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建長三年(1251年)

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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相模守北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。献上の役人、陸奥掃部助北條実時が御剣を、前右馬権頭北條政村が弓箭を、佐渡前司後藤基綱が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 相模式部大夫時弘 と 相模八郎時隆
   二の御馬は 武蔵四郎時仲 と 同五郎時忠
   三の御馬は 遠江六郎左衛門尉時連 と 同新左衛門尉経光
   四の御馬は 上野弥四郎右衛門尉時光 と 同十郎朝村
   五の御馬は 和泉次郎左衛門尉行章 と 出羽三郎行資
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今日、将軍家(藤原頼嗣)と若君(乙若)御前の御行始め(外出初め)の儀があり、相模守時頼邸に入御した。
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  将軍家の供奉人
前右馬権頭政村   武蔵守朝直   陸奥掃部助實時
宮内少輔泰氏   北條六郎時定   越後五郎時家
佐渡前司基綱   大蔵権少輔朝廣   小山出羽前司長村
下野前司泰綱   新田三河前司頼氏   前太宰少貳為佐
遠山前大蔵少輔景朝   内蔵権頭資親   安芸前司親光
能登右近大夫仲時   大隅前司忠時   内藤肥後前司盛時
筑前前司行泰   薩摩前司祐長   遠江次郎左衛門尉光盛
武藤左衛門尉景頼   大曽祢左衛門尉長泰   和泉次郎左衛門尉行章
摂津新左衛門尉   常陸次郎兵衛尉行雄   本間次郎兵衛尉信忠
小野澤次郎時仲   北條六郎時定   越後五郎時家
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  若君の供奉人
尾張前司時章   遠江守時直   相模右近大夫将監時
相模八郎時隆   那波左近大夫政茂   上野三郎国氏
縫殿頭師連   越中前司頼業   伊勢前司行綱
伊賀前司時家   三浦介盛時   城二郎頼景
伊賀二郎左衛門尉光房   式部六郎左衛門尉朝長   出羽次郎左衛門尉行有
壱岐太郎左衛門尉   大須賀次郎左衛門尉胤氏   肥後次郎左衛門尉景氏
弥善太左衛門尉康義   隠岐新左衛門尉時清   大曽弥五郎
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※乙若君: 頼経の次男(詳細不詳)で生母は三位中納言・持明院(藤原)家行の娘大宮殿(正室扱い)。
他に寛元元年(1244)に産まれた三男(源恵・生母不明)が本覚寺門跡→日光山別当→勝長寿院別当を経て正応五年(1292)に97世の天台座主に就任している。
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   ※年令: 五代執権北條時頼は23歳・連署北條重時は53歳・ 六代執権になる北條長時は21歳・
七代執権になる北條政村は46歳・ 足利義氏は62歳・ 結城朝光は83歳・ 安達義景は35歳・
安達泰盛は20歳・ 将軍藤原頼嗣は11歳・ 六代将軍になる宗尊親王は8歳(まだ在京)・
第89代後深草天皇は7歳・先帝の後嵯峨上皇は29歳      (表示は全て満年齢)
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月2日
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吾妻鏡
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陸奥守北條重時の沙汰による椀飯の儀あり。
武蔵守北條朝直が御剣を、相模式部大輔北條時弘が弓箭を、下野前司宇都宮泰綱が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 陸奥弥四郎北條時茂 と 村櫛三郎兵衛尉
   二の御馬は 下野七郎宇都宮経綱 と 浅羽左衛門次郎
   三の御馬は 上野五郎左衛門尉結城重光 と 同三郎兵衛尉結城廣綱
   四の御馬は 出雲五郎左衛門尉宣時 と 同次郎光時
   五の御馬は 遠江六郎北條教時 と 尾張次郎北條公時
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月3日
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吾妻鏡
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左馬頭入道足利正義の沙汰による椀飯の儀あり。
武蔵守北條朝直が御剣を、宮内少輔足利泰氏が弓箭を、三河前司新田(世良田)頼氏が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 足利三郎家氏 と 同次郎顕氏
   二の御馬は 上野三郎畠山国氏 と 太平左衛門尉
   三の御馬は 遠江六郎左衛門尉佐原時連 と 同新左衛門尉佐原経光
   四の御馬は 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 と 同三郎二階堂行資
   五の御馬は 三村新左衛門尉時親 と 同二郎
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月4日
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吾妻鏡
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晴。丑刻に塔の辻付近の人家数十宇棟が焼失した。大蔵権少輔結城朝広の家も含まれており、先祖から伝わった地頭関連書類の他に重宝などが全て失われたという。
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   ※塔の辻: 複数の道が交わる場所に石塔を建てたのが鎌倉で七ヶ所の
塔の辻。更に複数ヶ所があったらしいが、概ねの場所が確認できるのは、北から建長寺の前・円覚寺の前・浄智寺の前・筋替橋付近・鉄の井前・下の下馬前・笹目。
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笹目の辻だけは五輪塔の残欠(右画像)が確認できる。
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更に笹目塔の辻の詳細は極楽寺から小町口へと続く古道のリンク先中段で。
     塔の辻七ヶ所の地図はこちらで。結城邸の位置は判らない。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月5日
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吾妻鏡
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晴。二位殿と二棟の御方が御行始め(外出初め)として秋田城介安達義景邸に入御した。
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  供奉人(略礼装の布衣(狩衣)、騎馬は総房飾り)
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  二位殿の御方
     備前前司北條時長    遠江左近大夫将監北條時兼    相模三郎太郎北條時成
     那波左近大夫政茂    出羽前司小山長村    三河前司新田(世良田)頼氏
     上野三郎畠山国氏    縫殿頭中原師連    遠江六郎左衛門尉佐原時連
     弥一郎左衛門尉親盛    摂津左衛門尉    常陸二郎兵衛尉二階堂行雄
     出羽三郎二階堂行資
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  二棟の御方      陸奥掃部助北條実時    北條六郎時定(以上御車寄せ)
     相模式部大夫北條時弘    越後五郎北條時家    内蔵権頭資親
     安芸前司親光    越中前司宇都宮頼業    大隅前司嶋津忠時
     豊後四郎左衛門尉嶋津忠綱    肥後次郎左衛門尉天野景氏    和泉二郎左衛門尉二階堂行章
     大曽祢次郎左衛門尉盛経     和泉五郎左衛門尉天野政泰    筑前二郎左衛門尉二階堂行頼.

