盛阿(平盛綱)に命じて書状を届けさせた。
.
「この騒動は天魔が心の中に入ったためだろうか。幕府には貴殿を討伐する考えはなく、従来の如くに異心を抱いている訳でもない」との内容で、さらに誓詞まで書き加えたらしい。泰村が書状を開く際には入道盛阿は和平についての詳細を語った。泰村は非常に喜び、直ちに返答を申し述べた。
.
入道盛阿が退出した後に妻室が自ら湯漬けを運び、安堵の言葉を述べたが、泰村は湯漬けを一口食べて直ぐに嘔吐してしまった。その後に妻室が下若(酒)を勧め、泰村は安堵の思いを述べた。
.
一方で甘縄の安達邸では高野入道覺地(安達景盛)が時頼から泰村に使者が派遣されたと聞き、子息の秋田城介 義景と孫の城九郎泰盛(既に甲冑を着す)を呼んで言葉を励ました。
.
和平の御書を若州(泰村)に送ったのなら向後は彼の一族が驕りを窮め、益々当家を蔑むようになる。そうなってから対決しても当家に禍を齎す結果になるだろう。今は運を天に任せて今朝のうちに雌雄を決してしまおう、後日を期する必要はない。と。
.
この言葉に従って城九郎泰盛・大曽祢左衛門尉長泰・武藤左衛門尉景朝・橘薩摩十郎公義などの一族が軍兵を率いて甘縄邸を出発し、門前の小路を東へ進み若宮大路の中の下馬橋を北に折れ、鶴岡八幡宮の赤橋を渡り入道盛阿が(御所に)戻るより前に神護寺の門外に出て鴇の声を挙げた。
.
そして公義が五石畳紋の旗を掲げ、筋替橋の北に進んで(三浦邸に向けて)鏑矢を飛ばした。
.

.
   ※橘公義: 文治五年(1189)1月6日に勃発した大河兼任の乱に関連
して1月19日に記載のある橘公成(公業)の息子か孫だと思うが、系図では確認できない。公成の所領だった肥前か大隅(鹿児島)の一部を継承したのだろう。五石畳紋はこちら
.
右画像は甘縄の安達邸から三浦邸までのルート。「門前の小路」は判然としないが、由比ヶ浜通りか、北側を併行していた道と考えて良い、だろう。常識的には六地蔵で今小路を北へ、巽神社手前を右折して中の下馬橋に抜けた。神護寺は源氏池の北側、流鏑馬道沿いか。
.

.
この間に八幡宮に布陣していた軍兵の全てが安達勢に合流し、驚いた泰村は家の子・郎従らに命じて防戦させた。橘薩摩余一公貞(甲冑を着けず狩装束)は一番乗りを狙って密かに牛車置き場に隠れ泰村邸近くの空家に潜んでおり、鴇の声に応じて進み出て小河次郎に射殺された。中村馬五郎も同じく、泰村の郎等によって傷を負った。
.
これに先立って盛阿は馬を飛ばして御所に戻り事の現状を報告したが、三浦一族が戦闘を始めた以上は宥めようがない。まず陸奥掃部助北條実時に幕府を警護させ、北條六郎時定を大手の大将軍に任命した。
.
時定は(三浦が構築した防御線の)牛車などを撤去し旗を掲げて塔の辻から三浦勢と衝突した。 従う軍勢は雲霞の如く、兵衛入道蓮佛(諏訪盛重)は抜群の勲功を挙げた。信濃四郎左衛門尉(二階堂行忠)も特に奮戦して手柄を挙げた。泰村の郎従・精兵らは各所に拠点を設けて矢を放ち、攻撃側の御家人もまた身命を賭して戦った。
.

.
   ※塔の辻: 二つ以上の道が合流する場所に建てた七ヶ所の石塔。
地図の範囲にある塔の辻には を付けた。
.
地図に載せたのは北側から、窟屋小路入口の鉄の井・小町大路と六浦道の合流点、六地蔵、由比ヶ浜古道の四ヶ所。
.
吾妻鏡の文暦二年(1235)6月29日の条には「五大尊堂(現在の明王院・公式サイト)落慶供養に赴く将軍藤原頼経が「南門から御所を出立し小町大路を北へ、塔之辻を東に向かった。」との記載がある。この辺が衝突地点か。
.
その他に建長寺・円覚寺・浄智寺の前付近の三ヶ所にあったらしいが、現存しているのは由比ヶ浜通りから浜へ下る小道の分岐点にある残欠(右画像)のみ、由比の長者染屋時忠に関する悲しい伝承が残っている。
.
詳しくは極楽寺坂から小町口へ移動の中段を参照されたし。
.

.
巳刻(10時前後)に蔵人大夫入道西阿(毛利季光)は甲冑を着け部下を率いて御所に向かおうとしたが、妻(泰村の妹)が鎧の袖にすがり、「以前からの約束なのに泰村を見捨てて時頼勢に加わるのは武士の所業でしょうか。後の世に恥を残しますよ。」と説得した。これを聞いた季光は心を翻して泰村の陣に加わることとなった。
.
ちょうどその時に隣に住んでいる甲斐前司長井泰秀は御所に向かう途中で毛利季光に出会ったが、 敢えて制止しなかった。これは縁戚であることや泰村に与している事ではなく、意志を尊重して一ヶ所で戦わせてやるのが武士の配慮と考えたからである。
.

.
   ※毛利季光: 結果として4人の子と共に頼朝法華堂で自刃し本領の毛利荘(現在の厚木市西部)も没収。
所領の越後にいた四男経光だけが無関係として処分を免れ、越後と安芸の領有を許された。
経光の四男時親が安芸国吉田荘を継承し、彼の子孫が中国地方屈指の戦国大名毛利元就に繋がっている。言うなればサンフレッチェの元祖、だね。
.

.
万年馬入道は左親衛時頼邸の南庭に騎馬のまま駆け込んで「毛利入道季光殿が敵陣に加わった、これは一大事です。」と報告、これを聞いた時頼は午刻(正午前後)に御所に入り、将軍家(五代将軍藤原頼嗣)御前で改めて作戦を練り直した。ちょうど北風が南風に変わったため、北條勢は泰村邸南側の民家に火を放った。
.
風に煽られた煙が泰村邸を覆った。三浦勢は煙に咽んで屋敷から逃げ、故右大将軍(頼朝)の法華堂に立て籠った。従兵80余騎を率いて永福寺惣門内に布陣していた弟の能登守三浦光村は 兄の泰村に使者を送った。
.
「永福寺なら戦いやすい、ここに合流して共に討手を迎えよう」と勧め、泰村は「たとえ鉄壁の城郭であっても生き延びられないだろう。それよりも故・将軍頼朝の絵像の前で最期を迎えよう、早く合流せよ」と伝えさせた。
.
緊急事態なので使者の往来は一度のみ。光村は惣門を出て法華堂に向かい、途中で遮ろうとした甲斐前司長井泰秀の家人および出羽前司二階堂行義と和泉前司二階堂行方の家人らと合戦になり、双方に負傷者が出た。
.
光村は何とか法華堂に到着した。その後に毛利季光・三浦泰村・光村・家村・大隅前司重隆・美作前司時綱・甲斐前司實章・関左衛門尉政泰らが頼朝絵像の前に列座した。ある者は昔の思い出を語り合い、またある者は最後の述懐に及んだ。毛利季光はただ念仏を唱え皆に唱和を促して極楽浄土を願い、光村がそれに和した。
.
                右画像は泰村邸~法華堂の鳥瞰図(クリック→拡大)
.

.
   ※泰村邸: 吾妻鏡の建保七年(1219)1月が三浦邸の最初の記録。実朝の首を抱えた 公暁が備中阿闍梨の
房を出て八幡宮北側の峯を越え、三浦邸に入ろうとした所で討手の長尾定景に殺されている。
.
この記録と今回の合戦記録が三浦邸を推定する根拠で、この時の当主は先代の三浦義村だが、更に30年近く前の養和二年(1182)2月14日には囚人として先々代の三浦義澄が預かっていた伊東祐親が三浦邸で自殺し、郎党が大倉御所まで走って知らせている。この時も同じ屋敷だろう。
.
また南の風に煽られて頼朝法華堂に「逃げられた」のは北條勢の横矢を受ける危険が少ない方角、つまり三浦勢は少なくとも南東ではなく東または北東に逃げたと考えるべきか。その論拠により、地図上では三浦邸敷地の枠を少し南寄りに設定している。
.

.
時頼の軍勢が法華堂の門内に攻め込み先を争って石橋を登り、三浦勢は(主人が自刃する時間を稼ぐため)必死の防戦を続けた。
.
ここで武蔵蔵人太郎朝房(朝直の長男)が大きな戦功を挙げた。彼は父から義絶されていた立場なので従える従卒もなく、甲冑も着けずに疲馬に跨って戦ったため討たれそうになったのだが、泰村方の金持次郎左衛門尉が見逃してくれて命を全うできた。
.
合戦は三刻(2時間弱)も続き、矢が尽きた三浦勢の泰村以下主な者276人を含めて500人以上が自殺した。
.
幕府の出仕記録簿に載っている者はその中の260人である。
.

.
   ※三浦の自殺: 死骸を埋葬したのが法華堂に近い三浦やぐらであるとされているが、この時点ではすぐ前に
北條義時の法華堂が建っており、ここで多くの死体を処理したとは考えにくい。もっと北の山中か由比ヶ浜に運んだと考える方が自然だろう。
.

