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建長五年(1253年)

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天皇
月日
記事
西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長五年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相模守北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。陸奥守北條重時と北條時頼以下多くの御家人が出仕した。定刻に将軍家(宗尊親王)が御所南面に出御し、宰相中将土御門顕方卿が御簾を巻き上げた。献上の役人、前右馬権頭北條政村が御剣を、武蔵守北條朝直が弓箭を、、秋田城介安達義景が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 遠江六郎北條教時 と 同、七郎時基
   二の御馬は 遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛 と 同、十郎頼連
   三の御馬は 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 と 十郎伊東祐広
   四の御馬は 左衛門尉大曽祢太郎長泰 と 同、左衛門尉大曽祢次郎盛経
   五の御馬は 北條六郎時定 と 左衛門尉工藤次郎頼光
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 五代執権北條時頼は25歳・連署北條重時は55歳・ 六代執権になる北條長時は23歳・
七代執権になる北條政村は48歳・ 足利義氏は64歳・ 結城朝光は84歳・ 安達義景は37歳・
安達泰盛は22歳・ 六代将軍に就いた宗尊親王は10歳・第89代後深草天皇は9歳・
先帝の後嵯峨上皇は31歳      (表示は全て満年齢)
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。左馬頭入道足利義氏の沙汰による椀飯の儀あり。宰相中将土御門顕方卿が御簾を巻き上げた。献上の役人、武蔵守北條朝直が御剣を、陸奥掃部助北條実時が弓箭を、、和泉前司二階堂行方が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 上野三郎畠山国氏 と 刑部次郎左衛門尉国俊
   二の御馬は 筑前次郎左衛門尉行頼 と 伊勢次郎行経
   三の御馬は 新左衛門尉平盛時 と 同、四郎兵衛尉
   四の御馬は 足利太郎家氏 と 同、次郎兼氏
   五の御馬は 三村新左衛門尉時親 と 同、三郎兵衛の尉親泰
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明日は相模守北條時頼邸に御行始め(将軍家の外出初め)があり、今夕その供奉人として元日の儀式に着庭した者を選定した。小侍所司(別当の下、次官)の平岡左衛門尉實俊が朝夕(御所に常勤)雑色に名簿を回覧させた。
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   ※平盛時: 泰時の代から北條氏に仕えた得宗被官で通称は三郎。盛時の系譜では兄弟の存在も確認できない
のだが、盛時が三郎だから下の手綱を引いた「同、四郎兵衛尉」は悪名高い息子の平頼綱だろう。
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頼経の生年も父の盛時同様不明確で、仁治元年(1240)前後と推定する説を根拠にすればこの時12~13歳前後、弘長三年(1263)8月9日の吾妻鏡に記載がある「平左衛門入道子息一人」も盛時の子息頼経(推定23~24歳前後)と考えて良い、と思う。
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   ※三村時親: 三村氏も同様に系譜が不明確で、小笠原氏の傍流か又は
小笠原氏と縁戚関係にあった小田氏の本領筑波郡三村郷(この時代の当主は八田(小田)知重)の所領周辺を開墾した開拓領主と考える説がある。
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忍性が布教のため関東に下り、知重の庇護を得て建立したのが三村郷の清冷院極楽寺(サイト内リンク・別窓)。
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忍性は弘長元年(1261)に北條重時の招聘を受けて鎌倉に入り、幕府中枢(重時・時頼・実時)の帰依を受け後に極楽寺の開山を務めて律宗・念仏宗の指導者となり、日蓮と争いつつ鎌倉期の仏教界に大きな足跡を残していく。
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右画像は小田城址(三村郷)に近い民家の庭に何とも無造作に置かれた石碑(説明看板もなし)、清冷院極楽寺一帯を殺生禁断の地とした忍性の意思である。
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刻んである文字は「建長五癸丑(1253年) 三村山不殺生界 九月十一日」。礎石を除いて高さは約130cm、廃寺となった室町時代前後にここに移設されたのだろう。(画像をクリック→ 拡大表示)

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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月3日
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吾妻鏡
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細雨。陸奥守北條重時の沙汰による椀飯の儀あり。宰相中将土御門顕方卿が御簾を巻き上げた。
前右馬権頭北條政村が御剣を、尾張守北條時章が弓箭を、下野前司宇都宮泰綱が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 遠江六郎北條教時 と 同、七郎時基
   二の御馬は 武蔵四郎北條時仲 と 同、五郎時忠
   三の御馬は 遠江太郎北條清時 と 同、次郎時通
   四の御馬は 城九郎安達泰盛 と 同、四郎時盛
   五の御馬は 陸奥弥四郎北條時茂 と 同、七郎業時
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椀飯の後に将軍家(宗尊親王)の御行始め(外出初め)があり、御車・御烏帽子・直衣で南門より出御。
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  供奉人(布衣)。 御剣役は前右馬権頭北條政村
尾張前司北條時章   武蔵守北條時直   相模式部大夫北條時弘
陸奥掃部助北條実時   越後右馬助北條時親  足利太郎家氏
佐渡前司後藤基綱   出羽前司二階堂行義   秋田城介安達義景
前大蔵権少輔結城朝広   前太宰小貳狩野為佐   伊豆前司若槻頼定
大蔵少輔加藤(遠山)景朝   和泉前司二階堂行方   大隅前司嶋津忠時
参河前司新田(世良田)頼氏   安藝前司親光   日向右馬助親家
薩摩前司伊東祐長   伊賀前司時家   伊勢前司二階堂行綱
壱岐守後藤基政   三浦介三浦(佐原)盛時   弥次郎左衛門尉親盛
右衛門尉梶原景俊   左衛門尉大曽弥長泰   豊後四郎左衛門尉島津忠綱
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昨日の散状(回覧)には入っていなかったが、今朝追加した者。
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左衛門尉武藤景頼   壱岐三郎左衛門尉二階堂行氏   和泉五郎左衛門尉天野政泰
左衛門尉小野寺四郎通時   左衛門尉大須賀胤氏   阿曽沼小次郎光綱
筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   常陸次郎兵衛尉二階堂行雄   孫四郎左衛門尉佐々木泰信
左衛門尉加藤景経   左衛門尉三善五郎康家   左衛門尉狩野五郎為廣
式部兵衛伊賀太郎光政   左衛門尉長谷部次郎義連   伯耆左衛門葛西三郎清経
鎌田兵衛三郎義長
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小町大路を経て相州時頼邸の南門に入御。奥州重時(布衣、下括り)らが予め庭上に控え、宰相中将土御門顕方卿が御車を寄せた。寝殿妻戸の部屋には果物・菓子(八種・十二種)・酒の瓶子・鯉(爼板に置き、刀と箸を副える)を置いた。また色染めの革と鷹の羽などを積み上げてある。
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盃酒数巡の後に御遊びがあり、次いで寝殿東向きの座に出御、御簾を上げられ(役人は前と同じ土御門顕方卿)三献。両国司(重時と時頼)および前の右典厩北條政村らが陪膳(給仕)役を務めた。次いで御引出物を献上。
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   献上の役人  御剣 足利太郎家氏  砂金 相模八郎北條時隆  鷹羽 伊勢前司二階堂行綱
   一の御馬は 陸奥四郎北條時茂 と 同、七郎業時
   二の御馬は 尾張次郎北條(名越)公時 と 左衛門尉諏方三郎盛経