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   ※頼経の妻子: 前将軍藤原頼経の正室竹御所は難産で母子共に天福二年(1234)7月に死没、頼経は後添え
の正室として正三位権中納言藤原(持明院)家行(wiki)の娘・大宮殿(二位殿)を迎えた。
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もう一人、側室(準正室とでも言うべきか)の従二位権中納言藤原親能(wiki)の娘・二棟方が嫡男で五代将軍になる藤原頼嗣を産み、その後に正妻の大宮殿が次男乙若を産んでいる。この乙若は後の記録に現れないため早世した可能性が考えられる。
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正妻も側室も出自が高位の公卿だったためか、吾妻鏡も歯切れの悪い序列の記載をしている。更に子供の父親が既に失脚して京都に追放されているのだから状況は更に複雑だ。
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もう一人、寛元元年(1244)に産まれた三男(源恵・生母不明)は本覚寺門跡→ 日光山別当→
勝長寿院別当を経て正応五年(1292)に97世の天台座主に就任している。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月7日
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吾妻鏡
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晴。御所で女房(室家と女官)の賭け事勝負あり。二位殿・二棟の御方および相模守北條時頼の室も加わった。
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   ※賭け事: 遊びの範疇の賭け事と金銭を遣り取りする賭博は区分してるんだろうな。現代と同じか。
ところで、景品引換所で換金してるパチンコはOKで賭け麻雀なら犯罪、その根拠は何だろう。
管轄官庁である警察からの天下りをパチンコ業界を受け入れてるからだね。嫌な世の中だ。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月8日
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吾妻鏡
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晴。御所で心経会があり、将軍家(藤原頼嗣)が出御した。
今日、相模守北條時頼が金銅の薬師如来像(八寸)を鋳造させた。正室の安産祈願のためで、すぐに工藤三郎左衛門尉光泰の奉行で開眼供養を行なった。導師は鶴岡八幡宮の別当法印隆弁。また終日の薬師供と大般若経の信読(経典を全て読む読経。転読の対語)を行なった。
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続いて由比ヶ浜での御弓始めに出場する射手を選び、陸奥掃部助北條実時が現地を確認、武蔵守北條朝直・遠江守北條時直北條六郎時定らが見物のため同行した。
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  選んだ射手は十七人
      一番  武田五郎七郎政平   早河次郎太郎祐泰
      二番  横溝七郎五郎忠光   桑原平内盛時
      三番  布施三郎行忠   小野沢二郎時仲
      四番  平井八郎清頼   薩摩九郎安積祐朝
      五番  真板五郎二郎経朝   池田五郎
      六番  佐貫弥四郎広信   諏訪兵衛四郎盛頼
      七番  多賀谷弥五郎重茂   工藤右近三郎
      八番  河野右衛門四郎通時   一色四郎左衛門尉
      九番  棗右近三郎(独り弓)
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月9日
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吾妻鏡
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政所と問注所の職員が延年(歌舞演芸・宴会芸)の勝負を行なった。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月10日
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吾妻鏡
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晴。御弓始めあり。陸奥守北條重時・相模守北條時頼・前右馬権頭北條政村・宮内少輔足利泰氏らが出仕した。
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射手は十人(各々立烏帽子で水干・葛袴・浅沓)二射づつ五度、的を射た。
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      一番  武田五郎七郎政平   早河次郎太郎祐泰
      二番  横溝七郎五郎忠光   桑原平内盛時
      三番  多賀谷弥五郎重茂   諏訪兵衛四郎盛頼
      四番  布施三郎行忠   真板五郎二郎経朝
      五番  棗右近三郎   平井八郎清頼
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   ※百錬抄: 閑院御所(里内裏)再建の上棟式あり。  百錬抄の詳細はwikiで。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月11日
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吾妻鏡
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晴。将軍藤原頼嗣が鶴岡八幡宮に御参宮、御束帯・御剣・笏の装束で網代の牛車。
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  行列
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  先ず諸大夫(四位・五位の総称)八人
     星野出羽前司季義    出羽権守為政    近江前司季實
     押立左近大夫資能    少輔木工助廣時    安芸右近大夫親継
     安藝左近蔵人重親    和泉左近蔵人
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  次いで殿上人十人
     安野中将隆兼    尾張少輔清基    二條少将兼教
     籐少将實遠    前右兵衛佐隆氏    一條少将能清
     前治部少輔経章    中御門侍従宗世    前兵衛佐忠時
     六條侍従公實
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  次いで(将軍家の)御車
     梶原右衛門三郎景氏    伊賀式部八郎兵衛尉    三村左衛門尉時親
     武藤次郎兵衛尉頼泰    大曽祢左衛門太郎長継    三善左衛門次郎泰有
     内藤豊後三郎    小野澤二郎時仲    肥後四郎兵衛尉行定
     山城二郎兵衛尉信忠    伊東三郎    平右近太郎
     以上直垂・帯劔、御車の左右に候す。
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  次いで御剣の役人    武蔵守朝直
  次いで御調度(弓箭)懸け    武藤左衛門尉景頼
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  次いで御後の供奉人(布衣(略礼装の狩衣)、下括り)
     相模右近大夫将監北條時定    陸奥掃部助北條実時    遠江六郎北條教時
     武蔵四郎北條時仲    足利三郎家氏    内蔵権頭資親
     三河前司新田(世良田)頼氏    大蔵少輔遠山(加藤)景朝    伊賀前司小田時家
     大隅前司嶋津忠時    伊勢前司二階堂行綱    遠江二郎左衛門尉佐原(葦名)光盛
     大曽祢左衛門尉長泰    遠江六郎左衛門尉佐原時連    梶原右衛門尉景俊
     大曽祢次郎左衛門尉盛経    弥善太左衛門尉三善康義    摂津左衛門尉
     和泉五郎左衛門尉天野政泰
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月15日
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吾妻鏡
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晴。将軍家藤原頼嗣が二所詣での精進潔斎を始め、これに伴って二所(大宮殿)と若君御前(頼嗣の弟乙若)が右馬権頭北條政村邸に入御した。
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西暦1250年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月17日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼邸で放光仏像の供養を行なった。導師は鶴岡の別当法印隆弁。更に(時頼室の)安産を祈って如意輪護摩行を修した。
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   ※放光仏像: 安産→ 如意輪観音→ 室生寺(公式サイト)の仏像群と光背を連想する。観音菩薩か地蔵菩薩か。
最後に訪問してからもう8年か...ちょうど台風で倒れた樹木が五重塔の一部を壊した年だった。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月20日
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吾妻鏡
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晴。将軍家藤原頼嗣が二所詣でに出発。
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  行列
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  前陣の随兵 十二騎
     葛西七郎時重   江戸八郎   野本二郎行時   佐貫七郎廣経
     佐野八郎清綱   山上弥四郎秀盛   肥前太郎資光   佐貫次郎太郎泰経
     豊嶋平六経泰   山田四郎通重   千葉七郎次郎行胤   東四郎義行
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  次に 御引馬(替え馬)三疋
  次に 御弓袋差し
  次に 御鎧
  次に 御甲持ち
  次に 御具足
  次に 御調度懸け
   持壽丸(?)
  次に 御油(雨衣)
  次に 御先達
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  次に 御駕(騎馬の将軍)
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     三村新左衛門尉時親   肥後四郎兵衛尉行定   式部八郎兵衛尉
     内藤豊後三郎   武藤二郎兵衛尉頼泰   藤倉三郎盛義
     梶原右衛門三郎景氏   小野澤二郎時仲   渋谷二郎太郎武重
     山城次郎兵衛尉信忠   平右近太郎   土屋新三郎光時
     摂津新左衛門尉   兼仗太郎   平井八郎清頼
     已上十五人は御駕の左右に。
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  御後
     尾張少将   中御門少将   武蔵守北條朝直
     相模右近大夫将監   陸奥掃部助北條実時   相模式部大夫北條時弘
     北條六郎時定   越後五郎北條時家   遠江六郎佐原時連
     武藤四郎頼隆   相模八郎北條時隆   同三郎太郎時成
     足利三郎家氏   新田三河前司新田(世良田)頼氏   内蔵権頭資親
     遠山前大蔵少輔加藤景朝   大隅前司島津忠時   肥後前司内藤盛時
     伊賀前司小山時家   伊勢前司二階堂行綱   上野弥四郎右衛門尉結城時光
     同三郎兵衛尉   大曽祢次郎左衛門尉長泰   遠江二郎左衛門尉伊賀光盛
     梶原右衛門尉景俊   和泉五郎左衛門尉天野政泰   出雲五郎右衛門尉宣時
     波多野小次郎宣経   信濃四郎左衛門尉二階堂行忠   筑前次郎左衛門尉二階堂行頼
     左衛門尉武藤景頼   和泉次郎左衛門尉二階堂行章   出羽三郎二階堂行資
     出羽四郎左衛門尉伊賀光宗   山内籐内左衛門尉通景   隠岐三郎左衛門尉二階堂行忠
     阿曽沼小次郎光綱   紀伊次郎右衛門尉為経   鎌田次郎兵衛尉
     近江大夫判官佐々木氏信
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  後陣の随兵 十二騎
     阿曽沼四郎次綱   木村六郎秀親   清久弥次郎秀胤
     高柳四郎三郎行忠   国分二郎胤重   椎名六郎胤継
     小栗弥次郎朝重   右衛門次郎三善康有   眞壁小次郎秀幹
     麻生太郎親幹   長江七郎景綱   足立左衛門三郎元氏
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月21日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼の室が安産を祈って百日間の泰山府君祭を始めた。担当は安倍泰房、費用は秋田城介安達義景の拠出である。
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月25日
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吾妻鏡
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晴。二所詣での一行が鎌倉に帰着。一昨日と昨日に降雪があり移動に支障があった、と。
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   ※1月24日: 西暦に直すと2月16日、箱根経由で三島から日金峠越えの雪は今でも辛い。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月28日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼による大般若経信読が結願した(1月8日に開始)。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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1月29日
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吾妻鏡
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信濃国諏訪大社で去る20日に烏(カラス)50羽ほど纏まって死んだと大祝(高位の神官、宮司)から報告があった。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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2月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。鶴岡八幡宮で臨時の祭礼があり、御神楽の奉納は通例の通り。
今日京都朝廷の使者が到着。先月22日の北政所の御産と、併せて2日の式乾門院の崩御を報告した。