.
続いて壱岐前司佐々木泰綱と近江四郎左衛門尉 佐々木氏信が命令に従って平内左衛門尉景茂を追討するため長尾の館に向かい鴇の声を挙げたが、景茂父子は既に法華堂で自殺していて防戦する者もなく、討手は子息の四郎景忠のみを拘束して鎌倉に帰還した。途中で甲冑の騎馬武者10数騎が前途を遮ったが泰綱が名乗りを求めても返答せず、合戦はせずに行き過ぎた。
.

.
   ※長尾景茂: 上記・長尾定景の嫡男。定景は治承四年(1180)8月の頼朝挙兵の際に平家軍を指揮していた
大庭景親俣野景久の従兄弟で、石橋山合戦では頼朝軍と戦って俣野に協力して佐奈田義忠を討ち取っている。今回の宝治合戦で景茂と弟3人と息子3人が討死または自刃し、生き残ったのは四男の景忠のみ。その後の消息は不明。
.

.
申刻(16時前後)に死骸の実検が終わってから時頼は飛脚を京都に派遣し、書状二通を六波羅の相模守北條重時に送った。一通は朝廷への奏聞(報告)、一通は近国の守護と地頭への通告で、詳細の経緯を記した一通を各々に添付してある。内容は次の通り。
.
若狭前司泰村・能登前司光村以下舎弟の一族は今日巳刻(10時前後)矢を射はじめて合戦となり、一族および加わった与党を討伐した。この旨を冷泉太政大臣殿(久我通光)に申し入れされたし。
        六月五日        左近将監(時頼)   謹上 相模守重時(重時)殿
.
別紙追伸
毛利入道西阿(毛利季光)が思いがけず三浦に与したため追討した。若狭前司泰村・能登前司光村および一族与党には以前から謀反の用意があり、今日(5日巳刻)に矢を射て合戦となった。三浦勢の討伐は完了しており鎌倉に駆け付ける必要はない。また近隣に周知させるよう西国の地頭・御家人に命令を下すように。
        六月五日        左近将監(時頼)   謹上 相模守重時(重時)殿
.
事書として。
謀叛に加わった者は親類兄弟に至るまで拘束せよ。その他、在京の従卒や所領の代官および従者は命令に含まれていなくても厳しく取り調べて報告せよ。追って対処の指示を送る。
.

.
   ※保暦間記: 三浦駿河守(義村)の息子で若狭守泰村なる者は時頼の縁戚として驕を極め、秋田城介(安達)
義景も様々の経緯で権力に近い存在だった。この二人は仲が悪く、義景は種々の謀略と讒言により結果として泰村を誅殺した。舎弟の能登守光村・式部丞景村および彼の一族と縁戚の毛利蔵人入道西阿(季光)らが右幕下(頼朝)の法華堂に引籠って自害したのは自らが招いた事件である。その後は義景法師の子息泰盛が権限を握り、人々はこの事件を宝治合戦と呼んだ。
.
保暦間記は南北朝時代に成立した歴史書だから参考程度に。更に詳細はwikiで。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月6日
.
吾妻鏡
.
.
三浦泰村の妹婿・上総権介千葉秀胤の追討命令が大須賀左衛門尉胤氏と東中務入道素暹胤行に下された。
.
また武蔵国六浦庄に三浦の仲間多数が残っているとの噂があり、領主の陸奥掃部助北條実時に命じて家人を派遣すると共に薩摩前司安積祐長・小野寺小次郎左衛門尉通業にも同様の追捕命令を与えて派遣したが、その事実がなかったため各々が鎌倉に帰還した。
.
今日遅くに謀反人らの首実検を行ったが、三浦光村家村の首が頗る不審なので結論は出していない。
また大倉次郎兵衛尉が武蔵国に出発した。三浦残党の隠れ家搜索を目的とする。
.

.
   ※大須賀胤氏: 千葉常胤の四男大須賀胤信-嫡子通信-嫡子胤氏と続く。一方で討たれる側の千葉秀胤は
常胤-嫡子胤正千葉(境)常秀-秀胤と続く千葉氏本家筋で縁戚関係にある。この時代、敵になった縁戚の追討を同族に命じるのは忠節を証明させる意味を持っていた。嫌な話だね。
.
   ※東胤行: 同様に、千葉常胤-六男東胤頼-嫡子重胤-嫡子胤行と続く千葉氏の同族。
.
   ※安積祐長: 曽我兄弟に討たれた工藤祐経の二男で伊東祐時の実弟。
奥州合戦の恩賞に陸奥国安積郡(右画像)を得て薩摩守に任じた。陸奥には子息の一部を下向させ、惣領は鎌倉付近に定住していた可能性が高い。
.
   ※小野寺通業: 秀郷流下野小野寺氏の武士。小野寺氏の本領などに
ついては建保六年(1218)3月23日に記載あり。
.
   ※六浦庄: 現在の横浜市金沢区、八景島シーパラの周辺は和賀江島が
本格稼働するまで鎌倉時代の重要な物流拠点として栄えた六浦港(地図)、物資は朝比奈切通を経て鎌倉に入った。
.
実時は父の北條實泰からこの地を相続して実質的に金沢流北條氏の祖となり、後に書籍類を集めて金沢文庫(公式サイト)を創建する。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月7日
.
吾妻鏡
.
.
晴。大須賀胤氏と東素暹の軍勢が上総権介千葉秀胤の上総国一宮の大柳館を襲撃、上総国の御家人が大軍となって加わった。秀胤は館の四方に積み上げた炭や薪に火を放ったため攻め手は門外に留まり鴇の声を挙げ遠矢を射るのみだったが、秀胤の家人が馬場の近くに進み出て答矢を射返した。
.
その間に上総権介秀胤・嫡男式部大夫時秀・次男修理亮政秀・三男左衛門尉泰秀・四男六郎景秀が心静かに念仏・読経を済ませて自殺した。その後に数十棟の家屋に火の手が挙がり、胤氏以下の寄せ手は煙を避けて敷地から退避し、彼らの首を獲ることはできなかった。
.
また下総次郎時常も昨夕からこの館に合流して共に自殺した。時常は秀胤の弟で、父の下総前司千葉常胤の遺領である垣生庄を相続し、これを秀胤に奪われて不満を持っていたが一族の危機に応じて共に死を選んだのは勇士の美談である。泰村追討の情報は5日午刻(正午前後)に上総国府に届いていた。
.

.
   ※大柳館: 現在の睦沢町大八木の小山(地図)が比定されているが遺跡は残っていない。これは多分詰めの城
で、居館は麓の平地にあったと思う。
.
   ※垣生庄: 大柳館から約50km北、現在の成田市郷部の埴生神社(公式サイト地図)の社伝には「この地方を
領有していた埴生次郎平時常が寛元二年(1244)6月に神輿を寄進した」とある。成田山新勝寺の近くだね。父常秀の死没は1238~1241年の間と推定されているから、最短で6年の間に所領を相続して→兄に奪われて→自刃という、変遷の激しい後半生を送ったことになる。
.
   ※上総国府: 国分寺跡 (wiki)や国分尼寺跡(市役所のサイト)のある現在の市原市役所の付近(地図)と推定
されるが、正確な位置はまだ確認できていない。国分寺跡の4km弱北の光善寺付近(地図)で大量の土器と瓦が出土しており、この付近の可能性が高い、か。大柳館と国府の距離は約30km。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月8日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。常陸国に於いて関左衛門尉政泰(6月5日に法華堂で自殺している)の郎従らと小栗次郎重信が合戦した。
最終的には(関政泰の)郎従側が敗北して全ての家屋に放火し、燃え広がった火が数町(面積の場合は400坪前後)を焼き、村の南北には泣き叫ぶ声が響いた。
.
今日、頼朝法華堂に仕える法師が一人呼び出された。昨日この法師が花を供えるため仏前に入った際に泰村以下の軍兵が突然堂内に乱入して逃げ損ない、天井裏に隠れて泰村らの談話を聞いたのが判明したためである。
平左衛門尉盛時と万年馬入道が僧侶の話を聞き取り、その大意を山城前司中原盛時これを記録して提出した。
.
天井の隙間から窺っていると、若狭前司三浦泰村らの大名は知った顔なので間違いないが、他の多くは初めて見る人物だった。堂内が騒がしくて全ての言葉は聞き取れず、主だった人物が一期の終わりと称して日頃の怨念を語っていた。殆どは「泰村や能登前司三浦光村が権力を握りさえすれば一族としてどこまでも官位官職を極め、更に多くの所領を得られただろうに。」との内容だった。
.
その中で光村は言葉を励まし、「入道頼経が将軍職だった頃に禅定殿下(九条道家)が内々に仰せられた通り武家の実権を掌握すべきだった。泰村が決断を躊躇ったため子供と別れる事になったばかりか一族が滅亡しつつある。この恨みは後悔しても余りある。」と語って刀で自分の顔を削り「私の顔だと判るか?」と尋ねた。
.
その流血が頼朝の絵像を汚し、「この法華堂を焼いて自殺した死体も焼いてしまおう」」と言ったが泰村が「両方とも不忠の極みになる」と押しとどめ、何とか焼失は避けられた。
.
泰村には何事も穏便に済ませようとする性癖があり、次のように語って涙を流したという。
.
数代で重ねた功績を考えれば子孫であっても罪を許されるものだ。まして義明から四代の家督を継いだ一族であり、北條殿の外戚として内外の政治を補佐したのに一部の讒言で長年の好誼を忘れ誅殺の恥を受けるとは、恨みと悲しみが重なってしまう。これは後日に思い知ることになるだろう。ただし故駿河前司殿(父の 三浦義村)は同族の者(和田義盛一族)も他家の者も含めて多くを死罪にして子孫も滅ぼした、その因果が巡ってきたのかも知れぬ。いま死を前にして北條殿を恨むつもりはない。
.
声が震えて細かいところまでは不明だったが内容はこの通りだった、と。
能登前司三浦光村の首については顔を削ったのが判明して不審点はなくなり、四郎式部大夫三浦家村の首は行方不明となった。見聞した事を報告した法師は釈放して本所に戻し、もう一人の法師は去る5日に堂内に隠れられず床下に逃げ込み歩兵に首を斬られた、と。70歳を越えた老母(尼)が嘆き悲しみ、僧の首は実検の際に確認した。
.

