康元二年、 3月31日に改元して正嘉元年(1257年)

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天皇
月日
記事
西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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1月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相模守北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。御剣は武蔵前司北條朝直、御調度(弓箭)は尾張前司北條時章、御行騰は出羽前司二階堂行義
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    一の御馬は 陸奥六郎北條義政 と 左衛門尉工藤次郎高光
    二の御馬は 下野四郎宇都宮景綱 と 長門三郎朝景
    三の御馬は 城六郎顕盛 と 大曽祢上総三郎義泰
    四の御馬は 武藤右近将監頼村 と 同、次郎兵衛尉頼泰
    五の御馬は 長井太郎時秀 と 新左衛門尉平盛時
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椀飯の後に将軍家(宗尊親王、御烏帽子・直衣)が御行始め(外出初め)として相州禅室(時頼)邸に向かった。
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 供奉人(布衣・下括り)
    武蔵守北條朝直   尾張前司北條時章   遠江前司北條時直
    刑部少輔北條教時   尾張左近大夫将監北條(名越)公時   出羽前司二階堂行義
    前太宰少貳狩野為佐   下野前司宇都宮泰綱   秋田城介安達泰盛
    内蔵権頭親家   和泉前司二階堂行方   大隅前司嶋津忠時
    壱岐前司佐々木泰綱   周防前司嶋津忠綱   上総介大曽祢長泰   少卿武藤景頼
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 六位
    陸奥七郎北條業時   陸奥三郎北條時村   武蔵四郎時仲
    遠江太郎北條清時   長井太郎時秀   城次郎安達頼景
    駿河蔵人次郎経親   出羽次郎左衛門尉二階堂行有   左衛門尉式部太郎伊賀光政
    兵衛尉武藤次郎頼泰   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   新左衛門尉小野寺行通
    兵衛尉鎌田次郎行俊   左近将監武藤景頼   左衛門尉鎌田三郎義長
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御引出物は通例の通り。御剣は刑部少輔北條教時、砂金は右近大夫将監北條(名越)公時、(鷹の)羽は秋田城介安達泰盛がこれを持参した。
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    一の御馬は 陸奥三郎北條時村 と 安東籐内光政
    二の御馬は 陸奥七郎北條業時 と 安保左衛門太郎
    三の御馬は 相模三郎北條時利 と 南條新左衛門尉
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
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   ※年令: 執権を退いた北條時頼は29歳・ 連署の北條重時は59歳・ 六代執権になった北條長時は27歳・
七代執権になる北條政村は53歳・ 八代執権になる北條時宗は5歳7ヶ月、 兄の時輔は8歳6ヶ月・
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安達泰盛は26歳・ 足利氏四代当主足利泰氏は41歳・ 宇都宮氏六代当主宇都宮泰綱は55歳・
古参の評定衆二階堂行義は54歳・ 後に権力を握る御内人平頼綱は16歳・
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六代将軍の宗尊親王は14歳・第89代後深草天皇は13歳・先帝の後嵯峨上皇は35歳
                       (表示は全て満年齢)
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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1月2日
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吾妻鏡
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晴。奥州禅門北條政村の沙汰による椀飯の儀あり。
尾張前司北條時章が御剣を、下野前司宇都宮泰綱が御調度(弓箭)を、秋田城介安達泰盛が御行騰を献じた。
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   一の御馬は 遠江太郎北條清時 と 同、次郎時通
   二の御馬は 遠江七郎北條時基 と 備前三郎長頼
   三の御馬は 肥後次郎左衛門尉為時 と 同、三郎左衛門の尉
   四の御馬は 上野太郎左衛門尉梶原景綱 と 同、三郎景氏
   五の御馬は 陸奥七郎北條業時 と 原田籐内左衛門尉
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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1月3日
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吾妻鏡
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晴。左近大夫入道(北條時定)の沙汰による椀飯の儀あり。御劔は遠江前司北條時直が御剣を、式部大夫北條時弘(時広)が御調度を、太宰権少貳武藤景頼が御行騰を献じた。
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   一の御馬は 武蔵五郎北條時忠 と 木工左衛門尉本間佐久
   二の御馬は 越後又太郎 と 肥田次郎左衛門尉
   三の御馬は 遠江次郎北條時通 と 出羽左衛門二階堂三郎
   四の御馬は 刑部少輔次郎 と 同、三郎
   五の御馬は 相模八郎北條時隆 と 山内左衛門四郎
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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建長八年
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1月13日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)に伊豆前司従五位下源朝臣若槻(森)頼定が死去した(79歳)。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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1月25日
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吾妻鏡
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晴。散位従五位下藤原朝臣伊賀光宗法師(法名光西)が死去した(80歳)。
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   ※散位: 官位を持っているが官職(例えば左衛門尉・式部太夫など)を得ていない者。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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2月2日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家(宗尊親王)が鶴岡八幡宮に御参詣。先ず御禊ぎがあり、陰陽道の為親朝臣(衣冠)と能清朝臣が陪膳(給仕役)を、能登仲家が運び役を、赤塚資茂がその補助に任じた。
その後に御車を寝殿の南面に寄せて土御門中納言顕方卿が御簾を上げ、西の唐門から出御した。
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  行列
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   先ず前駈が六人(衣冠、下位の者が前)
     赤塚蔵人資茂   能登右近蔵人仲家   押立蔵人資能
     近江前司季實   備中右近大夫将監忠茂   能登右近大夫重教
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   次いで殿上人が七人(束帯、下位の者が前)
     一條侍従定氏   六角侍従家基   二條侍従雅有   近衛少将公敦
     紙屋河兵衛佐顕名   中御門侍従宗世朝臣   一條少将能清朝臣
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   次いで公卿が四人(直衣と束帯が混じる、下位の者が前)
     刑部卿宗教   前兵衛督教定   仁和寺三位顕氏卿   中納言土御門顕方卿
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   次いで御車
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     上野三郎梶原景氏   隠岐次郎左衛門尉時清   兵衛尉武藤次郎頼泰
     新左衛門尉小野寺行通   太宰肥後左衛門三郎為成   周防三郎左衛門尉忠行
     左衛門尉三善次郎泰有   肥後六郎右衛門尉時景   左衛門尉鎌田三郎義長
     平賀新三郎惟時   兵衛尉鎌田三郎行俊
        以上は直垂を着して帯剣、御車の左右に候す。
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   御劔役  刑部少輔教北條教時
   御調度  弥次郎左衛門尉親盛
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   次いで御後
    五位十人(布衣・下括り)
     相模式部大夫北條時弘(時広)    尾張左近大夫将監北條公時   少輔左近大夫将監大江佐房
     備後前司町野(三善)康持   長門前司笠間時朝   秋田城介安達泰盛
     伊賀前司小山時家   縫殿頭中原師連   周防前司島津忠綱   太宰少貳武藤景頼
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   六位十三人(布衣・下括り)
     陸奥六郎北條義政   同、七郎北條業時   備前三郎北條長頼
     遠江七郎北條時基   武蔵四郎北條時仲   遠江太郎北條清時
     長井太郎時秀   右衛門尉三善康長   隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏
     紀伊次郎左衛門尉為経   肥後次郎左衛門尉為時   左衛門尉渋谷武重
     右近将監武藤兼頼
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赤橋の手前で御車から降り、黄門(中納言土御門顕方卿)が御簾に上げて能登重教が御榻(牛車の踏み台)を据え、中御門侍従宗世朝臣が御沓(履物)を揃えた(補佐は兼頼)。黄門が将軍家の御裾尻を持って下宮に御奉幣、御幣を渡す役は仁和寺三位。次いで上宮に登って読経の供養を御聴聞した。導師への御布施(政所の準備)は前駈の人々が渡した。政所の寄人(庶務)がこれを補佐し、式典の終了後に還御した。
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   ※西の唐門: 若宮大路の両側には概算で巾3m×深さ1.5mの溝が
掘られ、外側に築地塀らしい柱穴が確認されている。
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以前に読んだ資料(出典は忘れた)では「若宮大路に面した家屋から直接の出入り口設置は禁止」されており、下の下馬橋付近から一の鳥居までの間に設けられていたのは御所の「西の唐門」だけだったと推定される。
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更に若宮大路を横断できるのは下の下馬橋と中の下馬橋と上の下馬橋(一の鳥居前)のみ、騎馬のままで横断するのは厳禁されていた。
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西の唐門をかなり南に仮定(右画像を参照)しても「赤橋の手前」まで僅かに200m、牛車に乗って隊列を組む意味は権威を示すのみだろう。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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建長八年
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2月6日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)が二所詣のため精進潔斎を始めた。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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2月10日
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吾妻鏡
