寳治三年・建長元年(1249年)

.
前・寳治二年(1248年)の吾妻鏡へ       翌・建長二年(1250年)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示するには 吾妻鏡を読む のトップ頁 で。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。
.
指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。

西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
宝治三年
.
1月1日
.
吾妻鏡
.
.
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみを列挙する。
.
   ※年令: 五代執権北條時頼は21歳・ 六代執権になる北條長時は19歳・七代執権になる北條政村は44歳・
足利義氏は60歳・ 結城朝光は81歳・ 安達義景は38歳・ 安達泰盛は18歳・ 将軍藤原頼嗣は9歳・
第89代後深草天皇は5歳・先帝の後嵯峨上皇は27歳      (表示は全て満年齢)
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
宝治三年
.
1月23日
.
北條九代記
.
.
五代将軍藤原頼嗣が正四位下に叙された。
.

.
   ※頼嗣の官位官職: 前年の8月25日に従四位上に昇叙している。右近衛少将・美濃権介は従来と変わらず。
6月14日に左近衛中将に転任(昇任)する。 (北條九代記の詳細は外部(wiki)で)
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
宝治三年
.
2月1日
.
複数史料
.
.
子刻(深夜12時前後)に閑院(公卿の私邸を代用した院の御所)が焼失。富小路殿(西園寺実氏邸)を里内裏とした。
.

.
富小路殿は正嘉三年(1259)に再び焼け落ちて再建され、後深草天皇の御所になった。現在の御所南小学校第二運動場の南側に内裏址の碑が建っている(画像のすぐ左側・地図)。
.
ここにあった京都府中京庁舎は老朽化のため解体撤去され、工事に伴って一時的に避難した標柱は運動場の完成に伴って現在地に設置された(新しくなったようにも見える)。元の標柱は現在地の50mほど離れた運動場の北側隅で、富小路通と柳馬場通に挟まれた一画が内裏址なのだろう。
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
宝治三年
.
3月18日
.
複数史料
.
.
宝治を改めて建長とした(出典は後漢書)。天変と火災が重なったことによる。
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
建長元年
.
3月23日
.
複数史料
.
.
京都で大火。「三條から南・八條から北・西洞院から東・京極から西」と記録されているから被害は甚大だった。
火の粉が飛んで蓮華王院一帯を焼き、三十三間堂の千体仏像も200体しか救えなかった。
公卿の屋敷だけでも10余軒、貴族の家を含めると被害は数え切れない。  被災範囲の概略地図はこちらで。
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
宝治三年
.
3月27日
.
史 料
.
.
後嵯峨院の大宮女院(太政大臣西園寺実氏の女)が皇子(後の亀山天皇)を平産した。
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
建長元年
.
4月4日
.
百錬抄
.
.
鎌倉の飛脚が到着、閑院殿(里内裏)の建造を担当する、と。
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
建長元年
.
6月 
.
北條九代記
.
.
6月4日に北條重時が陸奥守、6月14日に北條時頼が相模守、6月16日に藤原頼嗣が左近中将に任じた。
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
建長元年
.
12月13日
.
北條九代記
.
.
引付頭人の制度が始まった。北條政村が一番頭人、北條時直が二番頭人、眞昭(北條資時)が三番頭人を務める。
.

.
   ※引付頭人: 引付衆は評定衆を補佐して訴訟処理の迅速化を図るのが職務、頭人はその統括者で評定衆一名
が兼務した。人数は徐々に増強され、当初は有力御家人も多かった引付衆と奉行人も時と共に北條一門が大多数を占めるようになっていく。
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
宝治三年
.
11月23日
.
北條九代記
.
.
永福寺で供養の法事あり。導師は若宮別当隆弁法印
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
宝治三年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
宝治三年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦1249年
.
89代後深草天皇
.
宝治三年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.


前年・宝治二年(1248)の吾妻鏡へ       翌年・建長二年(1250)の吾妻鏡へ