当サイトは、9月から http://kamakura-history.holy.jp/index-aisatsu.html に一本化します。
.
8月末までは 従来のTOK2 サーバー も並行して使えますが、9月からは上記のみになります。ブックマーク変更を、お早めに!




正元二年、 4月13日に改元して文応元年(1260年)

.
前年・正嘉三年(1259)の吾妻鏡へ       翌年・文応二年(1261)の吾妻鏡へ

左フレームに目次を表示するには 吾妻鏡を読む のトップ頁 で。    勝手ですが、WINマシン+I E.8以降 での閲覧を希望します。
.
指定なしの青文字 はサイト内の移動、下線付き青文字 はサイト内の別窓表示、wiki・公式サイト・地図 などの表示は外部へのリンクです。

天皇
月日
記事
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。相州禅室北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。両国司(執権の武蔵守北條長時と連署の相模守北條政村)および評定衆以下の人々が布衣(狩衣・略礼服)を着して出仕し通例に従って庭上に列座した。
.
   武蔵前司北條朝直    尾張前司北條時章
   相模太郎北條時宗    新相模三郎北條時村
   相模三郎北條時輔    遠江前司北條時直
   陸奥左近大夫将監北條義政    越後守北條実時
   弾正少弼北條業時    武蔵左近大夫将監北條時仲(朝直の子)
   尾張左近大夫将監北條(名越)公時    遠江右馬助北條清時(時直の嫡子)
   刑部少輔北條教時    越前前司北條時弘(時広)
   越後右馬助北條時親    民部権大輔北條時隆
   越後四郎北條時方(顕時)    武蔵五郎北條宣時
   遠江七郎北條時基   備前三郎北條長頼(北條時長の孫で北條宗長の父)
   駿河四郎北條兼時(北條有時の嫡子で宗尊親王の側近)
   越後又太郎北條信時(北條時盛-時景-信時と続く。生母は三浦泰村の娘)
   駿河五郎北條通時(有時の五男)    新田三河前司新田(世良田)頼氏
   宮内権大夫長井時秀    秋田城介安達泰盛
   中務権少輔守教   武藤少卿武藤景頼
   木工権頭藤原親家   和泉前司二階堂行方
   刑部少輔那波政茂   出羽前司小山長村
   壱岐前司後藤基政   伊賀前司朝行
   判官代長井時秀   日向前司宇佐美裕泰
   安芸右近大夫藤原親継   大隅前司嶋津忠時
   上総前司大曽祢長泰   周防前司藤原親実
   縫殿頭中原師連   甲斐守
   後藤壱岐新左衛門尉   上総三郎右衛門尉
   周防三郎左衛門尉   城四郎左衛門尉
   筑前次郎左衛門尉   周防五郎左衛門尉
   城六郎安達顕盛   周防六郎左衛門尉
   筑前三郎左衛門尉   城弥九郎
   筑前四郎左衛門尉   式部太郎左衛門尉
   小野寺四郎左衛門尉   大隅蔵人
   常陸次郎左衛門尉   小野寺新左衛門尉
   上野太郎左衛門尉   出羽七郎左衛門尉
   三善右衛門尉   和泉六郎左衛門尉
   善次郎左衛門尉   薩摩七郎左衛門尉
   和泉七郎左衛門尉   薩摩十郎
   土肥四郎   内藤肥後三郎左衛門尉
   狩野五郎左衛門尉   伊東次郎左衛門尉
   伊勢三郎左衛門尉   狩野四郎左衛門尉
   信濃次郎左衛門尉   鎌田図書左衛門尉
   肥後天野新左衛門尉   大曽彌太郎左衛門尉
   信濃三郎左衛門尉   狩野帯刀左衛門尉
   加藤左衛門尉   紀伊次郎左衛門尉
   長内左衛門尉   大泉九郎
   鎌田次郎左衛門尉   鎌田三郎左衛門の尉
   進三郎左衛門尉   善五郎左衛門尉
   駿河右近大夫   平賀四郎左衛門尉
.
出羽前司二階堂行義が定刻を告げ将軍家(宗尊親王)が出御、右衛門督(四条隆顕?)が進み出て御簾を上げた。
御剣役は武蔵前司北條朝直、御調度(弓箭)役は尾張前司北條時章、御行騰沓役は越後守北條実時
.
   一の御馬を引くのは 遠江七郎北條時基 と 左衛門尉工藤次郎高光
   二の御馬を引くのは 武蔵五郎北條時忠直 と 安東新左衛門尉
   三の御馬を引くのは 出羽七郎左衛門尉二階堂行頼 と 同、九郎宗行
   四の御馬を引くのは 城四郎左衛門尉安達時盛 と 同、六郎安達顕盛
   五の御馬を引くのは 伊勢次郎左衛門尉行経 と 同三郎左衛門尉頼綱
.
将軍家はその後に武蔵守北條長時持参した吉書を覧た。
今日御行始めの儀があり、通例に従って庭上の出仕人から供奉人を選抜した。これらの奉行は右衛門尉工藤三郎光泰、平岡左衛の尉實俊が支障で欠席したためである。
.
未刻(14時前後)御出発。
.
  御車は網代廂。 御剣役人は武蔵前司北條朝直
.
  御後
.
  五位
.
   相模太郎北條時宗    尾張前司時北條時章
   遠江前司遠江前司北條時直    越後守越後守北條実時
   越前前司越前前司北條時広    刑部少輔刑部少輔北條教時
   遠江右馬助北條清時    武蔵左近大夫将監時仲
   陸奥左近大夫将監北條義政    弾正少弼北條業時
   相模三郎時利(北條時輔)    遠江七郎北條時基
   新相模三郎北條時村    越後四郎時方
   参河前司足利 頼氏(利氏)    秋田城介安達泰盛
   宮内権大夫時秀(長井時秀)    和泉前司和泉前司二階堂行方
   出羽前司小山長村    壱岐前司後藤基政
   木工権頭藤原親家(宗尊親王側近)    日向前司宇佐美祐泰
   少卿武藤景頼    上総前司大曽祢長泰
   甲斐守狩野為成(太宰少貳狩野為佐の嫡子)
.
  六位
.
   城四郎左衛門尉時盛(安達泰盛の次弟)   同、六郎顕盛(安達義景の六男)
   式部太郎左衛門尉伊賀光政   壱岐新左衛門尉基頼(後藤基政の子)
   和泉三郎左衛門尉行章(二階堂行方の子)   信濃次郎左衛門尉佐々木時清(信濃守泰清の嫡子)
   左衛門尉周防五郎嶋津忠景(忠綱の子)   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
   左衛門尉一宮次郎康有   筑前次郎左衛門尉二階堂行頼(行泰の子)
   新左衛門尉小野寺行通   左衛門尉加藤景経(景朝の四男)
   左衛門尉土肥四郎実綱(実平遠平-維平-維時-倫平-実綱と続く)
   出羽次郎兵衛尉二階堂行藤(行有(行義の次男)の子)
   常陸次郎左衛門尉   左衛門尉鎌田三郎義長
   左衛門尉鎌田次郎行俊   武藤右近将監頼村
.
御引出物は通例の通り。
御剣は刑部少輔北條教時、砂金は左近大夫将監北條義政、鷹の羽は宮内権大輔狩野時秀。
.
   一の御馬を引くのは 新相模三郎北條時村 と 安保次郎左衛門尉
   二の御馬を引くのは 筑前三郎左衛門尉二階堂行実(行泰の嫡子) と 同、四郎左衛門尉二階堂行佐
   三の御馬を引くのは 相模三郎(北條時輔・旧名時利) と 南條新左衛門尉
.

.
   ※年令: 前年に執権を退いた北條時頼は32歳、 同じく連署を退いた北條重時は61歳、
六代執権の北條長時は29歳、連署を継ぎ後に七代執権になる北條政村は56歳、
八代執権になる北條時宗は8歳7ヶ月、同母弟の宗政は6歳10ヶ月、庶兄の時輔は11歳6ヶ月、
.
安達泰盛は29歳、 足利氏四代当主足利泰氏は44歳、 宇都宮氏六代当主宇都宮泰綱は58歳、
古参の評定衆二階堂行義は57歳、 後に権力を握る御内人平頼綱は19歳、
.
六代将軍の宗尊親王は17歳、第89代後深草天皇は16歳、先帝の後嵯峨上皇は38歳、
前年11月に践祚した第90代亀山天皇は10歳5ヶ月、     (表示は1月1日現在・満年齢)
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月2日
.
吾妻鏡
.
.
晴。奥州禅門北條重時の沙汰による椀飯の儀があり、左衛門督が御簾を上げた。
御剣役は尾張前司北條時章、御調度(弓箭)は越前前司北條時弘(時広)、御行騰沓は秋田城介安達泰盛
.
   一の御馬は  新相模三郎北條時村    式部次郎左衛門尉
   二の御馬は  備前三郎北條長頼(北條時長の長子、一番御格子番)
   三の御馬は  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   同、十郎左衛門尉祐廣
   四の御馬は  信濃次郎左衛門尉佐々木時清(信濃守泰清の嫡子)
   五の御馬は  周防五郎左衛門尉嶋津忠景(忠綱の三男)
.

