正嘉二年(1258年)

.
前年・正嘉元年(1257)の吾妻鏡へ       翌年・正嘉三年(1259)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示する場合は 吾妻鏡を読む のトップページ で。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。
.
当サイトのアドレスは http://23.pro.tok2.com/~freehand2/ に一本化しています。ブックマークの変更をお願いします。

天皇
月日
記事
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。相州禅室北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。両国司(相模守北條長時と武蔵守北條朝直)が大庇(建物正面の全面に設けたひさし)に、それ以外の御家人は庭の東西に着座した。
.
  西の席次
.
     武蔵前司北條朝直   尾張前司北條時章   遠江前司   越後守北條実時
     刑部少輔   陸奥六郎北條義政   越後四郎   陸奥七郎北條業時
     出羽前司小山長村   下野前司宇都宮泰綱   那波刑部権少輔   和泉前司二階堂行方
     長門前司   丹後守   江石見前司   秋田城介
     長井太郎   筑前次郎左衛門尉   弾正忠   対馬前司
     後藤壱岐前司   上野介   日向守宇佐美祐泰   対馬守
     武藤少卿   大田民部大夫   清左衛門尉   善左衛門尉
     城五郎左衛門尉    同、六郎   城弥九郎
     太宰肥後次郎左衛門尉   同、三郎左衛門尉   和泉六郎左衛門尉
     出羽三郎左衛門尉   筑前三郎左衛門尉   隠岐三郎左衛門尉
     式部太郎左衛門尉   下野四郎   武石左衛尉
     常陸次郎兵衛尉   肥後三郎左衛門尉   筑前四郎左衛門尉
     伊勢次郎左衛門尉   武藤左近将監   渋谷太郎左衛門尉
     武藤次郎左衛門尉   筑前五郎左衛門尉   上野太郎左衛門尉
     後藤壱岐新左衛門尉   波多野出雲左衛門尉   加藤左衛門尉
     後藤四郎左衛門尉   長又太郎左衛門尉   長門守
     上総介   大曽祢左衛門七郎   伊賀式部兵衛次郎
     山内三郎左衛門尉   佐渡五郎左衛門尉   土肥四郎
     梶原上野三郎   対馬三郎   宇都宮石見守
.
  東の席次
.
     中務大輔   越後右馬助   相模式部大夫   駿河五郎
     遠江七郎   武蔵右近大夫将監   相模三郎   遠江右馬助
     張左近大夫将監   上総三郎   民部権大輔   備前三郎
     遠江次郎   越後又三郎   武蔵五郎   遠江修理亮三郎
     武蔵八郎   新田参河前司   少輔左近大夫   小山出羽前司
     畠山上野三郎   越中前司   嶋津大隅前司   参河前司
     摂津大隅前司   近江前司   籐肥前前司   周防守
     石見前司   周防修理亮   河内式部大夫   備中判官代
     白河出雲権守   押立左近大夫   那波次郎   美作左近大夫
     少輔木工助太郎   赤塚蔵人   安藝左近蔵人   宗掃部助
     長井判官代   和泉三郎左衛門尉   得河左近大夫   駿河蔵人次郎
     皆吉大炊助   大隅修理亮   大隅式部大夫   大隅大炊助
     信濃蔵人   安芸掃部大夫   宗民部大夫   佐藤民部大夫
     後藤四郎左衛門尉   鎌田左衛門尉   紀伊次郎左衛門尉
     薩摩七郎左衛門尉   進三郎左衛門尉   荻野新左衛門尉
     豊後新左衛門尉   周防三郎左衛門尉   紀伊次郎左衛門尉
     善五郎左衛門尉   平岡左衛門尉   籐肥前三郎左衛門尉
     善次郎左衛門尉   大隅式部丞   遠江大炊助三郎
     周防四郎左衛門尉   後藤彌四郎左衛門尉   大須賀新左衛門尉
     隠岐次郎左衛門尉   大田四郎左衛門尉   鎌田三郎左衛門尉
     長田左衛門尉   津戸新民部丞   周防五郎左衛門尉
     鎌田新左衛門尉   鎌田次郎兵衛尉   和泉次郎左衛門尉
     萩原左衛門尉   那須左衛門尉   齋藤右馬允
     大隅四郎   大須賀四郎   河内太郎
     周防五郎   出雲三郎   肥後四郎兵衛尉
     加治中務左衛門尉   藤田新左衛門尉   齋藤五郎左衛門尉
     宇間左衛門尉   大学允   稲毛兵衛太郎
     豊前四郎左衛門尉   平賀新三郎   葛西又太郎
     狩野五郎左衛門尉   小泉五郎   大多和新左衛門尉
     河野左衛門四郎   阿保次郎左衛尉   金子平次左衛門尉
     河内左衛門太郎   阿保左衛門三郎   高水右近三郎
     阿保左衛門四郎   齋藤六郎   平賀弥四郎
     黒澤太郎兵衛尉   豊前八郎左衛門尉   山内兵衛三郎
     越前五郎   雅楽左衛門太郎   豊前宮内左衛門太郎
     大泉九郎   大須賀新左衛門尉   備中右近大夫
     和泉七郎左衛門尉   長門三郎
.
  定刻になって将軍家(宗尊親王)が出御(御束帯)。土御門中納言顕方が御簾を上げた。
.
     御剣約は 武蔵前司北條朝直  御弓箭は 尾張前司北條時章  御行騰沓は 越後守北條実時
.
     一の御馬は  遠江七郎時基 と 工藤次郎左衛門尉高光
     二の御馬は  陸奥七郎業時 と 南條新左衛門尉
     三の御馬は  新相模三郎時村 と 安東刑部左衛門尉
     四の御馬は  城四郎左衛門尉時盛 と 同五郎重景
     五の御馬は  出羽三郎左衛門尉行資 と 同、七郎行頼.

.
   ※年令: 執権を退いた北條時頼は30歳・ 連署の北條重時は59歳・ 六代執権になった北條長時は27歳・
七代執権になる北條政村は54歳・ 八代執権になる北條時宗は6歳7ヶ月、 兄の時輔は9歳6ヶ月・
.
安達泰盛は27歳・ 足利氏四代当主足利泰氏は42歳・ 宇都宮氏六代当主宇都宮泰綱は56歳・
古参の評定衆二階堂行義は55歳・ 後に権力を握る御内人平頼綱は17歳・
.
六代将軍の宗尊親王は15歳・第89代後深草天皇は14歳・先帝の後嵯峨上皇は36歳
                       (表示は全て満年齢)
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月2日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家の御行始めに伴う供奉人の件、小侍所に命じて昨日庭に列座した者を書き出し将軍家の付点を得た。
和泉前司二階堂行方がこれを奉行した。 今日の椀飯は奥州禅門北條重時の沙汰による。

   御簾を挙げる役は 土御門黄門(中納言)顕方
   御剣役は 尾張前司北條時章
   御調度役は 下野前司宇都宮泰綱
   御行騰沓役は 太宰権少貳武藤景頼
.
   一の御馬は  新相模三郎時村 と 式部太郎左衛門尉光政
   二の御馬は  武蔵五郎北條時忠 と 同、八郎頼直
   三の御馬は  肥後次郎左衛門尉為時 と 同、三郎左衛門の尉
   四の御馬は  梶原太郎左衛門尉景綱 と 同、三郎景氏
   五の御馬は  陸奥七郎北條業時 と 原田籐内左衛門尉
.
  椀飯の後、将軍家は相州禅室北條時頼邸に御行始め。
.
  供奉人(布衣・下括り)
.
    五位
      武蔵前司北條朝直(御剣を持つ)   尾張前司北條時章
      遠江前司北條時直   越後守北條実時
      越後右馬助北條時親    刑部少輔北條教時
      尾張左近大夫将監北條(名越)公時   遠江右馬助北條清時
      武蔵左近大夫将監時仲   中務権大輔足利家氏
      秋田城介安達泰盛   出羽前司二階堂行義
      下野前司宇都宮泰綱   壱岐前司後藤基政
      和泉前司二階堂行方   参河前司新田(世良田)頼氏
      上総前司大曽祢長泰   内蔵権頭親家
      少卿武藤景頼   丹後守頼景
.
   六位
      相模三郎北條時利   遠江七郎北條時基
      備前三郎長頼   陸奥七郎北條業時
      足利上総三郎満氏   長井太郎時秀
      出羽次郎左衛門尉二階堂行有   式部太郎左衛門尉光政
      佐渡五郎左衛門尉後藤基隆   周防五郎左衛門尉忠景
      隠岐次郎左衛門尉時清   武藤次郎左衛門尉頼泰
      和泉三郎左衛門尉二階堂行章   壱岐新左衛門尉後藤基頼
      薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   常陸次郎兵衛尉行雄
      一宮次郎左衛門尉三善康有   加藤左衛門尉景経
      武藤左近将監兼頼   鎌田三郎左衛門尉義長
      同次郎兵衛尉行俊
.
  御遊已後に御引出物を献じた。役人、
.
   御剣は 刑部少輔北條教時
   砂金は 出羽前司二階堂行義
   鷹羽は 秋田城介安達泰盛
.
   一の御馬は  相模三郎北條時利 と 工藤三郎左衛門尉光泰
   二の御馬は  備前三郎長頼 と 工藤次郎左衛門尉高光
   三の御馬は  筑前次郎左衛門尉行頼 と 同、五郎行重
.
夜になって勝長寿院(サイト内リンク・別窓)の惣門(四脚門)を上棟した。以前は門が無く、初めての建立である。
縫殿頭の中原師連が現地に立会い、大工(布衣を着す)に御馬・御衣等などを下賜した。天火日である事を申し立て忌避する者もいたがみれを宥める者もあり、無事に終了した。
.

