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建長六年(1254年)

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天皇
月日
記事
西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相模守北條時頼の沙汰による椀飯があり、宰相中将土御門顕方卿が御簾を上げた。前右馬権頭北條政村が御剣を、武蔵守北條朝直が弓箭を、尾張前司北條時章と下野前司宇都宮泰綱が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 遠江六郎北條教時 と 同、七郎時基
   二の御馬は 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 と 同、伊東九郎祐朝
   三の御馬は 遠江次郎左衛門尉佐原泰盛 と 同、佐原十郎頼連
   四の御馬は 新左衛門尉三村時親 と 同、兵衛尉三村三郎
   五の御馬は 北條六郎時定 と 右衛門尉工藤次郎高光
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椀飯の終了後に将軍家(宗尊親王)の御行始め(外出初め)があり、申一刻(10時過ぎ)に相模守時頼邸に入御。
(将軍家への)御引出物は通例の通り、中務権大輔足利家氏が御剣・砂金・鷹の羽・御馬を献じた。
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  供奉人 装束は裾を絞った布衣(略礼服の狩衣)  (装束の画像は前年7月8日を参照)
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   前右馬権頭北條政村   武蔵守北條朝直   尾張前司北條時章
   相模式部大夫北條時弘(時広)   越後右馬助北條時親   中務権大輔足利家氏
   陸奥弥四郎北條時茂   遠江六郎北條教時   遠江太郎清時
   足利上総三郎(吉良)満氏   上野前司畠山泰国   伊豆前司若槻(森)頼定
   参河前司新田(世良田)頼氏   能登右近大夫仲時   安芸前司親光
   佐渡前司後藤基綱   出羽前司小山長村   下野前司宇都宮泰綱
   大蔵権少輔加藤景朝   出羽前司行二階堂行義   前太宰少貳狩野為佐
   壱岐守後藤基政   伊賀前司時家   壱岐前司佐々木泰綱
   薩摩前司伊東祐長   右衛門尉梶原景俊   弥次郎左衛門尉親盛
   左衛門尉大須賀次郎胤氏   左衛門尉武藤景頼   左衛門尉伊東八郎祐光
   左衛門尉小野寺四郎道時   右衛門尉三善康長   右衛門尉三善康義
   五郎左衛門尉狩野為廣   兵衛尉武藤次郎頼泰   右衛門尉足立三郎
   右衛門尉加地七郎氏綱   常陸次郎兵衛尉二階堂行雄   長雅楽左衛門尉
   式部兵衛太郎光政   武石三郎朝胤   右衛門太郎梶原景綱
   左衛門三郎加藤景経   鎌田三郎義長
   左衛門尉宇都宮五郎泰親   壱岐次郎左衛門尉宍戸家氏  この二人は無断欠席
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※伊東祐長: 伊東祐時の弟。信濃国坂木(現在の坂城町・地図)に所領を得て薩摩守に補任され、信濃伊東
(工藤)氏の祖となった。薩摩を冠した「祐」の名を持つ武士の大部分が彼の系累と考えて良い。
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また陸奥国安積郡(福島県郡山市一帯)にも所領を得て安積六郎左衛門を名乗っている。
ただし系図の錯綜も見られ、二の御馬を下の手綱を引く祐朝は早川次郎とは別人だろう。
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   ※年令: 五代執権北條時頼は26歳・ 連署の北條重時は56歳・ 六代執権になる北條長時は24歳・
七代執権になる北條政村は50歳・ 八代執権になる北條時宗は2歳7ヶ月、 兄の時輔は5歳6ヶ月・
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安達泰盛は23歳・ 足利義氏は11月に死没(65歳)・ 結城朝光は2月に死没(86歳)・
足利氏四代当主足利泰氏は38歳・ 宇都宮氏六代当主宇都宮泰綱は52歳・
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六代将軍の宗尊親王は11歳・第89代後深草天皇は10歳・先帝の後嵯峨上皇は32歳
                       (表示は全て満年齢)
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。左馬頭入道北條時頼義氏の改名)の沙汰による椀飯あり。
武蔵守北條朝直が御剣を、尾張前司北條時章が弓箭を、和泉前司二階堂行方が御行騰と沓を献じた。
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献上の役人
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   一の御馬は 上総三郎吉良満氏 と 太平太郎左衛門尉(土佐の国人領主、藤原秀郷の末)
   二の御馬は 右衛門梶原太郎景綱(景時景茂-景俊-景綱と続く) と 同、三郎景茂(?)
