寳治二年(1248年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。左親衛北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。献上の役人、前右馬権頭北條政村が御剣を、尾張前司北條時章が御弓箭を秋田城介安達義景が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 北條六郎時定 と 平左衛門次郎(左衛門三郎平盛時の間違いだと思うが...)
   二の御馬は 武藤四郎北條時仲(北條朝直の子) と 工藤六郎左衛門尉祐光(伊東祐時の嫡子)
   三の御馬は 足利三郎利氏 と 同次郎兼氏
   四の御馬は 遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛 と 同六郎兵衛尉時連(佐原盛連の六男)
   五の御馬は 出羽次郎左衛門尉二階堂行有(二階堂行義の次男) と 同三郎二階堂行資(?).

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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※利氏と兼氏: 利氏は後の頼氏でこの時8歳、足利泰氏の三男で五代当主となる(生母が北條時氏の娘)。
三郎は生年順序ではなく、足利氏当主として元服した後に名乗る通称。
兼氏は泰氏の次男で渋河氏の初代当主となり、後に義顕と改名している。
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   ※年令: 五代執権北條時頼は20歳・ 六代執権になる北條長時は18歳・七代執権になる北條政村は43歳・
足利義氏は59歳・ 結城朝光は80歳・ 安達義景は37歳・ 安達泰盛は17歳・ 将軍藤原頼嗣は8歳・
第89代後深草天皇は4歳・先帝の後嵯峨上皇は26歳      (表示は全て満年齢)
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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1月3日
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吾妻鏡
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相模守北條重時の沙汰による椀飯の後に将軍家藤原頼嗣の御行始めの儀(外出初め)があり、左親衛北條時頼邸に入御した。
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  供奉人
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    五位  前右馬権頭北條政村(御沓を持つ)   尾張前司北條時章
備前前司北條時氏   相模右近大夫将監北條時定
宮内少輔足利泰氏   陸奥掃部助北條実時
甲斐前司長井泰秀   秋田城介安達義景
参河前司新田(世良田)頼氏   少輔左近大夫将監大江佐房
出羽前司二階堂行義   下野前司宇都宮泰綱
上野大蔵少輔結城朝広   越中前司宇都宮頼業
大和前司伊東祐時   長門守笠間時朝
筑前前司二階堂行泰   大隅前司嶋津忠時
上野前司畠山泰国   式部大夫矢木胤家
壱岐前司佐々木泰綱   東中務少輔※右下の画像を参考に
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    六位  上野弥四郎左衛門尉結城時光   信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
上野三郎兵衛尉時秀   籐内左衛門尉宇佐美祐泰(祐茂-祐政-祐秀-祐泰と続く)
左衛門尉大曽祢太郎長泰   同次郎右衛門尉盛経(長泰の弟)
筑前四郎右衛門尉二階堂行佐   遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛
左衛門尉武藤景頼   左衛門尉伊東次郎
左衛門尉和泉次郎二階堂行章   弥四郎左衛門尉
小野寺新左衛門尉行通   三村新左衛門尉(小笠原氏支流?)
左衛門尉長三郎朝連   摂津新左衛門尉
備後次郎兵衛尉   兵衛尉土肥次郎
遠江六郎兵衛尉佐原時連(佐原盛連の六男、盛時の次弟)
         和泉五郎左衛門尉天野政泰(天野遠景政景-政泰と続く)
壱岐新左衛門尉後藤基頼(後藤基綱-嫡子基政-基頼と続く)   兵衛尉鎌田次郎行俊
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    その他、帯劔し直垂を着した六位十人
         上野十郎結城朝村   小野澤次郎時仲
左衛門尉佐々木三郎頼重(佐々木重綱の次男)   伯耆兵衛尉
出羽三郎左衛門尉   城次郎安達頼景
千葉次郎泰胤   長江七郎景朝
土屋新三郎(土屋宗遠-宗光(義清の弟)-光時と続く。甲斐に土着した末裔に武田勝頼の忠臣・土屋惣蔵(武田勝頼 終焉の地 天目山(サイト内リンク・別窓)の中段を参照)
渋谷次郎太郎武重(渋谷重国-庶長子高重-武重と続く。所領などは確認できない。)
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    以上御車の左右に候す。
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   ※東胤重: 千葉常胤-次男東胤頼-嫡子重胤-次男胤重(後に胤行
と改名)。承久の乱の恩賞で得た美濃国郡上郡山田庄を長く支配し、栗巣川沿いに構築した「東氏館庭園」が発掘・保存されている(地図)。和歌の素養に秀でて実朝・頼経・頼嗣・宗尊親王の鎌倉将軍四代に仕えている。
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近くにある道の駅古今伝授の里の「古今」が「ここん」じゃなくて「こきん」なのは「古今和歌集を解釈する秘伝書・古今伝授」を引用しているのだね。
思いもかけぬ発見があるのも、旅をする楽しさの一つ。
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          右画像は東氏庭園の一部(クリック→ 拡大)。
          別窓での詳細画像は 道の駅→ 近隣の見所→ ミュージアム周辺の写真で。

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   ※結城時光: 朝光の六男または七男で寒河氏の祖となった武士。祖母の寒河尼が女地頭を務めていた寒川郡
(小山市の南部・地図)を継承したのだろう。6段下の弥四郎左衛門尉と重複か?誤記か?