   三の御馬は 城九郎安達泰盛 と 同、四郎時盛
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次に相公羽林(土御門顕方卿)が御簾を降ろした。御剣は役人(足利家氏)に預け御車を寄せて還御、帰路では松明を灯した。
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   ※百錬抄: 主上(後深草天皇)が御元服(御年11歳)。加冠役は摂政太政大臣の鷹司兼平、御理鬢(耳ぎわ)は
左大臣二条道良(共にwiki)、理髪(前髪)は内蔵頭資平朝臣。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月8日
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吾妻鏡
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晴。恒例の心経会があり、陸奥守北條重時と相模守北條時頼が西の侍控えに着座した。
将軍家(御直衣)が二棟の御所に出御した。
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   ※二棟の御所: 神殿の北側に設けた建物で、鎌倉では通常の御所または東宮御所に用いられたらしい。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月9日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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前浜に御弓初めの射手を務める候補を選考するため招集を掛けたが支障を申し出る者が多かった。
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武田五郎七郎政平は弓場には来たが灸による治療中、二宮弥次郎時光は難病に罹っている、 桑原平内盛時も弓場には来たがも病後何日も過ぎていない、右近三郎も同様、薩摩十郎工藤祐広は病気、佐々宇左衛門三郎光国と横溝七郎五郎忠光と平井八郎清頼は各々は所領に駐在しており今朝には戻るとの報告があった。
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そんな経緯で残った人数で試射を行ない、一射づつを五度繰り返した。早河次郎太郎・山城次郎左衛門尉・佐々宇左衛門五郎・海野矢四郎・佐貫弥四郎・眞板五郎次郎・佐貫七郎・周枳兵衛四郎・多賀谷弥五郎が弓射を終え、散状(回覧)の奥書に書き加えた。
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   右は明後日十一日の御弓場始めの射手として卯刻(朝6時)の前に参集する事。
   将軍家の仰せに依って回覧する。      建長五年正月九日
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   ※前浜: 若宮大路の東側(逗子方面)の海岸を西浜、西側(江ノ島方面)を前浜と呼んでいた
現在の材木座1-13(地図)付近に「上河原」の古い地名が残っており、ここから若宮大路を越えた鎌倉保健所を結ぶラインが当時の(満潮時の)海岸線だったと考えるのが一般的らしい。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月11日
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吾妻鏡
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四寸(約12cm)ほどの降雪あり。今日評定衆による会議始めがあり、全員が出仕した。
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   ※降雪四寸: 弓初めは14日に順延となった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月14日
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吾妻鏡
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御弓始めがあり、将軍家(宗尊親王)が簾中から観覧。射手10人が二射づつ五度、的を射た。
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     一番  平井八郎清頼 vs 早河次郎太郎祐泰
     二番  佐貫弥四郎広信 vs 眞板五郎次郎経朝
     三番  佐々宇左衛門五郎 vs 海野矢四郎助氏
     四番  佐貫七郎広胤 vs 須枳兵衛四郎頼泰
     五番  多賀谷弥五郎重茂 vs 山城三郎左衛門尉
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月16日
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吾妻鏡
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来る21日に将軍家(宗尊親王)の鶴岡八幡宮参宮に伴う供奉人選出。太宰小貳狩野為佐と筑前前司二階堂行泰が支障を申し出たため再度選び直した。   (不明(脱落?)部分あり。21日の記事に飛んでいると思われる。
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御禊ぎの奉行は(脱落)、陪膳は(脱落)。能登右近大夫北條仲時が役送(膳部の取り次ぎ)に任じた。
(将軍家は)西門から若宮大路に出御。
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  行列
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    御車
      遠江十郎三浦(佐原)頼連   式部兵衛太郎伊賀光政   右衛門尉梶原太郎景綱
      新左衛門尉小野寺行通 海上弥次郎胤景    左衛門尉大須賀次郎胤氏
      伊賀四郎景家   武藤七郎兼頼   土屋新三郎光時
      大泉九郎長氏   左衛門尉内藤肥後三郎
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  御劔役人(布衣)   武蔵守北條朝直   左衛門尉武藤景頼
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  御後(布衣)
      尾張前司北條時章   遠江前司北條時直   相模左近大夫将監北條時定
      相模式部大夫北條時弘   越後右馬助北條時親   北條六郎時定
      遠江六郎北條教時   陸奥弥四郎北條時茂   尾張次郎北條(名越)公時
      越後五郎北條時家   武蔵太郎北條朝房   遠江太郎北條清時
      足利太郎家氏   伊豆前司若槻頼定   出羽前司小山長村
      佐渡前司後藤基綱   秋田城介安達義景   下野前司宇都宮泰綱
      和泉前司二階堂行方   参河前司新田(世良田)頼氏   前大蔵権少輔結城朝広
      壱岐守後藤基政   能登右近大夫仲時   安藝前司親光
      壱岐前司佐々木泰綱   日向右馬助親家   大隅前司嶋津忠時
      伊勢前司二階堂行綱   備後前司町野(三善)康持  伊賀前司小田時家
      薩摩前司伊東祐長   城九郎安達泰盛  三浦介(佐原)盛時
      遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛   右衛門尉梶原景俊   出羽次郎左衛門尉二階堂行有
      上野五郎兵衛尉結城重光   豊後四郎左衛門尉島津忠綱   左衛門尉伊賀次郎光房
      左衛門尉大曽弥長泰   隠岐三郎左衛門尉行氏   左衛門尉大須賀胤氏
      筑前次郎左衛尉二階堂行頼   和泉五郎左衛門尉天野政泰   同、六郎左衛門尉天野景村
      伊豆太郎左衛門尉實保   左衛門尉小野寺時通   伯耆四郎左衛門尉葛西光清
      弥次郎左衛門尉親盛   出羽籐次郎左衛門尉頼平   左衛門尉足立太郎直元
      左衛門尉押垂基清   右衛門尉三善康長   紀伊次郎左衛門尉為経
      薩摩七郎左衛門尉祐能   左衛門尉渋谷武重   左衛門尉加地七郎氏綱
      常陸次郎兵衛尉行雄   伯耆左衛門三郎清経
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以上供奉人について将軍家(宗尊親王)の了解を得て告知し、壱岐前司佐々木泰綱と左衛門尉足立直元は参上したが小侍別当職の掃部助北條実時はこれを知らず、供奉の途中で「別の指示を受けたのか」と尋ねたが明快な返答は得られなかった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月26日
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吾妻鏡