.
   ※馬の引手: 通常は上手と下手の二人が手綱を引くのに何故一人なのか。単なる記載漏れか。
吾妻鏡の養和元年(1181)7月20日の吾妻鏡に次の記載がある。
.
頼朝は工匠に褒美の馬を与え、その馬を引く役目を九郎義経に命じた。義経は「私が上手(かみて)の手綱を引くと下手(しもて)の手綱を引く役に見合う身分の者がいない」と答え、頼朝は重ねて「佐貫広綱畠山重忠がいる。この役目を卑下して従うのを渋っているのか」と。義経はその言葉に恐怖し座を立って二頭の上の手綱を引き、重忠が先の一頭を、広綱が後の一頭の下の手綱を引いた。
.
馬の手綱をひくにもそれなりの手順がある、という事。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月3日
.
吾妻鏡
.
.
晴。相模守北條政村の沙汰による椀飯の儀があり、右金吾が御簾を上げた。
御剣役は越後守北條実時、御調度(弓箭)は左近大夫将監北條(名越)公時、御行騰沓は和泉前司二階堂行方
.
   一の御馬は  遠江七郎北條時基 と 糟屋左衛門三郎行村
   二の御馬は  式部太郎左衛門尉光政 と 同、右衛門次郎
   三の御馬は  出羽九郎二階堂宗行 と 同、次郎兵衛尉行藤
   四の御馬は  城六郎安達顕盛 と 同、九郎長景
   五の御馬は  新相模三郎北條時村 と 式部次郎左衛門尉光長
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月9日
.
吾妻鏡
.
.
晴。評定始めを行なった。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月10日
.
吾妻鏡
.
.
晴。京都からの飛脚が到着して次の通り報告。
.
今月4日に園城寺三摩耶戒壇を認める宣下を発したところ、6日卯刻(朝6時前後)に日吉社の神輿三基・祇園の神輿三基・北野の神輿二基・京極寺の神輿一基、併せて九基の神輿が入洛し先頭で振り回して放棄、二基は院の御所に迫って振り回した、と。
.

.
   ※三摩耶戒壇: 東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の三ヶ所に設けたのが三戒壇、その後に最澄が比叡山に
円頓戒壇を設立したが、反発した延暦寺と圓城寺の間に紛争が続いたため(隆弁と鎌倉幕府の申請を容れて)圓城寺の僧侶を救済する目的で設立を認めたのが三摩耶戒壇。
.
しかも正嘉二年(1258)4月には一度撤回した宣下だから、当然ながら延暦寺は納得しない。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月11日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。将軍家(宗尊親王)が鶴岡八幡宮に御参宮。
.
  御車(庇付きの牛車)
.
     壱岐左衛門尉後藤基頼(後藤基政の子)   左衛門尉加藤景経(景朝の四男)
     城六郎顕盛(安達義景の六男)   左衛門尉筑前四郎二階堂行佐
     信濃判官次郎左衛門尉二階堂宗行    肥後新左衛門尉天野景氏
     左衛門尉狩野四郎   左衛門尉伊東次郎盛時
     左衛門尉薩摩九郎   左衛門尉伊勢三郎頼綱
     新左衛門尉小野寺行通   左衛門尉一宮次郎康有
     左衛門尉鎌田三郎義長   左衛門尉平賀三郎維時
     左衛門尉鎌田次郎行俊
       以上帯劔・直垂、御車の左右に候す。
.
  御劔役人(布衣・下括り)は武蔵前司朝直  御調度懸け(布衣・下括り)は武藤左衛門尉頼泰
.
  御後
.
  五位(布衣・下括り)
     尾張前司北條時章   遠江前司北條時直
     越後守北條実時   越前前司北條時弘(時広)
     越後右馬助北條時親   刑部少輔北條教時
     遠江右馬助(時直の嫡子)   尾張左近大夫将監北條(名越)公時
     武蔵左近大夫将監時仲(北條朝直の子)   民部権大夫時隆(時房-時村-時隆と続く)
     弾正少弼北條業時   陸奥左近大夫将監北條義政
     出羽前司小山長村   宮内権大夫長井時秀
     木工権頭藤原親家   秋田城介安達泰盛
     参河前司新田(世良田)頼氏   和泉前司二階堂行方
     壱岐前司後藤基政   周防前司島津忠綱
     伊賀前司時家   上総前司大曽祢長泰
     甲斐守為時   日向前司宇佐美祐泰
     太宰少貳武藤景頼
.
  六位(布衣・下括り)
     相模太郎相模太郎北條時宗   同四郎北條宗政
     相模三郎北條時利(後の時輔)   遠江七郎北條時基
     越後四郎北條時方(後の顕時、実時の嫡子)   新相模三郎北條時村
     備前三郎北條長頼(時長の子)   武蔵五郎北條時忠(宣時の初名、朝直の嫡子)
     式部太郎左衛門尉伊賀光政(光宗の孫で宗義の子、引付衆)   左衛門尉城四郎安達時盛(泰盛の次弟)
     左衛門尉大曽祢太郎長頼   信濃次郎左衛門尉佐々木時清(信濃守泰綱の嫡子)
     左衛門尉遠江十郎頼連(会津蘆名氏?)   隠岐三郎左衛門尉二階堂行景
     左衛尉伊勢次郎行経   左衛門尉筑前三郎行實
     左衛門尉薩摩七郎伊東祐能   出羽左衛尉土屋七郎行頼
     左衛門尉和泉三郎二階堂行章  左衛門尉 三善太郎康長
.

.
   ※:
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月12日
.
吾妻鏡
.
.
由比ケ浜で的始めに備えて13人の射手選出を行なった。一射づつ五度の弓射である。
.
  射手      一番  早河次郎太郎は九 vs 渋谷左衛門太郎は八
     二番  平嶋弥五郎は九 vs 岡本新兵衛太郎は九
     三番  佐貫七郎は六 vs 藤澤左衛門五郎は六
     四番  藤澤左近将監は八 vs 海野矢四郎助氏は八
     五番  桑原平内は十 vs 工藤弥三郎は八
     六番  本間弥四郎左衛門尉は七 vs 柏間左衛門次郎は九
     七番  工藤八郎は三.

.
   ※海野助氏: 一族の実質的な祖である海野幸氏は建長二年(1250)3月1日で記載が途絶えている(最後尾の
近くに「閑院殿造営の河堰東鰭十二丈を海野左衛門入道が負担云々」の記事あり)。
.
海野幸氏の初出は元暦元年(1184)4月21日に木曽義仲の遺児志水義高の脱出を助けるため鎌倉に留まったのが最初でこの時11歳、従って80歳近い高齢で死没した、と考えられる。
.
生存中の幸氏は北條一族との関係は良好で、本領の信濃から上野国(群馬県)北部に勢力範囲を拡大していた。武名の高さと所領の豊かさに伴って子孫を名乗る者が多く現れている。
.
幸氏以後の信頼性に欠ける系図では助氏との正確な血縁が確認できないが、建長四年(1252)1月14日の吾妻鏡弓始めの記録には海野助氏の記載がある。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月14日
.
吾妻鏡
.
.
晴、寅刻(早暁4時前後)に雷鳴あり。
.
  今日御弓始めがあり、二射づつ五度的を射た。射手は12人。
.
     一番  早河次郎太郎祐泰は 九九 vs 渋谷左衛門太郎朝重は 七七
     二番  平嶋彌五郎助経は 九八 vs 岡本新兵衛尉重方は 四九
     三番  佐貫七郎廣胤は 七七 vs 藤澤左衛門五郎光朝は 八九
     四番  藤澤左近将監時親は 七五 vs 海野矢四郎助氏は 六六
     五番  桑原の平内盛時は 九九  工藤弥三郎清光は 八九
.

.
   ※続史愚抄: この日、山門(比叡山)の僧徒が御所に参上して戒壇の事(圓城寺への戒壇認可の撤回)を欝訴、
その旨を関東に伝えようとの院宣を与えられた。按察使(顕朝)がそれを書類にした。
.
続史愚抄は江戸時代後期の編年体歴史書。更に詳細はwikiで。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月19日
.
史 料
.
.
   ※続史愚抄: 延暦寺の欝訴を受け、園城寺に与えた三摩那戒壇の官符(公文書)を回収するよう口頭での宣下
があった。上卿(上席の公卿)は権大納言花山院師継(wiki)、奉行は蔵人治部大輔経業。
また一院から山門(比叡山)に院宣が下され、奉行の院司経業が院宣を書類にした。
.