   三の御馬は 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼(行泰の子。政所執事・弘長二(1262)に引付衆 と
             同、三郎行實(行頼の弟、文永二年(1265)に政所執事、引付衆)
   四の御馬は 遠江十郎佐原頼連 と 同、七郎泰連
   五の御馬は 上野三郎畠山国氏(泰国の嫡子、政所執事・弘長二年(1262)に引付衆) ) と 日記三郎
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   ※吉良満氏: 足利義氏の庶長子で三河吉良氏の祖となった長氏の嫡子。建治元年(1275)に足利氏庶流では
唯一守護(越前)に任じたが、弘安八年(1285)11月の霜月騒動で平頼綱の軍と戦い、敗北して自害している。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月3日
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吾妻鏡
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曇。陸奥守北條重時の沙汰による椀飯あり。
尾張前司北條時章が御剣を、掃部助北條実時が弓箭を、下野前司宇都宮泰綱が御行騰と沓を献じた。
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献上の役人
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   一の御馬は 遠江六郎北條教時 と 同、北條七郎時基
   二の御馬は 出雲五郎左衛門尉波多野宣時 と 同、波多野次郎時光
   三の御馬は 波多野小次郎定経 と 同、波多野兵衛次郎定康
   四の御馬は 筑後次郎太郎重家 と 同、小次郎知家
   五の御馬は 陸奥弥四郎時茂 と 鹿島田左衛門尉惟光
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月4日
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吾妻鏡
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御的初めの射手を選出したが、兼ねて(出場を)了承した薩摩十郎伊東祐広・出羽七郎二階堂行頼・武田五郎七郎・桑原平内らが支障を申し出たためその他の11人が二射づつ五度、的を射た。
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     一番 渋谷六郎  vs  佐々宇左衛門三郎
     二番 佐貫七郎  vs  松岡小三郎
     三番 諏方四郎兵衛尉  vs  海野矢四郎
     四番 周枳兵衛四郎  vs  勅使河原小三郎
     五番 南條左衛門次郎  vs  布施三郎
     六番 秩父弥五郎
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月7日
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吾妻鏡
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来る10日の将軍家(宗尊親王)の鶴岡八幡宮参宮に伴う供奉人の名簿を回覧した。椀飯の際に出仕した者の中から選び出している。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月10日
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吾妻鏡
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晴、強い西風あり。卯一点(朝6時過ぎ)に浜風に煽られて大町の辺りが焼亡、名越山王堂までの人家数百軒が被災した。日の出の後に鎮火したが焼死者は数十人、彼の穢により今日の将軍家の参宮は延期となった。
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   ※名越山王堂: 建長四年(1252)2月8日の大火事で名前が載っている。詳細の位置などは当日の吾妻鏡で。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月16日
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吾妻鏡
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御所で御的初めが催された。先日支障を申し出た者も呼び出して10人が二射づつ五度、的を射た。
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     一番 武田五郎七郎政平  vs  渋谷六郎盛重
     二番 海野矢四郎助氏  vs  平嶋弥五郎助経
     三番 布施三郎行忠  vs  周枳兵衛四郎頼泰
     四番 佐々宇左衛門三郎光高  vs  佐貫七郎廣胤
     五番 多賀谷弥五郎重茂  vs  横溝七郎五郎忠光
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月22日
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吾妻鏡
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晴。(宗尊親王)が鶴岡八幡宮に御参宮。
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 行列
   前駈
      能登右近大夫北條仲時   安芸前司親光   判官代長井泰秀
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   御車
      壱岐新左衛門尉後藤基頼   式部兵衛太郎光政
      左衛門大須賀四郎胤信   小野寺新左衛門尉行道
      右衛門太郎梶原景綱   薩摩十郎伊東祐広
      兵衛尉武藤次郎頼泰   武藤七郎兼頼
      足立左衛門四郎   肥後弥籐次
          以上は直垂を着して帯剣、御車の左右に列す。
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   御剣役人  前右馬権頭北條政村
   御調度役  左衛門尉武藤景頼
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   御後
      尾張前司北條時章   武蔵守北條朝直   陸奥掃部助北條実時
      相模右近大夫将監北條時定   越後右馬助北條時親   遠江六郎北條教時
      陸奥弥四郎北條時茂   中務権大輔足利家氏   足利次郎兼氏
      上総三郎足利(吉良)満氏   佐渡前司後藤基綱   出羽前司二階堂行義
      出羽前司小山長村   上野前司畠山泰国   下野前司宇都宮泰綱
      和泉前司二階堂行方   伊賀前司時家   大隅前司嶋津忠時
      壱岐守後藤基政   参河前司新田(世良田)頼氏   左衛門尉大須賀次郎胤氏
      弥次郎左衛門尉親盛   左衛門尉狩野五郎為廣   左衛門尉伊東八郎祐光
      左衛門尉小野寺次郎道時   左衛門尉壱岐次郎家氏   長次右衛門尉
      長雅楽左衛門尉   右衛門尉三善康長   左衛門尉三善康義
      和泉次郎左衛門尉二階堂行章   紀伊次郎左衛門尉為経   左衛門尉加地次郎氏綱
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月26日
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史 料
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   ※百錬抄: 大宮女院(後嵯峨天皇の中宮、後深草・亀山両天皇の生母)が御着帯。
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       大宮女院は西園寺公経の嫡子実氏(wiki)の娘。さらに詳細は園寺きつ子(wiki)で。
百錬抄の詳細も同じくwikiを参照されたし。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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1月28日
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吾妻鏡
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晴。二所詣に対応して将軍家(宗尊親王)の精進潔斎が始まった。今回の奉幣使は武蔵守北條時直
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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2月2日
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吾妻鏡
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雨。陸奥守北條重時が二所詣に出発した。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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2月3日
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吾妻鏡
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晴。武蔵守北條時直が奉幣使として二所詣に出発した。
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   ※奉幣使が出発: 重時と時直が一日違いで出発し二日違いで帰着している。何か意味があるか?
