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建長四年(1252年)

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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相模守北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。献上の役人、陸奥掃部助北條実時が御剣を、北條時章が弓箭を、秋田城介安達義景が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 武蔵四郎北條時仲 と 同五郎時忠
   二の御馬は 遠江六郎北條教時 と 尾張次郎北條公時
   三の御馬は 加地太郎左衛門尉 と 壱岐三郎
   四の御馬は 肥後次郎左衛門尉 と 同、四郎左衛門尉
   五の御馬は 北條時定 と 尾籐二郎
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 五代執権北條時頼は24歳・連署北條重時は54歳・ 六代執権になる北條長時は22歳・
七代執権になる北條政村は47歳・ 足利義氏は63歳・ 結城朝光は84歳・ 安達義景は36歳・
安達泰盛は21歳・ 将軍藤原頼嗣は12歳・ 六代将軍になる宗尊親王は9歳(まだ在京)・
第89代後深草天皇は8歳・先帝の後嵯峨上皇は30歳      (表示は全て満年齢)
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月2日
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吾妻鏡
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陸奥守北條重時の沙汰による椀飯の儀あり。献上の役人、武蔵守北條朝直が御剣を、備前守北條時長が弓箭を、出羽前司小山長村が御行騰と沓を献じた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月3日
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吾妻鏡
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左馬頭入道足利義氏の沙汰による椀飯の儀あり。献上の役人、尾張前司北條時章が御剣を、秋田城介安達義景が弓箭を、和泉前司天野政景が御行騰と沓を献じた。
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今日、将軍家(藤原頼嗣)並びに若君(前将軍藤原頼経の次男乙若)御前が御行始め(外出初め)として相模守北條時頼邸に入御した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月5日
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吾妻鏡
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晴。評定衆による会議始めがあり陸奥守北條重時と相模守北條時頼以下が出仕した。
その後に御台所(前将軍頼経の正室)が陸奥守邸に御行始め、二品(将軍頼嗣の生母)は信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛の法名)邸に渡御した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月7日
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吾妻鏡
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子丑二時(深夜0時から3時)に騒動が起き御家人が駆け回った。甲冑を着して旗を揚げ御所および相模守北條時頼邸に集結、暁になって鎮まった。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月8日
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吾妻鏡
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晴。御所で般若心経を読む法要あり。将軍家(藤原頼嗣)の臨席は通例の通り。
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親王家(後嵯峨上皇の第一皇子・後の六代将軍宗尊親王)が仙洞(院の御所)で元服、保延(1135~1141年)の例に倣っている。加冠は左大臣鷹司兼平、年預(事務職員)は左中弁顕雅朝臣が儀事を取り仕切り、親王は三位に叙された。殿下(摂政の近衛兼経)が直衣(略礼装)で参席した(中間、略)。
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   ※保延の例: 保延五年(1139)に鳥羽上皇の第四皇子雅仁親王(後の後白河天皇)が12歳で元服している。
この時には既に異母兄の崇徳が帝位に就いており、生母の身分が低かったため長男でありながら皇位継承の見込みがなかった宗尊親王になぞらえたのだろう。
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ただし、寛元元年(1243)6月に後嵯峨の第二子久仁(後の後深草天皇)が産まれるまでは万一の際の皇位継承権者の一人で、僧籍に入ることも許されないまま温存されていた。
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宗尊親王に然るべき処遇を確保したい朝廷の思惑と、 九条道家・元将軍頼経・現将軍頼嗣ラインによる政治介入を完全に断ち切りたい執権北條時頼の思惑が完全に一致し、頼嗣追放と親王の将軍就任の形で実を結ぶ結果となる。
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宝治合戦(1247年6月)以後の早い時期に時頼と調停はこの合意を交わしていた、と思う。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月9日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼邸で室家(陸奥守北條重時の娘)の懐妊を祈祷する薬師護摩を催した。担当は若宮法印隆弁
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(京都で)宗尊親王御行始めあり。騎馬の殿上人および公卿六人を伴って承明門院(後鳥羽上皇の後宮源在子)の御所に入御、御賜物を受けた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月11日
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吾妻鏡
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雨、酉刻(18時前後)に雷鳴あり。
今日、鶴岡若宮に備えてあった御供飯(神饌)が二つに壊れ、更に300枚ほど積んであった餅が崩れ落ちた。また神殿と舞殿の間の樋の中で一羽の鵄(トビ)が死んでいた。他にも大慈寺前の河にも鵄21羽が死んでいた。
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   ※大慈寺: 建保二年(1214)に三代将軍源実朝が落慶供養を催した巨刹で現在の二階堂明王院の東側一帯
にあった。詳細は同年7月12日の記事で。「前の河」はもちろん滑川。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月12日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に刑部僧正長賢の霊によると思われる珍事があった。13歳の少女(伊勢前司二階堂行綱の郎党の娘)に憑依して承久の時代に受けた怨みごとを話し始めた。
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この女は狂気で、(八幡宮寺の)長能僧都との面会を求めて母親も阻止できず、やむを得ず同じ輿に乗って大倉の長能坊に向かった。その途中で少女は輿から飛び降りて僧都の家に駆け込み、承久の事を長能に話し始めた。
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私は隠岐法皇(後鳥羽)の使者として鎌倉に下向し相模守北條時頼邸に住んでいたが、別当法印隆弁が訪れて読経した際に護法天(仏教の守護神)に追い出された。今は帰洛して院の御所にこの経緯を報告し来年改めて鎌倉に下向するつもりである。
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そのように語った後に少女は気を失った。暫くして蘇生したが心神が惘然たる状態である。
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   ※刑部僧正長賢: 後鳥羽上皇の護持僧。承久の乱(1221)直後の9月に陸奥国流罪となっている。
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   ※吾妻鏡の原本: ここでは北條本をベースにしているが、1月12日から2月末までが載っていない種本もある。
後世に追記したのか最初から記載があったのかは判らない。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月13日
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吾妻鏡
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右大将家(源頼朝)の法華堂で恒例の御仏事あり。右衛門尉工藤三郎光泰が奉行として参堂し、法要が済んでから昨夜天狗の霊が(少女に)託宣し件について、少女と母親を呼び出して取り調べた内容を併せて北條時頼に報告した。霊験を信じるべきかとの仰せがあった。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月14日
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吾妻鏡
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晴 。御弓始めがあり、多賀谷五郎景茂を名簿に加筆して今日の射手に加えようとしたが、今朝北條時頼が安東左衛門光成(得宗被官)を介して選出すべき射手ではないとの仰せがあった。除外するよう小侍所に伝えて相手の海野四郎助氏も外す結果になり、残った10人が二射づつ五度、的を射た。
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   射手   一番  二宮弥次郎時光 vs 平井八郎清頼
二番  桑原平内盛時 vs 山城三郎左衛門尉忠氏
三番 棗右近三郎 vs 眞板五郎次郎経朝
四番 横溝五郎七郎忠光 vs 布施三郎行忠
五番 武田七郎五郎政平 vs 早河次郎太郎祐泰
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月27日
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吾妻鏡
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未刻(14時前後)に海浜の波濤が紅のような色になった。由比ヶ浜から和賀江嶋まで同じ有様で、人々はこれを怪しんだが占いの結果は吉事との事。
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   ※海水の紅色: 何回か起きた事件。以前は「凶兆らしい」と記載してあった筈だが今回は吉事?つまり将軍頼嗣
を追放して宮将軍宗尊親王を迎えるのは吉事と言いたいのだろう。御都合主義者め。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月1日
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吾妻鏡
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晴。巳一点(9時過ぎ)に三割ほどの日蝕が確認された。
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   ※百錬抄: 日蝕を確認、大原野神社(公式サイト)の祭礼は延期となった。  百錬抄の詳細はwikiで。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月8日
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吾妻鏡
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晴。子刻(深夜0時前後)に火災。西は壽福寺の前から東は名越山王堂前、南は和賀江、北は若宮大路の北側まで焼き尽くした。
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   ※名越山王堂: 複数の史料に拠れば大町3丁目奥の谷、電通研究所の
廃寺だが、この辺を名越と呼ぶ理由が判らない。
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この名越山王堂は今回と建長六年(1254)1月10日と弘長三年(1263)3月18日の三回、いずれも火災に巻き込まれた場所として載っている。
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大町三丁目の奥は観光客も滅多に行かないエリアだが北側の宝戒寺トンネルは東勝寺橋を渡って大町に抜ける近道として近世に開削した、とても寂しい道。
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しかし本当にこの範囲が焼けたなら相当の大火事だ。
御所や小町通り一帯を焼き尽くしたことになる。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月10日
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吾妻鏡
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(民家によって)鎌倉の小路を狭めること、許可なく鞍置きの馬を家の裏に置くこと、国元からの飛脚を勝手に往来させること、これらを禁止する命令を発し、各保々(行政の最小単位)の奉行人通達した。
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   ※禁止命令: 交通の妨害、軍事行動の準備阻止、公的な飛脚との混同を避ける、などが目的らしい。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月12日
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吾妻鏡
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晴。関東の安全を祈るため相模守北條時頼邸で如意輪法を行わると。
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   ※如意輪法: 守護と招福を如意輪観音に祈るための修法。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月20日
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吾妻鏡
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和泉前司二階堂行方と左衛門尉左衛門尉武藤景頼が使節として上洛の途に就いた。これは陸奥守北條重時と相模守北條時頼が将軍藤原頼嗣を辞任させ後嵯峨上皇の第一親王(三位宗尊親王)の鎌倉下向を申請するのが目的である。時頼が自ら書いた書状に重時が花押を加えたもので、それ以外の者は内容を知らない。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月21日
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史 料
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法性寺禅定殿下(前将軍藤原頼経の父・九条道家)が死去した。将軍の三位中将藤原頼嗣卿の上洛を前にして、60歳。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月27日
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吾妻鏡
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辰刻(8時前後)に京都からの飛脚が到着、去る21日戌刻(20時前後)に法性寺禅定殿下(九条道家)の死去を報告した。これにより 陸奥守北條重時と相模守北條時頼以下の幕臣が群参した。道家の死没には武家が関与したとの噂がある。
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   ※武家が関与: 「後嵯峨上皇の周辺と鎌倉の指示を受けた六波羅が関与した」が正しい、と思う。
この後暫くは邪魔な道家を排除して主導権を確保した後嵯峨上皇の朝廷側と、頼経親子を追放した鎌倉幕府の関係は円満に推移し政情は安定、ウィン・ウィンの甘い関係...