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   ※北政所: 摂政関白の妻の尊称。建長二年には近衛兼経が任じているから彼の正室が該当するが、建長二年
生まれの子女は記録にない。まぁ早世のケースもあるから何とも言えないが...。
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   ※式乾門院: 86代後堀河天皇(wiki)の同母姉。斎宮として30歳で斎宮となり安貞二年(1228)9月から天福
元年(1233)2月まで伊勢に留まった。甥の87代四条天皇(wiki)の准母で、鎌倉六代将軍の宗尊親王を猶子(一般的には相続権のない養子)にしている。宗尊親王の生母(平棟子)は正五位下の下級貴族の娘で四条天皇の内侍として出仕し、後に後嵯峨天皇の寵愛を受けて宗尊親王を産んだ。内親王を母親に擬して将軍として下向する身分の体裁を整えた、ということ。
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   ※准母: 幼年で即位した天皇の生母が死没したり身分が低かった場合などに、未婚の内親王(天皇の姉または
叔母)か父親ではない先帝の皇后が代理の母を務めるケース。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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2月6日
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に雷鳴あり。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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2月10日
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吾妻鏡
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晴。甘縄の付近が焼亡した。地相を見る法橋の家から出火し、戌刻(20時前後)から子一点(24時過ぎ)に到るまで鎮火しなかった。東は若宮大路、南は由比浜、北は中下馬橋、西は佐々目谷まで延焼し、相模右近大夫将監北條時定・相模八郎北條時隆らの家など数ヶ所が被災した。
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今日相模守北條時頼が自筆の手紙を二條良実(wiki)に送った。今後の事は心配には及ばない、とのこと。
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   ※今後の事: 反北條得宗の動きを重ねた九条道家は寛元二年(1244)の
宮騒動と宝治元年(1247)の宝治合戦を経て建長二年には失脚したが、父と距離を置いていた良実は処分を免れた。
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道家は良実が北條時頼と内通して自分を陥れたと思い込み(ある意味自業自得)、良実を義絶してしまう。義絶事件がこの頃で、時頼が良実を慰める手紙を送ったのだろう、と思う。
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道家は失意のまま翌年2月に死没、復活した良実は弘長元年(1261)4月には再び関白に再任し、文永二年(1265)4月に弟の実経に関白を譲った後も朝廷の実権を掌握し続けた。
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右画像は日記「玉葉」を書いた九条兼実から続く系譜(クリック→拡大)
いつか政敵の源(土御門)通親を含めた相関の系図を仕上げたい、が。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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2月20日
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吾妻鏡
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先日新たに建造した大規模な厩舎(葛西ヶ谷入口の滑川沿い)の背後で崖崩れがあり、多数の人が土石に流され二人が死没した。
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   ※葛西ヶ谷: 頼朝に仕えた葛西清重が館を構えたのが地名の最初。
現在は高級住宅が達ち並んでいる。後に北條得宗家が谷の最奥部に菩提寺として東勝寺を建て、元弘三年(1333)の鎌倉陥落の際にはこの寺で一族滅亡の時を迎えている。
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頼朝の時代にもここに厩を構えた記録があった筈だが...日付が思い出せない。そのうち落ち着いて調べてみよう。
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右画像は滑川に架かる東勝寺橋(奥が東勝寺跡に至る)。
この橋は築後50年が過ぎたコンクリート製のめがね橋で「かまくら景観100選」の一つ。更に詳細は東勝寺跡と高時の腹切りやぐらで。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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2月24日
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吾妻鏡
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前右馬権頭北條政村で360首の継歌(連歌・wiki)の会が催された。
参加者は二條中将(則定)・尾張少将(坊門清基)・武蔵守北條朝直・遠江守北條時直・佐渡前司後藤基綱・兵衛尉鎌田次郎行政、360種の貴重品を持ち寄って賞品とした。
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   ※北條常盤邸: 大仏坂切通しの西側が歴史風土の地(地図・wiki)に指定されている。梶原方面からの攻撃に
対応する拠点としての性格もあり、最奥部には複数の「やぐら」も確認されている。
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   ※参加者: 二條中将が則定、尾張少将が坊門清基なのは別の日付で確認できるが、それ以上は不明。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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2月27日
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百錬抄
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戌刻(20時前後)に熊野本宮が焼失した。(百錬抄の紹介はwikiで。)
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   ※大神宮焼失: この場合、20年毎の式年遷宮はどうなるのか、同じ場所に再建するのか、御神体が失われたら
どうするかなど疑問は多数あるが、安直な質問は憚られる。神罰が下るかも(笑)。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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3月6日
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吾妻鏡
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武蔵国の浅草寺に牛の如き者が忽然と出現して奔走した。ちょうど寺僧50人ほどが食堂に集まっていた時で、この怪異を見た24人が直ちに病痾を受けて動けないような状態になり、7人は直ぐに死没した。
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   ※牛の如き者: 牛頭天王(wiki)を象徴する怪異。京都祇園社(八坂神社)の祭神なのが面白い。
蘇民将来だとか茅の輪だとか、民間信仰の匂いが紛々と...。
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   ※病痾: 簡単に治癒しない病気を差す。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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3月7日
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吾妻鏡
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先月14日に熊野山の神倉が焼失した。これは既に相模守北條時頼の夢に現れていた事件なので特に驚き、再建を助成するようにとの指示があった。
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   ※神倉: 熊野三山を旅した時に寄れなかった場所の一つ。頼朝が寄進した
急勾配の石積み538段を登った頂上にある。前回の旅行では時間がなくて登れなかった場所だが、次回は体力の衰えで断念、かも。
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画像をクリック→ 拡大表示。更に詳細は熊野三山旅行記の中段少し下を参照されたし。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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3月9日
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吾妻鏡
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晴、風が穏やか。今日相模守北條時頼邸で法華経の形木(印刷する版木)の供養を催した。積年の功徳の区切りとなる法要である。導師は鶴岡八幡宮の別当法印隆弁
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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3月10日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(五代将軍藤原頼嗣)が女官用の輿で永福寺の花(桜)を観覧に出御。武蔵守北條朝直・相模右近大夫将監北條時定・相模式部大夫北條時弘以下が供奉した。
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   ※3月10日: 新暦だと4月13日、山桜の最盛期か。この頃には既に桜の植樹が行われていたらしく、吾妻鏡の
文治五年(1189)9月27日には平泉を制圧した報告に「平泉を囲む(駒形嶺の麓)30余里には桜樹の並木が続き...」と書かれている。平泉を模した永福寺の周辺にも桜を植えたのだろう。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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3月14日
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吾妻鏡
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先日、信濃国の諏訪大社社頭の湖(当然、諏訪湖)に大きな島と唐船が突然現れ直ぐに消えた。同様の事件は先例がなく、驚いた神官が報告を送ってきた。
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   ※唐船出現: 元寇を連想させるが、第一回の元寇は文永十一年(1274)10月で23年後だから無関係。
やはりこの年12月に起きる足利泰氏の無届け出家と翌年3月の将軍頼嗣更迭・追放を予告している(と吾妻鏡が匂わせている)と受け取るべきか。島と唐船は少し作為が過ぎるが。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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3月15日
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吾妻鏡
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晴。永福寺で恒例の法会があり、前右馬権頭北條政村・武蔵守北條朝直参席した。今日、相模守北條時頼が羅計二星(羅喉と計都)の神像を造って供養を行った。各々に良い運を恵んでくれるように祈った。
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   ※羅喉と計都: 日蝕を引き起こす星、もちろん迷信に過ぎないが興味があれば詳細はこちらで。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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4月13日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼が武蔵国の鷲大明神に奉幣使を派遣しようとしたが八幡宮境内社の三島社で神事があり、他社への奉幣使に任じるのは支障があると八幡宮の神主が申し出た。これに伴って八幡宮寺の別当法印隆弁に使者を委任し、今日の出発となった。
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   ※鷲大明神: 現在の鷲宮神社地図)を差す。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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4月20日
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吾妻鏡
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国司と領家(荘園の所有権者)に納める年貢は特に納期を厳守する事。もし春3月以後に年貢納付に関する訴訟が本所(荘園管理の実務権限を持つ者)から提起された場合は地頭職の権利の半分を本所に譲渡する措置とする。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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4月22日
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吾妻鏡
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雨。若宮別当法印隆弁が武蔵国鷲宮から帰着。御祈願成就の瑞兆は明らかで、去る19日の社頭で御神楽を奉納した際には見事な託宣が現れた、と。
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   ※託宣: 創価学会と公明党にも「安倍内閣の憲法改定には全面的に協力せよ」との託宣が下るかも知れない。
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今まで都議会自民党と一緒に築地の豊洲移転や舛添の税金浪費を黙認して税金の浪費に協力した癖に、風向きが変わった途端に正義の味方みたいな顔して小池知事に乗り換える...節操なんて言葉、彼らの辞書には載ってないんだろうな。日蓮さんも真っ青!