.
     ※一院: 上皇が二人の場合は元の上皇(後嵯峨)を一院、新たに院になった先帝(後深草)を新院と呼ぶ。
戒壇を巡る紛争は決着せず、比叡山衆徒による焼き討ちや合戦は南北朝時代を過ぎても続いた。三摩那戒壇の去就も明らかになっていない。
.
それにしても朝廷の対応は何とも情けないし、比叡山の態度はとても宗教者とは呼べないレベルだ。法然・親鸞・栄西・道元など鎌倉時代の名僧を輩出した寺院だなんて、とても信じられないね。
.
まぁ「数の力で国政を歪める」という意味では、創価学会と公明党の存在も大同小異だが...。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月20日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
御所で昼番衆(昼間の勤務割)を定め、壮士(成年男子ほどの意味)の場合は歌道・蹴鞠・管弦・右筆・弓馬・郢曲(今様、俗曲)などの一芸に秀でた者は直ぐに対応できるように組み入れた。必要な時に不在だった例があったための沙汰である。小侍衆に命じて芸能の輩の名簿を整理し、相州禅門(北條時頼)が目を通してから決定した。工藤三郎右衛門尉光泰がこれを奉行し、城四郎左衛門尉が清書した。
.
    一番 子と午の日  昼番の事(順不同)
     相模太郎北條時宗    弾正少弼北條業時   尾張左近大夫将監北條(名越)公時
     民部権大輔北條時隆   足利上総三郎(吉良満氏)   秋田城介安達泰盛
     同六郎安達顕盛(義景の六男で泰盛の弟)   下野四郎左衛門尉宇都宮景綱
     遠江十郎左衛門尉頼連(義連-末子泰連-末子頼連と続く)   左衛門尉筑前五郎行重
     左衛門尉武藤頼泰(武藤景頼の子)   信濃判官左衛門尉(二階堂行宗   左衛門渋谷太郎朝重
.
  二番 丑と未の日
     越前前司北條時弘(時広)   遠江右馬助北條清時(時直の長男)   武蔵五郎北條時忠(後の宣時)
     和泉前司二階堂行方   出羽大夫判官二階堂行有   和泉三郎左衛門尉二階堂行章
     左衛門尉淡路又四郎宗泰(長沼宗政-時宗-宗泰)   式部太郎左衛門尉伊賀光政(光宗-宗義-光政)
     隠岐三郎左衛門尉二階堂行景   大須賀新左衛門尉朝氏   佐貫七郎広胤
     江戸七郎太郎長光   大泉九郎氏広
.
  三番 寅と申の日
     陸奥左近大夫将監北條義政   相模三郎北條時輔   備前三郎北條長頼   出羽前司小山長村
     上野大夫判官結城広綱   大隅修理亮嶋津久時(久経)   城四郎左衛門尉安達時盛
     寺嶋小次郎時村   筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   出羽七郎左衛門尉二階堂行頼(同姓同名)
     一宮次郎左衛門尉康有   本間弥四郎左衛門忠時
.
  四番 卯と酉の日
     新相模三郎時村(北條政村の嫡男)   越後右馬助北條時親   宮内権大輔時秀
     木工権頭藤原親家   日向前司宇佐美祐泰   城弥九郎長景((義景の六男で泰盛の異母弟))
     左衛門尉大曽弥太郎長経   上野十郎小山朝村   左衛門尉加藤景経
     武石四郎左衛門尉長胤   阿曽沼小次郎光綱   波多野小次郎定経
     新左衛門尉小野寺行通(出羽小野寺氏)
.
  五番 辰と戌の日
     刑部少輔北條教時   遠江七郎北條時基   参河前司新田(世良田)頼氏
     縫殿頭中原師連   美作兵衛蔵人家教   城五郎左衛門尉安達重景(義景の五男で時盛の次弟)
     河越次郎経重   筑前四郎左衛門尉二階堂行佐   甲斐三郎左衛門尉為成
     土肥四郎實綱    左衛門尉三善五郎康家   樺野四郎左衛門尉景氏
     二宮弥次郎時元
.
  六番 巳と亥の日
     越後守北條実時   同、四郎北條顕時   壱岐前司後藤基政
     少卿武藤景頼   上総前司長泰   佐渡五郎左衛門尉基隆
     壱岐新左衛門尉基頼   伊勢三郎左衛門尉頼綱   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
     肥後新左衛門尉景氏   兵衛尉鎌田次郎行俊   渋谷三郎太郎重村
     早河次郎太郎祐泰
.
  以上の決定を守り各々参勤するよう、仰せに依って定める。  正元二年正月日
.

.
   ※続史愚抄: 園城寺の戒壇(を認可した)官符を取り消して回収した。これにより比叡山の僧徒は解散した。
.

.
   ※渋谷朝重: 頼朝に仕えた渋谷重国の二男高重は横山党の娘婿だった関係から建保元年(1213)5月の和田
合戦で義盛に味方して滅亡、長男光重が本領(現在の藤沢・大和・綾瀬市一帯)を継承した。
.
光重の長男・重直が相模の本領を相続、次男以下の男子は宝治合戦(1247年・三浦氏滅亡)の恩賞で得た薩摩の新領を与えて下向し、祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城氏として繁栄している。
.
本領を相続した重直は相模渋谷氏として続いているため朝重は重直の息子または孫だろうと思うが、系図上では詳細の確認ができない。
.
   ※北條長頼: 備前守北條時長の長男だが特筆できる記録なし。弟定長が正五位上・備前守で、備前守着任前は
備前太郎を名乗っているから、長頼は庶長子または早世した可能性がある。
.
   ※大須賀朝氏: 千葉介常胤-四男大須賀四郎胤信(初代当主)-太郎通信(二代当主)-胤氏(三代当主)-
朝氏(四代当主)と続く。
.
   ※佐貫広胤: 佐貫氏は藤姓(足利俊綱)の弟で佐野氏の祖となった有綱の息子 佐貫広綱を初代とする。
広綱は上野国佐貫荘(邑楽郡明和町・地図)を本領とし、俊綱の嫡子足利忠綱と共に平家軍に加わり、宇治川合戦で源頼政以仁王連合軍を壊滅させ、後に頼朝の御家人として活躍した武士。
.
本家筋の藤姓足利氏は滅亡し、庶流の佐野氏・佐貫氏は鎌倉御家人として奥州合戦や承久の乱を転戦している。広胤は広綱の直系子孫と思われるが、手元の系図では確認できない。
.
   ※江戸長光: 秩父重綱-四男の江戸重継-江戸重長-忠重-重行-重光-長光と続く江戸氏の嫡流。
初代重継は武蔵国江戸郷を相続して現在の江戸城一帯を本拠とし、息子重長は頼朝の御家人として仕えた。重綱を共通の祖とする同族の畠山重忠の生母は三浦義明の娘とする説が一般的だが、重継の娘と考える説もある。
.
   ※大泉氏広: 文治五年(1189)に平家から没収した長講堂領出羽国大泉庄(山形県鶴岡市西部・地図)地頭に
任じた武藤資頼が後に地頭職を弟の氏平に譲り、氏平が地名の大泉氏を名乗ったのが最初。
.
建保六年(1218)6月27日の吾妻鏡には「出羽国羽黒山から多数の衆徒が鎌倉に着いて、地頭大泉次郎氏平の非法を訴え出た。今日、この件について中原仲業を奉行として裁決を行なった」との記載があり、羽黒山への干渉を禁じる敗訴が決定ている。以後は並行して武藤氏とも名乗り、鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代に入ってからは大宝寺氏とも名乗っている。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月21日
.
史 料
.
.
   ※続史愚抄: 日吉社の神輿三基が祇園から本社に帰座した。
これより前には延暦寺中堂に鎮座していた日吉四社の神輿が帰座していた。
.

.
   ※日吉の神輿: 今年1月10日の吾妻鏡に次の記載がある。
.
今月4日に園城寺三摩耶戒壇を認める宣下を発したところ、6日卯刻(朝6時前後)に日吉社の神輿三基・祇園の神輿三基・北野の神輿二基・京極寺の神輿一基、併せて九基の神輿が入洛し先頭で振り回して放棄、二基は院の御所に迫って振り回した。
.
圓城寺戒壇認可の宣下取り消しの強訴が成功して堂々の凱旋だ。
かつて白河上皇は「思いの侭にならないのは賀茂川の水と双六の賽と山法師」と嘆いていた。
賀茂川の水は天災、サイコロの目は運次第、神威を振り翳す山法師には対処の術なし、と。
.
まぁ宗教団体を母体にした政党が「国民のため働く」と称して総理大臣夫妻の脱法行為を黙認するんだから、現代も千年昔と大差なしか。
.
    ....今日は5月5日、ヤマボウシの花が楽しめる季節が近づきました。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月23日
.
吾妻鏡
.
.
無益な殺生を禁じる命令が事書(箇条書き)として下された。
.
  一.六齋日(在家者が戒律を守るべき6日(8・14・15・23・29・30日)と二季(春・秋)の彼岸の殺生について。
.
魚や鼈(スッポン)の類、禽獣の仲間であっても命が大切な事は人間と同様であり、罪業仏教でも無益な殺生が深い罪業と教えている。 上記の日々には魚網での漁や山野での狩猟を禁止し、厳守するよう命じる。
.
違犯した者があれば御家人の場合は姓名を記録して報告し、凡下(一般庶民)の場合は罪科に問うよう諸国の守護および地頭に命令する。ただし、限定された神社の祭事に関しては例外とする。
.

.
   ※神社の祭事: 鷹狩りによる獲物(贄)を奉納する神事などを差す。
例えば諏訪大社(上社)には鷹狩りの獲物を神に捧げる「贄」の風習が近年まで続いていた。
.
境内地の左側参道の鳥居の横には贄を並べて懸けたと伝わる「贄掛の大欅」(地図)も残っている。
.
すぐ近くには参拝車用無料Pもある。本殿だけではなくこちらにも立ち寄ってみよう。
詳細はこちらのサイトを参考に。
.
右画像は10年も前に撮影した贄掛の大欅。今も同じ状態かどうか、確信は持てないが。      画像をクリック→拡大表示
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月26日
.
吾妻鏡
.
.
晴。園城寺衆徒の使者が鎌倉に参着して次の様に申し出た。
.
今月4日に宣下を受けた当寺の三摩耶戒壇について、同14日に山徒(比叡山の衆徒)が院に参上して訴えたのみならず寺門(圓城寺)を焼き払うと強訴し、20日に撤回となった。一寺の滅亡に近い異常事態である。
.

