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建長八年→康元元年(1256年)

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天皇
月日
記事
西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相模守北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。相模守・陸奥守北條重時の人々が布衣(狩衣・略礼服)を着して出仕し通例の通り庭に列座した。
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   前右馬権頭北條政村   武蔵守北條朝直   遠江守北條時直
   尾張前司北條時章   越後守北條実時   相模式部大夫北條時弘(時広)
   中務権大輔足利家氏   相模右近大夫将監北條時定   越後右馬助北條時親
   刑部少輔北條教時   遠江右馬助北條清時   陸奥弥四郎北條時茂
   同、北條六郎義政    同、北條七郎業時   足利次郎顕氏
   同、足利三郎利氏    駿河四郎北條兼時   尾張次郎北條(名越)公時
   武蔵四郎北條時仲   同、三郎   遠江太郎北條清時
   越後又太郎   遠江七郎北條時基   備前三郎北條長頼
   上野前司畠山泰国   長井太郎時秀   秋田城介安達泰盛
   同、安達(大室)三郎   遠江太郎北條清時   同、遠江三郎
   長井三郎蔵人   同判官代長井泰茂   出羽前司二階堂行義
   和泉前司二階堂行方   足利上総三郎満氏   安芸前司親光
   出羽前司小山長村   越中前司宇都宮(横田)頼業   大蔵権少輔結城朝広
   若槻伊豆前司若槻(森) 頼定   左近大夫那波政茂   前太宰少貳狩野為佐
   参河守新田頼氏(新田(世良田)義季の子)・大隅前司嶋津忠時・三浦介三浦(佐原)盛時
   周防守島津忠綱   日向守宇佐美祐泰   摂津大隅守嶋津忠時(重複?)
   上総介大曽根長泰   武蔵左衛門尉   上野右衛門尉
   左衛門尉大曽祢次郎盛経   隠岐三郎右衛門尉二階堂行氏   左衛門尉小野寺四郎通時
   左衛門尉大須賀次郎胤氏   左衛門尉伊賀次郎光房   筑前次郎左衛門尉二階堂行頼
   七郎左衛門尉   肥後次郎左衛門尉天野景氏   縫殿頭
   和泉次郎左衛門尉二階堂行章   左衛門尉遠江三郎泰盛   式部太郎左衛尉伊賀光政
   左衛門尉鎌田三郎義氏   新左衛門尉小野寺行通   兵衛尉鎌田次郎行俊
   肥後弥籐次   伯耆左衛門三郎清経   遠江十郎左衛門尉頼連
   武藤次郎兵衛尉   上総太郎左衛門尉   大曽祢次郎兵衛尉
   左近将監武藤景頼   大曽祢五郎兵衛尉   出羽三郎二階堂行資
   内藤権頭資親   遠江三郎左衛門尉泰盛   伊勢次郎左衛門尉二階堂行経
   土屋弥三郎   鎌田新左衛門尉   土屋新三郎光時
   平賀新三郎惟時
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今日、予定の時刻を報告したにも拘らず将軍家(宗尊親王)が御歓楽により御簾を下げたままで、(献上の)御剣は簾中に押し入れた。
(献上の役)御剣は前右馬権頭北條政村、御弓箭は武蔵守北條朝直、御行騰は出羽前司二階堂行義
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   一の御馬は 陸奥弥四郎時義 と 同六郎兵衛尉義政
   二の御馬は 大曽祢次郎左衛門尉盛経 と 同、五郎兵衛尉
   三の御馬は 三浦三郎左衛門尉泰盛 と 同、十郎左衛門尉頼連
   四の御馬は 薩摩七郎左衛門尉祐能 と 同、八郎祐氏
   五の御馬は 足利次郎兼氏 と 工藤次郎左衛門尉高光
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   ※御歓楽: 吾妻鏡の種本によって「御歓楽のため」の文言は使われていない。
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   ※年令: 五代執権北條時頼は28歳・ 連署の北條重時は58歳・ 六代執権になる北條長時は26歳・
七代執権になる北條政村は52歳・ 八代執権になる北條時宗は4歳7ヶ月、 兄の時輔は7歳6ヶ月・
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安達泰盛は25歳・ 足利氏四代当主足利泰氏は40歳・ 宇都宮氏六代当主宇都宮泰綱は54歳・
古参の評定衆二階堂行義は53歳・ 後に権力を握る御内人平頼綱は15歳・
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六代将軍の宗尊親王は13歳・第89代後深草天皇は12歳・先帝の後嵯峨上皇は34歳
                       (表示は全て満年齢)
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。相模守・陸奥守北條重時の沙汰による椀飯があり、中納言土御門顕方卿(直衣)が御簾を上げた。
武蔵守北條朝直が御剣を、刑部少輔北條教時が弓箭を、秋田城介安達泰盛が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 尾張次郎北條(名越)公時 と 同、三郎頼章
   二の御馬は 肥後次郎左衛門尉為時 と 伊東三郎
   三の御馬は 三浦遠江三郎左衛門尉泰盛(?) と 同、五郎左衛門尉
   四の御馬は 上野太郎景綱(梶原景時景茂-景俊-景綱と続く) と 左衛門太郎梶原景基(景綱の従兄弟)
   五の御馬は 陸奥弥四郎北條時茂 と 同七郎業時(重時の四男)
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月3日
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吾妻鏡
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晴。足利 頼氏(利氏)の沙汰による椀飯があり、中納言土御門顕方卿(直衣)が御簾を上げた。
越後守北條実時が御剣を、下野前司宇都宮泰綱が弓箭を、和泉前司二階堂行方が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 越後又太郎 と 大平左衛門太郎
   二の御馬は 遠江三郎左衛門尉泰盛 と 同、十郎左衛門尉頼連
   三の御馬は 上野太郎梶原景綱 と 同、左衛門梶原三郎景氏
   四の御馬は 兵衛尉尾藤次郎景氏 と 備前左衛門三郎
   五の御馬は 足利次郎兼氏(足利泰氏の次男渋川義顕の初名) と 新田次郎(政氏?)
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月4日
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吾妻鏡
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早朝に相模守北條時頼が御的始めの射手22人の名簿を披露したが賛否があって纏まらなかった。
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(参加を)了解した人々。
早河次郎太郎祐泰  工藤八郎四郎朝高  布施弥三郎  新兵衛尉岡本重方  平嶋弥五郎助経
横溝七郎五郎忠光  多賀谷弥五郎重茂  小嶋又次郎  左近将監深澤時親  左衛門尉大瀬三郎惟忠
新左衛門平三郎頼経  海野助氏矢四郎  左衛門渋谷三郎太郎重村  南條兵衛六郎
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(参加に)支障を表明した人々。
上野十郎結城朝村  遠江十郎左衛門尉(北條朝時の庶子?)  出羽七郎二階堂行頼  小笠原彦次郎政氏
南條八郎兵衛尉  兵衛尉河野五郎行眞  南條左衛門次郎  諏方四郎兵衛尉
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支障を申し出た者のうち結城朝村と河野行眞は欠席を許されず、殿中で領状(了解の書類)を提出させられた。
他より優れた弓の名手なのが理由である。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月5日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)が相模守北條時頼邸に御行始め(外出初め)を行うため今日出仕している85人の名簿を御確認され、38人に印を付けて供奉人とされた。従来の三年間は相模守北條時頼が選んでいたが、今回は自らの選出を仰せられた。午刻(正午前後)の出発である。
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  供奉人(布衣(略礼服・狩衣)・下括り)
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前右馬権頭北條政村  武蔵守北條朝直  尾張前司北條時章  遠江前司北條時直  越後守北條実時
相模右近大夫将監北條時定  刑部少輔北條教時  尾張次郎北條(名越)公時  陸奥弥四郎北條時茂
同、北條義政 同、七郎業時  武蔵五郎時忠  遠江太郎清時  中務権大輔足利家氏  足利次郎兼氏
同、三郎利氏  長井太郎時秀  出羽前司二階堂行義  前大蔵権少輔結城朝広  秋田城介安達泰盛
下野前司宇都宮泰綱  和泉前司二階堂行方  参河前司新田(世良田)頼氏  大隅前司嶋津忠時
縫殿頭中原師連  遠江守光盛  上総介長泰  伊賀式部太郎左衛門尉光政  左衛門尉大曽祢四郎盛経
小野寺四郎左衛門尉通時  武藤左衛門尉景頼  同、次郎左衛門尉頼泰  出羽三郎二階堂行資
和泉次郎左衛門尉二階堂行章  隠岐三郎左衛門尉行氏  左衛門尉薩摩七郎伊東祐能
左衛門尉鎌田三郎義氏  左衛門尉筑前次郎二階堂行頼
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  御引出物献上は通例の通り。御剣は中務権大輔足利家氏、砂金は刑部少輔北條教時と秋田城介安達泰盛
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     一の御馬は 尾張次郎北條(名越)公時 と 諏方三郎左衛門の尉盛経
     二の御馬は 遠江太郎北條清時 と 同、尾張次郎北條時通
     三の御馬は 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 と 同、筑前三郎二階堂行實
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月7日
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吾妻鏡
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来る11日に行なう年始の鶴岡八幡宮御神拝の供奉人を招集。各々は布衣(狩衣・略礼服)を着して出仕せよ、と
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月9日
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吾妻鏡
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由比ヶ浜に於いて御的初めの射手を選抜した。左右が各々九人、二射を五度づつ繰り返した。
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   一番  上野十郎結城朝村  vs  早河次郎太郎祐泰
   二番  岡本新兵衛尉重方  vs  平嶋弥五郎助経
   三番  河野五郎兵衛尉行真  vs  工藤八郎四郎朝高
   四番  布施三郎行忠  vs  横溝七郎五郎忠光
   五番  多賀谷弥五郎重茂  vs  藤澤左近将監時親
   六番  大瀬三郎左衛門尉惟忠  vs  新左衛門平三郎頼綱
   七番  小嶋弥次郎家範  vs  南條兵衛六郎
   八番  渋谷左衛門太郎朝重  vs  海野矢四郎助氏
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   ※各々九人: 8人づつ、計16人だけど?