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そして89代後深草天皇(持明院統)と実弟の90代亀山天皇(大覚寺統)は互の子孫が交互に皇位を継ぐ約束を交わしたのだが、最終的には亀山天皇の孫の後醍醐天皇が皇位を手放さず、鎌倉幕府の崩壊と共に南北朝時代を迎える事になる。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月28日
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に腰越から和賀江の津までの海が巾三丈(9m)ほど、血のような赤色に染まり、夜になって消えた。三河前司清原教隆が諮問に答え、中国の歴史にも同じ例があり、去る建保年間(1213~1219年)以来の鎌倉でも何回か起きていると上申した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月30日
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百錬抄
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関東の飛脚が到着、三位宗尊親王が征夷将軍として御下向されるように、と。  百錬抄の明細は wikiで。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月5日
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吾妻鏡
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辰刻(朝8時前後)に京都の飛脚が鎌倉に参着した。
これは先日上洛した鎌倉の使節・和泉前司二階堂行方と左衛門尉 武藤景頼が親王の御下向を奏聞した事について去る1日から院の御所に殿下(摂政の近衛兼経・wiki)も毎回参加して検討した結果、承諾を得た。
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ただし3歳の宮(准后腹)と13歳の宮(宗尊親王・生母は大納言二品)、どちら下向を望むかとの質問があり、南北の六波羅(後の探題)から鎌倉に駆け付けた次第である。(連署の)陸奥守北條重時と(執権の)相模守北條時頼が協議して13歳の宮の御下向が望ましいとの結論に至り、同日申刻(16時前後)に飛脚は再び京都に向かった。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月6日
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吾妻鏡
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左衛門尉藤原泰経が使節として上洛の途に就いた。行程は七ヶ日、宗尊親王の鎌倉下向について六波羅の大夫将監北條長時朝臣への伝達として、長時および然るべき立場の在京御家人が供奉せよとの命令である。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月13日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に京都からの飛脚が再び参着、宗尊親王は来る19日の出発予定、と。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月16日
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吾妻鏡
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晴。親王御下向の無事を祈るため、今日陸奥守北條重時と相模守北條時頼が連署した御書により護持僧らに祈祷を命じ、護持僧ら請文(了承の文書)を提出した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月17日
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吾妻鏡
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晴。三品親王(六代将軍に就く宗尊親王)の関東御下向について仙洞(後嵯峨上皇の御所)で様々な決定があった。
殿下(摂政の 近衛兼経・wiki)も参席、また法親王仁助(後嵯峨天皇の同母弟・後深草天皇 の叔父)も同席した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月18日
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吾妻鏡
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雨。(宗尊に)親王勅授の宣下あり。上卿(太政官が行なう公事の指揮)は左大臣鷹司兼平。
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今日、殿下(摂政近衛兼経)が下総前司行経御馬を介して六波羅の左親衛北條長時に贈与した。長時が宗尊親王の供として関東へ下向するためである。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月19日
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吾妻鏡
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晴。今暁、三品親王(宗尊親王)の鎌倉に御下向あり。
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まず仙洞(院の御所)から八葉の御車で六波羅に入御、吉田中納言為経卿・土御門宰相中将顕方卿・花山院中将長雅朝臣・右中弁顕雅朝臣らが車を連ねた。辰一点(朝7時過ぎ)に輿で六波羅を出発、午刻(正午前後)に野路の駅に着御した。
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   ※八葉の車: 花弁が八つの「八葉蓮華」紋を付けた牛車。
大型の紋は上位の公卿、小型紋を付けた「小八葉」には下級貴族が乗る習慣だった。右の画像は平治物語絵巻に載っている小八葉の車。平治の乱で二条院が女房を装って御所から六波羅に脱出するシーンだから雰囲気は異なるけど。
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   ※野路の駅: 現在の草津市野路町。頼朝が最初に上洛した建久元年(1190)11月などにも記載がある駅で
JR琵琶湖線 南草津駅近くに江戸時代の一里塚(地図)が再現されている。
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源平盛衰記には「頼朝追討に出陣した平維盛の軍勢五万騎が野路に泊まった」とあり、元暦二年(1185)6月21日の吾妻鏡は「前の内府平宗盛の嫡子清宗が野路宿で斬首され、父の遺骸と共に篠原に埋葬された。」と書いている。詳細は平家最後の地(サイト内リンク)で。
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  御儲事(準備しておいた物)
     親王の分として、六脚の膳に御酒一瓶子・二の膳に御肴と八種菓子(唐菓子・wiki)を差す)
     女房四人の分として、三脚の膳に酒一瓶子・二の膳に菓子(同上)
     供侍の分として、小膳五十人前  副食五種・汁二(温と冷)・酒肴一揃い
     雑役十二人との小舎人らの分として、櫃飯二升五合と別に一櫃、副食三種・他
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  御雑(旅の消耗品か)の事
   米三十石、白米二石(宣旨に倣う)、大豆三石(同斗)、秣二百三十束、藁八百束、糠十石、
   薪二百三十束、炭五籠、送夫六十人、 贄殿入物 御菜十種(精進二、魚鳥八)、上白米三斗(宣旨斗)

夜に入り鏡の宿に着御、壱岐前司佐々木泰綱が食事などを献上した。
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  親王の分として、
    棚菓子十合、八種菓子、御酒二瓶子、御肴二折敷(角小外居)
    小御料(御菜七種、六本立(衝重朝夕)、居御料(御菜七種)、
    追物(御菜八種)、
    朝夕の追加として 御菜三種)、汁物二(冷温)、御肴一前(三種)
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  女房四人の分として、
    三本立(衝重朝夕)、御料(菜七種)、召御料(菜八種)、
    追物(菜六種)、小御料(菜五種)、菓子(二折敷、八種)、酒一瓶子
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  侍所の分として、
    小続十五前(菜五種)、汁二(冷温)、酒肴一具(大肴)
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  力者十二手(上三手、女房中九手)並びに小舎人所の分として
    櫃飯二十五具(別飯として一櫃、雑菜三種、大瓶一荷、折敷三十枚、土器百、大小箸百二十前)
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  御雑事として献上
    能米三十石、白米二石(宣旨斗定め)、大豆三石(同斗)、秣二百三十束、藁八百束、糠十石、
    薪三百三十束、炭五籠、続松三百把、油一升(精進)、贄殿入物(上白米)、送夫五十人
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   ※鏡の宿: 牛若丸が元服して九郎義経を名乗った地。頼朝や頼経の往復、更には南北朝時代の足利尊氏や、
江戸時代には十四代将軍家茂に降嫁する皇女和宮が立ち寄った記録もある。
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右上画像は宿駅を守護する鏡神社の参道。画像をクリック→ 鏡の宿の明細へ(サイト内リンク・別窓)
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近江佐々木氏の本拠は約17km西(現在の東近江市小脇町)にあり、嘉禎四年(1238)に上洛した四代将軍藤原頼経が10月13日の復路で「近江入道(佐々木信綱)が建てた仮御所に宿泊して豪華な接待を受けた」との記載がある。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月20日
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吾妻鏡
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昼に四十九院で御宿(休息?)、夜は箕浦に宿泊した。
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   ※北條九代記: 前将軍藤原頼嗣が鎌倉を出て上洛の途に就いた。
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   ※保暦間記: 頼嗣将軍が京都に向かった。近江守佐々木氏信が了行法師を怪しんで捕縛し尋問したところ、
前の将軍藤原頼経が京都で世を乱す計画を図ったと判明したため一族の僧俗の多くが勅勘を蒙り、当将軍も同様の処分を受けた、と。 北条九代記保暦間記は各々wikiで詳細を。
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   ※四十九院: 多賀大社(公式サイト)に近い北陸道(現在の国道8号)沿いの豊郷町に四十九院の字名(地図
が残っている。行基上人が布教を兼ねた交通や民生の目的で畿内周辺に建てた施設の一つと伝わるが、詳細は不明。四十九院で休息して箕浦で宿泊したとの意味か。
箕浦は約17km北の米原市箕浦(地図)、北陸道と東山道(国道21号)が分岐する交通の要所。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月21日
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吾妻鏡
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(宗尊親王は)昼に野上に入御した。
今日、三位中将家(五代将軍藤原頼嗣)が幕府を出て入道越後守北條時盛の佐介邸に入御、若君(弟の乙若)御前は御母儀(正三位権中納言藤原(持明院)家行(wiki)の娘・大宮殿)の亀谷邸に入御した。
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   ※野上: 箕浦から約20km西の関ヶ原近く(地図
   ※若宮御前: 前将軍藤原頼経の次男で五代将軍藤原頼嗣の同母弟(詳細は前年の1月5日で)。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月22日
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吾妻鏡
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(宗尊親王は)昼に黒田に入御、宿泊は萱津。
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   ※黒田: 一宮市木曽川町黒田(地図)、木曽川東岸で周辺は承久の乱の合戦場が点在する。萱津は名古屋駅
の西、江戸時代は中村公園から庄内川を挟み甚目寺近くまで(地図)の広い範囲が宿場町だった。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月23日
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吾妻鏡
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(宗尊親王は)昼に鳴海に入御、宿泊は矢作
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   ※鳴海: 名古屋市緑区鳴海町(地図)、矢作は岡崎市の矢作川西岸(地図で三河守護足利義氏の本拠。.
西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月24日
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吾妻鏡
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(宗尊親王は)昼に渡津に入御、宿泊は橋本
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今日、(上洛していた使節の)二階堂行方武藤景頼が関東に戻った。鏡の宿から鞭を揚げ馬を急がせたとのこと。
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   ※渡津: 豊川の河口近くに上渡津橋の名前が残る(地図)。
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吾妻鏡に何度も現れる橋本は現在の湖西市新居町浜名(地図)。室町時代まで現在の浜名川が東西を隔てる境界だった。
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明和七年(1498)の地震による地殻変動で浜名湖と海の境界(今切・現在の浜名大橋地点)が切り離されて浜名湖は海と繋がり、後に今切と弁天島を結ぶ線が東西の境界となった。
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初めて上洛した建久元年(1190)10月18日には頼朝もここ橋本宿で宿泊している。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月25日
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吾妻鏡
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(宗尊親王は)昼に引間に入御、宿泊は池田
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   ※引間: 現在の曳馬(地図)。永禄十一年(1568)に今川氏の引間城を落とした徳川家康が城を拡大整備して
浜松城(現在の城址は2kmほど南西)に改めたと伝わる。真偽は不明。
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池田宿は現在の磐田市池田(地図)。当時の天竜川本流は現在よりも数km東(今之浦川か太田川か)を流れており、池田宿を出て天竜川を渡った江戸時代の東海道五十三次とは異なる。
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鎌倉時代には池田荘(興福寺一乗院領)の東端が天竜川で、その後に西に流路が変わったため荘園の概ね中央を流れ下るようになったらしい。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月26日
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吾妻鏡
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(宗尊親王は)昼に懸河に入御、宿泊は菊河
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   ※懸河: 江戸時代の東海道は現在のJR掛川駅と掛川城の間(地図)を通っていた。鎌倉時代も概ねこの近く
だろうと思う。東海道の菊河宿は東海道本線から大きく北に離れた金谷駅近く(地図)、概ね現在の1号バイパスのルートだったらしい。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月27日
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吾妻鏡
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(宗尊親王は)昼に岡部に入御、宿泊は手越
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   ※岡部: 現在の藤枝市岡部町(地図)。ここからは蔦の細道(宇津ノ谷峠)を越えて丸子から安倍川を渡る手前が
手越(地図)。宇津ノ谷峠のレポートはこちら(サイト内リンク・別窓)。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月28日
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吾妻鏡
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(宗尊親王は)昼に蒲原に入御、宿泊は木瀬河
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   ※蒲原: 現在の静岡市清水区、正確にはJR東海道線新蒲原駅の北側(地図)。木瀬河は沼津市大岡(地図)。
黄瀬川の東岸には富士川合戦の際に奥州平泉から頼朝の軍陣に駆け付けた 義経が涙の再会を果たした清水八幡(サイト内リンク・別窓)がある。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月29日
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吾妻鏡
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(宗尊親王は)昼に鮎澤に入御、宿泊は関本
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   ※鮎澤: 後三年の役で苦戦する兄・八幡太郎義家を手伝うため奥州に
向かう新羅三郎義光の足跡が残る足柄峠(サイト内リンク・別窓)を西に下った、現在の御殿場市藍沢(鮎沢)を差す。
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頼朝の時代には巻狩りの舞台になったエリアで、古い街道筋には承久の乱の後に鎌倉連行の途中で処刑された5人の公卿を慰霊した藍沢五卿神社(サイト内リンク・別窓)がある
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この時代は箱根道ではなく、まだ足柄道がメインだったらしい。関本は文字通り関所のある足柄峠を越えた東側の麓で、ここには後鳥羽上皇の近臣・藤原範茂を葬った範茂史跡公園(サイト内リンク・別窓)として保存されている。
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右画像は富士山が美しい峠の頂上。更に詳細は画像をクリックして古道・足柄峠(サイト内リンク・別窓)で。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴、風が静まった。寅一点(早暁3時過ぎ)に宗尊親王は関本の宿を出発し、未一刻(13時過ぎ)に固瀬河の宿に着御した。人々はここで出迎え、暫くして御所に向かった。
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  行列
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    先頭は女房(女官)、各々が輿に乗り下臈(低位の者)が先。
      美濃局  別当局  一條局(大納言通方卿の娘)  西の御方(尼、土御門内大臣通親公の娘)
      布衣(準正装)の諸大夫(五位)と武士が各一人同行、他の女房には雑色が付き添うのみ。