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   ※上野時秀: 足利泰氏-上野義弁(三河足利氏で上野荘地頭)-時秀と続く。
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   ※大曽祢長泰: 安達盛長-次男時長-安達(大曽祢氏の祖)長泰と続く安達氏庶流、美濃守。
建長元年(1249)~弘長二年(1262)まで引付衆に任じている。
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   ※二階堂行佐: 二階堂行泰の嫡子で文永七年(1270)引付衆、建治三年(1277)死没。
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   ※伊東次郎: 建長二年(1250)1月16日の供奉人リストにある伊東次郎左衛門尉時光と同一人だろうが、この
時光が系図に見当たらない。年代から考えると伊東祐時の息子か。
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   ※二階堂行章: 後に引付頭人に任じる和泉前司二階堂行方の嫡子。五代将軍頼嗣と六代将軍宗尊親王の二人
に仕え、文永七年(1270)には引付衆に任じている。
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   ※小野寺行通: 奥州合戦で出羽に所領を得た小野寺通時の嫡子。出羽に土着したのは庶流か、代官か。
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   ※長朝連: 治承四年(1180)に以仁王を圓城寺に逃がして検非違使と戦い、後に頼朝に仕えて能登国大家荘
を得た元滝口武者・長谷部信連の嫡子。承久の乱にも幕府軍として入洛し、一族は能登の広い範囲に扶植している。
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   ※土肥次郎: 中村荘司宗平-土肥実平土肥実平小早川遠平-惟平と続くのが土肥氏だが建保元年(1213)
の和田合戦で惟平と息子二人は討伐され、関与しなかった遠平のみが辛うじて本領を維持した。
ここに載っている土肥次郎が誰なのかは確認できない。
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   ※鎌田行俊: 伊豆伊東の鎌田城(地図)を築いたのが源義朝の郎党で共に野間で殺された鎌田政家の遺児が
新藤次俊長、その息子が鎌田行俊とする説があるのだが裏付ける史料が存在しない。
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唯一、六代将軍宗尊親王が京都に追放される直前の文永三年(1266)7月3日の吾妻鏡に、
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将軍近臣が執権邸に向かう中で、周防判官忠景・信濃三郎左衛門尉行章・伊東刑部左衛門尉祐頼・鎌田次郎左衛門尉行俊・渋谷左衛門次郎清重らが辛うじて御所にとどまった。
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との記載がある。注意深く周辺を読み解けば何とかなる、かも。
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   ※結城朝村: 長江景朝の八男で弓の名手。前将軍藤原頼経に供奉して上洛した嘉禎四年(1238)5月16日の
吾妻鏡に「見事な弓射の技を見せた」との記載がある。二条家に望まれて御簡衆(近習の一種)となり、鎌倉に戻ってからは歴代将軍の近習を務めた。
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   ※小野澤時仲: 村上源氏の末裔で得宗被官。後に六代将軍宗尊親王御所の小侍所所司を務めている。
本領は信濃国小野澤郷(現在の埴科郡坂城町西部・地図)。
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   ※長江景朝: 鎌倉景政の孫・義景が相模国三浦郡長江村()を継承して長江太郎を名乗ったのが最初。
義景は戦功により奥州や美濃に所領を得ているがその後の消息は不詳、景朝は義景から六代後の庶流と思われる。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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1月7日
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吾妻鏡
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広御出居に於いて、評定衆の老若の着座次第(年令別に、立場の上下による席順)を定めた。
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  老座
     相模守北條重時   相模三郎入道北條資時   摂津前司中原師員  式部入道伊賀光宗
     信濃民部大夫入道二階堂行盛   民部大夫太田(三善)康連   左衛門尉清原清定
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  若座
     左親衛北條時頼   前右馬権頭北條政村   武蔵守北條朝直   尾張前司北條時章
     甲斐前司長井泰秀   秋田城介安達義景   出羽前司二階堂行義   下野前司宇都宮泰綱
     外記大夫三善(矢野)倫重
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以上、(将軍藤原頼嗣の)仰せにより、定めた。但し城介安達義景と出羽前司二階堂行義は一日は交代で上下を入れ替わるように。
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   ※出居: 寝殿造りで居間と客間を兼ねた広間、後の客間を差す。
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   ※将軍の仰せ: 8歳の頼嗣が席順を指示するなど、あり得ない。
どんな時代にも権力者の意向に沿って行動する(あるいは記録を捏造する)腰巾着は存在する。「将軍の仰せ」が時頼の捏造か、吾妻鏡編纂者の勝手な改竄かは不明だけれど。
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例えば、内閣法制局の横畠長官(そう、あの薄汚い顔をした嘘つき男ね)が誰の意思を忖度して「新・安保法制は憲法に違反しない」と主張したのか、それを見抜く程度の知恵が国民には必要、という事。
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しかしこの男は、見た目も性格もゴキブリ並みの官僚だね。
平然と嘘を吐いて国民を誤魔化す男が内閣法制局長官だ。
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要するに自分の嘘が国民全体を危険に晒す可能性があるのに、自分の利益のためなら法律の解釈を恣意的に歪曲しても良い...歴史に残る「最低の法律家」なのだ。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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1月15日
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吾妻鏡
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御弓始めあり。射手は十人、二射を五度づつ射て優劣を競った。各々立烏帽子に水干・葛袴(葛布でやや裾短に仕立てた狩袴)の装束は通例の通りだが、伊東次郎左衛門尉は布衣(準・正装)で、これは椀飯の役目から直接出場したためである。
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     一番   左衛門尉伊東次郎(1月3日を参照)  vs  早河次郎太郎
     二番   小野澤次郎(1月3日を参照)  vs  横溝七郎五郎
     三番   桑原平内  vs  布施三郎
     四番   工藤右近次郎  vs  池田五郎
     五番   武田五郎三郎(政綱)  vs  平井八郎.