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月10日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼邸で評定始めあり。前右典厩北條政村以下が布衣を着して出仕し、盃酌は通例の通り。
御参宮始めを明日に控え改めて供奉人を招集、これ直垂を着し帯剣して参加せよ、と。ほとんどが承知を述べたが、伊勢次郎左衛門尉二階堂行経は体調不良、遠江三郎左衛門尉三浦泰盛は遂に確答しなかった。
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御的始めを来る13日に控え、昨日の射手18人の中から選抜した10人を5組に割り振って通告し承諾を得た。卯刻(5時)までに東御門の陣屋に参集せよとの指示である。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月11日
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吾妻鏡
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晴。辰刻(朝8時前後)に太白(金星)が辰方(東南東)に現れ、終日天空を移動していた。未刻(14時前後)に将軍家(宗尊親王)が鶴岡八幡宮に御参詣。
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  先ず御車
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     兵衛尉大曽祢五郎   左衛門尉上総太郎長経   左衛門大曽祢太郎長頼
     土肥四郎實綱   隠岐次郎左衛門尉清時   大見肥後四郎兵衛尉行定
     山内籐内左衛門三郎通廉   左衛門鎌田三郎義氏尉   平賀新三郎惟時
     土屋弥三郎   鎌田次郎兵衛尉行俊  肥後弥籐次
        以上は直垂を着して帯剣劔、御車の左右に列す。
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  御劔役人 前右馬権頭北條政村
  御調度役 隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏
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  御後
     刑部少輔北條教時   相模式部大夫北條時弘(時広)   越後右馬助北條時親
     陸奥弥四郎北條時茂    同、七郎北條業時   尾張次郎北條(名越)公時
     武蔵四郎北條時仲   同、五郎北條時忠   遠江太郎北條清時
     駿河四郎北條兼時   備前三郎北條長頼   足利三郎頼氏(利氏)
     中務大輔足利家氏   出羽前司小山長村   足利上総三郎満氏
     出羽前司二階堂行義   三河前司新田(世良田)頼氏   和泉前司二階堂行方
     秋田城介安達泰盛   越中前司宇都宮(横田)頼業   長井太郎時秀
     周防前司島津忠綱   三浦遠江守光盛   大曽祢次郎左衛門尉盛経
                          (御笠手長・笠を差す役)
   上総介大曽祢長泰   肥後次郎左衛門尉為時   式部太郎左衛門尉光政
   和泉次郎左衛門尉二階堂行章   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月12日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)に相模守北條時頼邸の贄殿(厨房)で、下男が一人寝たまま死んでいた。これは30ヶ日の穢にあたる。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月13日
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吾妻鏡
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晴。御的始めあり。射手は10人、二射づつ五度的を射た。
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   一番  早河次郎太郎祐泰   平嶋弥五郎助経
   二番  横溝七郎五郎忠光   多賀谷弥五郎景茂
   三番  河野五郎兵衛尉行眞   工藤八郎四郎朝高
   四番  藤澤左近将監時親   渋谷左衛門太郎朝重
   五番  海野矢四郎資氏   岡本新兵衛尉重方
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月14日
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吾妻鏡
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晴。陸奥守北條重時が厨房に入った。前右典厩北條政村・武蔵守北條朝直・尾張前司北條時章・掃部助北條実時・出羽前司二階堂行義以下の評定衆も同じく加わった。
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陸奥守重時からは「相模守北條時頼は30ヶ日の穢によって加わらないが、昨朝には子細を知らない者が屋敷に入ったため鎌倉中が蝕穢となった。従って出仕しても難事もあり得ない事になる。」との言葉があった。
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内蔵権頭親家を介して参河守清原教隆を呼び質問したところ、「蝕穢は吉事の場合には影響がなく、重軽服(服喪)の場合は吉事は憚られる。御出仕は何の問題はない。」と答えた。これにより、二階堂行義を派遣して相模守時頼に出仕を促した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月15日
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吾妻鏡
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晴。重時の言葉を受け、今日相模守北條時頼が出仕した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月16日
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吾妻鏡
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越前兵庫助政宗が死没した(54歳)。二番引付(裁判担当)の右筆(書記)である。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月17日
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吾妻鏡
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日向守宇佐美祐泰から愁訴があった。内容は以下の通り。
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今年最初の将軍家(宗尊親王)出御の供奉人名簿に載ったが、既に二度の出御があったにも拘らず五位・六位の中の招集から漏れている。
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何かの理由があるのかと慌てて相模守時頼に聞いても「何事でもない、気にする必要なし」との返事で、更に女官を介して尋ねても「単純な漏れで、他にも同様の例がある」との返事だった。
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   ※宇佐美祐泰: 工藤祐経の弟(たぶん異母弟だと思うが確証なし)で伊東
(久須美・葛見荘)北部を本領とした宇佐美祐茂-祐秀-祐泰と続く。全国の宇佐美氏発祥の地だ。
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右画像は初代祐茂が本拠を置いた宇佐美城址に残る墓所(画像をクリック→詳細ページへ)
実際には津波などで周辺に散乱した墓石を集めた場所と推定されている。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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2月19日
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吾妻鏡
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晴、丑刻(14時前後)に雨。今日、将軍家(宗尊親王)が二所詣に備えての精進潔斎を始めた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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2月24日
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吾妻鏡
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晴。右近大夫将監北條時定朝臣が二所奉幣の御使として出発した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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2月29日
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吾妻鏡
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昨日から二日間続いた大雨により午刻(正午前後)に洪水、更に落雷あり。
二所奉幣の御使として派遣された北條時定朝臣が鎌倉に帰着した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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3月9日
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吾妻鏡
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晴、夜になって雨。鶴岡八幡宮で仁王会を行なった。
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   ※仁王会: 仏教における国王のあり方について述べた経典である仁王般若経を読誦する法会。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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3月11日
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吾妻鏡
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晴、未刻(18時前後)に雷鳴と小雨。酉刻(18時前後)に陸奥守北條重時が(連署を)辞職し落餝(剃髪・出家)。法名の観覺を名乗った(後に極楽寺の原型となる仏堂を創建して極楽寺観覚を称す)。
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   ※重時辞職: 後任の連署には北條政村が就任した。重時は熱心な念仏信者であり、得宗専制よりも 北條泰時
が確立した「執権中心の合議制」を重視していた。個人的には、もしも重時が執権だったら...との思いがある。独裁による弊害が避けられたのではないか、と。歴史に「もし」は無意味だけどね。
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また、この年11月には赤痢に罹病した執権北條時頼が執権を含む全ての公職を北條長時(時頼の妻の兄、つまり重時の次男)に譲って出家する。ただし幕政の最高権限は手放さず、時頼専制による一種の院政を続ける事になる。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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3月16日
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吾妻鏡
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晴。伊賀前司時家の大倉の家から東三町(300m強)の人家が全焼。また相模守北條時頼が体調を崩している。
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   ※伊賀前司時家: 八田知家の七男または八男で高野氏の祖、本領は現在の栃木県壬生町 (地図)。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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3月27日
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吾妻鏡
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晴。左近大夫将監北條長時朝臣が京都から下着。去る20日に六波羅の勤務を辞して出京した。
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   ※北條長時: 北條重時の次男で嫡子。宝治合戦(1247)直後に六波羅北方だった父が新任の執権北條時頼
補佐するため鎌倉に戻り、長時が後任を勤めていた。今回の鎌倉帰還は父の後継として評定衆に任じるためで、後任の六波羅北方には弟の北條時茂が任じた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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3月30日
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吾妻鏡