.
   ※天火日: 天の火気が強い日。屋根葺きや上棟・種撒きなどの忌日とされる。
.
   ※勝長寿院: 大御堂または南御堂とも。室町時代の火災とともに廃寺となったが、それまでは北條政子実朝
の廟所もこの寺域にあった。廃寺と共に政子が開基した寿福寺(サイト内リンク・別窓)に移されたが、現在のやぐらに残る政子と実朝の五輪塔が勝長寿院にあったものかは判然としない。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月3日
.
吾妻鏡
.
.
晴。相模守北條政村の御沙汰による椀飯あり。御簾役は昨日と同じ。
.
 献上役
  御剣は 越後守北條実時  御調度は 左近大夫将監北條(名越)公時  御行騰沓は 和泉前司二階堂行方
.
   一の御馬は  陸奥七郎北條業時 と 稲毛左衛門尉
   二の御馬は  備前三郎長頼 と 廣河五郎左衛門尉
   三の御馬は  越後四郎時方 と 伊賀三郎左衛門尉實清
   四の御馬は  式部太郎左衛門尉伊賀光政(光宗の孫、庇衆) と 伊賀左衛門三郎朝房
   五の御馬は  新相模三郎北條時村 と 糟屋左衛門三郎行村
.

.
   ※稲毛氏: 直系は元久二年(1205)6月の畠山重忠滅亡に伴って榛谷氏・小山田氏と共に粛清(同年6月23日
の吾妻鏡を参照)されている。一部傍流が讃岐国(香川県)に逃れて命脈を保ったとされ、左衛門尉がその系累だった可能性がある。
.
   ※備前長頼: 北條時長の長男だが家督は弟の定長が継いでいる。庶子または早世か。
   ※四郎時方: 越後守北條実時の嫡子・顕時(人名辞典作成中)の初名。
.
   ※糟屋行村: 先祖と思われる糟屋有季は建仁三年(1203)9月の比企氏の乱で 頼家の子一幡を最後まで守り
討死した人物(比企能員の娘婿)。息子の一部は鎌倉から逃れて後鳥羽上皇に仕えた、とされる。その子孫が行村に繋がった可能性がある。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月6日
.
吾妻鏡
.
.
御的(弓)始めの射手について、内々に名簿を定めた。今まで出場していた射手を何度でも選ぶよう、相州禅定北條時頼から厳命が下された。その中で知久右衛門五郎は、長年射手を務めた御家人だが本領の信濃の国に帰国しているため今回の風記(名簿の素案)に載せていなかった。諏方兵衛入道蓮佛(諏訪盛重)から早急に鎌倉に入るよう飛脚を派遣し名簿に追加して掲載した。
.
  射手の風記
    渋谷左衛門太郎   横路左衛門次郎
    新左衛門尉平頼綱   本間弥四郎左衛門尉
    諏方四郎兵衛尉(諏訪盛重)   横溝弥七
    周枳兵衛四郎   工藤弥三郎
    知久右衛門五郎   萱間左衛門次郎
    岡本新左衛門尉   小嶋弥次郎
.

.
   ※平頼綱: 文永三年(1266)に吾妻鏡が途切れ、その20年後に歴史の主役に躍り出るのが平頼綱。
父・平盛時の出家引退が弘長二年(1262)だから現時点では脇役だが、弘安八年(1285)11月に得宗被官と反・安達氏グループを糾合して安達泰盛を滅亡に追い込む人物である。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月7日
.
吾妻鏡
.
.
来る10日の鶴岡八幡宮御奉幣に供奉人を椀飯の際の出仕者名簿から書き出し、将軍家(宗尊親王)に進覧して付点を頂いた上で 通告した。 名簿に載せたにも拘らず付点(選択の了解)に漏れたのは以下の人々である。
.
   武蔵五郎   上総三郎   越後又太郎   出羽七郎
   那波刑部権少輔   江石見前司   対馬守   周防守
   摂津大隅前司   縫殿頭   梶原上野介   石見守
   上野太郎左衛門尉   越中四郎左衛門尉   長門三郎   大隅修理亮
   周防三郎左衛門尉   同五郎左衛門尉   長井判官代   備中右近大夫
   梶原上野三郎   和泉六郎左衛門尉   同、七郎左衛門尉
   薩摩九郎   同、十郎   大須賀新左衛門尉   同、四郎
   隠岐次郎左衛門尉   太宰肥後次郎左衛門尉    同、三郎左衛門尉    善右衛門の尉
   善五郎左衛門尉   筑前四郎左衛門尉(元々支障あり)   同、五郎   紀伊次郎左衛門尉
   内藤豊後三郎左衛門尉   山内三郎左衛門尉   進三郎左衛門尉   太宰肥後左衛門三郎
   平賀新三郎      狩野五郎左衛門尉   善兵衛太郎   土肥左衛門尉
   渋谷左衛門尉   内藤肥後三郎左衛門尉   出雲権守   長又太郎左衛門尉
   後藤四郎左衛門尉   大多和左衛門尉    阿保左衛門太郎
.
    この中から後日改めて少々の付点あり。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月8日
.
吾妻鏡
.
.
晴。評定始めあり。相模守(執権の北條長時)と武蔵守(連署の北條朝直)以下の評定衆が出仕し、終了後に心経会を行なった。将軍家(宗尊親王)は二棟の御所に出御した。
.

.
   ※心経会: 般若心経を読誦する法会。
   ※二棟の御所: 寝殿造りで寝殿の東北に突き出して造った建物。主として居間や応接間に用いる。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月10日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)が鶴岡宮に御参宮。
.
  御出の行列
.
  前駈八人(下位の者が先)
    赤塚左近蔵人資茂   備中判官代定忠
    押立左近大夫資能   安芸掃部大夫親定
    美作左近大夫泰朝   近江前司季實
    備中左近大夫将監景茂   少輔左近大夫将監大江佐房
.
  次いで殿上人(下位の者が先)     尾張侍従清時   二條侍従雅有
    姉小路兵衛佐忠時   坊城少将公敦
    中御門中将公寛朝臣   一條中将能基朝臣
.
  次いで公卿
    刑部卿宗教   二條三位教定
    仁和寺三位顕氏   花山院宰相中将長雅
    土御門中納言顕方(混在して御所に参集)
.
  次いで御車
    周防五郎左衛門尉忠景   隠岐次郎左衛門尉晴清
    山内三郎左衛門尉通廉   薩摩十郎公員
    土肥四郎實綱   狩野左衛門四郎景茂
    肥後三郎左衛門尉   大泉九郎長氏
    平賀新三郎維時
      (各々直垂で帯剣、御車の左右に行列)
.
  御剣役は武蔵前司朝直   御調度は武藤次郎左衛門尉頼泰
.
  御後
.
  五位(布衣・下括り)
    相模式部大夫北條時弘(時広)   刑部少輔北條教時
    越後右馬助北條時親   尾張左近大夫将監北條(名越)公時
    武蔵左近大夫将監時仲   民部権大輔時隆
    中務権大輔足利家氏   出羽前司二階堂行義
    出羽前司小山長村   参河前司新田(世良田)頼氏
    和泉前司二階堂行方   長門前司笠間時朝
    内蔵権頭藤原親家(宗尊親王の近臣)   壱岐前司後藤基政
    日向前司伊東祐泰   丹後守安達頼景
    上総前司大曽祢長泰     太宰少貳武藤景頼
.
  六位(布衣・下括り)
    相模三郎時利   陸奥七郎北條業時
    備前三郎長頼   遠江七郎北條時基
    長井太郎長井時秀   下野四郎宇都宮景綱
    佐渡五郎左衛門尉基隆(後藤基綱の二男)   出羽次郎左衛門尉二階堂行有
    梶原太郎左衛門尉景綱   式部太郎左衛門尉伊賀光政(光宗-宗義-光政と続く)
    壱岐新左衛門尉後藤基頼(基政の子)   薩摩左衛門尉伊東祐能
    一宮次郎左衛門尉康有(三善(太田)康連の七男)   左衛門尉加藤景経(景廉の末子)
    伊勢次郎左衛門尉行経   鎌田三郎左衛門尉義長   同、次郎兵衛尉行俊   武藤左近将監兼頼
.
  この他
    遠江次郎   宮寺蔵人
       この両人は参加を命じられないまま推参した。
.

.
   ※安芸親定: 中原親能-養子で安芸守護の中原(藤原)親実-親光-親定と続く。承久の乱(1221年6月)の
終結後に親実が厳島神社(公式サイト)の神主に補任、将軍に近侍して鎌倉に常駐し、代官(惣政所)を派遣して管理業務を代行させた。厳島神社は建永二年(1207)と貞応二年(1223)の二度も火災による被害を受け、親実は再建を差配するため安芸守護に任じた。親定の後も系累(惣政所の系累を含む)が厳島神社神主を世襲している。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月11日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
御的始めに向けて、射手を選び出す催しを行なった。13人が二射づつを五度繰り返すのだが、藤澤左近将監時親と岡本新兵衛尉重方を組み合わせたにも拘らず重方が遅参したため、横溝七郎五郎忠光を時親の相手とした。遅刻した重方は後半の五回のみを射た。
.
   一番   二宮弥次郎時元 vs 知久左衛門五郎信貞
   二番   小笠原彦次郎政氏 vs 横路左衛門次郎長重
   三番   平新左衛門三郎頼綱 vs 加久帳小次郎忠景
   四番   周枳兵衛四郎頼泰 vs 小嶋弥次郎家範
   五番   多賀谷弥五郎重茂 vs 横溝弥七郎
   六番   藤澤左近将監時親 vs 横溝七郎五郎忠光
   七番   岡本新兵衛尉重方(遅参のため後半の五度のみ)
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月15日
.
吾妻鏡
.
.
御所の弓場で御弓始を行なった。射手は10人で一射づつ五度の的をを射た。山城三郎左衛門尉近忠は仰せには含まれず選抜の際には呼ばれなかったが、今年は優れた射手が少なかったため急遽追加となった。射手としての名誉である。
.
   一番   二宮弥次郎時元 vs 横路左衛門次郎長重
   二番   山城三郎左衛門尉近忠 vs 知久左衛門五郎信貞
   三番   藤澤左近将監時親 vs 多賀谷弥五郎重茂
   四番   周枳兵衛四郎頼泰 vs 横溝弥七郎忠景
   五番   岡本新兵衛の尉重方 vs 小嶋弥次郎家範
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月17日
.
吾妻鏡
.
.
晴。丑刻(深夜2時前後)に秋田城介安達泰盛の甘縄邸から失火、南風に煽られて薬師堂背後の山を越えて寿福寺まで飛び火し、惣門・仏殿・庫裏・方丈など寺域すべての堂宇が焼け落ちた。更に新清水寺と窟堂および付近の民家と八幡宮の宝蔵と別当坊まで焼失した。
.

