建長二年(1250年)

.
前・建長元年(1249年)の吾妻鏡へ       翌・建長三年(1251年)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示するには 吾妻鏡を読む のトップ頁 で。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。
.
指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。

西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
1月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴、風が静まった。相模守北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。献上の役人、前右馬権頭北條政村が御剣を、秋田城介安達義景が御弓箭を、出羽前司二階堂行義が御行騰と沓を献じた。
.
   一の御馬(黒)は 北條六郎時定 と 諏方兵衛四郎盛頼
   二の御馬(河原毛)は 武藤四郎北條時仲(北條朝直の子) と 尾張籐兵衛尉
   三の御馬(黒駮)は 大曽祢太郎左衛門尉長泰 と 同次郎左衛門尉盛経
   四の御馬(白鴾毛)は 遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛 と 同六郎兵衛尉時連(佐原盛連の六男)
   五の御馬(鹿毛)は 城九郎安達泰盛 と 同四郎時盛(安達義景の四男で泰盛の次弟).

.
   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
.
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
.
   ※大曽祢長泰: 安達盛長-次男時長-安達長泰(大曽祢氏の祖)と続く安達氏庶流、美濃守。
建長元年(1249)~弘長二年(1262)まで引付衆に任じている。
.

.
   ※年令: 五代執権北條時頼は22歳・ 六代執権になる北條長時は20歳・七代執権になる北條政村は45歳・
足利義氏は61歳・ 結城朝光は82歳・ 安達義景は34歳・ 安達泰盛は19歳・ 将軍藤原頼嗣は10歳・
第89代後深草天皇は6歳・先帝の後嵯峨上皇は28歳      (表示は全て満年齢)
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
1月2日
.
吾妻鏡
.
.
足利左馬頭入道の沙汰による椀飯の儀あり。 献上の役人、武蔵守北條朝直が御剣を、宮内少輔 足利泰氏が御弓箭を、佐渡前司後藤基綱 が御行騰と沓を献じた。
.
   一の御馬は 上野三郎畠山国氏(畠山泰国の嫡男) と 大平太郎左衛門尉
   二の御馬は 弥次郎左衛門尉親盛 と 刑部次郎兵衛尉
   三の御馬は 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 と 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼
   四の御馬)は 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 と 同、二階堂三郎行資
   五の御馬は 足利太郎家氏(泰氏の長男で尾張足利氏の祖) と 同、足利次郎兼氏(後に改名して義顕、家氏
の次弟で渋川氏の祖)
.

.
   ※足利左馬頭入道: 足利義氏を差す。出家と共に正義に改名している。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
1月3日
.
吾妻鏡
.
.
陸奥守北條重時の沙汰による椀飯の儀あり。献上の役人、尾張前司北條時章が御剣を、出羽前司足利泰氏が御弓箭を、出羽前司小山長村が御行騰と沓を献じた。
.
   一の御馬 陸奥弥四郎時茂 と 宿屋次郎忠義
   二の御馬 越後五郎時長 と 浅羽次郎兵衛尉
   三の御馬 出羽五郎左衛門尉波多野宣時 と 波多野五郎秀頼
   四の御馬 上野弥四郎左衛門尉結城時光 と 同十郎朝村
   五の御馬 遠江六郎北條教時 と 尾張次郎北條公時.

.
   ※結城時光: 朝光の六男または七男で寒河氏の祖となった武士。祖母の寒河尼が女地頭を務めていた寒川郡
(小山市の南部・地図)を継承したのだろう。
.
   ※結城朝村: 朝光の八男で弓の名手(嘉禎四年5月16日を参照)。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
1月13日
.
吾妻鏡
.
.
下野国の結城郡で空から麦が降った。まるで焼いたような状態だった、と。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
1月16日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(藤原頼嗣)が鶴岡八幡宮に御参宮。今年の初、御束帯で御車による。
.
  供奉人
.
     前右馬権頭北條政村    尾張前司北條時章
     武蔵守北條朝直    備前前司北條時長
     陸奥掃部助北條実時    宮内少輔足利泰氏
     遠江左近大夫将監時兼    佐渡前司後藤基綱
     出羽前司小山長村    大蔵権少輔加藤景朝
     新田参河前司頼氏    前太宰少貳狩野為佐
     秋田城介安達義景    壱岐前司佐々木泰綱
     安藝前司内藤親光(安藝守護だった藤原親実じゃないかと思うが...)    能登左近大夫仲時(?)
     肥後前司盛時    薩摩前司安積祐長
     城九郎安達泰盛    大曽祢左衛門尉長泰(1月1日を参照)
     上野三郎左衛門尉結城広綱(朝広の嫡子で結城氏三代当主)    左衛門尉武藤広頼(景頼の系か)
     出羽次郎左衛門尉二階堂行有(系図での確認できず)    筑前次郎左衛門尉二階堂行頼(同、左)
     和泉次郎左衛門尉二階堂行章    遠江次郎左衛門尉佐原光盛
     同六郎左衛門尉佐原時連(盛連の六男)    伊賀次郎左衛門尉光房
     式部六郎左衛門尉伊賀朝長    大須賀左衛門尉朝氏((千葉)胤信)の子孫
     肥後次郎左衛門尉忠綱(?)    左衛門尉伊東次郎時光
     新左衛門尉三村親時    弥左衛門尉康義
     豊後四郎左衛門尉島津忠綱    伊東次郎左衛門尉(早川祐朝か?)
     籐内左衛門尉宇佐美祐泰(祐茂の曾孫)    右衛門尉足立太郎直光(遠元の子孫か? 系図になし)
     左衛門尉長谷部三郎朝連    常陸次郎兵衛尉二階堂行雄(?)
     左衛門尉和泉五郎天野政泰(政景の三男)    新左衛門尉小野寺行通(通時の兄の子)
       以上は布衣。
.
     上野十郎結城朝村(朝光の八男で弓の名手、嘉禎四年5月16日を参照)    波多野小次郎宣経(?)
     遠江十郎佐原頼連(会津佐原氏の系か)    小野澤次郎時仲
     摂津新左衛門尉    備後次郎兵衛尉
     土肥四郎實綱((小早川)遠平の曾孫)    隠岐新左衛門尉佐々木時清(義清-次男泰清-次男時清)
     加地五郎次郎章綱(信実-五男義綱-嫡子章綱)    左衛門尉梶原景綱(景茂-景俊-景綱と続く)
       以上は直垂に帯剣。.

.
   ※内藤盛時: 内藤盛家の次男。嘉禄二年(1226)5月8日に、父の盛家が溺愛する次男盛時に功績を譲って
検非違使任官の宣旨を受けたが、不都合であるとして幕府が取り消している。
.
   ※伊東次郎: 建長二年(1250)1月16日の供奉人リストにある伊東次郎左衛門尉時光と同一人だろうが、この
時光が系図に見当たらない。年代から考えると伊東祐時の息子か。工藤氏の系なら通字の「祐」を使う筈だが...。
.
   ※二階堂行章: 後に引付頭人に任じる和泉前司二階堂行方の嫡子。五代将軍頼嗣と六代将軍宗尊親王の二人
に仕え、文永七年(1270)には引付衆に任じている。
.
   ※三村親時: 八田氏の嫡流が本拠を置いた常陸国筑波郡三村郷(小田城址(地図)近くに本拠を置いた一族
らしいが、異説もあって詳細の確認はできない。
.
.
   ※長谷部信連: 朝連の子。朝連は治承四年(1180)に以仁王を圓城寺に逃がして検非違使と戦い、後に頼朝
に仕えて能登国大家荘を得た元滝口武者・長谷部信連の嫡子。承久の乱の際にもにも幕府軍として入洛し、一族は能登の広い範囲に扶植している。
.
   ※小野寺行通: 奥州合戦で出羽に所領を得た小野寺通時の嫡子。出羽に土着したのは庶流か、代官か。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
1月27日
.
吾妻鏡
.
.
雷鳴あり。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
1月28日
.
吾妻鏡
.
.
晴。相模守北條時頼が体調を崩している。黄疾(黄疸)の症状と思われる。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
2月5日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
諸国の守護・地頭・御家人に向け、六波羅の召喚に応じなかった場合の処分を定めた。今後は同様の事例があれば罪人として処するように、との命令である。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
2月8日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼が病気を我慢して大倉薬師堂に参拝した。夢のお告げにより信仰心を深めた結果である。
.

.
   ※大倉薬師堂: 建保六年(1218)7月9日に北條義時が建立を始めた堂
で、二階堂の覚園寺(右画像)として現存する(地図)。
.
実朝が右大将拝賀のため雪の八幡宮に参拝した夜には体調不良を称して源仲章と供奉を交代し、難を逃れた。
.
これは薬師十二神将の「戌神」が夢に現れて「来年の将軍参拝には供奉するな」と警告したためで...という白々しい嘘を誤魔化すのに神託を利用した事件。
.
翌年2月8日の吾妻鏡と併せて読むと背後で実朝殺害に関与した義時の動きが浮かび上がる。
.
そもそも、実朝に供奉すると危険なら実朝も危険なはず、主人の実朝には危険を知らせず自分だけ逃げるなんて有り得ない話だ。
.
大倉薬師堂については仁治四年(1243)2月2日にも詳しい記事を載せてある。参照されたし。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
2月12日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼が鶴岡八幡宮で祈祷を催した。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
2月18日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼が幕府政庁に出仕した。軽い病状が続いていたが、特に深刻ではなかったらしい。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
2月23日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮の別当法印 隆弁から、幕府として園城寺(三井寺・公式サイト)の興隆に助力を願いたいとの希望が出され、清原清定の奉行として検討が行われた。圓城寺は関東としても代々将軍の帰依は他と異なる深さがあり、特別の助成を行なう旨が定められた。
.