.
   ※紛争について: 前年の9月(この年の吾妻鏡は逸失)に隆弁が上洛して朝廷と戒壇認可の交渉を続けていた。
鎌倉幕府の権威を背景にしているから認可の宣下は問題なく得られたのだが...
比叡山の頑強な抵抗に阻まれてしまった。これが同じ天台宗の争いだから笑ってしまう。
.
創価学会と日蓮宗の争いみたいなものだね、要するに鼻クソが目クソに喧嘩売ってる状態。
個人的には比叡山と創価学会が鼻クソだと思うけど、自覚はないだろうな。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
1月29日
.
吾妻鏡
.
.
去る22日に神輿が本社に帰坐し、同二23日には(防衛に集結していた)三井寺(圓城寺)の衆徒が解散した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
2月2日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。将軍家が御所の修理に伴う御方違えのため二棟の御所に渡御した。
.
今日、将軍家の供奉・警護に任じる小侍所に御簡の新しい配属があった。和泉前司二階堂行方が将軍家の指示を仰せを越後守北條実時に伝え、平岡左衛門尉と工藤三郎右衛門尉を介して通達・手配した。
.
     二番に 伊賀左衛門四郎 と 同六郎
     四番に 美作兵衛蔵人
     五番に 木工権頭
.

.
   ※御簡衆: 嘉禎四年(1238)5月20日の吾妻鏡に以下の記載がある。
.
将軍家(藤原頼経)の御家人左衛門少尉藤原(笠間朝時)と藤原・上野十郎結城朝村(結城朝光の八男)を前右大臣家 (西園寺実氏(wiki)・普光園)の御簡(近侍)衆として仕える任務を与えた。
朝村の着任は(16日に見せた)弓箭の技に感心した(二条家=良実の)御所望による。
.
小侍所の中でも特に近侍を許された立場らしい。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
2月3日
.
吾妻鏡
.
.
晴。山門(比叡山)の蜂起によって園城寺が放火の被害を受ける恐れがあり、警固を強化するよう大番衆に指示するよう六波羅に通告した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
2月4日
.
吾妻鏡
.
.
出羽判官次郎兵衛尉を小侍所の御簡衆に追加任命した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
2月5日
.
吾妻鏡
.
.
晴。酉刻(18時前後)に故岡屋禅定殿下(近衛兼経公・wiki)の御息女(近衛宰子・21歳)が最明寺禅室北條時頼の御猶子(一般的には相続権を伴わない養子)として鎌倉に到着し、直ちに(時頼の)山内亭に入御した。
御息所(将軍宗尊親王の正室)としての婚姻に備えたものである。
.

.
   ※時頼の猶子: 天皇の義父として権勢を握った平安時代末期の平清盛と同じように時頼も将軍の舅として院政
に近い幕政運営を夢見たらしい。出自が低くて貴種性に欠け、源氏の郎党に過ぎなかった北條氏としては自らを将軍に等しい高貴な立場に置く乾坤一擲の発想だったが...
.
個人的妄想(笑)では、時頼の廻国伝説(正嘉三年・1259年3月を参照)が生まれたのはこの時代だろうと思う。元より権力に寄り添う気質の吾妻鏡編纂者が北條氏賞賛のついでに(時頼や時宗にだけ「殿」を書き加えるのと同じ感覚で)吹聴したと考えても、違和感はない。
.
権力者の意向を忖度(そんたく)して事実を歪め続ければどうなるか。北朝鮮を見れば一目瞭然なのに、日本人もまた懲りることなく愚かな歴史を繰り返す。
.
閑話休題...文永元年(1264)4月に惟康王(後の七代将軍)を産んだ宰子の不義密通(相手は護持僧の良基)が発覚するから好事魔多し。良基は逐電、宗尊親王は「謀反を計画」の名目で京都に追放、宰子は娘の揄子を連れて京に戻る結末となる。
.
密通と謀反が事実なのか、将軍更迭の名目だったのかは判然としない。宰子の娘・揄子は第91代後宇多天皇の側室となって禖子内親王を産んでいるから後半生は優雅だった、のかも。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
2月10日
.
吾妻鏡
.
.
晴。(相州禅室北條時頼の)最明寺亭で将軍家(宗尊親王)の御吉事(婚姻)についての協議が持たれた。陰陽師の安倍晴賢・晴茂・宣賢・文元らが呼ばれ、各々が別紙で日時について答申した。今月14日が次吉、3月21日が上吉との内容である。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
2月14日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)が最明寺亭に入御。戌刻(20時前後)に姫君御前(近衛兼経卿の娘)の御除服(服喪明け)の儀あり。天文博士為親朝臣が御祓いを務め、前兵衛佐忠時朝臣が陪膳(食膳の給仕)を、木工権頭藤原親家(宗尊親王の側近)が運び役に任じた。奉行は太宰権少貳武藤景頼
.

.
   ※服喪明け: 近衛兼経の死去は前年の5月4日(関連記事を記載してある)だから約270日が過ぎた。
服喪期間が故人との関係の深さで異なるのは現代と同様だろうが、鎌倉時代の習慣は確認していない。そのうち調べてみよう。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
2月18日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)が桜花を見るため永福寺に出御した。
.

.
   ※桜花: 旧暦の2月18日は西暦の3月31日、桜はもちろん山桜。
頼朝が奥州平泉を平定した直後の文治五年(1189)9月27日の吾妻鏡に「平泉を囲む(駒形嶺の麓)30余里には桜樹の並木が続き、峰の残雪は四月から五月まで消えないため駒形嶺と呼ばれている。」との記載があり、花を楽しむため桜樹を植える習慣は当時からあった。吉野の桜も植樹だろうし、確か三浦に千本の桜を植えた云々の記事もあった。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
2月20日
.
吾妻鏡
.
.
廂御所の結番編成を変更し、二階堂行方がこれを書き改めた。
.
  廂御所結番についての定め
.
    一番(1日から5日まで)
      一條中将   越後守北條時盛   尾張左近大夫将監北條(名越)公時
      新相模三郎北條政村   武蔵八郎北條頼直(朝直の子)   武藤少卿景頼
      佐渡五郎左衛門尉   出羽三郎左衛門尉   小野寺新左衛門尉
      上総太郎左衛門尉   鎌田三郎左衛門尉   一宮次郎左衛門尉
.
    二番(6日から10日まで)
      阿野少将   治部権大輔   武蔵左近大夫将監
      備前三郎   和泉前司   駿河右左近大夫
      下野四郎左衛門尉   常陸次郎左衛門尉   城五郎左衛門尉
      後藤壱岐左衛門尉   信濃判官次郎左衛門尉   平賀三郎左衛門尉
.
    三番(11日から15日まで)
      陸奥左近大夫将監   宮内権大輔   中御門少将
      越前前司   秋田城介   駿河次郎
      武藤右近将監   薩摩七郎左衛門尉   出羽七郎左衛門尉
      伊勢次郎左衛門尉   城弥九郎   大曽祢太郎左衛門尉
.
    四番(16日から20日まで)
      讃岐守   弾正少弼   相模三郎
      武蔵五郎   後藤壱岐前司   出羽大夫判官
      城四郎左衛門尉   信濃次郎左衛門尉   武藤左近将監
      和泉三郎左衛門尉   鎌田次郎左衛門尉   狩野四郎左衛門尉
.
    五番(21日から25日まで)
      中御門新少将   民部権大輔   遠江七郎
      足利上総三郎   新田参河前司   兵衛判官代
      式部太郎左衛門尉   大隅修理亮   筑前三郎左衛門尉
      美作兵衛蔵人   壱岐三郎左衛門尉   大泉九郎
.
    六番(26日より晦日まで)
      二條少将   刑部少輔   遠江右馬助
      越後四郎   木工権頭   図書頭
      城六郎   周防五郎左衛門尉   加藤左衛門尉
      甲斐三郎左衛門尉   上総三郎左衛門尉   土肥四郎
.
  以上の結番内容を守り五日間の昼夜過怠することなく勤めるよう命じる。   正元二年二月日
.

.
   ※廂御所: 将軍の居間が廂御所、宿直と警護に任じる廂番が詰めるのが庇の間。
従来の廂番は10人一組で6番だったが、増員されて12人一組で6番の編成となった。
.
   ※一條能基: 一條能保-嫡子高能(生母は頼朝の姉妹坊門姫)-三男で嫡男の頼氏-その嫡男が能基。
父の頼氏は北條時房の娘を妻にして鎌倉との関係を深めていたが、叔父の信能と庶兄の尊長は後鳥羽上皇の近臣として承久の乱(1221年)に深く関与した。時房の婿として危険を感じた頼氏は京都を脱出して鎌倉に逃げ、京都の情勢を伝えて作戦立案などに大きく貢献した。
.
戦後には信能と尊長し処刑されて当主の立場を取り戻した頼氏は幕府の後ろ盾もあって順調に出世し、宝治元年(1247)には従二位に叙されている。更に二人の息子(能基と能清)の妻を北條氏から迎えて関係を深めたが、息子の次代には幕府との関係が薄れ徐々に衰退したらしい。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。若宮(鶴岡八幡宮寺)の別当僧正隆弁が京都から鎌倉に戻った。
.
園城寺三摩耶戒壇の勅許を得る目的で去年9月14日に上洛の途に就き今年の正月4日に上奏して勅許を得たが、比叡山の衆徒が(反対する)強訴に及んだため20日に官符(太政官の公文書)を撤回する結果になった。
.
21日なって寺門(園城寺)の衆徒と僧正仙朝と法印浄有と忠尊以下の役僧30余人が金堂に集まって僉議(多人数による評議)を続け、23日になって解散した、と。
.