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晴。二所詣の奉幣使として遠江守北條時直朝臣が鎌倉を出発した。
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   ※百錬抄: 太政官の庁舎が炎上。朝所(北東隅の舎屋)を残して全て焼失した。
   ※北條九代記: 2月22日、北條時茂が左近将監に任じ、同日に叙爵(従五位下に叙されること)。
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             百錬抄の概略はこちら、北條九代記はこちら(共にwiki)
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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2月14日
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吾妻鏡
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晴。遠江守北條時直が二所詣から帰参した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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2月26日
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吾妻鏡
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晴、風が静まった。午の二点(11時半前後)に相州禅室(北條時頼)の若君(初名を正寿、七歳。満年令で正確には5歳8ヶ月)が御所で元服した。
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陸奥守北條政村および御家人(各々布衣(狩衣・平服)、下括り)で西の侍詰所に着座し、二棟の御所(寝殿東北に突き出た建物)で儀式を行った。東に障子に近くに将軍家(宗尊親王)の御座(大文高麗縁)を設けた。
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若公は童の装束(狩衣・刺繍した袴)で武蔵守北條長時の下座に着き、定刻になって将軍家が隣席、土御門中納言顕方卿(直衣・略礼服)が二棟南面の妻戸を出て蹲踞(そんきょ)し、若公に向かって将軍家のお召しを告げた。
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若公は武蔵守長時が付き添って御前に進み、御装束・御烏帽子を与えられて退去、中御所西の渡り廊下に屏風を立てて下賜された御衣(浮線綾狩御衣・紫浮織物御奴袴、蘇二柏・紅単衣)に着替えて再び簾の中に戻った。武蔵守長時の付き添いは先程と同様である。
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その後に雑具(元服に用いる道具類)を置き、まず秋田城介安達泰盛が柳の箱に置いた烏帽子を持って御前の廊下に進み、御簾を広げて中に入った。次に壱岐前司宇都宮泰綱が雑具の箱を持ち、太宰権少貳武藤景頼が柳の箱に置いた小盥(たらい)を持った。これまでの作法は通例の通りである。
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次に陸奥守政村が座を起って廊下の西側から切妻戸の庇に進んだ。武蔵守長時は理髪役として簾中に入り、その他の人々は西南から東に続く廊下に列座した。次に武蔵守長時が新冠(若公)の前に進んで理髪した後に烏帽子を被せた。新冠(若公)が三拝し、担当者が進み出て雑具を片付け、武蔵守長時が簾中を出て庭に着座した。続いて黄門(土御門中納言顕方)が南面から進み出て御座西面の御簾三間を巻き上げた。
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次に進物。御剣は武蔵前司北條時直、御調度(弓箭)は尾張前司北條時章、御鎧は刑部少輔北條教時と左近大夫将監北條(名越)公時、御野矢(狩猟用)は下野前司宇都宮泰綱、御行騰(正月を参照)は和泉前司二階堂行方
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   一の御馬(銀の鞍を置く)は 陸奥六郎北條義政 と 原田籐内左衛門尉宗経
   二の御馬(白伏輪の鞍を奥)は 陸奥三郎時村 と 工藤左衛の尉高光
   三の御馬(白伏輪の鞍を奥)は 相模三郎時利 と 新左衛門尉南條頼員
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次に新冠が御剣を(将軍から直接?)受け取って退出した。武蔵守長時が更に座敷でこれを補佐した後に侍詰所に着座し、人々も着座して三献の儀となってに新冠が酌を務めた。次に黄門(土御門中納言顕方)が予め書いて置いた御名字(時宗)を武蔵守長時に渡した。
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   ※時宗: 吾妻鏡には三歳年上の時輔の元服記録は載っていない。時頼は時宗>宗政>時輔の序列を明確に
している。また建久五年(1194)2月2日の北條泰時元服の記述と併読するのも面白い。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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2月28日
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史 料
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   ※百錬抄: 午刻(正午前後)に院の御所である五條大宮殿が炎上した。
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   ※五條大宮殿: 前年(慶長八年・1256年)7月12日に完成した記事が載っている。7ヶ月で炎上とは...。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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建長八年
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3月2日
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吾妻鏡
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晴。相模太郎北條時宗殿が初めて御所に参上し、鞍を置いた御馬を献上した。
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   ※百錬抄: (2月10日に焼失した)太政官の庁舎再建が始まった。大納言四条隆親卿(wiki)が安木国(島根県
安来か?)を与えられて造営に任じた。   百錬抄の解説はこちら(wiki)で。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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3月14日
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百錬抄
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   ※百錬抄: 左大臣二條道良卿以下が参集して改元を定めた(太政官庁舎などの炎上による)。正嘉と。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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3月27日
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史 料
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   ※三井寺続灯記(社伝): 園城寺の衆徒が戒壇建立の勅許を求めて強訴。朝廷は六波羅に鎮圧を要請した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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3月18日
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吾妻鏡
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細雨。改元の詔書が鎌倉に到着。去る14日に康元二年を改めて正嘉元年とした。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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閏3月2日
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吾妻鏡
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晴。今日の評定で再び引付人(訴訟担当)の組織を改めた。来月朔日(一日)から以下の編成となる。
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  一番 (2日と12日)
    武蔵前司北條朝直   出羽前司二階堂行義   縫殿頭中原師連   左衛門尉清原満定
    対馬左衛門尉仲泰    皆吉大炊助文章   水原兵衛尉孝定
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  二番 (7日と26日)
    尾張前司北條時章   筑前前司二階堂行泰   参河前司清原教隆   丹後守安達頼景
    長井太郎時秀   明石左近大夫兼綱   進士次郎蔵人   対馬左衛門次郎
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  三番 (12日と27日)
    越後守北條実時   刑部少輔北條教時   常陸入道行日(二階堂行久)   上総介大曽祢長泰
    大田民部大夫康宗   民部大夫大江弘基   兵衛長田太郎廣雅   大蔵四郎則忠
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  四番 (2日と22日)
    和泉前司二階堂行方   前太宰少貳狩野為佐   那波左近大夫将監政茂   対馬前司三善倫長
    山城前司深澤俊平   甲斐前司家国   中務大夫山名俊長   雑賀太郎尚持
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  五番 (7日と27日)
    秋田城介安達泰盛   伊勢入道行願(二階堂行綱)   少卿武藤景頼    信濃判官入道二階堂行忠
    山城前司中原盛時   佐藤左京進   山名進次郎行忠   齋藤次朝俊
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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4月7日
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吾妻鏡
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晴。下野前司宇都宮泰綱が御所で御鞠会を催したい旨を願い出た。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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4月9日
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吾妻鏡
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晴。申刻(16時前後)に御所での御鞠。露払いが蹴った後に将軍家(御布衣・布の狩衣・平服)で蹴鞠の場(鞠壺)に降り立った。下野前司宇都宮泰綱が燻鞠(燻革で作った鞠)を鶏冠木(楓)の枝に付けて(二階堂行忠入道が取り付けたもの)呈上、内蔵権頭親家が鞠を鞠壺の中央に置いた。
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源中納言(布衣)・刑部卿難波宗教(布衣、上鞠一足・最も名人)・中務権大輔教時(布衣)・遠江七郎時基(布衣)・内蔵権頭親家(布衣)・出羽前司行義(布衣)・下野前司泰綱、他に二條三位飛鳥井教定(布衣、初参加)・遠江太郎清時(水干・葛袴)・鎌田次郎兵衛尉行俊(布衣)・行忠入道(衣袴・重香の帷、指扇)。
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三百を数えたところで鞠を落とした(計数は薩摩七郎左衛門尉伊東祐能、見分役は仁和寺三位顕氏・一条少将能清朝臣・範忠朝臣・範方らが務めた。 この日の二條三品(飛鳥井教定)は燻白地の韈(足袋)を履いており、宗教朝臣から「この色は通常は用いるものではない。承元(1207~1210年)の前例では有文(模様のある)燻革を着しており、望ましくない。」 との苦言があった。
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   ※蹴鞠: ルールなど詳細を知りたい場合は蹴鞠保存会のサイトに詳しく載っている。
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   ※難波宗教: この時は57歳、難波流蹴鞠の祖。北條時頼の蹴鞠の師となり鎌倉で再三の蹴鞠会を催している。