.
   ※吾妻鏡の曲筆: 頼家頼朝の跡を継いで鎌倉殿になったのが正治元年(建久十年・1199)1月末。頼家は
同年4月12日に訴訟の決裁権を剥奪され、宿老13人による合議制に移行している。その間の吾妻鏡には頼家に関する記録に「権限剥奪に値する不行跡」は見られず、失脚・幽閉に至る建仁三年(1203)9月までは綿々と「我儘・独断・怠慢」を記録している。
.
宝治合戦で滅亡した泰村の性癖については優柔不断など武家の棟梁に相応しくない部分が強調され、大部分の歴史家が「三浦一族は栄華に奢って我侭な振る舞いが多く」と評価しているが、その根拠の大部分が吾妻鏡の恣意的な記述のみに依拠している事に留意したい。
.
そもそも屋根裏に逃げ込んだ僧の供述を転載した(とする)吾妻鏡を鵜呑みにし、泣き言に近い泰村の述懐を恰も史実の如くに受け止めて彼の性格的な欠陥の証左とする事そのものが不合理である。個人的には、この伝聞記事が吾妻鏡の曲筆だった可能性を指摘したい。
.
頼朝法華堂は持仏堂の発展形で、単独の寺に近い存在と推定される。矢が飛び交い煙に包まれた三浦邸から2~300mの距離にある法華堂から、承仕法師(雑役担当の僧)はなぜ早く避難しなかったのか。
.
天井裏に逃げ込んだのなら梯子か階段だろうが、三浦勢はなぜ上を確認しなかったか。頻繁に現れる吾妻鏡の「伝聞情報」を鵜呑みに信じて良いのか。
.
法華堂と呼ばれる中では最大の東大寺三月堂(公式サイト。右画像も参考に)でさえ広さは約32×25m(軒のサイズ)、三月堂よりは小さいと思われる頼朝法華堂に何人の武装兵が逃げ込めるのか etc ...解消すべき疑問点は少なくない。
.
   ※三浦家村: 木曽御嶽山の南麓にある王滝村(地図)には鎌倉から逃げた家村が隠れ住んだとの伝承がある。
.
「三浦大夫」を名乗る人物に率いられた人々が王滝村と加子母村を結ぶ鞍掛峠経由でこの地に住み着いた、住民の多くが三浦姓で大滝川の上流には三浦ダムまであり、実に本格的で面白い。
.
なぜ木曽なのかと言うと、建暦三年(1213)に追討された和田義盛の三男朝比奈義秀が和田合戦で行方不明になった事に起因している。実は義秀の生母は木曽義仲の側妾だった巴御前で、彼女が木曽の山奥に隠れるよう提言したらしい。ここまでは幾らか真実の匂いもするのだが...
.
巴の年令を義仲に近いと仮定すると、彼女が寡婦になった寿永三年(1184)には30歳前後、義秀は安元二年(1176)生まれだから、義仲が討死する8年前に義秀が産まれた計算になる。
木曽に住みながら義仲の目を盗んで義盛の子を産むなんて、ちょっと無理があるよね。
.
木曽にある道の駅 三岳から更に車で(県道・開田三岳福島線)30分も山奥だよ、ご参考に。
.
また宝治合戦を逃れた家村は蒙古へ渡ってフビライ・ハーンの家来となり、実情を探るため日本に密航したとか、元寇の兵士の中に家村の姿を見た、とか、竹崎季長(恩賞を求めて幕府に直訴した武士)は蒙古の軍船で家村と斬り合ったと主張している(蒙古襲来絵詞だったかな)。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月9日
.
吾妻鏡
.
.
武蔵国で左衛門尉武藤景頼が左衛門尉金持次郎(広綱?)を生け捕りにして連行した。泰村に与力し、去る5日には法華堂に籠って戦い(自殺の約束に背いて)逃亡していた者である。
.
赤糸縅の鎧を着けて鴾毛の馬に跨り、甲冑で騎馬の郎従2人を伴って法華堂の裏山を登り逐電、6日に武蔵国河簀垣(場所不明)の宿に着いたところで景頼の郎従ら捕らえられた。
.

.
   ※金持広綱: 伯耆国日野郡金持郷を本領とする武士。宝治合戦で三浦に味方して所領没収となったが暫くして
赦免され所領安堵となったらしい。理由は不明。しかし法華堂の裏山を騎馬で逃げたというのは偉い!と言うか、嘘っぽい。100mで20~30mの標高差がある潅木帯だぞ。
.
   ※武藤景頼: 宝治合戦後に引付衆、康元元年(1256)に太宰権少弐、正嘉二年(1258)に評定衆に任じた。
幕政の中枢で重用されるだけの能力を備えていた人物らしい。
.

.
   ※葉黄記: 関東から(六波羅に)飛脚が到着し、北條重時が仔細を報告してくれた。
去る5日に前若狭守三浦泰村が兵を挙げ、北條時頼が将軍家(五代将軍藤原頼嗣)の指示を受けて討手を派遣した。合戦は立て籠った館に放火された泰村が一族が頼朝卿の墓堂に入って自害し、巳・午・未の三刻(5~6時間)で決着した。泰村と三浦光村以下の三浦一族が全滅、自害した者は300人に及んだ。元々時頼側だった森入道(毛利季光)は遂に泰村に味方して共に討ち取られた。
去年から高まっていた泰村の威勢だったが、このような結果に終わってしまった。

.
葉黄記は後嵯峨上皇の近臣葉室定嗣が残した日記。さらに詳細はwikiで。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月10日
.
吾妻鏡
.
.
(泰村に与した)甲斐前司春日部實景子息の嬰児が一人、武蔵国から鎌倉に入った。
.
今日、合戦に加わった戦士からの勲功を所望する款状(申請書)を受け付け、数十通が集まった。
また警備の任務に就いた武士らの勤務記録を確認し、左親衛北條時頼の花押を書き入れて本人に返却した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月11日
.
吾妻鏡
.
.
前刑部少輔の大江忠成朝臣が評定衆を罷免となった。入道西阿(毛利季光)に同意した罪での処分である。
.
今日、東入道素暹が嘆きつつ訴え出た。上総五郎左衛門尉泰秀は素暹の娘を妻に迎え、ことし一歳の男子が産まれている。謀反の連座とすべきではあるが、襁褓(おむつ)の中で是非を弁える筈もない。(6月7日に)千葉秀胤を追討した恩賞に替えて私に預からせて頂きたい、と。北條時頼はこの願いを了承した。
.
また越後入道勝圓(北條時盛)が申し出たのは、孫の掃部助太郎信時(13歳)は泰村の外孫(泰村の娘が時盛の長男時景(別名時朝)に嫁して信時を産んでいる。つまり時盛にとっては内孫)だが去る5日に起きた事件の経緯を知らず、ただ騒動に対応して駆け付けただけ。私に拘留させて頂けないだろうか、と。
.

.
   ※大江忠成: 大江廣元の五男で毛利季光の次弟、別姓海東。熱田神宮大宮司の養子となり承元二年(1208)
に大宮司職を継ぎ、翌年には嫡男忠茂に継承させている。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月12日
.
吾妻鏡
.
.

筑後左衛門次郎(八田)知定は去る5日に筋替橋で若狭前司三浦泰村の郎従岩崎兵衛尉を討ち取った旨の書状を提出し恩賞を求めた。
.
しかし知定は泰村の縁に連なる者として当日の朝まで三浦邸付近を歩き回り、合戦が終ってから自殺者の首を獲って申請している事が判明し、罪に問うべきとの沙汰が発せられた。
.
これに伴って左衛門尉平盛時の奉行として知定を問い質したところ「一緒に戦っていた大曽祢左衛門尉長泰と左衛門尉武藤景頼らに確認すれば、私の言葉は必要ありません。」と答えた。
.
右画像は南側から見た筋替橋。歩道に石碑と古い橋柱が建っている。
.

.
   ※筋替橋: 吾妻鏡に再三登場するこの橋は元々は大倉御所の雑排水を
滑川に流した水路(現在は暗渠)に架けられたもの。
.
養和二年(1182)に八幡宮前にあった斎田(神田)三町歩を放生池(現在の源平池)に改造した旨の記録がある。
.
その際に直線で西側の窟小路に続いていた横大路の道筋を南(つまり宝戒寺の門前)に替えたことから筋替橋と呼ぶようになった、らしい。(道の移設には異説あり、なんちゃって)
.
右画像は筋替橋周辺の拡大地図(クリック→拡大表示)。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月13日
.
吾妻鏡
.
.
左親衛北條時頼は続けて幕府に詰めて万事の報告を聴き決裁を下している。
.
去る3日に始まった如意輪法の祈祷が結願し、大納言法印隆弁が読み上げた経文の巻数を報告し、時頼は深い信仰に従って謝礼の書状を渡し、「この度の合戦にも拘わらず関東が平穏だったのは偏に祈祷が齎した霊験である。」との言葉を与えた。
.
今日、(泰村側に加わっていた)大須賀八郎左衛門尉範胤が拘束され囚人となった。去る5日の法華堂の戦場から逃亡した罪を問われる。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月14日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
今回の合戦で首謀者となった者の後家および嬰兒らを全て探し出した。
.
三浦泰村の後家は鶴岡別当法印定親の妹で二歳の男子がいる。三浦光村の後家は後鳥羽上皇の北面の武士だった医王左衛門尉能茂法師の娘で並ぶ者のない美女である。光村の愛情は特に強く、最期を迎える前に互の小袖を取り替えていた。残り香が一層の悲しみを誘い、未だに嗚咽を漏らしている。泰村の後家と同じく赤子がいる。
.
三浦家村の後家は大隅前司嶋津忠時(嶋津忠久の嫡子で二代当主)の娘。家村には妾腹を含めると三人の嬰兒がおり、全てが落飾出家の処分となる。また今日、駿河三郎三浦員村の息子(少年)が囚人として伊豆守河津尚景に預かった。 夕方になって六波羅の飛脚が鎌倉に到着、今回の合戦に関しての連絡である。
.
以前に鎌倉から派遣した飛脚が9日に入洛して報告書を冷泉太政大臣久我通光に提出し、関白近衛兼経を介して奏達(後嵯峨上皇に報告)した。争乱が静まり世情が平穏に戻ったのは喜ばしいとの仰せがあった、と。
.
   久我通光・近衛兼経・後嵯峨上皇の詳細はwikiにリンク。
.