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晴。今日、出家した陸奥守北條重時と交替する形で、前右馬権頭北條政村が連署に任じた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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4月5日
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北條九代記
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前右馬権頭北條政村が陸奥守に任じた。    (北條九代記の詳細は外部で)
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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4月10日
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吾妻鏡
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晴。武州前刺史禅室(北條泰時を差す)の後室である禅尼(矢部禅尼)が不食所労(食物を受け付けない病気)により死去した(70歳)。これにより相模守北條時頼は50日の服喪となる。
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   ※百錬抄: 大宮院(第88代後嵯峨上皇の中宮・皇太后)が皇子(貞良親王・3歳で死去)を御産、父の太閤已下
西園寺実氏)が訪れた。    (青字は全てWiki、百錬抄の詳細もWikiで。)
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   ※系譜を記載: 泰時と三浦義村の娘(矢部禅尼)の間に産まれた長男が時氏、時氏と安達景盛の娘(松下禅尼
の間に産まれた次男が五代執権時頼。
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実兄の四代執権経時は22歳で病没し、当時6才だった経時の長男(後の隆政)を執権として時頼が補佐する選択肢もあったらしいが、前将軍藤原頼経の動向が危ぶまれたため、北條一門と重臣の合議により病床の経時が時頼に禅譲した、とされる(熾烈な権力争いの結果だろう)。経時の長男は時頼の意向で隆弁の弟子として出家、23歳で死没している。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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4月13日
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吾妻鏡
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晴、未刻(14時前後)に雨。陸奥弥四郎北條時茂(16歳)が六波羅着任のため上洛の途に就いた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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4月14日
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吾妻鏡
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晴。新・陸奥守となった北條政村が執権に着任してから最初の政所始めの儀が行われた。
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   ※陸奥守: 連署=陸奥守、執権=相模守が定着か。時頼の11月執権辞任計画が動き始めたか。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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4月18日
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吾妻鏡
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駿河蔵人次郎が小侍所(将軍側近の部署)の番帳(勤務名簿)に加わった。組織の二番である。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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4月27日
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吾妻鏡
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晴。今日、陸奥弥四郎北條時茂が入洛、六波羅の北亭に入った。
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   ※六波羅の北亭: 南方より上位の北方の公邸に入ったという事か。ちなみに、北方は重時が1230~1247年・
長時が1247~1256年・時茂が1256~1270年。北方に空白期間はないが、南方は時盛が1224~1242年・次の時輔が1264~1272年で中間に空白がある。
1242~1264年の22年間は北方に一本化していたらしい。
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   ※現状の職責: 3月に出家した重時の後任連署として北條政村が就任(北條時頼は現時点で執権に留任)。
六波羅北方の長時が鎌倉に戻って評定衆に着任、後任の北方は弟の時茂が就任した。
11月に時頼が執権を辞任。北條時宗への中継ぎとして長時が執権に就任し時宗は連署に。
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文永元年(1264)7月に長時が病気で辞任。政村が執権に就き、時宗が連署となる。
文永五年(1268)3月、元寇に対処し権力の一元化のため執権を時宗に譲り政村は連署に。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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4月29日
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吾妻鏡
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晴。三番引付頭人などについて、今日詳細を定めた。武蔵守朝北條朝直を一番引付頭、前尾張守北條時章を二番引付頭、越後守北條実時を三番引付頭とする。
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   ※引付頭人: 引付衆は評定衆を補佐して訴訟と庶務を扱った部署、頭人は該当する番の首席。
最新の記録・建長六年(1254)12月1日では、一番頭人が北條政村・二番が北條朝直・三番が北條時章・四番が二階堂行方・五番が二階堂行泰になっており、今回の改編は政村の連署就任に伴う人事移動と判断できる。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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5月1日
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吾妻鏡
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引付人事改編後の引付業務が開始された。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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5月5日
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吾妻鏡
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御所に於いて内輪の和歌御会あり。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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6月2日
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吾妻鏡
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奥大道で夜盗や押し込み強盗が頻発して旅人を苦しめている。再三の命令により警護に務めるよう(奥大道の)経路に沿った地域の地頭(以下に記載)に命令した。
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出羽前司小山長村  下野前司佐々木泰綱  阿波前司結城朝村
周防五郎兵衛尉(島津忠景)  氏家余三経朝の子孫
壱岐六郎左衛門尉朝清  同、七郎左衛門尉時重
出羽四郎左衛門尉中条光家  陸奥留守兵衛尉井沢恒家  宮城右衛門尉
和賀三郎兵衛尉  同、五郎右衛門尉  葦野の地頭  福原小太郎
渋江太郎兵衛尉  伊古宇又太郎  武蔵平間郷の地頭  清久右衛門次郎  鳩井兵衛尉の子孫  那須肥前前司資村  兵衛尉宇都宮五郎泰親
岩手左衛門太郎  岩手次郎  矢古宇右衛門次郎  已上二十四人
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 御教書に云く、
奥大道の夜討ち強盗について近年に勃発しているとの情報がある。これは偏に地頭などの管理が行き届いていないのが原因であり、早急に宿直人を配置して警護し、怪しい者があれば自領か他領を問わず住民に起請文(誓約書)を提出させて処理せよ。命令に従わない過怠などがあれば然るべき処分を下す。
将軍家の仰せに従って以上を通達する。
     建長八年六月二日       相模守北條時頼(判 ) 陸奥守北條政村(判 )    某(該当者) 殿
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   ※奥大道: (おくのたいどう・旧陸羽街道)は古代からの幹線道路。
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白河関で下野国を離れ、陸奥国外浜(青森県外ヶ浜町)まで、石那坂合戦場厚樫(阿津賀志山)合戦場多賀城国府平泉中尊寺~碇ヶ関を経由して陸奥国を縦断していた。
関山中尊寺の参道・月見坂は奥大道の一部だったと伝わる。
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右上画像は奥大道の概略地図(クリック→拡大表示)
右下画像は奥大道が通っていた中尊寺の参道入口。
      (クリック→中尊寺の詳細にリンク)
     青文字はいずれも、サイト内リンク・別窓表示
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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6月5日
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吾妻鏡
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御教書(将軍名で発行した命令書)に違背した罪科は所領の没収であり、該当する場合は姓名を記録して提出するよう五方の引付に通告した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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6月7日
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吾妻鏡
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雨。今年の大雨と洪水は例年を越えて頻発し、長く続いている寒気もまた尋常ではない。異常気候が長すぎるため鶴岡別当僧正隆弁と左大臣法印厳恵らに命じて天下太平の祈祷を行わせた。去る寛喜二年(1230)には冬の様な冷夏に襲われ、六・七両月の霜や雪による冷害に加えて八月には大風があり、翌年には飢饉によって多くの人命が失われた。今年の異常気象は慎みの不足が原因だろうか。
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   ※寛喜の大飢饉: 執権北條泰時の時代、寛喜二年から三年にかけて続いた天候不順は全国的な不作を招き、
鎌倉時代を通じて最大の飢饉となった。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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6月8日
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吾妻鏡
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尾張三郎平頼章が死没(北條時章の二男)。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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6月14日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に長さ五尺余(150cm以上)の光る物体が現れた。最初は白鷺の姿に似て赤い火の様に変わり、飛び去った痕跡は白い布を引く如くだった。白昼に光り物が見えるのは異様で、中国の書籍には載っているが我が国での例はない。鎌倉だけでなく近国でも確認されている。
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   ※百錬抄: 今夕、天皇が閑院に還御。この日、石清水八幡宮の宝殿が鳴動。午刻(正午前後)に楼門上より白旗