.
   ※隆弁と圓城寺: 隆弁は14才で圓城寺に入り僧侶としてのスタートを切った。
元々頼朝の帰依を受けていたにも拘らず、7才から圓城寺で修行した公暁頼家の遺児)が鶴岡八幡宮別当として鎌倉に戻り、建保七年(1219)1月に将軍実朝を殺害してしまう。以後の圓城寺は幕府の信頼を失って衰退し、再び繁栄を取り戻すのが隆弁の宿願となっていた。
.
それから約30年、宝治合戦(1247)以前の宮騒動などで四代将軍藤原頼経が失脚・追放されると、頼経の父九条道家の同母弟慈円が座主に任じていた天台宗では僧侶の多くが北條時頼調伏(端的には呪い殺す)の祈祷を催したが、その中で隆弁だけは鎌倉に入って時頼勝利の祈祷を続け、結果として天台の密教勢力は大きな勢力後退を余儀なくされていた。
.
北條得宗家の篤い保護を受けた禅宗が勢力を広げる中で隆弁だけが圓城寺復権の道を開き、正元二年(1260)1月には幕府の圧力を背景にした圓城寺が戒壇設置の勅許を得ることになる(ただし延暦寺(公式サイト)の激しい反発を受けて3日後に取り消された)。
.
戒壇(僧になる資格を正式に受ける場所)の詳細と導入の歴史は下野東山道の史跡の本文中段に記載した「下野薬師寺のコーナー」を参照されたし。
.
右画像は三井寺(圓城寺)の戒壇伝承が残る十八明神社。
      画像をクリック→ 拡大表示(地図

.
白河院(第72代白河天皇・wiki)の承保元年(1074年)、皇子誕生を祈る勅命を受けた頼豪阿闍梨が祈祷して無事に男子が産まれ、褒賞として念願だった戒壇建立の勅許を得た。しかし延暦寺が反対の強訴によって取り消しとなり、激怒した頼豪は21日間の護摩を焚いた末に壇上で死没した。
.
その怨念が八万四千匹のネズミになって比叡山に押し寄せて堂塔や仏像・経典を食い破った。
十八明神社は北(比叡山の方向)を向き、ネズミの霊を祀る、と言う(平家物語と太平記を引用)。
.
白河法皇は初めて院政を行なった人物で女性関係も激しく、決して褒められる人物ではない。この祈祷で産まれたのは第一皇子の敦文親王(早世)か第二皇子の覚行法親王(仁和寺門跡)か。
.
戒壇の設置は三井寺(圓城寺)が長年抱いていた夢、なんだね。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
2月26日
.
吾妻鏡
.
.
五代将軍藤原頼嗣が文武の稽古に励むよう、相模守北條時頼が書状で将軍家に助言を献じた。
.
和漢の書を学ぶためには縫殿頭と参河前司 新田(世良田)頼氏が、弓馬を学ぶためには秋田城介安達義景と出羽前司小山長村と遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛武田五郎(信時)と三浦介三浦(佐原)盛時らが常に御所に待機して召しに応じるよう定めた。
.
また和泉前司二階堂行方と左衛門尉武藤景頼を奉行として御家人の師弟の中から素質の優れた者を選んでともに学ぶよう、指示を下した。
.

.
   ※縫殿頭: 直接的には被服などを扱う部署の長だが、この場合は同職の中原師連を差す。
.
   ※武田五郎: 武田信光-信政-五郎次郎信時または五郎三郎政綱。吾妻鏡の嘉祥三年(1237)6月23日、
大慈寺境内の後陣の随兵10人の最後尾に武田五郎次郎信時の名が見える。また建治元年(1275)5月20日の関東御教書(案・東寺文書)には「長門国の異賊襲来(元寇)を防ぐため周防・安芸・備後の武士を招集せよ」との指示が執権北條時宗と連署北條義政の連名で安芸国守護の武田五郎次郎に発せられている。
.
従って武田五郎=信時だと思うが、弓の名手だった弟の五郎三郎政綱の可能性もある。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
3月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
閑院殿(前年2月に焼失した里内裏)の再建を担当する者を京都に提示するため、新旧の担当役を全て書き出して纏めた。 奉行は山城前司深沢俊平と山城前司中原盛時。
.
後日に書き足した分として、霜臺東を備後前司三善(町野)康持、掃部寮戸屋を綱嶋左衛門入道。
.
  閑院殿造営を担当する者(文中の「跡」は相続した者を意味する)
.
紫宸殿を相模守北條時頼   清涼殿を甲斐前司長井泰秀と駿河入道
仁壽殿を修理権大夫北條時房跡   宜陽殿を陸奥守北條重時
校書殿を筑後入道八田知家跡   春興殿を遠江入道北條朝時跡   五節所を秋田城介安達義景   小御所を左馬頭入道足利義氏   釣殿を前右馬権頭北條政村   記録所を隠岐入道二階堂行光跡   陣座と東屋を豊前前司古庄(大友)能直跡   軒廊を兵衛入道佐々木三郎盛綱
弓場殿を近藤中務丞跡   弓場殿渡廊を湯浅一族   宮御方東渡廊を淡路前司長沼宗政
同西渡廊を小澤の女房   北小廊を大和前司伊東祐時   北面御車寄を上野入道結城朝光
北対を壱岐入道葛西清重跡   北御臺盤所(御湯殿に使用)を足助太郎(重朝か重方)
西対を千葉介(七代当主千葉時胤)跡   西二対を宇都宮入道頼綱
北対八間を信濃民部入道二階堂行盛
.
北弘御所を豊後前司嶋津忠久跡   同西屋を周防前司入道(朝業の嫡子)
御厨子所(出納小舎人座を付く)を出羽前司中条家長跡   西一対渡廊(御湯殿を含む)を常陸大掾跡
御臺盤所を小栗次郎   清涼殿と一対造合御物宿を伊豆前司河津尚景跡
宮御方侍(渡屋を含む)を佐渡前司後藤基綱   本所を押垂齋藤左衛門尉跡
蔵人所を摂津前司(宇佐美)   釜殿(井屋を含むく)を土屋入道跡
.
宮御方東屏中門と屏十四間を隠岐次郎左衛門尉佐々木泰綱   小御所北屏三間(屏門を含む)を那珂左衛門入道
蔵人町後屏(十五間・門三ヶ所含む)を伊達入道跡   同じく十間(門二ヶ所含む)を安積薩摩前司
日華門(左右廊各々一間・前小橋含む)を近江入道跡
月華門(南廊一間・前小橋含む)を矢野和泉前司跡   殿下直廬を豊前前司
同西対・西南渡廊・南上下門を下野入道跡   東四足左衛門陣を佐原遠江前司跡
西四足右衛門陣を足立左衛門尉跡   東棟門左兵衛陣を草野大夫跡   西棟門右兵衛陣を太宰少貳
.
縫殿陣土平門を但馬次郎左衛門尉   押小路面土平門を内藤左衛門尉跡
油小路面土平門を伊賀式部入道   池扉橋(火炬屋を含む)を大和入道跡   船一艘を安野中将
同一艘を中御門三位   樋二ヶ所を若狭兵衛入道跡   池掃除を陸奥左近大夫将監
橋一ヶ所(左兵衛陣前扉橋)を刑部大輔入道跡   橋一ヶ所(右兵衛陣前)を中條右馬助入道
橋一ヶ所(二條)を肥田次郎跡   橋一ヶ所(押小路)を白石太郎
行事所屋(五間二面)の三間を相馬次郎跡   同じく二間を土肥木工助跡
.
築地八十八本(垣形十八本)のうち、十本(左衛門陣南、垣形二本あり)を武田伊豆入道跡
同十本(同北、垣形二本あり)を小笠原入道跡   同四本(左兵衛陣北、垣形二本あり)を菊池入道跡
同三本(押小路面土平門東、垣形一本あり)を大内介
同三本(同門西、垣形一本あり)を佐貫左衛門跡   同三本(同西)を武石入道
同二本(同西)を畠山上野前司  同二本(同西)を伊賀判官四郎跡   同三本(同西)を越中左衛門次郎
同五本(同、垣形一本あり)を東兵衛入道跡と木内下総前司跡と風早入道
同五本(油小路面土平門南二本・同北三本、垣形二本あり)を大井太郎
同五本(右衛門陣南、垣形一本あり)を平賀兵衛尉と松葉次郎入道
同六本(同北、垣形一本あり)を阿曽沼民部跡   同二本(同北)を角田入道
同一本(同北)を鎌田入道跡   同三本(左兵衛陣南、垣形一本あり)を平左衛門入道跡
同二本(右兵衛陣北、垣形一本あり)を土持入道
同五本(二條西油小路角、垣形一本あり)を加藤左衛門尉
‬同六本(同東、縫殿陣西、垣形一本あり)を新田入道跡   同五本(同東、垣形一本あり)を河越次郎跡
同三本(同東)を佐竹入道跡
.
裏築地百九十二本(垣形十七本)と二條に面した二十本のうち、 二本(垣形一本あり)を益戸左衛門尉
三本を大須賀四郎跡   三本を土岐左衛門跡   三本を小窪太郎跡と同次郎跡
三本を池上左衛門尉   二本を曽賀入道跡    二本を美作蔵人入道跡
二本(垣形一本あり)を大井左衛門尉
.
油小路に面した三十一本のうち、 五本(垣形一本あり)を廣澤左衛門入道跡   三本を善右衛門尉跡
二本を河越三郎跡   二本を高鼻和左衛門尉跡   三本を豊嶋左衛門尉跡
三本を塩屋民部大夫跡   二本を中村縫殿助跡   二本を大多和次郎跡   二本を品河三郎入道跡
三本を塩屋兵衛入道跡   二本を小代の人々   一本を籐肥前前司
.
押小路に面した二十本のうち、 一本(垣形一本)を那須肥前前司   二本を越中大田次郎左衛門尉
二本を土屋弥次郎跡   二本を進三郎入道   三本を長右衛門入道跡   一本を石見前司
二本を工藤中務丞   二本を渋谷三郎入道   二本を眞壁太郎跡   二本を長兵衛入道跡
一本(垣形一本)を勝田兵庫助
.
二條面西洞院東二十本のうち、   二本(垣形一本)を柘杜左衛門跡   二本を岩原源八入道
二本を二宮左衛門跡   二本を七郎左衛門入道跡   二本を成田入道跡   二本を紀伊刑部入道跡
一本を渋谷左衛門跡   一本を原宗三郎跡   一本を本庄四郎左衛門尉   二本を玉井左衛門跡
一本を内嶋三郎跡   二本(垣形一本あり)を甲斐二宮次郎跡
.
二條に面して南油小路西十六本のうち、 二本を船越右馬允跡   三本を吉河左衛門跡
二本を相良の人々   二本を西部中務入道跡   二本を泉田兵衛尉   一本を波多野中務跡
一本を四方田五郎跡   一本を臼井入道跡   一本を長江四郎入道跡
一本(垣形一本)を久美左衛門跡
.
同、北十六本のうち、 二本(垣形一本)を蘆原左衛門入道   一本を古郡左近跡
一本を勅使河原後四郎跡   一本を平子左衛門跡   一本を三田入道跡   一本を木村五郎跡
一本を若兒玉次郎   一本を柏間左衛門入道   一本を中村馬允跡   一本を別府左衛門
一本を原左衛門跡   一本を浅羽の人々   一本を中村八郎馬入道跡   一本を国分五郎跡
一本(垣形一本)を岩田三郎跡
.
二條から北油小路に面した二十本のうち、 一本(垣形一本)を日野平五入道   二本を石黒太郎
二本を河尻太郎   二本を須恵太郎   一本を佐志源次   一本を豊福五郎
二本を神澤次郎左衛門尉   二本を廣田馬允   一本を中津河入道    一本を八木三郎と同四郎
一本を伊東三郎跡   一本を岩国次郎   三本(垣形一本あり)を佐伯入道
.
押小路より南で西洞院より西の十八本のうち、 一本を安藤太郎跡   一本を志賀七郎跡
一本を臼間野太郎   一本を悪三郎丸入道   一本を藤澤四郎跡   一本を小平の人々
一本を飯高五郎跡   二本を波賀太郎跡   一本を波多野弥籐次郎左衛門尉
二本を布施左衛門跡   二本を越生の人々   一本を合子太郎   二本を金持兵衛入道跡
一本を山名の人々
.
押小路より南、油小路より西の十一本のうち、 一本(垣形一本あり)を吉敷三郎入道跡
一本を神田三郎   一本を井上太郎   一本を石手十郎兵衛尉跡   一本を八坂右馬允
二本を高橋刑部入道   一本を枝兵衛入道    二本を眞保次郎左衛門尉
一本(垣形あり)を清久左衛門尉跡
.
二條より北、西洞院面より東の二十本のうち、 二本(垣形一本あり)を方穂六郎左衛門尉
三本を益田権介跡   二本を近藤七跡   二本を印東太郎入道跡   一本を細川宮内丞
一本を吉河籐太兵衛尉   一本を横地の人々   一本を小野寺中務跡   一本を岡部兵衛尉跡
一本を近藤太郎左衛門跡   二本を加治の人々   一本を高橋十郎跡   一本を安西三郎
一本(垣方一本あり)を安藝前司
.
    河堰二百三十八丈(堰・堤防約721m)
.
     西側
五丈を揚井左近将監跡   十丈を平子次郎入道跡   十丈を源雅楽左衛門   十丈を厚東左衛門
五丈を佐々木六郎法橋跡   十丈を朝山右馬大夫跡   五丈を都筑右衛門跡
六丈を伊志良左衛門跡   六丈を蛭河刑部丞跡   六丈を日田四郎跡と伊美太郎兵衛尉
六丈を望月四郎兵衛尉   六丈を豊田太郎   四丈を進次郎左衛門尉跡   十丈を江戸入道跡
八丈を白河判官代入道跡   七丈を鹿嶋中務跡   五丈を忍入道跡
.
     東鰭
四丈を市河六郎別当跡   十二丈を海老名籐左衛門尉跡   四丈を上嶋次郎   六丈を高知丸太郎
四丈を逸見三郎   六丈を藤田兵衛尉跡   六丈を菅名太郎   十丈を吉河三郎
六丈を本庄三郎左衛門入道   十二丈を多久平太跡   六丈を市河庄司跡
十二丈を海野左衛門入道   八丈を新開荒次郎跡   四丈を沼田太郎跡
五丈を秋元左衛門入道   五丈を下河邊左衛門跡   五丈を安西大夫跡   五丈を西條の人々
.
     橋河堰
一所(二條堀河)を小早河美作前司入道   一所を宇佐美左衛門入道跡
.
     裏築地用意分
二本を安保刑部丞跡   二本を氏家五郎跡   一本を大胡太郎跡   二本を春日刑部丞跡
一本を鮎澤六郎跡   一本を葛濱左衛門尉跡   一本を 高山の人々   一本を佐野太郎跡
.
                      建長二年三月日
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
3月3日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮の神事(上巳節句)は通例通り。将軍藤原頼嗣は参宮せず相模式部大夫時弘が奉幣使を務めた。
.
今日、諸国守護の検断(職務権限)についての協議があった。
殺害事件についての守護人の主張は、犯人の身柄拘束は守護人の職掌範囲であり、郡や郷の地頭が六波羅に連行するのは根拠に欠ける。地頭の主張は、守護所に引き渡しても事件の仔細を調べずに放免する例が多く、解決に結びつかない上に煩雑なので六波羅に送っているのだ、と。
.
この問題について六波羅に次の通り通告した。「守護の決裁権範囲は既に諸国に出した通達通りとして対応せよ。ただし地頭に違法行為があれば、守護人の主張については詳細を調べて記録を送付し、幕府で判断を下す。」と。
.