.
   ※百錬抄: 関東の飛脚が到着、去る9日に上総介千葉秀胤が誅罰された。
.
   ※河津尚景: 加藤景廉の次男で、加藤景朝の次弟。詳細確認はしていないが河津郷を得て河津姓を名乗ったと
推測される。河津を名乗った武士は他にもあり、伊東祐清から七代後の河津貞重が九代執権北條貞時から糟屋郡尾中庄(現在の尾仲町・地図)を得て筑前国宗像郡の西郷庄(現在の福津市上西郷・地図)に土着した、との記事もある。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月15日
.
吾妻鏡
.
.
去る五日に平左衛門入道盛阿(平盛綱)を介して若狭前司三浦泰村に送った左親衛北條時頼の書状が求めに応じて後家から返却された。特に貴重なので紛失しないように泰村に指示されたため護符の紐に結んで保管していた。西御門三浦邸の炎上から逃れて走り出た際にも身に付けていたいたものである。時頼はこれを特に喜んだ。
.

.
   ※時頼の書状: 吾妻鏡には「この騒動は天魔が心の中に入ったためだろうか。幕府には貴殿を討伐する考えは
なく、従来の如く異心を抱いている訳でもない」との内容で、更に誓詞まで書き加えたらしい。」と記載されている。これは騙し討ちの証拠になるから、時頼としては取り返したかっただろうね、週刊文春にでもリークされたら偉い騒ぎになる(笑)。
.
ま、冗談は兎も角、「時頼が直前まで和平を探った」との通説など信憑性がない、という事。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月16日
.
吾妻鏡
.
.
左親衛北條時頼は信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛の法名)に命じて今回の合戦で死んだ者の遺領等を書き出させた。主たる者の所領は既に把握しており、その他については惣地頭に確認した。
.
今日、越後入道北條時盛に(6月11日に申し入れのあった件について)返答を送った。
孫の太郎信時については泰村の外孫で特に警戒する程の存在ではないし、去る5日には敵陣に対して矢を放っているから忠実でもある、時頼はむしろ褒め言葉を添えていた。これは祖父である北條時盛の申し入れが穏やかだったのも理由の一つである。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月17日
.
吾妻鏡
.
.
故上総介千葉秀胤の末子(一才)と同修理亮千葉政秀(秀胤の次男)の子息二人(五才と三才)・垣生次郎時常(秀胤の弟) の子息一人(四才)が連行され、各々顔を確認した後に監督者に預けられた。
.

.
   ※秀胤以下: いずれも6月7日に上総一ノ宮の館を同族の大須賀氏・東氏に攻められ滅亡している。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月18日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮別当の法印定親が蟄居謹慎の処分を受けた。若狭前司三浦泰村の連座(妹が泰村の室)である。
諏方兵衛入道蓮佛(諏訪盛重)が左親衛北條時頼の命令を伝えた。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月19日
.
吾妻鏡
.
.
豊田源兵衛尉法師の子息で太郎兵衛尉と次郎兵衛尉の兄弟二人が囚人となった。日頃は疎遠な関係だったが高麗寺衆徒の連絡により生け捕られた。
.

.
   ※豊田源兵衛尉: 大庭(懐島)景義の弟・豊田景俊、本領は相模国豊田庄(大庭塚と豊田郷、大庭御厨の範囲
参照)。吾妻鏡の文治四年(1188)11月27日に 「群盗が景宗の墳墓を掘り起こして中の財物を盗み取った、云々」の記載がある。
.
後三年戦役で有名を馳せた鎌倉権五郎景政の孫・大庭景宗の息子で、治承合戦の際は景義と景俊は頼朝側で、異母弟の大庭景親俣野景久は平家方として戦っている。
.
詳細は「秩父平氏の系図」の最下段を参照されたし。 大庭氏と豊田氏は和田合戦で義盛に味方して全滅したと思っていたが、生き残りがいたんだね。
.
   ※高麗寺: 大磯の高来山(地図)にある。元々は奈良時代以前から続く神仏習合の社寺だったが、明治維新の
神仏判然令で高来神社 (wiki)と慶覚院に分離した。近くには六所神社など多くの見所があるのだが高来神社だけは未訪問、実に悔しい。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
吾妻鏡から宝治合戦の記事だけを抜き出して時系列で一覧(別窓)にしてある。ご参考に。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月20日
.
吾妻鏡
.
.
奥州に滞在していた駿河八郎左衛門尉三浦胤村は一族の滅亡を聞いて出家し、大夫判官小山長村の囚人として鎌倉に入って惣領家の遺領の多くを書き出した。その中に駿河九郎重村(三浦光村の次弟)が相続した数ヶ所の領地が含まれていた。これは重村が八幡宮別当定豪の稚児として仕えていた頃に可愛がられ、相続したり買い取ったりした土地などを与えた分も含まれている。買い取った土地は没収の対象外となるが、その他の所領を併せた処理は評定を経てから決定する事になる、と左親衛北條時頼が定めた。
.

.
   ※三浦胤村: 三浦義村の八男で泰村の異母弟。乱には関与なしと判断されて助命された。その後は親鸞に帰依
して常陸国下妻に光明寺を開いたと伝わるが...光明寺の寺伝では開基の明空は俗名三浦義忠としている。親鸞に帰依したのは同じだから同一人物かも知れない。
.
奥州にある三浦一族の所領で思い出すのは建暦三年(1213)初夏の和田義盛の乱の後に、陸奥国名取郡(宮城県名取市と岩沼市一帯・地図)の義盛遺領を同族の三浦義村が獲得していた事。胤村がいたのは名取郡だったかも。また乱の発端に絡んだ和田平太胤長が流されたのも陸奥国岩瀬郡(現在の福島県天栄村と鏡石町の一帯)だったね。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月21日
.
吾妻鏡
.
.
留守介が幕府に駆け付け、佐原十郎左衛門尉三郎秀連を奥州で討ち取ったとの知らせが届いたと報告した。
.

.
   ※留守介: 平安時代末期に葉室大納言藤原光頼(wiki)の家司として仕えていた伊沢家景の管理能力を認めた
北條時政が抜擢し頼朝が文官として重用した。奥州合戦および直後の大河兼任の乱鎮圧後に陸奥国留守職に任じられ、葛西清重と共に奥州総奉行として能力を発揮した。
.
子孫が陸奥国留守職を世襲し、家景の嫡男家元以後が留守氏を名乗っているが、この留守介が家元なのか(家景は承久三年(1221)に死没)その息子なのか或いは別人なのか確認できない。
.
ちなみに鎌倉時代中期以後の留守氏は奥州での北條氏支配地が拡大するに従って徐々に衰退し、秀吉の頃から家臣として伊達氏に吸収されていく。
.
   ※佐原秀連: 三浦(佐原)義連は奥州合戦の勲功で会津周辺を与えられ、嫡子 盛連の時代には系累の多くが
会津・会津葦名・猪苗代を相続した。盛連は北條泰時の正室として時氏を産んだ後に離縁となった三浦義村の娘矢部禅尼を妻に迎え、三人の男子(蘆名光盛・加納盛時・新宮時連)をもうけた。
.
兄弟三人は宝治合戦では母の前夫だった執権泰時から続く北條氏に味方して勝利し、盛時が滅亡した三浦本家を継承している。佐原氏の中で北條側に与したのは盛連の系だけで、盛連の弟政連と景連の系は三浦泰村に味方して滅亡している。佐原秀連は政連の息子にあたる。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月22日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
去る五日の合戦の死亡した主な者の記録が寄合の座で披露された。
.
  自殺および討死した者
.
   若狭前司三浦泰村   同子息次郎景村   同駒石丸
   能登前司三浦光村   同子息駒王丸   駿河式部三郎   同五郎左衛門尉   同弟九郎重村
   三浦又太郎式部大夫氏村   同次郎   同三郎   三浦三郎員村
   蔵人大夫入道毛利季光   同子息兵衛大夫光廣   同次郎蔵人入道   同三郎蔵人   同子息吉祥丸
   大隅前司重隆   同子息太郎左衛門尉重村   同次郎
   平判官太郎左衛門尉義有   同次郎高義   同四郎胤泰   同次郎
   高井兵衛次郎實茂   同子息三郎   同四郎太郎
   佐原十郎左衛門尉泰連   同次郎信連   同三郎秀連   同四郎兵衛尉光連   同六郎政連
   同七郎光兼   同十郎頼連
   肥前太郎左衛門尉胤家   同四郎左衛門尉光連   同六郎泰家
   佐原七郎左衛門太郎泰連   長江次郎左衛門尉義重   下総三郎   佐貫次郎兵衛尉
   稲毛左衛門尉   同十郎
   臼井太郎   同次郎   波多野六郎左衛門尉   同七郎
   宇都宮美作前司時綱   同子息掃部助   同五郎
   春日部甲斐前司實景   同子息太郎   同次郎   同三郎
   関左衛門尉政泰   同子息四郎   同五郎左衛門尉
   能登左衛門大夫仲氏   宮内左衛門尉公重   同太郎   弾正左衛門尉   同弟十郎
   多々良次郎左衛門尉   石田大炊助   印東太郎   同子息次郎   同三郎
   平塚左衛門尉光廣 同子息太郎   同小次郎   同三郎   同土用左兵衛尉   同五郎
   得富小太郎   遠藤太郎左衛門尉   同次郎左衛門尉
   佐野左衛門尉   同子息太郎   佐野小五郎   榛谷四郎   同子息弥四郎    同五郎   同六郎
   白河判官代   同弟七郎   同八郎   同式部丞
   上総権介千葉秀胤   同子息式部大夫時秀   同修理亮政秀   同五郎左衛門尉泰秀   同六郎秀景
   垣生次郎時常   武左衛門尉   同一族
   長尾平内左衛門尉景茂   同新左衛門尉定村   同三郎為村   同次郎左衛門尉胤景
   秋庭又次郎信村   同三郎左衛門尉光景   同次郎兵衛尉為景   同新左衛門四郎
   岡本次郎兵衛尉   同子息次郎   橘大膳亮惟廣   同子息左近大夫   同弟橘蔵人
.
  生死不明
.
   駿河式部大夫三浦家村
.
  生け捕りになった者
.
   駿河八郎左衛門尉胤村(出家)   金持次郎左衛門尉   毛利文殊丸   豊田太郎兵衛尉
   同次郎兵衛尉   長尾次郎兵衛尉   美濃左近大夫将監時秀   大須賀八郎左衛門尉
.
  逃亡した者
.
   小笠原七郎   大須賀七郎左衛門尉   土方右衛門次郎
.