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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2月4日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に右馬助親家の宿所が失火、右近大夫将監北條時定邸と籐内左衛門尉安東光成邸が瞬く間に灰塵に帰した。
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   ※安東光成: 尾藤景綱の兄景信の息子で北條泰時以来続く得宗被官の家柄。確か得宗邸の敷地内に住居が
あったと記憶しているが...調べ直してみよう。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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2月6日
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吾妻鏡
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晴。陸奥守北條重時が二所詣から帰着した。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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2月8日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(8時前後)に武蔵守北條時直が二所詣から帰着した
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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2月12日
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吾妻鏡
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晴。去る正月26日に大宮院(同日の百鍊抄を参照)が御着帯との連絡が京都から届いた。
また同28日に近衛大殿の若君が御元服、命名は基平である。
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   ※近衛大殿: 一般的には大殿とは摂関家の摂関経験者で現在の摂関の父親なのだが元服したのが近衛基平
なので父親の鷹司兼平が該当する。基平の生母は九条道家(ともにwiki)の娘。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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2月19日
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史 料
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   ※百錬抄: 午刻(昼12時前後)に法成寺が炎上。また同日戌刻(20時前後)に地震あり。
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   ※法成寺: 別名を無量寿院、平安時代の中期に晩年の藤原道長(wiki)
が創建した摂関期最大級の寺院。鎌倉時代に起きた再三の火災と兵火で荒廃し、室町時代に廃絶したらしい。
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南北朝時代には吉田兼好(wiki)が徒然草の中で「九体の丈六仏と法華堂のみが残っているのは諸行無常の典型」と書いている。鴨川に近い荒神口通に面して「従是東北 法成寺跡」の石柱が立っている。
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画像をクリック→ 拡大表示。 石柱の画像はこちらで。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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2月20日
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吾妻鏡
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評定衆による会議があり、若宮別当僧正隆弁に六波羅の大慈院を与えた。
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   ※大慈院: 建長四年(1252)10月2日の吾妻鏡に関連して紹介した山岳寺院・如意寺の中心施設の一つ。
滅亡した平家を慰霊するため源頼朝が建立したと伝わる。圓城寺境内古図も参考に。この範囲を六波羅と呼ぶのは無理がある、と思う。鹿ヶ谷なら兎も角...。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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2月24日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)に前上野介従五位下藤原朝臣結城朝光法師(法名日阿)が没した。享年87。
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   ※結城朝光: 吾妻鏡の初出は治承四年(1280)10月2日、上総を制圧した頼朝が墨田(隅田)川を渡り武蔵国
に入った際に故小山政光の後妻寒河尼に伴われて訪れた。爾来74年、様々なシーンに登場して楽しませてくれた人物...760年後の現代から哀悼の思いを込めて合掌、だね。
出場期間の長さでは朝光よりも数年若い海野幸氏も拮抗しているけど、幸氏は建長二年(1250)3月1日の末尾近くに記載が見られたのが最後となっている。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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3月7日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼が能書を撰び、日頃から大般若経の書写を続け、鶴岡八幡宮寺で納経供養を行なった。
導師は別当僧正隆弁、参籠してこれを転読(wikiの動画を参照)した。また如意寺を復興造営する勧進(寄付)には時頼以下が応じた。先月28日の評定衆による決定に従っている。
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   ※能書を撰び: 優れた原本(書写の台本)を撰んで、の意味か。
   ※先月28日: 如意寺の大慈院に関する評議は20日に決裁があった。28日に再度あったか否かは不明。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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3月12日
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吾妻鏡
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特別の仰せを受けて、善波太郎入道(?)の子息又次郎が小侍所衆(将軍身辺に仕える側近)に加えられ、奉行の武藤景頼から担当部署に通達された。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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3月16日
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吾妻鏡
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陸奥掃部助北條実時の母親が死没した。
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   ※実時の母親: 天野政景の娘。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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3月20日
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吾妻鏡
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小侍所の勤務に関しては陸奥弥四郎北條時茂が奉行に任じる。陸奥掃部助北條実時の重服(生母が死没した重い服喪)による。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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3月24日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に北側の金星と南側の木星が八寸(24cm)の距離で重なった。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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3月26日
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吾妻鏡
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晴。金製と木星が重なる変異について、(天文担当の)廣資朝臣から既に消滅したとの報告があった。当初の接近が雨で途切れた後に25日になって再び確認されたが、我が家では出現と消滅であると判断する。しかしながら同僚はこの判断に同意していない、と。担当奉行の出羽前司二階堂行義と和泉前司二階堂行方がこれを報告した。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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3月29日
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吾妻鏡
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晴。二つの星が重なった事について加持祈祷を催すよう政所に指示があった。天地災変には前大膳亮為親朝臣、三万六千神は前陰陽大允安倍晴茂朝臣、属星祭は陰陽少允晴宗が担当する。
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   ※天地災変祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異や怪異・厄年などの時に行う。
   ※三万六千神祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異を排除し天下泰平を願う。
   ※属星祭: 国土安穏・五穀豊饒を祈祷する星供養(星祭)が個人の守護星を供養する属星祭に発展したもの。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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4月4日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)から雨。亥刻(10時前後)、特別の御願により安倍為親朝臣が天地災変祭を行なった。