.
   ※薬師堂: 甘縄と寿福寺を結ぶ線上(笹目か佐助か、御成町辺か)にある筈だが痕跡も記録もなく、判らない。
同様に八幡宮の宝蔵と別当坊は境内西側だと思うが正確な位置は判らない。
.
   ※新清水寺: 京都の清水寺に帰依していた北條政子の開基と伝わる。
建久六年(1195)6月18日に頼朝に従って大姫と上洛した際、「お忍びで清水寺などの霊地を参拝した」との記載がある。
.
建長三年(1251)に北條長時が開いた浄光明寺(公式facebook。ウェブサイトを開くべき)の筋向いにあったがこの火災で廃寺となり、現在は清水ヶ谷の名前だけが虚しく残る。
.
寺が焼け落ちた際には強い光が巽(東南)の方向に飛び去ったのが確認された。焼け跡からは本尊の鉄製観音像の崩れた胴体が見付かったのみで、頭部は行方不明になってしまった。
.
その後に長い年月が流れ...窟小路の入口にある井戸の水に様々な霊験が現れ、井戸替えを行なった元禄12年(1699)に井戸の底から観音像の頭部が掘り出された。
.
火災の時に見られた強い光は観音像の頭が空を飛んで井戸に避難したものだ、霊験は観音像の御利益によるものだと評判になった。これが現在の小町通りに入る角の「鉄(くろがね)ノ井」である。人々は井戸近くの西側に観音堂を建てて頭部を本尊とし、大切に祀ったという。
.
そして明治維新の神仏判然令で観音堂は廃寺となった。
観音像の頭は東京深川に移された後に変転を経て、現在では人形町の大観音寺(紹介サイト)に祀られている。
この頭だけで高さ約170cmだから、元の姿は坐像だとしても6m以上だったと考えられる。
.
   ※寿福寺・窟堂: 井戸から扇ヶ谷に向かう窟小路の右側が窟堂で線路を
越えた突き当たりに寿福寺がある。周辺の風景を含めた詳細は義朝館跡の壽福寺(サイト内リンク・別窓)を参照されたし。元は中腹の岩窟にあった窟堂は地震で崩落し現在は山裾の小路にひっそりと残っている。
寿福寺の惣門から寺域全てが焼けた、想像を越える大火だったらしい。
.
右上画像は火元の甘縄から類焼した鉄の井周辺までの地図。薬師堂が判らないのは残念だが。
右下画像は小町通りから見た窟小路。右側が川喜多映画記念館(公式サイト)、突き当たり付近が窟堂。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月20日
.
吾妻鏡
.
.
晴。勝長寿院の三重塔を東山の麓に移築(新築?)した。
.

.
   ※東山の麓: 勝長寿院(大御堂・南御堂)の正確な位置は推定に過ぎないため東山も確定できない。
鎌倉市の資料には雪ノ下4-11-7(地図)付近で礎石が出土したと書かれているが、史書に記載のある「廊御堂・南山小御堂・小御堂(政子)の旧宅)・南御堂・東御所・弥勒堂・五仏堂・三重塔」などを確定する判断基準にはなり得ない。大御堂ヶ谷の地図から空想して楽しもう。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月21日
.
吾妻鏡
.
.
晴。勝長寿院に建造する諸堂の礎石を定めた。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月22日
.
吾妻鏡
.
.
(1月17日に焼失した)若宮の御影堂および雪ノ下の別当坊を上棟した。
.

.
   ※御影堂: その寺の開基や開山 の像を安置した建物。若宮の御影堂は何を祀っていたのだろうか。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月24日
.
吾妻鏡
.
.
晴。勝長寿院の四足脇門が完成した。明日25日から二月節(啓蟄・wiki)に入るため急いだものである。
.

.
   ※四足脇門: 文字通りに読めば脇門(袖門)の着いた四脚門。1月3日に上棟した惣門の完成だろう。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
1月27日
.
吾妻鏡
.
.
特別の御願により、(将軍家宗尊親王)が御剣を二所大神宮に献納した。奉行は豊前弾正忠。
.

.
   ※二所大神宮: 伊勢神宮の内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)を差す。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
2月8日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡若宮御影堂の御正躰が元の位置に遷御した。
.

.
   ※御正躰: 神仏習合思想では神体である鏡に本地仏の像を示した鏡像または懸仏を差す。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
2月13日
.
吾妻鏡
.
.
晴と陰、安定せず。今日、故中武州(五代執権北條経時を差す)十三年御追福のため最明寺で七ヶ日の五種の仏事が始められた。法主は相州禅室北條時頼、特に丁寧を心掛けた、と。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
2月18日
.
吾妻鏡
.
.
晴。勝長寿院(南御堂)の堂塔の柱立てあり。武蔵前司北條朝直朝臣が現地を監臨した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
2月19日
.
吾妻鏡
.
.
晴。最明寺での五種行が今日結願した。導師は信承法印、普賢菩薩像および法華経二部の供養で、その一部は聖霊(北條経時の魂)の遺札を漉いた紙を用いた。第一巻は法主(北條時頼)が自筆で書写し、残る七巻は弘誓院(書家の流派)亜相家(大納言家)の筆跡を学んでいる者に委ねて書写し終えた。
.
法主(時頼)も聖霊(経時)も、弘誓院の書を好んだた為である。法華経の唱和も解説も趣きに満ちており、結縁に集まった人々は涙を禁じ得なかった。
.
清和天皇が崩御した後、東御息所(寵愛された女御)の藤原高子・wiki)は御恋慕に耐えられず、数百の勅書を漉き改めて幾許かの大小乗経を書写した。 橘贈納言廣相(文章博士の橘広相・wiki)が御願文を起草し、同心契恋蓮華偈・匪石詞入鑁字門の句を題とした。
薄墨の色紙を写経に用いる例はこの時以来で、古今の違いはあっても心は同じである。
.