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晴。(宗尊親王が二所詣に備えて精進潔斎を始めた。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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1月28日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(8時前後)に相模守北條時頼の室家が男子を平産した。加持祈祷は若宮別当僧正隆弁、験者(修験道の行者)は清尊僧都。僧正隆弁は出産に間に合い、清尊と医師と陰陽師はいずれも出産後となったが各々に褒賞として御剣・衣・御馬が与えられ、陸奥守北條重時からも別に褒賞があった。使者は左衛門尉藤原次郎泰経。
また、これによって二所詣の御精進が延期となった。
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   ※出産の: 臣下の妻の出産蝕穢で将軍の公務が延期となるのは理解しがたいが...。
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   ※男子平産: 時頼の三男・幼名福寿丸(後の宗政)を差す。後に八代執権となる北條時宗には唯一の同母弟、
腹心として信頼を置いた傑物だったと伝わっている。宗政は弘安の役終結直後の1281年8月に28歳で病没、強権独裁を目指していた時宗は信頼の置ける唯一の同志を失ってしまう。
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まぁ孤独に耐えうる精神力を持っていないなら強権独裁なんか目指さない方が良い。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月3日
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吾妻鏡
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晴。子刻(深夜0時前後)に強風と豪雨、雷鳴が三度ほどあった。
今日、相模守北條時頼の若公(新たに産まれた)の幼名を若宮の僧正隆弁が福寿と名付けた。
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   ※福寿: 隆弁は自らの通称(法名)である聖福寺殿から、時頼の次男で
嫡子の時宗の幼名を聖寿(正寿とも)、今回産まれた三男(後の宗政)を福寿と名付けた。ちなみに庶長子時輔の幼名は宝寿。
吾妻鏡の建長六年(1254)4月18日には以下の記載がある。
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聖福寺鎮守の神殿12社(神験・武内・平野・稲荷・住吉・鹿嶋・諏訪・伊豆・箱根・三嶋・富士・夷社)を上棟。これら全ては関東の繁栄に加えて息子二人の息災延命を祈るためで、兄弟の名を寺号に充てている。相模国大庭御厨に含まれる土地を選び、若宮別当僧正隆弁が大勧進を務めた。
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聖福寺ヶ谷は極楽寺のある谷(古名を地獄谷)から尾根を隔てた西側で、行政区分も「極楽寺」ではなく「稲村ヶ崎」に含まれ、極楽寺側から徒歩で抜ける道が通じている。北條重時忍性による極楽寺建立を認めたのは更に5年後の正元元年(1259)で、それまでの極楽寺一帯は死骸を遺棄した半ば風葬の地だったとも考えられている。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月25日
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吾妻鏡
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晴。午刻に大地震あり、地の神が動いたか。
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先日、評定(評定衆による会合)の際に例外的な事件について法家(明法家・代々法学の家系)から質問があった。子供が争論をした際に12、3歳の子供が片方の味方をして保恵打ち(大包丁のような刃物との但し書きあり)の刃傷に及んだ。この罪科をどう考えるべきか。この加害者を罪科に問うのならば、論争の当事者も罪に問うのかどうかを条文化するべきで、関東はこれを定めていないため(律令の)式目を基本として対応するべきだろうか、と。
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今日、この件が協議に取り上げられた。(律令の)前例では16歳以下は贖(銅銭などの財物)によって処理し、身柄の拘束などは行わない。また原因となった子供も障害の程度を参考にして同罪・贖銅(賠償金)を課するのは当然である、と。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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2月30日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の林で山桜が満開になった。酉刻(18時前後)に将軍家(宗尊親王)が花を眺めるため俄に出御(御烏帽子・直衣、御車)し、宰相中将土御門顕方卿・花山院中将・北條時頼・掃部助北條実時・右馬助親家らが供奉した。前右典厩北條政村・城九郎 安達泰盛らが続いてこれに加わった。
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   ※2月30日: 太陽暦では4月10日、鎌倉では山桜が満開か。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月1日
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吾妻鏡
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晴。御所の鞠の御壺(蹴鞠を楽しむ小庭)で童舞(稚児舞い)を観覧された。これは明日の鶴岡八幡宮法会の調樂(予行演習)である。
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   ※明日の法会: 上巳節句(3月3日)は八幡宮の神事で舞楽を奉納するのが通例。明日→明後日の間違いか。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月4日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)の二所詣に伴う精進潔斎が始まった。潮での禊のため浜に出御し、相模守北條時頼以下が供奉した。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長二年
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3月8日
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吾妻鏡
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晴。二所詣の奉幣使に任じた右近大夫将監北條時定朝臣が出発。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月14日
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吾妻鏡
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晴。二所詣での先達および奉幣使らが鎌倉に帰着した。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月18日
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吾妻鏡
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晴。夜になって御所の御鞠初めあり。蹴り手は式部大夫北條時弘・掃部助北條実時・越後五郎北條時家・遠江次郎北條時通・遠江六郎北條教時・右馬助親家・壱岐前司佐々木泰綱・下野四郎宇都宮景綱・城九郎安達泰盛ら。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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3月21日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼の新誕の若君(福寿・後の宗政)および生母(北條重時の娘・葛西殿)が産所から本宅に戻った。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月3日
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に雷鳴と降雨、地震あり。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月17日
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史 料
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   ※百錬抄: 内大臣の西園寺公相卿が左大将に転任した。      百錬抄の解説はwikiで。.