将軍の使者は安芸右近大夫重親、祈願文の起草は前大内記茂範朝臣、清書には厳恵法印が任じた。
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強い雨の日に祭祀をは好ましくないと言う者もいたが、当院(先帝の後嵯峨上皇)が天皇だった寛元三年(1245)3月の北遊御祭(北への遊覧無事を祈る?)に対応して良光朝臣が祭祀を催した日は豪雨だったが実施した、と。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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4月18日
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吾妻鏡
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聖福寺(建長六年(1253)4月26日を参照)を鎮守する諸神の神殿を上棟した。神験・武内・平野神社・稲荷大社・住吉大社・鹿嶋神宮・諏訪大社・伊豆山権現・箱根権現・三嶋大社・富士浅間神社・夷社などで、全て関東(鎌倉幕府)の長久と特に相模守北條時頼の両賢息(後の時宗宗政)の息災延命を祈って寺号に宛てている。
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若宮別当僧正隆弁が勧進し相模国大庭御厨の地を撰んだ経緯がある。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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4月27日
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吾妻鏡
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鎌倉中の庶民および非御家人が奉行人の命令に従わない場合は厳罰に処す法令を定めるよう政所に指示した。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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4月29日
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吾妻鏡
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評定があり、西国の荘園および公領の地頭所務(権限)についての検討がされた。
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本地頭(承久の乱以前から任じていた地頭)の権限は旧来の基準に従い、新たな規則を追加してはならない。 また新地頭(承久の乱による没収地に補任となった地頭)は規則に定めた定率以外の過徴を行なってはならない。
この内容に従って訴訟事務にあたるよう、五組の引付衆に通達した。
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また唐船の数は五艘と定め、それ以外は早急に破却するよう命じた。命令者は評定衆、発行者は問註所奉行人の勧湛・實綱・寂阿(得宗被官)、宛先は筑前前司二階堂行泰(この時点では政所執事で五番引付頭人)と大田民部大夫三善(太田)康連(この時点では問注所執事)。
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   ※納付の定率: 新補地頭の取り分は、反当たり五升と、十一町あたり
一町分の収穫と定められている。
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   ※唐船の規制: 唐と交易するた日本の貿易業者が所有した大型外洋船
の和賀江寄港を制限する規制らしい。
貞永元年(1232)7月12日の吾妻鏡には「勧進聖の往阿弥陀仏が和賀江島の堤防を補修する許可を得た(8月9日に完工) 」との記載がある。
極楽寺僧正に就いた忍性が和賀江島の運営を任されて港湾施設を拡充し管理を開始したのが1280年前後と推定されるから、この時点での和賀江島は貿易港として十分に機能していたのだろう。
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ただし幕府が組織的に唐または元と交易していたのではなく、寺社を復興するために派遣した交易船(いわゆる寺社造営料唐船)の運営主体は博多商人で、寺社や幕府は注文者に過ぎなかった可能性が高い。
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右上画像は沈没船と博多・太宰府の位置鳥瞰図(クリック→拡大表示)
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昭和51年(1976)に韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から大量の荷を積んだまま港湾の近くで沈没した交易船から積荷が引き揚げられた。
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積荷には白磁や青磁の天目茶碗など18,000点の陶磁器や800万枚の銅銭や346点の積荷木簡(明細記録)があり、京都の東福寺(公式サイト)が堂塔の再建を目的にして幕府の認可を得た貿易唐船と推定される。
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ただし木簡の内容からは積荷の半数近くが特定商人が利潤を目的として買い付けた商品だったらしい。
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右下画像は清朝時代のジャンク船(クリック→拡大表示)。さらに詳細はwikiの解説で確認を。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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5月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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人質(人を質草にすること)についての法令が発布となった。この法令以前に質入れして流れた場合も、法令発布後の訴訟を経て借り入れと等倍(無利息)を納めれば弁済を認め、それ以上の要求は認めない。また、今後の人質行為は全面的に禁止する旨が相模守北條時頼から問注所に命令された。
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勧湛・實綱・寂阿が5月1日付で署名し、宛先は大田民部大夫三善(太田)康連殿としている。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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5月5日
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮での(節句に伴う)神事は通例の通りだが、下の廻廊の巽方(南東側)で闘乱があり、負傷者が3人と死者が1人出た。また流鏑馬の矢を受けた者が2人と馬蹄に踏み殺された者も1人、尋常な事件ではない。
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   ※下の廻廊: 鶴岡八幡宮大石段の下側境内のかなり広い範囲が回廊で
囲まれていた。江戸時代の絵図には載っていないが、天正十九年(1591)に豊臣秀吉が修営目論見絵図を描かせて徳川家康に修理を命じている。
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その絵図を土台にして創ったジオラマによる復元模型が鶴岡文庫(公式サイト)に展示されており、当時の姿を(やや誇張はあるが)確認する材料になっている。
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鶴岡文庫は境内北側の県立美術館前(地図)、承久の乱で流刑に処された土御門・後鳥羽・順徳を祭神として祀っている今宮(新宮神社)の入口にある。次の鎌倉訪問で撮影する予定だが、八幡宮に参拝した際には落ち着いた見学を薦めたい。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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5月7日
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吾妻鏡
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曇。一昨日の鶴岡八幡宮廻廊の殺害事件による触穢に対応して建て替えの可否について評議を行なった。また陰陽師等を呼び評定所で殺害の影響を占わせ、安倍晴茂・為親・晴宗が各々別紙により答申した。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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5月8日
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吾妻鏡
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聖福寺の神験宮(寺院と一体の鎮守社・守護神社)に於いて舞楽を奉納した。
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   ※聖福寺: 創建の経緯と地図などは建長四年(1253)2月3日を参照されたし。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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5月9日
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吾妻鏡
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晴。先般、石清水八幡宮(wiki)で自殺した僧があった旨を石清水の宮使(律令制での官司)から報告あり。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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閏5月1日
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吾妻鏡
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北條時頼が下若(酒)などを携えて御所に参上、将軍家(宗尊親王)が御所の広間に出御した。酒宴が数献に及び、近習の人々も呼んで酒宴となった。各々が酔ってから相州時頼が「近年は武芸が廃れ、誰もが武士に似合わない芸を好み武家の本分を忘れているのは残念だ。弓馬の腕は改めて試すとして、まずここでは相撲をとって勝負の結果次第で将軍家から配慮を頂ければと思う。」と語り、将軍家も興味を示した。