.
   ※隆弁: 建保七年(1219)1月に将軍実朝を暗殺したのが圓城寺の阿闍梨公胤の元で修行し受戒した公暁
.
その後の承久の乱(1221年)を主導した後鳥羽上皇と公胤が親しい関係にあり、更に宮騒動(1246)の当事者である四代将軍藤原頼経が宝治合戦(1247)にも関与していた事もあって園城寺と鎌倉幕府との関係が悪化し、経済的な援助も得られない状態が続いていた。
.
園城寺で出家し頭角を現した隆弁としては園城寺の再興が最大の悲願であり、幕府の権威を背景にして戒壇の設置を実現するのが取り敢えずの夢でもあった。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月14日
.
吾妻鏡
.
.
晴。日の色が赤いため御所で為親朝臣が御祓いを催した。将軍家の代参は薩摩七郎左衛門尉伊東祐能。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月15日
.
吾妻鏡
.
.
日の色の赤が続いているのは曇天に加えて厚い紅霞が原因である。夜に入って朧月も晴れに向かった。第87代四條天皇の御代(在位:1232~1242)に石清水八幡宮(公式サイト)行幸の日にも同様の異変があったという。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月16日
.
吾妻鏡
.
.
世の中の無事を祈るため御所で大般若経の読経法要をが始められた。
.

.
   ※大般若経: 成立の異なる般若経典類(仁王経と般若心経以外)を集大成し空の思想を説き真実の智慧(般若)
を明らかにする経典。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月18日
.
吾妻鏡
.
.
晴。鶴岡八幡宮に於いて大仁王会を修した。
.

.
   ※大仁王会: 仏教における国王のあり方について述べた経典である仁王般若経を読誦する法会。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月21日
.
吾妻鏡
.
.
晴、風が鎮まった。戌刻(20時前後)に御息所(将軍宗尊親王の正室近衛宰子)が御所へ。
.
先ず御輿を東御亭(相模太郎北條時宗亭)の檜皮寝殿の妻戸(両開きの板戸)に寄せ、東の御方(正室となった宰子を差す)が相模守北條政村と武蔵守北條長時を従え西門(平門・棟の低い平屋根の門)から出御した。
.
雑色二人が松明を持って前を歩き小町大路を南へ進んで御所東門(棟門・切妻屋根)から東北の庭に入った。
.
将軍家は東の侍(控えの間)から密かにこれを眺め、土御門中納言・花山院中納言・一條少将雅有朝臣・弾正少弼業時北條業時・木工権頭藤原親家・相模三郎時利(北條時輔)・越後四郎時方(後の北條顕時)・前陰陽少允安倍晴宗朝臣らが近くに控えた。御輿を中御所南の渡り廊下の西向き妻戸の内側に寄せ東の御方と一條局が入御した。
.
  扈従(付き従う者)
.
   相模守北條政村(雑色二人、直垂を着す者五人)以下、全員が布衣  並んで武蔵守北條長時(従者は同じ)
   武蔵前司北條時直(雑色二人、童一人、直垂を着す者二人)
   尾張前司北條時章(同)   並んで左近大夫将監北條義政(同)
   相模太郎北條時宗殿(雑色二人、童一人、直垂を着す者五人)   並んで相模四郎北條宗政
.
  その他に
.
大曽祢太郎左衛門尉長頼  梶原太郎左衛門尉景綱  対馬四郎左衛門尉宗綱  岩間平左衛門尉信重
筑前四郎左衛門尉行佐  鎌田図書左衛門尉信俊  伊勢次郎左衛門尉行経  信濃次郎左衛門尉行宗
上総三郎左衛門尉義泰  大隅四郎左衛門尉     以上十人は直垂を着して御輿の左右に列歩した。
.
他に参席を打診した越後守北條実時は妻室の病気により障りありと申し出た。女房の東の御方・兵衛佐局・周防局が閑路より参上して御膳を献上、東の御方が陪膳(給仕)を、別当局・兵衛佐局・周防局が運び役に任じた。
.
吉時になって将軍家(御烏帽子・直衣)が出御、土御門黄門(中納言)顕方が御剣役を相模太郎時宗殿が御沓役に任じた。御伝母御衾を 覆い(初夜の寝室に向かう意味らしい)御沓を取り退出された。
.

.
   ※閑路: 田舎道の意味だとは思ったが、古語辞典に載っていないので何となく
気になった言葉。吾妻鏡の治承四年(1180)8月17日の山木(平)兼隆邸討ち入りについての記述(以下)を思い出した。
.
北條時政が申し出た。「今日は三嶋の神事で、参詣する者が多い牛鍬大路を行けば怪しまれる、蛭嶋通りを行くべきか」と。それに答えて武衛(頼朝)「その通りではあるが、事の草創に閑路は使いたくない。また蛭嶋通りは騎馬には適さないから、堂々と大道(牛鍬大路)を行け」と命じた。
.
参考までに、山木邸討ち入りの地図を。クリック→ 拡大表示、横の太線が「閑路」の蛭島通、右から上中央の縦線が牛鍬大路。更に詳細は山木合戦の顛末(サイト内リンク・別窓)で。
.
古文の素養がないと苦しみが多い。女房(女官)が誰で何処から来たのかは不明のまま。
.
   ※障り: 弓始めなどで「病気などの支障があるため欠席」を申告する例が散見
されるが、これは「病などによる穢」を持ち込むのを憚っている。
必ずしもサボる口実を言い立てているケースだけではないらしい。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月22日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家が中御所(正室となった近衛宰子)を差す)に入御した。ただし密儀なので御儲け(準備・接待)は不要である、と。
.

.
   ※密儀: まぁ「閨の秘め事」なら密議と言えない事もないだろうが、もう少し艶っぽい表現が欲しいね。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月25日
.
吾妻鏡
.
.
晴。卯一点(朝5時過ぎ)に大地震あり。陰陽師が勘文(諮問に対する上申)を和泉前司二階堂行方に提出した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月27日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家の御吉時(婚姻に伴う諸事)が滞りなく終わった旨の報告があった。相模守北條政村を始めとする人々(布衣・下括り)参候し未刻(14時前後)に将軍家が中御所に入御(御直衣)、進物の儀あり。
.
御剣は武蔵守北條長時、砂金(百両、銀の扇に置く)は相模太郎北條時宗殿、南廷(銀の延べ板、同様に扇に置く)は相模四郎北條宗政。また女房一條局分として砂金(三十両)秋田城介安達泰盛が持参した。
.
別当局からは宮内権大輔長井時秀を介して南廷を三個。この他に風雅に飾った帖絹・紺絹を女房に賜った。
また細櫃二合(各々帖絹二十疋入り)を力者(輿や馬など力仕事を務める者)らに下賜し、その後に将軍家は寝殿に還御した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
3月28日
.
吾妻鏡
.
.
晴。和泉前司二階堂行方が御息所(将軍正室近衛宰子))の季節別衣類装身具の注文明細を御所に持参し、将軍家宗尊親王がこれを確認した。
.
  正月分  御小袿(二陪織物三陪)  御表着(二倍織物三陪)  重御衣(下綾、上二陪織物)  御単  紅の御袴
三御小袖  三御衣  二御衣  二御小袖二具  薄御衣  白御衣  御裳  色々の御小袖五具
御宿衣  御明衣二  今木二具  御櫛一束  御櫛払い  御払い  御畳紙  御眉墨  御眉造  御赭  御白粉  御護り
.
  二月分   二御衣  二御小袖  色々の御小袖五  御裳一
.
  三月分   二月に同じ
.
  四月分   御袿(二陪織物)  合御衣五(唐織物、綾練貫、状況により)  更衣御単  合御衣  合二御小袖
合御小袖三  紅の御袴  御裳三
.
  五月分   御小袿(二陪織物)  御単  御捻重(五重、上二陪織物九、唐織物九)  御小袖単重  紅の御袴
二生御衣  合御小袖二  御帷五  御裳三  生御宿衣
.
  七月分   御小袿(二陪織物)  御単重(二陪織物九、唐織物九)  御小袖単重  紅の御袴  生御衣
御帷七  御裳三  御明衣二  今木二具
.
  九月分   御小袿(生二陪織物)  生七御衣(上二陪織物九、唐織物九)  御単  生二御小袖(御綿を入る)
紅の御袴  二生御衣  御小袖五  御裳三  以上の七ヶ月分は奥州禅門(北條重時)の御沙汰。
.
  六月分   御単重  生御小袖  白御袴  生御衣  御帷七  御裳二
.
  八月分   二生御衣  御単  生御小袖  白御袴  生御衣  合御小袖三  御帷二  御裳二  御明衣
.
  十月分   御小袿(三陪織物)  八御衣(上二陪織物)  御単二  二御小袖  紅の御袴  三御衣
二薄御衣  二御小袖  紅の宿衣  色々の御小袖五  御裳二
.
  十一月分  二御衣  二御小袖  色々の御小袖五  御裳三
.
  十二月分  十一月に同じ  以上五ヶ月は相州禅門北條時頼の御沙汰。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
4月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
婚儀に伴う儀式が済んだ後に将軍家宗尊親王御が入道陸奥守北條重時に入御する際の供奉人について沙汰があり、通例の通り総人数を書き出した名簿に付点した。名簿に載りながら付点に漏れた者は次の通り。
.
遠江右馬助  越後右馬助  駿河四郎  同五郎  武蔵五郎  同八郎  那波刑部少輔  上総介  周防守
梶原上野前司  伊賀前司  甲斐守  長井判官代  城弥九郎  後藤壱岐新左衛門尉  大隅修理亮
筑前三郎  同四郎  和泉六郎左衛門尉  同七郎左衛門尉  伊勢三郎左衛門尉  信濃判官次郎左衛門尉
式部次郎左衛門尉  武藤右近将監  伊賀式部八郎左衛門尉  小野寺新左衛門尉  伊東次郎左衛門尉
土肥四郎  天野肥後新左衛門尉  薩摩九郎左衛門尉  同十郎左衛門尉  大泉九郎  後藤次郎左衛門尉
相馬五郎左衛門尉  隠岐三郎左衛門尉  平賀三郎左衛門尉  狩野五郎左衛門尉  同四郎左衛門尉
.
筑前三郎左衛門尉(事前に支障の申し出)  式部太郎左衛門尉(服暇(服喪)の日数が残るため憚るよう仰せ)
鎌田三郎左衛門尉(御点なしだが式部太郎左衛門尉の替わりとして供奉せよとの仰せあり)
.
  また追加として信濃前司  駿河右近大夫  駿河の次郎
.