西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月20日
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吾妻鏡
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雨。右大将に叙任した西園寺公基卿が将軍家に賀札(吉事の報告)を送ってきた。今日、葵祭(wiki)に伴う除目として幕下(近衛大将の唐名・今回は右大将)を拝任した、と。
(歴史の中で)兄弟が右大将と左大将(弟の公相(wiki)が左大将)に並ぶのは僅かに一、二回である。
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   ※左右に並ぶ: 近い例としては、平家全盛の治承三年(1189)に平宗盛が左大将で弟の平知盛が右大将。
平家一門が滅亡に向かう直前の、一瞬の栄華だった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長二年
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4月25日
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吾妻鏡
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西国の守護・地頭に任じた御家人が命令に従わない場合には報告して厳しく対処せよと六波羅に指示を送った。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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4月26日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼が二人の息子のために造らせていた七仏薬師像の開眼供養が行われた。導師は若宮の僧正隆弁。また信濃国善光寺も修造の完成供養を行なった。こちらの導師は善光寺学頭(筆頭講師)の大夫堅者維真、檀那(寺院や僧尼の経済的庇護者)は陸奥守北條重時、観養坊が勧進役(布施・寄付を集める)に任じた。
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   ※七仏薬師像: 衆生救済のため七体に姿を変える薬師如来像を意味する。この場合は息子二人のためとある
から、2月3日に記載のある聖福寺の本尊だろう。
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天平十七年(745)開創と伝わる千葉県印西市の医王院松虫寺の本尊が七仏薬師像。平安末期の作だが造像した仏師は不明、画像と詳細説明は 教育委員会のサイトで確認されたし。
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この年の11月25日に落慶供養する建長寺に祀る脇侍仏だった可能性も僅かだが、ある。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長五年
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4月28日
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史 料
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   ※清澄寺々伝: 是生房蓮長は朝日に向かって南無妙法蓮華経と唱え、名を日蓮と改めた(立教開宗)。この日の
正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ない、中院の尊海僧正から恵心流の伝法灌頂を受けた。
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西暦1252年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月2日
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吾妻鏡
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晴。秋田城介安達義景は喘息と脚気と食事を受け付けないなどの状態が重なっている。今日は病状がやや落ち着いた中で、(病の穢を払う)沐浴を行なった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月4日
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吾妻鏡
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今年の端午は良辰(吉日)の壬午に当たり、慎みが求められる。故諸陵頭の賀茂時定が撰んだ勘文(上申書)一通と三種の護符が仙洞(院の御所)から内々に送られてきた。これは古代中国皇帝の秘術を説いた内容で、昨夜女官の許に届いた書類を今朝高覧に及んだ。その概略内容は次の通り。
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   赤紙を用いて作った護符を躯につければ百年の寿命を得る。刀剣も害を与えられず立ち向かう者が滅びる。
盗賊・病気・飢饉なども恐れる必要はない...などがダラダラと書いてある。馬鹿らしいので省略する。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月5日
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で端午節句に伴う神事。越後右馬助北條時親が奉幣使に任じた。今日御所で和歌の御会あり。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月13日
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吾妻鏡
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晴。夜になって秋田城介安達義景が素懐(出家)を遂げた(法名は願智)。戒師は若宮僧正隆弁、剃り手は圓勇。
左衛門尉大曽祢弥四郎と同五郎兵衛尉が灯明を捧げた。
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   ※素懐(出家): 臨終に備えての出家剃髪を意味する。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月16日
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吾妻鏡
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晴。権少僧都最信が勝長寿院の別当職に補任された。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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5月21日
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吾妻鏡
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晴。炎暑が続いている。祈雨のため霊所御祓いを催し、申刻(16時前後)に小雨が見られた。
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   ※霊所御祓い: 「七瀬祓い」に同じ。建長四年(1252)5月7日を参照されたし。
5月21日は太陽暦の6月29日、田植え後の酷暑と水不足だろうか。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長二年
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5月23日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の破損箇所修理に伴って仮殿の工事を開始し、上棟を行なった。
今日、勝長寿院の前任別当で前権僧正良信が死没(81歳)。
炎旱に対応した祈雨について、阿闍梨道禅・ 定清・尊家・観源・良基らに祈祷を命じた。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月2日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮仮殿の立柱と上棟を行なった。嘉禄元年(1225)に修理してから29年が過ぎている。
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   ※嘉禄の修理: この年の後半に宇都宮辻子に新らしい幕府が完成している。八幡宮修理の記録はないが、大倉
幕府を解体した材を再用か、修理であっても神社に古材を使うのは不謹慎にあたる、か。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月3日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に秋田城介従五位上藤原朝臣安達義景法師(法名願智)が死没(44歳)。
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   ※義景の後継: 弱冠22歳の城九郎泰盛が家督を継承、五代執権 時頼・六代長時・七代政村・八代時宗・九代
貞時の初期まで幕政を支えるのだが...元寇による御家人社会の変質と財政の逼迫と支配体制の変化を経て一族の滅亡を迎える事になる。
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吾妻鏡の記載は執権時宗の時代を迎える前、政村の時代に途切れてしまうのだけれど。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月8日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の仮殿への遷宮あり。
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   ※仮殿遷宮: 7月6日の記事と重複する。6月は仮殿への遷宮、7月は仮殿からの遷宮かも知れない。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月10日
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吾妻鏡
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晴。未刻(14時前後)に近年には稀な大地震があった。また暫くして小さな揺れが1、2回あった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月13日
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吾妻鏡
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小雨。地震に対応した祈祷として御所で泰山府君祭を催した。担当は安倍為親朝臣、(将軍家の代理として立ち会う)使者は壱岐前司後藤基政
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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6月25日
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吾妻鏡
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狩野新左衛門尉が小侍の番帳に加えられた。左衛門尉武藤景頼が将軍家の仰せを奉行人に伝えた。
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   ※狩野新左衛門尉: 狩野為佐が左衛門尉だったから嫡男の為仲が新左衛門尉か?