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逃げ出したり誇示したりする者が多かったが、陸奥掃部助北條実時から「勝負に応じなかった者は今後は召し使わないことにする」との説得もあって10余人が衣装を付けたまま取り組むこととなった。相撲の名手である長田兵衛太郎が近くに呼ばれて審判役を務めた。
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   一番  三浦遠江六郎左衛門尉佐原時連の優勢勝ち  上野十郎結城朝村
   二番  左衛門大須賀四郎朝氏  引き分け  波多野小次郎定経
   三番  左衛門尉渋谷太郎武重の優勢勝ち  検収中務三郎
   四番  橘薩摩余一の勝ち  肥後弥籐次
   五番  廣澤余三の勝ち  加藤三郎景綱
   六番  兵衛尉常陸次郎二階堂行雄の優勢勝ち  土肥四郎実綱
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勝ちと優勢勝ちは御前に召されて御剣と御衣を雲客(公卿)を介して与えられた。負けは否応なしに大盃で酒三杯、北條一門の若者が酌に任じて興を誘い、将軍家も大いに楽しんだ。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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閏5月5日
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吾妻鏡
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三種の神符(護符)について、去年の五月五日壬午の支干に際して将軍家が身に付けたものだが、今月の五日また丙午なので改めて神符を求める必要があるかを京都に問合わせていた。 閏月に際しては恒節(通常の節句の例)に倣う必要はない、とのこと。
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   ※壬午の支干: 前年5月4日に仙洞(院の御所)から送ってきた記録がある。下らぬ迷信満載の鎌倉時代。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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閏5月11日
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吾妻鏡
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御所に勤務している者は各々弓馬の技術を必須とするとの仰せがあった。今日、陸奥掃部助陸奥掃部助北條実時・和泉前司 二階堂行方・少卿武藤景頼らを奉行として御所中に通達した。相模守北條時頼が内々に命じた内容である。御所の馬場殿で連日の遠笠懸と小笠懸が行なわれ、御所(将軍家)も内々に射たとのこと。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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6月3日
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吾妻鏡
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晴。故・城介入道安達義景(法名は願智)の周関(一周忌)の墓塔婆を建てて供養を行なった。導師は左大臣法印厳恵、真言密教に基づいた供養である。
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布施は南庭(銀の板)十枚・馬一疋(銀の鞍を置き厚総の鞦)・銀造りの剣(袋入)・単重一着。更に錦の被物一重・布衣(狩衣)、顕方卿がこれを渡した。布施を運んだ者は25人である。
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また北條時頼邸で頼兼・審範・房源・兼位・頼乗・定圓・経幸・範快による法華八講が始められた。
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   ※墓塔婆: 五輪塔か、或いは宝篋印塔か。始祖の籘九郎盛長を葬ったと伝わる墓所は数ヶ所(サイト内リンク・
別窓)にあるが、子孫の景盛・義景・泰盛の墓所は皆目判らない。僅かに義景と正妻(北條時房の娘)の間に産まれた堀内殿(時宗の正妻となった覚山尼)の墓が鎌倉東慶寺に残っている。
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   ※法華八講: 法華経八巻を八座に分け、通常は朝夕二座を講じて4日間で完了する法会。
   ※厚総の鞦: あつふさのしりがい。画像はgoo国語辞書を参照。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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6月5日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼邸での法華八講が結願した。仏との結縁を願って陸奥守北條重時以下の諸人が集まった。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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6月10日
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吾妻鏡
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同御第(時頼邸を差す?)で御祈祷などがあった。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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6月15日
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吾妻鏡
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晴。今日、前武州禅室(北條泰時)の十三回忌を迎えて墳墓である青船御塔で供養を行なった。導師は信濃 僧正道禅、真言密教による法要である。供僧に加わった中納言律師定圓(葉室光俊朝臣(後鳥羽上皇の忠臣葉室光親の子)・備中已講経幸・蔵人阿闍梨長信らは御追福を願って法華八講を行うため京都から招いた諸僧である。
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相模守北條時頼も聴聞された。仏事が終わって時頼が山内の御亭に戻る際に鎌倉中で騒動があった。行き交う者の多くが武装しているため、時頼はそのまま鎌倉の屋敷に戻った。
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   ※青船御塔: 大船の粟船山常楽寺(サイト内リンク・別窓)を差す。
仏殿の裏手には劣化の激しい伝・北條泰時の墓(クリック→ 拡大表示)が残っている。
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   ※時頼の山内邸: 現在の明月院(鎌倉観光のサイト)の位置にあった。
元は平治の乱(平治元年(1160)12月)で源義朝に従い四条河原で討ち死にした山内首藤俊通の菩提を弔うため、嫡子首藤経俊が建立した名月庵の敷地に時頼が別邸を造営。邸内の持仏堂を最明寺とした。
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右画像は明月院の山門に登る石段の参道。紫陽花で有名だが植え始めたのは戦後で、物資不足で杭が不足したため紫陽花で代用したのが最初、だとか。
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時頼の死後は廃絶していたが、嫡子の時宗が再興して神興寺と改め、後に現在に続く明月院となった。
境内には時頼の墓(宝篋印塔)(クリック→ 拡大表示)がある。
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   ※鎌倉の屋敷: 現在の宝戒寺(サイト内リンク・別窓)は北條一族の菩提を弔うため後醍醐天皇の勅命を受けて
執権邸の跡地に建てられた、と伝わる。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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6月16日
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吾妻鏡
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鎌倉中が落ち着かないまま昨日の夕刻から昨夕より多数の御家人が御所に集まり、相模守北條時頼が出席者の名簿を確認した。
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     遠江前司北條時直   陸奥掃部助北條実時   同、太郎(庶長子実村)
     相模式部大夫北條時弘(時広)   遠江六郎北條教時   陸奥六郎北條義政
     同、北條七郎時基   備前三郎北條(名越)長頼   上総三郎吉良(足利)満氏
     参河前司新田(世良田)頼氏   壱岐前司後藤基政   和泉前司二階堂行方
     同、次郎左衛門尉二階堂行章   周防前司島津忠綱   安芸前司(藤原親実?)
     小山七郎宗光   下野七郎宇都宮経綱   遠江六郎左衛門尉佐原時鍊
     城次郎安達頼景   同、三郎安達景村   阿曽沼小次郎光綱
     信濃四郎二階堂行忠   大曽祢次郎左衛門尉   隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏
     宇都宮五郎左衛門尉   左衛門尉武藤景頼   同、右近将監武藤兼頼
     完戸次郎左衛門尉家氏   和泉五郎左衛門尉天野政泰   右衛門尉三善康長
     右衛門尉三善康義   同、五郎左衛門尉   同、六郎兵衛尉
     肥後次郎左衛門尉藤原為時   渋谷次郎左衛門尉   左衛門尉小野寺四郎通時
     同、八郎左衛門尉   新左衛門尉山内成通   同、太郎左衛門尉
     山内籐内左衛門尉通重   進三郎左衛門尉   常陸太郎左衛門尉
     右衛門尉田中知継   肥後次郎左衛門尉天野景氏   同、四郎兵衛尉大見行定
     左衛門尉紀伊次郎為経   左衛門尉足立太郎直元   同、三郎
     足立左衛門三郎   和泉七郎左衛門尉天野景経   池上籐左衛門尉
     眞壁平六    薩摩七郎伊東祐能   左衛門尉狩野五郎為広
     同、四郎   狩野帯刀左衛門尉   中山左衛門尉
     長内左衛門尉   右衛門尉加地七郎氏綱   大泉九郎長氏
     兵衛尉蒲田三郎義長   同、次郎兵衛尉行俊   同、図書左衛尉信俊
     遠藤右衛尉   宇間右衛門次郎
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今夕月蝕があり、左大臣法印厳恵が祈祷を催した。雲に遮られながらも何回か確認できた。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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6月25日
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吾妻鏡