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    次に随兵(二列)
      足利次郎顕氏   三浦介盛時   武田五郎三郎政綱
      小笠原余一長澄   城次郎頼景   下野四郎景綱
      陸奥七郎業時   尾張次郎公時   相模右近大夫将監時定
      備前の前司時長
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    次に狩装束(二列、弓箭を携帯)
      大隅太郎左衛門尉   伯耆太郎左衛門尉   長門守時朝
      遠江次郎左衛門尉光盛   佐々木壱岐前司泰綱   後藤壱岐前司基政
      武石次郎   武石三郎朝胤   遠江六郎教時
      越後五郎時員   河内守祐村   出羽次郎左衛門尉行有
      甲斐太郎時秀   城九郎泰盛   陸奥弥四郎時茂
      小山出羽前司長村   足利太郎家氏   北條六郎時定
      尾張前司時章   陸奥掃助實時    武蔵守朝直
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    次に親王の輿(御簾を上げる)
      御服は顕文砂・萌黄の御狩衣、・紅の御衣、紫の御奴袴、腹白を括らる。荷物持ち三人)
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    次に公卿  土御門宰相中将(顕方卿、布衣)
    次に殿上人 花山院中将長雅朝臣(布衣)
    次に諸大夫 右馬権助親家
    次に医陰道 采女正丹波忠茂   前陰陽少允安倍晴宗
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    次に京より供奉の人々(各々狩装束で騎馬。騎馬の従者あり)
      波多野出雲前司義重   佐々木加賀守親清(並列)   長井左衛門大夫泰重   左近大夫将監長時
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道中は稲村崎から由比浜鳥居の西を経由して下の馬橋へ。ここで御輿を降りて前後の供奉人も各々下馬し、中下馬橋を東に折れて小町口から相模守北條時頼邸に入御した(申一点・15時過ぎ)。
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陸奥守北條重時・相相模守北條時頼・前右馬権頭北條政村・甲斐前司長井泰秀・出羽前司二階堂行義・下野前司宇都宮泰綱・秋田城介安達義景らが予め庭に列座して待機し、(親王の)御輿は南門を入って寝殿に寄せた。
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土御門宰相中将が親王に従い、その後に陸奥守重時の差配による椀飯の儀あり。先ず出羽前司二階堂行義が時刻を告げて親王が南面に出御し、両国司(重時と時頼)が廊下の敷皮に座して控えた。
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相公羽林(土御門顕方)が御前に進んで御簾三ヶ間(御座および東西)を上げ、次いで前右馬権頭北條政村が御剣を持って南門から入り庭を経て寝殿の沓脱ぎから昇り、御座の横に置いて元の座に戻った。次に御弓(弦を張る)は前陸奥左近大夫将監北條長時、次に御行騰沓は佐渡前司 後藤基綱
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    次に御馬(鞍置き)を引く
      一の御馬は   備前前司時長 と 遠江六郎教時
      一の御馬は   足利太郎家氏 と 上総三郎満氏
      一の御馬は   遠江次郎左衛門尉光盛 と 同、六郎左衛門尉時連
      一の御馬は   大曽弥太郎左衛門尉長泰 と 同、次郎左衛門尉盛経
      一の御馬は   北條六郎時定 と 工藤左衛門尉高光
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また砂金百両・銀の板十枚・鷹の羽一箱を献上した。
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この他に兼ねて御塗籠(寝室の続き間・納戸)に納めたのは最上質の絹五十疋・上質絹二百疋・帖絹(銭の代用)二百疋・紺染めの絹二百端・紫染めの絹五十端・絹糸千両・綿二千 両・檀紙三百帖・厚紙二百帖・中紙千帖。
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御厨子(収納棚)に納めた物は、砂金百両・銀の板十両。次いで御服、二重織物・御狩衣萌黄・二御衣白御単・二重織物御奴袴・濃下袴・御直垂十具(織物村濃布五セット)・御小袖十セット・御大口一・唐織物御衣一領・御明衣一・今木一。
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また女房三人の分として、上臈二人各々に巻絹十疋・帖絹十疋・紫十・染物十・色々、下臈に巻絹十疋・紫十・染物十・色々など。各々の居間に納めた。
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   ※保暦間記: 後嵯峨上皇の四宮中務卿宗尊親王の下向を申請して征夷将軍とした。宮将軍の最初である。
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   ※五代帝王物語: 将軍三位中将の藤原頼嗣の上洛しに伴い後嵯峨院の親王下向が決まり、第二宮の宗尊親王
(御母儀は棟範朝臣の女、兵衛内侍、後准后)の御下向となった。顕方卿と長雅卿らも供奉、これで朝廷と武家の騒動も鎮まるだろう。
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   ※百錬抄: 左大臣が御前に参上、三品親王宗尊の征夷将軍着任の宣下があった。
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       史料の詳細は各々wikiで確認を → 保暦間記 五代帝王物語  百錬抄
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月2日
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吾妻鏡
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晴。城次郎安達頼景が使節として上洛の途に就いた。(宗尊親王が)無事に下着した事を奏聞するためである。
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今日、秋田城介安達義景の沙汰による椀飯があり、和泉前司二階堂行方が刻限の報告に任じた。(献上の役人)御剣は武蔵守北條朝直、御 弓箭は陸奥掃部助北條実時、御行騰沓は秋田城介安達義景。
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  次いで御馬
     一の御馬は 相模右近大夫将監時定 と 相模式部大夫時弘
     二の御馬は 伊勢前司行綱 と 信濃四郎左衛門尉行胤
     三の御馬は 出羽次郎左衛門尉行有 と 同、三郎行資
     四の御馬は 和泉次郎左衛門尉行章 と 同、三郎行家
     五の御馬は 越後五郎時員 と 梶原左衛門尉景俊
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次いで帖絹百疋(櫃十合に入れ、長櫃三合に収納)を非公式に献じ、御塗籠(寝室の続き間・納戸)に納めた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月3日
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吾妻鏡
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晴。足利左馬頭入道正義(足利泰氏の法名)の沙汰よる椀飯あり。下野前司宇都宮泰綱が刻限を告げる役に任じた。(献上の役人)御剣は尾張前司時章北條時章、御調度(弓箭)は相模右近大夫将監北條時定、御行騰沓は出羽前司二階堂行義、帖絹百疋(銭の代用)献納の儀式は通例の通り。
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今日、前将軍(藤原頼嗣)並びに若君御前・御母儀・二位殿らが御上洛。陰陽師からは「先月二十二日に御所を退去した際も今回も重服(重い喪に服すべき期間・祖父の九条道家死没による)で移動は憚られる。」と陰陽道が上申したが許可されず、出立の指示が下された。
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   供奉人
     陸奥七郎業時   相模八郎時隆   縫殿頭師連   越中の前司頼業
   路次の奉行
     筑前前司行泰   河内前司祐村   大隅前司親員   大曽弥上総介
     城三郎        上野彌四郎左衛門の尉時光  出羽次郎左衛門の尉行有
     嶋津大隅修理亮久時   大曽弥五郎兵衛尉   小野澤次郎時仲
     伊東八郎左衛門尉   伊東三郎   本間山城次郎兵衛尉
     都築九郎(催促人に非ずと雖も、若君の御時より奉公するの間、参らしむ)
   護持僧   法印成慧   権少僧都實暹
   医師  施薬院使廣長
   陰陽師  大舎人助国継

また、御所の御格子を上げ下げの当番と人数を定め、勤務表を和泉前司二階堂行方が清書した。
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   御格子番についての定め(順不同)
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   一番   陸奥弥四郎時茂   越後五郎時員   足利次郎顕氏
大蔵権少輔朝廣   下野七郎経綱   那波右近大夫政茂
城次郎頼景   武藤左衛門尉景頼   筑前次郎左衛門尉行頼
和泉五郎左衛門尉政泰   足立三郎右衛門尉光氏   伊豆太郎左衛門尉實保
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   二番 北條六郎時定   伊賀前司時家   城五郎重景
駿河新大夫俊定   遠江次郎左衛門尉光盛   大曽弥次郎左衛門尉盛経
土肥三郎左衛門尉惟平   和泉次郎左衛門尉行章   出羽三郎行資
佐々木四郎兵衛尉泰信   河内三郎祐氏   肥後四郎兵衛尉行定
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   三番   相模式部大夫時弘   遠江太郎清時   大隅前司忠時
梶原右衛門尉景俊   能登右近蔵人忠時   信濃四郎左衛門尉行胤
肥後次郎左衛門尉為時   式部兵衛太郎光政   武藤右近将監兼頼
狩野五郎左衛門尉為廣   加藤左衛門三郎景経   相馬次郎兵衛尉胤継
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   四番   遠江六郎教時   武蔵太郎朝房   長井太郎時秀
肥後前司為定   出羽次郎左衛門尉行有   安藝右近蔵人重親
小山七郎宗光   弥次郎左衛門尉親盛   筑前三郎行實
常陸次郎兵衛尉行雄   土屋太郎左衛門尉忠宗   武藤次郎兵衛尉頼泰
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   五番   相模八郎時隆   上総三郎満氏   参河前司頼氏
城九郎泰盛   長井蔵人泰元   隠岐三郎左衛門尉行氏
出雲六郎左衛門尉宣時   伊賀次郎左衛門尉光房   薩摩七郎左衛門尉祐能
大須賀次郎左衛門尉胤氏   豊後三郎左衛門尉忠直   山内新左衛門尉成通
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   六番   越後右馬助時親   壱岐前司基政   同五郎左衛門尉基隆
大友式部大夫頼泰   上野五郎兵衛尉重光   伊東六郎左衛門尉祐盛
伯耆三郎左衛門尉時清   出羽籐次左衛門尉頼平   小野寺四郎左衛門尉通時
雅楽左衛門尉長谷部朝連   平賀新三郎惟時   鎌田兵衛三郎義長
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勤務表を守り、怠りなく精勤すること。格子を上げる任務の際には日の出前に、晴天の場合は躊躇わずに出勤すること。御寝殿の近くでは御指示を待つこと。格子を下げるのは灯明を点じる刻限を守り、翌朝は交替の当番が出勤してから退出する。交替要員に支障がある場合は何日であっても前任者が勤務を継続し、理由なく欠勤する者は必要な処分を科す。仰せに従って以上を定める。       建長四年 四月 日
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月4日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼邸で宗尊親王の浜への出御および御弓始めなどについて定められた。
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大蔵少輔安倍泰房は「14日と20日が良い」と主張し、陰陽大允安倍晴茂は「14日は吉日だが20日は遠出を忌む五離日で、兵を動かす事は憚られる」と述べた。
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再び泰房が「的始めには以前からこの日を選んでいる」と主張し、晴茂がこれに反論して「的始めは年初の儀式で恒例の行事とは異なる。」と主張した。結果として話は纏まらず、明日改めて協議することになった。
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西暦1250年
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89代後深草天皇
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建長二年
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4月5日
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吾妻鏡
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晴、北風が烈しい。宗尊親王が浜に出御する日程について為親と文元を相模守邸に呼び、更に陰陽師の泰房・晴茂・晴宣・晴宗らも加わって議論した。各々が昨日の晴茂の主張が理に叶うと答え、来る14日の実施が決まった。
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夜になって六波羅(留守役の者)からの飛脚・小林兵衛尉が到着し、将軍宣旨の案文(写し。草案を意味する場合あり)を持参した。正文は来る11日に請け取り、官使(太政官の使者)権少允が(鎌倉に向け)出発する、と。
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陸奥守北條重時と相模守北條時頼が集まって案文を確認し、官使が到着した際の饗応について先例を確認して準備するよう協議したが、出羽前司二階堂行義と民部大夫三善(太田)康連からは「建久の記録が不明確」との報告があった。宣旨状(案文)の内容は次の通り。
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    三品(三位)宗尊親王
   右、左大臣が宣旨を伝える。 首記の親王を征夷大将軍に任じる。
                 建長四年四月一日   大外記中原朝臣師兼が奉る(聞き取りを書く)
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   ※建久の記録: 建久三年(1192)7月26日に頼朝を征夷大将軍に任じる叙書が届き、二日間饗応している。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月7日
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吾妻鏡
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晴。陰陽道から勘文(上申書)が呈された。最近は歳星(木星)が光を増し色彩も鮮明になっている。吉兆であるため報告する、と。和泉前司二階堂行方が御所に持参し将軍家(宗尊親王)上覧に呈した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月12日
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吾妻鏡
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(将軍家の)鶴岡八幡宮参拝の予定に伴い供奉人を招集した。明後日(14日)、着衣の狩衣・上括りは規則の通り。後夜より前に参勤するよう散状(回覧)の最後に載せた。
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   ※後夜より前: 終夜は夜を三等分した最後、2時~6時、より前は4時(寅刻)
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月14日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。寅一刻(早暁3時過ぎ)に将軍家宗尊親王が初めて鶴岡八幡宮に参拝、前陰陽権大允安倍晴茂朝臣が束帯姿で反閇を務めた。花山院中将長雅朝臣が食膳に侍し、尾張前司北條時章朝臣が運び役に任じた。出御は御輿、帯剣の侍40人を伴った相模守北條時頼が供奉した。
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   ※反閇: 貴人の移動に際し無事を祈る陰陽師が行う歩き方。悪霊を踏みつける意味の呪法(wiki動画を参照)。
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  供奉人
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  公卿  宰相中将 土御門顕方卿、直衣(狩衣、略礼装)
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  殿上人
    花山院中将長雅朝臣   伊豫中将公直朝臣   坊門少将清基朝臣   二條少将兼教朝臣(已上束帯)
    陸奥守北條重時朝臣   相模守北條時頼(御剣役)   前右馬権頭北條政村   武蔵守北條朝直
    尾張前司北條時章   陸奥左近大夫将監北條長時   相模右近大夫将監北條時定
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  この他に
    佐渡前司後藤基綱   出羽前司二階堂行義   下野前司宇都宮泰綱
    前太宰少貳狩野為佐   秋田城介義景安達義景   和泉前司二階堂行方
    壱岐前司後藤基政   長門守笠間時朝   那波左近大夫将監宇佐美政茂
    参河前司新田(世良田)頼氏   能登右近大夫仲時   豊後四郎左衛門尉忠綱
    和泉五郎左衛門尉天野政泰   遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛   同、六郎左衛門尉時連
    大曽弥次郎左衛門尉盛経   左衛門尉武藤景頼   隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏
    足立三郎左衛門尉元氏   伊賀六郎左衛門尉朝長   押垂左衛門尉基時
    狩野五郎左衛門尉為廣   長左衛門尉朝連   信濃四郎左衛門尉行忠
    伊東六郎左衛門尉祐盛   薩摩七郎左衛門尉祐能   伊豆太郎左衛門尉宗保
    彌次郎左衛門尉親盛   足立太郎左衛門尉直元   梶原右衛門尉景俊
    一宮善左衛門尉康長   上野三郎兵衛尉廣綱   東中務少輔胤重
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  直垂を着して帯剣した者(各々輿の左右に整列)
    南部又次郎時實   出雲五郎左衛門尉定時   壱岐新左衛門尉基頼
    三村新左衛門尉時親   豊後四郎兵衛尉島津忠綱   肥後四郎兵衛尉行定
    小笠原余一太郎   土肥四郎實綱   加藤三郎景綱
    武田五郎七郎政平   伊豆八郎景實   大泉九郎長氏
    一宮右衛門次郎康有   大曽弥左衛門太郎長経   河内三郎祐氏
    渋谷次郎太郎武重   武藤七郎兼頼   梶原右衛門太郎景綱
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  先陣の随兵
    備前前司時長   陸奥掃部助北條実時   北條六郎時定
    足利太郎家氏   陸奥弥四郎時氏   尾張次郎北條公時
    越後五郎時員   駿河四郎兼時   城九郎安達泰盛
    小笠原余一長澄
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  後陣の随兵
    長井太郎時秀   下野四郎景綱   葦名遠江守三浦 (蘆名)光盛
    三浦介三浦(佐原)盛時   出羽三郎行資   伯耆左衛門四郎清時
    和泉四郎左衛門尉行章   田中右衛門尉知継   結城上野十郎朝村
    武石三郎朝胤   武田五郎政綱   阿曽沼次郎光綱
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  検非違使
    近江大夫判官佐々木氏信   大夫判官宇佐美祐泰   同、隠岐判官泰清

随兵が参進する段になってこれを止め、陸奥掃部助北條実時と遠江守佐原 (蘆名)光盛が鎧を布衣(狩衣)に改めて供奉に戻った。右大将家(頼朝)から三位中将家(五代将軍藤原頼嗣)に至るまでは将軍の威儀を整えられ、出御の際には武勇に優れた者以外は一人として供に加えなかったが、親王の出御の場合は同様ではないから、今後はそれを考慮して随兵を選定せよ。牛車を使う場合以外は従来の様式に倣う必要はない、と。