.
   ※重時邸: 北條重時は建長八年(1256)3月11日に連署を辞任して出家し、その後に極楽寺の地に隠居した
とされる(正確な時期は不明)。将軍宗尊親王は弘長元年(1261)4月24日にも重時邸を訪問しているが、この時の吾妻鏡は「奥州禅門極楽寺新造山庄に入御」と明記しており、正元二年の初回訪問は極楽寺邸ではなかった可能性が高い。極楽寺の地に転居するまでの重時の住居地は不明。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
4月2日
.
吾妻鏡
.
.
宗尊親王の出御を明日に控え、式部太郎左衛門尉の外舅が若狭国で他界した件は鎌倉への連絡が遅れており、服喪の期間を勘案すると禁忌に該当する日数が殆ど残っていないため当初は供奉人の名簿に加えていた。
.
今日結果として憚りありとの沙汰が下されたが、鶴岡八幡宮別当に確認すると「問題なし」とのこと、鎌田三郎左衛門尉に光政の代行を務めさせる件は本人が出仕するため無用、と定められた。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
4月3日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍宗尊親王が奥州禅門北條重時邸に入御、御息所(正室の近衛宰子)が同乗した。
.
  供奉人(布衣)
.
土御門中納言顕方卿   花山院中納言長雅卿   二條三位教定卿
中御門少将宗世朝臣   前兵衛佐忠時朝臣   二條少将雅有朝臣
.
武蔵前司北條朝直(御剣役)   遠江前司北條時直   越後守北條実時
刑部少輔北條教時   越前前司北條時弘(時広)   弾正少弼北條業時
左近大夫将監北條(名越)公時   左近大夫将監三浦時連   新相模三郎北條時村
相模三郎北條時利(後の時輔)   越後四郎顕時   遠江七郎時遠(北條時直の七男)
和泉前司二階堂行方   秋田城介安達泰盛   宮内権大輔長井時秀
中務権少輔守教   出羽前司小山長村   壱岐前司後藤基政
木工権頭藤原親家   参河前司新田(世良田)頼氏   太宰少貳武藤景頼
縫殿頭中原師連   対馬前司佐々木氏信   日向前司宇佐美祐泰
城四郎左衛門尉安達時盛   同六郎安達顕盛   武藤左衛門尉頼泰(景頼の三男)
下野四郎左衛門尉宇都宮景綱   式部太郎左衛門尉伊賀光政   常陸次郎左衛門尉行清
出羽七郎左衛門尉二階堂行頼   信濃次郎左衛門尉時清   周防五郎左衛門尉忠景
上野三郎左衛門尉義長   遠江十郎左衛門尉三浦頼連   伊勢次郎左衛門尉行経
大曽祢太郎左衛門尉長頼   小野寺四郎左衛門尉道時   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
加藤左衛門尉景経   鎌田三郎左衛門尉義長   鎌田次郎左衛門尉行俊
.
相模守北條政村・武蔵守北條長時・尾張前司北條時章(供奉人の名簿に載るが業務ありと称して行列に加わらず)・相模太郎北條時宗殿・相模四郎北條宗政は予め御所に参候して手配してあった(御息所の)御衣装を出居(庭続きの部屋)に揃えて置いた。
     紅の御衣一具・御衣・指貫・小袖十具・七御衣一具(生御単)・御小袿・紅の御袴・御小袖十具である。
.
御盃酒の後に御引出物を献上。
御剣は尾張前司北條時章、砂金は越後守北條実時、南廷(銀の板)は秋田城介安達泰盛
.
   一の御馬は  新相模三郎北條時村 と 式部太郎左衛門尉
   二の御馬は  武蔵五郎北條 時忠(宣時) と 浅羽左衛門次郎
   三の御馬は  相模太郎北條時宗殿 と 波多野出雲次郎左衛門尉
.
御息所には織物で蓬莱を描いた飾り物を献上した。女官には絹百疋をし、公卿には剣を、殿上人には馬を、五位と六位には沓と行騰を献じた。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
4月6日
.
吾妻鏡
.
.
晴。去年冬の頃から時行(流行り病)が蔓延しているため祈祷を催すよう諸寺に通達した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
4月12日
.
史 料
.
.
   ※続史愚抄: 今暁の子丑刻(午前1時前後)に万里小路殿が焼亡、
放火である。
.
        続史愚抄は江戸末期の編年体歴史書。更に詳細はwikiで。
.
   ※万里小路殿: 後嵯峨上皇の御所で元は但馬守源高房(今上天皇の
直系先祖らしい)の屋敷で第71代後三条天皇(在位:1068~1073年)が崩御した場所でもある。
.
その後は中納言源能俊が所有し、第72代白河天皇(在位:1073~1083年)の仮御所や、鎌倉時代後半には里内裏や仙堂(院の御所)としても使われていた。
.
右画像は大炊御門万里小路殿跡エリア(京都御苑南側)鳥瞰。 富小路通りの富有自治会館前に御所跡地を示す石柱が建っている。(クリック→ 拡大表示)
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
4月13日
.
史 料
.
.
   ※続史愚抄: 改元。正元を改めて文応、代替りに依る。文章博士在章の撰、奉行は蔵人頭宮内卿資平朝臣。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
4月17日
.
吾妻鏡
.
.
晴。六波羅の飛脚が到着して報告、去る12日の丑刻(深夜2時前後)に院の御所が焼失した、と。また山徒(比叡山の衆徒)が血を以て神輿を塗った事を同様に報告した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
4月18日
.
吾妻鏡
.
.
晴。和泉前司二階堂行方と少卿武藤景頼を介して、厨房に下働きの武士を5人増員するよう指示があった。
工藤三郎右衛門尉光泰と平岡左衛門尉實俊がこれを奉行し、村岡籐五太郎・同籐四郎・村岡弥五郎・亀谷源次郎・入野平太の5人を選んだ。
.
今日、改元の詔書が到着。去る13日に正元二年を改めて文応元年とした。新帝(亀山天皇・前年11月26日践祚)の即位により、文章博士在章が撰進した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
4月19日
.
吾妻鏡
.
.
曇。少卿武藤景頼の奉行として御祈祷を始めるよう指示されたが、陰陽道から「八専による憚り」との指摘があり、保留となった。
.

.
   ※八専: 壬子から癸亥まで12日の、丑・辰・午・戌を除く8日。年に6回あり、婚姻や神仏に関わる事などを忌む。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
4月22日
.
吾妻鏡
.
.
晴。政所で改元の吉書を行なった。また御祈祷に関しては陰陽道からの指摘に拠らず特に急ぐべきとの思し召しがあり、重ねての評定を経て今日から開始となった。担当は松殿法印と左大臣法印。
.
今日、将軍家(宗尊親王)が体調を崩したため、戌刻(20時前後)に御所の南庭で千手供を修し、更に千手陀羅尼経を続けた。導師は若宮別当僧正隆弁、8人の伴僧(導師に従う僧)を率いてこれを奉仕した。
.

.
   ※千手陀羅尼: 一眼を備えた千本の手を持ち全ての人を救う千手観音の功徳
を説く経典、千手経。鎌倉の禅宗との関係も深い。
.
右画像は蓮華王院(通称を三十三間堂)本堂の本尊で千体の千手観音像の中尊。建長元年(1249)3月の本堂焼失後の復興事業の最初として大仏師湛慶が同年7月から建長六年(1254)1月まで費やして彫った像。国宝・木造漆箔・像高335cm、湛慶82歳の遺作である。
.
   画像をクリック→ 拡大表示
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
4月24日
.
吾妻鏡
.
.
(将軍家の)病状が食事を摂るまでに回復した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
4月26日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(宗尊親王)の病気について、前夜に女房左衛門督の局に夢のお告げあったらしい。一人の僧が 「懇切丁寧な祈祷があれば病気が幕中に入る事はない」と語った、と。今朝になって彼女が夢の内容を語ったため右京権大夫茂範朝臣に尋ねたところ「将軍家の御居所は幕府であり、霊験は炳焉(明らか)であると語った。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
4月29日
.
吾妻鏡
.
.
丑刻(深夜2時前後)に鎌倉中が大火。長楽寺の前より亀ヶ谷の家屋まで燃えた。
.