.
   ※五種行: 受持・読・誦・解説・書写を行なう法華講。2月13日に始まっていた。
   ※遺札を漉き: (経時が遺した紙、写経など)を漉き直した紙。薄墨の色紙に漉き上がる。
   ※清和帝の例: 鎌倉中期に成立した説話集十訓抄(wiki)の第五 「朋友を撰ぶべき事」に載っている。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
2月25日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)が二所詣に備えて精進を始め、潮に浴するため申刻(14時前後)に水干で浜に出御した。
.
土御門中納言顕方(水干)・武蔵守北條長時・相模太郎北條時宗殿・武蔵前司北條朝直・左近大夫将監北條(名越)公時・陸奥七郎北條業時・修理亮嶋津久時(忠時の嫡男)・摂津権守(?)らが供奉した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
2月28日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家が浜で潮浴された(中の御塩・三回の二回目)。
今日、評議あり。将軍家が明年に御上洛する件に関してで、(沿道を所轄する)諸国の御家人に周知を指示した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
3月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。辰刻(朝8時)に将軍家(宗尊親王)が最初の二所詣に御進発(初度)、浄衣を着す。人々(殿上人と公卿)の行列を奉行するのは和泉前司二階堂行方、随兵の行列を奉行するのは左衛門尉平三郎盛時
.
  行列
.
  先陣の随兵十二騎(総鞦(しりがい・馬の尻飾り)を掛ける)
    葛西四郎太郎(壱岐六郎左衛門尉の後任)   三田五郎(三田小太郎の後任・子息)
    大胡掃部助太郎(大胡太郎の後任)   小林小三郎(小林小次郎の後任・子息)
    木村四郎左衛門尉(木村五郎の後任・子息)   安芸大炊助(佐貫左衛門尉の後任・子息 )
    肥前七郎(那須肥前前司の子息)   向田小太郎(足利向田の後任)
    香山三郎左衛門尉(河越掃部助の後任)   瀧口左衛門尉(足利木工助の後任)
    千葉太郎左衛門尉(千葉介の後任・六郎の子息)   天野左衛門尉(相馬左衛門尉の後任)
.
  次いで 御引馬 三疋
  次いで 御弓袋差し(腹巻を着す)  丸嶋弥太郎久経
  次いで 御甲(兜)着け  伊豆籐三郎保経
  次いで 御冑(鎧)持ち   門居弥四郎行秀
  次いで 御小具足持ち   弥三郎守近
  次いで 御調度懸け   又鶴丸
  次いで 御油
  次いで 御先達   権少僧都善道
      已上は騎馬
.
  次いで 御駕(将軍家・御浄衣)
.
    周防五郎左衛門尉島津忠景   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
    左衛門尉武藤頼泰   左衛門尉加藤景経
    肥後三郎左衛門尉為成   左衛門尉山内三郎通廉‬
    小河新左衛門尉   肥後四郎左衛門尉行定
    左衛門尉鎌田三郎義長   同、新左衛門尉
    兵衛尉渋谷太郎   兵衛尉鎌田次郎行俊
    土肥四郎實綱   平賀新三郎維時
    狩野四郎景茂
      以上は歩行
.
  御後騎(楚鞦)
    土御門中納言顕方卿
    武蔵前司北條朝直   中務権大輔足利家氏   陸奥七郎北條業時 (相並ぶ)
    越前守北條時弘(時広)   備前三郎長頼(北條時長の長男) (相並ぶ)
    内蔵権頭親家   太宰少貳武藤景頼   参河前司新田(世良田)頼氏 (相並ぶ)
    筑前次郎左衛門尉行頼   安芸左近大夫親継   肥後次郎左衛門尉為時 (相並ぶ)
    阿曽沼小次郎光綱   伊勢次郎左衛門尉行経
    山内籐内左衛門尉通重   善五郎左衛門尉康家 (已上四騎相並ぶ)
    采女正忠茂朝臣   前陰陽大允晴茂朝臣
    参河前司教隆   大隅修理亮(忠時の嫡男) (已上四騎相並ぶ)
.
  次いで 小侍所司  平岡左衛門尉實俊
  次いで
    武蔵守北條長時   相模太郎北條時宗 (相並ぶ)
  次いで 侍所司   左衛門尉平三郎盛時
.
  次いで 後陣の随兵十二騎(二騎相並ぶ)
    行方中務五郎(行方太郎の後任)   眞壁孫四郎
    豊嶋四郎太郎(豊嶋兵衛尉の後任)   内匠蔵人太郎(中村甲斐の前司の後任)
    大河戸兵衛太郎(大河戸兵衛尉分の子息)   伊北小太郎(伊北三郎の後任)
    国分彦五郎(国分五郎の後任)   品河右馬允(大井品河の人々の後任)
    多比良小次郎(多故宮納左衛門尉の後任)   鬼窪又太郎(鬼窪左衛門入道跡民部太郎の子)
    永野次郎太郎(永野刑部丞の後任)   忍小太郎(自身)
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
3月3日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮で節句の法会。舞楽は通例のに同じ、将軍の奉幣御使無し。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
3月6日
.
吾妻鏡
.
.
強い雨と北風が激しかった。亥刻(午後10時前後)に将軍家が二所詣から還御した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
3月10日
.
吾妻鏡
.
.
晴。鶴岡八幡宮の三月会(三月の神事)。稚児が呼ばれて御所に参上し、鞠の御壺(小庭)で舞曲を演じた。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
3月19日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮の本殿前で諸神供(諸天諸神を供養する)を修した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
3月20日
.
吾妻鏡
.
.
終日激しい雨。 評定があり、将軍家(宗尊親王)の明年御上洛に関し、供奉人などについて協議した。準備を整えて詳細を御家人に周知させ るため、御教書を諸国の守護人宛に発行する。内容は次の通り。
.
明年正月の御上洛を承知し監督下にある御家人に周知させよ。また農民が賦役を忌避して逃げ隠れする事のないよう手配するよえ命令する。    正嘉二年三月二十八日  武蔵守北條長時   相模守北條政村
.
今日、前の武州禅室北條泰時の御後室(矢部禅尼)の三年忌に当たり、建長寺(公式サイト)に於いて一切経の供養を催した。導師は道隆禅師、相州禅室北條時頼・相模守北條政村・武蔵守北條長時を始め結縁を願う大勢の人々が堂上に集まった。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
3月23日
.
吾妻鏡
.
.
晴。故武蔵守北條経時の十三年忌仏事として佐々目谷の塔婆供養を行なった。導師は寿福寺長老の悲願房朗譽。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
4月17日
.
百錬抄
.
.
今暁卯刻(朝6時前後)に天台衆徒が日吉の神輿三基(八王子・十禅師・客人)を曳き廻した。これは園城寺が要望する戒壇の設置を認可する宣下の撤廃を求めた行動である。
.

.
   ※戒壇: 渡来僧の鑑真が初めて設けた天平勝宝六年(754)の戒壇は奈良・東大寺と太宰府・観世音寺と下野・
薬師寺の三ヶ所、本来は朝廷の力を背景にして僧尼に戒律を授ける施設だった。
.
その後は徐々に退廃や権力争いの象徴となり、鎌倉時代中期には天台宗内部で比叡山(山門)が自前の戒壇を設置した。これに対して鎌倉の政治力を背景にした隆弁が自分の出身母体である円城寺(三井寺・寺門)への新たな戒壇設置の宣下を得た。これが山門vs寺門の紛争勃発を招いている。
.
    戒壇の詳細はwikiで、下野薬師寺の紹介は下野東山道の史跡群(サイト内リンク・別窓)の中段以下で。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
4月19日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。未刻(14時前後)に勝長寿院の三重塔と一切経蔵の上棟となり、将軍家(宗尊親王)が女房用の輿を用いて非公式に入御した。 土御門中納言顕方があらかじめ出席して待機し、武蔵前司北條朝直と相模守北條政村が続いて加わった。出羽前司小山長村・下野前司宇都宮泰綱・秋田城介安達泰盛など参席者は多彩である。
.
工匠(布衣)は本堂前に列居し、大工(棟梁)には御馬二疋(一疋は鞍置き)と御衣(三衣)を、引頭と長(部下)には一疋(鞍置き)と御衣一領を与えた。将軍家は夕暮れになって還御。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
4月21日
.
吾妻鏡
.
.
晴。京都朝廷からの飛脚が到着して報告。去る17日の卯刻(朝6時前後)に日吉社の神輿三基を縫殿(女官の管理や宮中衣料の縫製などを担当した役所)の前を担ぎ回って示威行為を行なった。
.
警備の者が門を閉鎖したため日吉の衆徒は御正躰(神輿の御神体)を取り出して塀の中に投げ込んだ。これは園城寺の戒壇設置の勅許があった事への抗議である。
.

.
   ※日吉の神輿: まぁ平安の昔から宗教団体が政治に関与するとロクな事
はない。一部の神道と結託して天皇の神格化を主張した戦前の軍部も然り、自民党に囲われた妾と同然の活動を続ける創価学会もまた同様に、良質な民主主義を危うくする存在だ。
.

.
私の大嫌いな創価学会の名が出たので気分転換に、昨日(4月12日)撮影した近隣の山桜を。
緑を深めた広葉樹の中でソメイヨシノとは一味違う落ち着いた色を楽しませてくれる。

.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
4月22日
.
吾妻鏡
.
.
申刻(16時前後)に地震あり。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
4月25日
.
吾妻鏡
.
.
小雨。 勝長寿院の三重塔に九輪(仏塔の頂上。詳細は相輪(wiki)で)を上げた。今日、相模三郎北條時利(11歳)が出羽前司小山長村の娘と婚姻した。
.

.
   ※北條時利: 正元二年(1260)正月に改名して北條時輔を名乗っている。 北條時頼の庶長子だが、嫡子では
ない事を明確に示すため、太郎ではなく三郎。相模太郎は北條時宗である。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
4月26日
.
吾妻鏡
.
.
晴。五月節に入るため、勝長寿院および諸堂の建物を覆い松明をかざして工事を進め明け方になって完工、武蔵前司北條朝直が現地を監臨した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月1日
.
百錬抄
.
.
日吉社の神輿三基が本社に帰座した。戒壇設置の宣下を取り消すとの仰せが再三あり、これを受け入れた。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月2日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。評定所に陰陽師を集めて勝長寿院の落慶供養供養の日程を協議させ、去年の大慈寺供養の際と同様の御方違えをするべきかを検討した。以平は不要と語り、晴茂・為親・国継・晴憲・晴宗らは御方違えは必要と主張した。
.
廣資と泰房の意見は、去年は太白方と大将軍方が重複したが今回は大将軍方のみ、供養の前例がある、と。
また将軍家の御上洛予定を控え、六波羅に御所を新造する命令が下された。勘文(上申書)を求め、晴茂・為親・晴憲が連署して提出した。
.

.
   ※太白方: 金星の方角で凶、大将軍は神格化した金星で三年間同じ方角に留まるため大凶。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月5日
.
吾妻鏡
.
.
強い雨。御方違えについて評議した結果、陰陽道の報告を考慮して来る29日に尾張前司北條時章の名越山荘(新善光寺の付近)に入御する事と定められ、その旨が時章に連絡された。
.
また勝長寿院の落慶供養は、曼陀羅供の様式とし、大阿闍梨の任命は以前の両寺供養に準じて定める。
.
安祥禅寺僧正良瑜・若宮別当僧正隆弁・日光法印尊家・松殿法印良基・左大臣法印厳恵の五人の名を書いた箱に収めて右大将家(頼朝)法華堂の別当尊範僧都に渡した。七日間の護摩行を行なった後に名札の一枚を取り出すよう指示した結果は良基法印、御使を派遣して曼陀羅供の導師を務めるよう仰せを伝えた。
.

.
   ※新善光寺: 15世紀に移転して現在は葉山町(地図)にある。詳細は
浄土宗のサイトで。元々は名越の弁ヶ谷、北條時政の名越邸近く(地図)にあった。右の鳥瞰図を参照されたし。更に詳細は名越邸の推定地、弁ヶ谷(サイト内リンク・別窓)で。
.
名越邸は時政-朝時-時章-公時-時家に継承され、時章の兄弟(光時時幸教時)が得宗に反抗して滅びた後も名越流北條一門として評定衆などを歴任している。
.
弁ヶ谷の名は、千葉氏の実質的な開祖千葉介常胤の屋敷があった場所で、「介」の唐名が別駕(べつが)だった事から「別駕の住む谷」→「べんがやつ」に転化したらしい。材木座四丁目には美智子皇后の実家正田家の別荘もあったが、相続に伴う物納で手放され、現在は分譲住宅街に姿を変えている。
.
   ※曼陀羅供: 大壇(正方形の大型)を設け、前の礼盤(導師の座席)に導師が登って独自の修法を行なう密教の
教義に基づく華やかな法要。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月6日
.
吾妻鏡
.
.
去る一日に日吉の神輿が本社に帰座したとの報告が届いた。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月8日
.
吾妻鏡
.
.
晴。尾張前司北條時章の名越山荘に檜皮で葺いた建物など数軒を新造した。五月に造営する前例はないが将軍家 (宗尊親王)が入御する必要に従ったものである。
今日遠江七郎北條時基が突然病没との噂が流れ、名越の辺りが騒ぎになった。ただし、暫くして回復したとのこと。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月9日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)の御上洛に伴い、前例に倣って六波羅に御所を建てるよう定め、諸国の御家人に担当を割り当てる命令を下した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月10日
.
吾妻鏡
.
.
鎌倉および諸国の雑人沙汰(武家以外の訴訟)について定め、主人および居住地の地頭への通告である。
.
  一.鎌倉およびに諸国の雑人沙汰について。
奉行人からの出廷命令が三度あっても更に応じなかった場合は引付衆(訴訟の実務担当)が調査し、事実であれば所領を没収する。複雑な事例の場合は同様に引付衆が決裁する。
.