.
   ※一部重複: 佐原四郎兵衛尉光連の重複、佐原七郎左衛門太郎泰連の重複など、多少の記載ミスあり。
三浦氏は無論のこと、佐原氏・長江氏・佐貫氏・稲毛氏・波多野氏・宇都宮氏・佐野氏・榛谷氏・長尾氏・武氏・豊田氏・小笠原氏・大須賀氏など、頼朝挙兵時代から慣れ親しんだ一族の武士が滅亡するのって肉親を失うようで寂しいね。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月23日
.
吾妻鏡
.
.
甲斐前司春日部實景の幼い息子一人が武蔵国から連行され鎌倉に入った。
今日、神社仏寺に新たな領地が献じられた。対象は鶴岡八幡宮および右大将家(頼朝)法華堂等である。
.
また去る五日の合戦に関する恩賞が行われ既に数十人に及んだが、筑後左衛門次郎知定は若狭前司三浦泰村の郎従岩崎兵衛尉を討ち取ったにも関わらず選に漏れた。これは知定が泰村に味方していた疑惑による。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月24日
.
吾妻鏡
.
.
故能登前司三浦光村が或る人に送った自筆の書状を提示した者があり、隠謀の企てが詳細に書いてあるらしい。その言葉が載っていなくても趣旨は明らかに推量できる。
.

.
   ※陰謀の企て: 愚劣な傍証を提示するから更に捏造疑惑が増す。要するに陰謀計画など存在しなかった。
.
   ※葉黄記: 院に参内し、使節として鎌倉に向かう指示を受けたが辞退した。
.
          葉黄記は後嵯峨上皇の近臣葉室定嗣が残した日記。さらに詳細はwikiで。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月25日
.
吾妻鏡
.
.
若州(三浦泰村)以下、落命した者の後家らに生活の手立てを配慮せよとの御沙汰があった。併せて鎌倉中の居住は禁止すると伝えよ、と。信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛)と左衛門尉平盛時がこれを担当する。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月26日
.
吾妻鏡
.
.
今日内々御寄合あり。京都朝廷との関係は特に円満を心がけるよう沙汰があった。左親衛北條時頼・前右馬権頭北條政村・陸奥掃部助北條実時・秋田城介安達義景が参集、兵衛入道諏訪盛重が奉行に任じた。
.

.
   ※寄合(衆): 寛元四年(1246)閏4月の宮騒動以後の得宗専制体制の中で執権を中心とした少数の幕府重臣
による密室会合が重要な政策決定を担い始める。当初は時頼・政村・実時・安達義景・三浦泰村、宝治合戦後は泰村に替えて諏訪盛重、元寇期(1264年以後)は佐藤業連・諏訪盛経・平頼綱などの御内人(得宗被官)が加わり徐々に勢力を広げていく。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月27日
.
吾妻鏡
.
.
晴、風が静まった。合戦後初めて評定衆の会合があり、神社仏寺などについて協議があった。着座順は次の通り。
.
   一方 左親衛北條時頼   武蔵守北條朝直   甲斐前司長井泰秀   下野前司宇都宮泰綱
       信濃民部大夫入道二階堂行盛  左衛門尉清原満定
.
   一方 前右馬権頭北條政村   相模三郎入道北條資時   出羽前司二階堂行義   秋田城介安達義景
       民部大夫太田(三善)康連
.
今日大納言法印隆弁を鶴岡八幡宮の別当職に補任し、左衛門尉平盛時を使者として該当の御教書を隆弁の宿坊に届けさせた。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月28日
.
吾妻鏡
.
.
(6月20日に奥州から連行された)駿河八郎左衛門尉三浦胤村入道から上申があり、「亡父三浦義村は多くの勲功により忠義を尽くしました。その息子として全く謀反など考えておりません。」との内容を左衛門尉平盛綱が取り次いだ。北條時頼は「評定の序でに尋ねて検討しよう。」 とのこと。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月29日
.
吾妻鏡
.
.
上野入道日阿(結城朝光)が下総国から鎌倉に入った。駿河前司三浦義村と若狭前司三浦泰村二代に亘る知音(親しい友)であり、北條時頼に面会した際に涙を拭って懐旧の言葉を述べた。「私が鎌倉に居たら泰村を討伐の恥辱に会わせなかったのに」と。時頼は自分の立場など考えない無我の心情に心を打たれた。
.

.
   ※下総国: 資料によって下野国と記載しているケースがあるが、原文の「下総」が正しい。朝光の本領・結城は
現在の茨城県(常陸国)だが、鎌倉時代の行政区分では下総に含まれる。
.
また晩年の朝光(この年には満79歳)は現在の下妻市(ここも当時は下総国)周辺を拠点にして布教活動を行っていた親鸞に深く帰依しており、下野国または上野国にいたとは考えにくい。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
6月30日
.
吾妻鏡
.
.
御所での六月御祓いは中止となった。去る五日の合戦による触穢が理由である。
.

.
   ※六月祓い: 一年の半分が過ぎる時点で心身に積もった穢を払う行事、夏越祓え(なごしのはらえ)とも。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
御所中の番帳(勤務割り)を改めた。三浦泰村の一族および与党の数人が欠員となり、(小侍所別当の)陸奥掃部助北條実時を奉行として新しく加える人物を厳選し清書した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月2日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮の九月九日(重陽節)の神事を実施するか否かの評議があり、放生会を催した後に決めると定めた。清左衛門尉清原清定がこれを奉行する。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月3日
.
吾妻鏡
.
.
晴、午後になって雨。
.

.
   ※葉黄記: 相模守北條重時朝臣が関東に向かった。暫く京都守護の指揮官が不在となる。
.
   ※北條重時: 前年の寛元二年(1246)7月に前将軍藤原頼経が京都に更迭され、新執権に就任した北條時頼
の指示を受けて後嵯峨上皇の近臣葉室定嗣(wiki)を六波羅に呼び、事件(宮騒動)の背後で画策した九条道家と四男の関白一条実経(wiki)の更迭を要求する書状を渡し、罷免・失脚させた。
.
鎌倉に戻った重時は叔父(父北條義時の弟)の北條時房の死没(延応二年・1240年1月)から空席のままになっていた連署(執権補佐)に就任、六波羅北方は次男北條長時が継いでいる。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月4日
.
吾妻鏡
.
.
夜になってから大納言法印隆弁が鶴岡八幡宮の別当坊に移った。別当再任の件は再三辞退したが重ねての仰せを承諾する結果となった。
.