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行列は小町大路を北行し政所を西へ。鳥居の南で輿から降り、日の出前に御神拝を済ませて還御した。辰刻(8時前後)に秋田城介安達義景の奉行として特別に政所始めを開くよう仰せがあった。これにより両国司(陸奥守重時と相模守時頼)が布衣で政所に入り、陸奥守は奥座、相模守は端座に着座した。
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政所執事の前伊勢守二階堂行綱が盃酒を整えて三献の儀、続いて御引出物の御馬と御剣の下賜があった。まず陸奥守、次に相模守への下賜である。儀式が終わって両国司は政所から退出し、人々と共に庭に着座した。
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将軍家(御直衣・貴族の平服)が寝殿南面に出御し、宰相中将土御門顕方卿(直衣)が西側から進んで御座の前と左右二間の御簾を揚げた。次に陸奥守が御前の簀子(濡れ縁)に進み、伊勢前司二階堂行綱から覧筥(箱)の蓋に納めた吉書を受け取って御前に置き、御覧の後に返却され元の席に戻った。
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次いで兵具の献上。先ず御剣は武蔵守北條朝直が持参し、御弓箭は尾張前司北條時章、御鎧(甲冑・直垂・御刀など唐櫃の蓋に並べる)は相模右近大夫将監北條時定と備前前司北條時長。次に御野矢は陸奥左近大夫将監北條長時、次に御行騰沓は掃部助北條実時、続いて御馬三疋の献上があった。
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   一の御馬(鴾毛、鞍置き、厚総鞦)は 陸奥弥四郎時茂 と 浅間四郎左衛門尉忠顕
   二の御馬(黒鴾毛、鞍置きく、楚鞦)は 長井太郎時秀 と 綱嶋三郎左衛門尉泰久
   三の御馬(鴾毛、鞍置き、楚鞦)は 城九郎泰盛 と 同、四郎時盛
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次いで御簾が降ろされ、御弓始めあり。射手は六人、立烏帽子・水干・葛袴・浅沓で南門から入り弓場の左右に控え、暫くして将軍家が廊に出御した(既に大紋の高麗端座を敷く)。
安達義景が射手の明細を御前に置き、退いて御言葉に従い庭に降りて射手に開始を命じた。
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  射手
   一番  二宮弥次郎時元 vs 早河次郎太郎祐泰
   二番  河野左衛門四郎通時 vs 桑原平内盛時
   三番  武田五郎七郎政平 vs 眞板五郎次郎経朝
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一人が五射を繰り返してから将軍家は退出され、人々は堂上に入って椀飯となった。その後に評定が始められ、秋田城介安達義景の奉行により陸奥守以下が各々着座した。
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  奥座
    陸奥守北條重時   右馬権頭北條政村   武蔵守北條朝直   前出羽守二階堂行義
  端座
    相模守北條時頼   秋田城介安達義景   民部大夫三善(太田)康連   前尾張守北條時章
    対馬守三善(矢野)倫重   左衛門尉清原清定
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(評定衆による会議では)伊勢神宮と石清水八幡宮などの大社に神馬を奉納する件が決められた。
宗尊親王の御下向が無事に済み将軍家に就任したことへの献納である。評定の終了後に両国司が議事録を将軍家に上程し、御覧の後に施行の手続きを執った。奉幣と神馬の献納は京都の十八社、関東では鶴岡宮・伊豆筥根・三嶋および武蔵国鷲宮を初めとする諸国の惣社が含まれる。
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夜になって将軍家は始めて直垂を着しての御乗馬始めの儀が鞠の御壺で行われた。出羽前司小山長村・三浦介三浦(佐原)盛時・秋田城介安達義景らがこれを補佐し、陸奥守重時・相模守時頼・武蔵守朝直・尾張前司時章・陸奥掃部助実時・出羽前司二階堂行義らが敷皮に着座して見守った。御馬は相模守が献上したものである。
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   ※:
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月16日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の臨時祭は三月三日と四月三日の二度とも行わなかった。三月は前将軍三位中将家(藤原頼嗣)の服喪で延期し、四月は今の将軍(宗尊親王)の御下向が迫っていたため保留となっていた。
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神意に障る恐れもあるため早急に実施せよとの仰せがあり、今日陰陽師に日取りを設定させた。従来は臨時祭毎に必ず将軍家が参宮したが今後は取り止め、奉幣使の派遣に変更した。親王の出御を重く考えた結果である。
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   ※頼嗣の服喪: 前年の11月13日に准后で従一位の西園寺綸子(頼嗣の祖母)が死去した、との記事がある。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月17日
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吾妻鏡
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晴。御所で蹴鞠始めの儀あり。
参加者は 宰相中将土御門顕方卿、右馬助藤原親家、二條中将兼教朝臣(上鞠)、相模守北條時頼、右馬権頭北條政村朝臣、陸奥掃部助北條実時、城九郎安達泰盛、上野十郎結城朝村、左衛門尉工藤次郎光泰、所右衛門尉行久、瀧口兵衛尉行信、東中務少輔胤重、三村左衛門尉時親が数え役として300以上を目指す、と。
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   ※上鞠: メンバーの中で最も上手な者。ちなみに蹴鞠の場合は「上手」ではなく「上足」と言うらしい。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月18日
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史 料
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   ※北條九代記: (前将軍藤原頼嗣が)入洛し(六波羅の)若松殿に入御、護衛の武士は20人。
   ※増鏡: 三位中将頼嗣は四月に入洛、いとほしげ(気の毒そう)に見えた。
   ※百錬抄: 前将軍三位中将頼嗣卿およびに若君らが関東から上洛した。
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   ※頼嗣入洛: 実際には更迭・追放で、同行の武士も護衛よりも万一に備えた護送に近かったらしい。
延応元年(1239)11月に鎌倉で生まれ将軍の座に就いたのは満4歳8ヶ月の寛元二年(1244)、将軍在位は僅か7年半だった。康元元年(1256)8月の父藤原頼経に続いて翌月には頼嗣も満18歳弱死没、共に疫病だったと伝わる。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月20日
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吾妻鏡
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引付衆の編成を改めるようにとの沙汰があり、今日評議衆の会議の際に人数を追加した。
担当奉行は秋田城介安達義景と大田民部大夫三善(太田)康連
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   ※引付衆増員: 史料では4月30日付で組織が三番から五番に増え配下の人数も増やされている。
四番担当の評定衆は二階堂行然と三善倫長、五番担当は担当奉行に任じた義景と康連。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月21日
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吾妻鏡
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晴、夜になって雨。(鎌倉の)御所造営について評議があり、陰陽道の勘文(諮問に対する答申)の提出を命じた。安倍晴茂・為親・以平らが子細を一枚の髪に纏めて提出、担当奉行は和泉前司二階堂行方
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月22日
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吾妻鏡
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晴。京都から下向してきた難波刑部卿宗教が御所に参上、蹴鞠会の開催に伴って相模守北條時頼と人数などについて語り合うのが目的である。問答は三回も繰り返された。
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   ※難波宗教: 後白河法皇の近臣で蹴鞠の名足だった難波頼経-長男宗長-宗教と続く。
父宗長も蹴鞠の名人で従三位に昇って難波流の祖となり、弟の雅経は飛鳥井流の祖となった。
蹴鞠の縁でたびたび鎌倉に下向している。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月24日
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吾妻鏡
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晴。蹴鞠の会あり。将軍家が出御し、宰相中将土御門将顕方が簾を上げた。その後人々が蹴鞠の場に並び立ち、工藤光泰が中央に進んで右膝を突き鞠を置いた。
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難波刑部卿(最初に蹴る名人)  土御門宰相中将(布衣)  二條少将兼教朝臣(布衣)
相模守北條時頼(布衣、錦皮の足袋)  右馬権頭北條政村(布衣)  武蔵守北條朝直(布衣)
出羽前司二階堂行義(布衣)  紀瀧口行宣(布衣)
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この外に 上野三郎兵衛尉結城廣綱  下野法橋仁俊  出羽前司小山長村(布衣)
城九郎安達泰盛(布衣)  次郎左衛門尉工藤光泰
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数の目処は300、数える役は三村左衛門尉、尾張前司北條時章・佐渡前司後藤基綱・秋田城介安達義景
前太宰少貳狩野為佐(以上は白の直垂)が検査役を務め、日暮れになって終了した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月29日
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吾妻鏡
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晴。北條時頼邸に於いて、古い御所の撤去工事を5月に行なう支障の有無について協議があった。
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陰陽師らを呼んで考えを尋ねると各々の主張が一致しない。安倍晴賢・晴茂は支障ありと言い、以平は解体に支障はなく方角も支障なしと言い、為親は5月の解体は支障があるが放置は構わない、など様々である。
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評議を重ねた結果、相模守時頼は「昔の賢人は、自宅を壊すのは大将軍でも国王でも忌避していない。まして前将軍の居宅を壊すのに何の支障があろうか。5月であっても工事を実施せよ」と決定した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月30日
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吾妻鏡
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晴。引付(訴訟事務)の組織に二方(組)を加え、全体で五方とする。民部大夫藤原行盛法師(二階堂行盛)を四番の頭(主席)とし、秋田城介藤原義景(安達義景)を以て五番の頭に定めた。一番と二番の頭人は変更なし。
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  引付衆
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    一番(二日)
      前右馬権頭北條政村  佐渡前司後藤基綱  備後前司町野(三善)康持  伊勢前司二階堂行綱
      山城前司中原盛時  内記兵庫允祐村  山名次郎行直
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    二番(七日)
      武蔵守北條朝直  出羽前司二階堂行義  伊賀式部入道光西(伊賀光宗)  左衛門尉清原満定
      越前兵庫助政宗  皆吉大炊助文幸  対馬左衛門尉仲康
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    三番(十二日)
      尾張前司北條時章  陸奥掃部助北條実時  常陸入道行圓(二階堂行久)  大曽弥左衛門尉長泰
      新江民部大夫以基  大田太郎兵衛尉康守  長田兵衛太郎廣雅
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    四番(二十三日)
      信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛)  和泉前司二階堂行方  対馬前司三善(矢野)倫長
      左衛門尉武藤景頼  深澤山城前司俊平  甲斐前司宗国  山名中務丞俊行
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    五番(二十七日)
      秋田城介安達義景  筑前前司二階堂行泰  参河前司教隆   民部大夫三善(太田)康連
      進士次郎蔵人  明石左近将監兼綱  越前四郎経朝
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   ※組織拡充: 背景には訴訟の増加があり、更に背景には貨幣経済の普及に伴う貧富の二極化がある。
しかし二階堂一族の幕政への関与は凄い。実務官僚としての資質が優れていたのだろうが、鎌倉時代末期には信濃系(行光の子孫)と隠岐系(行村の子孫)の二階堂氏が交代で政所執事を務め、信濃系二階堂氏の子孫は室町幕府(1336~1573)でも評定衆に任じている。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。鶴岡八幡宮恒例の御神楽奉納なのたが上宮宝殿の扉が卯刻(朝6時前後)から開かず、午一点(11時過ぎ)になって神主から仔細の報告があった。占いが行なわれ、卯刻の事は不吉・午刻の事は吉兆との結果が出た。
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相模守北條時頼から神饌(祭神に献じる食事)を大床(神殿の外縁)に供えるように、との配慮があった。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月2日
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吾妻鏡
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晴。工匠らを宮寺に呼んで宝殿の扉を開かせたところ鎖舌が折れてしまった。
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   ※鎖舌: 扉の裏側でスライドするカンヌキ状の錠(横棒)。
   ※百錬抄: 水天供などを催した。旱魃が激しいため祈雨の奉幣も再三である。  (百錬抄の明細はwikiで)
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月5日
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吾妻鏡
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晴。北條時頼邸で、出羽前司二階堂行義を奉行として御所造営による将軍家の御方違えの検討があり、陰陽道六人を呼んで将軍家の御本所(本拠とする場所)を何処にすべきかを尋ねた。
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安倍為親は「45日続けた連宿の地がないため西と乾(北西)を本所と考えるべきで、45日経過後は秋節(8月15日)に一度御方違えがあれば本所を北に設定するのが良い。また鎌倉下向以後はまだ御行始め(外出初め)をしていないから5月中に多少の憚りがあるのはやむを得ない。」と答え、廣資と以平はこれに同意した。
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晴賢と晴茂からは「45日以後であっても御本所を遊年の方向に設定することには憚りなし。」と答え、文元からは「最近は一夜の方違えに過ぎず、西でも乾でも問題なし。」と答えた。
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結論として秋節には御本所を北の方角に設定すると定め、また亀谷の方角(北西)を調査して(敵した場所を)確認するよう命じた。二階堂行義二階堂行方武藤景頼らが陰陽師6人を連れて窟堂背後の山に登り、乾方に間違いないと報告した。
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   ※遊年: 対象となる人物にとって、その年に建築・旅行・移転・婚姻などを
避ける必要がある方角。
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   ※窟堂: 八幡宮から寿福寺のある扇ヶ谷に続くのが窟(いわや)小路。
昔は右手の山上にあったと伝わる窟堂は崖崩れで失われ、現在地の山裾に移転した。建長四年には既に移転していたらしい。
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右上画像は小町通り北端から寿福寺に向かう窟小路。右手の木塀は川喜多映画記念館(公式サイト)
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右下画像は現在の窟堂。今ではチープな茶店風の店と共存している。更に詳細は義朝館跡、現在の壽福寺の本文(サイト内リンク・別窓)で。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月7日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に地震あり。
今日から松殿法印良基・大臣法眼親源・加賀法印定清らによる祈雨の祈祷が始まった。また同じ目的で陰陽師による霊所七瀬の御祓いを行なった。担当は晴茂・宣賢・為親・廣資・晴憲・以平・晴秀ら。
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   ※霊所七瀬: 七瀬の禊または七瀬祓い。平安時代からあった陰陽道の修法で水を司る七ヶ所の霊所で行う。
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貞応三年(1224)6月6日の吾妻鏡には由比ヶ浜(別名前浜・地図)、金洗沢池地図)、固瀬川(地図)、六連(横浜港南部の六浦・ 地図)、武蔵国に向かう鎌倉街道沿いの柚河(横浜市栄区の鼬川・ 地図)、杜戸は森戸海岸に流れ込む森戸川(地図)、 龍穴は江ノ島南西岸(地図)を差す。
寛喜二年(1230)11月13日には江ノ島龍穴が外れて多古恵河(田越川・地図)が入っている。
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   ※金洗沢: 平家物語異本では義経が金洗沢の関所で梶原景時により腰越に追い返されたとある。また五代執権
北條時頼の時代(1250年頃)に相州の刀工 正宗(wiki)が金洗沢の砂鉄で作刀した、とも。
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文永八年(1271)6月に日蓮忍性と雨乞いの祈りを競った池(参考サイト)も近い(地図)。
海岸に沿って走る国道134号に架かるのが「行合橋」、龍ノ口での日蓮斬首が江ノ島の方向から来た強烈な光のため執行できず、それを幕府に報告する使者と赦免を知らせる幕府の役人がここで出会った事から金洗沢は行合川、橋を行合橋と呼ぶようになったと伝わる。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月8日
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吾妻鏡
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終日小雨。祈祷の霊験によるものか。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月11日