.
   ※相模時弘: 系図に見当たらず、北條時房-次男時村-次男時広(相模七郎)じゃないかと思う。
父が早世したため祖父時房の養子として引付衆・評定衆・四番引付頭人の要職に任じている。
官職は式部太夫、和歌の名手で、北條一門でトップクラスの風流人だったらしい。
男子がなく、甥(早世した兄・時隆の子)が養子として跡を継いでいる。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
3月5日
.
吾妻鏡
.
.
今日の評定により幾つかの決定事項があった。
.
一.寄せ沙汰を禁止する件。
権力者の権威を利用して勝手な行為を行なった者はその主人に通告して重科に処する。
.
一.山門(比叡山延暦寺の異名)の僧徒による寄せ沙汰の件。
衆徒の蜂起は諸人に迷惑が及ぶ。禁止の通告を発するよう内々富小路殿に申仕入れるよう六波羅に伝える。
.
一.大和国の悪党に関する件。
先日六波羅を介して一乗院と大乗院に申し入れたが対処していない。今後は武装兵を派遣して身柄を拘束することになるから、彼らを保護しているなら報告せよ。狼藉をなくすため地頭を改補する場合もある事を含めて通告すると共に、六波羅にも通達する。
.

.
   ※寄せ沙汰: 訴訟物件を権力者や有力寺社に寄進したり、訴訟の当事者を委託して解決を有利に導こうとする
行為。法廷だけでなく背後の圧力をも含む。
.
   ※一乗院: 興福寺塔頭の一つで門跡寺院(皇族の子弟が住職を務める
のが通例)。興福寺は大和国守護を兼任した一大武装勢力で多数の僧兵を擁して再三の紛争を引き起こしていた。
大乗院も同じく一乗院と同じ門跡寺院、鎌倉幕府が排除したかった九条家との関係が深かった。
.
今でこそ世界遺産として南都仏教を代表するような顔をしている興福寺だが、歴史の大部分で宗教による権力と暴力の代名詞だった。明治初期の神仏分離令によって全ての子院は廃絶となり、一乗院の敷地跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院の敷地跡は奈良ホテルに変貌している。
.
右画像は興福寺周辺の地図(クリック→ 拡大表示)。
     奈良ホテルの南側には大乗院庭園跡
(奈良ホテルのサイト)が保存されている。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
3月13日
.
吾妻鏡
.
.
右大将家(頼朝)法華堂で催す恒例の法事の日だが、今日は特別の事情がある。頼朝が北條重時の夢に現れて謀反人がいると知らせた、と言う。

.
   ※謀反人: 頼朝が本当に現れたら、まず北條時政を謀反人の代表格として指弾するだろうね。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
3月16日
.
吾妻鏡
.
.
鎌倉中の保々奉行人に命じて無益の輩(無職の者)の名を記録し田舎に追放して農業に従事させるよう指示した。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
3月20日
.
吾妻鏡
.
.
先月四日の大神宮(伊勢神宮)祈年祭の例日により相北條時頼奉幣と供物の献上を行なった。
東條次郎大夫が奉幣使として参宮した際には御裳濯河の水が紅色に見え、一昼夜を過ぎて元の流れに戻った。
.
今回の奉幣は通例の通り占部の神官を奉行として行なったにも拘らずこの様な怪異があり、祭主に渡す際には去る承久三年(1221)の戦乱にも同様の事例があったそうだ。
.