.
   ※別当再任: 原文は当職事再任雖辞申、「当職への再任を辞退したけれど」だが...
八幡宮別当は建保七年(1219)に別当の公暁実朝を殺して追討された跡を継いで定豪が就任し翌年9月に辞任、その後は弟子の定雅→ 定親と続いている。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月7日
.
吾妻鏡
.
.
左親衛北條時頼が評定衆と奉行人(実務担当の中堅管理職か)を招いて飲食の饗応を催し引出物まで贈った。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月10日
.
吾妻鏡
.
.
相模国一宮(寒川神社・公式サイト)の椙(杉)数本が焼けた。神の火だろうかと報告しており、幕府は何らかの対処をせよと命じた。

.
   ※相模国一宮: 上古の相模は東の相武(さがむ)と西の磯長(しなが)に分かれており、大化の改新(646年)の
際に相模に統一された、と伝わっている。その際に相武の寒川神社と磯長の川匂神社が一之宮を争い、寒川神社に決まった、と。
.
それとは別に、平安末期に国衙が置かれた大磯には相模国総社として六所神社がある。
.
相模国衙に赴任した国司が有力神社に巡拝する費用と手間を省くため一之宮寒川神社・二之宮川匂神社・三之宮比々多神社・ 四之宮前鳥神社・平塚八幡宮 の五社を国衙近くに合祀して六所神社とした。
.
毎年5月5日には六所神社から約1km北の神揃山で一之宮神官と二之宮神官が虎の敷皮(神座を意味する)を薦め合う無言の神事(座問答)があり、三之宮神官の「いずれ明年まで」の言葉で終わる。
.
祭事次第は「相模国府祭」で検索すると動画も確認できるが、混雑に耐える根性があれば一見を薦めたい。
.
右画像は神官が座る神体石の標識。
         画像をクリック→ 六所神社の詳細(別窓・神揃山の画像は末尾に)
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月14日
.
吾妻鏡
.
.
足利左馬頭政義は今度の合戦の恩賞として上総権介千葉秀胤の遺領を与えられたが、幕府と一族の繁栄を祈祷する費用として年貢分を伊勢神宮に献納する許諾を左親衛北條時頼に求め、快く認められた。これに伴って寄進状を本宮に送付した。

.
   ※足利政義: この時代の足利氏で左馬頭の官職を得ているのは三代当主の足利義氏のみ。誤記だろう。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月16日
.
吾妻鏡
.
.
大納言法印隆弁が鶴岡八幡宮別当職に補任されてから初めての拝賀を行い。、また宮寺領の武蔵国矢古宇郷にある別当の取り分を読経料として提供し不断の大般若経転読を始めさせた。
.

.
   ※矢古宇郷: 承久三年(1221)8月7日の吾妻鏡に「(合戦が無事に終わった謝礼に)鶴岡八幡宮には武蔵国
の矢古宇郷(五十余町)の管理権を寄進した」との記録があり、その一部が別当の分らしい。
明治22年まで草加市にあった矢古宇村の名は綾瀬川に架かる橋(地図)に残されているのみ
.
   ※大般若経転読: 百聞は一見に如かず、動画(wiki) の中から実態の確認を。信仰と言うより形式の世界。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月17日
.
吾妻鏡
.
.
六波羅から相模守北條重時が参着した(去る3日に出京)。故入道武蔵守北條経時の小町上の旧宅(御所北面の若宮大路沿い)を住居とした。ここは武州禅室北條泰時から経時が相続した屋敷で、去る寛元二年(1244)12月(26日に詳細記事あり)に焼失した後に再建してある。経時はこの屋敷で臨終を迎え、その後は住む人がいなかった。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月18日
.
吾妻鏡
.
.
六波羅(鎌倉時代末期まで「探題」の呼称なし、単に六波羅と呼ばれた)の後任として相模左近大夫将監北條長時が任命された。長時に従って赴任する部下は既に選出を終えている。
.

.
   ※北條長時: 父の重時は得宗家に次ぐ家格だった極楽寺流の祖。
正元元年(1259)に極楽寺(wiki)を開基し、引退後に隠棲したのが極楽寺流の語源となった。
.
長時はその嫡家である赤橋流(八幡宮の赤橋(太鼓橋)の前に住んだ)の祖となり、康元元年(1256)11月には第六代執権に任じた。実際には時頼が実権を手放さず、七代政村を経て八代時宗までの繋ぎ役となった。
.
          右画像は現在の太鼓橋(画像をクリック→拡大表示)。
          鎌倉時代は朱塗りの木橋で、ここが「上の下馬橋」だった。

.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月19日
.
吾妻鏡
.
.
叛逆者の縁者および従者などについて、事件の処理に便乗して所領や財物の横領を企てる者がいるのは甚だ遺憾であり、早急に防止する命令が求められる。指示に従わない場合は姓名を書き出して報告せよと六波羅に命じた。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月24日
.
吾妻鏡
.
.
御所を移転すべきとの沙汰があった。来る10月14日に土木に関わる工事を始めるよう関連する御家人に通告する奉書を発行した。筑前前司二階堂行泰と大曽祢左衛門尉長泰がこれを担当する。
.

.
   ※御所移転: 別の敷地に移った記録がないため若宮大路幕府の敷地内で建物が移転したのだろう。
.
   ※大曽祢長泰: 安達盛長の次男時長(安達景盛の弟)が分家して大曽祢荘(山形市西部・地図)を
領有して大曽祢氏を名乗ったのが最初。
.
長泰は時長の嫡子で建長元年(1249)~弘長二年(1262)まで引付衆に任じた。引付衆は主として御家人の所領に関係する訴訟の迅速化を図るため設けた評定衆の下部組織。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月26日
.
吾妻鏡
.
.
左親衛北條時頼邸で祈祷が始められた。
.
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
7月27日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條重時将軍家別当の連署に就任した。秋田城介安達義景が仰せを重時に伝え、直ちに了承した。
.

.
   ※連署: 端的に言うと「副執権」に近い職域で、執権の署名(花押)に並んで署名することから連署と呼んだ。
北條時房義時の下で任じて以来、20年近く空席になっていた。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
習慣に化していた贈答の遣り取りを禁じる命令を発布した。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)への贈り物も、二人の御後見(執権と連署)からの場合以外は禁止となった。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月5日
.
吾妻鏡
.
.
京都大番役について、規則に従って精勤せよとの沙汰が下った。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月8日
.
吾妻鏡
.
.
辰の一点(7時過ぎ)に大曽祢左衛門尉長泰が使節として上洛の途に就いた。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月9日
.
吾妻鏡
.
.
左親衛北條時頼が従来の住まいを修理するため桧皮で葺いた寝殿に移転した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月13日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(藤原頼嗣)の体調不良に伴い、御所に於いて安倍為親朝臣による泰山府君祭を行なった。左親衛北條時頼がこの祭祀に立ち会った。
.

.
   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月14日
.
吾妻鏡
.
.
神馬と御剣を相模国一之宮(寒川神社・公式サイト)に献納した。使者は三浦六郎兵衛尉時連(佐原(三浦)盛連の六男)、怪異(7月10日に椙(杉)数本が焼けた件か)への対応である。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月15日
.
吾妻鏡
.
.
恒例の放生会は延期となった。去る6月の合戦の死者による穢に加え、兵火により流鏑馬の厩舎が焼失したためである。京都では去る6月9日(関東の飛脚が入洛した(穢を持ち込んだ)日)から7月5日までを触穢としている。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月17日
.
史 料
.
.
   ※葉黄記: 晴。関東の使節として大曽祢左衛門尉が入洛、4~500騎を率いている。 .

.
   ※大曽祢左衛門尉: 8月8日に鎌倉を発った安達盛長の孫・長泰(7月24日を参照)。葉黄記は荘園の帰属や
三浦泰村の遺領を後嵯峨上皇に寄進するなど事務処理の他に「深義あり」と書いている。
.
朝廷側は藤原頼経頼嗣と続いた摂家将軍を廃して天皇家から親王を迎え将軍に擁立する事を認め、執権 時頼側は後嵯峨院政に全面的な協力を約束する、そして双方にとって邪魔な存在となった九条家を完全に排除するという内容の基本的な合意が取り交わされたのだろう、と(個人的には)考える。
.
一般的には時頼が頼嗣の勉学に尽力したとされるが、頼嗣温存には何のメリットもない。
建長四年(1252)2月、後嵯峨天皇の第一皇子宗尊親王が下向して六代将軍となる。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月20日
.
吾妻鏡
.
.
鎌倉中の保々(行政の最小単位)に対し、各保の管理者は浪人(武士に限らず定住・定職のない浮浪者)を追放せよとの命令を下した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月22日
.
吾妻鏡
.
.
五代将軍藤原頼嗣の体調不良が平癒した。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
8月23日
.
史 料
.
.
   ※葉黄記: 晴・曇。関東の使節が京都を発って鎌倉に向かった。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
9月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
亥一刻(21時過ぎ)から丑四点(4時過ぎ)まで大風が吹き仏閣や人家の多くが倒壊・破損の被害を受けた。
.

.
   ※大風: 旧暦の9月1日は新暦の10月1日、少し遅い台風か。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
9月2日
.
吾妻鏡
.
.
子刻(深夜12時前後)も大風がおさまらず、多くの樹木が吹き倒された。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
9月9日
.
吾妻鏡
.
.
将軍藤原頼嗣の仰せにより諸人が各々一首の和歌を添えて菊を献じ、幕府北面(私邸)の小庭に植えた。
.

.
   ※菊を献じ: 9月9日は重陽の節句(wiki)。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
9月11日
.
吾妻鏡
.
.
筑後左衛門次郎知定が和字(ひらがな)の上申書を提出、内容は三浦合戦の恩賞から漏れた事の嘆きである。 一族累代の勲功(平将門による天慶の乱)を例に挙げて主張の正当性を綿々と述べた。
.
左親衛(時頼)は何回も読み返し「獲麟の一句(絶筆を意味する)を述べているのに対応しないのは残念である。」と語り、勲功奉行に調べさせ評定の際に検討の沙汰を諏方兵衛入道盛重に指示した。
.

.
   ※筑後知定: 八田知家の三男で茂木郷(栃木県西部・地図)を継承した三郎知基の
孫または曾孫だろうと思う。
.
蛇足...栃木西部はイチゴの名産地。茂木町にある道の駅もてぎの「おとめミルク」(右画像)は特に人気が高い。栃木で生まれた妻の意見としては少し離れた道の駅にのみやで扱うスウィーツ(公式サイト)の方が楽しめる、らしい(甘味に弱い妻の意見)。
.
特に「にのみや」では品種改良を重ねて特に美味しいイチゴ(なつおとめ)が夏でも食べられる。
近くを通った際には是非ご賞味を。特にロールケーキは、私もお薦めできる。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
9月13日
.
吾妻鏡
.
.
左親衛北條時頼が右大将家源頼朝の法華堂に詣でた。恒例の御仏事(月違い命日)で特に立派な式典である。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
9月16日
.
吾妻鏡
.
.
相模国毛利庄の山中で怪異があり、毎夜田楽舞の様相を呈していると農民が報告してきた。
.