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つまり、歴史の一部分だけ切り取って判断してはダメ、という事。正しい行動に見えても本音は裏切りや誤魔化しや保身を目的にしているケースが実に多い。公明党が「コウモリ党」と呼ばれるのは、常に強い者に擦り寄る無節操な姿勢が原因で、これは見事に彼らの本質を表現した言葉だ。宗教人ではない。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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4月23日
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吾妻鏡
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激しい雨が21日から降り止まず、今夜子刻(0時前後)には村里の家や植え付ける苗が全て流失した。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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4月26日
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吾妻鏡
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去る19日に上野国の赤木嶽(赤城山)で山火事あり。戦乱が起きる前兆だった例がある、と在庁(国衙の官人)が申し出ている。
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西暦1250年
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89代後深草天皇
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建長三年
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5月1日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼の室家の産所(松下禅尼の甘縄邸)で御祈祷の行が始まった。
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   ※松下禅尼: 安達景盛の娘。北條時氏の正室として四代執権の北條経時と五代執権の 北條時頼を産んだ。
時氏が早世してからは経時と時頼の教育に尽力している。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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5月3日
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吾妻鏡
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曇。若宮御前(乙若)の体調が突然悪化し非常に苦しんでいる。御所に人々が詰めかけて騒然としている。
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   ※若宮御前: 前将軍藤原頼経の次男で五代将軍藤原頼嗣の同母弟(詳細は1月5日で)。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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5月5日
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吾妻鏡
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入道相模三郎平資時(北條資時・法名真昭・53歳)が死没。修理権大夫北條時房朝臣の三男で三番の引付頭人に任じていた。
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   ※引付頭人: 引付は御家人の領地に関わる訴訟を担当した部署。頭人・引付衆・引付奉行で構成される。
例えば引付頭人の資時が没した直後の建長三年6月の資料で確認すると、二番の上位者は評定衆の 北條朝直が頭人でサブが三善(太田)康連、その下の引付衆は武藤景頼、その下の引付奉行人は山城前司(中原盛時)と山名行直という構成になっている。
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本来は裁判の迅速化を図るため北條時頼が設置した組織として当初は有力御家人も任じられていたが、次第に北條一族の若年層が評定衆に登るための出世コース的な存在となり、当初の役割は薄らいでいったらしい。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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5月8日
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吾妻鏡
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去る貞永元年(1232)12月23日の廰宣(院の命令を文書化したもの)に従い、河越修理亮重資を武蔵国惣検校職に補任する命令が発せられた。
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参考として、同日の記事を以下に転載しておく。20年も前の決裁を再掲する理由が判らん。
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武蔵国惣検校職および国検に伴う引き継ぎ文書や署名、軍勢催促に関する署名、父・重員の譲り状など。河越三郎重資に先例の通り処理する権限を与える決裁を行なった。
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   ※惣検校職: 秩父重綱が最初-次男重隆(継承)-能隆(葛貫別当・継承の記録なし)- 河越重頼(継承)-
重員(継承)-重資(継承)、と続く。血縁の詳細は「秩父平氏の系図」で。
惣検校職と重員については吾妻鏡の寛喜三年(1231)4月2日に詳細の記事を載せてある。
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   ※国検: 徴税の基準を正確に確認するための国司による国司による検注。国司交替の際には新任の国司が
検注を行うのが通例であり、義務でもあった。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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5月14日
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吾妻鏡
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晴。彼の(北條時頼の正室で北條重時の娘・葛西殿)出産は明日の酉刻(18時前後)だろう、と若宮別当法印隆弁が言上、集まっていた人々は取り合えず解散した。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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5月15日
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吾妻鏡
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晴、風は静か。今朝、相模守北條時頼が安東五郎太郎を使者として書状をを若宮別当法印隆弁に届けさせた。室家の出産は今日との託宣だったが未だにその気配がなく、不審である、と。
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隆弁からの返状は「酉刻(18時前後)は間違いないから心配しないように」とのことだった。果たして申刻(16時前後)には漸く産気づき、医師の典薬頭時長朝臣・陰陽師の主殿助安倍泰房・験者(加持祈祷担当)の清尊僧都し良親律師が集まった。酉刻が終わる頃(17時過ぎ)には法印隆弁も加持祈祷に加わり、やがて若君が誕生した。
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(舅の)陸奥守北條重時は前もって待機しており、北條一門の老若を含めて数えられないほど多勢が集まった。験者らには褒美として各々に絹の織物一式と野剣(野太刀・実戦用の太刀)と馬一匹を与えた。
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この時に白の直垂を着した三浦介(佐原)盛時が駆け付け、嬉しさのあまり乗ってきた馬(銀の鞍を置く)を自ら引いて泰房に贈った。大嶋鹿毛と称する名馬である。
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今回の出産について時頼は鶴岡別当法印隆弁に丁寧な祈祷を依頼しており、隆弁も去年の正月から宝前に於いて丹念に祈った結果夢のお告げを得て8月の妊娠を予告した。更に今年2月には伊豆国三嶋社 (三嶋大社)で起請した際には12日の寅刻(早暁4時)の夢に白髪の老僧が現れ、その女性は5月15日の酉刻に男子を安産すると予告していた。その通りの結果を得たのは実に奇特である、と。
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   ※若君誕生: 幼名を正寿、後に八代執権として反対勢力を弾圧し強権政治を敷く北條時宗。21年後に二月騒動
で異母兄の時輔を殺し、23歳の文永十一年(1274)10月に元寇を迎えることになる。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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5月21日
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吾妻鏡
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(若君の)誕生七夜は陸奥守北條重時が豪華な宴席を設けた。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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5月27日
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吾妻鏡
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晴。誕生した若君が(産所の甘縄松下禅尼邸から)本所(相模守北條時頼邸)に帰lり、その後に時頼は祈祷の褒賞として能登国の諸橋保(石川県穴水町東部・地図)を若宮別当法印隆弁に割譲した。
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その使者は工藤三郎左衛門尉光泰、時頼の書状には「今回の男子安産は偏に法印の法力に拠るもので、全ては事前に法印が予告した通りだった。これは言葉に表せる事ではない。」 と述べてあった。
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今夕酉刻(18時前後)に由比ヶ浜の民家から出火、南の悪風に煽られて御所の南に隣接する家まで炎が広がった。
南に面した御所の棟門(大型の屋根付き・御所南門か)まで燃えたが奇跡的に御所までは広がらなかった。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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5月29日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼の室家が下痢を伴う産後の病気に悩んだまま既に数日が過ぎた。
別当法印隆弁からは多少無理をしても沐浴を済ませれば回復するだろうとの言葉があった。
相模守は産所に入っての加持祈祷を 頻りに所望し、隆弁もそれに従った。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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6月5日
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吾妻鏡
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晴。評定衆による評議あり。最近は毎日のように酒宴と椀飯などの接待が続き、更に暑い日には富士山の雪を取り寄せて珍味を整えるなどを繰り返している。庶民の負担にもなり、中止して善政を心掛けようと定めた。
次に、今までの五方引付(五番まで組んでいた引付衆)を更に増やして六方とした。
秋田城介安達義景が軽服(軽い服喪)を済ませて出仕し、この件の奉行に任じた。定めた構成は以下の通り。
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    一番   前右馬権頭北條政村    常陸入道行日(二階堂行久)    大曽祢左衛門尉長泰
山城前司深澤俊平   新民部大夫大江以基
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    二番   武蔵守北條朝直    民部大夫三善(太田)康連    左衛門尉武藤景頼
山城前司中原盛時   山名進二郎行直
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    三番   尾張前司北條時章    対馬守三善(矢野)倫長    左衛門尉清原満定
長田兵衛太郎廣雅   越前四郎経成
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    四番   摂津前司中原師員    出羽前司二階堂行義    伊勢前司二階堂行綱