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   ※早河次郎: 工藤祐経の嫡男祐時の庶長子祐朝が工藤左衛門早河次郎を名乗った、らしい。
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   名前が載っていない史料って調べる気力が失せるから本当に嫌だ。ただし要点は射手の大部分が得宗被官
らしいということ。数年前の弓始めなら全員が御家人だったのに。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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1月20日
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吾妻鏡
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晴。将軍家藤原頼嗣が御束帯・牛車で鶴岡八幡宮に御参宮。
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供奉人は去る三日の御行始めの際と同じだが、宮内少輔足利泰氏が御剣を持ち小野寺新左衛門尉行通(小野寺通時の甥で出羽小野寺氏の祖)が御弓箭を携え、直垂を着して帯剣した12人が供奉。薩摩九郎と波多野出雲五郎を加えた人数である。先行は大夫判官小山長村が務めた。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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1月22日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼邸で祈祷が開始された。何か思う所があるらしい。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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1月25日
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吾妻鏡
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京都大番役に関し、西国の名主(開発領主)や庄官の中で御家人に準じた勤務を望む者は守護人の招集に応じて従事する形になる。個別に勤務証明を出すか否かを評議した結果、全員への発行ではなく個別に評価して対象を選択するよう六波羅に通達した。
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   ※大番役に参加: 御家人以外でも自発的に参加すれば何らかのメリットがある、という事か。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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2月1日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事が通例通りに開催された。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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2月5日
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吾妻鏡
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永福寺の三堂の修理に関し、去る寛元二年(1244)7月に決定したまま着手せずに過ぎている。左親衛北條時頼は明年が27才の御慎み(満で25才の厄年?)になるため、早く着工すべしとの夢のお告げにより思い立った。
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この寺は右大将家(頼朝)が文治五年(1189)に伊豫守義経を討ち取り、また奥州合戦によって藤原泰衡を征伐した。鎌倉に凱旋して泰衡の所領だった陸奥と出羽両国を知行する勅裁を得た。そして鎌倉幕府の長い繁栄を祈り、朝敵ではなく宿願によって滅ぼした義経や泰衡の怨霊を鎮めるため、その年に造営を始めた寺院である。
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その経緯があって荘厳な堂塔群は泰衡の父祖である清衡基衡秀衡が建立した平泉を模しているが、60年の歳月が建物を老朽化させつつある。明年は義経と泰衡一族が滅亡した年から支干(五巡・60年)である。
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   ※永福寺修理: 三堂は二階堂(本堂)・阿弥陀堂・薬師堂を差す。
四代将軍藤原頼経の更迭、宮騒動、宝治合戦など激動の年が続いて、寺社の補修どころではなく、朽ちるまま放置していたのだろう。 (右画像を参照)
寛元二年7月5日には次の記載がある。
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永福寺並びに両方の脇堂(北側の薬師堂と南側の阿弥陀堂)の修理に取り掛かった。今日が作事の開始となり、肥前前司久良と民部大夫中原元業が儀式の進行役に任じた。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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2月12日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼が催していた祈祷が結願(三七・二十一日)を迎えた。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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2月18日
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吾妻鏡
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問注記(問注所の裁判記録)に関し、相模三郎入道眞昭(北條資時)の報告が遅滞を繰り返しているため特に叱責を受けた。弁解したい、とのこと。
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   ※問注所: この時期の問注所は御家人の所領関連と民事訴訟(雑務
沙汰)の両方を担当しており、訴訟件数増加による処理の遅れが深刻で、必ずしも資時の能力不足だけではない。
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建長元年(1250)12月に引付衆が創立され、御家人の所領関連(所務沙汰)を分離して所管するシステムに改めた。
従って問注所は東国の民事訴訟を扱う部署になったが、鎌倉市内の民事訴訟に限っては政所が担当していたという。
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引付衆の創設については、御家人の不満が嵩じるのを防ぐため多少の権力分散化と公職の拡大を図ったに過ぎない、との見方もある。
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右画像は鎌倉駅に近い今小路に建つ問注所跡の碑。ただしここに問注所があった時期は確認できない。
すぐ近くの佐助川には判決を受けた罪人が刑場に向かう「裁許橋」が架かっているのも面白い。
    画像をクリック→ 問注所と裁許橋などの明細へ(サイト内リンク・別窓)
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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3月3日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で一切経会。将軍家(藤原頼嗣)の御参宮なし。備前守北條時長朝臣が奉幣使(wiki)を務めた。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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3月8日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼は特別の心願があり、御願書を諏訪社に奉納した。
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   ※諏訪社: 今は存在しない鶴岡八幡宮境内末社か。現在の境内にあるのは摂社の若宮・武内社・旗上弁天社・
白旗神社・丸山稲荷社・祖霊社・遠く離れて由比若宮・少し離れて今宮の七末社があるのみ。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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3月11日
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吾妻鏡
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一芸に秀でた者を将軍家(藤原頼嗣)の近習に選ぶよう仰せがあった。特に和漢の書に詳しい者が望ましいとの事。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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3月15
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吾妻鏡
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永福寺で法会あり。左親衛北條時頼が結縁のため臨席、諸人も参集した。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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3月29日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼が佐々目谷の堂で故武州禅門(北條経時)三回忌の法要を催した。導師は般若房律師、千僧による読経供養も行われた。
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   ※佐々目谷: 現在の笹目町北側に延びる谷(地図)。長谷一丁目の鎌倉文学館北側一帯にあった長楽廃寺が
経時の墳墓堂だったとの伝承もあり、長楽寺ヶ谷の地名や鎌倉青年団が建てた碑(地図)も残っている(ただし移転しているらしく、場所の信憑性は乏しい)。経時は寛元四年(1246)閏4月2日に「佐々目山麓に葬送」されており、詳細は当日の吾妻鏡追記に載せた。
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鎌倉国宝館には大船の常楽寺から保管を委託された宝治二年鋳造の梵鐘(工芸部門中段の画像(公式サイト)参照)があり、笹目の廃寺から常楽寺に移った可能性がある。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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4月1日
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吾妻鏡
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三嶋社の御精進始め。幕府に祇候する人数を予め定めた。