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   ※小侍の番帳: 小侍は将軍家の身辺の世話・供奉(供奉)・警護を担う部署、小侍所はその詰め所、番帳は番衆
(幕府に詰めて交代の勤務に任じた者)の名簿。小侍所に保管し将軍の外出などの際には番帳から供奉人を選び出していた。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長二年
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7月6日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(16時前後)に鶴岡八幡宮の仮殿遷宮あり。
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   ※仮殿遷宮: 6月8日の記事と重複する。6月は仮殿への遷宮、7月は仮殿からの遷宮かも知れない。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月8日
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吾妻鏡
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来月の鶴岡八幡宮放生会には将軍家(宗尊親王)の御参宮が予定されており、小侍所で供奉人の名簿を書き整えた。布衣(略礼服の狩衣)を着すべき者。また直垂を着て帯剣すべき者、また随兵として従うべき者が区分される。今日、まず布衣を着す者の名簿を回覧した。その中で然るべき宿老は八幡宮寺の廻廊に待機せよとの指示である。
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   ※装束の画像: 布衣(略礼服の狩衣)はこちら、直垂に帯剣はこちら、いずれも参考画像・別窓。
随兵は(原則は)甲冑弓箭の騎馬武者で先陣と後陣があり、左右に各2列または各3列で並ぶ。先陣と後陣では将軍の近くが上位者、左右では左側・3列の場合は中央が上位者となる。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月9日
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吾妻鏡
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随兵などの明細について、今日名簿を回覧した。
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   右(の者は)八月の放生会に御社参あるべし。各々布衣を着しての供奉は仰せによる。
   右(の者は)八月の放生会に御社参あるべし。各々随兵としての供奉は仰せによる。
   右(の者は)八月の放生会に御社参あるべし。各々予め廻廊に参向する事、仰せによる。
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   ※詳細: 実際の回覧には姓名が記入してあり、吾妻鏡はそれを省略したらしい。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月10日
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吾妻鏡
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直垂を着した供奉人の名簿回覧は昨日と同様。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮正殿の立柱と上棟を行なった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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7月17日
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吾妻鏡
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去る八日から再三の名簿回覧によって進奉(了承)した者を選出し将軍家に提示した。支障の申し出は次の通り。
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那波左近大夫政茂   筑前前司二階堂行泰(持病再発)   大隅前司嶋津忠時
備後前司町野(三善)康持   伊賀前司小田時家    左衛門尉武藤景頼(灸、御調度(弓箭)携帯に支障)
豊後四郎左衛門尉島津忠綱(帰国)   左衛門尉足立三郎元氏(病気)   大泉次郎兵衛尉(軽い服喪)   東図書助(回覧の前に帰国)   伊賀四郎景家   遠江次郎左衛門三郎   土屋弥三郎
左衛門土肥四郎実綱   左衛門足立三郎(重複?)