.
   ※雑人: 一般庶民あるいは賤民、公家及び武士・侍・郎党身分を持たない全ての者を差す。雑人が没収される
ほどの所領を持っていると言うのも理屈が合わないような気がするけれど。
ちなみに、鎌倉時代中期には問注所の下に雑人同士の訴訟のみを扱う雑人奉行が設置されている。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月14日
.
吾妻鏡
.
.
晴。去る10日の事書(箇条書きの書類)について、指示を守らせる目的で相模守北條政村から問注所と政所に平右近入道寂阿を派遣した。また(1月17日に類焼した)鶴岡八幡宮の宝蔵を造り終え、今日神宝を元通りに戻した。
.

.
   ※入道寂阿: 平盛綱(法名盛阿)の弟あたりかと思うのだが、系図上での確認ができない。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月28日
.
吾妻鏡
.
.
晴。勝長寿院五仏堂の本尊などを新造の堂に移動し、併せて定められた行法を催した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
5月29日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)が御方違えのため尾張前司北條時章の名越山荘に入御し、刑部少輔北條教時・越後守北條実時・民部大輔北條時隆(北條政村-時村-相模八郎時隆と続く)ら数輩が供奉した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
小雨。将軍家が(御方違えの名越山荘から)還御し、和泉前司二階堂行方が勝長寿院落慶供養日の供奉人名簿を提出した。武蔵前司北條朝直が御所に奏上し、更に人数を追加せよとの仰せを受け、その旨を越後守北條実時に報告した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月2日
.
吾妻鏡
.
.
晴。越後守北條実時が武蔵守北條長時の指示を受けて、四日の供奉人を増員する回覧状を御所に持参した。
.
土御門黄門(中納言顕方)に人数の取捨と行列についてを問合わせると、人数の取捨はするが行列については北條長時が差配すべきだろうとの返事を受けた。
北條実時は戻ってその旨を報告し、長時からは再び同じ指示を受けた。しかし中納言顕方の返事が前と変わらなかったため、やむを得ず連署の相模守北條政村と執権の長時と実時が相談して行列の明細を定めた。
.
ただし、供奉人には将軍御所からの仰せで決定したと通告せよ、との内々の指示が長時から発せられた。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月3日
.
吾妻鏡
.
.
上野三郎国氏(上野介畠山泰国の嫡子)が明日の将軍出御の随兵に決まっていたが病気による支障を申し出た。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月4日
.
吾妻鏡
.
.
晴、風は静まった。今日は勝長寿院の落慶供養。式次第は曼陀羅供、大阿闍梨は松殿法印良基。
.
  職衆(法事を補佐する僧)三十口(30人)
     権大僧都定宗  権少僧都寛位  権少僧都聖尊  権少僧都定憲  権少僧都慈暁  権少僧都浄禅
     権少僧都印教  権律師尋快  権律師成遍  権律師頼承  権律師良明  権律師浄宴  権律師圓審
     権律師禅遍  権律師定寶  権律師信成  権律師頼承  権律師良顕  権律師定撰  権律師慶尊
     法橋宗信  已講能海  阿闍梨尊審  阿闍梨行秀  阿闍梨禅信  阿闍梨禅尊  大法師定宣
     阿闍梨源重  大法師圓全  大法師定融
.
  御願文の起草は右京権大夫茂範朝臣、清書は左大臣法印厳恵、法会の奉行は参河前司教隆(布衣・下括り)と
  刑部権少輔政茂(束帯)。各々明け方から院内の会場を飾り付けた。
  巳刻(10時前後)に将軍家が御束帯・紫袍・御帯劔の姿で渡御した。
.
  供奉人行列
.
   先陣の随兵
     武田五郎三郎政綱   小笠原六郎三郎時直
     長井太郎時秀   備前三郎長頼
     新相模三郎時村   武蔵五郎時忠
     陸奥七郎業時   相模三郎時利
     遠江七郎時基   陸奥六郎義政
.
   御車
.
     隠岐次郎左衛門尉時清   周防五郎左衛門尉忠景
     肥後四郎左衛門尉行定   山内三郎左衛門尉通廣
     肥後左衛門尉為成   平賀新三郎惟時
     善左衛門次郎盛村   大曽祢左衛門太郎長頼
     狩野左衛門四郎景茂   大泉九郎長氏
         已上直垂を着して帯剣、御車の左右に候す。
.
   御調度  武藤左衛門尉頼泰
.
   御後
     越後守北條実時   中務権大輔足利家氏
     刑部少輔北條教時   左近大夫将監北條(名越)公時
     民部大輔時隆(時房-時村-時隆)   下野前司宇都宮泰綱
     出羽前司小山長村   秋田城介
     安達泰盛
   石見前司大江能行
     和泉前司二階堂行方   壱岐前司後藤基政
     対馬守氏佐々木氏信   信濃守佐々木泰清
     周防守嶋津忠時   石見守多功宗朝(宇都宮頼綱の七男)
     修理亮久時   小野寺新左衛門尉行通
     筑前四郎左衛門尉行佐   式部太郎左衛門尉光政
     山内籐内左衛門尉通重   紀伊次郎左衛門尉為経
     鎌田次郎兵衛尉行俊
.
   後陣の随兵
     城四郎左衛門尉時盛   阿曽沼小次郎光綱
     相馬五郎左衛門尉胤村   千葉七郎太郎師時
     淡路又四郎左衛門尉宗泰   武石三郎左衛門尉朝胤
     加藤左衛門尉時景   常陸次郎兵衛尉行雄
     肥後左衛門尉政氏   長江八郎四郎景秀
.
政所の前まで来て式部太郎左衛門尉光政が落馬し、供奉に戻らずそのまま帰った。また筑前左衛門尉行佐が行列の図に従わず(図面では左が小野寺左衛門尉行通で右が行佐)、山内籐内左衛門尉通重が鎌田兵衛尉行俊に並ばず、馬を打って引き下がった。
.
勝長寿院の大門で牛を外して将軍家が御車を降り、土御門中納言顕方御簾を掲げた。花山院宰相中将が傍らに控え中務権大輔家氏が御搨(日傘)を持った(手長(補助・傘を支える紐を持つ)の役は鎌田次郎兵衛尉行俊)。
.
左近大夫将監公時が御沓を呈し(手長(補助)は小野寺新左衛門尉行通)、黄門(中納言顕方)が御裾を持った。御剣役は越後守實時御劔。去年の大慈寺供養の際には参列する雲客(殿上人)は御下車の場所に集まったが、今回はそれを先例とせず両卿(土御門中納言と花山院宰相中将)のみとした。
.
先陣の随兵は将軍家の席に対して東の幔(まんまく)下に、入御の後に後陣の随兵が幔の北に列居し、殿上人は楽屋(楽士の位置)の前に控えた。諸大夫(身分の低い四位・五位)は本堂前に控えた。
.
(将軍家が)御堂に登る際は相模守北條政村と武蔵守北條長時は仏前の階下に降りて控えた。また黄門(中納言顕方)が進み出て御剣と御笏を渡し、その後に供養が始められた。
.
五位と六位は弥勒堂の前から塔の前までの庭に床子を並べて列座し、直垂を着した六位は御所前の階下に群居した。大夫判官二階堂行有と大夫判官廣綱と隠岐判官二階堂行氏らは寺門を守護した。
.
午刻(正午前後)に大阿闍梨(松殿法印良基)が参入、執蓋(随行者が掲げる日傘)は小山太郎左衛門尉、執綱(日傘を支える紐を持つ役)は越中前司頼業と長門前司時朝、職衆は全員が導師の前に並んで次いで会場に入った。御経供養の後に御布施あり。
.
 導師には被物三十一重(錦一重・綾二十重・色々十重)・裹物一(織物で裹(包)む。紺村濃十五入り)・砂金百両・
御馬十疋(皆銀の鞍を置き厚総の鞦(尻飾り)付き)・供米二十石、加えて銀剣一腰
.
 職衆三十口には一人宛に銭貨一萬五千疋
.
 御布施取り  
土御門中納言顕方卿   六條二位顕氏卿   花山院宰相中将長雅卿   二條三位教定卿
刑部卿宗教卿   一條中将能基朝臣   前右衛門佐重氏朝臣   一條前少将能清朝臣
坊門中将基輔朝臣   籐少将實遠朝臣   中御門中将公寛朝臣   中御門少将實齊朝臣
冷泉少将隆茂朝臣   中御門前侍従宗世朝臣   前兵衛佐忠時朝臣   中御門新少将光隆朝臣
刑部権少輔政茂   二條侍従雅有   近衛少将實永   一條少将定氏   (堂童子)伊賀前司光清
(堂童子)近江前司季實   押立左近大夫資能   赤塚左近蔵人資茂
.
次に御馬十疋を引いた。
一の御馬は 肥後次郎左衛門尉為時 と 同三郎左衛門尉為成
二の御馬は 善五郎左衛門尉康家 と 同、次郎左衛門尉康有
三の御馬は 薩摩七郎左衛門尉祐能 と 同、八郎左衛門尉
四の御馬は 周防三郎左衛門尉忠行 と 同、四郎左衛門尉忠泰
五の御馬は 梶原上野太郎左衛門尉景綱 と 同、三郎左衛門尉景氏
六の御馬は 大須賀新左衛門尉朝氏 と 同、左衛門四郎
七の御馬は 筑前次郎左衛門尉行頼 と 同、五郎行重
八の御馬は 上総太郎左衛門尉長経 と 同、三郎左衛門尉義泰
九の御馬は 伊勢次郎左衛門尉行経 と 信濃次郎左衛門尉行宗
十の御馬は 後藤壱岐左衛門尉基頼 と 同、次郎基廣
.