に似た物が飛び去ったとの報告があった。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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6月21日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼の姫君が魚味を嘗め御う。
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   ※時頼の娘: 誕生は建長六年(1254)10月6日、生母は正室の北條重時の娘。康元元年(1256)10月13日
に死去した記録がある。時頼の女子は彼女一人だけ。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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6月26日
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吾妻鏡
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昨夜から雷雨。今日、相模守北條時頼の服喪(4月10日に祖母の矢部禅尼が没している)が終わって出仕した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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6月27日
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吾妻鏡
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雨。奥州禅門(北條政村)の息女(宇都宮七郎経綱(宇都宮泰綱の次男)の妻)が死去。先般流産した後に赤痢を患っていた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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6月29日
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吾妻鏡
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放生会に際して鶴岡八幡宮への将軍家(宗尊親王)御参宮に供奉する者について、越後守北條実時が通例に従って名簿を作成し、将軍家の確認を願った。
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  御点の散状・次第不同(参加者リスト・順不同)
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陸奥守北條政村  同三郎時村(政村の嫡子)  武蔵守武蔵守北條朝直
同太郎朝房(朝直の長子、早世)  同四郎  同五郎  同八郎
北條六郎時定(時頼の同母弟)  遠江前司北條時直  同太郎清時  同次郎時通
相模右近大夫将監北條時定  陸奥左近大夫将監北條長時  同北條六郎義政  同七郎業時
越後右馬助北條時親  刑部少輔北條教時  遠江北條教七郎時基  越後守北條実時
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相模式部大夫北條時弘(時広)  同北條八郎時隆  駿河四郎北條兼時
備前三郎北條長頼  上野前司畠山泰国  同足利三郎 頼氏(利氏)  中務権大輔足利家氏
足利次郎兼氏  同足利 三郎頼氏(利氏)  上総三郎足利満氏
佐渡前司後藤基綱  同左衛門尉後藤五郎基隆  出羽前司二階堂行義  同次郎左衛門尉二階堂行有
同三郎左衛門尉二階堂行資  同七郎二階堂行頼  城次郎安達頼景  同三郎景村  同四郎時盛
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武藤少卿景頼  同次郎兵衛尉頼泰  秋田城介安達泰盛  千葉介頼胤
遠江守佐原 (蘆名)光盛  同三郎左衛門尉泰盛  三浦介三浦(佐原)盛時  同五郎左衛門尉
長井太郎時秀  前太宰少貳狩野為佐  同次郎左衛門尉為時  同三郎左衛門尉為成
下野前司宇都宮泰綱  同四郎景綱  同七郎経綱  和泉前司二階堂行方  同次郎左衛門尉二階堂行章  出羽前司小山長村  伊豆守若槻(森)頼定  日向守宇都宮祐泰  河内守祐村  同三郎左衛門尉祐氏
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筑前前司二階堂行泰  同次郎左衛門尉行頼  上総介大曽祢長泰   同太郎左衛門尉大曾祢長経
大隅前司嶋津忠時  同修理亮嶋津久時  周防守  同三郎左衛門尉
上野介梶原景俊  同太郎左衛門尉梶原景綱  越中前司宇都宮(横田)頼業  同右衛門尉
参河前司新田(世良田)頼氏  壱岐前司佐々木泰綱  那波左近大夫政茂  同、太郎  伊賀前司
壱岐前司後藤基政  同新左衛門尉  安芸前司親光  同右近大夫  長門守笠間時朝  伊勢前司
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対馬前司佐々木氏信  摂津大隅前司親員  縫殿頭中原師連  能登右近大夫  同右近蔵人
大曽祢次郎左衛門尉盛経  同太郎長頼  周防修理亮  左衛門尉小野寺四郎通時  同新左衛門尉行通
伊賀次郎左衛門尉   左衛門尉足立三郎元氏  同三郎  大見肥後次郎左衛門尉  同四郎兵衛尉
左衛門尉薩摩七郎祐能  和泉五郎左衛門尉天野政泰  同六郎左衛門尉景村  肥後次郎左衛門尉
左衛門尉狩野五郎為広  同太郎  左衛門尉足立太郎直元  信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
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右近将監武藤景頼  左衛門尉土肥三郎惟平  同、次郎兵衛尉朝平  同四郎実綱
阿曽沼小次郎光綱  伊豆太郎左衛門尉実保  左衛門尉茂木太郎知定  常陸太郎左衛門尉
左衛門尉宇都宮五郎泰親  同次郎左衛門尉  同八郎左衛門尉  同修理亮
常陸次郎左衛門尉佐竹行清  新左衛門尉山内成重  山内籐内左衛門尉通重
左衛門尉大須賀次郎胤氏  同新左衛門尉朝氏  紀伊次郎左衛門尉為清  河越次郎経重
小山七郎宗光  進三郎左衛門尉宗長  伯耆三郎左衛門尉時清
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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7月5日
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吾妻鏡
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尾張右衛門太郎と子息の五郎は小侍所(将軍の供奉・警護の任務)に加わる旨を武藤景頼が小侍所に通知した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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7月6日
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吾妻鏡
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朝は雨、辰刻(8時前後)に晴れ、夕刻に再び雨。今日、前武蔵禅室(北條泰時)の後室(4月に没した矢部禅尼)の菩提を弔うため一切経による供養を行なった。導師は若宮別当僧正隆弁
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また、六波羅大夫将監北條長時朝臣の室(北條時房の嫡子時盛の娘)が重病である、と。
放生会に供奉する随兵について、今日散状を廻した(名簿を回覧した)。これは候補者全員を書き出した下書きから将軍家の御点(確認)を得たもので、下書きに載りながら選抜から漏れたのは以下の人々である。
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武蔵太郎北條朝房  同五郎時忠  同八郎頼直  遠江次郎佐原 (蘆名)光盛  出羽三郎左衛門尉二階堂行資  大隅修理亮嶋津久時  周防三郎左衛門尉嶋津忠行  越中右衛門尉  阿曽沼小太郎  武石四郎
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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7月12日
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吾妻鏡
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晴。去る6月14日の現れた光り物は男山(石清水八幡宮・wiki)の方向に見えたと別当から報告があった。
仙洞(院の御所)からの質問に司天(天文担当)は確答できず、石清水八幡宮が光り物の絵を描いて提出した。
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また大宮院の新造御所(五條大宮)が完成して今月三日に御移徙。両院(後嵯峨上皇と大宮院)は同じ牛車、一員(後嵯峨上皇の第七皇子、後の第90代亀山天皇・満7歳)も御幸された。
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   ※大宮院: 88代後嵯峨天皇の中宮で後深草天皇と亀山天皇を産んだ西園寺姞子(wiki)。
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   ※亀山天皇: 89代後深草天皇の同母弟。両親に寵愛され、後嵯峨上皇
の意向を受けて正元元年(1259)の11月に後深草天皇(17歳)が退位、亀山天皇(11歳)が帝位を継いだ。
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更に文永十一年(1274)1月には兄の後深草を差し置いて亀山天皇が治天の君(上皇)となり院政を開始する。
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結果として後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統が互いに鎌倉幕府との関係を探りつつ勢力を争い結果となる。
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更に鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の独断専制が加わって南北朝時代の争乱を招いてしまう(天皇家の系図を参照)。
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右画像は京都御苑の鳥瞰図(クリック→拡大表示)。東側には築地塀に囲まれていた仙洞御所、その北西の一角に大宮御所があった。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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7月17日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)が山内の最明寺に参詣、この精舎が建立されて最初の御礼仏である。 相模守北條時頼は兼ねて出家の希望を懐いていたのは病気の影響もあるのだろうか、将軍家を寺に迎える準備を整えていた。
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  出御の行列
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  まず騎馬の随兵が十二人
足利太郎兼氏(足利泰氏の次男で渋川氏の祖)   遠江三郎左衛門尉泰盛   武田八郎信経
小笠原三郎時直   城次郎安達頼景   下野四郎景綱泰綱の嫡子で宇都宮氏七代当主
河越次郎経重   大須賀次郎左衛門尉胤氏   出羽前司小山長村
佐々木対馬守佐々木氏信   北條六郎時定   武蔵四郎時仲
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  次いで御車(網代庇)
大隅修理亮島津久時   出羽三郎左衛門尉二階堂行資   相馬次郎兵衛尉胤継
武石四郎胤氏   新左衛門尉小野寺行通   隠岐次郎左衛門尉時清
山内籐内左衛門尉通重   平賀新三郎惟時   三浦介六郎頼盛
城四郎時盛   周防五郎左衛門尉嶋津忠景   出羽七郎二階堂行頼
肥後次郎左衛門尉不ど藁為時   南部又次郎時實   大須賀左衛門四郎朝氏
近江孫四郎左衛門尉佐々木泰信   氏家余三経朝   土肥四郎實綱
波多野小次郎宣経   鎌田次郎兵衛尉行俊
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  次いで御剣役人 遠江太郎清時
  次いで御調度役 小野寺四郎左衛門尉通時
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  次いで御後供奉二十二人(各々布衣・下括り。騎馬。武官は皆弓箭を帯す)
越後守北條実時   刑部少輔北條教時   足利三郎頼氏(利氏)
備前三郎北條長頼   長井太郎時秀   壱岐前司佐々木泰綱
参河前司新田(世良田)頼氏   和泉前司二階堂行方   内蔵権頭親家
伊勢前司二階堂行綱   上総介大曽祢長泰   少卿武藤景頼
筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   河内三郎左衛門尉祐氏   式部太郎左衛門尉伊賀光政
和泉三郎左衛門尉二階堂行章   出羽次郎左衛門尉二階堂行有   壱岐新左衛門尉後藤基頼
上野五郎兵衛尉結城重光   左衛門尉三善康長   小田左衛門尉時知
薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
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  次いで小侍所司   平岡左衛門の尉實俊
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陸奥守北條政村と相模守北條時頼が堂の前に待機し、武蔵守北條朝直・遠江前司北條時直・出羽前司小山長村・佐渡前司後藤基綱・三浦介(佐原)盛時らも同様に控えた。大夫尉泰清と佐原時連は予め門外左右の敷皮に待機した。 将軍家は本尊に拝礼した後に相州時頼邸に入御し、廷尉行忠(布衣・冠)この砌(軒下)に待機した。遊興や和歌の御会があり、今夜は逗留となる。