.
   ※祈年祭: 五穀豊穣などを祈る祭祀で、現在は2月に行われている。
秋の収穫に感謝する11月の新嘗祭と対になる存在。
.
   ※御裳濯川: 伊勢内宮に入る木橋の下を流れる現在の五十鈴川。
倭姫命(wiki)が天照大神を伊勢に祀る際に御裳の裾の汚れを濯いだとの伝説から御裳濯川と呼ばれる。
.
伊勢神宮の神域(五十鈴川を渡る宇治橋から先)にはもちろん犬は入れないが、以前の伊勢旅行の際には五十鈴川の少し下流で水泳を楽しませて頂いた。
.
右は宇治橋から見た五十鈴川上流(画像をクリック→ 拡大表示)。中洲の500mほど上流には心身を清める御手洗場がある。
犬が泳いだのは撮影場所の背後(下流)、恐れ多くも神域の近くで水浴した数少ない犬の一匹である。
.
       参拝した際のその他画像は伊勢神宮参拝記で。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
3月25日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(藤原頼嗣)が御方違えのため相模守北條時頼邸に入御した。供奉の人々は裾を括った布衣(狩衣・略礼装)である。
.
前右馬権助北條政村   武蔵守北條朝直
尾張前司北條時章   備前前司北條時長
宮内少輔足利泰氏   遠江守北條時直
相模右近大夫将監北條時定   陸奥掃部助北條実時
相模式部大夫北條時弘(3月3日参照)   北條六郎時定
越後五郎時家(時房-時親-時家)   武蔵四郎北條時仲(北條時房-四男で嫡子の朝直-時仲)
尾張次郎北條公時(朝時時章-公時(名越流三代当主))   武蔵五郎北條宣時(大仏流朝直の嫡子)   相模八郎時隆(北條実時時直-時隆らしい)   遠江太郎北條清時(時直の嫡子)
上野前司畠山泰国   那波左近大夫(大江廣元-三男那波宗元-政茂(引付衆))
秋田城介安達義景   同、次郎頼景(義景の庶長子)   同、九郎長景(義景の七男)
佐渡前司後藤基綱   前大蔵権少輔結城朝広   出羽前司小山長村   下野前司宇都宮泰綱
新田参河前司頼氏(世良田(新田)義季の次男で嫡子)   前太宰少貳狩野為佐
内蔵権頭(藤原親家説あり、但し彼の鎌倉下向は建長四年(1252)に宗尊親王に同行した筈だが)
和泉前司二階堂行方   肥後前司内藤盛時(1月16日を参照)   安藝前司?   能登左近大夫?
壱岐前司(宍戸氏・宝治二年(1248)4月30日を参照)   大隅前司嶋津忠時
筑前前司二階堂行泰   薩摩前司安積祐長
左衛門尉大曽祢長泰(宝治二年(1248)1月3日を参照)   遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛
同六郎左衛門尉佐原時連   同新左衛門尉佐原経光   左衛門尉武藤景頼   左衛門尉大須賀朝氏
和泉次郎左衛門尉二階堂行章   幸嶋小次郎時村
上野十郎(結城朝光の八男で弓の名手、嘉禎四年5月16日を参照)   薩摩九郎祐朝
武田五郎七郎(2月26日を参照)   小笠原余一?
加地五郎次章綱(加地信実-五男(倉田)義綱-嫡子章綱と続く)   土肥四郎実綱
大曽祢五郎   本間次郎兵衛尉信忠   左衛門尉小野寺四郎通時   伊東三郎祐綱
三浦介(佐原)盛時   東中務少輔胤重
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
3月26日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家藤原頼嗣が旅御所(方違えの北條時頼邸)で遊宴。まず弓射との仰せがあり、小侍所に控える武士を呼ばずその場に居た時頼の供奉人から射手を選んだ。このため逃れる事ができず、一射づつ五度的を射た。
.
続いて蹴鞠が催され、二條(飛鳥井)侍 従が仰せを受けて人数を整え、秋田城介安達義景の奉行として巳一点(朝9時過ぎ)に招集し、午下刻に教定朝臣以下の蹴り手が参集した。将軍家は左衛門尉武藤景頼・塩飽左近入道信貞に命じて上鞠(蹴り始め役)について教定朝臣に質問し、上鞠は兼教朝臣が任じる旨を答えた。
.
その後に大夫雅有(十歳)が鞠を中央に置き、教定朝臣が蹴り手を呼びながら位置を定めた。蹴り数の確認役は時頼の指示により右近大夫塩飽信貞と後藤左衛門尉説尚。
.
  御的の射手
     一番 遠江太郎北條清時   城次郎安達頼景
     二番 遠江六郎左衛門尉佐原時連   小笠原余一長隆
     三番 幸嶋小次郎時村   薩摩九郎伊東祐朝
     四番 上野十郎朝村   加地五郎次郎章綱
     五番 武田五郎七郎政平   土肥四郎實綱
.
  御鞠の衆
     尾張少将(清基朝臣)  二條少将(兼教朝臣)  兵衛佐忠時  大夫雅有
     陸奥掃部助北條実時(已上布衣)  熊王丸  行久  行信  資能(已上直垂・葛袴)  仁俊(等身衣)
.
  見證(立会人・判定者)
     陸奥守北條重時   相模守北條時頼   前右馬権頭北條政村   尾張前司北條時章
     刑部大輔入道道成   秋田城介安達義景   佐渡前司後藤基綱   信濃民部大夫入道二階堂行成
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
3月28日
.
吾妻鏡
.
.
出羽前司小山長村による堂供養あり。祖父の下野入道生西(小山朝政十三年を迎えての積善で、正式な命日の明日から繰り上げての催しである。
.

.
   ※小山朝政: 嘉禎四年(1238)3月30日に81歳で死没との記事がある。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
4月2日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
所領に関する訴訟は引付衆が文書(証拠書類)を調べて理非を判断し、内容が明確であれば訴訟人の対決を行わず先例通りに決裁して良い。また訴訟事務の開始は巳刻(10時)以前として頭人も奉行人も遅参せず、更に受付時刻を記録して報告するよう、三方(三組)の引付に通告した。この奉行は秋田城介安達義景
.

.
   ※三方引付: 建長二年の引付構成は確認できないが翌・三年(1251)6月の記録に拠れば引付は一~六番。
責任者(評定衆)の正副は一番が北條政村二階堂行久、二番が北條朝直三善(太田)康連
三番が北條時章三善(矢野)倫重清原清定、四番が中原師員二階堂行義、五番が伊賀光宗安達義景、六番が二階堂行盛長井泰秀。その下に2~3人の引付衆と奉行人が配置された。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
4月3日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮の神事あり。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
4月4日
.
吾妻鏡
.
.
幕府で賭け事の勝負があり人々が参集した。前右馬権頭北條政村・尾張前司北條時章・武蔵守北條時直・秋田城介安達義景らが着座して各々賭け物を披露した。
.
この時に式部兵衛太郎伊賀光政が喧嘩を始め、賭け物を相手に投げ付けたため満座が興醒めになった。前右典厩政村が強く叱ったところ光政は座を起って退出してしまった。
.

.
   ※伊賀光政: 五代将軍藤原頼嗣の近習で26歳、伊賀光宗-宗義-光政と続く。後に廂衆(将軍の警護役)を
経て正元元年(1259)に引付衆に任じている。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
4月5日
.
吾妻鏡
.
.
評定の次いでに式部兵衛太郎光政が昨夜将軍家の御前で無礼を態度を見せた件の処分が検討され、将軍家は罪には問わないとした。ただし今後の行動を戒めるよう式部大夫入道光西(伊賀光宗)に向けて仰せがあった。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
4月16日
.
吾妻鏡
.
.
山ノ内の證菩提寺住持から申請のあった堂宇の修理について左衛門尉清原満定の奉行により決裁があり、早急に損色(見積り)を取って工事に取り掛かるよう仰せがあった。
.
この寺は右大将家(頼朝)の時代である建久八年(1197・吾妻鏡の記載脱落の年)に佐那田余一義忠の菩提を弔うために建立したもので、風雨にさらされ損傷が激しかったにも拘らず修理を加えていなかった経緯がある。
.

.
   ※證菩提寺: 現在の横浜市栄区上郷町(地図)にある古刹。開創は文治五年(1189)または建久八年(1197)
とも言われ、開基も頼朝説と義忠の父親岡崎義実説があって判然としない。
.
そもそも證菩提寺から約30km西の平塚・金目川流域(地図)が義実の館跡・無量寺だし、義忠が相続した土地も更に約2km西の真田神社一帯(地図)、證菩提寺との接点は見当たらない。
単純に鎌倉の鬼門(北東)を守るため建てた寺に義忠を当て嵌めた可能性もある。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
4月20日
.
吾妻鏡
.
.
保々を管理する奉行人および地下凡卑の輩(身分の卑しい者)に命じて太刀の携帯と夜間外出の際は弓箭携帯を禁止した。明石右近将監兼綱(建長三年(1251)に引付奉行人として記載あり)を介して各方面に告知させた。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
4月25日
.
吾妻鏡
.
.
御家人の任官について、官職を持たない者はすぐに左衛門尉・右衛門尉に任じたいと希望する。今後は同様の求めを禁止するとの仰せがあり、この件は清原清定が奉行する。
.

.
   ※衛門尉: 元々は皇居の門および周辺を警護した組織である衛門府の四等官(督・佐・尉・志)の三位を差す。
鎌倉時代初期には職掌が検非違使に移り、更に六波羅(探題)が設置された承久以後は有名無実の存在に変貌し、鎌倉幕府の御家人に与えられるのが通例となった。
.
平安時代から武名の高い武官の官職として源頼親源為義源義経宇都宮頼綱など著名な武士が任じた経緯もあり、経済力を手に入れた武士にとっては検非違使(判官)と共に憧れの官職である。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
4月29日
.
吾妻鏡
.
.
雑人(武士以外)が訴訟する際、鎌倉以外に住む者はその地を管轄する地頭の挙状(添え書き・承認状)が必要で、鎌倉に住む者の場合は地主の推薦状が必要とする。その提出がない場合は訴訟を受け付けないよう、問注所と政所に通告があった。これは安易な訴訟の濫発を防ぐのが目的である。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
5月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮上宮の破損修理について検討があり、宮寺が抱える工匠らを呼んで様々の指示を与えた。筑前前司二階堂行泰・左衛門尉清原清定・深澤山城前司が奉行を務める。
.

.
   ※八幡宮上宮: 大石段の上、現在の本宮を差す。小林郷北山の裾にあった本宮は建久二年(1191)3月4日の
鎌倉大火で失われた。民家からの類焼を防ぐ目的もあり、同年11月に北山の中腹を切り開いて再び石清水八幡宮を勧請した。元の位置には若宮が再建されている。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
5月9日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家藤原頼嗣が御方違えのため相模守北條時頼邸に入御した。陸奥守北條重時と佐渡前司後藤基綱と下野前司宇都宮泰綱と刑部大輔入道らが邸内に儲けた御所に接待の準備を整えて待機した。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
5月10日
.
吾妻鏡
.
.
旅御所(方違えで滞在している時頼邸)で蹴鞠の会、人数は去る3月と同じ。その後の御馬場殿の桟敷で笠懸を観覧し、終了後の同日に還御した。
.
    射手
      北條六郎時定 vs 遠江太郎(北條時直の嫡子、御所内番役を歴任)
      武蔵四郎(北條時房-四男で嫡子の朝直-時仲) vs 城次郎安達頼景
      尾張次郎北條公時 vs 出羽前司小山長村
      城九郎安達泰盛 vs 遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛
      上野十郎結城朝村(朝光の八男で弓の名手、嘉禎四年5月16日を参照) vs 薩摩九郎祐朝
      三浦介三浦(佐原)盛時 vs 左衛門尉工藤六郎祐光
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
5月14日
.
吾妻鏡
.
.
罪科人から没収して所有者がなくなった土地について、奉行人の過怠により処理しないまま年月が過ぎた分の年貢は新しく決まった領主の取分として良いとの決定があった。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
5月20日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家藤原頼嗣が帝範の講義を受け、相模守北條時頼も参席した。講師は清原教隆眞人
.