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吾妻鏡
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晴。祈雨の効果に褒賞、僧には砂金・陰陽師には御剣である。伯耆前司光平と小野沢修理亮がこれを分け届けた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月17日
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吾妻鏡
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曇。陸奥守北條重時と相模守北條時頼および前典厩北條政村・武蔵守北條朝直・前尾張守北條時章以下が評定所に集まり、将軍宗尊親王御方違えについて協議し、陸奥守北條重時邸を御本所に設定すると定めた。
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しかし現在御所にしている相模守時頼邸の御亭から西に当たり、大将軍の方向を憚る旨を晴賢・晴茂・為親・廣資・晴憲・以平・晴宗らが一致して指摘した。このため出羽前司小山長村の車大路の家を仮の本所と定めた。現在の御所から正南である。
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   ※大将軍: 陰陽道に基づく八将神の一つで金星の精。
三年毎に北・東・南・西の順に移動するため、該当する人物は大将軍の住む方位を三年ずつ忌避することになる。
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   ※車大路: 鎌倉幕府の都市計画に基づて設けた六大路の一つ。
西側は六地蔵で大町大路から南に分岐し、浜の鳥居近くで若宮大路と交差して閻魔橋で滑川を渡る。
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その先で旧道の痕跡は途切れるが、横須賀線を越えた本興寺参道入口付近で小町大路と交差した痕跡が発掘確認されている。御所の真南であれば本興寺の東側辺りだろうか。
車大路はそのまま東に延び、安国論寺付近で大町大路に合流し名越切通しを経て三浦に向かっていた。
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右画像は鎌倉南部の主要道路地図。 画像をクリック→ 拡大表示。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月19日
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吾妻鏡
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晴。(将軍家の)御本所の件、小山長村の宿所は少し問題があり、再び陰陽師に問合わせた。安倍晴賢らは「亀谷の泉谷に住む右兵衛督教定朝臣の家が現在の御所から北方向で、本所とするのが望ましい。」と答申した。
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   ※右兵衛督教定: 義経を援助して頼朝から二度の流罪を科せられた従三位・参議の難波(藤原)頼経-次男で
飛鳥井流蹴鞠の祖飛鳥井(二条)雅経-歌人で蹴鞠の名人教定(妻は北條実時の娘)。
従三位ながら飛鳥井(藤原・二条)教定は概ね鎌倉に定住して蹴鞠と和歌の普及に尽力した。
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   ※亀谷の泉谷: 正確な位置は確認できないが亀谷から分岐した谷津の一つが泉谷なのは間違いない。
建長三年(1251)に北條時頼北條長時が開基となって建立したのが浄光明寺(wiki)で山号は泉谷山、教定邸はこの付近にあったと考えて良さそうだ。
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教定と同じく藤原一族だった中原親能の住居や阿仏尼(藤原定家の嫡子為家の後妻)やその息子冷泉為相の墓もこの付近にあり、藤原氏が多かった事から藤谷(ふじがやつ)と呼ばれていたのも偶然ではない、だろう。
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方違えをのため吾妻鏡の正治元年(1199)6月30日には「今夜戌刻(20時前後)、姫君(乙姫)の亡骸を親能の亀谷邸にある持仏堂の傍らに葬った。」とある。
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   ※現在の御所: 既に「車大路の小山長村亭」に方違えを済ませており、
現在の本所は時頼邸ではなく、長村亭になる。
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   ※乙姫持仏堂: 現在の岩船地蔵堂の可能性が考えられている。詳細は
岩船地蔵堂と、阿仏尼の墓を参照されたし。(共にサイト内リンク・別窓)
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右画像は亀谷・の泉谷周辺地図。 画像をクリック→ 拡大表示。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月22日
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吾妻鏡
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雨。辰刻(朝8時前後)に従五位下の右近将監平朝臣時兼(北條朝時の五男)が没した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月26日
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吾妻鏡
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晴。今日右兵衛督(飛鳥井教定・5月29日を参照)の泉谷亭を解体した。(将軍家が)御方違えをするための本所として新造するためである。
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奉行人に任じた佐渡前司後藤基綱・出羽前司二階堂行義・左衛門尉清原満定・籐内左衛門尉安東光成・陰陽師の前大膳亮為親と以平らが現地に赴き作業を差配した。
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   ※安東光成: 北條泰時の腹心として活躍した尾藤景綱の兄景信の息子。一族は得宗被官として忠節を尽くし、
弘長三年(1263)11月22日の北條時頼死没の際には最期の臨席を許された七人の中に、従兄弟の景氏(景綱の養子)と共に名を連ねている。
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太平記は80年後の鎌倉陥落を描いた文中で安東光成の子孫(子孫(孫か、曾孫か)と思われる)安東聖秀の最期を次のように記述している。
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稲瀬川で奮戦した後に北條一族の東勝寺での自刃を知った左衛門入道安東聖秀が新田義貞に嫁している姪から「命に代えてもお守りしますから降伏を」との書状を受け取るが、北條殿の恩を受けて人に知られる立場に登った一族の名を汚せるか、と言い残して自刃した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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曇。巳刻(10時前後)に御所建立の着工式があり、佐渡前司後藤基綱と出羽前司二階堂行義が奉行に任じた。
午刻(12時前後)に評定衆による会議と五組の引付衆による訴訟事務が開始された。また、将軍家(宗尊親王)の祈願として薬師護摩の勤行が命じられた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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 月 日
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史 料
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   ※百錬抄: 宣陽門院が崩御、先月から伏見に渡御していた。  百錬抄の詳細はwikiで。.

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   ※宣陽門院: 後白河天皇の第6皇女で生母は鎌倉時代初期の朝廷を支配した高階栄子(丹後局)
伏見は後白河法皇が院政を行なう拠点とした離宮を差す。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月10日
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吾妻鏡
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晴。(新設している)御所の築地塀などの作業を御家人らに割り当てる指示を下した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月16日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)がやや体調不良。また炎旱続きに対応する雨乞いの祈祷として数十人に恩赦を与えた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月17日
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吾妻鏡
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晴 。大和守従五位上の藤原朝臣伊東祐時が没した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月19日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡別当法印隆弁に雨乞いの祈祷が命じられた。
左衛門尉清原満定がその御教書(命令書)を携えして隆弁の雪ノ下本坊に届け、了承を受けた。申刻(16時前後)になって八幡宮の東回廊で北斗法を催し、夜になって少々の雲が出始めた。
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去る10日に和泉前司二階堂行方の奉行として祈祷を求めたが隆弁は固辞して受けなかった。昨日(18日)になって相模守北條時頼と対面し、「親王家(六代将軍宗尊親王)の下向を得て天下泰平と関東の静謐を得たが旱魃が庶民の嘆きを招いている。祈祷をして貰いたい。」との懇請を受けて承諾したのが経緯である。
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今日、六波羅の使者が鎌倉に到着、去る8日の宣陽門院崩御を報告した。
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   ※旱魃: 旧暦の6月19日は太陽暦の7月26日に当たる。田植えは済んだが暑さと乾燥が問題か。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月20日
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吾妻鏡
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晴、夜に入って降雨あり。比類なき祈祷の霊験であるとの仰せを受けた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月21日
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吾妻鏡
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雨。卯刻(朝6時前後)に左衛門尉小野寺四郎通時が使節として上洛の途に就いた。女院(宣陽門院)御事の弔問である。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月23日
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吾妻鏡
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夜半より激しい雨。去る19日に若宮(八幡宮)別当が雨乞いの祈祷を催し、翌20日から昨日まで連日の降雨を得た。申刻(16時前後)になって使者の左衛門尉武藤景頼が褒賞の御馬と御剣を届けた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月25日
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吾妻鏡
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晴。諸寺での供物や灯明油の支給が日増しに滞っているとの訴えが住職から届いている。これに対応して、今日以下の御教書(命令書)が発せられた。
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   諸堂寺用の年貢米の件
右、遅延の訴えが届いている。特に大慈寺は右大臣家(実朝)の建立であり、納付を担当する雑掌の緩怠は不届き極まる。詳細を調査して処理するよう通達する。         建長四年六月二十五日
       相模守北條時頼   陸奥守北條重時     秋田城介安達義景殿
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   ※大慈寺: 現在の十二所(当時は大倉郷)にある明王院(公式サイト)の
東にあった大寺で建保二年(1214)の7月27日に落慶供養の記事が載っている。室町時代以後に廃絶し、現在は墓地の一部と推定される墓石の一部が残存するのみ。
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右画像は明石橋西側に残る墓石の残欠(クリック→拡大表示)。単に周辺に散乱していた五輪塔などを集めただけかもしれないが...
周辺の鳥瞰図はこちらで。
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   ※安達義景: 彼に対処を命じた根拠は不明。評定衆の一人で引付頭人
を兼ねていたからか、寺社奉行を兼任した可能性はあるが、記録は残っていない。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月4日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。午刻(正午前後)に秋田城介安達義景の妻(北條時房)が女子を平産、(後に)堀内殿と号した女性である。
今日、将軍家(宗尊親王)の身辺に仕える小侍所の規則をを定めた。
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   ※堀内殿: 成長して北條時宗に嫁し、後に九代執権となる北條貞時を産む。弘安七年(1284)4月には病床の
時宗と共に剃髪して覚山志道を名乗り、翌年に北鎌倉の東慶寺(公式サイト)の開基となった。
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そして50年後の元弘三年(1333)5月に鎌倉幕府が滅亡、貞時の側室で北條高時の生母・覚海圓成(安達氏庶流の娘)が生き残った北條一族の女性と共に伊豆北條に移り、北條館の相続を許されて尼寺(圓成寺)に改めた。
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鎌倉滅亡の前年に覚海圓成が東慶寺に寄進した梵鐘は圓成寺に移設され、更に江戸時代初期(?)に廃寺となった圓成寺から本立寺(江川代官一族の菩提寺)に移設されている。
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梵鐘には元徳四年(1332)の銘と、末尾には大檀那菩薩戒尼圓成の文字が鋳込まれ、伊豆の土豪から出て栄華の頂点に駆け登った末に滅亡した歴史の変遷を物語っている。
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右画像は本立寺の山門。画像をクリック→ 本立寺の明細へ(サイト内リンク・別窓)。
鮮明さには欠けるが梵鐘の文字を撮った画像もある。失脚して鎌倉を追われた北條時政が晩年を過ごした北條邸跡(圓成寺跡)の発掘現場はこちら(サイト内リンク・別窓)で。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月6日
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吾妻鏡
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先月23日に干天を潤した雨だったが再び数日間の炎暑が続いているため、雨乞いの祈祷を勝長寿院と永福寺と明王院(公式サイト)に指示した。奉行は出雲前司二階堂行方と左衛門尉武藤景頼
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月8日
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吾妻鏡
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曇、小雨。申刻(16時前後)に将軍家(宗尊親王)が御方違えのため、先日から新造していた右兵衛督教定朝臣(飛鳥井教定・5月29日を参照)の泉谷邸に入御した。
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  出御の行列
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    先ず将軍家の御輿(御簾を上る)
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    御剣の役人(折烏帽子)
      相模右近大夫将監北條時定   上野十郎結城朝村   加藤三郎景経
      武藤七郎景頼   武田五郎七郎政平   式部兵衛太郎伊賀光政
      南部又太郎時實   豊後三郎左衛門尉忠時   土肥四郎實綱
      大泉九郎長氏   海上弥次郎胤景
        以上は直垂・折烏帽子で帯剣し、御輿の左右に列歩す。
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    次いで御後
      宰相中将顕方卿   右兵衛督飛鳥井教定朝臣(以上は布衣(狩衣)で騎馬)
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      陸奥掃部助北條実時   城九郎安達泰盛(以上は御輿に添い、立烏帽子)
      遠江守北條時直   足利太郎家氏   陸奥弥四郎時茂
      前出羽守小山長村   大蔵権少輔結城朝広   前和泉守二階堂行方
      前壱岐守宇都宮泰綱   前参河守新田(世良田)頼氏   前越中守宇都宮頼業
      前伊勢守二階堂行綱   遠江六郎左衛門尉佐原時連
               遠江次郎左衛門尉(佐原 (蘆名)光盛)が支障を申し出て別命で時連が供奉。
      左衛門尉武藤景頼   大曽弥左衛門尉長泰
        以上は折烏帽子・直衣で騎馬
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    次いで女房(女官)の輿  東御方、一條局、別当局 の輿が連なり、各々侍二人(直垂・立烏帽子)が従った。
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    次いで雑仕(雑仕女、女の召使)ら
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月9日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に将軍家(宗尊親王)が泉谷から(相模守時頼邸)還御、供奉人は昨日に同じ。
今日、新しい御所の門(複数)を上棟。また現在の御所(相模守北條時頼邸)の南に面した平門(簡素な門・通用門)を解体し、正式な御所の門に造り変えた。これは相模守時頼の指示である。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月10日
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吾妻鏡
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晴、初夜から豪雨となった。
関東近国は旱魃によって青かった苗の大部分が黄ばんで枯れ、農民も庶民も嘆き悲しんでいる。
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今日、秋田城介安達義景を奉行として、重ねて祈祷を行うよう鶴岡別当法印隆弁に指示した。隆弁は直ちに承知し八幡宮の神前で諸神を供養し管絃を奉納した。また瑞籬(玉垣・社殿の周囲の垣)の中で自ら手づから最勝王経を講じた。程なくして雨が降り始めたというのが経緯である。
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   ※初夜: 夜(18時~朝6時)を三等分した18時~22時を差す。あらぬ想像はダメよ!