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   ※最明寺: 堂を建てた最初は永暦元年(1160)、山内首藤経俊が平治の乱
で討ち死にした父俊通の菩提を弔うため堂宇を建てて名月庵と名付けたのが最初とされる。
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その後に時頼が名月庵の土地を別邸とし、敷地の一部に持仏堂を建てて最明寺とした。時頼の没後は廃絶したが北條時宗の時代に 蘭渓道隆を開山和尚に迎え、禅興寺として再興した。
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室町時代の1390年頃(足利義満の時代、一休さんが生まれる20年ほど前)になって山内上杉家(足利尊氏の母方の叔父・上杉憲房の子孫)の上杉憲方が禅興寺の塔頭として明月院を創建した。
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禅興寺は明治初期の神仏判然令の時代に衰退し廃寺となったが、明月院のみが残って現在に至っている。
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右画像は明月院山門の横にある時頼の廟所(クリック→拡大表示)
廃絶と再建を再三繰り返しているから、せいぜい明治期の建物だろう。ただし、裏手には時頼の墓と伝わる宝篋印塔が残されており、この墓石(画像)は本物に見えるが...。
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最明寺は伊豆長岡の源氏山麓にもあり、北條氏傍流が時頼の分骨を許されて創建したと伝わっている。
        (右下画像をクリック→伊豆長岡最明寺の明細へ・サイト内リンク・別窓)。
時頼所縁の最明寺は東名高速の大井松田IC近くにもある。こちらの紹介は、いずれ改めて。
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   ※俊通の討死: 「平治物語の中巻 第四章 義朝敗北のこと」の記載。
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平家軍に押された義朝主従は三条河原に逃れた。鎌田兵衛 (鎌田政家)が「頭殿(義朝)が落ちられる、防ぎ矢をせよ」と命じ、平賀義信が引き返して散々に戦った。
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義朝は「惜しい武士の義信を討たすな」と号令し、佐々木秀義・須藤刑部(俊通)・井沢信景らが助勢して防いだ。
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佐々木秀義は二騎を斬り落とした後に負傷して近江を目指して落ち延び、須藤刑部は敵の三騎を倒した後に討ち取られてしまった(経俊の兄・俊綱も六条河原の合戦で重傷を負い、悪源太義平の指示で郎党の手により死没)。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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7月18日
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吾妻鏡
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晴、夜に入って雨。将軍家(宗尊親王)山内(時頼邸)から還御、導師は左大臣法印厳恵。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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7月20日
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吾妻鏡
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将軍家が体調不良。
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   ※北條九代記: 北條長時が武蔵守に任じた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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7月26日
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吾妻鏡
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晴。再三の変異に対応して(将軍家を願主として)御祈祷を行なうよう、和泉前司二階堂行方と左衛門尉清原清定の奉行として諸道(仏道と陰陽道)に指示を下した。
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これにより陰陽師が群参し、前陰陽権大允安倍晴茂朝臣が雷公祭(雷を祀る)を行なうべきだろうと述べた。
天文博士の為親朝臣は「雷公祭は公家(天皇家)以外が行なった例はない。去る寛喜三年(1231)に前武州禅室(北條泰時)の命令を受けた(私の)亡父・泰貞が風伯祭を行って翌日には風が止んだ、その例に倣って風伯祭を行なうべきだろう。」 と述べた。
晴茂朝臣は重ねて「それは諸国の受領(国司)の例に過ぎない」と語り、陰陽権助だった安倍親職(鎌倉陰陽道の権威、仁治元年(1240)閏10月死没)自筆の書状を行方に見せたが決断に至らず、右京権大夫茂範朝臣と参河守教隆に質問した。
茂範朝臣は「去る寛喜三年に風伯祭を催す際に安賀両家(陰陽道の権威・安倍氏と賀茂氏)に問合わせたところ、安倍氏は「賛同できない」と答え、陰陽頭の賀茂在親朝臣は「俊憲朝臣の例以外は知らない。」 と答えた。
また教隆真人(高貴な姓)は「凡人(普通の人)が行なった例は確認していない」と答えた。
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これらの答申に従い、(雷公祭は)行わないと定めた。
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   ※二階堂行方: この時点では四番引付頭人だが、正元元年(1259)には評定衆に抜擢されている。
清原満定は延応元年(1239)から評定衆(12月に死没した三浦義村の後任か)。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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7月29日
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吾妻鏡
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放生会での将軍家御参宮に伴う供奉人について二通の散状(回覧)を発行した。一通は各々が布衣(狩衣・略礼服)を 着して供奉する内容であり、一通は直垂を着して供奉する内容である。
形式は二種類だが、数通に書き分けて回覧・通告している。支障を申し出た者は次の通り。
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 随兵では、 畠山上野前司畠山泰国  三浦介(佐原)盛時  左衛門尉小田時知  左衛門尉土肥三郎惟平
左衛門尉遠江十郎頼連(服喪)
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 直垂の中では、 出羽七郎左衛門尉(病気のため鹿を食べた、と)  足立左衛門四郎(病気で7月10日に帰国)
周防三郎左衛門尉(父・周防守が布衣で供奉、弟六郎が流鏑馬の射手なのて参加し難い、と)
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 神馬役では、 上野太郎左衛門尉(了承している)  弥次郎左衛門尉(内命として子息の新左衛門尉が参加)
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月6日
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吾妻鏡
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豪雨と強風。洪水と山崩れで多数の男女が死没した。
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   ※8月6日: 太陽暦の8月27日に該当する。台風による被害だろう。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月8日
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吾妻鏡
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曇。去る6日の大風による田畑の被害が著しい旨の報告が近国から届いた。今日、信濃僧正道禅が死去(88歳)。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月9日
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吾妻鏡
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武蔵守北條長時の室(北條時盛の娘)が病気から回復し沐浴の儀を行なった。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月10日
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百錬抄
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入道前権大納言(四代将軍藤原頼経)卿が死没した。
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   ※頼経死没: 享年39、死因は当時流行した赤痢と伝わっているが、翌月には五代将軍だった息子の藤原頼嗣
も死没しており、何らかの関与があった可能性を指摘する説もある。
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正二位・中納言の吉田経俊(wiki)は日記(経俊卿記)に「将軍として長年鎌倉で暮らしたが帰洛してからは人望を失い早世した。哀しむべきことだ」と書いている。
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父親の従一位・関白太政大臣だった九条道家も権力を失ったまままま建長四年(1252)2月に死没しており、権力の中枢にあった九条家の衰退を絵に描いたような暗転だった。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月11日
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吾妻鏡
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雨。相模守北條時頼の息子が元服し相模三郎時利(後に時輔と改名)を名乗った。加冠(烏帽子親)は足利三郎利氏)(後に頼氏と改名)。
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   ※北條九代記: 前大納言(藤原頼経、法名行智)が逝去した(39歳)。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月12日
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吾妻鏡
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晴。来る16日の競馬に出場する者について、相模守北條時頼以下の幕臣に命じて騎馬に長けた者に競馬の技術を習得させ、また御随身(側近や警護担当)の中から優れた者を選び出した。この件については秦弘員・種久・行久らが不満を申し立てたが、院での競馬に倣って侍が左側(上位)を務めるよう定めた。
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   ※競馬: 当時の競馬(くらべうま)は二頭の馬によるマッチレース。
距離判らないが八幡宮境内の東西に設けていた馬場は200m強なので片道だけでは短すぎるから往復かな。
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競走中の打擲や進路妨害が認められていたのが実戦の雰囲気があって面白い。
更に詳細は古式競馬(wiki)を参照されたし。
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右画像は平安時代の競馬を描いた平成14年の80円切手。
元画像は「賀茂競馬図六曲屏風」の二曲、手前・栗毛の騎手が奥の黒馬の騎手に対して暴行を加えている。
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屏風の画像が見当たらないため、切手の拡大画像をクリック先に掲載した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月13日
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吾妻鏡
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明後日の将軍家御参宮に伴う供奉人について、帯剣して参加するべき役目の中に支障を申し出る者があり、再度参加者を募った。
   近江弥四郎左衛門尉  山内三郎左衛門尉  平賀新三郎(以上三人は進奉(了承)した)
   阿曽沼五郎 大曽祢左衛門太郎(この二人は支障を申し出た)
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月15日
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吾妻鏡