.
   ※長楽寺: 現在の鎌倉文学館(公式サイト・地図)一帯にあった大寺。寛元四年(1246)閏4月1日の吾妻鏡に
ある「禅室(北條経時)を葬送、佐々目山麓に葬った。」のも多分、この近くだと思う。
.
元々は嘉禄元年(1225)に頼朝の菩提を弔うため晩年の政子が建立した寺で、鎌倉幕府の滅亡と共に焼失した。
.
この辺は極楽寺坂を突破した新田義貞の軍勢が若宮大路を目指して北條勢と激戦を繰り広げた場所。その後は大町に移転し、名称を 安養院(サイト内リンク・別窓)となった。
.
延宝八年(1680年・徳川五代将軍綱吉の頃)に再び全焼し、頼朝の家臣だった田代信綱が比企ヶ谷に建てた田代寺の観音堂を移築して再建し現在に至っている。その経緯により安養院の正式名称は祇園山安養院田代寺とされる。
.
右画像は安養寺の奥に残る二基の宝篋印塔。左が北條政子を慰霊する宝篋印塔で、鎌倉幕府滅亡後の室町時代作と伝わる。更に詳細は上記・安養院の項で。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
4月30日
.
吾妻鏡
.
.
晴。今日の評議で、負物(借財)には関与しないのが幕府の方針だが、尩弱の輩(貧しい零細御家人)の嘆きが多く、今後は何らかの対処が必要との結論があった。また訴訟について、叙用しない(召喚に応じない)事例が三度続けば所帯(地位・官職・領地・財産など)を注進(書き出して報告)せよとの御教書を出す事になる、と。
.

.
   ※零細御家人: 惣領制の崩壊や貨幣経済の普及も影響して北條泰時が執権だった時代(1224年~1242年)
よりも御家人の中での貧富の差は深刻になっている。御家人の間に広がった不満は二度の元寇(1274年の文永の役と1281年の弘安の役)によって更に深刻化していく。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
5月4日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
故武州禅門(北條泰時)の御成敗(御成敗式目・貞永式目を差す)は改訂の必要なしと記載されている。
ただし、尚も再検討すべきと考える者があればこの記載に拘らず再検討を容認し、また(泰時が死没した)仁治三年以後に御教書で変更を決裁したものは検討の対象から除外する。
.

.
   ※御成敗式目: 詳細の内容はこちらのサイトが最も解りやすいから参考に。泰時のクソ真面目さと権力に対する
淡白さは、歴代執権の中では飛び抜けた存在だと思う。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
5月10日
.
吾妻鏡
.
.
晴。秋田城介入道覚智(安達景盛)の第三年追福が行われ、松下禅尼を施主として願文を献納した。清書は右京権大夫茂範朝臣、曼陀羅供供養の大阿闍梨は日光別当法印尊家。
.

.
   ※第三年の追福: 死者の冥福を祈る追善供養に同じ。景盛は宝治二年(1248)5月に没したから十三回忌で、
第三年の意味は判らない。松下禅尼は夫の北條時氏が早世した後は出家して実家の甘縄邸に住み、遺児経時時頼の養育に努めた。更に孫の時宗にも大きな影響を与えた賢母。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
5月13日
.
吾妻鏡
.
.
晴。子刻(深夜0時前後)に将軍家が体調を崩して病床に就いた。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
5月16日
.
吾妻鏡
.
.
雨。(将軍家の)病気に対応して御祈祷あり。鬼気祭(疫鬼を追い祓う祈祷)および御夢祭(悪夢に対応)を催した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
5月18日
.
吾妻鏡
.
.
雨。将軍家が病気から回復した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
疾風・暴雨・洪水が重なり、川沿いの民家が土台ごと流された。山崩れにより圧死が多数あり。
.

.
   ※洪水: 鎌倉市街を流れている川は、若宮大路と並行している滑川と
高徳院近くを源流とする稲瀬川(流程600m)に限られる。
.
平坦地を流れているのが300m前後に過ぎない稲瀬川を除外すると洪水を起こす可能性は滑川に限られるのだが...
.
滑川中流域にある幕府(御所)と北條執権邸(現在の宝戒寺・サイト内リンク・別窓)も被災の記載が見られない。
.
更に南には小町大路沿いに御家人の家が散在し、下馬橋近くには北條時頼の継室葛西殿(重時の娘)がに創建した延命寺などもあり、被災していれば当然記載された筈だと思う。
.
つまり洪水による被害を相模国に限定して考えれば、江ノ島近くに流れ込む固瀬河(現在の境川・地図)や鵠沼の引地川(地図)・更に東の相模川や花水川(地図)流域の水害だと考えるべきだろう。鎌倉の自然被害は地震に伴う津波・土砂崩れなどが主体となる。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月4日
.
吾妻鏡
.
.
検断について幾つかの決定があり六波羅にも通達した。
.
  一.各国の守護人が拘束する犯罪者について。
関東(鎌倉)に身柄を送致する必要なし。規程に従って措置するよう守護人に周知させること。ただし守護人が言を左右にして非據(根拠に欠ける事)の沙汰を行なっていると訴えた際には調査して対応せよ。
.
  一.関東に送致するべき犯罪人について。
特に重大な犯罪の主犯の類は先例に従って送致し、軽い罪の場合は六波羅で調査し決裁せよ。
.
  一.放免(釈放、軽微な罪の拘束を解く)の事
殺人犯の場合は11ヶ年以上の拘禁、それ以外は罪の軽重に応じて措置する。昨今は諸国の飢饉での餓死や病死など法律の範囲を越えた事例があるため同様の場合は年数を定めず、今年の犯罪に限っては特に指摘するべき別の理由がなければ放免とする。
.

.
   ※検断: 鎌倉中期以降に刑事上の犯罪を扱った訴訟制度で、犯罪者の検挙・裁判・判決の執行が検断沙汰。
鎌倉では侍所、京都では六波羅検断方、他の地方では守護・地頭が担当部署だった。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月5日
.
吾妻鏡
.
.
雨。続いている降雨を止める祈祷(要するに雨乞いの反対だね)として安祥寺僧正良瑜が一字金輪法を修した。
今日、放生会の供奉人を召集する回覧の名簿を書き整えた。
.

.
   ※一字金輪法: 大日如来が至高の境地で説いた真言の一字を人格化した一字金輪仏を本尊とする密教修法。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月7日
.
吾妻鏡
.
.
雨、未刻(14時前後)に晴。先月の16日から続いた霖雨(長雨、りんう)が止んで晴天、偏に法験の結果である。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
6月12日
.
吾妻鏡
.
.
庶民に流行する疫病を退治するため祈祷を行なうよう、今日諸国の守護人に通達した。その御教書は次の通り。
.
  諸国の寺社で大般若経の転読を行なう事。
.
国土の安穏と疾病退治を目的として、諸国の寺社で大般若経と最勝仁王経を転読せよ。早急に担当する国の寺社の住僧に命じて丁寧な転読を行なうよう地頭らに通達し、知行所(直轄地)では厳重に命令するよう、仰せに従って通達する。
.
     文応元年六月十二日      武蔵守北條長時   相模守 北條政村    某殿
.

.
   ※6月12日: 太陽暦の7月21日に該当。梅雨がすぎて暑い季節になる筈なのに雨続きで凶作の気配があり、
餓死者も多く疫病が蔓延している暗い夏...
.
   ※転読: 百聞は一見に如かず、動画(wiki)の中から実態の確認を。信仰と言うより形式の世界。
この坊さんたちが信仰心で転読しているのかを考えると虚しい気持ちに襲われるが...
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月16日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家の放生会御参宮供奉人の惣記が小侍所(別当は越後守北條実時)から武蔵守北條長時に献じられた。今後の参考に供する目的であり、通例の通り将軍御所に進覧するように仰せられて返却された。
.

.
   ※惣記: 当初は「全ての記録」と考えたが6月18日の記載には提出先の二階堂行方は数ヶ所の訂正が必要と
指摘されている。「供奉人全体の計画表」と理解すべきらしい。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月18日
.
吾妻鏡
.
.
供奉人の惣記を和泉前司二階堂行方に提出し数ヶ所の訂正が必要との指摘を受けた。
.
御息所(将軍の正室近衛宰子)の御参宮が必要な事、随兵として載る相模太郎北條時宗と同三郎時輔は御息所の御供であるべき事、武蔵前司北條朝直は供奉人として(将軍の)付点はあるが廻廊に参候すべき事、壱岐前司佐々木泰綱は付点ありだが今回は外すべき事、小山出羽次郎は付点はないが随兵に加えるべき事、などである。
.

.
   ※小山出羽次郎: 出羽前司小山長村の次男で小山氏五代当主を継ぐ時長(当年16歳)だと思う。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月19日
.
吾妻鏡
.
.
晴。浜の鳥居の近くで天文博士為親朝臣が風伯祭を行なった。将軍家の代理は安芸右近大夫重親、今回は御気色(将軍家の意向)に従って旧の祭文(祈願文・祝詞)を用いる、と。
.

.
   ※浜の鳥居: 寛喜三年(1231)6月15日の吾妻鏡にも由比ヶ浜の鳥居(浜の大鳥居)で風伯祭を行なった記載
がある。建造された当初の位置は確認できないが、取り敢えず参照されたし。
.
   ※風伯祭: 東西南北の四方に存在する風の神を祀る祭事。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月22日
.
吾妻鏡
.
.
相模四郎北條宗政は布衣を着すように。同三郎北條時輔は元の通り随兵に加わるように、とのこと。
.