山名中務俊行   皆吉大炊助文幸
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    五番   式部大夫入道伊賀光西    秋田城介安達義景    和泉前司二階堂行方
明石左近将監義綱   内記兵庫允祐村
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    六番   信濃民部大夫入道二階堂行泰    甲斐前司長井泰秀    筑前前司二階堂行泰
越前兵庫助政宗   兵衛尉大田(三善)太郎康宗
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   ※職位: マークの は評定衆で番の代表、 は評定衆で番のサブ、は引付衆、その他は引付奉行人。
出典は吾妻鏡ではなく別資料だが、人員構成にバラつきが見られる理由は判らない。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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6月10日
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吾妻鏡
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貴処(将軍がクラス範囲、身辺)に伺候の女房(女官)は領家の出身者に限るとの決定があった。
また、百姓と地頭の裁判に際しては特別の奉行人を担当させ、詳細の事情を確認することとした。
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   ※領家: 厳密には三位以上の荘園領主を差すが、寄進系荘園(開発した所領を権力者や有力寺社に寄進して
実質的な所有権の保護を得る)の場合は本家(寄進先)に対して寄進元を領家と呼ぶ。
この記事の出身者は後記の領家の娘を指している。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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6月15日
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吾妻鏡
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摂津前司摂津前司中原師員朝臣が病痾(回復困難な病気)により出家、法名は行厳。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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6月19日
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吾妻鏡
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晴。若君御前(前将軍藤原頼経の次男で五代将軍藤原頼嗣の弟・乙若)の体調不良は平癒した。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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6月20日
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吾妻鏡
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引付(御家人の所領紛争を扱う裁判部門)の構成を結番したが、再度検討して六方(番)を縮め三方に改めた。
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    一番  前右馬権頭北條政村   摂津入道中原師員   和泉前司二階堂行方   筑前前司二階堂行泰
大曽祢左衛門尉長泰   左衛門尉清原満定   山城前司深澤俊平   明石左近将監義綱
対馬左衛門尉   越前四郎経成
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    二番  武蔵守北條朝直   出羽前司二階堂行義   式部大夫入道伊賀光西
民部大夫三善(太田)康連   対馬守三善(矢野)倫長   左衛門尉武藤景頼
山城前司深澤俊平   越越前兵庫助政宗   皆由大炊助   進士次郎蔵人   山名進次郎
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    三番  尾張前司北條時章   信濃民部大夫入道二階堂行泰   秋田城介安達義景
常陸入道行日(二階堂行久)   伊勢前司二階堂行綱   山名中務俊行丞   伯耆右衛門尉
内記兵庫允   長田兵衛太郎広雅
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   ※三方に変更: まさに朝令暮改だな。現代語に訳して書き直す苦労に配慮なし!(当たり前か...)
15日の記事では中原師員が重病らしいから一番は再び変更になりそうだ。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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6月21日
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吾妻鏡
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閑院殿(里内裏)再建工事担当の割り当てが未決の分についての決定があった。
築地塀の柱178本のうち小路に面した10本(庶民が負担しない)と二條通に面した72本・油小路に面した61本・二條から北油小路西の西洞院通に面した35本(以上は新造)。
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また神社領と寺領以外の全ては所課(年貢)を納付せよとの仰せが下された。御教書(命令書)は次の通り。
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   閑院殿造営について
社寺の所有する農地の課税は以前から免除されている。その他、地頭が徴収している各所は納付を済ませるよう命じる。将軍家の仰せに従って通達する。     建長三年六月二十一日   相模守 北條時頼
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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6月22日
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吾妻鏡
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小雨。前摂津守正四位下中原師員朝臣(法名行厳・67歳)が没した。助教師茂の息子である。
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   ※助教: 式部省(現在の人事院に該当)の大学寮に属する朝廷の官僚養成機関の中堅幹部教職員。
大学寮は平安時代の中・末期に衰退し、明経道に吸収されている。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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6月26日
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吾妻鏡
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小雨。寒冷な気候になっている。水の結氷もあり、冬空のような状態である。
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   ※冷夏: 6月26日は新暦の7月16日に相当する。寒さの夏はオロオロ歩き...冷害だね。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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7月4日
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吾妻鏡
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晴と曇、寒気が続いている。今日京都の飛脚が到着し、先月27日に帝が完成した閑院に遷幸をされた。
内裏造営の褒賞として将軍家(藤原頼嗣)が三位に、相模守北條時頼が正五位下に叙された。
叙位に立ち会った公卿の名簿および除書も持参している。  ~ 以下、明細を略す ~
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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7月8日
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吾妻鏡
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晴、風が静まった。今日、相模守北條時頼の室家が産所から元の住居に戻った。
また将軍家(藤原頼嗣)が三位に叙された事に伴い政所で御下文を成す(書式を改める意味か)と。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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7月10日
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吾妻鏡
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今日の評定により、奴婢の子は両親と同居できる期間である10歳を過ぎても、同居している間は年紀の拘束を受けないと定めた。これは青木入道の従者の件が発端である。
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   ※年紀: この布告の意味が判らない。貞永式目(御成敗式目)の第41条では「頼朝の時代に定めた内容に従い
10年以上使役していない奴婢・雑人は自由となる。また奴婢の男子は父親に、女子は母に属する。」と明文化している。また「青木入道の従者の件」も中身が判らない。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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7月18日
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吾妻鏡
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陰、降雪あり。鶴岡八幡宮の裏山に三嶋大社を勧請するために土地の卜占を行なった。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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7月20日
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吾妻鏡
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諸国で民事訴訟が発生した際には西収(秋の収穫時期)の前に召喚状を送付してはならないと、政所と問注所に指示を下した。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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7月26日
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吾妻鏡
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晴、夕刻に雨。雪ノ下に三嶋(大社を勧請した)新宮の上棟式を催した。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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7月30日
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吾妻鏡
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雨。最近は降雨が続いている。風による災いを払って豊かな西収(収穫)を実現するため風伯(風の神)を祀り崇めるよう陰陽師らに指示を下した。奉行は諏方兵衛入道蓮佛
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   ※諏方蓮佛: 出家後の諏訪(金刺) 盛澄、北條被官で北條時頼の忠臣。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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8月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴、良くない南風あり。今夕由比ヶ浜で風伯祭を行なった。担当は安倍国継と為親、伊豆太郎左衛門尉實保が(将軍の)使者として立ち会った。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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8月2日
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吾妻鏡
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晴、風が強い。ただし夜になって...