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月14日
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吾妻鏡
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来月の放生会に(将軍宗尊親王が鶴岡八幡宮に)御参宮する際の供奉人を募る散状(回覧)を提示したところ殆どの御家人が応じた。ただし大蔵少輔結城朝広と弟の阿波前司朝村の両人だけは支障を申し出た。
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また8月に行なう社殿拝賀の供奉人についても同様に同様に募った。各々は決められた通り卯刻(朝6時)までに出仕するよう、将軍家の許可を得て散状の末尾に記載した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月20日
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吾妻鏡
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ふたたび(将軍家の)御方違えあり。騎馬の供奉人は前回と同様で、歩行で従う者の中から上野左衛門尉結城七郎朝広・出羽三郎左衛門尉二階堂行資が支障を申し出た。また越中四郎左衛門尉宇都宮(横田)頼業は当初は承知し、その後に支障を申し出たため出御に際して加藤三郎景経を呼んで補充した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月21日
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吾妻鏡
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晴。御所の礎石を据えた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月23日
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吾妻鏡
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晴、夜になって降雨。寅刻大地震。今日将軍家(宗尊親王)の御方違えあり、前回と同じ。
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  供奉人
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    御剣役 遠江六郎北條教時
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    歩行
      遠江十郎佐原頼連   土屋新三郎光時   大曽弥太郎長経
      小野寺新左衛門尉行通   武藤次郎兵衛尉頼泰   進士三郎左衛門尉宗長
      鎌田三郎義長   加藤三郎景経
         以上御駕の左右
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    次いで御後(騎馬)
      武蔵前司北條朝直   備前前司北條時長   陸奥掃部助北條実時
      出羽前司二階堂行義   壱岐守後藤基政   和泉前司二階堂行方
      伊賀前司時家   筑前前司二階堂行泰   能登右近蔵人仲時
      隠岐判官佐々木泰清   左衛門尉小山五郎時長   遠江次郎左衛門尉佐原光盛
      和泉五郎左衛門尉天野政泰   城次郎安達頼景   阿曽沼小次郎光綱
      豊後四郎左衛門尉島津忠綱 左衛門尉武藤景頼   東中務少輔胤重
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月24日
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吾妻鏡
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雨。早朝に陸奥守北條重時が御方違えの御所に出仕、その他の御家人も集合した。巳刻(10時前後)に雨が止んで晴天となり、還御が行われた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月28日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼が室家の懐妊に伴って北斗供の祈祷を催した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。宗尊親王の征夷大将軍叙任に伴って鶴岡八幡宮へ御拝賀を定めたのだが事情があって停止した。
ただし供奉人に回覧した散状は御所に戻し、陸奥掃部助北條重時がこれを高覧に呈した。
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  御拝賀供奉人(次第不同)
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  布衣(略礼装・狩衣)
     陸奥守北條重時   相模守北條時頼
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  御剣持ち
     前右馬権頭北條政村   尾張前司北條時章   武蔵守北條朝直
     相模右近大夫将監北條時定   陸奥掃部助北條実時   備前前司北條時長
     陸奥弥四郎時茂   武蔵太郎朝房   遠江太郎清時
     那波左近大夫政茂   参河前司新田(世良田)頼氏   佐渡前司後藤基綱
     出羽前司小山長村   大蔵権少輔結城朝広   秋田城介安達義景
     出羽前司二階堂行義   和泉前司二階堂行方   能登右近大夫仲時
     伊賀前司時家   大隅前司嶋津忠時   伊勢前司二階堂行綱
     壱岐前司佐々木泰綱   遠江次郎左衛門尉伊賀光盛   同、次郎頼景
     右衛門尉梶原景俊   出羽次郎左衛門尉二階堂行有   豊後四郎左衛門尉嶋津忠綱
     大曽弥左衛門尉長泰   信濃四郎左衛門尉二階堂行忠   左衛門尉武藤景頼
     和泉五郎左衛門尉天野政泰   左衛門尉足立三郎元氏   常陸次郎兵衛尉行雄
     左衛門尉狩野五郎為廣   肥後次郎左衛門尉藤原為時
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  随兵
     尾張次郎北條(名越)公時   北條六郎時定   足利太郎家氏
     相模八郎北條時隆   三浦介(佐原)盛時   城九郎安達泰盛
     長井太郎時秀   下野七郎宇都宮経綱   上野五郎兵尉結城重光
     大曽弥次郎左衛門尉盛経   阿波四郎兵衛尉薬師寺政氏   阿曽沼小次郎光綱
     常陸次郎佐竹長義   武田三郎政綱   南部次郎實光
     和泉次郎左衛門尉二階堂行章   左衛門尉大須賀次郎胤氏   武石四郎胤氏
     越中四郎左衛門尉時業   左衛門尉伊豆太郎實保
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  直垂を着す
     上野弥四郎左衛門尉結城時光   同、十郎朝村   左衛門尉益子三郎
     城三郎安達景村   出羽三郎二階堂行資   壱岐新左衛門尉後藤基頼
     左衛門尉佐々木四郎氏信   左衛門尉相馬次郎胤綱   兵衛尉武藤次郎朝泰
     平賀新三郎惟時   宇佐美五郎右衛門尉   伊東三郎
     渋谷左衛門尉武重   色部左衛門尉   小早河美作次郎兵衛尉
     加藤三郎景綱   伊達次郎   大須賀左衛門太郎
     兵衛尉鎌田次郎行俊   大泉九郎長氏
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   ※御剣持ち: 北條政村が任じていたと思うが、区分せず北條時章に続いている原文に従った。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月2日
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吾妻鏡
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晴、風が静まった。巳刻(10時前後)に新しい御所の柱立てと上棟式があり、陸奥守北條重時および評定衆を含む御家人ら多数が出席した。夜になって工匠らに褒賞が与えられた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月4日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)がやや体調不良、医師の丹波忠茂朝臣・廣長・長世らが集まり治療について評議した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月5日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)の病状について、御祈祷を行なうよう命令があった。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月6日
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吾妻鏡
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晴。今日再度の御方違えがあり、供奉する人々が集まった。御剣役(太刀持ち)は徒歩。
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式部大夫北條時弘   北條六郎時定   尾張次郎公時   遠江太郎北條清時   大隅前司嶋津忠時
和泉前司二階堂行方   近江大夫判官佐々木氏信   大曽祢次郎左衛門尉盛経   弥次郎左衛門尉親盛
左衛門尉武藤景頼   出羽次郎左衛門尉二階堂行有   隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏
左衛門尉狩野五郎野為廣   左衛門尉伊豆太郎實保   左衛門尉小野寺四郎道時   左衛門尉押垂基時
信濃四郎左衛門尉二階堂行忠   常陸兵衛尉二階堂行雄   左衛門尉足立三郎元氏  以上は騎馬。
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次郎兵衛尉武藤頼泰     同、七郎兼頼   平賀新三郎惟時   加藤三郎景経
伊達次郎   足立三郎       以上は徒歩。
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(将軍家が)出御の段になったが病状に配慮して中止となり、御祈祷を行なった。泰山府君は安倍晴茂、鬼気祭は為親、霊所七瀬祓いは晴賢と文元と晴長と晴秀と以平と国高と重氏、土公祭は晴秀らの担当である。
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将軍家の体調不良は先月上旬の頃から時々表れており、今日は食事も摂らない状態で、御家人らはただ驚き嘆くばかり。 今日は御所で御祈祷と治療についての評議が開かれ、陸奥守北條重時・相模守北條時頼・前右馬権頭北條政村・前武蔵守北條朝直・前尾張守北條時章・前出羽守二階堂行義・秋田城介安達義景らが集まり、開かれる運びとなった。前和泉守二階堂行方と左衛門尉武藤景頼が奉行に任じ、左衛門尉清原満定を使者として鶴岡別当法印隆弁を御所の庇(ひさし)に呼び、安達義景が評議の趣旨(下記)を法印に伝え、隆弁は了承した。
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この君(宗尊親王)は仙洞(後嵯峨上皇)が寵愛されている一宮(長子)であり、関東の懇望を容れ三位中将殿(前将軍藤原頼嗣)に替わって御下向を頂いたのは武家の栄誉である。
しかしながら今は御病悩の状態が続き、祈祷を重ねても効果が現れず治療の手段もないまま日数だけが過ぎ、幾つもの祈祷が虚しく結願の日を迎えている。(宗尊親王が)御所に入られた時、貴禅(隆弁)が無事を願う御祈祷をしたように、今度は同じように心を込めて治癒を祈ってくれるよう評議の結論があった。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月7日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡別当法印隆弁が御所中に於いて初夜(7月10日を参照)の御不予安寧(貴人の病気治癒を差す)の祈祷として腹病を療す千手法の信読大般若経を勤行した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月10日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)の病状がやや回復し御粥を摂れるようになった。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月13日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)の御温気(熱)が下がり食事が摂れるまでに回復、諸人に安堵が戻った。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月14日
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吾妻鏡
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放生会に御参宮する際の供奉人の名簿を回覧させ、まだ全快ではない将軍家はこれに確認の印を付けた。
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   前右馬権頭北條政村(15日の御剣役に任ず)     武蔵守北條朝直(16日の御剣役に任ず)
   遠江守北條時直   備前前司北條時長   相模右近大夫将監北條時定
   相模式部大夫北條時弘   北條六郎北條時定   駿河四郎北條兼時
   安藝前司親光   那波左近大夫政茂   能登右近大夫仲時
   出羽前司小山長村   和泉前司二階堂行方   大蔵権少輔結城朝広
   参河前司新田(世良田)頼氏   阿波前司朝村   伊賀前司時家
   長門守笠間時朝   伊勢前司二階堂行綱   越中前司宇都宮頼業
   遠江次郎左衛門尉佐原光盛   同、六郎左衛門尉佐原時連   右衛門尉梶原景俊
   左衛門尉大曽弥長泰   豊後左衛門尉島津忠時   左衛門尉武藤景頼
   出羽次郎左衛門尉二階堂行有   左衛門尉足立三郎元氏   左衛門尉土肥惟時
   佐渡五郎左衛門尉後藤基隆   伯耆四郎左衛門尉葛西光淸   肥後次郎左衛門尉藤原為時
   信濃四郎左衛門尉二階堂行忠   左衛門尉狩野五郎為廣   左衛門尉小野寺四郎道時
   和泉五郎左衛門尉天野政泰   弥善太左衛門尉康義   肥後三郎左衛門尉景氏
   押垂左衛門尉基時   常陸次郎兵衛尉行雄   長内左衛門尉
   左衛門尉長谷部三郎朝連   左衛門尉長谷部次郎義連   壱岐新左衛門尉後藤基頼
   兵衛尉大泉次郎氏村   陸奥掃部助北條実時
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月15日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会。将軍家(宗尊親王)はまだ病気が治癒し切っていないため御参宮せず、前右馬権頭北條政村が奉幣使に任じた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月16日
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吾妻鏡
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(八幡宮放生会に伴う)馬場の催事は通例の通り。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月17日
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吾妻鏡
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将軍家(宗尊親王)の病気が治癒していないため懇切な祈祷を続けるよう、
諸寺・諸社に命じた。また神馬を二所(箱根権現と伊豆山権現)と三嶋大社に奉納し、鶴岡八幡宮で仁王会を催す立願をされた。
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今日は彼岸の第七日に当たり、深澤里の金銅八丈の釈迦如来像の鋳造作業が開始となった。
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   ※仁王会: 仏教における国王のあり方について述べた経典である仁王
般若経を読誦する法会。
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   ※釈迦如来像: 現在の鎌倉高徳院の大仏を差すが、実際には釈迦如来
ではなく阿弥陀如来で、当初は嘉禎四年(1238)に建造した木造だった。また大仏鋳造の資金を拠出したのは安達一族で、5年前の宝治合戦で皆殺しにした三浦一族の怨霊を鎮めるため甘縄邸の裏山を選んだ...との伝承もある。
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更に詳細は画像をクリックして安達邸跡と甘縄神社(サイト内リンク・別窓)で。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月21日
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吾妻鏡
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晴。陸奥守北條重時・前典厩北條政村・相模守北條時頼・秋田城介安達義景・出羽前司二階堂行義以下の数人が御所に参上し、(将軍家宗尊親王の)病気により御方違えが遅れ転居が延期になった事の許可を得た。
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前大膳亮為親が転居は11月11日が望ましいとの勘文(上申書)を提出、また12月4日と16日が吉日である、この全ては坎日(全てに凶の日)なのだが遷幸(帝の移動)を始めとして坎日を採用した例が多くあり、危惧する根拠はない、と。重ねて協議があり上吉の11月11日に決定、それまでに御所の造営を完了させる必要があり、秋田城介安達義景がこの奉行を担当する。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月22日