.
   ※毛利庄: 現在の厚木市西部(地図)一帯。当時は大部分が森林なので「森の庄」と呼ばれ、鎌倉時代初期には
大江廣元頼朝からこの地を拝領し、四男の季光が相続して毛利を名乗った。
.
季光は宝治合戦で三浦泰村に味方して滅亡したが、乱に関与しなかった四男経光が遺領の一部を相続し、更に二男時親が安芸吉田庄(広島県安芸高田市吉田町・地図)を相続して毛利姓を継いだ。彼の子孫が戦国大名毛利元就に続き、彼の教えがサンフレッチェ(三本の矢)に受け継がれる。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
10月8日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
卯四点(朝6時過ぎ)に大地震あり。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
10月14日
.
吾妻鏡
.
.
御所を他の場所に移転する意見が従来からあったが実施しないと決まり、その旨が告知された。
これは嘉禎二年(1236)に武州前史禅室(北條泰時)が特に検討した上で現在の幕府を新造してから長い年月が過ぎており、今になって更に良い土地を選ぶ理由はないとの有識者の意見が重視された結果である。
.

.
   ※幕府の移転: 大倉から宇都宮辻子に移転したのが嘉禄元年(1225)、これは建久十年(1999)1月に頼朝
没して以来の幕府を支え続けた政子義時大江廣元が相次いで死没したため、執権を継承した泰時が人心を一新して執権を軸にした合議制を軌道に載せたいとの意向から実施された。
.
本心では「あの三人の重圧」が背後霊みたいに続くのを嫌ったんだと思うけど(笑)。
更に11年後の嘉禎二年(1236)8月には敷地の北半分を重複させる形で北側に拡張移転して若宮大路幕府となり、元弘三年(1333)の鎌倉陥落まで98年間政庁が置かれ続ける。
.
宇都宮辻子から若宮大路に移転した理由は諸説あって明確ではないが、天変地異が続いた事・寛喜年間(1229~1232年)の飢饉・成長した摂家将軍藤原頼経の幕政関与などか重なった結果の移転だった可能性が高い。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
10月18日
.
吾妻鏡
.
.
今日、左親衛の寝殿(私邸部分)を隣接した土地に曳き移した。概ね新築と同様である。
.

.
   ※鎌倉仏教: この時代に二人の偉大な宗教者が関東で胎動を始める。
.
一人は法華宗を開いた日蓮、もう一人は律宗の指導者として貧民救済と土木事業に大きな足跡を残した忍性
.
天福元年(1238)に清澄寺で出家した日蓮は寛元三年(1245)に比叡山、翌年に三井寺、宝治二年(1248)に薬師寺仁和寺高野山を経て建長二年(1250)には天王寺東寺へ遊学、同五年(1253)に清澄寺に戻って法華宗として初の説法を行なった(寺名は公式サイト)。
.
そして建長六年(1254)には鎌倉で政道を糾しつつ他宗を誹謗排斥する辻説法を始める。「真言は亡国、禅は天魔、念仏は無間(地獄)、律は国賊」 と。
.
      右画像は小町大路の日蓮辻説法跡(クリック→拡大)。
           更に詳細は二つの政庁跡と辻説法の跡で。
.

.
延応元年(1239)に西大寺再建の勧進聖として働いた忍性は真言律宗に加わり、叡尊(wiki)の下で受戒した。
そして翌仁治元年(1240)には額安寺(公式サイト)近くの非人宿で貧者救済と布教に身を投じる。
.
以後数年間の非人救済活動の合間に関東に赴いて仏教事情を調査し、建長四年(1252)には本格的な関東布教を目指して常陸に移った。小田知重の庇護を受けて三村寺(三村山極楽寺)を建立し、常陸内陸の水運を利用して布教を続けながら鎌倉進出の機会を待った。
.
正元元年(1259)には北條重時の招きを得て鎌倉極楽寺地域に定住、弘長元年(1261)には執権北條時頼の信頼を得て布教と非人救済活動を本格化、翌・弘長二年には律宗と念仏宗の中心的な存在となる。文永四年(1267)に極楽寺を開山。
.
  右画像は当初の忍性が拠点を置いた常陸国小田の三村山極楽廃寺に残る巨大な五輪塔。
          画像をクリック→極楽廃寺の明細へ(別窓)へ。

.
ただし北條得宗家を主とした支配階級の信仰は基本的に臨済禅だった。
.
頼朝が没した翌・正治二年(1200)に政子栄西を招いて開いたのが金剛壽福禅寺で、北條泰時が栄西の弟子退耕行勇に開かせたのが粟船山常楽寺
.
栄西には実朝を筆頭に幕府要人が帰依していたし、蘭渓道隆(wiki)に帰依して建長寺(公式サイト)を建てた時頼無学祖元に帰依して円覚寺(公式サイト)を建てた八代執権時宗、渡来僧一山一寧(wiki)に帰依した九代執権貞時(wiki)など、為政者(武士階級)が依拠する禅宗と、被支配階級である庶民が帰依する律宗・念仏宗・法華宗に分化されていく。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
10月20日
.
吾妻鏡
.
.
来月の放生会に将軍家が御参宮する。供奉人等について今日沙汰があった。担当は陸奥掃部助北條実時
.

.
   ※北條実時: 7月1日に「小侍所別当として御所中の番帳(勤務割り)を改め人物を厳選した」との記載あり。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
10月21日
.
吾妻鏡
.
.
(曳き家して工事中だった)左親衛北條時頼の私邸が上棟。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
午刻(正午前後)、去る6月の三浦合戦で焼失していた鶴岡八幡宮馬場の流鏑馬厩舎を建て直した。また今日の評定衆の会議で将軍家(五代将軍藤原頼嗣)から仰せがあり、「地頭の管理下にある土地であっても名主(土地の開拓者)から異議が出れば状況により検討するべし」との事だった。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月7日
.
吾妻鏡
.
.
丑刻(深夜2時前後)に失火が原因で金剛寿福寺(現在の金剛壽福禅寺)の仏殿から惣門まで全てが焼失した。
.

.
   ※寿福寺の火災: 10年後の正嘉二年(1258)1月17日にも「甘縄からの延焼で惣門・仏殿・庫裏・方丈など、
寺域には一宇も残らず」との記載がある。:現在の建物などは全て南北朝以後のものらしい。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月11日
.
吾妻鏡
.
.
筑後左衛門次郎八田知定が恩澤に浴した。去る6月5日の合戦で挙げた勲功であり、疑義があって保留になっていたものである。当人の嘆願により再調査した結果、武藤左衛門尉景頼が証人として起請文を提出し「知定は須知替橋(筋替橋)で合戦し、岩崎兵衛尉を討ち取った事に間違いなし」と報告したためこの結果になった。今度の勲功の中では珍事であると評判になった。
.
今日、地頭の管理地に関する名主および百姓の訴訟について規則を定めた。「開拓した領主に過失が認められない場合は道理に依拠して決裁せよ」との内容である。
.

.
   ※八田知定: 恩賞の求めについては9月11日に記載あり。また地頭管理地に関わる訴訟については11月1日
に五代将軍藤原頼嗣から指示が出ている。ただし頼嗣は満8歳、指示の虚実は疑わしい。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月14日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條重時が新造の屋敷に移転した。評定所および訴訟人らの控え室・東の小侍詰所などが今回初めて増築されている。
.

.
   ※重時邸: 7月17日に北條経時の小町上の旧宅(御所北面の若宮大路沿い)を住居とした」との記載がある。
.
   ※評定所: 訴訟全般を扱っていたのは問注所。処理案件の増加に伴い建長元年(1250)に引付衆を新設して
御家人の所領に関する訴訟を扱う部署とし、民事訴訟全般は問注所が扱う形に変更となった。
.
ここに記載のある「評定所」は「評定衆が政務を協議する場所」を意味する。政所の一部署だった問注所がこの時点ではまだ評定所の権能に含まれていた可能性がある。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月15日
.
吾妻鏡
.
.
晴。鶴岡八幡宮の放生会。去る6月5日の三浦泰村追討に伴う触穢および流鏑馬厩舎の焼失によって延期されていた。五代将軍藤原頼嗣が御束帯・御車で出御し卿相雲客(公家・殿上人)も参席、五位以下の供奉人は通例の通り。
.
  先陣の随兵
.
     出雲前司波多野義重    左衛門尉三浦(佐原)五郎盛時
     壱岐次郎左衛門尉    籐内左衛門尉宇佐美祐秀(宇佐美祐茂-祐政-祐秀-祐泰と続く)
     信濃四郎左衛門尉二階堂行忠    左衛門尉和泉次郎景氏
     武藤四郎頼隆    下野七郎経綱(宇都宮泰綱の次男)
     北條六郎時定    越後五郎北條時員
.
  後陣の随兵
.
     前大蔵権少輔結城朝広    城九郎安達泰盛
     長井太郎(長井康秀の嫡子時秀)    上野三郎(足利泰氏の孫で上野義弁の子・時秀)
     佐渡五郎左衛門尉後藤基隆(基綱の子。評定衆基政の弟?)    摂津左衛門尉狩野為佐
     伊豆太郎左衛門尉実保    伊賀加藤左衛門尉
     伊賀次郎左衛門尉光房(伊賀朝光-光資-光房と続く)    江戸七郎太郎重光(系図が錯綜)
     大須賀左衛門尉胤氏(6月6日を参照)    梶原右衛門尉景俊(梶原景茂の子)
.