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小雨、北風が激しい。 鶴岡八幡宮の放生会があり、将軍家(宗尊親王)が出御した。
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  行列
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  先ず検非違使(判官)が三人
    隠岐大夫判官佐々木泰清  遠江大夫判官三浦(会津)時連(盛時の次弟)  信濃判官二階堂行忠
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  次いで先陣の随兵十人
    三浦遠江三郎左衛門尉泰盛  相馬弥五郎左衛門尉胤村
左衛門尉佐々木佐渡五郎基隆(佐々木ではなく後藤基綱の次男だと思う)  出羽次郎左衛門尉二階堂行有
上総太郎兵衛尉長経  兵衛尉武藤次郎頼泰  河越次郎経重
和泉三郎左衛門尉二階堂行章  備前三郎長経  足利次郎兼氏(足利泰氏の次男で後の渋川 義顕)
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  次いで先駆八人
  次いで殿上人十人
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  次いで(将軍家の)御車
    左衛門尉三善次郎康有(康連の七男)  隠岐次郎左衛門尉時清  壱岐新左衛尉後藤基頼(基政の子)
内藤肥後六郎左衛門尉時景  近江弥四郎左衛門尉佐々木泰信  山内三郎左衛門尉通廣
土肥四郎實綱  鎌田三郎左衛門尉義長  大須賀左衛門四郎朝氏
肥後四郎兵衛尉行定  鎌田次郎兵衛尉行俊  平賀新三郎惟時
    以上は直垂を着して帯剣し御車の左右に列す。
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  御剣役人 刑部少輔北條教時
  御調度(弓箭)役 小野寺四郎左衛門尉通時
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  次いで御後
   五位十五人(布衣・下括り)
    越後守北條実時   越後右馬助北條時親   中務権大輔足利家氏
出羽前司二階堂行義   壱岐前司後藤政景   壱岐前司佐々木泰綱
三河前司足利頼氏(利氏)   那波左近大夫政茂   和泉前司二階堂行方
越中前司宇都宮(横田)頼業   周防前司島津忠綱   伊勢前司二階堂行綱
上総介大曽祢長泰   対馬守佐々木氏信   少卿武藤景頼
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  六位の十人(布衣(狩衣)、裾を括る)
    足利上総三郎満氏   長井太郎時秀   式部太郎左衛門尉伊賀光政
左衛門尉伊賀次郎光房   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   大曽祢次郎左衛門尉盛経
筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   右衛門尉三善康長   小野寺新左衛門尉行通
弥善太郎左衛門尉
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  次いで後陣の随兵十人
    遠江七郎時基(朝時の七男)   武蔵四郎時仲   上野五郎兵衛尉結城重光
足立太郎左衛門尉直元   常陸次郎兵衛尉行雄   武石三郎左衛門尉朝胤
伯耆新左衛門尉清経   河内三郎左衛門尉祐氏   城次郎安達頼景
大須賀次郎左衛門尉胤氏
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御奉幣の後に廻廊で例年よりも華美な舞楽の奉納があり陸奥守北條重時が臨席、他に伊豆前司若槻(森)頼定・前太宰少貳狩野為佐・出羽前司二階堂行義・刑部大輔入道成献・常陸入道行日(二階堂行久)らも参席した。
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申刻(16時前後)に将軍家が還御した後に六波羅の飛脚が到着、前将軍入道で前大納言家(五代将軍藤原頼嗣)が、去る11日に御痢病(赤痢)により薨御したと報告した。
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   ※佐々木泰信: 文暦二年(1235)7月23日に比叡山の衆徒が神輿を洛中に入れようとして近江高嶋郡の地頭
佐々木高信(佐々木信綱の次男)の代官が阻止した際に神人を死傷させた。執権の 北條泰時比叡山を宥めるため高信が豊後国に配流の処分を受けている。
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高信のその後は明確ではないが(早期の赦免だと思う)、高信の跡は長男泰信が継いで近江朽木氏として繁栄している。朽木は近江旅行で立ち寄った道の駅くつき新本陣(サイト内リンク・別窓)のある土地だ、懐かしい!
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月16日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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曇。将軍家(宗尊親王)が出御した。また流鏑馬の射手などについて、特に人選を行なった。
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相模三郎時利(後の北條時輔)・陸奥六郎北條義政足利三郎利氏(頼氏)・武蔵五郎北條時忠(朝直の次男、後に宣時に改名)・三浦介六郎頼盛(三浦(佐原)盛時の六男、三浦宗家を継承)らが選ばれた。
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また競馬(くらべうま)五番の結果は次の通り。
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  一番 左は富所左衛門尉、右は村岡弥三郎。双方が落馬して結果は引き分け、富所は額から出血。
  二番 左は當麻右馬五郎、右は検仗三郎(勝者)。 當麻が鞦(馬の尻飾り)を狙い、組み合った末に奪った。
  三番 左は下條四郎、右は秦弘員。下條が追い付いて勝ち。共に落馬したため右が異議を唱えた。
  四番 左は渋谷右衛門三郎、右は秦種久。熱戦の末に双方落馬して引き分け。左の剛勇、右の技量が見事。
  五番 左は鳥子左衛門次郎(勝者)、右は秦行久。行久は鳥子の剛力を恐れて途中で馬を止め試合を放棄。
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   ※特に人選: この意味が判らない。満年齢で書くと、この時点の時輔は8歳・義政は13歳・利氏は16歳。宣時は
17歳、足利利氏は16歳。時忠と頼盛の確実な年齢は確認できないが、かなり若年の時輔と義政が流鏑馬の射手だったとは考えにくい。人選に関与した、との意味なのだろうか。
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   ※北條義政: 信濃国塩田荘(現在の上田市西部の青木村一帯)を本領とした塩田北條氏の祖。青木村には多く
の塩田一族の遺跡が残り、「信州の鎌倉」として愛されている。
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建治三年(1277)4月に連署を辞して出家し、塩田荘に隠棲した。義政の長男時治は嘉暦元年(1326)3月に出家して幕政から引退、跡を継いだ弟の国時は幕府が滅亡した弘安三年(1333)には鎌倉に駆けつけ、二人の息子と共に宗家に殉じている。
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信州青木村の遺跡も参考に。塩田平の資料整理が済んでいないため掲載画像が限られている。いずれ整理して載せたいと思う。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月20日
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吾妻鏡
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新奥州(元右馬権頭のの北條政村)執権に就いてから初めて、将軍家(宗尊親王)が常葉(常盤)の別業(別邸)に入御する件が来る23日と定められ、供奉人の手配を行なった。その散状(回覧)を御覧した後に支障のある者の補充が加えられた。
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   追加補充として、足利次郎(渋川義顕)・遠江次郎佐原光盛・佐渡五郎左衛門尉後藤基隆。
   病欠を申し出た常陸次郎兵衛尉二階堂行雄の代行として、左衛門尉三善次郎康有。
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   ※執権就任: 北條政村の執権就任は若年(14歳)の北條時宗への
中継ぎのために七代執権に就任する文永元年(1264)8月が最初と考えられている。
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8月20日時点の「執権就任」が広い意味で連署を含んでいたのか、4月14日前後に記載のある「政村が執権に...」を根拠にしているのか、或いは体調の良くない北條時頼が一時的に委任した可能性もある。
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   ※常盤邸: 大仏切通し西側(地図)に「やぐら」を含む広い敷地が
保存されている。wiki画像を参照されたし。
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右画像は史跡に指定されている北條常盤邸跡。以前は立ち入り禁止だったが現在は判らない(右画像をクリック→ 拡大表示)。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月23日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)が新陸奥守北條政村の常盤邸に入御。巳刻(10時前後)に御水干・御騎馬で出発した。
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  供奉人
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  歩行
   御剣役 進奉不参
備前三郎北條長頼   城四郎安達時盛
佐渡五郎左衛門尉後藤基隆   式部太郎左衛門尉伊賀光政
常陸次郎兵衛尉二階堂行雄   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
左近将監武藤兼頼   和泉次郎左衛門尉二階堂行章
左衛門尉武藤次郎頼泰   壱岐左衛門尉後藤基頼
新左衛門尉小野寺行通   隠岐三郎左衛門尉佐々木時清
左衛門尉三善次郎康有   郎左衛門尉鎌田三義長
左衛門土肥四郎實綱   左衛門尉鎌田次郎行俊
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  騎馬
中納言土御門顕方卿   花山院宰相中将長雅卿
武蔵守北條長時   越後守北條実時
刑部少輔北條教時   尾張左近大夫将監北條(名越)公時
足利次郎兼氏(渋川義顕)   同、足利 三郎頼氏(利氏)
陸奥七郎北條業時   武蔵五郎北條時忠
和泉前司二階堂行方   長井太郎時秀
参河前司()新田(世良田義季の嫡子)   壱岐前司佐々木泰綱
壱岐前司後藤基政   筑前前司二階堂行泰
上総介大曽祢長泰   少卿武藤景頼
出羽三郎左衛門尉二階堂行資   城次郎安達頼景
下野四郎宇都宮景綱
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陸奥入道北條重時・陸奥守北條政村・相模守北條時頼・尾張前司北條時章・出羽前司小山長村らがあらかじめ常盤邸に待機しており、先ず縁側に輿を付けた。
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近くの衣装架には御服・半尻狩御衣(浮線綾)・御水干袴(地白青格子)・色々の御小袖十揃い・御帷子五着を懸けて準備してあり、御棚には八合菓子と巻絹三十疋・紺布三十・檀紙百帖・扇五十本が蓋付きの箱に収めてあった。
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次に六脚膳に載せた供御(食事)、次に盃酒。三献の後に泉屋に渡御し、金銀などで飾った屋形船が造ってあった。金五十両・南廷(銀の板)三・色々の紺絹三十・帷三十・墨二・錦一端・呉綾一端・紫扇五十本などである。
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次に女房(女官)の一條殿・近衛殿・別当殿・新左衛門督局・兵衛督局・小督局・右衛門佐局・美濃局らが参上した。夜になって御引出物があり、刑部少輔北條教時が御剣(竹作り)を持参した。金五十両(銀の折敷に置く)、陸奥七郎北條業時がこれを運んだ。南廷五(銀の折敷に置く)は足利三郎利氏が持参した。
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  次いで御馬二疋
     一の御馬(鞍を置く)  陸奥三郎北條時村   式部太郎左衛門尉伊賀光政
     二の御馬    出羽三郎左衛門尉義賢   同、七郎行頼らがこれを引いた。
  女房への贈物は、衣今木小袖と帷など、御供侍には各々沓と行騰(年初の引き出物を参照されたし)。
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   ※進奉不参: 宇治拾遺物語(wiki)の巻十一に「(北面の武士)源行遠が戻って来ない」という意味で「進奉不参」
と述べている箇所がある。剣役不在の意味か?
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月24日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)が体調を崩したため、陸奥守北條政村・相模守北條時頼以下が御所に集まった。
西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月26日