.
   ※帝範: 帝王が心得るべき規範を記した古典で、唐の二代皇帝太宗が648年に撰した。
.
時頼が帝王学の習得を 頼嗣に受けさせようとしている事、去る宝治二年(1248)3月11日には「一芸に秀でた者・特に和漢の書に詳しい者を頼嗣の近習に」と指示している事、そして今年の2月26日には「和漢の書の学習と弓馬の習得のため数人の優れた御家人を御所に待機させる」などの記述があることから、時頼が鎌倉将軍としての頼嗣の成長に期待を寄せていたと推測する説が結構多い。
.
実際には「朝廷と幕府の両方から九条家を排除する」との目的で後嵯峨天皇と時頼の意思は共通しており、背後では親王による皇族将軍実現を計画していたのだから、この評価は甘すぎるね。
.
   ※清原教隆: 明経道の家を継いだ儒学者でこの時は51歳。五代将軍藤原頼嗣と六代宗尊親王の侍講を務め、
北條(金沢)実時にも影響を与えて金沢文庫の創立にも寄与している。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
5月22日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼の室(北條重時の娘)が体調を崩していたが間もなく治癒した。妊娠の瑞相かも知れない。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
5月25日
.
吾妻鏡
.
.
晴。鶴岡八幡宮上宮の修理工事が始まった。奉行人は予め現地で待機している。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
5月27日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼が浄眞に命じて貞観政要(wiki)一部を書写させ将軍家に呈上した。水精(水晶)の軸で表紙は羅(薄絹)、蒔絵の箱(鶴丸)に納め使者の小野澤次郎時仲がこれを届けた。将軍家への取次ぎは二階堂行方
.

.
   ※小野澤時仲: 村上源氏の末裔で得宗被官。後に六代将軍宗尊親王御所の小侍所所司を務めている。
本領は信濃国小野澤郷(現在の埴科郡坂城町西部・地図)。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
5月28日
.
吾妻鏡
.
.
讃岐国法勲寺の地頭に任じている壱岐七郎左衛門尉時重が本補と新補の両方を兼帯して不当な利益を得ている旨の訴えが雑掌から届いている件について評定が行われた。
地頭の時重は長年の習慣であると主張したが根拠に乏しく、一方を停止するから希望を述べるよう申し渡した。
.

.
   ※法勲寺: 白鳳時代(673~710年)に建立され、室町時代に廃寺となったらしい。丸亀市飯山町に法軍寺の
地名が残り、讃留霊王神社(地図)の北側に礎石などが保存されている。
.
   ※壱岐時重: 初代の奥州総奉行だった壱岐守葛西清重の四男または六男。磐井郡黒沢邑(一関市黒沢・地図
を本貫とする黒沢氏の祖となった。
.
   ※本補と新補: 本補は承久の乱(1221年)以前から任じていた地頭、新補は承久の乱で没収した朝廷側領地
に補任された地頭。各々地頭得分の率が異なるため、時重は利益が増えるよう使い分けしたのだろう。幕府は兼任を禁じており、まさか二重は負荷しなかったと思うが...。
.
   ※雑掌: 一般的には貴族や武士に仕えて雑務を担当した者。この記事の場合は荘園領主の代理人として荘園
の管理や訴訟事務を担当した荘官を差す。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
6月3日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
山内並びに六浦などの道路について、鎌倉に入る利便性を確保するため難路の整備を行ったが、土石により通行が困難になっている。以前のように改修せよとの仰せが下された。
.

.
   ※山内と六浦: 山ノ内に抜ける巨福呂坂切通し(亀谷坂の可能性もある)と、六浦に通じる朝比奈切通しを差す。
.
難路の整備は「仁治元年(1240)10月10日に三代執権北條泰時の指示で決定があった」との記載と、翌月30日には朝比奈切通しの着工決定の記事がある。画像などは当日の吾妻鏡で。
.
朝比奈の方は工事が遅延し、翌・仁治二年4月5日にも再び記載されている。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
6月10日
.
吾妻鏡
.
.
評定衆による協議があり、雑人(武士と僧を除く一般庶民)の訴訟についての規則を定めた。
.
農民と地頭の間での訴訟で農民側の主張が正しい場合は妻子および所従(下働き)の財産や道具類は農民側に返却し、農地と住居の所有を認めるか否かは地頭の判断に委ねる。 また妊娠後に離別となった場合、産まれた男子の親権は父親に属する、と。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
6月15日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(藤原頼嗣)が造泉殿で時を過ごし、陸奥守北條重時と相模守北條時頼および数人の評定衆が従って酒宴と御連歌の会を催した。白拍子が歌舞の芸を見せ、和泉前司二階堂行方らが猿楽を演じて座を盛り上げた。
.

.
   ※造泉殿: 寝殿造りの場合、東西に張り出した中門の泉水に面した部分に設けた納涼・遊興のための一角。
必ずしも先端の釣殿とイコールではないらしい。
.
   ※猿楽: 鎌倉時代の猿楽についてはwikiの中段を参照されたし。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
6月19日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼が三浦介(佐原)盛時邸に渡御し、前左馬権頭北條政村も合流した。
.

.
   ※三浦介盛時: 佐原(三浦)義連-酒乱の佐原盛連三浦(佐原)盛時と続く。三浦宗家の泰村一族が滅亡した
宝治(三浦)合戦直前の5月29日に時頼邸を訪れた盛時は「去る11日に陸奥国津軽の海辺に死人のような姿の大魚が流れ着きました」と合戦の前兆を時頼に伝えている。
.
要するに宝治合戦は泰村の謀反ではなく北條時頼と安達景盛と佐原盛時が事前に合意した計画通りなのだろう。ちなみに、時頼は既に盛時を所領である陸奥国糠部五戸郡の地頭代に任命し得宗被官として懐柔していた。時頼が凄いのは、この狡猾さと冷酷さなんだよね、たぶん。
.
時頼の祖母矢部禅尼北條泰時に嫁して時氏を産んだ後に離縁(理由は不明)し、酒乱男の佐原盛連に再嫁して光盛・盛時・盛連を産んだ。つまり盛時の母・矢部禅尼は執権時頼の祖母なのだから、彼女を介して同族の三浦宗家を裏切る筋書きが出来ていたのは容易に想像できる。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
6月24日
.
吾妻鏡
.
.
今日、佐介ヶ谷に住んでいる男が突然自害し、それを聞いた者が聞く者が競い集まってその死骸を眺めた。
.
この男には同居している娘婿があり、その婿が急に田舎へ行く用事で出掛けた隙を窺って実の娘を口説き始めた。
驚いた娘は許そうとしなかったが、父親は娘の居所に忍び寄って屏風の上から櫛を投げ入れ、不意の出来事に娘はその櫛を受け取ってしまった。投げ櫛を女が受け取れば肉親であっても他人に変わるという。
.
父親が思いを遂げようとしたところに突然娘婿が帰ってきたため父親は慙愧に耐えず自害し、驚いた婿は嘆き悲しみその妻を離縁してしまった。父親の思いに従わなかった妻女の不孝が原因らので婚姻を続けることは出来ないと考えたためで、出家して舅の菩提を弔うとのこと。
.

.
   ※投げ櫛: 櫛が霊力を持つと考えたことに始まる俗信の一つ。妻のイザナミを連れ戻そうとして黄泉国(死後の
世界)まで行ったイザナギが「振り返ってはならぬ」と説得されて逃げ戻る際に振り返ってしまった。
.
追い掛けて来た黄泉醜女(イザナミ)に投げた櫛がタケノコに変わり、イザナミがそれを食べている隙にイザナギは人間世界に逃げ延びたという、後味の悪い神話。
櫛(苦死)を拾うとか・投げ櫛を受けるのは不吉とか、凶に繋がるとされているらしい。
.
まぁ神話は神話で構わないが下らない事件を書き残す吾妻鏡編纂者の意図は理解できないね。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
7月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
来月の鶴岡八幡宮の放生会に将軍家(藤原頼嗣)が臨席されるため供奉人について御前で協議があった。既に挙がった名簿からは取捨選択せず全員を参加させよ、また供奉人の装いは詳細を定めて遵守させよ、とのこと。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
7月5日
.
吾妻鏡
.
.
評定衆による協議あり。貸した銭が三百文であっても質流れさせてしまう者(金融業者)に関して法を定めた。
貸し付けた銭が二貫文以上の場合は利息が同額になった時点で質流れさせて良い。二貫文以下の場合は文書(借用書)の内容に拘らず元金を返済すれば無利子で質入れした品を返却する、と。
.

.
   ※物価の参考: 時代や収量の多少によって異なるが、鎌倉時代中期の物価の目安は玄米一石(100kg)が
一貫文(1000文)前後だったらしい。そのまま換算すれば現代なら3~4万円だろうか。
.
いずれにしろ徳政令の一種で、金融業者は小口の貸付に応じなくなるから貧者の困窮は更に深まる。本質的な解決に取り組まず対症療法だけでは何一つ解決しない。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
7月8日
.
吾妻鏡
.
.
承久の乱(1221年)の際に後鳥羽上皇に味方した者が所有していた京都の家屋敷について、本来の没収から漏れたまま現在に至っている件の協議が行われた。
.

.
   ※没収漏れ: 30年近く過ぎた今頃になって再検討とは、なぜだろう。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
7月11日
.
吾妻鏡
.
.
勝長壽院で法会。陸奥守北條重時と相模守北條時頼が結縁を求めて参席し、評定衆以下の御家人も群参した。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
7月15日
.
吾妻鏡
.
.
故二位家(政子)の御本尊に白檀の釈迦如来像を加えて供養の法要を催した。導師は法印道禅、相模守北條時頼の発願である。
.

.
   ※御本尊: 政子の持仏の意味であれば、如意輪観音。元々は頼朝法華堂に祀られていた像で現在は西御門の
来迎寺(鎌倉ガイド)が収蔵しており、「来迎寺 如意輪観音」で検索すると画像も見られるのだが...様式から判断すると全面的には信用できない。真実は不明と考えるべきか。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
7月18日
.
吾妻鏡
.
.
申刻(16時前後)に大地震があり、余震が16回も続いた。今日、秋田城介安達義景に男子が産まれた。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
7月22日
.
吾妻鏡
.
.
都鄙(全国各地)で荒廃している神社を復興するための協議が行われた。朝廷の勅願所に関しては奏聞して対応を任せるとして、まず関東の管理下にある神社については決められた手順に従って修理する。
.
大きな破損なら直ちに報告すれば必要な措置を講じるとの結論を得た。昨今は寺社の別当や神主に復興の志がなく、神仏に献じるべき土地や資産を勝手に浪費している。再三の評議を重ねた上での決裁である。
.