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吾妻鏡
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晴。法印隆弁が八幡宮の御祈祷道場で眠った際に霊夢の神託を受け、御所にいた相模守北條時頼に報告した。
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唐装束を着して師子(獅子)の様に見えた小童二人(顔は赤、衣は青)が御所南面の唐墻(袖垣・柴垣の類)から退去した、と。
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将軍家にも同様の夢があり、御所で将軍家を追い回した童子二人が転読の声を聞いて直ぐに逃げ去った、と。
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   ※転読: 百聞は一見に如かず、の中から実態の確認を。信仰と言うより様式の世界。動画(wiki)で確認を。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月23日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)の病気に対応して四角四堺の鬼気祭を行なった。担当は安倍晴賢・晴茂・為親の各朝臣および晴秀・以平・晴尚・晴盛・廣氏ら。今日は病状の好転が確認された
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   ※四角四堺: 御所敷地の四隅が四角、鎌倉と外界を隔てる四境が四堺。元仁元年(1224)12月26日の四境
は「東の六浦・南の小坪・西の稲村・北の山内」、嘉禎元年(1235)12月20日は「小袋坂・小壺・六浦・固瀬河」(各々地図を記載してある)で、微妙な違いがある。ケースバイケースか。
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   ※鬼気祭: 怪異の侵入を避けるために行う陰陽道の祭祀。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月24日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)の病状が回復、熱も下がり気分も爽快に転じた。
西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月25日
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吾妻鏡
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晴。祈祷のため御剣と御馬を二所(箱根と伊豆山)および三嶋大社に献納し、その三所で大般若経の転読と更に御神楽の奉納を指示した。左衛門尉武藤景頼が使者として出発した。
西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月26日
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吾妻鏡
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晴。前備前守従五位下の平朝臣北條時長が死没。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月27日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早朝4時前後)に三万六千神祭を行なった。担当は前大膳亮為親朝臣、御使は重親が務めた。将軍家の病気に対応した祈祷である。
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   ※三万六千神祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異を排除し天下泰平を願う。
   ※安芸重親: 中原親能-養子の親実(養子・安芸・安芸守護)-安芸親光(将軍近習)-末子の重親と続く。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。将軍家(宗尊親王)の病気が平癒し、穢を落とすため御手足を洗われた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月2日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)の病気平癒を京都に連絡、三浦遠江六郎左衛門尉時連(佐原盛連)の六男が使者として上洛の途に就いた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月4日
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吾妻鏡
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晴。千手法(千手観音を本尊として行う密教修法)と大般若経の信読(経文の通りに読む。転読の反対語)が結願。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月7日
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吾妻鏡
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曇。午刻(正午前後)に将軍家(宗尊親王)の病気平癒に伴う御沐浴の儀を行なった。陰陽師からは今日が没日である事を理由に反対の意見が出たが、医師の丹波忠茂朝臣は去る1日に御手足を洗っているから既に(沐浴にも)支障はない、と述べた。
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若宮別当法印隆弁が加持祈祷のため参上し終了後に退出した。その後に評定衆による協議が行なわれ、法印隆弁に祈祷の褒賞として美濃国岩瀧郷を与え、更に僧正への補任を定めた。御教書(命令書)には「(将軍家の)病気平癒が隆弁の法力に拠るのは明らかなので感謝の意味により一村を与える」と。
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   ※没日: 陰陽道が定めた厄日で、全ての事に凶とされる日。
   ※美濃国岩瀧郷: 現在の岐阜市岩滝(昔の稲葉郡岩滝村・地図)、長良川南岸の水田地帯。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月16日
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吾妻鏡
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晴。北條時頼の室家が突然体調を崩したため祈祷が行われた。
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   ※時頼の室: 陸奥守北條重時の娘で時宗の生母・葛西殿。時頼の正室だった毛利季光の娘だったが宝治合戦
で季光が三浦泰村に与したため離縁となり、継室として葛西殿を迎えている。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月17日
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吾妻鏡
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将軍家(宗尊親王)から見舞いの使者として薩摩七郎左衛門尉伊東祐能が派遣された。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月18日
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吾妻鏡
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晴。北條時頼室の体調不良が平癒した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月25日
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吾妻鏡
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晴。先日の(将軍家の)御立願により、鶴岡八幡宮で仁王会を催した。申刻(16時前後)に将軍家が御方違えのため右武衛の泉谷邸に入御した。
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  供奉人
   騎馬
     相模右近大夫将監北條時定   相模式部大夫北條時弘   同、北條八郎時隆
     大蔵少輔結城朝広   備後前司町野(三善)康持   大隅前司島津忠時
     伊勢前司行綱   城九郎安達泰盛   弥次郎左衛門尉親盛
     隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏   左衛門尉足立三郎道氏   左衛門尉武藤景頼
     左衛門尉小野寺通時   左衛門尉狩野五郎為廣
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   歩行
     御剣役人 北條六郎時定
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   次いで
     城四郎時盛(泰盛の次弟)   南部又次郎時實(三戸南部氏の祖)
     和泉次郎左衛門尉二階堂行章   左衛門尉渋谷武重(高重の嫡子)
     兵衛尉武藤次郎頼泰(景頼の三男)   土肥左衛門四郎實綱
     加藤三郎景経(景廉(遠山)景朝の末弟)
     中務少輔東胤重((千葉)胤頼-嫡子重胤-次男胤重) .

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   ※右武衛: 飛鳥井教定を差す。泉谷邸の位置などを含め、5月19日の
記事を参照されたし。
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   ※南部時實: 新羅三郎義光武田義清武田清光-次男加賀美遠光
-次男南部光行-又次郎(又三郎)時實と続く甲斐源氏傍流。
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右画像は富士川中流域の南部町(旧南部郷)波木井に残る南部氏の嫡流波木井の墓所。奥州合戦の恩賞として得た新領の陸奥に移らず南部郷に留まった一族は日蓮との交流を深め、文永十一年(1274)に波木井郷の地頭南部六郎実長が佐渡流刑から鎌倉に戻った日蓮を招いて庇護した。
これが日蓮霊跡の一つ身延山久遠寺(公式サイト)
の原型となる。
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右画像は波木井氏の廟所。画像をクリック→ 南部一族発祥の地へ。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月29日
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吾妻鏡
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晴。下妻修理亮藤原朝臣長政が死没した。
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   ※下妻長政: 小山朝政の次男で朝長の次弟。朝長は下野守護を継承、長政は下妻庄の地頭を継承した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月30日
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吾妻鏡
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晴。鎌倉中での沽酒(酒の売買)を禁止する命令を保(最小行政単位)の奉行人らに通達した。鎌倉市内各所の民家にから報告された酒は37,274壺、更に諸国の市に於ける酒の販売も全て禁止となった。
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   ※禁酒令: 奈良時代から散発的な(僧侶に限るとか、地域限定とか)発布はあったらしいが売買禁止で更に在庫
まで全て破棄する事例は多分初めてだろう。後日に撤廃となったのは当然だが、北條時頼の愚かさは代々執権の中でも突出している、と思う。昭和の生まれで良かったね、御同輩。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月3日
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吾妻鏡
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晴。午刻(正午前後)に相模守北條時頼の室家が着帯の儀、加持の担当は鶴岡別当法印隆弁
安東左衛門尉光成(得宗被官。5月26日を参照)が使者として御帯を隆弁の雪ノ下の本坊に届けた。
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   ※雪ノ下の坊: 位置の記載はないが八幡宮北側にあった御谷二十五坊
(サイト内リンク・別窓)に含まれていたと推定される。
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   ※着帯の儀: 翌年1月に誕生する宗政(幼名福寿丸)を差す。
後に八代執権となる北條時宗には唯一の同母兄弟で腹心として信頼できる傑物だったと伝わっている。
宗政は弘安の役直後の1281年8月に28歳で病没、強権独裁を目指した時宗は信頼できる同志を失ってしまう。
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右画像は雪ノ下の僧坊群(二十五坊)跡と伝わる地域の鳥瞰。
     画像をクリック→ 御谷の詳細ページ(サイト内リンク・別窓)へ
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月8日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)の病気平癒の御礼として、二所(箱根と伊豆山)および三嶋大社に報賽(祈願成就の参拝)する命令が下った。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月14日
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吾妻鏡
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曇。庶民の愁訴をなだめるため幾つかの法令を制定した。担当奉行は矢野(三善)倫長清原満定
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   一.牛馬の盗人が更に誘拐の罪を犯した場合
この犯罪を三度重ねた場合は妻子も連座して罪科に問う。
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   一.放火の事
強盗に準じる処分とする。(貞永式目の第33条で断罪(斬首)と定めている)
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   一.殺害と刃傷の事
当人のみを拘禁し、父母・妻子・親類・所従は罪に問わない。(貞永式目の第10条で同様に定めている)
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   一.窃盗の事
犯行が少額であっても再犯の場合は当人のみを罪科に問う。
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   一.賦物(盗品?)の事
貞永式目に準じる。(貞永式目には盗品に関する規定は見当たらない)
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   一.諍論(言い争い)の事
庶民の習慣として障害に至らない掴み合い程度は罪科に問わない。
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   一.山賊・海賊・夜討ち・強盗などの事
従来の判例を基準とする。
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   一.他人の妻に密懐(密通)する事
名主や百姓が他人の妻と密懐した場合、訴えがあれば双方を聴取する。有罪なら名主は過料三十貫文、百には過料五貫文、女の罪科も同じとする。
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   ※法令を制定: 貞永元年(1232)に北條泰時が制定した御成敗(貞永)式目は武士や僧侶を律する法令だが、
今回は北條時頼が庶民を律する法令に焼き直したらしい。ただし神経質な泰時と違って杜撰な部分が目立つのは、設定の基本的な理念が欠如しているため、だと思う。
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   ※一貫文: は1000文。鎌倉時代の米一石の価格は概ね500~1500文の間で上下している。
一石は成人一人が一年間に消費する量(一食に一合≒年間1000合≒180kg)、現代の精米に換算すると10kg3,000円として54,000円、この換算をそのまま当て嵌めると百姓の密通に対しては約25万円(または50~150%の増減)の科料が課せられることになる(数字は全て概算)。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月16日
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吾妻鏡
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晴。沽酒(酒の販売)の禁止について厳しい沙汰があり酒壺を全て破却することとなった。ただし一軒に一壺は容認するが再び酒造りに使用してはならず、違反があれば罪科に問うことを厳しく定めた。
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   ※沽酒禁止: いよいよ禁酒法だね。現れるか、アル・カポネ vs アンタッチャブルFBI !