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   ※飛鳥井(難波)教定: 蹴鞠(飛鳥井流蹴鞠の祖)と和歌の名手として名を馳せた飛鳥井雅経の二男で嫡子。
二大流派である難波流と飛鳥井流の共通の祖となったのが難波頼輔
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頼輔の長男宗長→宗教に続いたのが難波流、頼輔の二男雅経が飛鳥井(二条)を名乗って飛鳥井流の祖となり、その二男教定が流派を継承している。
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従って宗教と教定は祖を共にする従兄弟で同業のライバルでもある。先行して鎌倉に下り北條氏と関係を深めていた宗教としては教定の進出が不満だったと推定される。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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4月14日
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吾妻鏡
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晴。大慈寺の破損を修理する運びになった。担当奉行として藤原肥前前司・肥前松葉次郎助宗法師(法名行圓)ら大慈寺に集まって落慶供養の日時を協議し6月14日と定めた。ただし(将軍家が)御聴聞のため出御される場合は御方違えが必要となる旨を陰陽師らからの上申があった。
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   ※大慈寺: 大倉(二所近く)に実朝が建立した大寺で、墓地の一部を除いて既に痕跡も残っていない。
落慶供養の詳細は健保二年(1214)7月27日の吾妻鏡を参照されたし。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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4月15日
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吾妻鏡
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相州禅室(北條時頼)はかねてからの宿願を果たすため、紺色の紙に金字(金泥)で大般若経一部(600巻)を写経し皇太神宮(伊勢神宮)に納経した。時頼が自ら病気を押して願文を清書した重要なもので、宛先は祭主(神職の長)隆通卿である。
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   ※願文詳細: 中国の故事などを引用した美辞麗句を綴っているだけ
で掲載する意味が乏しく、面倒なので割愛する。
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署名は弟子・沙弥(未熟な仏弟子を意味する)道崇、出家後の時頼は覚了房道崇を名乗っている。
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紺紙金泥の写経や願文は清盛の平家納経や藤原清衡の中尊寺経(一切経)で知られている。
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右画像は一行毎に金泥と銀泥で書いた中尊寺経の一部(クリック→ 拡大表示)
更に詳細は平泉 関山中尊寺(サイト内リンク・別窓)を参照されたし。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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4月16日
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吾妻鏡
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曇。月蝕が正しく確認できず、祈祷が催された。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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5月1日
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吾妻鏡
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陰。卯刻(朝6時前後)の日蝕は正しく確認できなかった。丑寅(東北)の方角に祈祷。
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   ※百錬抄: 日蝕は雨のため正見できず。
   ※丑寅(東北): 5月1日は太陽暦の6月14日。いずれにしろ「太陽と北東」は無関係、太陽の対角でもない。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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5月18日
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吾妻鏡
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曇。子刻(深夜0時前後)に大地震(現度計安)。陰陽師の安倍晴茂朝臣兄弟七人が連署して「悪い揺れである」との上申を呈した。広賢は吉祥の揺れだと報告したは対応(祈祷など)を行わなかった。
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   ※現度計安: 出典により現度斗宿・現度安宿がある。揺れの程度を表すらしいが正確な意味は不明。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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5月22日
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吾妻鏡
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安房又太郎を小侍所(将軍側近)の番帳(勤務名簿)に加えた。今までは非番扱いでの出仕をしていた。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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6月1日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。御所で通例の蹴鞠があり、一條侍従定氏の奉行として人々を招集した。将軍家(宗尊親王)は直衣(貴族の平服)で加わった。中納言土御門顕方(布衣)・が300まで数えた。
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    露払い
   式部大夫北條時弘(時広)   右馬助北條時親   中務権少輔守教(布衣)
   佐渡五郎左衛門尉後藤基隆   左衛門尉武藤景頼(布衣)   三村左衛門尉(同)
   左衛門尉鎌田三郎義長(同)   同、兵衛尉鎌田次郎行俊(同)   幸嶋左衛門尉(同)
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    この他に
   所左衛門尉(行景の子)   左衛門四郎   山柄(各々初参加)
   籐三位基朝  宗世らの朝臣 太宰権小貳狩野為佐
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    周防前司島津忠綱ら数人が検査役を務めた。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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6月12日
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北條九代記
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陸奥四郎北條政村が相模守に遷任した。
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   ※人事異動: 前年11月の北條時頼の出家に伴って官職が何度も変遷している。執権となった北條長時は自分
の嫡子時宗が成長するまでの目代(代官)で、出家した北條重時を継いで連署となった政村は長時の代役候補...それが幕政の実権を手放さなかった時頼の思惑だったらしい。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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6月14日
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吾妻鏡
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晴。大慈寺修造の落慶供養を行なう予定だったがまだ工事が終わっていないため延期となった。また二つの星が軌道を侵している事に対応して祈祷が行なわれた。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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6月23日
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吾妻鏡
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晴。巳刻(10時前後)に将軍家(宗尊親王)納涼のため相模太郎北條時宗殿の山内・泉亭に入御し御遊宴。未刻(14時前後)に小雨が降って涼風を催した。
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将軍家は騎馬、
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   城四郎左衛門尉時盛   式部太郎左衛門尉伊賀光政   隠岐次郎左衛門尉佐々木時清
   周防五郎左衛門尉嶋津忠景   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   和泉三郎左衛門尉二階堂行章
   左衛門尉武藤頼泰(景頼の三男)   左衛門尉三善(太田)次郎康有   右近将監武藤景頼
   左衛門尉鎌田三郎義長   同、次郎兵衛尉行俊   土肥四郎實綱(実平遠平-惟平-倫平-実綱と続く)
      以上が御馬の左右に列した。
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  御後(騎馬)
   刑部少輔北條教時   尾張左近大夫将監北條公時   遠江右馬助北條清時(時房時直-清時と続く)
   武蔵左近大夫将監北條時仲(朝直の12男か13男)  陸奥六郎北條義政  同、七郎北條業時
   陸奥三郎北條時村   遠江七郎北條時基   武蔵五郎北條時忠(宣時)
   遠江次郎北條時通   秋田城介安達泰盛   内藤権頭親家
   和泉前司二階堂行方   少卿武藤景頼   丹後守安達頼景
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   ※城四郎時盛: 泰盛の同母弟(異説あり)。
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   ※伊賀光政: 光宗-宗義-光政と続く。五代将軍藤原頼嗣の近習を務め、正元元年(1259)に引付衆。
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   ※佐々木時清: 泰清の次男で嫡子、隠岐氏を名乗った。北條時頼の偏諱を受け時清として元服し、建治元年
(1275)に引付衆、弘安六年(1283)に評定衆に任じている。
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   ※嶋津忠景: 忠綱の三男で宗尊親王の寵臣。和歌や蹴鞠にも造詣が深く、文永三年(1266)7月の宗尊親王
の更迭には最後まで抵抗した。その後は六波羅探題に転任している。
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   ※伊東祐能: 工藤祐経-次男の薩摩守祐長(祐時の弟)-祐能と続く。
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   ※二階堂行章: 二階堂行政-嫡子で検断奉行の行村-四男で評定衆の行方-文永七年(1270)に引付衆
に任じた行章と続く。
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   ※三善康有: 三善(太田)康連の七男。弘長二年(1262)に兄・康宗を継いで問注所執事と評定衆を兼任し、
評定衆在任は弘安六年(1283)まで21年に及んだ。公務を記した「建治三年記」は貴重な文献資料となっている。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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6月24日
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吾妻鏡