.
   ※:
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月5日
.
吾妻鏡
.
.
晴。筑前四郎左衛門尉行佐と山内籐内左衛門尉通重が出仕停止の処分を受けた。昨日の供奉の際に定めを守らず濫吹が露呈したためである。
.

.
   ※濫吹: 能力があるように装うこと。笛の音を愛した斉の宣王が集めて演奏させた楽人の中に笛を吹けない癖に
吹く真似をしていたが、一人づつ演じる際に逃げ出したという中国の故事(韓非子)による。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月9日
.
吾妻鏡
.
.
来る十一日に最明寺殿に入御する際の供奉人を選び、尾張左近大夫将監(去る四日から病気)と小野寺新左衛門尉(灸の治療)の両人のみが支障を申し出た。その他は了承したが駿河右近大夫は廂石である。
.
以上の供奉人名簿を将軍家に呈する旨を和泉前司二階堂行方から内々に越後守北條実時に知らせたが、既に報告済みで決裁を受けていた。従って変更はできない、と。
.

.
   ※廂石: これは勉強不足で意味が掴めない。廂衆(将軍に近侍する職)と関係があるのかな。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月11日
.
吾妻鏡
.
.
晴。未刻(14時前後)に将軍家(宗尊親王)が山ノ内最明寺の北條時頼邸に入御した。
.
  供奉人
土御門中納言顕方   花山院宰相中将   相模太郎北條時宗   越後守北條時弘(時広)
刑部少輔北條教時   相模三郎北條時利(時輔)   陸奥六郎北條義政   陸奥七郎北條業時
新相模三郎北條時村   遠江七郎北條時基   武蔵五郎北條時忠   参河前司新田(世良田)頼氏
和泉前司二階堂行方   秋田城介安達泰盛   壱岐前司後藤基政   内蔵権頭藤原親家(将軍の近臣)
少卿武藤景頼
    以上は騎馬
.
城四郎左衛門尉時盛   同、安達六郎顕盛   信濃次郎左衛門尉時清   大曽祢左衛門太郎
上総三郎左衛門尉義泰   周防五郎左衛門尉忠景    薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
肥後三郎左衛門尉為成   武藤左近将監兼頼   鎌田三郎左衛門尉義長   常陸次郎兵衛尉行雄
鎌田次郎兵衛尉行俊   大泉九郎長氏
    以上は歩行
.

.
   ※北條時忠: 北條朝直の二男。文永二年(1265)6月に引付衆となり宣時と改名している。
   ※城時盛: 安達義景の四男で泰盛の次弟。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月12日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
曇、夕刻に雨。山ノ内で遠笠懸を催し、刑部少輔北條教時・相模三郎北條時利・新相模三郎北條時村・武蔵五郎北條時忠などの十騎が的を射た。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月13日
.
吾妻鏡
.
.
雨、巳刻(10時前後)になって晴。最明寺で競馬を催した。
.

.
   ※最明寺: 遠い昔に廃寺となり、現在は敷地跡の一部にアジサイで知られた明月院が建っている。
最明寺創建以来の変遷は建長八年(1256)7月17日を参照されたし。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月14日
.
吾妻鏡
.
.
晴。申刻(16時前後)に将軍家が山ノ内(最明寺)から御所に還御した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月17日
.
吾妻鏡
.
.
来る八月の鶴岡八幡宮放生会の御参宮に伴う供奉人について(選抜の)付点を頂くため、昨日小侍所から通例通り全ての該当者を記載した名簿を太宰権少貳武藤景頼に提出したが、病気と称して返却された。今日改めて武蔵守北條長時に提出し、処理を急ぐ旨の了承を得た。記載の内容は次の通り。
.
相模太郎北條時宗   相模三郎北條時輔   武蔵前司北條朝直   同左近大夫将監北條時遠
同北條五郎宣時   尾張前司北條時章   同左近大夫将監北條(名越)公時   遠江前司北條時直   同右馬助   越後守北條実時   陸奥六郎北條義政   同陸奥七郎北條業時   新相模三郎北條時村
中務権大輔北條教時   刑部少輔   遠江七郎北條時基   足利上総三郎吉良満氏
越前前司藤原親成   備前三郎   越後右馬助北條時親   駿河四郎北條兼時   同五郎宗兼
越後又太郎   民部権大輔   前太宰少貳狩野為佐   小山出羽前司小山長村   上野前司畠山泰国
同三郎国氏   出羽前司二階堂行義   同三郎左衛門尉(二階堂行藤?)   同七郎
丹後守安達頼景   秋田城介安達泰盛   同三郎(大室三郎?)   同四郎左衛門尉安達時盛
同六郎安達顕盛   和泉前司二階堂行方   同三郎左衛門尉二階堂行章   上総介千葉 頼胤
同太郎左衛門尉(千葉宗胤?)   同三郎左衛門尉(胤泰?)   下野前司下野前司宇都宮泰綱
同四郎貞綱   尾張権守   少卿武藤景頼   同次郎左衛門尉(武藤景泰?)   越中前司
同四郎左衛門尉   伊賀前司   石見守   壱岐前司後藤基政   同新左衛門尉
大隅前司嶋津忠時   同修理亮   日向守   周防守   同三郎左衛門尉   同五郎左衛門尉
対馬守   内蔵権頭   参河前司新田(世良田)頼氏   上野前司梶原景俊   同太郎左衛門尉景綱
同三郎左衛門尉景氏   石見前司大江能範   長門前司   同三郎左衛門尉   信濃守
筑前次郎左衛門尉   同四郎左衛門尉   三浦遠江新左衛門尉   三浦介(佐原)盛時六郎左衛門尉
那波刑部少輔   長井判官代   千葉介   摂津大隅前司   縫殿頭   式部太郎左衛門尉
同兵衛次郎   武石三郎左衛門尉   風早太郎   太宰次郎左衛門尉   阿曽沼小太郎
千葉七郎太郎   上野五郎左衛門尉   小田左衛門尉   河越次郎   大曽祢左衛門太郎
相馬次郎兵衛尉   同五郎左衛門尉   後藤次郎左衛門尉   土肥左衛門四郎   武藤左近将監
鎌田次郎兵衛尉   淡路又四郎   出羽弥籐次左衛門尉   伊東八郎右衛門尉   小野寺新左衛門尉
鎌田三郎左衛門尉   足立太郎左衛門尉   同三郎   天野肥後新左衛門尉   田中左衛門尉
茂木左衛門尉   常陸太郎左衛門尉   同八郎左衛門尉   同修理亮   佐々木孫四郎左衛門尉
薩摩七郎左衛門尉   同九郎   伊勢次郎左衛門尉   内藤肥後六郎左衛門尉   大須賀新左衛門尉
同四郎   式部六郎左衛門尉   伊東六郎左衛門次郎   塩屋周防兵衛尉   善右衛門尉
同五郎左衛門尉   狩野五郎左衛門尉   武田五郎三郎   小笠原六郎三郎
.

.
   ※:
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月18日
.
吾妻鏡
.
.
武蔵守北條長時が供奉人名簿の御点を確認し、牧野太郎兵衛尉を使者にして越後守北條実時に宛てて返却した。右の御点は布衣を着す者、左の長点は随兵、短点は帯剣する者であると。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月19日
.
吾妻鏡
.
.
放生会に伴う供奉人について、各々を招集する旨を通告した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
6月24日
.
吾妻鏡
.
.
晴。寒い日が続いており、まるで冬天の様な気候である。
.

.
   ※寒気続き: 旧暦の6月24日は太陽暦の7月26日、「おろおろ歩く寒さの夏」は飢饉を招く。地震など天変地異
や異常気候に加えて大火事の被害もあり、数年前から日蓮は末法の時代に警鐘を鳴らして辻説法で法華経の功徳を説き続けていた。正元元年(1259)には常陸国で布教を続けていた律宗の僧忍性北條重時の招きに応じて鎌倉に入り、布教と共に貧者の救済事業を開始する。
.
この時代の宗教者は宗旨の違いを問わず真摯な理念を持っていた。そして現代、娼婦の如く安倍自民党に媚び諂う創価学会と公明党は...上納金集めと議席確保が理念の偽善者集団。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
7月4日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
三善六郎左衛門次郎を八幡宮放生会供奉人の「直垂を着す者」の名簿に加えるよう、(将軍家からの)仰せがあった。担当奉行は二階堂行方。今日、将軍家(宗尊親王)が百日の御鞠を始められた。参加者は次の通り。
.
   土御門中納言顕方卿   花山院宰相中将長雅卿   刑部卿宗教卿(上級者)   前兵衛佐忠時朝臣
   刑部少輔北條教時   右馬助清時   上野五郎兵衛尉廣綱   同十郎朝村     計数担当は賢寂。
.

.
   ※百日の御鞠: 百日間、毎日続ける蹴鞠らしい。建仁元年(1201)7月10日にも頼家が催した記録がある。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
7月10日
.
吾妻鏡
.
.
評定が行なわれた。名字の地を質草として預けた所領については、その土地を管理する者に償いをするよう定めた。泉又太郎蔵人義信と安房四郎頼綱が争っている下野国松本郷について、頼綱がこの土地を質券に入れたため既に所有権が移っている。慣例に従って倍額とし、百貫文の銭を早急に義信に引き渡すべし、と。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
7月11日
.
吾妻鏡
.
.
相模太郎殿(北條時宗)が体調不良のため祈祷を催した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
7月15日
.
吾妻鏡
.
.
御所で当座の御歌合があった。
.