(...以下は不明。文章の欠落か、「夜になって風が強まった」のか。原文は「天晴。風甚。但入夜。」)
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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8月3日
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吾妻鏡
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晴、少々の風、夕刻に降雪あり。三嶋新宮で遷宮の儀式があり御神楽と稚児による延年(芸能)などあり。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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8月6日
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吾妻鏡
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勝長寿院の小御堂は故禅定二位家(政子)の旧宅で濫觴(根源の由来)は特別である。
しかし近年は老朽化が著しく倒壊の恐れもあるため修理費として紀伊国雑賀庄の年貢を充当し工事を終えるよう備後前司町野(三善)康持に指示が下された。
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   ※政子の旧宅: 死没は嘉禄元年(1225)7月11日、既に26年が過ぎて
いる。勝長寿院(南御堂)は北向きの狭い谷間で、日当たりが悪くて湿気が強く、建物の劣化が早そうな雰囲気がある。ただし、吾妻鏡の記載を素直に読めば、政子は新造の御堂御所に転居できないまま大倉御所の東邸で息を引き取り、御堂御所で火葬されたと考えて良さそうだ。
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   ※雑賀庄: 現在の和歌山市、紀ノ川河口南岸に増賀崎の名が残っている
地図)。平時は農業や漁業に従事し、合戦の際には団結して信長軍とも死闘を演じた「増賀衆」でも知られている。
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右画像は増賀衆(別称を根来鉄砲隊)の精神的支柱とされる根来寺の壮大な総門。画像をクリック→ 拡大表示。更に詳細の訪問記は 道の駅 根来さくらの里の後半部分で。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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8月15日
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吾妻鏡
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曇、、風あり。今日鶴岡八幡宮の放生会、将軍家の出御あり。
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  行列
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   先陣の随兵
     阿波四郎兵衛尉薬師寺政氏   上野五郎兵衛尉結城重光
     壱岐新左衛門尉葛西清員   左衛門尉茂木知定
     和泉次郎左衛門尉二階堂行久   兵衛尉武藤次郎頼泰
     足利三郎家氏   城九郎安達泰盛
     遠江六郎北條教時   越後五郎北條時家
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   次いで諸大夫(四位・五位の総称)
   次いで殿上人
   次いで公卿
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   次いで(将軍家の)御車
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     大曽弥五郎   伊東大和十郎
     土肥左衛門四郎實綱   同三郎泰祐
     小野澤次郎時仲   大泉九郎長氏
     伊勢加藤左衛門尉   紀伊四郎左衛門尉
     鎌田兵衛三郎義長   浜名三郎
     山城二郎兵衛尉   肥後弥籐次
      (已上直垂を着し帯劔、御車の左右に候す)
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   次いで御劔の役人  尾張前司北條時章
   次いで御調度の役人  左衛門尉武藤景頼
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  御後(布衣)
     相模右近大夫将監北條時定    北條六郎時定
     宮内少輔足利泰氏        上野前司畠山泰国
     出羽前司小山長村     前大蔵権少輔結城朝広
     内蔵権頭資親       出羽前司二階堂行義
     三河前司新田(世良田)頼氏     和泉前司二階堂行方
     壱岐守後藤基政      遠江次郎左衛門尉佐原(葦名) 光盛
     右衛門尉梶原景俊     城次郎安達頼景
     式部六郎左衛門尉伊賀朝長   弥二郎左衛門尉親盛
     豊後四郎左衛門尉島津忠綱   大曽祢左衛門尉長泰
     出羽二郎左衛門尉二階堂行有   隠岐二郎左衛門尉佐々木泰清
     弥善太左衛門尉三善康義    肥後次郎左衛門尉藤原為時
     右衛門尉三善康長      摂津左衛門尉
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  後陣の随兵
     大曽彌左衛門尉盛経   常陸二郎兵衛尉二階堂行雄
     右衛門尉田中知継   伊豆太郎左衛門尉實保
     小田島五郎左衛門尉義春   紀伊五郎左衛門尉為経
     武石四郎胤氏   左衛門足立三郎元氏
     大須賀新左衛門尉朝氏   足立太郎左衛門尉直元
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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8月16日
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吾妻鏡
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昨夜丑刻(深夜2時前後)に雨、巳刻(10時前後)に晴、南風あり。 今日鶴岡八幡宮の流鏑馬など馬場での奉納行事。将軍家(藤原頼嗣)の御奉幣あり。供奉人などは昨日に同じ。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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8月21日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼嗣)が由比ヶ浜に出御し、前右馬権頭北條政村と武蔵守北條朝直を始め多数の老若も供奉した。陸奥守北條重時と相模守北條時頼は予め桟敷に待機し将軍の入御後に献盃の儀、続いて遠笠懸を観覧した。自らも弓射し多くの矢を当てて人々を感心させた。
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次いで犬追物が催され、見物人は縄張りから離れて敷皮に着座してから射手を呼び入れたが、壱岐前司佐々木泰綱が確執(相手と息が合わない、の意味か)ありと称して急に(馬場から)退いてしまった。相手だった城九郎安達泰盛も下馬してしまったのは宴遊の妨げである。
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泰綱は代理人の出場を時頼に依頼したが時頼はそれを固辞し、射手を選べたとしても何人もの御家人を差し置いて指名できないし適した者もいないと断った。しかし将軍家から再度の求めがあり、横溝五郎に出場を命じた。
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横溝には具足の用意がなく、時頼は横溝五郎に携行させていた自分の武具一式の中から弓箭と行騰を、また内島右近入道が乗っていた馬(糟毛、街中を往復する程度で縄張りの中には馴れていない)を横溝に与えた。
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横溝は馬の汗を拭いてから跨り、検分役から数回の催促を受けてから競技に加わった尚も様子を見るだけで矢を射ようとしない。(的になっている)犬が四疋になってから初めて射始めたが、最後まで一度の失敗もなかったのは本日屈指の見事さである。

  遠笠懸
     尾張前司北條時章   相模右近大夫将監北條時定   陸奥四郎
     武田五郎七郎政平   信濃四郎左衛門尉薩摩九郎伊東祐   加賀前司
     幸島次郎時村   加地五郎次郎章綱   遠江次郎左衛門尉佐原光盛
     薩摩九郎伊東祐光?   出羽前司小山長村   三浦介(佐原)盛時
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  犬追者の射手
    一番
     北條六郎時定   遠江太郎清時   城九郎安達泰盛
     横溝五郎忠光   遠江新左衛尉佐原(葦名)光盛   小笠原余一長澄
    二番
     遠江六郎左衛門尉佐原時連   武田五郎三郎政綱   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
     大和次郎左衛門尉   城二郎安達頼景   上野十郎結城朝村
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  検分役
     秋田城介安達義景    出雲前司波多野義重
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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8月23日
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吾妻鏡
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評定衆の中で病気による欠勤を続けている者は辞職を辞するまで着到(出勤簿)に載せる必要はない、との沙汰があった。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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8月24日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(藤原頼嗣)が多くの供奉人を伴って再び由比ヶ浜に出御した。先ず自ら御笠懸を行ない、御桟敷に伺候していた鶴岡八幡宮別当法印隆弁が頼嗣の射る矢を祈祷した。続いて犬追物あり。
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  射手
    一番  北條六郎時定   城九郎安達泰盛   壱岐前司佐々木泰綱
三浦介(佐原)五郎盛時   遠江新左衛門尉佐原経光   小笠原余一長澄
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    二番  遠江六郎左衛門尉佐原時連   武田五郎三郎政綱   幸島二郎
信濃四郎左衛門尉二階堂行綱   城次郎安達頼景   上野十郎結城朝村
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    三番  出羽前司小山長村   氏家余一   加地五郎次郎章綱
土肥左衛門四郎   薩摩九郎左衛門尉伊東祐朝   工藤六郎左衛門尉
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    検分役  秋田城介安達義景   出雲前司波多野義重
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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9月5日
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吾妻鏡
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武蔵国の国務(徴税)について、また西海諸国の守護・地頭の職務権限についての評定を行なった。全て窮民を 救済するのが目的である。奉行には左衛門尉清原満定と山城前司深澤俊平が任じた。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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9月17日
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吾妻鏡
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出挙利銭(貸付金と利息)について、所領を質入れして流してしまった場合は御教書を発行(命令書を発行して救済・御家人に対する徳政令)する。その他の訴訟は全て問注所で処理するよう定めた。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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9月19日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼は兼ねての宿願を果たすため三嶋大社に参詣を予定している。然るに依って今日、その精進潔斎を開始した。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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9月20日
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吾妻鏡
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評定衆による協議あり。陸奥守北條重時から「讃岐国の海賊の首魁らを鎌倉に連行し夷島(蝦夷島・北海道)に送ろう」との意見が出た。