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将軍家(宗尊親王)が最明寺殿(山ノ内の北條時宗邸)に逗留して御鞠の会北條があり、将軍家も参加された。中納言土御門顕方・兵衛佐姉小路忠時・二條侍従雅有(名手)・侍従定氏・刑部少輔北條教時・右馬助清時(時房流時直の嫡男)・左近大夫将監時仲(朝直の12男か13男)。相州禅室(北條時頼)以下、見分役が数人。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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6月25日
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)が御所に還御した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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6月28日
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吾妻鏡
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放生会に供奉する随兵の名簿などが回覧となった。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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7月1日
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吾妻鏡
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晴、日中に小雨。 炎暑が続いているため加賀法印が祈雨の祈祷に任じ、昨日七ヶ日の結願である。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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7月5日
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吾妻鏡
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慈雨あり。去る2日から若宮別当僧正隆弁が祈雨の祈祷を続けていた。
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   ※百錬抄、他: 承明門院(源在子)が崩御(86歳)、6日に御葬礼。正嘉元年(1257)春から病床にあった。
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   ※承明門院: 第82代後鳥羽天皇の妃で第83代土御門天皇の生母。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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7月8日
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吾妻鏡
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晴。和泉前司二階堂行方を使者として、御馬・御剣を若宮別当隆弁の坊に届けた。祈雨の祈祷により5日から雨、6・7の両日は大雨となった。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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7月10日
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吾妻鏡
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曇。六波羅の飛脚が鎌倉に到着し、去る5日に承明門院が崩御した旨を報告した。後三條院の時代(1068~1073)に崩御した陽明門院(69代後朱雀天皇の皇后で71代後三条天皇の生母)の例に倣い後嵯峨上皇は五ヶ日の服喪に入る、と。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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7月12日
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吾妻鏡
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曇。内蔵権頭親家が使節として上洛の途に就いた。女院崩御の弔問である。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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建長八年
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7月13日
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吾妻鏡
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晴、夜に入って雨。前浜の鳥居付近で寛喜の例に倣い、天文博士為親朝臣が束帯を着して風伯祭を行なった。
将軍家(宗尊親王)の使者は布衣(狩衣・略礼服)の足立左衛門大夫、祭文の起草は給料(職種の呼称)廣範、清書は左大臣法印厳恵。これ天下が豊年を迎えるための祈祷である。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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8月1日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に大地震あり。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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8月12日
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吾妻鏡
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曇、夕刻に小雨、南風。大慈寺修理の落慶供養について、肥前前司と三井左衛門尉と松葉入道らが将軍家(宗尊親王)の指示を受けて陰陽師と共に惣奉行に任じている常陸入道行日(二階堂行久)の家を訪れて協議した。
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(陰陽師の)晴賢・晴茂・廣資・以平・文元が各々別紙により御方違えを行なうべきと答申した。
更に以平からは「通常の大犯土(土に触る工事)は全て寺家の職分であり、将軍家の聴聞に御方違えをするのは不合理ですが、修理の落慶供養は将軍家の御沙汰。御方違えを省くのは明らかに憚られます。」 との意見が呈され、その方向で議論が収束した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月14日
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吾妻鏡
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(将軍家から)明日の放生会御参宮の供奉人名簿に対馬守佐々木氏信を加えるよう仰せがあったため二階堂行方から越後守北條実時にその旨を伝達した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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8月15日
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吾妻鏡
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晴、夕刻になって雨。鶴岡八幡宮の放生会があり、将軍家(宗尊親王)の出御は通例の通り。
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  先陣の随兵
    河越次郎経重   壱岐左衛門尉後藤基頼   城四郎左衛門尉安達時盛
    和泉三郎左衛門尉二階堂行章   出羽三郎左衛門尉二階堂行重   常陸次郎兵衛尉二階堂行雄
    長井太郎時秀   千葉介頼胤   陸奥七郎北條業時   遠江七郎北條時基
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  次いで前駈
  次いで御車
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   伊勢次郎左衛門尉行経   隠岐次郎左衛門尉時清   上野三郎梶原景氏
   土肥四郎實綱   左衛門尉肥後六郎時景   左衛門尉三善次郎康有
   大曽祢太郎長頼   肥後三郎大曽祢為成   左衛門三善次郎盛村
   大須賀左衛門四郎   上総三郎大曽祢義泰   平賀新三郎維時
   左衛門四郎小泉頼行   兵衛尉鎌田次郎行俊   肥後四郎左衛門尉行定
       以上は直垂に帯剣、御車の左右に行列。
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  御劔役人 武蔵守北條朝直
  御調度  左衛門尉武藤頼泰
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  次いで御後
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  五位(布衣・下括り)
   遠江前司北條時直   刑部少輔北條教時   遠江右馬助北條清時
   尾張左近大夫将監北條公時   武藤左近大夫将監時仲   民部大輔北條時隆
   秋田城介安達泰盛   下野前司宇都宮泰綱   長門前司笠間時朝
   和泉前司二階堂行方   日向守宇佐美祐泰   上総前司大曽祢長経
   太宰権少貳武藤景頼   対馬守佐々木氏信   石見守宗朝
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  六位(布衣・下括り)
   左衛門尉三浦式部太郎光政   上野太郎左衛門尉梶原景綱   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
   新左衛門尉三村時親   右衛門尉三善康長   (御笠手長)武藤右近将監兼頼
.   後陣の随兵
   武蔵五郎北條時忠   駿河五郎北條通時   下野四郎宇都宮景綱
   左衛門尉武籐三郎朝胤   左衛門尉渋谷武重   左衛門尉足立太郎直元
   上野十郎結城朝村   兵衛尉周防四郎泰朝   千葉七郎太郎師時
   新左衛門尉大須賀朝氏
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(将軍家が)廻廊に着座している間、相模守北條政村・武蔵守北條長時・武蔵前司北條朝直・大隅前司嶋津親員・下野前司宇都宮泰綱・前太宰少貳狩野為佐・備後前司町野(三善)康持・上野前司梶原景俊らはその近くに控えた。
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   ※:
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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8月16日
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吾妻鏡
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激しい雨 。将軍家(宗尊親王)が鶴岡八幡宮に出御した。未刻(15時前後)に晴れ間が現れ、流鏑馬などの馬場神事は無事に挙行された。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月17日
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吾妻鏡
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晴、夕刻になって雨。評定衆による会議があり、大慈寺(建保二年(1214)7月27日を参照)修理の落慶供養の際には最明寺(前年7月17日を参照)を御本所(基点として)御方違えを行なうと定めた。
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陰陽師によれば大慈寺は最明寺から東方に当たるので好ましくない。従って日の出前に陰陽師と共に山上に登り正しい方角を確認して報告するよう、左衛門尉清原満定・左衛門尉安東光成(得宗被官)らに指示した。
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夜になって(弔問に上洛していた)内蔵権頭藤原親家が京都から帰着した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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8月18日
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吾妻鏡
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晴。未刻(4時前後)に清原満定と安東光成および陰陽師の晴茂・為親・廣資らが評定所に出仕して報告した。