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   ※那波政茂: 大江広元の三男で上野国那波郡(前橋・伊勢崎周辺)の地頭・那波宗元の子、生母は藤原秀郷
藤姓足利氏の末。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月2日
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吾妻鏡
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御教書(命令書)に何度も違背を繰り返した科により所領を分割して没収するため、領地の詳細を書き出して報告するよう該当者に命令を下した。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長二年
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8月13日
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吾妻鏡
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放生会の供奉人に関しての決定があった。左衛門尉武藤景頼が御調度懸け(将軍家の弓箭携帯)を辞退したため弥次郎左衛門尉親盛に命じられた。また現在まで供奉人に招集されなかった伊豆前司若槻眞兼から参加の希望があり、人数に加えることとなった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月14日
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吾妻鏡
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激しい雨。寅刻(早暁4時前後)に鶴岡の上宮と下宮の正殿への遷宮が行われた。今回の遷宮で西門の脇に初めて三所大明神の勧請があり相模守北條時頼が参宮した。御神楽が催され、右近将監中原光正が宮人曲を唱った。
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   ※三所大明神: 現在の愛知県豊田市にある猿投神社を差す。詳細はwikiで。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の放生会があり(将軍家の)御参宮に伴って供奉人らが出仕したが、尾張前司北條時章は定刻になって体調不良を訴え、更に伊勢前司と遠江次郎左衛門尉らも欠席を申し出た。更に布衣(略礼服・狩衣)の組に入っていた信濃四郎左衛門尉行忠は人数の不足を補うため装束を改めて随兵に合流した。
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将軍家が御所南面(公式の場)に出御し、まず束帯姿の安倍晴茂朝臣が御祓いを行なった。陪膳(給仕)は花山院中将師継、役送(運び役)の能登右近大夫北條仲時が大麻を取って花山院中将に手渡したのは去年の御参宮の際と同様である。 ここで安倍晴茂朝臣が「前年は失念して役送人から渡してしまった、これを前例としてはならない」と弁解し、改めないまま進行した。
その後に半蔀の御車・御束帯で西門から出御し若宮大路を北へ、赤橋の手前で下車された。
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  出御の行列
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  先陣の随兵
武田三郎政綱   渋谷左衛門尉武重   遠江六郎左衛門尉佐原時連
田中左衛門尉知綱   信濃四郎左衛門尉二階堂行忠   出羽三郎二階堂行資
足利次郎顕氏   上野三郎畠山国氏   北條六郎時定
尾張次郎北條公時
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  次いで前駈
  次いで殿上人
花山院中将師継   伊豫中将
  公卿   宰相中将土御門顕方卿
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  次いで御車
式部兵衛太郎伊東光政   左衛門大須賀四郎朝氏   海上弥次郎胤景
右衛門太郎梶原景綱   新左衛門尉三村時親   右衛門三善次郎康有
武藤七郎景頼   次郎兵衛尉武藤頼泰   加藤三郎景経
新左衛門尉小野寺行通   肥後弥籐次
    以上直垂を着し帯劔、御車の左右に候す。
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  御剣役人(布衣・略礼服の狩衣)   前右馬権頭北條政村
  御調度懸け   弥次郎左衛門尉親盛
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  次いで御後(布衣)
武蔵守北條朝直   遠江前司北條時直   相模右近大夫将監北條時定
相模式部大夫北條時広   陸奥掃部助北條実時   中務権大輔足利家氏
駿河四郎北條兼時   上野前司畠山泰国   参河前司新田(世良田)頼氏
能登右近大夫仲時   伊豆前司若槻(森)頼定
   出羽前司二階堂行義
壱岐守後藤基政   和泉前司行二階堂行方   壱岐前司佐々木泰綱
越中前司宇都宮(横田)頼業   佐渡五郎左衛門尉後藤景隆   出羽次郎左衛門尉二階堂行有
右衛門尉梶原景俊   右衛門尉三善康長   和泉五郎左衛門尉天野政泰
太宰肥後次郎左衛門尉為時   肥後次郎左衛尉矢野景氏   左衛門尉狩野五郎為廣
左衛門尉加地七郎氏綱   左衛門尉小野寺四郎通時   左衛門尉長谷部朝連
長次右衛門尉   常陸次郎兵衛尉二階堂行雄
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  後陣の随兵
相模八郎北條時隆   千葉介頼胤   上野五郎兵衛尉結城重光
伊豆太郎左衛門尉實保   大須賀次郎左衛門尉胤氏   壱岐次郎左衛門尉宍戸家氏
氏江余三   土屋新三郎光時   南部次郎實光
武石四郎胤氏
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御奉幣の式次第が終わって将軍家は廻廊に入御し舞曲を観覧。
陸奥守北條重時・相模守北條時頼・前太宰少貳狩野為佐・佐渡前司後藤基綱・前大蔵少輔結城朝広・内藤肥後前司盛時・安芸前司親光らは予め回廊に待機した。
また前右馬権頭北條政村・武蔵守北條朝直・出羽前司二階堂行義らは、更に召しに応じて合流した。
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   ※大麻: 麻の繊維で織った布巾らしい。
   ※半蔀車: 網代車の一種で窓の上半分が外側へ吊り上げられる形になっている。wiki画像を参照。
   ※西門から出御: 一般御家人は若宮大路に面して門を儲けるのを禁止されていた。もちろん、御所は例外。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月16日
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吾妻鏡
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巳刻(10時前後)に激しい雨、加えて雷鳴が数回。未刻(14時前後)になって晴。
鶴岡八幡宮馬場での流鏑馬以下は通例の通り。将軍家の出御に伴う供奉人は昨日に同じ。右衛門尉佐々木氏綱(氏信の別名)が今日の御沓の手長(運び役)に任じた。佐渡五郎左衛門尉後藤基隆(基綱の子・基政の兄弟)が奉幣の使者を務めよと命じられたが、支障ありと称して辞退した。秉燭の程(灯明を点じる頃)に還御、松明を用いた。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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8月30日
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吾妻鏡
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下総国下河邊庄の堤防強化を図る指示があり、清久弥次郎保行(下河邊行平の孫)・鎌田三郎入道西佛・対馬左衛門尉仲康・宗兵衛尉為泰らを奉行人に定めた。
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   ※下河邊庄: 現在の千葉県西北部と埼玉県東部に跨る広大なエリア。藤原秀郷の子孫で開発領主の下河邊氏
源三位頼政を介して八条院に寄進(異説あり)し、平安時代末期に立荘した。JR古河駅近くに頼政神社(地図)があるのは立荘の経緯による(実際は渡良瀬川の改修に伴い移転している)。
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建長年間以後の下河邊氏は実質的に北條得宗家の被官となり、幕府の滅亡後は鎌倉公方足利氏満支配下に入った。
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1455年の享徳の乱により第五代鎌倉公方の足利成氏が下河辺荘内の古河城に移って古河公方を名乗り、やがて戦国時代を迎えることになる。
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鎌倉時代の下河邊庄には古利根川・古荒川・渡良瀬川・古隅田川などの流路が入り組んで流れていた。
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江戸時代の大規模治水工事によって利根川の流路が東京湾から現在の形に変わり、当時は灌漑用水のメインだった古い流路が古利根川(地図)となって残されている。
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利根川東遷によって治水が進んだため正確なエリアは想像するしかないが、概ね古河市の渡良瀬川と利根川の合流地点の北側から越谷市周辺までを含んでいたらしい。
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右画像は古利根川を中心にした利根川東遷と荒川西遷の概略図。画像をクリック→拡大表示。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月14日
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吾妻鏡