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月3日
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吾妻鏡
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晴。先月23日の僧に関する除書が鎌倉に届き、法印隆弁が権僧正に補任となった。三品親王(将軍宗尊親王)への祈祷の成果が昇叙の理由である、と。
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   ※僧の叙位: 隆弁の僧位・法印(法印大和尚位)は本来は大僧正・僧正・権僧正を差していたが平安時代の中期
以後は更に下位の僧都や律師にも与えられていた。隆弁は晴れて正式な僧位を得たわけで、時の政権と結託すると様々な実利を手中にできるのは現代の創価学会(公明党の親分)と同じだね。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月4日
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吾妻鏡
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晴。陸奥守北條重時と相模守北條時頼(各々布衣・略礼服)が政所に出仕。他の評定衆は参上せず、三献(献酒)と御剣・御馬の献上は通例の通り。これは政所新築に伴う儀式である。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月9日
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吾妻鏡
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新造の御所に於いて鎮宅法を行なった。担当は鶴岡別当新僧正の隆弁
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月10日
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吾妻鏡
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晴。新造御所の将軍家持仏堂に御本尊の釈迦如来像を安置した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月11日
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に将軍家(宗尊親王)が新造の御所の御転居。定刻に御車(庇付き)を寝殿(相模守北條時頼邸)を南面妻戸の間に寄せて宰相中将(土御門顕方卿、直衣)御簾の近くに控え、大膳亮為親朝臣(束帯)が持参した縁起の良い日時を書いた勘文を御覧になった。ここで長井蔵人泰元が車寄せに参入して反閇を務め褒賞の御衣を得た。その後に将軍家が御烏帽子・直衣で出御。
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  供奉人
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  前駈(衣冠)
     前宮内大輔光度   駿河新大夫俊定   左近大夫将監政茂
     長井蔵人泰元   能登右近蔵人仲時   安藝右近蔵人重親
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  次いで殿上人(衣冠)
     花山院中将長雅朝臣   伊豫中将公直朝臣   右兵衛督教定朝臣(束帯)
     尾張少輔清基朝臣   一條少将能清朝臣   阿野少将公仲朝臣
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  御車
     城四郎安達時盛   出羽七郎二階堂行頼   和泉次郎左衛門尉二階堂行章
     筑前三郎二階堂行實   加藤三郎景経   兵衛尉武藤次郎頼泰
     遠江十郎佐原頼連   左衛門尉佐々木弥四郎泰信
     左衛門尉渋谷武重   肥後四郎兵衛尉大見行定   平賀新三郎惟時
     鎌田兵衛三郎義長   大泉九郎長氏   大曽弥左衛門太郎長頼
     海上弥次郎胤景   土肥左衛門四郎實綱   武田七郎政平
       (以上は直垂を着して帯剣、御車の左右に候す)
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  次いで御剣役 前右馬権頭北條政村
  次いで公卿  土御門宰相中将顕方卿
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  次いで
     尾張前司北條時章   同、次郎公時   掃部助北條実時
     遠江六郎北條教時   足利太郎家氏   同三郎利氏
     陸奥弥四郎時茂   越後五郎時家   遠江太郎清時
     上総三郎足利満氏   宇都宮下野前司宇都宮泰綱   秋田城介宇都宮泰綱
     同九郎泰盛   前大蔵少輔結城朝広   前太宰少貳狩野為佐
     安藝前司親光   参河前司新田(世良田)頼氏   佐々木壱岐前司佐々木泰綱
     越中前司佐々木泰綱   大隅前司嶋津忠時   壱岐守後藤基政
     伊賀前司時家   備後前司康持   伊勢前司行綱
     左衛門尉武藤景頼   大曽弥左衛門尉長泰   弥次郎左衛門尉親盛
     左衛門尉梶原景俊   和泉五郎左衛門尉天野政泰   大曽彌次郎左衛門尉盛経
     隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏   出羽次郎左衛門尉二階堂行有   上野五郎兵衛尉重光
     常陸次郎兵衛尉二階堂行雄   小野寺四郎左衛門尉道時   左衛門尉狩野五郎為廣
     筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   大須賀次郎左衛門尉胤氏   小田左衛門尉時弘
     式部兵衛太郎伊東元政   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   右衛門尉三善康長
     伯耆左衛門三郎葛西清経   長雅楽左衛門尉長谷部朝連
       以上は布衣・下括り
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   ※直衣: 天皇・皇太子・親王および高級貴族の平服で武家にとっては衣冠に次ぐ略礼服。
   ※反閇: 貴人の移動に際して無事を祈る陰陽師の歩き方、悪霊を踏みつける意味の呪法(wiki動画を参照)。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月12日
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吾妻鏡
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曇。申一刻(15時過ぎ)、将軍家(宗尊親王)が初めて御馬(幕府に献上された馬)を覧る儀式を行ない、奉行の薩摩七郎左衛門尉伊東祐能が馬を引いて蹴鞠の小庭に入った。
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また、御簡衆(将軍の近くに仕える側近)を定めた。小侍所(側近の詰所)が未だ完成していないため御厩担当の詰所を代用する。勤務表は二通作成して一通は毎晩の御所濡れ縁で読み上げた後に御前に献じ、一通は(執権の)相模守北條時頼に提出とする。
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また同時に将軍家への取り次ぎを担当する当番を定めた。奉行は陸奥掃部助北條実時

   問見参結番について定める。
     一番 卯の日と酉の日
       右衛門尉梶原梶原   中山左衛門尉   弥次郎左衛門尉親盛
     二番 辰の日と戌の日
       城次郎安達頼景   肥後次郎左衛門尉為時   信濃四郎左衛門尉二階堂行胤   左衛門尉渋谷武重
     三番 巳の日と亥の日
       和泉五郎左衛門尉天野政泰   武田五郎次郎信時   小山七郎宗光
     四番 子の日と午の日
       左衛門尉大曽弥次郎盛経   押垂蔵人   遠藤左衛門尉
     五番 丑の日と未の日と
       壱岐守後藤基政   同五郎左衛門尉   式部兵衛太郎伊賀光政   平岡左衛門尉実俊
     六番 寅の日と申の日と
       房左衛門尉伊賀次郎光   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   武藤七郎兼頼
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月13日
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吾妻鏡
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晴。御家人の勤務状態を毎日観察し賞罰の判断基準にせよとの仰せが下された。
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   ※仰せ: 原文は毎日勘之。同就其勤否。可有賞罰沙汰之由。被仰下云云。
文脈は将軍宗尊親王の言葉と読むのが当然だけど、まだ10歳(厳密には満9歳11ヶ月)のガキの言葉とは思えない。吾妻鏡には以前から執権を貴人として扱う傾向があるからね、もちろん意図的に。
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伊豆土豪の出身で系図にも仮冒が見られる北條氏の貴種性は皆無、主家を滅ぼして覇権を握った陪臣では傀儡将軍を操るのが限界という、どうしようもない自覚がある。
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康元元年(1256)の年末に病気で出家した時頼は執権職など大部分の公職を義兄の北條長時に譲るのだが、病気から回復すると執権の更に上位の序列一位に復帰し、得宗として執権と連署を支配するようになった。これは自らを上皇に準えて「北條得宗の貴種性確立」を目論んだのだろう。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月14日
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吾妻鏡
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晴。新造御所の湯殿始めがあり、相模守北條時頼も出仕した。医師は丹波忠茂朝臣で陰陽師は安倍為親朝臣、和泉前司 二階堂行方が今日の奉行に任じた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月17日
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吾妻鏡
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晴。前大膳亮為親(陰陽師)が(将軍の交替後の)祈祷初めとして御霊神社前の浜辺で七瀬祓いを行ない、伊勢前司二階堂行綱が関連雑事の手配に任じた。周防修理亮が将軍家の使者として派遣された。
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   ※御霊神社: 別名を権五郎神社。祭神として祀るのは大庭氏直系先祖
(秩父平氏の系図を参照)である鎌倉景政、境内と参道の間・鳥居の直前を江ノ電が横切っていることでも知られる。
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後三年の役での景政の活躍は戦役最後の地 金澤の柵(サイト内リンク・別窓)で。
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右画像は御霊神社と江ノ電の線路。画像をクリック→ 御霊神社(サイト内リンク・別窓)へ。
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   ※七瀬祓い: 吾妻鏡には数回の記載があり、直近では今年の5月7日に祈雨の祈祷を催している。
時代によって選定した場所には差異があり、通例は使者七人が七ヶ所の水辺に赴いて人形(ひとがた)に穢れを託して水に流す。今回は由比ヶ浜に集約したらしい。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月18日
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吾妻鏡
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雷鳴あり。来る21日に新造の御所で御的始め(弓初め)を催す運びとなり、今日その射手を呼び集めた。担当する奉行は小侍所別当の陸奥掃部助北條実時
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武田五郎七郎政平   眞板五郎次郎経朝   早河次郎太郎祐泰   佐々木左衛門四郎
桑原平内盛時   山城三郎左衛門尉忠氏   土肥左衛門四郎実綱   工藤右近三郎
二宮弥次郎時光   佐貫弥四郎広信   同、七郎広経   藤澤小四郎   薩摩十郎工藤祐広
平井八郎清頼   布施三郎行忠
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   右、来る21日御弓場始めに各々射手として参勤せよ。、仰せにより通達する。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月20日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)が新造の御所に転居してから最初の陸奥守北條重時邸への入御あり。相模守北條時頼は予め重時邸で待機していた。
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  供奉人(布衣・略礼服の狩衣)
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御剣役は前右馬権頭北條政村
尾張前司北條時章   陸奥掃部助北條実時   相模式部大夫北條時弘   遠江六郎北條教時
武蔵四郎北條時仲   遠江太郎北條清時   足利太郎家氏   同次郎兼氏
秋田城介安達義景   下野前司宇都宮泰綱   前太宰小貳狩野為佐   安藝前司親光
参河前司新田(世良田)頼氏   和泉前司二階堂行方   前大蔵権少輔結城朝広
壱岐前司佐々木泰綱   大隅前司嶋津忠時   壱岐守後藤基政   伊賀前司時家
越中前司宇都宮(横田)頼業   伊勢前司二階堂行綱   備後前司町野(三善)康持
城次郎安達頼景   左衛門尉大曽弥長泰   左衛門尉梶原景俊   出羽次郎左衛門尉二階堂行有
筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   左衛門尉小野寺四郎道時   左衛門尉大曽弥次郎盛経
豊後左衛門尉忠時(重複?)   左衛門尉相馬孫五郎胤村   左衛門尉大須賀次郎胤氏
左衛門尉武藤景頼   和泉五郎左衛門尉天野政泰   左衛門尉小田時知   左衛門尉三善康長
長谷部左衛門尉   右衛門尉長谷部次郎義連   兵衛尉常陸次郎行雄   左衛門尉狩野五郎為廣
兵衛尉大泉次郎氏村   武石四郎胤氏   左衛門三郎伯耆清経
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月21日
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吾妻鏡
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新造御所の弓場で御的始め(弓初め)があり、両国司(陸奥守北條重時と相模守北條時頼)以下の出仕は昨日と同様。射手10人は各々水干と葛袴に浅沓を着して弓場の左右に着座した。将軍家(宗尊親王)が出御し、和泉前司二階堂行方射手を招いて二射づつ五度、的を射た後に退出した。
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   一番  武田五郎七郎源政平 vs 早河次郎太郎藤原祐泰
   二番  眞板五郎次郎大中臣経朝 vs 薩摩十郎藤原祐廣
   三番  平井八郎源清頼 vs 佐貫弥四郎藤原廣信
   四番  山城三郎左衛門尉源忠氏 vs 桑原平内平盛時
   五番  布施三郎藤原行忠 vs 佐貫七郎藤原廣胤
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月22日
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吾妻鏡
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晴。御所の将軍家持仏堂での供養あり。導師は左大臣法印厳慧。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月23日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)京都朝廷に献上する馬を覧るため、由比ヶ浜の稲名瀬河に出御した。
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   ※稲名瀬河: 通常は稲瀬河と書いている(誤植か?)。
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鎌倉市内と外界を隔てる最も内側が稲瀬河で、治承四年(1180)10月11日には政子が鎌倉入りのため待機し、寿永三年(1183)8月8日には平家追討に出陣する範頼の軍勢を頼朝が見送り、文治元年(1185)の8月30日には京都から届いた義朝の頭骨をここで出迎えている。
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そして鎌倉幕府が滅亡した元弘三年(正慶二年・1333年)5月19日には稲村路を強行突破した攻め手の大将大舘宗氏が北條側の本間山城左衛門の手勢に囲まれて戦死。
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大将を失った稲村ヶ崎攻撃部隊を立て直すため総大将の新田義貞は洲崎の前線から稲村ヶ崎に移動し、ここで有名な「黄金造りの太刀を海に捧げて潮が引いた、云々」の伝説が生まれることになる。
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     右画像は稲瀬川河口に建つ鎌倉青年団建立の石碑。画像をクリック→ 周辺の風景へ(サイト内リンク・別窓)
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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12月13日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。昨日から将軍家(宗尊親王)の体調が悪くなり、今日の戌刻(20時前後)にはやや悪化した。相模守 北條時頼が出仕し、急いで南門で土公祭と鬼気祭を行なった。担当は安倍為親朝臣、出羽前司二階堂行義が奉行を、将軍家の使者は右近蔵人仲時が務めた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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12月16日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(朝8時前後)に太陽の南西側と北西側に珥(耳飾り)のような形状が現れた。六尺(約180cm)ほど離れて両方とも色は青・赤・白であると司天(天文担当)らが報告した。
西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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12月17日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)が新造の御所に入御してから最初の鶴岡御参宮。病気は完治していないが、敢えての出御 である(御車・直衣)。
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  供奉人
   先陣の随兵
北條六郎時定   遠江六郎教時   陸奥弥四郎時茂   足利次郎兼氏
遠江太郎清時   三浦介盛時   城九郎泰盛   長井太郎時秀
尾張次郎公時   武蔵四郎時仲
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   (将軍家の)御車
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城次郎頼景   和泉七郎左衛門尉景経   狩野五郎左衛門尉為廣   足立三郎左衛門尉元氏
式部兵衛次郎光泰   長雅楽左衛門尉   鎌田三郎   海上弥次郎胤景
土肥四郎實綱   武田七郎政平   常陸次郎兵衛尉行雄   渋谷左衛門尉武重
肥後四郎兵衛尉行定 (以上は直垂、帯剣)   御劔役人 前の右馬権の頭(布衣)
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   御後(布衣・狩衣)
陸奥守北條重時   相模守北條時頼   尾張前司北條時章   武蔵守北條朝直
陸奥掃部助北條実時   相模右近大夫将監北條時定   相模式部大夫北條時弘   越後五郎北條時家
足利太郎家氏   佐渡前司後藤基綱   出羽前司小山長村   秋田城介安達義景
参河前司新田(世良田)頼氏   前大蔵権少輔結城朝広   出羽前司二階堂行義   下野前司宇都宮泰綱
前太宰小貳狩野為佐   和泉前司二階堂行方   壱岐前司佐々木泰綱  壱岐前司後藤基政
伊賀前司時家   伊勢前司二階堂行綱   大隅前司嶋津忠時   遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛
左衛門尉大曽弥長泰  左衛門尉武藤景頼   左衛門尉梶原景俊   上野五郎兵衛尉結城重光
左衛門尉弥次郎親盛   豊後四郎左衛門尉嶋津忠時   出羽次郎左衛門尉二階堂行有
左衛門尉大曽弥次郎盛経   左衛門尉小野寺道時   太宰肥後次郎左衛門尉為時
和泉五郎左衛門尉天野政泰   左衛門尉小田時知   肥後左衛門尉天野景氏   左衛門尉押垂時基
太郎左衛門尉足立元直   出羽籐次左衛門尉藤原頼平   右衛門尉三善康長
壱岐次郎左衛門尉宍戸家氏   伯耆三郎清経   式部兵衛太郎伊賀光政
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   後陣の随兵
出羽三郎二階堂行資   江戸七郎太郎長元   上野十郎結城朝村   武石四郎胤氏
阿曽沼小次郎光綱   海上次郎胤方   遠江六郎北條教時   薩摩八郎伊東祐氏
武田五郎三郎政綱   南部次郎實光
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   ※直衣: 平安時代以降の皇族・公卿の平常服で外見は衣冠と概ね等しい(wikiを参照)。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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12月27日
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吾妻鏡
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晴。立春節分に伴う御方違えについて、病気の残余が完全に回復していないため御所西対の北側妻(棟続きとでも訳すか)に渡御して方違えとした。北條重時が盃酒と御引出物を献じた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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