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今朝未明にまず西御門山に登って、西に残月があり日の出の時刻を迎えている中で方角を確認した。
最明寺から大慈寺は辰戌(東南東)に当たり、最明寺と永福寺は卯酉(東西)に位置する。
次に比企ヶ谷山に登って御所と前尾張守北條時章の名越亭が南北に位置するのを確認した。先年は辰方(東南東)と報告されていたが、これは不確実だったらしい。
(御方違えには)薬師堂谷にある壱岐前司佐々木泰綱の山荘が望ましい。
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   ※方角確認: 各地点を実際の地図(右画像をクリック→拡大表示)に
落とし込んで見ると小さなミスが判る。
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最明寺から見た大慈寺東南東だが永福寺は東寄りの東南東で、明らかに東西の関係ではない。
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西御門山と推定される御谷の東の尾根は標高55m前後、建長寺北側の尾根は標高84m前後で測定位置より高いから、最明寺の位置を見誤った可能性がある。
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薬師ヶ谷は永福寺に続く二階堂道から北條義時が建立した薬師堂(現在の覚園寺)に続く谷で、泰綱の山荘の位置は確定できない。
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また北條名越邸は補陀洛寺の東に切れ込む弁ヶ谷にあったと考えるのが概ね定説になっている。
     弁ヶ谷周辺の鳥瞰図も参考に。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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8月21日
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吾妻鏡
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晴。大慈寺修理の落慶供養に伴う曼陀羅供の大阿闍梨などについての評議があった。
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意見の一致は得られなかったが、建長の例に倣って三位僧正頼兼・安祥寺僧正良瑜・若宮別当僧正隆弁・松殿法印良基・左大臣法印厳恵・日光法印?家らの名を書いた札を箱に入れ籤引きで選ぶこととなった。
詳細の決定は左衛門尉清原満定が担当する。
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願文の起草は茂範朝臣が任じるべきだが経範卿の喪に服している。先例に従って教隆眞人に除服(服喪)を祓わせて起草する案も出たが、既に子息の廣範が対応できる能力を備えており、彼に任せるよう指示を下した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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建長八年
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8月23日
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吾妻鏡
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晴。戌刻(20時前後)に地鳴りを伴った大地震があった。被害を受けなかった神社仏閣は一つとしてなく山崩れや人家の倒壊などが勃発した。築地塀は悉く破損し、各所の地割れから水が湧き出している。中の下馬橋の付近では特に大きな地割れがあり、地底から青い炎が吹き出す有様だった。
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今日、大慈寺修理落慶供養の御布施を手配をする御教書(命令書)を御家人らに発行した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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8月25日
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吾妻鏡
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雨。やや弱い地震が五、六度起きた。左衛門尉筑前次郎行頼を奉行として、地震に対応した御祈祷を催すよう護持僧と陰陽師たちに仰せが発せられた。また勝長寿院の修繕復興についても同様に縫殿頭の中原師連・壱岐前司 後藤基政・備後前司町野(三善)康持らに指示した。
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造営工事の分担は、本堂の勝長寿院を最明寺禅室(北條時頼)、弥勒堂を前武蔵守北條朝直、五仏堂を奥州禅門(北條重時)、三重塔を相模守北條長時と定められた。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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8月28日
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吾妻鏡
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晴。法華堂の箱から一つの小箱を取り出して確認した籤の結果は三位僧正頼兼の名字だった。その場で大慈寺供養の曼陀羅供を差配する大阿闍梨にと定め、和泉前司二階堂行方と太宰権少貳武藤景頼を介して唱和する僧八人を伴って曼陀羅供の任を務めるよう連絡した。
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   ※曼陀羅供: 大壇(正方形の大型)を設け、前の礼盤(導師の座席)に導師が登壇して独自の修法を行う密教の
華やかな法要。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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建長八年
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9月4日
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吾妻鏡
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小雨。申刻(16時前後)に地震あり。先月23日の大地震から小さな地震が続いている。これに対応して安倍為親朝臣が天地災変祭を行なった。小銀家の代理出席は伊賀前司朝行。
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   ※天地災変祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異や怪異・厄年などに対応する。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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9月16日
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吾妻鏡
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晴。勝長寿院修繕の着工は19日との命令が下され、縫殿頭の中原師連が使者として陰陽道の勘文(上申書)を携え、勝長寿院の別当宰相法印最信の宿坊にその旨を連絡した。造営に関する詳細は全て寺家が差配せよ、と。
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その後に寺社奉行の三位律師良明と師阿闍梨禅信らが奥州禅門(北條重時)・相模守北條長時・前武蔵守北條朝直らの屋敷を訪れて工事に伴う各々の分担などについて調整した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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9月18日
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吾妻鏡
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晴。修造にあたって妖魔による妨害を防ぐ祈祷を行なう御教書(命令)を加賀法印に下した。了解を祈った上で工事が終わるまで本尊を運び出し供僧が協力して事に当たる。
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勝長寿院の作業開始に当っては対馬前司三善(矢野)倫長が立ち会い、後藤基政は病気のため欠席した。
諸堂の工事管理を担当する籐左衛門尉安東光成・右衛門工藤三郎尉光泰(以上は相州禅室(北條時頼)の代官)、籐民部大夫入道道佛(奥州禅門(北條政村)の代官)、左衛門尉四方田三郎景綱(相模守北條長時の代官)が事始めに当って参集した工匠らに褒賞を与えた。
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戌刻(20時前後)に勝長寿院に於いて大土公祭(地鎮祭)があり、牛一頭を引いた。安倍晴茂朝臣がこれを差配し、銀造りの剣を与えられた。奉行は対馬前司三善(矢野)倫長
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   内容に影響はないが、この章は判別できない文字や意味不明の表現のため正確な現代語訳ができない。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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9月24日
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吾妻鏡
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晴。地震のため御所の南側と東側の築地が倒壊し、来月一日に予定している大慈寺修造落慶供養の前に修理するべきか否かの協議があった。陰陽師を呼んで方角の忌避などを問合わせたが、意見は一致しなかった。
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為親と廣資は「南の方向は、辰(南々西)以外は問題なし。東の方角は修補に憚りなし。」と主張し、晴賢・晴茂・晴憲・以平・文元らは「この破損は土台から造り直す必要があるため大犯土に該当するから明らかに憚りがある。」と主張し、光栄・有行・泰親らは勘文(上申書)を提出し「保元造内裏の際に築垣は大将軍遊行の間に修理するべきとした。先例に倣って憚るべきとの口伝がある。」と主張した。
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陸奥守北條重時・武蔵守北條長時・武蔵前司北條時直・出羽前司二階堂行義が評議し、修復は中止が決まった。
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   ※保元の造内裏: 保元二年(1157)に実施された内裏の造営では朝廷から一国平均の賦役が課され、以後の
造内裏の前例となっている。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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9月30日
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吾妻鏡
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寅刻(朝4時前後)から雨となり、終日振り続けた。未刻(14時前後)に将軍家(宗尊親王)が壱岐前司佐々木泰綱の薬師堂ヶ谷の山庄に入御した。これは明日の大慈寺修造落慶供養に臨席するための御方違えが目的である。
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夜になって相州禅室(北條時頼)が修理の様子を覧るため大慈寺に入り、奉行人の常陸入道行日(二階堂行久)らの奉行人と面談した。南側の河堰(滑川の堰堤)に椙(杉材)を使っているため時頼は「堂塔の修理に専念したとはいえ、河堰に杉を使うとは残念」と言い残して帰った。
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行久は寺に留まって川を堰き止め、檜材で造り直した。明日の落慶供養に備えて松明を灯して作業を終えた。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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10月1日
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吾妻鏡
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晴。卯刻(朝6時前後)に将軍家宗尊親王佐々木泰綱の家から御所に還御した。
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今日は大慈寺の修造落慶供養で、本堂・丈六堂・新阿弥陀堂・釈迦堂・三重塔・鐘楼堂など全てに修理を加えられ、荘厳な美しさは創建当時を彷彿とさせる。曼陀羅供の大阿闍梨は三位僧正頼兼で唱和する僧は30人、御願文の起草は給料(職域の呼称)のは廣範、清書は左大臣法印厳恵、御諷誦(声に出して経文を唱えること。ここでは相模守北條長時の名を含めて唱える)は廣範で、清書は和泉前司行二階堂行方が担当した。