.
   ※寺社の腐敗: ジョン・アクトン曰く、権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する。
人の心を救う筈の宗教者も、権力と同様に腐敗する。宗教者が戒めるべき腐敗とは何か。
.
全ての宗教団体が反対を表明した安全保障関連法案を、公明党と創価学会は容認した。
平和を標榜する宗教者が自衛官の海外派遣に賛成し、更に武器使用まで認めるなんて...
.
右傾化する自民党に魂を売って政権与党の立場を守るのも、明らかに宗教者の腐敗である。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
8月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
常陸国鹿嶋社(神宮の公式サイト)の神宮寺本尊が汗を流したとの報告があった。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
8月7日
.
吾妻鏡
.
.
幕府の北小庭に石を立てる指示が下った。今日阿弥陀堂の加賀法印定清が招かれ仰せを受けたもので、左衛門尉武藤景頼が奉行に任じる。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
8月15日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮で放生会があり将軍家(藤原頼嗣)が出御した。
.
  随兵
.
    先陣
      相模三郎太郎北条時成   武蔵四郎北條時仲(北條時房-四男で嫡子の朝直-時仲)
      三浦介(佐原)盛時   梶原左衛門尉景俊(景茂の嫡子)
      上野五郎兵衛尉結城重光(結城朝光の七男で山川氏の祖)   常陸次郎兵衛尉行雄
      足利三郎家氏(足利泰氏の庶長子で尾張足利氏初代)   城九郎安達泰盛
      北條六郎時定   遠江太郎北條清時(北條朝直の長子で六代将軍宗尊親王の近臣)
.
    後陣
      越後五郎時家(北條公時の嫡子で名越流4代当主)   相模八郎北條時隆(時房-次男時村-時隆)
      武田五郎三郎政綱(信時の弟。2月26日を参照)
      江戸七郎太郎重光(重長-忠重-重行-重光と続く嫡流)
      出羽三郎二階堂行資(行義の子?)   大泉九郎長氏
      橘薩摩余一公員(公成(公業)の次男で出羽に土着し小鹿島を名乗る)   土肥次郎兵衛尉?
      葛西新左衛門尉清時(清重の子または孫だが系図が錯綜している)
      千葉次郎胤泰(千葉氏九代当主宗胤の次男で肥前千葉氏の祖。
.

.
   ※北条時成: 北條資時の長男(物狂い)が三郎太郎だと思うが、北條時盛にも同名の男子がいる。
.
   ※大泉長氏: 武藤資頼が奥州合戦の功績で得た大泉庄(現在の山形県鶴岡市から酒田市)を弟の氏平に譲り、
太宰少弐に任じて鎮西に下った。氏平は大泉庄地頭として大宝寺(現在の鶴ヶ岡城・観光サイト)に土着し大泉氏→後に大宝寺氏を名乗った。長氏は氏平の景累と思われるが系図に記載なし。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
8月16日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(五代藤原頼嗣)が鶴岡八幡宮上宮と下宮に奉幣、その後に馬場の儀(流鏑馬など)あり。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
8月18日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(五代藤原頼嗣)が由比浦で遊覧。前後を守る供奉人は直垂を着して弓箭を持ち、40歳以上の者は征矢(実戦用)を・40歳未満の者は野箭(狩猟用)を携えた。年齢の上下で各々六騎づつ射手が分かれて犬追物が催され、上が44疋・下が47疋の成績だった。
越後五郎北條時家と武蔵太郎北條朝房の二人も射手に選ばれていたが今回は辞退を申し出た。
.
   御出の行列
.
    先行十騎(三騎づつ並列)
陸奥四郎北條時茂   遠江六郎北條教時   相模三郎太郎時成(8月15日を参照)
武蔵四郎北條時仲(北條時房-四男で嫡子の朝直-時仲)   足利三郎利氏(4代当主頼氏の初名)   長井太郎時秀
城九郎安達泰盛(一騎)
陸奥七郎時尚(北條義時の七男か八男)   尾張次郎北條公時   越後五郎北條時員(北條時盛の子)
.
    次いで将軍家(御水干)御騎馬
.
佐渡五郎左衛門尉後藤基隆(基綱の次男)   肥後次郎左衛門尉天野忠綱   土肥次郎兵衛尉朝平
太郎左衛門尉三善康定   摂津新左衛門尉   筑前四郎二階堂行佐
江戸七郎太郎重光(重長の孫)   武石四郎胤氏   出羽三郎二階堂行資
伯耆新左衛門尉   鎌田左衛門尉(以上は徒歩、御駕の左右)
.
    次いで御後
備前前司北條時長   遠江守北條時直   相模左近大夫将監北條時定
陸奥掃部助北條実時   宮内少輔足利泰氏   遠江左近大夫将監北條時兼
北條六郎時定   遠江太郎北條清時   相模八郎北條時隆
武蔵太郎?   武蔵五郎北條宣時   上野前司畠山泰国
那波左近大夫政茂   小山出羽前司小山長村   壱岐前司佐々木泰清
筑前前司二階堂行泰   伊勢前司二階堂行綱   佐渡大夫判官後藤基政
遠江次郎左衛門尉佐原時連   左衛門尉梶原景俊   三浦介(佐原)盛時
上野十郎結城朝村   阿曽沼小次郎光綱   千葉次郎泰胤
城次郎安達頼景   同三郎景村   同四郎時盛
大曽祢左衛門尉   大曽祢次郎左衛門尉   隠岐次郎左衛門尉盛経
遠江六郎左衛門尉三浦時連   式部六郎左衛門尉伊賀朝長   左衛門尉武藤景頼
遠江新左衛門尉佐原経光   左衛門尉小野寺三郎通時   出羽次郎左衛門尉
小野寺四郎左衛門尉   左衛門尉足立太郎直元   出羽四郎左衛門尉中條光宗
信濃四郎左衛門尉二階堂行忠   伯耆四郎左衛門尉葛西光清   和泉次郎左衛門尉二階堂行章
右衛門尉三善康長   弥次郎左衛門尉親盛   常陸次郎兵衛尉二階堂行雄
土肥四郎実綱(下記)   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能?   同九郎祐綱(下記)
武田五郎三郎武田政綱
.
    犬追者射手
一番 44疋
遠江六郎左衛門尉佐原時連   小笠原余一長経   遠江六郎北條教時
城次郎安達頼景   遠江新左衛門尉佐原経光   信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
.
二番 47疋
武田五郎三郎武田政綱   薩摩九郎伊東祐朝(祐時の嫡子で早川氏)
上野十郎結城朝村(朝光の八男で弓の名手、嘉禎四年5月16日を参照)
城九郎安達泰盛   土肥四郎実綱(実平─遠平─惟平─倫平─実綱と続く)
和泉次郎左衛門尉二階堂行章
.
逃げ切った犬 9疋
.

.
   ※犬追物: 承久四年(1222)2月6日に画像を含めた詳細を記載してある。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
8月26日
.
吾妻鏡
.
.
雑人(庶民)が武士を訴える訴訟についての規則を定めたが、これは既に発布した御下知(雑人が武士を訴える事の禁止)に背くため直ちに停止する。ただしこの御下知の決まりに従っての訴訟であれば制限の限りではない、と。
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
8月27日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼の室が妊娠、(安産を祈る)祈請が行われた。
.

.
   ※正室が妊娠: 翌・建長三年(1251)5月15日に誕生した正寿(元服後の時宗)だろう。側室が産んだ2歳上の
庶長子時輔を押し退けて嫡子の待遇になる。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
9月4日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮の別当法印隆弁が上洛の途に就いた。園城寺((公式サイト)の興隆と龍花会執行が目的である。
.

.
   ※龍花会: 三井寺が行なう法要で、比叡から琵琶湖に降るルートにある龍華越えと関わりがあるらしいが詳細は
判らない。平治の乱に敗れた源義朝一行が逃げ延びた道であり、次男の朝長が僧兵の矢を受けて太股に深手を負った場所でもある。逃走ルートなど詳細は龍華越えで。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
9月10日
.
吾妻鏡
.
.
諸人の訴訟に判決を下す場合は専ら式條(貞永式目・御成敗式目、詳細はwikiで)を守り參差(判決のバラつき)に注意するよう、引付衆および問注所と政所など(裁判を管掌する部署)に通告した。
.

.
   ※貞永式目: 詳細に興味があればこちらのサイトが解りやすい。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
9月18日
.
吾妻鏡
.
.
久遠壽量院で般若房律師が門弟等を率いて 一日中千巻の観音経転読を行なった。将軍家(藤原頼嗣)が催した御祈祷で、布施などは政所が手配した。訴えた側が敗訴した場合は十貫文の罰金を徴収して橋の維持補修の費用に充当する。予め誓約書を提出させてから裁判を始める、と。
.

.
   ※久遠壽量院: 前将軍藤原頼経の持仏堂。まだ詳細は不明だが九条道家に仕えていた教雅という人物が別当
を務めており、彼が残した「久遠壽量院別当次第」が京都の東寺(公式サイト)の別院に保存されている。いずれ詳細が判明する時期が来るだろう。
.
   ※転読: 経典の語句を正確に詠むのが真読で転読は一首の飛ばし読み。ユーチューブで確認するほうが早い。
.
   ※十貫文: 米の価格で単純換算すると30~40万円だが物価の基準が現代と異なるから参考程度に。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
9月19日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼の室家が体調不良。陸奥守北條重時が見舞いに訪れ多数の人々も集まったが程なく回復した。
.

.
   ※時頼の室家: 北條重時の娘で正確には継室。正室は毛利季光の娘(子女なし)だったが宝治合戦(1247年)
で季光が三浦泰村に味方して自殺したため離縁になっている。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
9月26日
.
吾妻鏡
.
.
亥刻(22時前後)に相模守北條時頼邸で失火あり。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
9月28日
.
吾妻鏡
.
.
名越近辺で火災。今日、陸奥守北條重時が調度(家財道具)を相模守北條時頼邸に送った。火事への対応である。
.

.
   ※時頼邸: 名越は北條朝時の本拠。嫡子光時らの多くは宮騒動(1246)で失脚したが、まだ次男北條時章
五男時兼・六男教時らが健在である。火事と時頼邸の関係が判らない。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
10月7日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
京都大番役についての評議が行われた。諸国の御家人が惣領を軽んじたり、或いは守護人の指示に背いたりして、別の権力者に従っての大番役勤務を希望する例が多発している。これは規律が乱れる元であり、今後は守護の招集命令に従うか一門の惣領に従って務めねばならない。自分の意思による選択は許可しない事を通達する。
.