.
   ※当座の歌合: 当座は即題、その場で題を出し即興で詠むこと。歌合は詠み人を二組に分けて詠んだ歌の優劣
を一番ごとに競うこと。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
7月18日
.
吾妻鏡
.
.
相模太郎殿(北條時宗)殿の体調不良は特に大事にはならなかった。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
7月22日
.
吾妻鏡
.
.
日向守宇佐美祐泰は放生会の供奉人から漏れている。去年10月の大慈寺供養の際には遅刻して供奉せず、更に今年六月の勝長寿院供養の日にも病気を称して不参加だったため選考から外れる結果となった。
.
狼狽した祐泰は越後守北條実時に頼み込んだが、将軍家の付点による選考で私的な判断ではない、と答えた。
.

.
   ※宇佐美祐泰: 祐茂─祐政─祐秀─祐泰と続く。工藤氏・伊東氏とは近い縁戚関係にある。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
7月23日
.
吾妻鏡
.
.
宇佐美祐泰から病気が平癒したので供奉したいとの希望を二階堂行方に提出した認められた。その旨の返状を 越後守北條実時に見せて供奉を願い出たが、実時は「この書状は(将軍家が)容認した内容ではない」と拒否した。
.
祐泰は更に悩んで(将軍近習の)内蔵権頭藤原親家に頼み込み親家の返状を越州に提出して再考を願い出たが、実時の応対は変わらなかった。祐泰は「去年の御堂(勝長寿院)供養の遅参と今年の病気、不慮の出来事なのに過怠と思われて招集から漏れてしまった」と頻りに嘆いていた。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
7月24日
.
吾妻鏡
.
.
孫五郎左衛門尉相馬胤村が放生会の供奉人辞退を申し出た。「老齢と病気に苦しんでいる上に九月九日(重陽節)には定役(公的な任務)の流鏑馬があり、加えて放生会の流鏑馬にも突然の役務が課せられているため 供奉を辞退したい」、と。
.

.
   ※相馬胤村: 千葉 (相馬)師常─義胤─胤綱─胤村と続く相馬氏嫡流。父の胤綱には先妻が産んだ嫡子の胤継
がいたが、後妻の相馬尼(天野政景の娘で胤村の生母)が胤継を勘当して強引に惣領権を奪ったらしい。天野氏は相馬尼を介して相馬一族の支配権を簒奪した、と思われる。
.
結果として相馬胤村の辞退は認められず、先陣の随兵の四番手に名を連ねている。一方の宇佐美祐泰は努力の甲斐あって御後・五位の供奉人として行列に加わった。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
7月29日
.
吾妻鏡
.
.
宇佐美祐泰は猶も供奉人に加わる手立てを探っている。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
暴風雨の後に快晴。諸国の田畑が悉く水没した。
.

.
   ※神明鏡: 8月1日は激しい風で2日は大洪水、大飢饉をもたらすだろう。
   ※百錬抄: 豪雨と強風により各地の建物が倒壊、安嘉門(大内裏の北西)が転倒した。
.
   ※8月1日: 太陽暦の8月30日に該当、台風が日本列島を縦断したか。神明鏡は南北朝時代末期に成立した
年代記で作者不詳・上下二巻、神武天皇から第102代後花園天皇の永享二年(1430)までを記録している。百錬抄はwikiを参照されたし。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月5日
.
吾妻鏡
.
.
激しい雨。(将軍家の上洛に伴う)六波羅御所の移転について評議あり。陰陽師の安倍晴茂・為親・晴憲が連署して工事を行なう日時の上申書を提出した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月6日
.
吾妻鏡
.
.
日向前司宇佐美祐泰を布衣の供奉人数に加えるようにとの仰せがあり、その奉書が少卿武藤景頼を介して越後守北條実時に届けられた。
.

.
   ※供奉行列: 建保六年(1218)7月8日の吾妻鏡には実朝の八幡宮参拝の随兵に関し、官位が上の三浦義村
と年長の長江明義の間で序列の譲り合いがあり、また宝治元年(1247)11月16日には八幡宮放生会の随兵に関して波多野義重三浦盛時の間で序列の奪い合いが発生している。
.
前の例では実朝「若年の義村には次の機会があるだろう。今回は高齢の明義が左(上位)に並んで子孫の誉れにせよ」と決裁した。
.
また後の例では三浦盛時が「家格は自分の方が上なのに片眼の波多野義重より下なのは承服できない」と主張し、義重は「片眼は軍功の印、家格など関係ない」と反論した。 この時は北條重時北條時頼が相談して双方を宥め、「五位の義重が上位」との序列に変更はなかった。
.
随兵の編成を決める根拠として当初は官職・年齢・家の規模などが考慮されたが、後には官位に依拠するようになった、と推測されるのが時代の推移を物語るようで面白い。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月7日
.
史 料
.
.
   ※皇年代略記: 皇太弟(皇位を継ぐ天皇の弟)として恒仁親王(後の第90代亀山天皇、11歳)を立てた。
現在の後深草天皇には既に皇子がいたが後嵯峨上皇の勅による。中宮(大宮院)の第三子で、後深草と同母である。
.
   ※五代帝王物語: 後嵯峨院の第六皇子恒仁親王が春宮(皇太子)となった。御年10歳、大宮院の御腹である。
.

.
後嵯峨上皇と皇后の大宮院は正元元年(1259)11月に89代後深草天皇(17歳)から溺愛した90代亀山天皇に譲位させた。後嵯峨法皇崩御後の文永十一年(12七十四)には法皇の遺志を継ぐ形で後深草上皇の皇子・熈仁(年長)ではなく、亀山天皇の皇子・世仁親王が91代後宇多天皇となる。
.
当然ながら後深草上皇は不満を抱く。ここから後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統の間に深刻な対立が生まれ、やがて後醍醐天皇の独裁と失政を経て南北朝時代の混乱に突入する。
.
「皇年代略記」には諸本あるが一般的には神代から北朝の五代後円融天皇(在位1371~1382)の康暦二年(1380)までの皇位に関する記事を載せている。「五代帝王物語」は鎌倉時代後期に編纂された歴史物語で五代の天皇(後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀山)の治世を編年形式で描いている(作者は不明)。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月8日
.
吾妻鏡
.
.
前駈の人数に含まれていた宮寺蔵人政員が衣冠の用意がないとの理由で辞退を申し出た。布衣(狩衣・六位以下の平服)への変更を頻りに求めたため、今日北條長時で決裁に至った。人数に不足があれば加えるのは当然の事だが、既に決定した内容の変更を求めるのは許されない、と。
.

.
   ※宮寺政員: 武蔵七党・村山党の祖平(村山)頼任の二男家平が入間郡宮寺郷に土着して宮寺氏を名乗った。
館跡は現在の西勝院(地図)一帯と伝わっている。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月15日
.
吾妻鏡
.
.
雨。鶴岡八幡宮の放生会、将軍家(宗尊親王)の御参宮あり。
.
  供奉人行列
.
   先陣の随兵
      武田三郎政綱   小笠原三郎政直
      千葉介頼胤   相馬孫五郎左衛門尉胤村
      大隅修理亮嶋津久時   常陸次郎兵衛尉行雄
      武蔵五郎時忠   備前三郎長頼
      相模三郎時利(北條時輔の初名)   新相模三郎北條時村
.
   次に前駈
      周防五郎左衛門尉忠景   式部兵衛次郎光長
      上総三郎左衛門尉義泰   城六郎顕盛
      肥後六郎左衛門尉内藤時景   土肥四郎定綱
      一宮次郎左衛門尉康有   肥後三郎左衛門尉為成
      左衛門四郎狩野景茂   大泉九郎長氏
      平賀四郎泰定    以上は帯剣して直垂、御車の左右に列す。
.
   御劔役人   武蔵前司北條朝直
   御調度役   武蔵次郎左衛門尉景泰
.
   御後
    五位(布衣・下括り)
      遠江前司北條時直
   越後守定時
      越前前司時弘   刑部少輔教時
      尾張左近大夫将監公時   武蔵左近大夫将監時仲
      中務権大輔家氏   下野前司宇都宮泰綱
      壱岐前司後藤基政   和泉前司二階堂行方
      内蔵権頭藤原親家   縫殿頭中原師連
      周防前司嶋津忠綱   上総前司大曽祢長泰
      信濃前司佐々木泰清   日向前司宇佐美祐泰
.
    六位(布衣・下括り)
      陸奥七郎北條業時   佐渡五郎左衛門尉基隆
      式部太郎左衛門尉伊賀光政   左衛門尉梶原太郎景綱
      新左衛門尉小野寺行通   壱岐新左衛門尉基頼
      左衛門尉上総太郎長経   左衛門尉城四郎時盛
      左衛門尉長谷部次郎義連   肥後次郎左衛門尉為時
      左衛門尉鎌田三郎義長
      御笠手長(笠の支え紐持ち)  右近将監武藤頼村   兵衛尉行鎌田次郎俊
.
    後陣の随兵       遠江右馬助北條清時   民部権大輔北條時隆
      三浦介六郎頼盛   左衛門尉足立太郎直元
      下野四郎宇都宮景綱    薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
      上野五郎兵衛尉結城重光   阿曽沼小次郎光綱
      新左衛門尉大須賀朝氏   左衛門尉伊東八郎祐光
.
(将軍家は)廻廊の簾中で舞楽を観覧。相模守北條政村・武蔵守北條長時・武蔵前司武蔵前司北條朝直・大隅前司藤原親員・石見前司大江能行・上野前司宗俊らが御前に控えた。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月16日
.
吾妻鏡
.
.
雨。将軍家が鶴岡八幡宮寺に御参宮。馬場での流鏑馬以下の神事は通例の通り、行事が終わってから還御した。
.
相州禅室北條時頼が桟敷を退去した後の秉燭の頃、伊具四郎入道が山内の家に帰る途中の建長寺前で射殺された。蓑笠を着けた騎馬の人物が部下一人を連れて伊具の左側を駆け抜け、伊具の従者は田舎から鎌倉に入る者かと思ったが落馬したのを見て矢を受けたと気付いた。鏃には毒が塗ってあった、と。
.