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   ※意味不明: これは何だ?精進潔斎を始めるから参加する人数を決めたのか?二所詣なら少し理解できるが。
そもそも二所は箱根権現と走湯権現(伊豆山)だから三嶋社と表現するのは不適当だ。
原文は「三嶋社御精進始也。祗候幕府人数兼被定云々。」
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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4月3日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事なのだが、将軍家(藤原頼嗣)は参宮せず、相模右近大夫将監 北條時定が奉幣使を務めた。
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   ※なのだが: 原文は「然而」(しかれども、しかしながら)、少し非難のニュアンスが感じられるような...。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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4月7日
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吾妻鏡
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今夜盗人が幕府(御所を差すか)に侵入し、御厨子(仏壇状の仏具)などの重宝を盗み出した。この事件により保(行政の最小単位、町内会)の検断奉行(管理責任者)の怠慢を罪に問うべきとの沙汰があった。
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   ※御所の盗難: 行政単位の問題ではなく、明らかに幕府の警備責任者の怠慢だ。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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4月20日
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吾妻鏡
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三嶋の奉納授受に備えるため由比ヶ浜で百番の小笠懸を行った。これ将軍家藤原頼嗣の希望に拠る。
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  射手は十騎
     北條六郎時定 vs 尾張次郎北條公時
     武蔵四郎時仲(北條朝直の子) vs 足利三郎利氏(頼氏)
     城次郎安達頼景 vs 同、九郎安達泰盛
     上野十郎結城朝村(1月3日の下部を参照) vs 土肥四郎実綱(実平)五代目の子孫で本領は越中。
     三浦介(佐原)盛時 vs 小笠原三郎時直(小笠原(伴野)時長の嫡子)
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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4月29日
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吾妻鏡
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鎌倉中の商人について(上限の)定数を決める検討を行なった。外記大夫三善(矢野)倫重の奉行による。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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4月30日
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吾妻鏡
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常陸国で悪党の蜂起が散発しているとの訴えがあり、厳しく対応するよう宍戸壱岐前司に指示を下した。
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   ※宍戸氏: 頼朝が佐竹氏の勢力を削ぐため常陸守護に任命したのが八田知家、その四男家政が宍戸荘(現在
の笠間市中央部一帯・地図)を継いで宍戸を名乗り、嫡子の家周が継承して常陸守護に任じた。
ここに載る宍戸壱岐前司は家周だろう。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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5月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮別当法印(隆弁)は左親衛北條時頼の祈祷のため先月8日に諏訪大社に向かい、今夕鎌倉に戻った。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事は通例の通り。武蔵守北條朝直朝臣が奉幣使として参宮した。
今日、幕府で和歌御会があり左親衛北條時頼が参席した。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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5月15日
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吾妻鏡
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今日の評定で様々な指示が提起された。盗人の罪科の軽重については、微罪と判断して被害の倍額を弁済した後に再び同様の罪科を犯した場合は、重罪と同じく一身の咎に問うべきで、雑務奉行人(民事訴訟の処理事務官)はこれを認識する必要がある。この件は明石左近将監兼綱(五番奉行人)が担当する。
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次に主従が争う訴訟の場合、今後は主人の勝訴とし道理の有無に関与する必要なし、と。
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   ※一身の咎: 流刑または拘禁刑(場合により死罪)を差す。基本的には御成敗式目(貞永式目)を適用している。
主従の争いについても実際にはケース・バイ・ケースの裁決が行われていたらしい。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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5月16日
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吾妻鏡
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兄弟が争う訴訟の際に父母を証人に立てる事について、和泉前司天野政景の子息が兄弟で争った際には母親を証人に立てていたが、今後は同様の例を認めないと定めた。
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   ※天野政景: 治承四年(1180)の頼朝挙兵以来転戦していた父親の天野遠景は恩賞で得た所領の大部分を
失ない、承元元年(1207)または翌年に没した頃には困窮していた。
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 右画像は狩野川右岸の丘に残る遠景兄弟の廟所。
      画像をクリック→廟所の明細へ(別窓)

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嫡子の政景は元久二年(1205)の北條時政の失脚前後から着実に功績を積み上げ、承久の乱(1221)での軍功を加えて長門国守護→和泉守、更に遠江国山香荘(浜松市天竜区)・武蔵国船木田荘由比郷(八王子・日野市)・安芸国志芳荘(東広島市)などを与えられている。
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政景の死没は仁治三年(1242)前後と推定されるから、相続の紛争はそれ以後の発生だろう。
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寛正三年(1245)11月には長男の光景が肥後守に補任されているが、それ以後に惣領として名前が出るのは次男の景氏で、光景が早世して景氏が後継になったと推定される。
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家康に仕えて駿河興国寺藩主となった子孫の天野康景の家臣が所領で盗みを働いた天領の領民を斬り殺す事件が発生、康景は家臣の引渡しを拒否し続けた末に城と領地を放棄して家臣を守り通した逸話は広く知られている。興国寺城 (地図)は伊勢新九郎(後の北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼして関東を制覇した出発点だ。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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5月18日
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吾妻鏡
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秋田城介入道(高野入道、法名覚地、安達景盛)が高野山で没した。
従五位下行出羽権介藤原朝臣(大蓮房と号す)、籐九郎盛長の息子で生母は丹後内侍
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建永二年(1207)に右衛門尉、建保六年(1218)3月6日に出羽権介に任じて秋田城介(名誉職)の宣下を受け同じく4月9日に五位下に叙された。同七年1月27日に出家。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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5月20日
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吾妻鏡
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雑務に関して雑人(身分の低い者)が訴状を提出し、再三の命令にも拘わらず論人(被告人)が三回出頭しない場合、国衙の下級職員を介して次に違背すれば厳しく処分すると警告し、更に勝手な陳述書を提出したり期日を守らなかったら原告の訴状通りに裁決を下す。
また謀反人の借入金返済は一族や従者には負担を求めず、農民の負債に関しては弁済を促す程度の裁決にとどめる。同様の趣旨を六波羅にも通達した。
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   ※雑務沙汰: 農地の売買や債権債務・相続などに関する訴訟。鎌倉時代初期の裁判は身分により管轄部署を
分けていたが、中期以後には訴訟内容によって区分し、雑務沙汰は問注所・検断沙汰(刑事訴訟)は侍所・所務沙汰(不動産訴訟)は引付方が担当していた。
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また鎌倉市中の民間紛争は政所が管轄していた。訴訟の手続きはまず訴人(原告)が訴状を提出して論人(被告)が陳状で反論、問注所執事と奉行人が連署して下知状(判決書)を発行する。