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晴。了行法印が京都に造って置いた持仏堂と宿舎などを如意寺営作のために寄進した件が今日の評定で確認された。左衛門尉清原満定がこの件を担当する。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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7月1日
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吾妻鏡
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暴風雨あり。 人家が倒壊し穀物も大きな損害を受けた。古老の話では最近の20年にこの様な例はなかった、と。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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7月5日
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吾妻鏡
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来月の鶴岡八幡宮放生会に(将軍家が)御参宮の際に参加する随兵など供奉人の選抜招集を行った。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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7月14日
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吾妻鏡
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放生会での供奉を通告された佐渡前司後藤基綱が障り(一般的には支障、病気を差す例もある)を申し出た。大きな支障ではないと聞いたため重ねて参加を求めたが考えは変わらなかった。
また回廊で待機する人々の中で備後前司町野(三善)康持が支障を障りを申し出た。
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   ※日蓮宗資料: 前年4月に清澄寺(公式サイト)で法華宗を立教開宗した
日蓮が鎌倉に入って辻説法を始めた、と伝わる。
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本格的な布教と他宗に対する攻撃は正嘉元年(1257)10月の大地震に伴う社会不安の以後と思われるが、この年から辻説法が始まったのは史実らしい。
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日蓮が布教の根拠地にした松葉ヶ谷草庵(岩窟説あり)が現在の安国論寺の前身と伝わっている。
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日蓮はこの草案で立正安国論を執筆、文応元年(1260)7月16日に執権北條時頼に提出し、後に弟子の日朗が草庵近くに安国論寺を建てた。寺伝は建長五年(1253)に日蓮が開いた、としているけれど。
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ただし小町通を説法の跡としたのは推定で、明確な根拠はない。創価学会など日蓮宗の信者にとっては紛う事なき聖地だけど、「鰯の頭も信心から」だからね。
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右画像は小町通の宇都宮辻子幕府近くの「日蓮辻説法跡」(画像をクリック→拡大表示)。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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7月17日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼邸で加持祈祷が始められた。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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7月20日
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吾妻鏡
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供奉人の参加について更に催促があった。支障を申し出ている者は下記の通り。
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  布衣(略礼服の狩衣)
    右馬権頭北條政村   尾張前司北條時章   駿河四郎北條兼時   新田太郎   佐渡前司後藤基綱
    出羽前司小山長村   下野七郎宇都宮経綱   左衛門大須賀次郎胤氏尉   左衛門尉土肥三郎維平
    伊豆太郎左衛門尉実保   左衛門尉加地七郎氏綱   左衛門加籐三郎景経
    常陸次郎兵衛尉二階堂行雄(少し気に懸かる事がある、とのこと)
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  随兵
    陸奥六郎北條義政(七郎(異母兄の業時の通称が五郎または七郎)を代理とする、と)
    千葉介頼胤(支障あり、と).

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   ※新田太郎: 寛元二年(1244)6月17日の吾妻鏡には惣領の新田政義が無断出家により所領の一部が没収
されたとの記事がある。更に政義の持つ新田惣領権は新田義重の四男世良田(得川)義季と岩松時兼(新田義兼の孫)が引き継ぐとの処分を受けて隠居している。
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従って新田本宗家は既に一族の惣領権を失っているのだが、新田本宗家の当主(つまり新田太郎)の立場を継承したのは政義の嫡子・政氏と考えて良いと思う。
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ちなみに、文永九年(1272)の二月騒動で北條時宗が異母兄の時輔を殺し、その際に謀反を企んだとして討伐を受けた北條教時の妹を妻にしていた世良田義季の嫡子頼氏が佐渡流罪となり、政氏が新田氏惣領として復権している。
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右画像は新田政義が建立した円福寺の一族廟所。
画像をクリック→ 政義失脚の経緯や遠因などの詳細を記述した金剛院円福寺
(サイト内リンク・別窓)にリンク。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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8月5日
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吾妻鏡
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晴。彼岸の初日。御所の御持仏堂で法華懺法(コトバンクを参照)が始められた。僧の数は12人。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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8月10日
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吾妻鏡
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雨、夜になって晴。丑刻(深夜2時前後)、東方に白い虹(兵乱の兆しとされる)が見えた。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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8月11日
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吾妻鏡
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晴。彼岸懺法の結願日を迎えた。導師は左大臣法印、花山院中将師継・尾張少将清基・中御門少将公仲から各々法華経を唱和した僧への布施が贈られた。渡し役は那波左近大夫政茂・能登左近蔵人仲時ら。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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8月15日
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吾妻鏡
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曇。鶴岡八幡宮で放生会あり。巳刻(10時前後)に小雨。将軍家(宗尊親王)が南面の階の間に出御し、為親朝臣が御祓いに任じた。 陪膳(給仕)は伊豫中将公直朝臣、運んだのは右近大夫那波政茂。
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  御出の行列
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  先陣の随兵
    武田三郎政綱   南部次郎實光   三浦介(佐原)盛時   遠江十郎佐原頼連
    大曽祢次郎左衛門尉盛経    出羽三郎二階堂行資   越後右馬助北條時親
    備後三郎北條長頼   遠江六郎北條教時   陸奥七郎北條業時
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  次いで前駈
    能登左近大夫北條仲時   那波左近大夫政茂
  次いで殿上人
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  次いで(将軍家の)御車
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    小野寺新左衛門尉行道   土肥四郎實綱   山内籐内左衛門三郎通廉
    右衛門次郎三善康有    紀伊四郎右衛門尉   左衛門大曽祢太郎長経
    梶原上野次郎     狩野左衛門四郎景茂   平賀新三郎惟時
    肥後弥籐次
    以上は直垂を着して帯剣、御車の左右に列す。
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  御劔役人 遠江前司北條時直   御調度
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  御後(布衣)
    相模右近大夫将監北條時定   尾張三郎北條時章   武蔵太郎北條朝房(朝直の長子)
    中務権大輔足利家氏   参河前司新田(世良田)頼氏   出羽前司二階堂行義
    壱岐前司後藤基綱   和泉前司二階堂行方   壱岐前司佐々木泰綱
    大隅前司嶋津忠時   伊賀前司時家   周防前司嶋津忠綱
    長門前司笠間時朝   遠江守佐原光盛   上野介梶原景俊
    城九郎安達泰盛   和泉次郎左衛門尉二階堂行章   上野太郎梶原景綱
    左衛門尉大曽祢長泰   佐渡五郎左衛門尉後藤基隆   和泉五郎左衛門尉天野政綱
    筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏   左衛門尉小野寺四郎道時
    肥後次郎左衛門尉狩野為時   城次郎安達頼景   右衛門尉三善康長
    薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   左衛門尉伊賀次郎光房   狩野五郎左衛門尉
    紀伊次郎左衛門尉為経   足立三郎左衛門尉   左衛門尉加地七郎氏綱
    肥後四郎兵衛尉大見行定   弥善太右衛門尉   左衛門加藤三郎景経
    鎌田兵衛三郎義長
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  後陣の随兵
    相模八郎北條時隆   武蔵八郎北條頼直   長井五郎時秀
    上野三郎畠山国氏   河内三郎左衛門尉祐氏   肥後次郎左衛門尉天野景氏
    小田左衛門尉時知   右衛門尉田中知綱   阿波四郎兵衛尉政氏
    阿曽沼小次郎光綱
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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8月16日
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吾妻鏡
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晴と曇、夜になって激しい雨。将軍家(宗尊親王)の出御は昨日に同じ。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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8月17日
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吾妻鏡
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快晴。相模守北條時頼は風邪気味で暫く蟄居していたが今日初めて出仕した。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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9月4日
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吾妻鏡
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降雨と強風、巳刻(10時前後)に静まった。連日の雨で農地が被害を受けたため、雨を止めるための祈祷があり、前浜(由比ヶ浜)で安倍宣賢・為親・廣資・晴憲・晴定・泰房・文元らによる七瀬祓いを行なった。
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各々が海に向かって列座す(東が上座)し、二階堂行義行方が立ち会い、七人の中では文元を上首(筆頭者)と指定したが 、各々が席順の不満を申し立てた。将軍家からは列座せよとの指示があり、文元は西側に移動し一町(100m強)を隔てて着座した。
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   ※七瀬祓い: 雨乞いは七ヶ所で行うのが通例(寛喜二年(1230)11月13日を参照)だが、雨の停止は例外か。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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10月2日
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吾妻鏡
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西国での土地の境界争いについての決裁があった。荘園領主である本所の決済に委ねるべきであり、訴訟があっても審議する必要はない。ただし鎌倉の支配下にある所領(平家没官領など)に関しては訴訟を受け付けるよう、六波羅に指示した。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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10月4日
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吾妻鏡
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快晴、戌刻(20時前後)俄に突然豪雨、雷鳴に霰(あられ)が混じり、暁に再び耳を驚かす雷鳴が数回あった。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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10月6日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(朝4時前後)に相模守北條時頼の室が姫君を平産した。加持は若宮別当隆弁で験者(祈祷に任じる)は清尊僧都である。陸奥守北條重時の室、松下禅尼、相模守時頼らが集まっていた。
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安東左衛門尉光成(得宗被官)が褒賞を差配し、万年九郎兵衛尉以下の祇候人(同じく得宗被官)を介して銀造りの剣・衣装・鞍置きの馬などが贈られた。また陸奥守重時から験者への報奨があり、隅田次郎左衛門尉(重時の被官)その使者に任じた。
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   ※時頼の娘: 康元元年(1256)10月13日に死去した記録がある。時頼の女子は彼女一人だけ。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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10月10日
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吾妻鏡
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鎌倉中の保々の管理人が守るべき規則について、厳しく守るよう指示があった。また政所の下部や侍所の小舎人(共に下級職員)が鎌倉での騎馬を禁じることも併せて命じた。次に押買(市価より安く強引に買い取る)以などの禁止も万年九郎兵衛尉に指示した。壱岐前司後藤基政と小野澤左近大夫入道光蓮が担当奉行に任じる。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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10月12日
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吾妻鏡
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公家(京都朝廷)から申し入れのあった六波羅の検断(刑事事件の処理)についての判断があり、今日御教書(命令書)が発行された。内容は以下の通り。
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御成敗式目の発布以後は命令書を根拠としていない武士の派遣・狼藉は無条件に禁止している。どうしても必要な場合は事情を報告し、改めて許可を得ること。また人倫売買(人身売買)については延応の宣下状を守って全面的に禁止されているのを再確認せよ。
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   ※延応の宣下状: 延応元年(1239)4月14日の吾妻鏡に以下の記載がある。
勾引人(かどわかし犯)および人倫を売買(人身売買)を行う輩を捕らえ禁止させること。
嘉禄元年(1225)10月29日の宣旨を守るよう命じる。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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10月17日
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吾妻鏡
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雑物(消耗品・雑貨)などの高直が続いているとの噂があり、今日それに対応した法令を施行した。
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炭・薪・萱(かや)・藁(わら)・糠(ぬか)が高値に留まり庶民の嘆きに繋がっている。先般決定したにも関わらず守られておらず、価格を元に戻せば継続して営業を認めるが、訂正しない場合は町屋での営業を禁止することになる。この内容を相模国で開いている交易所に周知させるよう通達する。
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     建長六年十月十七日      相模守北條時頼    陸奥守北條重時   筑前前司二階堂行泰殿
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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11月5日
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吾妻鏡
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熊野本宮の造営に関し、雑掌の訴訟参加について決裁があった。また熊野本宮領の美濃国垣富など各地の地頭等、色代を止めて現物(米)を納付せよとの仰せが下された。
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   ※熊野本宮造営: 建長三年(1251)2月27日の百錬抄に「戌刻に熊野本宮が焼失した」との記事がある。
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   ※雑掌: 一般的には国衙の下級官人、この場合は熊野本宮の代理人として荘園に関する訴訟や年貢の徴収に
任じていた下級荘官。
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   ※色代: 租税の納付を米など既定の品ではなく他の産物や銭で納付すること。既定の品が不足した場合の他に
代替品との交換比率の違いによって利益を得るのを目的としたのケースもあり、平安中・末期から室町時代まで行なわれていた。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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11月16日
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吾妻鏡
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晴。足利左馬頭入道正義(足利義氏の法名)の病状が重篤に陥り、相模守北條時頼が見舞いのため足利邸に向かった。
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   ※足利邸: 足利氏の系譜は当代の正義(義氏)-泰氏-頼氏-家時-