.
   ※惣領制の崩壊: 弱小御家人の間では既に経済的な意味での崩壊が始まっている。幕府はシステムの面から
惣領制を維持したいのだろうが...。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
10月14日
.
吾妻鏡
.
.
前周防守で従五位下の藤原朝臣朝親法師が没した。
.

.
   ※藤原朝親: 宇都宮(横田)朝業の嫡子塩谷親朝を差す(吾妻鏡では名前が反転している)。死亡記事を載せる
ほど歴史に残る人物ではないと思うが...
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
10月16日
.
吾妻鏡
.
.
貢馬(朝廷に献じる馬)の内覧があり、陸奥守北條重時と相模守北條時頼以下の御家人が参列した。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
11月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
将軍家(藤原頼嗣)が三島神社の神事期間中の精進潔斎を開始した。今年は特に祈願することがあるため特に心を込めて祈り、共に精進潔斎の参籠に加わると決まっている者以外は加わってはならないと周知させた。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
11月11日
.
吾妻鏡
.
.
夜になって若宮大路で大きな騒動が勃発した。(10月14日に死没した)故塩谷周防前司入道(塩谷親朝)の郎従らが論争の挙句に喧嘩となり、下野前司宇都宮泰綱の郎従が応援と称して集まったため更に大騒ぎとなった。
.
主人の親朝法師が他界して、未だ忌景(喪)が明けておらず、将軍家も御精進の最中である。普段から宗教心に欠ける輩とはいえ、幕府および主家への配慮に欠ける行動は重科に処するとの通告が発せられ、指示を受けた宇都宮泰綱が現地に赴いて鎮静させたため大きな問題にはならなかった。
.

.
   ※泰綱と塩谷: 宇都宮氏五代当主宇都宮頼綱の三男泰綱が家督を継承
したのは生母が北條時政の娘だったため。稲毛重成の娘が産んだ長男(次男説・三男説あり)頼業は横田郷(宇都宮市南部)千余町を相続して横田氏の祖となった。
.
頼綱の父朝綱の屋敷は元々二の鳥居に近い小路(辻子)にあり、北條泰時が大倉から移転させた政庁はこの小路に面していたため「宇都宮辻子幕府」と呼ばれた。
.
若宮大路で喧嘩が起きたのは宇都宮氏が継続して辻子の屋敷を使っていたのが発端とも考えられる。
.
右画像は宇都宮邸の跡と伝わる宇都宮稲荷神社。
               画像をクリック→ 宇都宮辻子と若宮大路へ。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
11月20日
.
吾妻鏡
.
.
左衛門尉宇佐美祐泰の廷尉(検非違使)任官について推挙を認める旨の決裁があった。

.
   ※宇佐美祐泰: 工藤祐経の弟祐茂が父の祐継から久須美荘北部を相続
して宇佐美を名乗り、祐政-祐秀-祐泰と続いている。
.
熱海から伊東に向かう国道135号沿いに居館の跡が残り、城山の中腹には多数の五輪塔や宝篋印塔が集められている。全国の宇佐美氏発祥の地である。
.
右画像は城山に残る宇佐美氏の墓所。
   画像をクリック→ 城山と宇佐美氏累代の墓所へ。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
11月28日
.
吾妻鏡
.
.
遊び人の如く暮らしている武士らが四一半の骰子博奕を生業にしている。特に陸奥・常陸・下総の三ヶ国でこの傾向が甚だしいとの噂が届いた。今日これに対応し、今後は囲碁以外の博奕は全て禁止するとの布告を発した。陸奥国留守所兵衛尉・常陸国宍戸壱岐前司・下総国千葉介らには特に禁制を徹底させよとの命令を含んでいる。
.

.
   ※留守所など: 伊沢家景が奥州藤原氏の滅亡後に留守所(奥州統括の責任者)として赴し、子孫はこの職掌を
継いで留守氏を名乗った。該当者は曾孫の恒家か。
宍戸壱岐前司は八田知家の孫である家周か、曾孫の家宗だろう。
千葉介は元服前(満10歳)の亀若丸(翌年か翌々年に時頼の偏諱を受け元服した頼胤)。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
11月29日
.
吾妻鏡
.
.
多くの武士が禁制に背いて日頃から鷹狩りを常習しているのは喧嘩や狼藉沙汰の原因になっている。このため諸国の守護人に改めて布告を発した。内容は次の通り。
.
 鷹と鶻(はやぶさ)の件
.
右大将家(頼朝)の時代から、神社の神事として生贄にするための鷹狩り以外をは禁止しているが、近年諸人が好んで行なっているのは実に不届きである。今後は改めて神事以外の鷹(猛禽類全て)狩りなどは一切禁止する。この内容を承知し、守護として管理している国内での禁制を徹底せよ。
不承知の者がいれば報告すること。   以上、将軍家(藤原頼嗣)の仰せに従って通告する。
.
          建長二年十一月二十九日    相模守北條時頼   陸奥守北條重時   某殿
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月3日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。今日、壱岐前司佐々木泰綱の子息小童(九歳)が相模守北條時頼邸で元服して三郎頼綱を名乗った。引出物を含む運営は豪華で実に見事だった。一門の者も多数が出席してそれぞれの役目を務め、陸奥守北條重時と秋田城介安達義景も参席した。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月5日
.
吾妻鏡
.
.
今日相模守北條時頼が飛脚を京都に派遣した。これは室家(正室は重時の娘)が妊娠した着帯と安産祈祷を(三井寺に駐在している)若宮別当法印隆弁に依頼するのが目的である。
.
秋田城介安達義景も同じく使者を送り、「去る5月に女房(女官)から届いた妊娠との報告は間違っていたが隆弁は「8月なら確実」と予告し、その正しさは明らかになった。」と伝えた。
.
時頼が支配する国と庄園では明年5月までの殺生を禁じた。出産に備えた祈祷で、重時も同様の命令を下した。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月7日
.
吾妻鏡
.
.
召文(召喚状)に従わない罪に関する協議があり、三回応じなければ使者を送って催促し、更に守らない場合は記録して罪科に問う旨が決定された。三番の引付衆(訴訟担当の事務官)以下にこの内容を周知させた。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月8日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼が室家の安産を祈るため大倉薬師堂(今年の2月8日を参照)に参堂し、願書を内陣(本尊を安置する内殿)に奉じた。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月9日
.
吾妻鏡
.
.
野本次郎行時が名国司着任を望んでいる。父の野本(斎藤)基員が能登守に任じた時には成功を介さず直接任官した、その例に準じて臨時の沙汰をとの求めである。左衛門尉清原満定を奉行として今日決裁があった。
.
時員の場合は越後入道勝圓(北條時盛)に従って在京していた際に時盛の推挙を得て任官した。幕府が法を定めた現在では 名国司に関してこの例に倣う事はできない、との結論である。また臨時の沙汰については、三分官については内容により朝廷への申し込みを受け付けるが、名国司以上の官職に至りては希望を受け付けない、と。
.

.
   ※名国司: 実権を伴わない名目だけの国司で幕府の御家人が私財の献納と引き換えに任じた例が多い。
.
   ※野本基員: 能登守に任じたのは下河邊政義の実子で基員の養子になった時員。今回任官を希望した行時の
系図上の位置は確認できない。
.
   ※成功: 私財の献納や造営などの奉仕で官位官職を得る買官制度。兵安時代中期以降は国費の不足を補う
目的もあってかなり頻繁に行なわれた。
.
   ※三分官: 衛府の四等官(督・佐・尉・志)の督を除く下の三階級。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月11日
.
吾妻鏡
.
.
幕府の南庭で連夜に狐の声がするため、今夜の宿直を務めていた筑後左衛門次郎知定の代官が引目の矢でこれを射た。狐は東の唐門から走り出て鳴き声は比企ヶ谷の方向へ去った。
.

.
   ※引目: 矢の先端に付ける鏑の一種(右画像)。音を出すため開けた
穴が蟇蛙の目に見えるため蟇目または蟇目鏑とも言う。
正式な造りは四つ穴、殺傷が目的ではない。
.
   ※比企ヶ谷: 建仁三年(1203)に北條時政が滅ぼした比企能員館が
あった谷津。この時に二代将軍頼家も修禅寺に幽閉され、娘(生母は能員の娘)は後に四代将軍藤原頼経の正室として能員の館跡に屋敷を構えた。
.
彼女(若狭局)の配慮により能員の遺児(比企の乱当時2歳)で出家していた大学三郎能本は鎌倉帰還を許され天福二年(1234)に没した竹御所の菩提を弔うため館跡に法華堂を建立した。
.
これが現在の比企ヶ谷妙本寺の原型である。能本は建長五年(1253)に日蓮に帰依し、翌年には鎌倉で辻説法を始めた日蓮に比企氏の館跡を寄進することになる。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月13日
.
吾妻鏡
.
.
晴、風が静まった。 今日相模守北條時頼の室家が着帯の儀を行ない、鶴岡八幡宮の別当法印隆弁が加持祈祷を担当した。法印隆弁は去る9月から住持する三井寺に移っていたが、法印を招請するため時頼が派遣した飛脚と萱津の駅で行き逢い、寸暇を争って今夕鎌倉に到着した。
着帯後に再び祈祷を始め、安達義景の負担による薬師護摩、陸奥守北條重時の負担による如意輪護摩、時頼の負担による北斗供の三壇の加持を法印一人で催した。
.

.
   ※萱津の駅: 江戸時代には名古屋駅の西側、中村公園から庄内川を挟んで甚目寺近くまで(地図)の広い範囲
が宿場町だった。鎌倉時代の将軍の上下向には再三宿泊地として利用され、嘉禎四年(1238)2月10日には四代将軍藤原頼経がこの宿で体調不良に陥っている。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月15日
.
吾妻鏡
.
.
幕府小侍所(将軍の身辺を世話する側近の詰所)の担当に苦労している者の多くが新たな恩賞を受けた。精勤を心掛けている者には勤務年数を論せずに配慮せよとの仰せである。
.

.
   ※仰せ: これも主語が不明なんだよね。常識的には将軍家の発言だと思うけど僅かに満10歳だし、執権の指示
も意図的に「仰せ」と書くことがあるから...。原文は「被仰出云々」
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月18日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼が室家(正妻)の御願として七観音堂の前で誦経を行なった。担当は各観音堂の別当、奉行は塩飽左衛門大夫信貞。
.