六波羅では全てを引付方が担当、鎮西諸国では守護人が担当していた。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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5月28日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼の側室(幕府の女房)が男子を平産した。今日、宝寿の字を与えた。
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   ※宝寿: 時頼の庶長子で後の北條時輔。3年後には正妻(重時の娘)が嫡男の正寿(後の時宗)を産む。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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6月1日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼が訶利帝(鬼子母神・wiki)と十五童子の像を宝寿の産所に安置させた。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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6月5日
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吾妻鏡
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人勾引(人さらい)について定めた。兄弟の場合は該当せず、人勾引は他人のみ。罪科は盗人に準じる。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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6月9日
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吾妻鏡
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相模河の水が血の如く赤く染まり、人々はこれを怪しんだ。試みに白布を浸すと染まった色は紅梅と同じだった。
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   ※相模河: 鎌倉時代の河口部分は全体が湿地帯で、流路は幾筋にも
分かれていた。その中の主流が頼朝の落馬事故現場の可能性があると推測されている。
現在の小出川堤防(地図)近くの相模川橋脚遺跡。現在の相模川本流から約1.5km東に位置している。
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余談だが治承四年(1180)10月20日に勃発した富士川合戦の旧跡伝説が残る平家越えも富士川本流から約7km東で、鎌倉時代以後の関東・東海の太平洋側に地層の変化があったのか、なんて想像してしまう。妄想は無料だ(笑)。
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      右画像は埋め戻す前の橋脚画像。
          画像をクリック→ 橋脚遺跡の詳細(別窓)へ。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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6月10日
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吾妻鏡
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諏方入道蓮佛(諏訪盛重)が誕生した左親衛北條時頼の若君(後の北條時輔)の乳母夫となった。先日来の辞退を経ての任命である。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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6月11日
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吾妻鏡
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相模河の流れは今も赤く、紅のような状態である。これは既に幕府首脳部の耳に届いており、その指示によって祈祷を行っている。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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6月15日
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吾妻鏡
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酉刻(18時前後)に常陸国関郡仁木奈利郷に白雪が降り、間もなく止んだ。
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   ※仁木奈利郷: 現在の下館駅(筑西市)南側に二木成の地名(地図)が残る。
関荘は元々は八条院領、治承五年(1181)閏2月20日の吾妻鏡に記載がある「小山朝政の従兄弟・政平」の一族が荘官として関郡を支配していたらしい。
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下館市は2005年に関城町・明野町・協和町と合併して「筑波山の西」、筑西市になった。
ちなみに下館は藤原秀郷平将門を追討する拠点として上館・中館・下館を設けたのが語源、将門が疾駆したエリアだ。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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6月16日
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吾妻鏡
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赤く染まっていた相模河の水色が漸く薄れてきた。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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6月18日
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吾妻鏡
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寅刻(早朝4時前後)※: に濫橋(乱橋)から一町(100m強)南で降雪があり、霜が降りたようになった。
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   ※乱橋: 材木座三丁目(地図)に鎌倉青年団の碑とドブ川の残骸が残る
「鎌倉十橋」の一つ。元弘三年(1333)5月の鎌倉陥落の際に新田義貞軍の攻撃を受けた北條側が陣形を乱したことから名付けたとの話もあるが、その80年も前に使っていた濫(みだりに、みだれ)を乱に読み替えたのが事実だろう。ただし、この橋がなぜ「濫橋」だったのかは判らない。
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そもそも十橋だとか十井なんて貞享二年(1685)に水戸光圀(黄門)が編纂した「新編鎌倉志」が民間伝承などが残っているスポットを勝手に寄せ集めたもので、鎌倉が武士の都だった時代とは全く無関係。 右画像は道路東側の乱橋残骸。
画像をクリック→ 拡大表示、西側には鎌倉青年団の石碑が建つ。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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6月21日
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吾妻鏡
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佐々木次郎兵衛の尉實秀法師(法名寂然)が恩賞を望む申請書を提出した。祖父の三郎兵衛尉盛綱入道の兄弟四人が協力して右大将家(頼朝)の挙兵から幾多の勲功を挙げ多くの恩賞を得たが、亡父太郎信実の時代に訴訟に敗れたり没収されたりして生活の糧を失ってしまったと訴え、数枚の紙に代々挙げた勲功を載せている。
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   ※佐々木実秀: 佐々木秀義信綱と続き、嫡子信実は越後加地荘を継承している。また承久の乱の勲功により
備前国守護に補任している。実秀の兄弟も近江国甲賀郡に所領を得ているから一族が特に冷遇を受けた様子は見られず、零落にはそれなりの根拠がありそうだ。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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7月3日
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吾妻鏡
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来月15日の鶴岡八幡宮放生会には将軍家(藤原頼嗣)も臨席されるため供奉人の数と名簿を整え、御前に於いて随兵などの明細を決定した。
相模守北條重時と左親衛北條時頼の指示を受けて陸奥掃部助北條実時がこの件を奉行した。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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7月7日
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吾妻鏡
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官職についての協議があり、多くの御家人が推挙を認められた。近江四郎左衛門尉佐々木氏信は廷尉(検非違使)に推挙された。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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7月3日
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吾妻鏡
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来月15日の鶴岡八幡宮放生会には将軍家(藤原頼嗣)も臨席されるため供奉人の数と名簿を整え、御前に於いて随兵などの明細を決定した。
相模守北條重時と左親衛北條時頼の指示を受けて陸奥掃部助北條実時がこの件を奉行した。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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7月7日
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吾妻鏡
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官職についての協議があり、多くの御家人が推挙を認められた。近江四郎左衛門尉佐々木氏信は廷尉(検非違使)に推挙された。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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7月9日