貞氏-高氏(尊氏)と続いている。
幕府滅亡直前の足利尊氏の屋敷は亀ヶ谷坂を山ノ内に下った角にある現在の宝亀山長壽寺(サイト内リンク・別窓)の場所にあった。正義の時代からここにあったと考える根拠はゼロだが、まぁ可能性もあるという事で紹介しておく。
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右画像は鎌倉街道から登る長壽寺の山門。亀ヶ谷坂側に面した脇門からも庭園を眺めることができる。
画像をクリック→ 長壽寺の説明とスナップのページへ。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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11月17日
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吾妻鏡
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御所に詰めている近習の者は 勤務する事によって税を免除する旨を、武藤景頼を介して将軍家(宗尊親王)から仰せがあった。相模守北條時頼は御定に依る(仰せの通りに)と言上した。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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11月18日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)に大地震があった。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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11月21日
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吾妻鏡
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晴。入道正四位下行左馬頭源朝臣足利義氏(法名正義)が死去した。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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12月1日
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吾妻鏡
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五組の引付(裁判担当事務)の再編成を行なった。
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  一番 前右馬権頭北條政村   佐渡前司後藤基綱   備後前司町野(三善)康持
伊勢前司二階堂行綱   城九郎安達泰盛   山城前司中原盛時
内記兵庫允祐村   山名進次郎行直   佐籐右京進(新加)
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  二番 武蔵守北條朝直   出羽前司二階堂行義   式部大夫入道伊賀光西
縫殿頭(新加)   左衛門尉清原満定   越前兵庫助政宗
皆吉大炊助文幸    対馬左衛門尉仲康
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  三番 尾張前司北條時章   掃部助北條実時   常陸入道二階堂行久
大曽祢左衛門尉長泰   城次郎安達頼景   民部大夫大江以基
大田太郎兵衛尉三善康宗   長田兵衛太郎広雅
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  四番 和泉前司二階堂行方   武藤左衛門尉武藤景頼   対馬前司三善(矢野)倫長
前太宰少貳狩野為佐   那波左近大夫将監(新加)   深澤山城前司俊平
甲斐前司宗国   山名中務丞俊行   雑賀太郎(新加)
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  五番 筑前前司二階堂行泰   参河前司教隆   民部大夫三善(太田)康連
長井太郎時秀(新加)   明石左近将監兼綱   進士次郎蔵人
三善刑部丞(新加)   越前四郎経朝   対馬左衛門次郎
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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12月12日
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吾妻鏡
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今日、御所に於いて評定があった。その後に相模守北條時頼が将軍家(宗尊親王)に召されて御前に参上し、準備された酒肴を受けた。北條一門の若輩および佐渡前司後藤基綱・和泉前司二階堂行方・前太宰少貳狩野為佐以下の宿老多数が列席し、魚や鳥などを持ち込ませて調理させて振舞った。
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相州時頼は大いに楽しみ、酒宴は歌舞演芸のような有様だった。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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12月17日
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吾妻鏡
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今日、内記兵庫允祐村が染鞦の故実を言上した。別の仰せに依ったもので、祐村の家は代々上総国で染鞦を管理している。

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   ※鞦(しりがい): 馬の尻飾り(染めたもの)。画像はgoo国語辞書を参照。どんな故実があったのかは判らない。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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12月18日
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吾妻鏡
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御所で光源氏物語についての講話があった。解説者は河内守親行
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   ※河内守親行: 村上源氏の源光行の嫡子で、共に源氏物語の著名な研究者。祖父光季は平家に味方して死罪
の筈だったが光行の嘆願で頼朝に助命された(吾妻鏡の寿永三年4月14日と22日を参照)。
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光行は頼朝から才能を愛されて政所別当に就任して鎌倉と京都を往復する生活を送り、幕府と朝廷の双方から重用された。承久の乱(1221)の際には迷った末に後鳥羽上皇に味方した。
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戦後は嫡子親行の嘆願と光行の才能を惜しんだ人々の努力により助命され、光季と光行の親子二代が才能により助命されるという運に恵まれている(吾妻鏡の承久三年8月2日を参照)。
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親行は父と交替する形で鎌倉に下向し、実朝藤原頼経宗尊親王の三代に仕えて和歌奉行を担当、父の跡を継いで源氏物語研究に大きな足跡を残している。
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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12月20日
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吾妻鏡
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今日の評定で御家人の官職について追加の決定があった。本来は特に秀でた才能や功績が推薦の前提だが、将軍近習の場合は臨時の申請も考慮し、人柄の見極めるのが必要である、と。担当奉行は左衛門尉 清原満定
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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12月23日
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吾妻鏡
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評定衆および然るべき大名以外の者は公私の別を問わず外出の際には騎馬の従者を伴ってはならない。そもそも公務の儀式でない場合には従者の数を減らすようにと侍所司等に指示を下した。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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12月25日
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吾妻鏡
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夜、右大将家(頼朝)の法華堂が震動した。以前に三浦大炊助太郎がその現象を夢に見て人々に告げたらしい。
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   ※三浦大炊助: 宝治合戦で三浦宗家が滅びて以後に三浦を名乗っているのは三浦介(佐原)盛時だけ。
盛時の系累に大炊助はいない筈だけど、誰だろ?
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西暦1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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12月26日
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吾妻鏡
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頼朝法華堂の別当僧に命じて(非公式に)不動護摩を催した。費用負担は相模守北條時頼、震動への対処である。
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西暦‬1254年
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89代後深草天皇
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建長六年
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 月 日
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