.
   ※七観音堂: 鎌倉中期以前の建立で観世音菩薩を本尊とする寺を札所からピックアップすると...結構多い。
特に著名なのは杉本寺・田代寺(安養院)・明王院・延命寺・来迎寺(西御門じゃなく材木座の方)・成就院・壽福寺などなど、その他に廃寺となった堂も多いだろうからとても確定はできない。
.
   ※塩飽: 読みは「しわく」、讃岐国那珂郡塩飽荘から出た一族で、得宗被官が多かった。太平記には鎌倉滅亡の
際に塩飽入道聖遠と嫡子三郎左衛門忠頼と弟の四郎が揃って自刃する壮絶な姿が描かれている。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月20日
.
吾妻鏡
.
.
御所が無人の状態になった。小侍所からは出勤の催促が何回も出されたが対応が見られないため相模守北條時頼に報告し、将軍家(藤原頼嗣)への奏上を促されて今日その沙汰が下った。
.
規則を破った者は出仕停止とし、真面目な勤務を続けている者を補任して勤番を組むように、との命令である。
左衛門尉清原満定が新しく組んだ勤番を読み上げた。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月21日
.
吾妻鏡
.
.
来年正月の御弓始めを務める射手について検討があり、射た的を確認する役目の人数を定めた。該当者には早急に連絡するよう、朝夕の雑色(常勤者)の長である湯浅次郎国弘・本田太郎宗高・和海三郎家眞に指示を下した。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月23日
.
吾妻鏡
.
.
相模守北條時頼の妾である三河局が御所から他所に転居となった。やや出過ぎた発言があったため正室の父親である陸奥守 北條重時の苦言などにより突然の措置となった。彼女は二男若公の生母である。
.

.
   ※二男若公: 後の北條時輔(満2歳半)。吾妻鏡は生母を三河局としているが、一般的には讃岐局(鎌倉幕府の
御家人で出雲横田荘の地頭に任じた三処某の娘。当初は将軍家の女官か)とする説が多い。
文永九年(1272)2月に時輔が時宗の討手に殺された後は出家し出雲で余生を過ごしたという。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月27日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家近習の勤番を定めた。今後に勤怠があった輩は名簿から削除し無期限に出仕停止の処分を課す旨を厳しく告知した。番帳の清書は山城前司中原盛時。
.
   定  結番の事(順不同)
.
    一番 子午
       備前前司     遠江左近大夫将監  遠江六郎    武蔵五郎
       城九郎      小山出羽前司   能登左近大夫   武藤左衛門尉
       出雲五郎左衛門尉 隠岐次郎左衛門尉 筑前次郎左衛門尉
       式部六郎左衛門尉 同兵衛太郎     佐貫弥四郎   山内三郎太郎
       平賀新三郎
.
    二番 丑未
       遠江守    相模式部大夫    遠江太郎    長井太郎
       佐々木壱岐前司    内蔵権頭    大曽弥次郎左衛門尉
       大須賀左衛門尉    遠江新左衛門尉    薩摩七郎左衛門尉
       足立太郎左衛門尉    阿曽沼小次郎    大曾弥五郎    土肥四郎
       三村新左衛門尉    加藤三郎
.
    三番 寅申
       相模左近大夫将監    武蔵太郎    相模八郎    那波左近大夫
       安藝前司    城次郎    出雲次郎左衛門尉
       伊東八郎左衛門尉    千葉次郎    隠岐新左衛門尉
       伊賀次郎左衛門尉    宇佐美籐内左衛門尉    壱岐太郎左衛門尉
       加地太郎    武藤八郎    本間次郎兵衛尉
.
    四番 卯酉
       宮内少輔    上野前司    足利三郎    新田参河前司
       下野七郎    佐渡大夫判官    梶原左衛門尉    同太郎
       信濃四郎左衛門尉    出羽次郎左衛門尉    小野寺新左衛門尉
       上野十郎    波多野小次郎    中條出羽四郎左衛門尉
       伊賀四郎    鎌田次郎兵衛尉
.
    五番 辰戌
       北條六郎    尾張次郎    武蔵四郎    城三郎
       近江大夫判官    遠江次郎左衛門尉    同六郎左衛門尉
       摂津新左衛門尉    伯耆四郎左衛門尉    善太左衛門尉    備後次郎兵衛尉
       出羽三郎    波多野五郎兵衛尉    伊賀三郎    筑後左衛門次郎
       土屋新左衛門尉
.
    六番 巳亥
       陸奥掃部助    陸奥四郎    越後五郎    上野三郎
       佐渡五郎左衛門尉    和泉次郎左衛門尉    肥後次郎左衛門尉
       和泉七郎左衛門尉    弥次郎左衛門尉    常陸次郎兵衛尉    薩摩九郎
       小野澤次郎    筑前四郎    大泉九郎    渋谷次郎太郎
       長江七郎
.
   以上の結番次第を守り昼夜を問わず懈怠無なく勤めること。将軍家の仰せに従ってこれを定める。
            建長二年十二月日     相模守北條時頼   陸奥守北條重時
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月28日
.
吾妻鏡
.
.
出羽前司小山長村からの訴えがあった。
.
下野国の大介職は伊勢守藤原藤成朝臣(wiki)から十六代目の小山長村に至るまで途切れることなく続いてきたが、伊勢神宮雑掌(下級荘官)の訴えによって解任されてしまった。訴訟そのものは米や銅などの賠償により和解したが、大介職と所領の二つを失う結果になったのは全く痛恨の極みである。
.
長村からの再三の愁訴を評議した結果、返却するとの結論が出された。
.

.
   ※大介職: 国司または国司に準じる実力を持つ者が名乗る名誉職で、
署名に加えて権威を誇示するのを通例とした。
.
   ※藤原藤成: 藤原鎌足─ 次男不比等─次男で北家の祖 房前─五男魚名
に続く四男の藤成が秀郷流藤原氏の祖となった。
.
藤成の孫が武名の高い藤原秀郷、佐野市郊外に唐沢山城を築いて本拠とし、天恵三年(940)には坂東を突風の如くに走り抜けた平将門を追討している。
.
右画像は唐沢山城址の古い石垣。大部分は戦国時代から江戸時代初期の遺構だが一部には秀郷時代の痕跡が見られるという。
.
     画像をクリック→ 「唐沢山城址と伝・秀郷の墓所と周辺の史跡」(別窓)へ。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
12月29日
.
吾妻鏡
.
.
陸奥守北條重時と相模守北條時頼が右大将家(頼朝)・右大臣家(実朝)・二位家(政子)および右京兆(北條義時)の墳墓堂に巡拝した。佐渡前司後藤基綱・出羽前司小山長村・三浦介(佐原)盛時・出羽前司二階堂行義・刑部大輔入道らが同行した。今日、幾つかの政令が発布となった。
.
焼失した閑院(里内裏)の新築が完成した時に従う滝口衆を関東から派遣するようにとの仰せがあり、寛喜二年(1230)閏1月の例に倣って然るべき御家人の子息を選ぶこととなったが人数等の詳細が不明である。当時の命令書を探し出し、派遣された者の子孫に確認を命じたところ、押垂齋藤左衛門尉の子孫から申し出があった。
.
「滝口に伺候した経験はありますが、今回は造営も担当しているため、追加の人数を認めて欲しい」とのこと。これについて奉行の清原満定からは「既に人数を決定しているため後日改めて申し出るように」との返答があった。
.
また、隠岐前司佐々木義清の嫡男で幕府の近習を勤め、既に出家した隠岐太郎左衛門入道心願(佐々木泰清 )の請願があった。
.
かつて若狭前司三浦泰村は北條殿の縁戚として権勢を極め、御家人の上役であるかの如き態度だった。
私はそれが承服できず着座の上下などで再三の喧嘩口論を重ねたが、遂に馬鹿馬鹿しくなって所領を弟の次郎左衛門尉泰清に譲り出家を遂げた。その後に息子が生まれ、更に泰村も滅亡して出家を後悔するようになり、息子を養うため所領の少々を割譲してくれるよう願ったが泰清は承諾してくれない。
.
泰清の息子らからも上訴があり再度の検討を加えたが許容せずとの結果になった。奉行は山城前司中原盛時。
.

.
   ※墳墓堂: 頼朝の墳墓堂は現在の白幡神社一帯にあった法華堂で、宝治元年(1247)6月には三浦一族が
ここで自刃している。現在の頼朝廟所は江戸時代に頼朝の子孫を名乗る嶋津家が造成し、廃墟となっていた勝長寿院の敷地から素性の判らない五層の石塔を回収して墓石にした、と伝わる。
.
実朝と政子の墳墓堂は元々は勝長寿院にあり、鎌倉時代末期か南北朝時代の火災後に寿福寺に移したらしい。現在の墓地裏にある「やぐら」の五輪塔は死没当時のものか再建したものかは不明。
.
義時の法華堂は頼朝廟所の東、三浦一族の遺骸を葬ったと伝わる「三浦やぐら」前の平場に建っていた。
.
更に東の中腹にある通称「よしときさん」が墓所との伝承もあるが、これはガセネタらしい。薮を掻き分けて登った場所なのに...その後に法華堂跡が発掘調査されちゃった。
.
   右は義時法華堂周辺の史跡地図(クリック→拡大)
.
詳細は頼朝法華堂の跡寿福禅寺義時法華堂の跡で。
.
   ※刑部大輔入道: 吾妻鏡には(あまり重要ではない場面で)数回現れる
名前なのだが、素性が判らない。田村刑部大輔仲能の可能性が考えられるが、そのうちゆっくり調べるとしよう。
.
   ※寛喜二年の例: 吾妻鏡の記載は「瀧口武者が不足しているため経験のある武士の子孫に命じて出仕させよ
との院宣が下された。今日その件について、小山・下河邊・千葉・秩父・三浦・鎌倉・宇都宮・氏家・伊東・波多野ら一族から各々子息一人を派遣するよう沙汰があった。鎌倉殿(将軍)の命令として、相模守北條時房と武蔵守北條泰時連名の下文である。」との内容。
.
   ※瀧口武者: 蔵人所の配下に置かれた警護の武士組織で任じるのは武士の栄誉でもあった。名称の由来など
は承元四年(1210)5月11日の条に概略を記載してある。
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦1250年
.
89代後深草天皇
.
建長二年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.


前年・建長元年(1249)の吾妻鏡へ       翌年・建長三年(1251)の吾妻鏡へ