.
   ※壱岐次郎: 寛元二年(1244)8月16日の放生会流鏑馬九番に「壱岐六郎左衛門尉葛西朝清(葛西三郎清重
の五男で頼朝の偏諱を受けた)の射手として子息左衛門次郎(名は不明)」と載っている。
ちなみに、三郎は清重から続く葛西氏代々の嫡男の名乗り。
.
   ※伊賀加藤: 多分伊勢の間違いで、加藤光資か。吾妻鏡の建保六年 (1218)9月29日に「加藤兵衛尉光資
(光員の息子、後に加藤新左衛門尉と号す)が八王子の神輿を担ぐ男の腕を斬り落とした」云々の記載がある。年齢の適合はギリギリか。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月16日
.
吾妻鏡
.
.
晴。申刻(16時前後)から強い南風あり。
今日、左衛門尉三浦(佐原)五郎盛時が状を献じて訴え出た。多くの中で特に強調したのは次の通り。
.
昨日の随兵序列に関し、盛時の名を出雲前司波多野義重 の下に載せるのは承服できない。
代々当家は他から特に遺恨を受ける理由もないのに片眼の人物と同じ組になった上にその名の下に記録されている。面目を失うため供奉は辞退したい。
.
これを聞いた出雲前司波多野義重は激怒して次のように答えた。
.
家格が違うなど誰も考えていない事だ。片眼なのは承久の兵乱で抜群の軍功を挙げた際に受けた名誉の印である。今さら盛時の嫌がらせを受ける筋合いはない。
.
陸奥掃部助北條実時の奉行として、相模守北條重時と左親衛北條時頼が相談し双方を宥めた。ただし五位である義重を上に書く事に変更はない、と。
.
午刻(正午前後)に将軍家(藤原頼嗣)が出御、馬場の儀などは通例の通り。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月17日
.
吾妻鏡
.
.
出雲前司波多野義重から更に申し出があった。昨日は将軍家出御の支障を招かないため敢えて所存を述べなかったが、盛時の傍若無人な言葉は今後のためにも正しく究明して頂きたい、と。 将軍家からは「これ以上の怒りは鎮めるように」と宥めの言葉があった。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月20日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮の臨時祭あり。九月九日(重陽節)の神事を延引していた分の挙行である。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月23日
.
吾妻鏡
.
.
従五位上・伊豆守藤原朝臣加藤尚景が死没(25歳)。大夫尉加藤景廉の息子である。
.

.
   ※加藤景廉: 承久の乱(1221)の際は鎌倉で留守役を務め、同年8月に死没している。死ぬ直前に仕込んだ
子供だとしても少し計算が...ま、嫡男加藤(遠山)景朝の子を養子にした可能性もあるから深く疑わないでおこう。血脈を保つため死を賭して(笑)子作りに励んだのかも知れないし。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月26日
.
吾妻鏡
.
.
曇。丑一点(深夜1時過ぎ)に大地震。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
11月27日
.
吾妻鏡
.
.
畿内諸国に於ける守護・地頭の所領管理に関する権限が統一されていないとの苦情があり、今日それに対応する決裁を六波羅に通達した。内容は以下の通り。
.
諸国の守護・地頭が勝手な検地を行って規則以上の年貢を徴収し農民を苦しめる事に関し、国司や領家(所有権者)が定めた目録に依拠して業務を行うよう命令を下す。
.
   宝治元年十一月二十七日    左近将監北條時頼   (連署)相模守北條重時
            相模左近大夫将監(北條長時殿
.
併せて、主従が敵対する訴訟については、理非の評価などの関与をしないよう付け加えた。
.

.
   ※北條長時: 連署に就いた父北條重時の後任として六波羅に着任した赤橋流北條氏の祖(7月18日を参照)。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
12月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
相模守北條重時と左親衛北條時頼が会合。遊興・酒宴である。
.

.
   ※重時と時頼: 幕政は基本的に執権と連署の二頭体制、会合を記事にする必要などないのに。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
12月3日
.
吾妻鏡
.
.
左親衛北條時頼による祈祷が始められた。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
12月5日
.
吾妻鏡
.
.
名越流尾張前司北條時章邸近くの人家数十軒が火災で焼失。
.

.
   ※名越流: 祖父の北條時政が現役の執権だった時代に名越邸を譲られた北條朝時(二代執権義時の次男)が
名越流の祖。朝時の息子らは北條嫡流の意識が強く、再三の反得宗行動を起こして討伐を受けた。
.
長男光時は前年閏4月の宮騒動で失脚し、四男時幸は自害を強いられた。時章の関与はなかったが、27年後の二月騒動(時宗vs時輔)では関与を誤解されて殺されることになる。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
12月8日
.
吾妻鏡
.
.
評定衆による会議あり。諸国の地頭と雑掌(国庁に勤務する下級官人)の訴訟についての基本を定めた。
.
地頭の側は、通常の年貢以外の荘官や農民が開墾した私有の農地についても徴税を要すると主張し、雑掌の側は荘園管理者ではなく荘園領主に納付すべきだと主張している。今後は従来行われていた命令に従って比率などを守るよう決裁が下された。
.

.
   ※従来の...:要するに定率などのルールではなくケース・バイ・ケースなのか?
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
12月10日
.
吾妻鏡
.
.
将軍 藤原頼嗣が馬場殿に出御し、遠笠懸を観覧した。相模守北條重時と左親衛北條時頼も参席した。
.
  射手
     陸奥掃部助北條実時 vs 北條六郎時定
     城九郎安達泰盛 vs 佐渡左衛門尉後藤五郎基隆(後藤基綱の次男)
     遠江次郎左衛門尉伊賀光盛(伊賀朝光-五男光重-光範-光盛) vs 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
     下野七郎経綱(宇都宮泰綱の次男) vs 武田五郎三郎政綱(武田信光-嫡子信政-政綱)
     武藤四郎頼隆 vs 小笠原与一長経(長清の嫡子)
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
12月12日
.
吾妻鏡
.
.
評定衆による会議あり。その次いでに諸国の地頭の所領管理についての法を定めた。
.
たとえ押領(法に拠らない占拠)してから20年が経過しても時効とはならない。本地頭(承久以前から任じていた地頭)は先例に従い、新地頭(承久以後の恩賞で任じた地頭)は定められた収入の定率を守るよう命令を下した。また今日、訴訟を提起した者が着座する場所を次の通り定めた。
.
  一.訴訟人の座席について
     侍は客人の座に着す(奉行人に呼ばれた場合以外は後座に来てはならない)
     郎等は広庇(呼ばれた場合以外は南の広庇に来てはならない。~ 以下省略 ~)
     雑人は大庭(呼ばれた場合以外はその位置。~ 以下省略 ~)
.
右、奉行人が審査してから20日が過ぎても被告人が呼び出しに応じない場合は、理非に関係なく原告の主張通りに決裁する。                                   宝治元年十二月十二日
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
12月16日
.
吾妻鏡
.
.
評定衆による会議後に御所で酒宴あり。左親衛北條時頼以下の御家人数名が参席した。去る10日に催した御笠懸の慰労・祝勝の宴である。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
12月29日
.
吾妻鏡
.
.
恩澤の沙汰あり。去る六月の三浦合戦の勲功も含まれている。
.
上野入道日阿結城朝光は鎮西小鳥庄を拝領した。泰村追討の件での過言を咎めるべきとの意見もあったが、廉直な性格から行った無私の言葉である。長年関東の古老として尽くした者に対して言葉を咎めて恩賞から外すのは政道の恥になるとの左親衛北條時頼の考えに拠る。
.
また、京都大番役の勤務表を決め、各々三ヶ月を勤務期間に在京し各所を警固するよう指示した。
.
      一番 大夫判官小山長村        二番 前大蔵少輔遠山(加藤)景朝
      三番 大隅前司嶋津忠時        四番 伯耆前司葛西清親(清重)の嫡子
      五番 中條籐次左衛門尉     六番 隠岐出羽前司二階堂行義
      七番 上野大蔵権少輔結城朝広       八番 千葉介
      九番 完戸壱岐前司家周        十番 左衛門尉足立遠元の裔
十一番 佐渡前司後藤基綱       十二番 大和前司伊東祐時
十三番 隠岐前司佐々木義清     十四番 壱岐前司佐々木泰綱
十五番 三浦介三浦(佐原)盛時           十六番 名越尾張前司北條時章
十七番 秋田城介安達義景          十八番 豊前前司大友能直の裔
十九番 足立左馬頭入道     二十番 和泉前司天野政景の裔
   二十一番 信濃民部大夫入道二階堂行盛  二十二番 下野前司宇都宮泰綱
   二十三番 甲斐前司大江(長井)泰秀
.

.
   ※千葉介: この時点での千葉介は八代当主の頼胤、まだ元服前の8歳なので頼胤を名乗っていない。
頼胤の名が初めて現れるのは建長五年(1253)8月15日の放生会、後陣随兵の二番目になる。
.
建長2年(1250)11月28日には「陸奥国留守所兵衛尉・常陸国完戸壱岐前司・下総国千葉介(頼胤の名は載っていない)に対して賭博禁止の沙汰が下された。」 との記載があり、1250年~1253年の間に元服したらしい。後に元寇に出陣して負傷し、建治元年(1275)8月に死没している。
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦1247年
.
89代後深草天皇
.
寳治元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.


前年・寛元四年(1246)の吾妻鏡へ       翌年・寳治二年(1248)の吾妻鏡へ