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当日の会場行事の差配は参河前司教隆眞人(布衣・下括り)と刑部権少輔政茂(束帯)で、未明に寺門に入って奉行に任じた。苑池の南は河(滑川を差す)、釈迦堂から丈六堂まで幔幕(まんまく)を張り、南門の内側に幔幕の入口を設けた。 今日供養を遂げる堂塔は全て幔幕の中にある。
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また本堂前から東の池岸の間に読経の狩屋を設け、池に架かる橋から本堂まで筵(竹で編んだむしろ、か)を敷いた。堂の扉には全て彩の鮮やかな飾りを下げて燈明を備え、本堂西の間を大阿闍梨の座とした。東の間から東北に折れた部分が唱和する僧衆の座である。
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三井寺の大阿闍梨だった時には散花(花を撒いて仏を供養すること)の机を置かず、(花を撒く)童子の席も設けなかった事に倣って、西の回廊に御聴聞所とした。(将軍家に)近習する女房(女官)は既に控えているが、まだ御息所(将軍の正室)を迎えていないため几帳帷(高位の女性を衆目から隠す間仕切り)は置いていない。
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東の回廊には執権長時の御聴聞所を、丈六堂に続く東西の回廊には布施取りの公卿と殿上人の座を設けた。
公卿は高麗縁、殿上人は紫の敷物である。同じく中間の回廊に諸大夫(四位と五位)の座(紫縁)を設けた。
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巳刻(10時前後)に将軍家(宗尊親王)が御束帯・御帯剣で出御。
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  供奉人の行列
  先陣の随兵(二行)
    武田五郎三郎政綱   小笠原十郎行長
    長井太郎時秀   下野七郎宇都宮経綱泰綱の二男
    遠江次郎時通   畠山上野三郎国氏(泰国の嫡子)
    武蔵五郎北條時忠   備前三郎長頼
    陸奥七郎北條業時   新相模三郎時村
    遠江七郎北條時基   陸奥六郎義政
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  御車
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    左衛門尉隠岐次郎時清    左衛門尉三善次郎康有
    左衛門尉山内三郎通廉    左衛門尉肥後六郎時景
    兵衛尉大見肥後四郎行定   同、五郎忠景
    左衛門小泉四郎頼行   上野三郎梶原景氏
    筑前五郎行重   平賀新三郎惟時
    左衛門三善次郎盛村   太宰肥後三郎為成
      各々直垂を着して帯剣、御車の左右に列歩す
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  御調度(将軍家の弓箭を携帯) 武藤次郎左衛門尉頼泰
  御後(布衣)
    武蔵前司北條朝直   尾張前司北條時章(御剣役)
    中務権大輔足利家氏   越後守北條実時
    刑部少輔北條教時   下野前司宇都宮泰綱
    武蔵左近大夫将監北條時仲   相模式部大夫北條時広
    秋田城介安達泰盛   越後右馬助北條時親
    民部権大輔北條時隆   遠江右馬助北條清時
    丹後守頼景   出羽前司小山長村
    和泉前司二階堂行方   太宰権小貳武藤景頼
    上総介長泰   大隅前司親員
    石見前司能行   伊賀前司時家
    周防守忠綱   日向守伊東祐泰
    備後前司町野(三善)康持   左衛門尉伊豆太郎實保
    式部太郎左衛門尉光政   武籐三郎左衛門尉頼胤
    鎌田三郎左衛門尉義長   鎌田次郎兵衛尉行俊
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  後陣の随兵
    三浦遠江三郎左衛門尉泰盛   長江八郎景泰
    千葉介頼胤   左衛門尉城四郎時盛
    上野五郎左衛門尉重光   阿曽沼小次郎光綱
    三浦遠江十郎左衛門尉頼連   兵衛尉常陸次郎行雄
    河越次郎経重   武藤右近将監兼頼
    風早太郎常康   小田左衛門尉時知
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行列の行程について、三位中将家(前将軍藤原頼嗣)が永福寺供養に出御した際は右大将家(頼朝)の法華堂前で輿を降り供奉人も下馬したのだが、今回は必要なしと予め定めており、寺の南門に着いてから御車を降りた。右近大夫大江佐房が踏み台を置き、土御門中納言と花山院宰相中将および殿上人らが前もって寺門の外に控えた。
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公卿と殿上人は騎馬での供奉を認めるとの通達はあったが、公卿が騎馬で親王に供奉する前例が明確ではないため避けたものである。また右丞相(三代将軍実朝)は御拝賀の際の不吉により判断から除外した。
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次に先陣の随兵が門に入って池の西岸に控え、将軍家が入御した後に後陣の随兵も同様に東の池の南岸に列座した。将軍家は池の橋と筵道を通って本堂西廊の東を経て簾中に入御、黄門(中納言の唐名、土御門を差す)が進み出て御剣と笏を献じた。供奉した五位と六位は御聴聞所南の庭に置いた床子(四脚の腰掛け)に控えた。
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次に公卿と殿上人が筵道を通って堂前に着座した。これより前に近衛司と侍従が位階の通り諸大夫の上座に在るのが本来である、今日は位次に従うべきと主張した。これについては奉行の政茂から法会を妨げてはならぬとの指示があった。位階の順は佐房(少輔左近大夫)・公敦(坊城少将)・政茂(刑部少輔、今日の奉行)・公連(六條侍従)・雅有(二條侍従)の順である。大夫判官泰清(朱紋)と上野判官廣綱(白襖)が大慈寺惣門の警固に任じた。
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午の一点(11時過ぎ)に大阿闍梨三位僧正頼兼が南門前の橋に到着し、派遣された手輿(退紅(薄い紅色の衣装)の仕丁六人これを担った)に乗り移った。幔幕の入口を門に通る際には越中前司頼業と長門前司時朝が執綱(布の日傘を両側から支える綱)を、執蓋(布の日傘を持つ)を小山太郎左衛門尉が務めた。
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堂中の職衆(法会に参加する僧)は全員が筵道に近寄って鐘を 打ち鉢を突いて頌讃(誉め称える役)に任じた。

  職衆    (寺宰相)法印権大僧都清尊   (寺宮内卿)法印権大僧都房源
(寺大輔)法印権大僧都尊遍   (寺土佐)権少僧都實性
(寺大夫)権少僧都聖尊   (寺卿)権少僧都長尊
(山伊豫)権少僧都性圓   権少僧都兼伊   権少僧都定賢
権少僧都増慶   権律師経厳   権律師長性
(寺治部卿)権律師頼承   (寺)権律師隆禅   権律師慶尊   阿闍梨尊栄
大法師定西   大法師頼圓   大法師静禅   大法師定範
(寺大輔)阿闍梨頼宴   内供奉弁盛   大法師圓海   阿闍梨眞知
阿闍梨頼珍   大法師頼珍   大法師良慶   大法師快舜
大法師性舜   大法師常照   阿闍梨兼朝
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大阿闍梨が本堂に入り御誦経と鐘並びに法要が終わって御布施を大阿闍梨に贈った。錦の被物に加えて布施の御剣(共に顕方卿が渡す)。
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大阿闍梨の御布施、
法服一具(革鞋在り)・横被一帖・水精念珠一連(銀の打枝に在り)・上童装束二具・童装束四具・
被物三十重(錦一重・織物九重・綾二十重)・錦の裹物一(綾十具を納む)・精好絹三十疋・白綾三十疋・
色々の綾三十疋・顕文紗三十疋・唐綾三十段・計帳三十段・縫筋三十段・紫染物三十段・紫村濃三十段・
紺村濃三十段・染付三十段・巻絹三十疋・帖絹三十疋・地白綾三十段・浅黄染綾三十端・染物三十端・
色皮三十枚(以上は漆箱に納め、組を付けこれを結ぶ)・白布三十段・藍摺三十段・紺布三十段、已上。
絲三百両・香三百両・綿三百両・御馬十疋・供米二十石、御加布施は銀劔一腰(錦の袋に入る)・砂金百両。
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御布施取りは
土御門中納言顕方卿   花山院宰相中将長雅卿   仁和寺三位顕氏卿
二條三位教定卿   刑部卿宗教卿   一條中将能基朝臣
一條前少将能清朝臣   中御門中将公寛朝臣   中御門少将實齊朝臣
中御門侍従宗世   坊城少将公敦   六條侍従公連
二條侍従雅有   少輔左近大夫佐房   刑部少輔政茂
駿河新大夫俊定   前近江守季實   押立蔵人大夫資能
伊達左衛門蔵人親長   長井判官代泰茂
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職衆の御布施は、一人当たり青鳬(銭)一万五千疋・八木十果。御諷誦物(唱謡人)は奥布百段。
次に御布施などを撒く(餅撒きみたいな行事か)。通例は御馬を引いた後だが仰せによって先行した。
次に御馬。幔幕入口から本堂前に引き入れ殿上童(元服前に登殿を許された少年)らがこれを受け取った。
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   御馬十疋(鞍を置く)
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     一.鹿毛(前武蔵守北條時直の進)   鞍(相州禅室北條時頼の御所進)  時頼だけ「御」が付いてる。
        引手は 肥後次郎左衛門尉為時  同、三郎左衛門尉
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     二.河原毛(相州禅室北條時頼の御所進)   鞍(足利三郎頼氏(利氏)の進)
        引手は 隠岐三郎左衛門尉行景   同、四郎行兼
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     三.鹿毛(武蔵守北條朝直の進)   鞍(秋田城介安達泰盛の進)
        引手は 一宮左衛門尉三善康長   左衛門尉三善五郎康家
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     四.鹿毛(奥州禅門北條重時の進)   鞍(相模守北條政村の進)
        引手は 周防三郎左衛門尉忠行   同、四郎左衛門尉忠泰
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     五.黒駮(相模守北條長時の進)     鞍(奥州禅門北條重時の進)
        引手は 薩摩七郎左衛門尉祐能   同、十郎祐廣
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     六.栗毛(秋田城介安達泰盛の進)    鞍(武蔵守北條朝直の進)
        引手は 大須賀新左衛門尉朝氏   同、四郎
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     七.栗毛(足利三郎頼氏(利氏)の進)  鞍(筑前入道の進)
        引手は 筑前次郎左衛門尉行頼   同、五郎行重
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     八.鹿毛(前尾張守北條時章の進)   鞍(前武蔵守北條時直の進)
        引手は 大曽祢上総左衛門尉長経   同、二郎左衛門尉義泰
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     九.黒(筑前入道進)   鞍(長井太郎時秀の進)
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        引手は 土肥次郎兵尉朝平   同、四郎實綱
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     十.栗毛(長井太郎時秀の進)  鞍(前尾張守北條時章の進)
        引手は 塩谷周防四郎兵衛尉泰朝   同、五郎親時
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(将軍家の)還御は夕暮れとなり、塔之辻の付近から松明が灯された。
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   ※給与: 所領を持たず、常勤する給与生活者を差すらしい。住み込みで一日当り玄米5升の年俸を受けている
「朝夕祗候人」と同様か。
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   ※御息所: この場合は将軍家宗尊親王の正室を差す。摂関・太政大臣近衛兼経(wiki)の娘・宰子は20歳の
文応元年(1260)2月に鎌倉に下って北條時頼の猶子となり、3月に宗尊親王に嫁している。
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   ※丈六堂: 一丈六尺(16尺・約4.85m)の仏像を納めた堂。仏陀の身長は丈六だったとの説話から発生した
考え方で、仏像(立像)は等倍・5倍・10倍・2分の1などを基準に造像される。坐像の場合は丈六の半分(約2.4m)が基準、大慈寺丈六堂本尊は詳細の記録がなく、サイズは想像するしかない。