西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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9月23日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼が三嶋大社に奉幣のため伊豆国に向かった。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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9月25日
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吾妻鏡
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今日未刻(14時前後)に幕府の馬(鴾毛駮・毛色の一種)が厩舎で突然死亡した。将軍家(藤原頼嗣)秘蔵の馬で呼び名は清海波。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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9月28日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼が三嶋大社から鎌倉に帰着、往復ともに平穏だった、と。
西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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閏9月1日
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吾妻鏡
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園城寺の復興について助成の決定が下された。畿内に散在する将軍家直轄領の年貢を充当し、北院の坊舎と鎮守社を造営する、と。奉行には清原満定が任じる。
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   ※園城寺の復興: 圓城寺(三井寺)の阿闍梨公胤の下で修行した公暁が鶴岡八幡宮寺で三代将軍 実朝を殺害
した建保七年(1219)1月以来、圓城寺は鎌倉の庇護を失って衰退していた。
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鶴岡別当の大納言法印隆弁が修行を積み、源氏との縁も深かった圓城寺の繁栄を取り戻すのが隆弁の宿願であり、長年の貢献によって執権北條時頼の許認可を得たのだろう。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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閏9月16日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に天変、光り輝く柱が現れて人々を怪しませた。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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閏9月17日
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吾妻鏡
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天変に対応して祈祷を行なうよう仰せが下された。司天(天文担当)からは「極端な異変の他は加持祈祷を避けるべき」との意見が出され、取り敢えず保留となった。今回の異変は瑞兆と判断できる可能性もある、と。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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10月7日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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薬師堂の谷が炎上、火が二階堂の南まで延びて宇佐美判官祐泰の荏柄の家に至った。
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   ※薬師堂の谷: 二代執権北條義時が建立した寺(現在の覚園寺)のある谷 (地図)。
建立の経緯は建保六年(1218)12月2日の吾妻鏡を参照されたし。義時が実朝殺害現場となった八幡宮参拝を欠席した経緯が述べられている。荏柄天神社は谷の入口西側にある。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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10月8日
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吾妻鏡
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戌刻(16時前後)に相模守北條時頼が新造の小町邸に移転した。
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   ※小町邸: 正確な範囲は確定できないが六浦道(金沢街道)と小町大路
と滑川が囲む一角が、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡するまでの北條得宗邸(得宗被官の居宅を含む)だった。
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広義に考えれば、嘉禄元年(1225)に北條泰時が建立したと伝わる(出典未確認)東勝寺までの葛西ヶ谷全体が北條氏の敷地に含まれていた可能性がある。
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建武二年(1335)3月の日付がある足利尊氏の寄進状(案)には「北條高時を慰霊するため、後醍醐天皇が北條邸の跡に建立した」と記載されている。実際の建立は後醍醐天皇が崩御した延元四年(1339)8月以後だが、宝戒寺の位置が北條得宗邸跡の中心部だったのは確実視されている。  右画像をクリック→拡大表示
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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10月12日
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬の確認が行なわれた。陸奥守北條重時以下の出仕は通例通り。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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10月19日
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吾妻鏡
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快晴。将軍家(藤原頼嗣)と二品(前将軍藤原頼経側室の大宮殿(従二位中納言藤原親能の娘、)頼嗣の生母、)が新造の相模守北條時頼邸に入御した。今夜は宿泊する。
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  供奉人
    将軍の御方
前右馬権頭北條政村   武蔵守北條朝直   相模右近大夫将監北條時定   陸奥掃部助北條実時
上野前司畠山泰国   三河前司新田(世良田)頼氏   出羽前司小山長村   内蔵権頭資親
和泉前司二階堂行方   壱岐守後藤基政   壱岐前司佐々木泰綱   大隅前司嶋津忠時
薩摩前司安積祐長   伊賀前司小田時家   城九郎安達泰盛   大曽祢左衛門尉長泰
遠江二郎左衛門尉佐原光盛   三浦介(佐原)盛時   遠江六郎左衛門尉佐原時連
和泉次郎左衛門尉   肥後次郎左衛門尉   豊後四郎左衛門尉   弥次郎左衛門尉
薩摩七郎左衛門尉   伊豆太郎左衛門尉   田中左衛門尉二階堂行為章
常陸二郎兵衛尉二階堂行雄   兵衛尉武藤景頼   狩野五郎左衛門尉   摂津新左衛門尉
壱岐新左衛門尉後藤基頼   右衛門尉三善   左衛門尉足立太郎直元
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    二品の御方
備前前司北條時長   遠江前司北條時直   越後五郎北條時家   武蔵四郎   陸奥四郎
秋田城介安達義景   同次郎   出羽前司二階堂行義   下野前司宇都宮泰綱
前大蔵少輔遠山景朝   右衛門尉梶原景俊   左衛門尉大曽祢次郎盛経
出羽次郎左衛門尉二階堂行方   隠岐新左衛門尉佐々木時清   同四郎左衛門尉(富田)義泰
彦次郎左衛門尉   出雲五郎左衛門尉波多野宣時   阿波四郎左衛門尉薬師寺政氏
左衛門尉土肥四郎実綱   小野澤次郎時仲   弥善太左衛門尉   三村新左衛門尉時親
紀伊五郎左衛門尉長経   伊勢加藤左衛門尉   山城次郎左衛門尉
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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10月20日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼嗣)と二品が相模守北條時頼邸から御所に還御、亭主(時頼)が御引出物を献じた。
今夜、太白(金星)が輿鬼に近づいた。占文には大将軍(陰陽道の八将神の一つで金星の精)を滅ぼす、とある。
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   ※輿鬼: かに座(古代中国で言う鬼宿)の四つの星が死体を載せる輿の姿に見える、と。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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10月21日
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吾妻鏡
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晴、北風が強く寒気が厳しい。今日、相模守北條時頼の若君(後の時宗)の五十日・百日の祝いを行なった。
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   ※五十日・百日: 生後158日、良い日取りを選んで二つの祝いを併せて催した、という事か。
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西暦1250年
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89代後深草天皇
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建長二年
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10月23日
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吾妻鏡
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丑刻(深夜2時前後)に雷鳴一声と地震が二度あった。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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10月29日
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吾妻鏡
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陸奥守北條重時と相模守北條時頼および評定衆の面々が集まって御所の艮(北東・うしとら)に別棟の評定所を建てる検討を行なった。
陰陽師に問い合わせたところ丑寅は遊年に該当するため今年を避けるべきとの上申があり、中止となった。
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   ※遊年: 陰陽道で、その年の建築・旅行・移転・結婚などを避けるべきと考える方角。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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11月12日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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戌刻(20時前後)に将軍家藤原頼嗣が御方違えのため陸奥守北條重時邸に入御、前右馬権頭北條政村・武蔵守北條朝直・遠江守北條時直らが供奉し、相模守北條時頼も合流した。来年に将軍の小御所(私邸)を建てる予定の場所が南の方角で太白方(金星の方河北)に当たるための御方違えで、更に寝所の場所も変えることになる。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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11月13日
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吾妻鏡
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戌刻(20時前後)に禅定二位家(前将軍藤原頼経の側室、出家)の転居があり、新築した亀谷邸に輿で入御した。散位廣資朝臣が反閇を務め、右近大夫仲親を介して褒賞(衣二着)を与えられた。
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  扈従した者(直垂・立烏帽子)
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武蔵守北條朝直   尾張前司北條時章   遠江前司北條時直   陸奥掃部助北條実時
相模右近大夫将監北條時定   北條六郎時定   越後五郎北條時家   武蔵四郎北條 時仲
内蔵権頭資親   安芸前司親光   出羽前司小山長村   出羽前司二階堂行義
和泉前司二階堂行方   越中前司宇都宮(横田)頼業   長門前司   大隅前司嶋津忠時
伊賀前司小田時家   肥後前司内藤盛時   出雲前司波多野義重   伊勢前司二階堂行綱
上野三郎兵衛尉畠山国氏   右衛門尉梶原景俊   和泉二郎左衛門尉二階堂行章