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雨、雷鳴が数回あり。城介入道安達義景の百ヶ日の仏事が甘縄の旧宅で催された。導師は若宮の僧正隆弁
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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9月16日
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吾妻鏡
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晴、午刻(正午前後)に地震、夜になって小雨。
今日、新らしい法令を定め、延応の法に十三ヶ條を加えた。関東の御家人および鎌倉に居住する者の住の人々過差(不相応な贅沢)を禁止する内容である。これは去る7月12日に宣下された内容で、担当奉行の蔵人頭宮内卿平時継朝臣を介して10月1日から宣下の遵守を布告する。なおも従わない場合は法によって糾弾し罪科に問う旨の仰せがあった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長二年
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9月26日
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吾妻鏡
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三善(矢野)倫長の奉行として御所に於いて幾つかの決裁があった。
まず20日の評議で山門(比叡山)領の他で山僧(衆徒)を預所職(荘園の管理者・荘官)に補任する事を禁止した。
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これは去る延応元年(1239)7月26日に決定して六波羅にも通達したもので、能登国の御家人高畠太郎式久が準備した案文と照合するため御教書(命令書)を備後前司町野(三善)康持に渡したが禁忌(物忌)の最中で取り扱えなかった。同23日に東入道唯明に指示して書写させたところ相違が見られず、評定の際に本文を届けるよう改めて指示があった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月1日
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吾妻鏡
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晴。今日、奴婢と雑人に関する法を定めた。田畑に付属している百姓の子息や従者を使役する事は、既に長い期間が経過していても当人の意思確認を必要とする、と。
また新しい法を制定し、今日以後はこれを厳守かるようにとの仰せがあった。中でも法家(法学を修め伝える家系)の女房装束については五衣練貫などの贅沢は禁止した。
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   ※五衣練貫: 五衣は五領の重ね衣(参考サイト、少しモデルが気に入らないけど)、練貫は縦糸に生糸・横糸に
練り糸(精練したツヤのある生糸)を用いた 平織りの絹織物。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月2日
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吾妻鏡
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若宮別当僧正隆弁が上洛の途に就いた。如意寺を復興するため、とのこと。
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   ※如意寺: 園城寺(三井寺)別院の山岳寺院。洛中から三井寺に向かう最短距離の山中にあった山岳寺院。
創建年代は不詳だが800年代後半に智証大師円珍(wiki)が開いた、と伝わる。
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ここは治承四年(1180)5月に挙兵した以仁王が高倉宮から鹿ヶ谷を経て園城寺に逃れたルートでもある。
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三井寺収蔵の重文園城寺境内古図には本堂の他に60を越える堂塔が建ち並ぶ姿が描かれているほど巨大な寺院だったが、建保七年(1219)1月に圓城寺で修行した公暁が三代将軍実朝を暗殺した事件以来鎌倉幕府の庇護を失なって如意寺も荒廃、再建は圓城寺出身の隆弁の宿願だった。
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如意寺は応仁二年(1468)に焼失したまま廃寺となった。
一説には南北朝時代が始まった建武三年(1336)に兵火で焼失・廃絶した、とも。
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    右画像は円城寺から如意寺に続く現在のルート。クリック→ 拡大表示
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月11日
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吾妻鏡
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利売直法(小売の公定価格)を定め、更に押買(押し売りの逆、脅して仕入れる事)を厳しく禁止した。
奉行は小野澤左近大夫入道と内島左近将監盛経入道ら。
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     薪と馬蒭(まぐさ)などの公定小売価格(一駄は馬一匹に積んだ量)
        炭一駄代金は百文  薪三十束(三束分)は百文  萱(かや)一駄(八束分)は五十文
        藁(わら)一駄(八束分)は五十文  糠(ぬか)一駄(俵は一文)は五十文
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これら雑物の異常な高直については商人に命令する必要がある。
また和賀江津(を経由して鎌倉に入る)材木は基準を満たさず問題があるため寸法を定めた。榑(板材)は長さ8尺(242cm)または7尺(212cm)、不足していれば押収して管理者に報告すること、その他である。
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今日、六波羅に指示する件があった。諸国の荘園などの新補地頭(承久の乱での没収領に任命した地頭)の所務(職務に対する得分)については従来の命令に従い 不法な徴収をしてはならない、と。
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   ※公定価格: 翌年10月17日には撤廃している。流通量不足などの支障が続いたためと思われるが、吾妻鏡は
「炭・薪・萱・藁・糠について、制定以後は高騰が見られなくなったため元に戻す」と記述している。世情は既に、安直な計画経済が通用しないレベルに深刻化している。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月13日
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吾妻鏡
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西国の荘園・郷・保の地頭などの所務(職務に対する得分)については通例に従って職務を果たしており過剰な押領(取立て)を行なっている事実はないと確認できた。その旨を周知させよとの指示が六波羅に通告された。 今夜戌刻(20時前後)、月に五色の笠が掛かった。将軍家(宗尊親王)がこれを覧て驚かれたが、司天(天文担当)からは変異ではないとの報告があった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月19日
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吾妻鏡
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晴。貢馬(朝廷に献上する馬)の御覧があった。陸奥守北條重時と相模守北條時頼および評定衆が水干・葛袴を着して南庭に列座した。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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10月23日
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吾妻鏡
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伊達八郎が小侍(将軍家の身辺に仕える側近)の名簿に加わった。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長二年
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11月25日
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吾妻鏡
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霰(あられ)あり、辰刻(麻8時前後)からは小雨になった。
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建長寺の落慶供養が行なわれた。中尊(本尊)は丈六(485cm)の地蔵菩薩、更に千体の地蔵菩薩を安置した。
相模守北條時頼は造作に精緻を凝らし、去る建長三年(1251)11月8日に着工して今日の竣工に至った。
願文の起草は前大内記茂範朝臣、清書は時頼、導師は宋朝の僧・道隆禅師である。
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また今日一日で五部大乗経を書写して供養の一環とした。この作善の趣旨は、上は朝廷と将軍家および重臣の繁栄と天下泰平を祈り、下は源氏三代の将軍・二位家(政子)および物故した北條一門の菩提を弔う目的である。
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   ※保暦間記: 相模守北條時頼が巨福山に建長寺を建立、将軍の御願として供養を遂げた。