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吾妻鏡
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諏方兵衛入道蓮佛(諏訪盛重)が宝寿公(後の北條時輔)の世話係となった。再三の辞退を経た任命である。
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   ※世話係: 陪臣の諏訪盛重としては、時頼の性格などから側室の子が将来排除される可能性を推測して巻き
込まれる危険を警戒したのだろう。24年後、時輔は謀反を企てた冤罪により異母弟の時宗に追討されてしまう。元寇に備える国論と指揮権の統一を図ったなどの説はあるが、冷酷な排除を繰り返すのは時政以来の悪しき伝統、盛重の危惧は理解できる。
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吾妻鏡では「建長四年(1253)11月に泰時追善の堂を山内に建てた」との記載が最後になる。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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7月10日
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吾妻鏡
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教経らの上申により、雑務沙汰に関して幾つかの決定があった。
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父祖が所領を担保にして借金し弁済せずに死没した場合、所領を相続した後家と子息が債務も継承する。
他の子息らが土地の範囲を指定して担保にした場合は、その管理者が債務を継承する。
次に亡妻の養子については、夫が認めた者以外は養子として認めない。
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次に亡妻の遺産は子供が相続して夫は関与せず、子供がいない場合は亡妻の実家に返却する。
また盗人の罪科の軽重については先日(5月15日に記載あり)定めた通りに、少額ならば倍額を弁済し再度の犯罪を行えば重罪として一身の咎(同じく5月15日に記載)とする。奉行人はこの内容の理解が必要である。
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   ※雑務: 農地の売買や債権債務・相続などに関する訴訟。5月20日の記述も参考に。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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8月1日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼が甲斐前司長井泰秀邸に渡御した。下野前司泰宇都宮泰綱・出羽前司二階堂行義らが集まって囲碁の勝負を催した。
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   ※囲碁の勝負: 執権時頼以外の三人は評定衆、当然何かの密談だろうと勘繰りたくなるが...。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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 月 日
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史 料
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7月~8月に比叡山と南都延暦寺の間で紛争あり。8月中旬に六波羅から武士数百騎が南都に入って制止させた。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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8月10日
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吾妻鏡
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備前国(岡山県東部)の住人服部左衛門六郎が鎌倉の御所での勤務を望んでいる事について、まず小侍所で忠義に関する前歴を確認したところ、「伊豫大夫判官義経が平氏追討使として西海(近畿以西)で転戦していた頃に義経から参加せよとの書状が届き、更に戦歴に感動して再三の賀章(謝辞)を与えてくれた。」と答えた。
その書状を確認した後に評定衆による検討があり、次の結論に達した。
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承久元年(1219)以来、医師と陰陽師を含めた者たちが京都から鎌倉に下って働き場所を求めてくる。父祖の例の有無に拘わらず御家人としての奉公を許すのは掲焉の輩(素性の明らかな者)に限るべきで、遠国の住人が非公式に義経が発行した書状だけを根拠にして御家人に列したいと望んでも許可はできない、と。
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   ※貧困の時代: 訴訟の増加に対応して組織の整備が必要...貨幣経済の浸透と相続による所領の細分化など
で零細御家人や土豪の苦境が深刻化する時代を迎える。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で放生会、将軍家(藤原頼嗣)の参宮あり。武蔵守北條朝直朝臣が御剣を持ち、伊豆太郎左衛門尉實保が御弓箭を携えた。
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  先陣の随兵は10人
     北條六郎時定    武蔵太郎朝房(北條朝直の長男)
     遠江新左衛門尉経光    式部六郎左衛門尉朝長
     伯耆四郎左衛門尉光清    土肥四郎實綱
     小笠原余一長経    出羽三郎行資
     越後五郎時員    三浦介三浦(佐原)盛時
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  後陣の随兵11人
     相模三郎太郎時成   千葉次郎泰胤
     上野三郎国氏    里見伊賀弥太郎義継
     薩摩七郎左衛門尉祐能    常陸次郎兵衛尉行雄
     肥後次郎左衛門尉景氏    豊前左衛門尉忠綱
     隠岐次郎左衛門尉泰清    加地太郎實綱
     江戸七郎重保
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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8月25日
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史 料
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臨時の勧賞があり、鎌倉将軍藤原頼嗣が正四位下に叙された。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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9月7日
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吾妻鏡
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黄蝶が現れた。由比ヶ浜から鶴岡八幡宮寺および右大将軍家(頼朝)の法華堂まで群れをなして飛んだ。
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   ※黄蝶の群れ: 東国では兵乱の兆しとされる。前年3月にも黄蝶の群舞があって三浦合戦となり、鎌倉の古老は
「天慶の乱(将門)や前九年合戦(安倍貞任)の際も同じ現象があった」と語った。今回は何だ?
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ちなみに、昭和初期にも東京や大阪で黄蝶の群舞があり、「目や口も開けない状態だった」との記録がある。太平洋戦争が近づいた時期だから「兵乱の兆し」と言えない事もないが...。
この時の蝶はイチモンジセセリ(wiki)、大群での飛翔は特に奇異な現象ではないらしい。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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9月9日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事(重陽節)は通例の通り。尾張前司北條時章朝臣が束帯を着して奉幣使を務めた。
今日、難波少将宗教朝臣が大鞠を二個(一つは燻した色、一つは白)とに韈(蹴鞠用の沓)一足(松枝に結び長櫃に納めてある)を左親衛北條時頼に献じた。最近の時頼が蹴鞠を楽しんでいるためだ。
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   ※難波宗教: 侍従→ 刑部卿を歴任して建長五年(1253)に従三位、その後従二位に昇った。
北條時頼に蹴鞠を指導し、鎌倉でも何度か蹴鞠の会を催している。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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9月19日
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吾妻鏡
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未申両時(14時から16時前後)に黄蝶が群れをなして飛んだ。三浦三崎の方角から名越の付近まで、群れの巾は三段(300m)ほどだった。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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9月20日
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吾妻鏡
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東中務入道素暹が(訴訟での)質問状提出を求める御教書(命令書)執筆を担当するよう、伊勢前司二階堂行綱と大曽祢左衛門尉長泰を介して指示を受け、了承した。千葉介常胤の子孫の中では初の右筆となった。
北條時頼は)文武兼備の人物は特に貴重であると頻りに賞賛した。
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   ※東素暹: 胤重(後に胤行と改名)した千葉氏の系。更に詳細は1月3日(館跡の画像付き)を参照。
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   ※大曽祢長泰: 安達盛長-次男時長-安達長泰(大曽祢氏の祖)と続く安達氏庶流、美濃守。
建長元年(1249)~弘長二年(1262)まで引付衆に任じている。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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9月22日
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吾妻鏡