信濃四郎左衛門尉二階堂行忠   左衛門尉伊賀二郎光房   左衛門尉大須賀朝氏
肥後二郎左衛門尉藤原為時   新左衛門尉葛西清時   出羽二郎左衛門尉二階堂行有
豊後四郎左衛門尉島津忠綱   下野七郎宇都宮経綱   城三郎安達景村   壱岐三郎佐々木頼綱
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   ※反閇: 貴人の移動に際して無事を祈って陰陽師が行う歩き方で悪霊を踏みつける意味の呪法。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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11月14日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に太白(金星)が鎮星(土星)に近づき、軌道を犯した。
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   ※百錬抄: 准后で従一位の藤原(西園寺)綸子が死去した。
入道太政大臣西園寺公経の娘で、法性寺禅定太閤九条道家の正室となり、関白の九条教実・同二条良実・鎌倉四代将軍頼経・九条竴子(第86代後堀河天皇の中宮で87代四条天皇の生母)などを産んだ。従って綸子は将軍頼嗣には祖母にあたる。
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右画像は日記「玉葉」を書いた九条兼実から続く系譜(クリック→拡大)。2月10日に載せたものを再掲した。いつかは政敵の源(土御門)通親を含めた相関の系図を仕上げたい、と考えている。
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ちなみに、九条道家は翌・建長四年2月に60歳で病没(幕府による毒殺説あり)、頼経は康元元(1256)年8月に39歳で病没、直後の9月には頼嗣も17歳で病没、一つの時代が終わりを告げる。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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11月15日
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吾妻鏡
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晴。八幡大菩薩八幡大菩薩の絵像を鶴岡八幡宮の別当坊に安置し勧請した(分霊を祀った)。
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   ※八幡大菩薩: 神仏習合理論に基づく称号で仏教に守られる八幡神を意味する。更に詳細は八幡神(wiki)で。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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11月18日
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吾妻鏡
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雨。京都の飛脚が到着し、去る14日酉刻(18時前後)に准后(将軍家の御祖母、61歳)の死去を報告。日頃から食事が摂れない状態だった、と。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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11月22日
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吾妻鏡
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伊勢前司二階堂行綱が使節として上洛の途に就いた。准后の弔問で、将軍家(藤原頼嗣)から龍蹄(駿馬、名馬)などの餞別を与えられた。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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11月27日
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吾妻鏡
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諏方三郎盛綱(得宗被官)が相模守北條時頼の使節として上洛の途に就いた。同じく准后の弔問である。
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   ※諏方盛綱: 得宗被官で政務の中枢を担った一人。木曽義仲の郎党で弓の名手だった諏訪(金刺)盛澄の縁戚
だと思うのだが、確認が取れない。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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11月29日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼邸で大般若経の信読を行なった。関東安寧の祈りである。
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   ※信読: 経文の記載通りに読謡すること。転読(wikiの動画を参照)の反対語。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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12月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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宮内少輔足利泰氏朝臣(36歳)が所領の下総国埴生庄で密かに出家した。兼ねてからの宿願であり俗世を離れて修行するのが本意である、と。左馬頭入道正義(足利義氏の法名)の嫡男である
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   ※埴生庄: 印旛沼の北東が古くから開けた埴生郡。龍角寺(wiki・地図)の本尊は白鳳時代の薬師如来坐像。
無届けの出家は幕法に違反し、当然ながら処分を覚悟しなければならない。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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12月3日
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吾妻鏡
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鎌倉中の各所で営業する商店や市場・露店などの規制について検討された。まず営業を許可する場所を定め、それ以外での商売は厳禁となった。担当奉行は佐渡大夫判官後藤基政と小野澤左近大夫入道光蓮。
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営業を認める場所は以下の通り。
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   大町 小町 米町 亀谷辻 和賀江 大倉辻 気和飛坂山上。
       牛を小路に繋ぐことは禁止、小路は掃除して清潔を保つこと。
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                      建長三年十二月三日
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   ※町屋の場所: 大町は下馬と大町四ツ角の間、小町は本覚寺前の夷堂橋
付近、米町は大町の東、亀谷辻は窟小路の寿福寺付近、和賀江は材木座、大倉辻は浄妙寺参道付近、気和飛坂山上は化粧坂の上が指定された。
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文永二年(1265)の布告では印の三ヶ所が外れ、魚町(大町の名越寄りまたは甘縄付近)・武蔵大路下(亀谷坂の下)・須地賀江(筋替)橋が追加される。   右画像をクリック→ 拡大表示(位置は推定)
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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12月5日
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吾妻鏡
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諏方兵衛入道宅付近で騒動あり。夜半になって軽武装の武士が相模守北條時頼邸の前に集結して様子を窺っていたが特に異変が見られず退去、解散を命じられたとも。噂が様々に流れている。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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12月7日
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吾妻鏡
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宮内少輔足利泰氏が無届で出家した過失を認めて上申、罰状として所領の下総国垣生庄が没収され、陸奥掃部助北條実時に与えられた。実時は不諧により小侍別当の務めにも支障が起きているのがその理由である。垣生庄は泰氏が初めて拝領した土地だが、初めて訪れた時に出家する結果になったのは不思議である。
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   ※不諧: 調和しない、意に沿わない、意図した結果でない、などの意味がある。何が該当するか。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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12月12日
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吾妻鏡
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北條時頼邸で大般若経転読(11月29日を参照)の法要あり、諸願による。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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12月17日
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吾妻鏡
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将軍家(藤原頼嗣)が御方違えとして武蔵守武蔵守北條朝直に入御した。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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12月22日
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吾妻鏡
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鎌倉中が理由もなく落ち着かない状態が続いている。謀反を企てる者の噂があり、御所と相模守北條時頼邸の警備体制を厳しく改めた。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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12月26日
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吾妻鏡
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雹(ひょう)が降り、地表に三寸(約9cm)ほど積もった。
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今日未刻一点(13時過ぎ)に騒動が勃発、近江大夫判官佐々木氏信と武蔵左衛門尉武藤景頼が了行法師・矢作左衛門尉(千葉介(頼胤)の近親)・長次郎左衛門尉久連らを謀反の嫌疑により捕縛し、諏方兵衛入道蓮佛が取り調べを担当した。記録係は大田 七郎康有、謀反の企みは全て明白になった。
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その後も鎌倉中は騒動が続き、御家人が競って集結した。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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12月27日
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吾妻鏡
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謀叛を企んだ者らを誅殺、配流になった者もいる。群参していた近国の御家人には帰国の命令が発せられた。
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   ※北條九代記: 佐々木近江守氏信・城丹後守景頼が了行法師を召し取って連行。これにより光明峯寺禅定殿下
九条道家)の一族の僧俗多数が勅勘を受けた。ただし二條殿御父子(道家と前将軍藤原頼経)はその処分に含まれていない。     北條九代記の詳細はwikiで。
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1251年
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89代後深草天皇
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建長三年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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