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   ※塔之辻: 鎌倉には七ヶ所の塔之辻(つまり道路が交差する地点に建てた石塔)があった、とされる。
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私の知る限り、現存しているのは由比ヶ浜古道の近くにある石塔残欠だけだが、小町大路と横大路(六浦道・金沢街道)が交差する筋替橋近くにも塔の一つがあったらしい。
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右上画像は鎌倉にあったと伝わる塔之辻七ヶ所の地図。
右下画像は由比ヶ浜古道に残る笹目塔之辻の石塔残欠。
     共に画像をクリック→ 拡大表示。

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更に詳細は「塔ノ辻から小町口へ続く古 道」の中盤(サイト内リンク・別窓)に記載。愛児を鷲に攫われた染谷時忠の悲しみを今に伝えている。
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今回の塔之辻は文暦二年(1235)6月29日の吾妻鏡に、当時の将軍藤原頼経が五大尊堂(大慈寺が隣接していた現在の明王院・公式サイト)での祈祷に立ち会う際の記述(下記)と合致する。その時の地図はこちらで。
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「南門から御所を出立し小町大路を北へ、塔之辻を東に向かった。」
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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康元二年
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10月13日
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吾妻鏡
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晴、夜に入り雷鳴と落雷が終夜続いた。
今暁、甲斐太郎時秀と上総前司大曽祢長泰が使節として上洛の途に就いた。山門(比叡山)と園城寺(三井寺)の紛争調停に当たるためである。また左衛門尉遠江十郎頼連(佐原(三浦)盛連の子で、佐原 (蘆名)光盛の弟)が内々の使者(六波羅宛?)として急遽出発した。両人より先着となるか。
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   ※甲斐時秀: 長井時秀を差す。「甲斐」は、父の長井泰秀(既に死没)が甲斐守に任じていた関係による。
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   ※大曽祢長泰: 武田(源)義清-嫡子武田清光-三男加賀美遠光-二男小笠原長清伴野(小笠原)時長
時直-長泰と続く甲斐源氏の名門(源氏の系図を参照)。
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時長の娘が安達義景に嫁して泰盛を産んでおり、長泰と泰盛は従兄弟の関係にある。
弘安八年(1285)の霜月騒動での泰盛滅亡に伴って長泰一族も多くが落命しており、生き残った三男の泰房が安達氏の旧領三河国に逃れ、子孫が三河小笠原氏の祖となっている。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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10月15日
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吾妻鏡
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朝のうち雨、夕刻になって激しい雨と雷鳴あり。丑刻(深夜2時前後)になって地震。
雨の間を縫って将軍家(宗尊親王)は御所の南庭で相撲を観覧。相模守北條政村・武蔵守北條朝直・前武蔵守北條時直ら簀子(篠竹で編んだすのこ)に 列座し、見物人が垣根のように連なったのは壮観である。
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  相撲の取り組み
     一番  左 伊豫三郎 vs 右 中次
     二番  左 伊豫五郎 vs 右 小野四郎
     三番  左 荒作三郎 vs 右 平次郎
     四番  左 平三郎 vs 右 安藤三郎
     五番  左 萩薗弥太郎 vs 右 四郎太郎
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   ※相撲: 家元である吉田司家の所伝に拠れば、神亀三年(726)に禁じ手として「突く・殴る・蹴る」が定められた
と伝わる。ルールなしの実戦形式だと思っていたのは私の思い込みだったらしい。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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10月16日
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吾妻鏡
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晴。四分の一の月蝕を確認し、松殿法印良基が祈祷に任じた。
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御所築地の修理については方違えについての意見提出がなく、将軍家(宗尊親王)は当番の陰陽師・為親に直接質問し、「従来からこの様な場合の対応は定めていません」との返答があった。
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将軍家は更に、(鎌倉での)先例に依拠するな、京都での例があるから早急に報告せよ。27丈(約82m)の範囲内であれば御所であっても移動が必要となる筈だ、と。為親は「南側に関しては問題なし、東側27丈のうち西対(回廊で結ばれた一郭)を移動させます。」と答えた。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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10月26日
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吾妻鏡
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晴。前備後守従五位上の町野(三善)康持朝臣が没した(52歳)。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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11月8日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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大地震があった。去る8月23日のような揺れである。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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11月22日
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吾妻鏡
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晴。丑刻(午前2時前後)に若宮大路一帯で火災があった。籐次郎左衛門入道の家から出火し、花山院新中納言・陸奥七郎・下野前司・内蔵権頭らの家、式部大夫入道の旧宅、壱岐前司・伊豆太郎左衛門尉・前縫殿頭文元らの家が焼失、田楽辻子まで燃えて鎮火した。
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   ※田楽辻子: 嘉禄三年(1227)1月2日の吾妻鏡に「戌刻(20時前後)に田楽辻子の東西一町(距離の場合は
100m強、面積の場合は約100m四方)ほど焼失した。」との記事がある。
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田楽辻子は六浦道から大御堂橋を渡った先で勝長寿院への道を分岐し、滑川南岸を報国寺(公式サイト・創建は鎌倉幕府滅亡後)近くの宅間ヶ谷に抜ける小道。
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田楽(歌舞演芸を主とした民間芸能)を職業とする者が多く住んでいたと言われるが、確証はない。
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ただし「若宮大路から大御堂橋を渡った先まで延焼した」を文字通りに読めば、若宮大路幕府や執権邸や得宗被官の家も被災した事になってしまう..。 地図の参照を。
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     右画像をクリック→ 拡大表示
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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11月23日
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吾妻鏡
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晴。酉刻(18時前後)に越後守北條実時朝臣の息子(十歳)が相州禅室(北條時頼)邸で元服し、越後四郎時方と名乗った。理髪は丹後守安達頼景、加冠は相模太郎北條時宗(七歳)。
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   ※四郎時方: 後に顕時と改名し、安達泰盛の娘である千代野を正室
(後妻説もある)に迎えている。
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弘安八年(1285)の霜月騒動で泰盛が滅びた際に顕時は関与しなかったが、泰盛一族に連座して謹慎処分となり、出家して難を逃れた。永仁元年(1293)の平頼綱滅亡に伴って復権し、幕政に戻っている。
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   ※千代野: 海蔵寺の側に、夫の失脚・出家に従って出家した千代野が
悟りを開いたと伝わる「底脱の井戸」が残っている。
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海蔵寺は鎌倉陥落の際に化粧坂を突破された北條勢の守備隊が立て籠った末に全滅した場所でもある。
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海蔵寺の風景と千代野の悟りは、右画像(底脱の井戸)をクリックして 化粧坂(気和飛坂)の合戦と海蔵寺(サイト内リンク・別窓)を参照されたし。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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11月24日
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吾妻鏡
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明年正月の御的始めに出場する射手を選び出し、越後守北條実時が奉書(決定通知)を発行した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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12月6日
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。甲斐太郎長井時秀と上総前司大曽祢長泰(10月13日を参照)が京都から帰参した。比叡山と園城寺の争乱収拾のため去る10月に使節として上洛していた。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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12月12日
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吾妻鏡
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武蔵国司北條長時の子息(宮王)が体調不良。
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   ※宮王: 元服後の嫡男義宗か。叔父北條時茂の没後に六波羅北方に任じ、文永九年(1272)の二月騒動では
北條時輔を討ち取っている。建治二年(1276)に鎌倉に戻り翌年6月に評定衆に任じたが8月に25歳で死没した。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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12月16日
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吾妻鏡