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城九郎安達泰盛(建長五年(1253)から引付衆)・山城前司中原盛時(中原季時の子?、建長五年(1253)から引付奉行人)・民部丞行幹らに番帳並び勤務表および書状の清書を命じ、各々が了承した。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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9月26日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮寺別当法印 隆弁の雪ノ下本坊で蹴鞠の会あり。上鞠は熊王(山柄の子)。
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   ※上鞠: 一往復蹴って慣らした後に軒(リーダー)が高く蹴って(上鞠・キックオフ)ゲームが始まる。
熊王は蹴鞠の会に数回名前が見られるので名手(名足、ね)なのかも。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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9月29日
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吾妻鏡
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御所に於いて詩歌の御会あり。詠む題は「九月(秋)が過ぎるのを惜しむ」である。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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10月6日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼嗣)が女房用の輿を用いて突然鶴岡別当法印隆弁の雪ノ下坊に入御した。
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左衛門尉武藤景頼が剣を持ち、相模右近大夫将監北條時定・武蔵守北條朝直・尾張前司北條時章・少輔左近大夫大江佐房・上野大蔵権少輔結城朝広ら十余人が供に従った。
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続いて難波少将(9月9日参照)らも加わって蹴鞠の会を催し、夕暮れの時刻に松明を掲げて御所に還御した。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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10月21日
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吾妻鏡
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永福寺の修理について様々な検討を加えた。担当奉行は左衛門尉清原清定
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   ※永福寺の修理: 2月5日に工事の開始命令が発せられている。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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10月24日
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吾妻鏡
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従五位下行の大炊助藤原朝臣親秀法師(法名寂秀)が没した。54才、豊前前司大友(古庄)能直の息子である。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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10月25日
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吾妻鏡
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豊後左衛門尉嶋津忠綱が高麗の山鳥二羽を将軍家(藤原頼嗣)に献じた。羽の色は雪のように白く、我が国には見られない姿である。将軍家の愛玩が特に著しい。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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10月27日
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吾妻鏡
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山城国(京都府南部)で悪徒が出没しているとの報告が六波羅から届き、その対応を協議した。
鎮圧するため、荘園領主の管理下にあって地頭を置いていない所有地にも新たに地頭を補任するべきかとの意見もあり、まず朝廷に決裁を求めた上で検討する、とした。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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11月13日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼が難波少将羽林(難波宗教、9月9日を参照)を招いて対面し、蹴鞠の門弟になる約諾を得た。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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11月14日
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史 料
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   ※葉黄記: 院に参内。関東(鎌倉)から馬と金の献上が届いた。 .
西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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11月15日
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吾妻鏡
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陸奥国の留守所から報告。去る9月10日に津軽の海辺に人のように見える大魚の死骸が打ち上げられた。
昔から数えて三度目の出来事で、過去は全て吉事ではなかった事から留守所では斟酌して報告を躊躇していたが、鎌倉から風聞についての問い合わせを受けたためこの報告に至ったものである。
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   ※大魚の死骸: 宝治元年(1221)5月の吾妻鏡に以下の記載がある。
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三浦泰村一族が滅亡した直後、泰村の同族ながら北條時頼に味方した三浦(佐原)盛時
「去る11日に陸奥国津軽の海辺に死人のような姿の大魚が流れ着きました。」と報告した。
これを古老に尋ねると悪い先例がある、と語った。大事件の予兆である、と。
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文治五年(1189)の夏に同じような事例があり、同年秋に藤原泰衡を殺した。
建仁三年(1203)の夏にも再び流れ着き、同年の秋には左金吾(将軍頼家)の事件が起きた。
建保元年(1213)の4月に出現した翌月には和田義盛の兵乱があった。
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ただし、この変異の記録は三件とも吾妻鏡および他の資料に記録が見られず、吾妻鏡の編纂者が意図的に書き加えて泰衡・頼家・義盛は「不当な存在である」と印象づけるため加筆した可能性が高い。
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そもそも主家である源氏を滅ぼして権力を簒奪した北條氏に支配者としての正当性は存在せず、北條被官となった吾妻鏡編纂者は主人の悪行を隠蔽するのが「捏造」だなんて考えもしなかったのだろう。
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執権時頼が引退後も最高権力者として幕政に関与したのは、天皇家と同様の「院政」を鎌倉に定着させ北條得宗家の貴種性・正当性を高めたかった、と考える説もある。面白いね。
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   ※留守所: 奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は支配権を得た陸奥国に守護職を鎌倉に戻る直前の文治五年(1189)
9月に 葛西清重伊沢家景を陸奥国留守職に任命して民政と財政の運営権を与えた。
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多賀城に入った家景は恩賞を得て陸奥に土着した御家人と国衙の在庁官人の双方を支配下に置き、権限を世襲した二代家元・三代家広は留守氏を称して繁栄したがその後は零落している。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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11月16日
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吾妻鏡
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難波少将(香の狩衣を着す)が左親衛北條時頼の求めに応じて一巻の書(蹴鞠の秘伝書)を届け、時頼(浅黄色の直垂を着す)と面会してそれを開示した。
半巻も読まないうちに時頼は座を起って自ら金造りの剣(長伏輪(コトバンク)、錦の袋に納めてある)を贈った。
難波少将は跪いて受け取り、一礼して退くと供の青侍に太刀を与えた(公卿の難波宗教に太刀は不要)。
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   ※香の...: 丁子(植物名)など香りの高い植物の煮汁(淡い黄褐色)で染めた衣類。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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11月18日
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吾妻鏡
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山城国に出没する悪党を退治する件について朝廷の意向確認を六波羅に命じるべきか、諸国の苦しみを鎮める方法について更に評議を続けている。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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11月23日
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吾妻鏡