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吾妻鏡
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曇。(将軍家の)病状が悪化に向っているため、若宮別当僧正隆弁が不動護摩を催した。また御所で安倍晴茂朝臣が泰山府君祭を務め、出羽前司二階堂行義が奉行に任じた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月29日
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吾妻鏡
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終夜、降雨。将軍家の病気に対応して更に祈祷が続けられた。大土公は資俊、霊気は泰継、四角は宣賢と晴長と晴秀と晴成、四堺は晴尚と親貞と維行と重氏が任じた。
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   ※四角四堺: 御所の四方と鎌倉の四境を差す。更に詳細は寛喜三年(1261)5月4日を参照されたし。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月1日
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吾妻鏡
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晴・将軍家(宗尊親王)の病気は赤班瘡(麻疹ウイルスによる急性熱性発疹性疾患、通例では「はしか」)。若宮別当僧正隆弁が宮寺に参籠して御祈祷を行なった。昨今の流行が著しく、誰もが罹病する恐れがあるため諸堂で百座(百人の僧侶による)の仁王講を催した。清原満定の差配による。
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   ※仁王講: 仏教における国王のあり方について述べた経典である仁王般若経を読誦する法会。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月3日
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吾妻鏡
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晴。再び病気に対応した祈祷あり。松殿法印良基と左大臣法印厳恵がそれぞれ薬師護摩を修した。七座の泰山府君は宣賢・為親・晴長・廣資・以平・晴憲・晴宗。他に七座(七人の陰陽師による)の霊所祓・天冑地府・御当年星・呪咀などの祭祀を行なった。
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   ※泰山府君: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷するのが通例。
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   ※霊所祓い: 一般的には七ヶ所の霊所または七瀬祓い。寛喜二年(1230)11月13日に詳細の記載あり。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月5日
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百錬抄
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後深草天皇が赤班瘡に罹病された。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月10日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼邸で大般若経の転読を行なった。
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   ※転読: 百聞は一見に如かず、の中から実態の確認を。信仰と言うより形式の世界。wiki動画を参考に。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月15日
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吾妻鏡
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曇。相模守北條時頼も赤班瘡に罹病した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月16日
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吾妻鏡
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朝のうち雨。夜になって陰陽師から、「去る6月26日は御衰日(運勢が衰微する日取り)だ゛ったにも関わらず初出仕を行なった影響がある」との上申書が提出されたため泰山府君祭を催した。また相模守 北條時頼の娘が赤班瘡を発症、妖気も伴っている、と。
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   ※時頼の娘: 回復しないまま10月13日に死没。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月19日
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吾妻鏡
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激しい雨。申刻(16時前後)に将軍家(宗尊親王)御沐浴した。陰陽少允の安倍晴宗が結界を張って身辺護持に務め、管領医師で権侍医の長世が中御門少将の公仲朝臣を介して褒賞の御衣(五単)・御剣(金作り)を与えられた。次に御馬、式部太郎左衛門尉伊賀光政がこれを引いた。この儀式は東塀中門の内側で行われた。
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今日、武蔵守北條長時の嫡男(4歳)が赤班瘡に罹病した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月25日
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吾妻鏡
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曇。相模守北條時頼の病状が回復してから初めて手足を洗い清めた。
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   ※百錬抄: 後深草天皇の赤班瘡の病状が回復し、初めての御沐浴を行なった。
雅尊親王(後嵯峨上皇院の皇子・四の宮、女院御腹)が赤班瘡により崩御した。また、三位中将頼嗣卿(五代将軍藤原頼嗣)が赤班瘡により崩御した。
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   ※雅尊親王: 後嵯峨上皇の皇子(満2歳4ヶ月)、生母は大宮院(前太政大臣西園寺実氏の娘)だから、後深草
天皇の同母弟、六代将軍宗尊親王の異母弟にあたる。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月28日
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吾妻鏡
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越後守北條実時の室(北條政村の娘)が赤班瘡に罹病した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月29日
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吾妻鏡
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晴。相模守北條時頼が病気からの回復に伴い、穢を洗い落とす沐浴の儀を行なった。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月30日
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吾妻鏡
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曇。民部大夫三善(太田)康連の病状が重体になったため問注所執事を辞任し、子息の康宗が後任に就いた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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10月2日
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吾妻鏡
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晴。六波羅の飛脚が到着し、先月27日の四宮(雅尊親王)薨御を報告。また24日に前将軍三位中将家(藤原頼嗣)が早世(満17歳)した旨を報告した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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10月3日
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吾妻鏡
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晴。散位従五位上の三善(太田)康連朝臣が死没した(64歳)。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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10月5日
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百錬抄
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改元あり。建長を改めて康元とした。権大納言良教卿以下が進言、赤班瘡の流行が理由である。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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10月9日
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吾妻鏡
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晴・南風、夜になって雨。改元の詔書が到着、去る5日に建長八年を改め康元元年とした。同日、相国(関白太政大臣・藤原氏長者の近衛兼経・wiki)の御息女が死去した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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10月13日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼の姫君が死没。日光法印(尊家)が愛染王供を、法印清尊千手供を、阿闍梨兼俊が修験道の祈祷を行なっていたが、各々は祈祷の壇を壊して退出した。
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   ※姫君: 本来は陪臣に過ぎない北條氏の娘を姫君と読んだ最初の例となる。権力に阿る吾妻鏡の宿命か。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元
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10月23日
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吾妻鏡
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相模右近大夫将監北條時定朝臣が兼ねての願いに拠り出家を遂ぐた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元
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10月26日
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吾妻鏡
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晴。四の宮の御事(9月25日を参照)および相模守北條時頼の軽服(10月13日に伴う軽い服喪)により、前太宰少貳狩野為佐を奉行として三嶋の神事など全てを中止した。
時頼は参河守教隆だけを呼んで御除服(喪明け)の儀式を行うべきかを尋ね、教隆は「四の宮は三歳。七歳未満の死没には服喪も喪明けも不要である」と答え、中止となった。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元
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10月29日
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吾妻鏡
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晴。貢馬を御覧(朝廷に献上する馬を観覧する儀式)になった。陸奥守北條政村以下の数人が出仕した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月2日
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吾妻鏡