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評定あり。明春の三嶋大社と伊豆・筥根権現の将軍家(宗尊親王)御参詣についての決裁があり、通例に倣って供奉の人数を記載して進覧するよう小侍所に指示が下された。和泉前司行二階堂行方がこの仰せを伝えた。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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12月17日
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吾妻鏡
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遠江十郎左衛門尉頼連(佐原(三浦)盛連の子で佐原 (蘆名)光盛の弟)が京都から帰参した。先日両使(甲斐時秀と大曽祢長泰)より前に入洛したのだが、二人が京都を発った後の結果確認を待って遅延したものである。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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12月18日
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吾妻鏡
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二所御参詣の供奉人の総名簿について、陸奥掃部助北條実時と和泉前司二階堂行方に確認させ全てに招集を伝えるよう定められ、回覧状を発行した。最終的には将軍家(宗尊親王)の確認を経て参集を命じることになる。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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12月23日
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吾妻鏡
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晴。立春に伴う御方違えあり。
二棟の御所(寝殿造りの寝殿東北に突き出した建物)の西端、御寝所(私室)の未申(南西)方向に該当する。
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   ※立春: 新暦では2月4日(2021年からは2月3日)、旧暦では12月の後半から1月の前半が該当する。
正嘉二年の立春が何日に該当するのかは判らないが、たぶん12月23日なのだろうと思う。
更に詳細は立春(wiki)を参照されたし。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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12月24日
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吾妻鏡
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晴。御所に勤務できる御家人の中から優れた人材を選んで、初めて廂(ひさし)衆を組織した。これは仙洞(院の御所)の例を関東に採用したのだが、何らかの支障があるか否かを相州禅室 (北條時頼)に問い合わせ、内蔵権頭親家・遠江十郎左衛門尉頼連を使者として内々に(上皇の)叡慮を窺った後に勅許を得たものである。
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また、侍の参昇についての問い合わせには否定的な意向を示され、御宸筆(院の直筆)の書簡を下された。
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この際に珍しい事があった。頼連は使節として姓名の記録を再三求めた結果それが認められ、次に問見参結番について、(仙洞での)直近二年程は組織が自然消滅状態で、今日改めて精勤している者を選んで再編成した、と。

  廂御所の一昼夜勤務表の件
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    一番(子と午の日)
       一條少将   相模式部大夫   陸奥六郎
       備前三郎   上総三郎   大隅修理亮
       出羽次郎左衛門尉   筑前三郎左衛門尉   壱岐三郎右衛門尉
       城五郎
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    二番(丑と未の日)
       阿野少将   相模三郎   武蔵五郎
       後藤壱岐前司   薩摩七郎左衛門尉   式部太郎左衛門尉
       小野寺新左衛門尉   城四郎左衛門尉   鎌田三郎左衛門尉
       一宮次郎左衛門尉
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    三番(寅と申の日)
       中御門少将   尾張左近大夫将監   遠江七郎
       新田参河前司   刑部権大輔   出羽三郎左衛門尉
       和泉三郎左衛門尉   常陸兵衛尉   出羽七郎
       平賀新三郎
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    四番(卯と酉の日)
       冷泉少将   越後右馬助   新相模三郎
       武蔵八郎   足利三郎   佐渡五郎左衛門尉
       壱岐新左衛門尉   加藤左衛門尉   城六郎
       大泉九郎
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    五番(辰と戌の日)
       二條侍従   陸奥の七郎   内蔵権頭
       前の采女正   武籐左衛門尉   隠岐次郎左衛門尉
       周防五郎左衛門尉   上総三郎左衛門尉   武蔵左近将監
       土肥四郎
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    六番(巳と亥の日)
       刑部少輔   武蔵左近大夫将監   遠江七郎
       秋田城介   上野太郎左衛門尉   伊勢次郎左衛門尉
       肥後三郎左衛門尉   駿河蔵人次郎   下野四郎
       大曽祢左衛門太郎
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    以上の勤務割を守り、昼夜過怠無く勤仕する様、仰せに依って定める。  正嘉元年十二月 日

  問見参結番について
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    一番(子と午の日)
       城四郎左衛門尉   周防五郎左衛門尉   塩谷周防四郎兵衛尉(追加)
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    二番(丑と未の日)
       隠岐三郎左衛門尉   上総太郎左衛門尉   太宰肥後三郎   色部右衛門尉(追加)
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    三番(寅と申の日)
       小山七郎左衛門尉   押立蔵人大夫   土肥四郎
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    四番(卯と酉の日)
       城六郎   式部太郎左衛門尉   薩摩十郎
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    五番(辰と戌の日)
       後藤壱岐左衛門尉   武藤左衛門尉   狩野左衛門四郎
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    六番(巳と亥の日)
       左衛門尉幸嶋小三郎   左衛門尉加地五郎   左衛門牧次郎(追加)   波多野兵衛次郎
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    以上の勤務割を守り、昼夜過怠無く勤仕する様、仰せに依って定める。  正嘉元年十二月 日.

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   ※廂衆: 鎌倉幕府の職名(廂番とも)。勤務表を定めて将軍の廂御所に宿直し警固する任務で10人を1組とし、
6組の構成とした。文応元年(1260)には1組を12人に増員している。
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   ※参昇: 吾妻鏡の承元三年(1209)11月14日に北條義時から将軍実朝に次の要望を呈している。
   以前から私に仕えていた郎従の中から功績のある者を選んで御家人に準じる待遇としたい。
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これに対して実朝は次のように答えている。
それを認めれば子孫の時代になった時に当初の経緯を忘れ、幕府參昇(幕政への関与)を企てるようになるだろう。後世に問題を残す恐れがあるから、将来も認めてはならない。
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今回の院の対応は、概ね実朝の返答と同じ様な内容だと考えられる。
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   ※問見参結番: 出仕している者を見つけて将軍の御用を伝える役職。6組・総数20人の構成だった。
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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12月29日
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吾妻鏡
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那波刑部少輔・周防五郎左衛門尉・三善次郎左衛門尉・平賀新三郎らが二所御参詣の供奉人に追加した。回覧状に書き漏らしたためである。今日、御格子番(格子の開閉を担当する役)を結番した。
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  御格子上下の勤務割についての決定(順不同)
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    一番
       刑部少輔教時   武蔵左近大夫将監時仲   備前三郎長頼
       内蔵権頭親家   城六郎顕盛   大隅修理亮久時
       筑前次郎左衛門尉行頼   出羽次郎左衛門尉行有   隠岐次郎左衛門尉行氏
       一宮次郎左衛門尉康有
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    二番
       相模式部大夫時廣   武蔵五郎時忠   駿河左近大夫
       伊勢次郎左衛門尉行経   和泉次郎左衛門尉行章   城中六郎左衛門尉時業
       出雲次郎左衛門尉時光   梶原上野三郎景氏   対馬太郎頼氏
       鎌田三郎左衛門尉義長
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    三番
       尾張左近大夫将監公時   駿河五郎通時   能登左近蔵人仲家
       下野四郎景綱   壱岐新左衛門尉基頼   筑前三郎左衛門尉行實
       出羽三郎左衛門尉行資   式部太郎左衛門尉光政   大須賀新左衛門尉頼氏
       平賀新三郎維時
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    四番
       遠江右馬助清時   武蔵八郎頼直   長井判官代泰元
       城五郎重景   隠岐次郎左衛門尉時清   常陸次郎兵衛尉行雄
       上総三郎左衛門尉義泰   加藤左衛門尉景経   薩摩七郎左衛門尉祐能
       大泉九郎長氏
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    五番
       越後右馬助時親   遠江次郎時通   小山出羽四郎時朝
       美作兵衛蔵人長教   壱岐三郎左衛門尉頼綱   遠江十郎左衛門尉頼連
       武籐四郎左衛門尉胤氏   肥後新左衛門尉景茂   小野寺新左衛門尉行通
       土肥四郎實綱
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    六番        陸奥六郎義政   同七郎業時   足利三郎頼氏
       佐渡五郎左衛門尉基隆   上野五郎兵衛尉重光   氏家左衛門尉経朝
       武藤三郎左衛門尉頼泰   周防五郎左衛門尉忠景   山内三郎左衛門尉通廣
       鎌田次郎兵衛尉行俊
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    右次第を守り、各々懈怠無く参勤すべきの状、仰せに依って定める所件の如し。   正嘉元年十二月日.

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   ※:
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦‬1257年
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89代後深草天皇
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正嘉元年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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