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問注所の奉行人が雑務(7月10日を参照)の稽古を称して酒宴や放遊に費やし、訴人(原告)と面会もせず証文の理非も確認していない。その状態で評定の座に出るから質問にも答えられず訴訟事務が停滞する原因になる。
そのような奉行人を使ってはならない旨を(部署の統括者である)民部大夫三善(太田)康連と信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛に指示した。
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   ※稽古: 古(いにしえ)を稽ぶ(まなぶ)、この条では判例を調べたりする努力を意味する。
太田康連は寛元四年(1246)~建長八年(1256)まで問注所執事で、二階堂行盛は上部組織である政所の執事を世襲している。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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11月29日
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吾妻鏡
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去年の勲功(宝治(三浦)合戦)によって所領を与えられた新補地頭に命じ、本所(荘園領主)・国司・領家・本所に納める年貢は早急に処理を終えるよう手配すること、臨時の賦役などを農民に負荷させないこと、先例を守って新しい無法を強制しないこと、などを定めた。
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   ※領家と本所: 開拓領主などが所有権を保護して貰うため名目的に領地を寄進した有力者や社寺が本所、寄進
した側の荘園領主が領家、幕府から管理権や徴税権を付与され、様々な中間差益を得ていたのが地頭。時代によって権限が微妙に交錯し、更に荘園管理を請け負う「地頭請」などのシステムも現れるから、実に面倒くさい。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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12月5日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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御願によって大神宮(伊勢神宮)に御神楽の経費として米を献納した。
左衛門尉清原満定がこれを奉行した。
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   ※御願: 主語の記載がないから将軍頼嗣か執権時頼か判らない。
満9才の頼嗣には無理だろうし、独裁色を増しつつあった時頼の差配だろうとは思うけど。
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右画像は伊勢内宮に参拝した際に偶然遭遇した神楽のステージ。
なかなか壮麗だったが...既に9年近い歳月が過ぎてしまった。
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画像をクリック→ 拡大表示。更に詳細は伊勢神宮 訪問記(別窓)で。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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12月10日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼嗣)の御方違えがあり、甲斐前司長井泰秀邸に入御した。御直垂・立烏帽子、騎馬である。
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  先頭に騎馬の将軍家
     左衛門尉長谷部三郎朝連    小野澤次郎時仲
     武藤次郎頼泰    本間次郎兵衛尉信忠
     摂津新左衛門尉(各々歩行、御馬の左右に従う)
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  御劔役人    左衛門尉武藤景頼
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  次に後続の供奉人(騎馬)
     尾張前司北條時章    相模右近大夫将監北條時定
     薩摩前司安積祐長    伊勢前司二階堂行綱
     城九郎安達泰盛    右衛門尉梶原景俊(景茂の嫡子)
     左衛門尉武藤景頼    阿曽沼次郎光綱
     弥次郎左衛門尉親盛    大須賀次郎左衛門尉胤氏
     土屋新三郎光時    摂津左衛門尉
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  歩行
     大曽祢次郎左衛門尉盛経    佐渡五郎左衛門尉基隆
     式部八郎兵衛尉    伊豆太郎左衛門尉實保
     出羽三郎行資    武藤四郎
     伊勢加藤左衛門尉    小野澤次郎
     薩摩七郎祐能    小河左衛門四郎
     本間山城次郎兵衛尉    濱名左衛門三郎
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   ※阿曽沼光綱: 藤姓足利氏。野木宮合戦(サイト内リンク・別窓)では
小山朝政らと共に源氏に味方して平家側の藤姓足利氏嫡流足利忠綱らを敗走させた阿曽沼広綱の甥。
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男子がいなかった光綱の養子として下野国安蘇郡阿曽沼(現在の佐野市浅沼町・地図)を継承した。
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蛇足...浅沼町から2kmほど北東にある犬伏薬師堂(地図)が「真田丸」で脚光を浴びた「犬伏(いぬぶし)の別れ」の場所(右画像、クリック→ 拡大)
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長男信幸は徳川家康に、父の昌幸と次男信繁は豊臣方に味方する事を密談で定めた、と伝わっている。
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妻の実家が佐野なので何度も通った場所だが、真田丸で話題になるまで全く知らなかった。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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12月11日
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吾妻鏡
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午刻(12時前後)に将軍家が(御方違えから)御所に還御した甲斐前司長井泰秀が御馬などの御引出物を献じた。 担当は源内十郎と平右近太郎。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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12月12日
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吾妻鏡
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諸国の地頭が任じる所領管理について追加の指示が発せられた。
国司や領家の検注帳(土地台帳)に従って元々の地頭(本補)は先例の通りに、新補地頭は定められた率法に従って徴収し、強引な行為に及んではならないとの命令である。
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   ※率法: 新補地頭(承久の乱で上皇方の貴族から没収した土地に配置した地頭)の取分は、11町当たり1町の
免税田+反当たり5升の加徴(兵糧)米+山川から得た収益の半分。
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これは平均すると承久の乱以前から任じていた地頭の取分より多いため、新補率法によって得分を増やそうとする本補地頭が増えた。特に本補と新補を兼ねていた地頭が新補率法に一本化する例(両用兼帯)も増え、鎌倉時代末期には幕府の禁止にも関わらず一般化してしまう。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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12月20日
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吾妻鏡
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社寺が所有する領地について、地頭による新規の方式は禁止し厳密に先例を守るよう命令する。また伊勢神宮など主な神社の雑掌解(下級職員の提出書類)は停滞させず直ぐに処理するよう評定衆から決裁が下った。
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今日、民部大夫太田(三善)康連・伊勢前司二階堂行綱・外記大夫三善(矢野)倫重・信濃民部大夫入道二階堂行泰・左衛門尉清原満定がその旨の指示を受けている。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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12月24日
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吾妻鏡
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左親衛北條時頼邸で真読(省略せず全てを読む)の大般若経供養が始められた。怪異(大魚の死骸、黄蝶など)について神仏の許しを願うのが目的である。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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宝治二年
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12月25日
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史 料
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   ※百錬抄: 仙洞(後嵯峨上皇の御所)で宗尊親王の御書始めがあった。  (百錬抄の詳細はwikiで。).

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   ※宗尊親王: 四年後の建長四年(1252)3月に五代将軍藤原頼嗣が解任され京都追放となり、翌月には11歳
の宗尊親王が鎌倉に下って異母弟の後深草天皇から征夷大将軍の宣下を受ける。
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西暦1248年
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89代後深草天皇
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1248年
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