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曇。丑刻(深夜2時前後)に六波羅の飛脚が到着し、先月27日に後嵯峨上皇の御妹(六代将軍宗尊親王の伯母)が遷化(死去)した。将軍家は御軽服(軽い服喪)となり七日間の政務欠席となる。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月3日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼が赤痢に罹病した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月11日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に将軍家(宗尊親王)の御除服(喪明け)の儀式があった。天文博士の為親朝臣が束帯姿で御祓いを、六角侍従が陪膳(給仕)を、源式部大夫親行(源光行の嫡子で和歌奉行を継承)が運び役を務めた。
奉行は太宰権少貳武藤景頼
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月18日
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吾妻鏡
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曇。申刻(16時前後)に雨と雷鳴が数回あった。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月22日
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吾妻鏡
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相模守北條時頼の赤痢が快方に向かい、今日執権職を武蔵守北條長時に移譲し、併せて武蔵国の国務と侍所別当および鎌倉の屋敷を長時に預託した。
ただし得宗の家督はまだ幼い時宗(満5歳5ヶ月)に譲る時までの眼代(代官)である。
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   ※保暦間記: 時頼が将軍家に仕える執権職(連署を含む)を政村と長時(義時の孫、陸奥守重時の二男)らに
譲って出家した。出家した後も幕政から離れることはない。
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   ※時頼辞任: 時頼は出家してからも幕政での権限を手放さそうとはしなかった。権力の序列一位は時頼・二位は
重時・三位は後継の時宗が成長する迄の中継ぎとして執権の長時・四位が連署の政村である。
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北條氏は元々家柄が低く、源氏将軍や宮将軍と違って血統に基づく権威を持たない。実権を離さない時頼の意図は明らかに院政による独裁権力の掌握であり、善政に見える庶民の保護政策は欠けている貴種性を補う人気取りとして使われたに過ぎない。その意味では泰時が目指した友愛に近い善政・庶民保護政策とは本質的に異なっている。
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右画像は建長寺収蔵の時頼像(重要文化財・木造彩色・70cm)。
元々は時頼が開基した禅興寺またはその前身最明寺にあった像で、時頼の姿を最も如実に写したと推定される。
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時頼の死後に最明寺は廃寺となり、文永年間(1264~1274)に北條時宗が福源山禅興寺(開山は 蘭渓道隆)として再興した。
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九代執権北條貞時の十三回忌(貞応三年・1324年)には90余人の僧が集まった(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺に次ぐ規模)。
幕府滅亡後の暦応四年(1341)には十刹(臨済宗の寺格)二位、延文三年(1358)には一位に昇格した。
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江戸中期には無住となって塔頭・明月院の管理となり明治初期に廃寺、現在は名月院のみが残っている。
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個人的には、10月13日に死没した唯一の娘が存命していたら六代将軍宗尊親王に嫁したのではないか、と推定する。娘の早世によって宮将軍は従一位・関白太政大臣の近衛兼経(wiki)の娘・宰子を正室に迎える(文応元年・1260年2月)のだが、時頼はまず猶子に迎えてから北條氏の娘が将軍に嫁すというステップを踏んでいる。
帝の義父を目指した清盛と同じように鎌倉幕府における院政を目指したのだろう。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月23日
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吾妻鏡
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晴。寅刻(早暁4時前後)に最明寺(7月17日を参照)で相模守北條時頼が剃髪・出家した(30歳)。法名は覚了房道祟、戒師は宋朝の道隆禅師。この出家によって名門三家の兄弟らも出家を遂げたのは稀代の珍事である。
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前大蔵権少輔結城朝広(法名信佛)・上野四郎左衛門尉結城時光(法名)・同十郎朝村(法名蓮忍、以上は結城氏の兄弟)、 遠江守佐原 (蘆名)光盛(法名)・三浦介(佐原)盛時(法名)・大夫判官佐原時連(法名観蓮、以上三浦の兄弟)、前筑前守二階堂行泰(法名行善)・前伊勢守二階堂行綱(法名行願)・信濃判官二階堂行忠(法名行一、以上は信濃(二階堂の)兄弟)である。
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いずれも時頼に忠節を尽くし二心を持たない人々であり、その心から出家を選ぶ結果となったのだが、無届けで出家した罪を問われて出仕停止の処分を受けた。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月24日
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吾妻鏡
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武蔵守北條長時が執権を委譲されてから初めての政所に出仕した。(連署の)陸奥守北條政村および評定衆が各々布衣(狩衣・略礼服)で参会した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月26日
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吾妻鏡
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夕刻に雨。寅刻(早暁4時前後)に名越で火災があり、備前三郎長頼の家が被災したが延焼はしなかった。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月28日
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吾妻鏡
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小雨。今日の評定に武蔵守北條長時が初めて参席した。申刻(16時前後)に前佐渡守で正五位下の藤原朝臣後藤基綱(引付衆・76歳)が死去した。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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11月30日
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吾妻鏡
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晴。最明寺禅室(北條時頼)が逆修を催した。
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   ※逆修: 生前に死後の冥福を祈って催す仏事。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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12月11日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。亥刻(23時前後)に右大将家(頼朝)の法華堂前から出火、激しい北風に煽られて勝長寿院および弥勒堂・五仏堂の塔など全てが被災した。ただし本尊と一切経は辛うじて運び出す事ができた。
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   ※火災範囲: 法華堂勝長寿院跡(共にサイト内リンク・別窓)を参考に。
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勝長寿院の敷地は谷の広い範囲を占めていたと考えられるが、正確な位置は確認されていない。両地点の距離は約500m、文面では法華堂は被害を受けなかったらしい。
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中間にあった大倉幕府は宇都宮辻子幕府(サイト内リンク・別窓)への移転(嘉禄元年・1225年)後に取り壊され、住宅地に変わっていたと推定される。
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右画像は両地点を含む地図(加増をクリック→ 拡大表示)
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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12月13日
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吾妻鏡
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明春正月の御的始めの射手を指名して御教書を発せられた。奉行は越後守北條実時
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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12月19日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に雷鳴が数回あり。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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12月20日
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吾妻鏡
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六波羅での問注(訴訟手続き)について、以下のように命令書が発せられた。
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  一.原告は訴訟の内容を文書で提出すること。
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  一.原告も被告も提出した証拠書類の繋ぎ目は花押で封印すること。
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  一.同じく文書目録、巨細に注進せらるべき事
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  一.庄園の領家(中間権利者)について。
本寺社(荘園の最高権利者)の名だけで領家の記載がない場合は不審の可能性があり、確認を要する。権利を有する者全ての記載が望ましい。
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  一.任じている地頭の名を正しく記載する事
正しく地頭名を書かず某庄地頭などとある場合は不審である。本来の地頭・代官の名を記載すること。
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  一.項目を明確にして記載すること。
複数の事案が混在する場合は内容を正しく区分して記載すること。
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  一.訴訟の内容を裁判担当者に付託した結果、その何人かが原告または被告の縁者または過去に縁者であった
ことを根拠に担当を忌避する例が見られる。評定衆による会議の際にその不審を糺す場合には詳細を説明するよう指示する。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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康元元年
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12月25日
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吾妻鏡
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小侍所(将軍の側近担当部署)の勤務表についての指示があった。身辺の任務については御前での指示による。
また小侍所が重要な職種である事を認識し、任命に当たっては祖父まで三代の経歴確認が必要である。
公務に任じる御家人であっても安易に任命してはならない。
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦‬1256年
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89代後深草天皇
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建長八年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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