保暦間記の解説はwikiで。
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   ※源氏三代: 吾妻鏡は頼家の死後は一度も彼を二代将軍とは記載していない。今頃になって「源氏三代」と記載
するのは何故だろう。暗殺から50年が過ぎて罪悪感も薄れ事情を知る者も減ったためか。
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   ※建長寺: 創建から現在まで数回の火事や地震で被災・倒壊し、当初の
本尊も早くに失われた(現在の本尊は室町時代の作)。
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一般的な禅寺の本尊は釈迦如来が多い中で建長寺(公式サイト)は地蔵菩薩、建立した場所は処刑場があった通称「地獄ヶ谷」で、斬首された魂を救済する地蔵菩薩を本尊とした伽羅陀山心平寺があった事に由来している。
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現在の仏殿にある本尊の地蔵菩薩坐像は室町時代の作、本尊の背後には建立の際に心平寺から移設した数体の地蔵菩薩が祀られている。歴代の住職像に遮られているが、訪問の際には頑張って確認されたし。
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右画像は建長寺仏殿に祀られた地蔵菩薩坐像、左背後には歴代住職像が並ぶ。  画像をクリック→ 拡大表示
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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11月29日
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吾妻鏡
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晴。諏方兵衛入道蓮佛(諏訪盛重の法名)が山内に建立した仏堂が今日落慶供養を行なった。これは武州前刺(中国の官職で前武蔵守を差す)禅室(北條泰時)を追善供養するためである。
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今日は甲辰であり、「辰日の追善仏事は先例にない」と言う者もいたが、参河守教隆眞人からその言葉に異議が呈された。「入道中納言能保(一條能保)卿が後白河法皇御追福のため建てた小堂の落慶供養は甲辰の日で、宇治平等院の阿弥陀堂(現在の鳳凰堂)供養もまた辰の日だった。これも追善である。」と。
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   ※山内: 当時の山内は常楽寺の北・現在の鎌倉街道鎌倉女子大附属付近(地図)まで含まれていた。
この地域の古刹としては常楽寺の他にも成福寺があるが、もちろん仏堂の位置は判らない。
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   ※教隆眞人: 姓は清原眞人、天武天皇の皇子舎人親王を祖とする一族で平安時代には中級貴族だった。
親王の九代後には清少納言がいる。後三年の役に登場した出羽清原氏も子孫を称しているが真偽は不明、同様に清原清定一族との関係も判らない(調べていない)。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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12月8日
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吾妻鏡
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子刻(深夜0時前後)に若宮大路の下の下馬橋付近から前浜(由比ヶ浜)までの民家が悉く焼失した。
今日、前筑前守二階堂行泰が政所執事に任命された。
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   ※下の下馬橋: 大町大路と若宮大路の交差点(地図)。当時の海岸線と推定される鎌倉警察署まで約600m。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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12月9日
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吾妻鏡
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晴。従五位下藤原朝臣二階堂行盛法師(行然)が死没73歳)。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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12月21日
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吾妻鏡
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晴。前甲斐守正五位下大江(長井)泰秀朝臣が死没(42歳)。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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12月22日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。前和泉守藤原二階堂行方が四番引付の頭人(上位者)に補任された。死没した行盛法師の後任である。前筑前守藤原二階堂行泰が五番の引付頭に補任された。(6月3日に)死没した安達義景入道の後任である。
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   引付人
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    一番  前右馬権頭北條政村  佐渡前司後藤基綱  備後前司町野(三善)康持 伊勢前司二階堂行綱
城九郎安達泰盛(新任)  山城前司中原盛時   内記兵庫允祐村  山名進次郎行直
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    二番  武蔵守北條時直  出羽前司二階堂行義  式部大夫入道伊賀光西  左衛門尉清原満定
越前兵庫助政宗   大炊助皆吉文幸 対馬左衛門尉仲康
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    三番  尾張前司北條時章   陸奥掃部助北條実時 常陸入道行日(二階堂行久)  城次郎安達頼景
左衛門尉大曽祢長泰  民部大夫大江以基  大田太郎兵衛尉三善康宗  兵衛長田太郎広雅
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    四番  前太宰少貳狩野為佐(新任)  和泉前司二階堂行方(今日頭人に新任)
対馬前司矢野倫長  左衛門尉武藤景頼  山城前司深澤俊平  甲斐前司  中務丞山名俊行
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    五番  筑前前司二階堂行泰  参河前司教隆  大田民部大夫三善康連  進士次郎蔵人
左近将監明石兼綱  越前四郎兼朝
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今日申刻(16時前後)に御所で終日の尊勝陀羅尼と御本尊供養が始まった。担当奉行は和泉前司二階堂行方
丑刻(深夜4時前後)に経師ヶ谷口で失火があり北風に煽られて浜の御倉前まで延焼、10余人が焼死した。
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   ※経師ヶ谷: 材木座二丁目の長勝寺東側に延びるのが経師ヶ谷(地図)。正応六年(1293)4月の平禅門の乱
で九代執権北條貞時に滅ぼされた内管領平頼綱の屋敷があった、と伝わっている。浜の高御藏は和賀江の物流施設だろうから、来迎寺→ 実相寺→ 補陀洛寺のルートで火の粉が飛んだか。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長四年
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12月28日
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吾妻鏡
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若宮別当僧正の隆弁が京都から帰着した。去る10月に如意寺(10月2日を参照)の鎮守諸社を勧請するために上洛していた。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長二年
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12月30日
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吾妻鏡
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新年の御行始め(外出初め)の供奉人について、庭の筵(むしろ)に設けた座席に置く名札を書き出して将軍家(宗尊親王)の許諾を得た後に該当者に通告した。
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長五年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長五年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1253年
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89代後深草天皇
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建長五年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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