.
   ※伊具四郎: 北條義時の六男で側室が産んだ北條有時を祖とするのが伊具氏。陸奥国伊具郡(現在の丸森町
一帯・地図)本領とした。有時は病弱で政治に関与せず、北條一族の中では家格が低かった。
.
   ※伊具の左側: 伊具から見て左側を駆け抜けるのは騎射に適しているからで通常は「敵意あり」と認識されるが
従者の方は「鎌倉での通例を知らない田舎者か」と判断したらしい。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月17日
.
吾妻鏡
.
.
晴。伊具入道殺害の嫌疑により諏方刑部左衛門入道を拘束して対馬前司佐々木氏信に召し預けた。また平内左衛門尉俊職(平判官康頼入道(後白河法皇の側近)の孫)と牧左衛門入道の共謀が露見した。
.
両名は昨日諏方刑部宅で落ち合って終日閑談しており、伊具が帰宅する時間を知った諏方刑部は突然座を起って伊具を射殺した後に戻って酒宴を続けた、と証言した。この殺害事件は諏方の旧領を伊具に与えたことを発端にして確執が現在まで続いており、犯行の様子からも諏方の行為は既に明らかである。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月18日
.
吾妻鏡
.
.
晴。諏方刑部左衛門入道を拘留して尋問したが白状する気配がないため、従者(名を高太郎)を拘束して尋問したが答えようとしない。「主人は既に白状した」と説得しても「尋問は恥辱と考えて白状したのかも知れないが、それならば私に聴く必要などない」と突っぱねた。これ以上の尋問は不要である。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月19日
.
吾妻鏡
.
.
曇。 今月七日に当帝の御弟(十歳)が御立坊(立太子)したとの報告が今日京都から届いた。(8月7日を参照)
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月20日
.
吾妻鏡
.
.
陸奥国と出羽国の各地で夜討ち・強盗事件が頻発しているとの噂があり、該当する地頭らに鎮圧を命じる御教書を発行した。文面は次の通り。
.
近日、陸奥国と出羽国の各地で夜討ち・強盗事件が頻発しているため往還する者が禍いを受けているとの風聞があるのは遺憾である。これは偏に郡や郷の地頭が従来の命令を守らず警備に過怠が生じているためであり、早急に管理下にある宿駅に警護所を設けて交代で警備を強化するよう命じる。
.
また悪党の隠匿や報告を怠ったりしないとの起請文を沙汰人(下級の実務担当)に提出させるよう命じる。
.
            正嘉二年八月二十日    武蔵守北條長時  相模守北條政村      某殿
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
8月28日
.
吾妻鏡
.
.
晴。戌刻(20時前後)に螢惑(火星)が南斗(射手座)の第五星の軌道を犯した。同時に大流星(長さ四丈余四尺・12m×1.2m)が乾(北西)から巽(南東)に飛んだ。
.
今日の評定で将軍家(宗尊親王)の御上洛が延期となった。諸国の凶作による庶民の苦しみへの配慮である。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
9月2日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
終日終夜雨と強風。今日、諏方刑部左衛門入道が梟罪(斬首と晒し首)となった。主従共に犯行を自供しなかったが相州禅室北條時頼が思慮した末に諏方一人だけを御所に呼び次の様に説得した。
.
将軍家も殺害を嘆いている上に所従の高太郎も自白を拒んでおり、評定では二人とも斬刑は避けられないと決まったのは甚だ残念である。ありのままに真実を話せば何とか斟酌して所従高太郎の助命を考慮しよう。
.
諏方は喜んで涙を抑え、兼ねてからの遺恨を宿意を果たした、と申し述べた。時頼の慈愛は中国の古典にも通じる深さだが犯行は明白であり、断罪しなければ天下の理非が乱れてしまうから 糾弾せざるを得ない。
.
また平内左衛門尉俊職と牧左衛門入道は流刑となった。俊職は公人としてこの犯罪に関与したのは重罪であるとして硫黄嶋に配流となった。治承の時代には祖父の康頼がこの島に流され、正嘉の今になって孫の俊職も同じ島に配流となるのは宿縁と言うべきだろうか。
.

.
   ※公人: 一般的には幕府の組織に所属する下級職員だが、承久の乱(1221年)の際に俊職は父の清基と共に
佐々木経高に従って後鳥羽上皇方に参加した(或いは参加の意図があった)ため阿波麻植保の保司を解任・追放されている。その後に幕府が採用したとの記事は見当たらず、公人云々は理解できない。
.
   ※祖父康頼: 史書に現れた最初は仁安元年(1167)12月。主人の平保盛が尾張国司に任じ、わずか22歳の
康頼を目代として現地に派遣した。この少し前に保盛から平を名乗る許可を得たらしい。
.
康頼は知多郡野間(サイト内リンク・別窓)で没した敵将源義朝の墓が荒れ放題なことに心を痛め、新たに堂を建てて僧を置き寺領として水田30町を寄進して菩提を弔ったと伝わる。
.
この噂を耳にした後白河法皇は近習に取り立てて検非違使・左衛門大尉に任じた。 そして安元三年(治承元年・1177年)には鹿ケ谷の陰謀(wiki)に関与して俊寛らと共に鬼界が島に流され、治承二年(1178)に赦免されて帰洛した(俊寛は許されないまま死亡)。
.
そして平家滅亡後の文治二年(1186)閏7月22日の吾妻鏡には義朝の墓を守った褒賞として阿波国麻殖保)の保司に取り立てられた。ただし同じ吾妻鏡の建久元年(1190)10月25日には治承二年とは食い違う記述があり、吾妻鏡の編纂者が話を面白く作り替えた可能性もある。
.
(上洛途上の)頼朝は尾張の御家人・須細治部大夫為基の案内で義朝廟堂を参拝。荒れ果てた姿を想像したが荘厳な寺で多数の僧が読経していたため仔細を尋ねると、前の廷尉平康頼法師(元平氏の家人で無官の散位)の配慮だった。頼朝は感心して数々の寄進を行った。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
9月21日
.
吾妻鏡
.
.
諸国で悪党の蜂起が頻発しているとの情報があり、特に警備を強化するための評議が重ねられた結果、今日諸国の守護人宛に御教書を発行した。内容は次の通り。
.
  国々の悪党に対応する警固の件
.
諸国で悪党が蜂起し、夜討ち・強盗・山賊・海賊を企てているとの情報がある。凶悪な行動は懲罰し見過ごしてはならない旨は兼ねてよりの命令であり、警備の強化が求められている。実行犯は身柄を拘束して送致せよ。権門勢家(権力や勢力のある家柄)の領地であっても守護人の命令に従わず悪党を拘惜(保護隠蔽)した場合は報告し適正な罪科を受けることとなる。以上の内容を国中に周知し対処させるよう命令する。
.
     正嘉二年九月二十一日    武蔵守北條長時  相模守北條政村      某殿
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
9月29日
.
吾妻鏡
.
.
過ぎ行くを惜しみ、御所で当座の和歌御会が催された。
.

.
   ※当座: 即題、その場で題を出し即興で詠むこと。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
10月12日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。今日の評議で次の様に(将軍家の)仰せがあった。
.
嘉禄元年(1225)から仁治三年(1242)までの御成敗(政令や決裁内容)、および三代将軍(源実朝)と二位家(政子)の御成敗については改訂してはならない。
.

.
   ※嘉禄~仁治: 北條泰時が執権に任じていた時代。実朝の治世は建仁三年(1203)~建保六年(1218)
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
10月16日
.
吾妻鏡
.
.
朝のうち晴、巳刻(10時前後)から豪雨による洪水で家屋の流失と人命の被害があり、午刻(正午前後)になって晴れた。子刻(深夜0時前後)に皆既(百錬抄の記事を引用)月蝕を観測した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
11月19日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。将軍家(宗尊親王)による百日の蹴鞠御会が結願した。花山院宰相中将・相模守北條政村(布衣)・武蔵守北條長時(同)・刑部少輔北條教時・越前守北條時弘(時広)・右馬助清時・遠江次郎時通以下数人が参候した。
昨日で結願の予定だったが一昨日から御風気(風邪気味)の気配が残っているため延期していた。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
12月9日
.
吾妻鏡
.
.
鶴岡八幡宮で諸神を供養する楽曲の供養を行なった。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
12月10日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
今後は主従敵対(家臣が主人を訴えること)は理非を論ぜず(正当か否かを問わず)受け付けないと定めた。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
12月12日
.
吾妻鏡
.
.
寅刻(早暁4時前後)に雷鳴あり。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
12月14日
.
史 料
.
.
   ※北條九代記: (執権の)武蔵守北條長時が従五位上に叙された。   (北條九代記の詳細はwikiで。)
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
12月16日
.
吾妻鏡
.
.
晴。寅刻(早暁4時前後)に地震、巳刻(10時前後)に雷鳴が数回に及んだ。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.

.
吾妻鏡
.
.
歳末を迎えるに当たり、諸方の番帳(各部署の勤務者名簿)整理し清書した。廂衆の勤務表については特別の仰せに従って秋田城介安達泰盛が御所で整理し清書した。
.

.
   ※廂衆: 正嘉元年(1257)12月に設けたの職名(廂番とも)。勤務表を定めて将軍の廂御所に宿直し警固する
任務で10人を1組とし、6組の構成とした。文応元年(1260)には1組を12人に増員している。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
12月20日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(宗尊親王)がやや体調不良。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
12月21日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家の体調が平癒した。
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦‬1258年
.
89代後深草天皇
.
正嘉二年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.


前年・正嘉二年(1257)の吾妻鏡へ       翌年・正元元年(1259)の吾妻鏡へ