.
   ※布衣と随兵: 布衣(狩衣の別称で略礼服)と随兵の区分は史料では確認できないが構成メンバーを比較すると
布衣の方が上位にある。将軍が示した最初の構成は時輔時宗も布衣での供奉だったが、父親の北條時頼はこの機会を利用して得宗家の明確な序列を示した。
.
9歳の時宗>7歳の宗政>12歳の時輔...これは兄の経時が早世したために(若年だった経時の息子を排除して)執権を継いだ時頼は正当性を欠いた、そのコンプレックスの裏返しだろう。
.
そして時宗が執権を継いだ3年後の文永八年(1271)の二月騒動で時輔は時宗の討手に殺される。時輔と同様に二月騒動の鎌倉で殺された時章教時にも謀反の気配はなかったが、時宗には「反得宗になりうる勢力を一掃して独裁体制を確立する」明白な意図があった。
.
現代風に言えば、金正恩が長兄の正男を毒殺したのと同じパターンなのだろう。独裁者は常に孤独で、見えない影に怯え続ける。厳密に言えば反・得宗ではなく、反・時宗の排除だ。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月25日
.
吾妻鏡
.
.
晴。酉刻(18時前後)に京都の飛脚が参着し、去る15日から一院(後嵯峨上皇)が瘧(マラリア性の熱病)を病んでいる旨を報告した。

.
   ※続史愚抄: 一院の御病悩に対応して御剣を石清水八幡宮に献じた。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月26日
.
吾妻鏡
.
.
晴。和泉前司二階堂行方を奉行として酉刻に報告が届いた上皇の病気について占いを行ない、来月7日までに本復する旨の結果を得た。その後に薩摩七郎左衛門尉宇佐美祐能が(病気見舞いの)使節として上洛の途に就いた。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
6月30日
.
吾妻鏡
.
.
晴。木工権頭藤原親家が御使として上洛の途に就いた。更なる病気見舞いである。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月2日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。京都の飛脚が参着し、後嵯峨院の病状が概ね回復したと報告。御験者(病気回復・除災の秘法を行なう修験道の行者)は左大臣法印、近衛右府の息子である。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月4日
.
吾妻鏡
.
.
晴、夜になって雷雨。今日三浦式部太郎左衛門尉光政が使節として上洛の途に就いた。病気回復の祝賀である。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月6日
.
吾妻鏡
.
.
和泉前司二階堂行方を介して越後守北條実時と相模太郎北條時宗に下問があった。
去年随兵に招集された際に大須賀新左衛門尉朝氏と阿曽沼小次郎光綱が勝手に欠席し、更に光綱は子息の五郎に代行させ、朝氏は弟の五郎左衛門尉信泰を代理とした。この件は誰が許可したのか、と。
.
北條実時らは「口頭では仔細の報告ができないため、退出した上で文書により報告する」と答えた。
.
その後に書類を整理し、工藤三郎右衛門尉光泰を介して先ず相州禅室北條時頼に見せ、「載せている内容が詳細に過ぎる。ただ光泰と實俊らの言葉を書き記して行方に渡し、陳謝を明確に申し述べるが良い。」との答を得た。
.
報告書の内容は次の通り。
.
  去年八月の放生会に於ける供奉人について仰せのあった両條について。
.
     一.阿曽沼小次郎が随兵役を子息に勤めさせた事。
廻状に体調不良を記入し子細を言上したところ、光泰と実俊を介して子細の御尋ねが再三あり、勤仕させよとの仰せが下されました。勝手な交替ではありません。
.
     一、大須賀新左衛門尉と同、五郎左衛門尉に関する事。
右大須賀新左衛門尉は随兵の付点を頂いた時は既に病気だったため報告の上で遠慮しました。
また五郎左衛門尉は最初から直垂を着した役の付点を頂いたため勤仕しています。
.
この両人は個人の勝手な判断ではなく両條のように認識しております。胸臆(心の中)を述べた内容であり御信用には不足かも知れませんが、更に細かく書き記すのを避け私の判断を書き添えて報告いたします。
     七月六日     平時宗    越後守実時     進上 和泉前司殿
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月7日
.
吾妻鏡
.
.
朝氏と光綱の件について二階堂行方は光泰と実俊が述べた内容を報告した結果は特に問題とはならなかった。
越後守北條実時らの書状は禅室(時頼)が命じた通り提出を保留した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月8日
.
吾妻鏡
.
.
放生会に供奉する際の直垂を着す者を付点するため相応しい輩を撰んで名簿を提出せよとの仰せが先月16日に下され、小侍所で慎重に選び出した。一昨日進覧に供し今日付点の済んだ名簿が召集のため返却された。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月10日
.
吾妻鏡
.
.
鎌倉中の保(末端の行政単位)では特に狼藉を鎮むよう御教書を発行した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
7月16日
.
史 料
.
.
   ※続史愚抄: 日蓮が安国論一巻を著して入道平(北條)時頼に献じた。
.
.

.
   ※安国論: 正確には立正安国論、松葉ヶ谷の草庵(後述)で書き上げたと伝わる。内容の概略は以下の通り。
.
正嘉年間(1257年~)から地震や暴風雨が続き飢饉や疫病などによって多くの人が苦しんでいる。この原因は人々が正法の法華経を信じずに邪宗の浄土宗などを信じているためで、正法のためには邪宗の者を殺すことも躊躇すべきではない。このまま浄土宗などの跋扈を許せば国内の内覧や外国の侵略により国が滅びる結果となる。
邪宗を排除して正法の法華経を中心(立正)にすれば国も民も安泰(安国)になる。
.
まぁ宗教なんて多かれ少なかれカルト的な要素を内蔵しているが、それは兎も角として...
.
日蓮が類まれな強い説得力・影響力を駆使し得た人物で、「この末法の世界では法華経の教えに帰依する事のみが救われる道」と主張したのは間違いない。日蓮の教えは幕府の中枢をも含めて急速に広まり、当然ながら非難された主流の宗教(念仏宗・真言宗・律宗・禅宗)の側は反発を強めてしまう。
.
特に「殺すのも厭わない」とまで罵られた念仏宗は日蓮襲撃事件を引き起こし、禅宗(臨済宗)を基幹としていた執権時頼としても放置できない。翌年5月には伊豆伊東への流罪に処する結果となる。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月23日
.
吾妻鏡
.
.
小侍所の勤務表を更に整理し清書せよとの仰せが中山城前司盛時に下されたが病気により辞退し、佐藤民部大夫行幹が仰せを受けて筆を取り和泉三郎左衛門尉二階堂行章を介して廂衆の御簡(出勤札)が小侍所に下された。
.
廂衆と小侍所を番(一番から六番まで)毎に参差(混在)させず、出勤の日を基準にして書き直すよう仰せがあったためである。また清書はこの両人(盛時と行幹に任せよとの指示が相州禅室北條時頼からあった事による。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月25日
.
吾妻鏡
.
.
晴。上皇病気御悩の報告を受け、信濃次郎左衛門尉二階堂行宗が使節として上洛の途に就いた。
また今日、(6月26日に病気見舞いの使節として派遣した)薩摩七郎左衛門尉が京都から帰参した。
.
また小侍番帳について、順不同の書き方にはやや違和感があるから順序に配慮して書き改めるよう仰せがあった。和泉前司二階堂行方と少卿武藤景頼を奉行として日頃の結番の体裁を官位や嫡庶を基準にせず、役職や勤務の有無に従って書く事になる。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月26日
.
吾妻鏡
.
.
曇。京都の飛脚が再び参着し、去る21日に「名前の記載なし」(仙華門院御姉、将軍家御姑)の崩御を報告した。
.

.
   ※名前なし: 将軍家(宗尊親王)の御姑なら近衛宰子の生母・九条仁子(九条良経の娘)だが、彼女は仙華門院
(土御門天皇の皇女)の妹ではない(妹なら皇女になる)。名前がない件を含めてかなり曖昧だ。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
7月29日
.
吾妻鏡
.
.
晴。中御所の番衆(御所に詰めて宿直・警護に任じる者)は、廂御所に着到(合流の意味か?)するよう和泉前司二階堂行方の奉行として、工藤三郎右衛門尉光泰・平岡左衛門尉實俊に通達した。
.
午刻(正午前後)に京都の飛脚が到着、後嵯峨上皇の病気は去る21日に回復、御験者は道性僧正と報告した。
今日御息所(近衛宰子)が相州禅室北條時頼邸に入御した。
.
  供奉人
    越前前司北條時弘(時広)   刑部少輔北條教時   尾張左近大夫将監北條公時
    陸奥左近大夫将監北條義政   相模三郎時利(時輔)   新相模三郎北條時村
    壱岐前司後藤基政   和泉前司二階堂行方   出羽大夫判官二階堂行有
    式部太郎左衛門尉伊賀光政   城四郎左衛門尉頼泰   上総太郎左衛門尉長経
    武藤左衛門尉時盛   大曽祢太郎左衛門尉長頼   和泉三郎左衛門尉二階堂行章
    常陸次郎左衛門尉行清
.

.
   ※中御所: 善光寺の大檀那として中興の祖でもある源頼朝が信濃善光寺に参拝する場合に備えて造らせた館
が中御所で、信濃国守護所を兼ねていた。今もそのままの地名(地図)が残っている。
.
「善光寺の中御所を廃止して番衆は鎌倉の廂御所に異動」なら辻褄は合うが、9月5日の吾妻鏡には「(将軍家が)両人を中御所に召され御衣を給う」とあり、実際は将軍正室または御所の別称である。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月2日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。(使節の)式部太郎左衛門尉が京都より帰参した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月5日
.
吾妻鏡
.
.
晴。申刻(16時前後)に激しい雨と強風があり多くの人家が破損した。戌刻(20時前後)に風が止み、地震あり。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月6日
.
吾妻鏡
.
.
相模三郎北條時輔の外祖父が死没し、軽服(軽い服喪)となった。
.

.
   ※時輔の外祖父: 時輔の生母は出雲国横田荘(地図・石清水八幡宮領)地頭の三処氏の娘となっている。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月7日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)が赤痢に罹病し、相模太郎北條時宗殿の沙汰として如法泰山府君祭を行なった。
任じたのは安倍為親朝臣、狩野四郎左衛門尉が使者を務めた。
.

.
   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。如法は定められた手順の通り。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月8日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)の病気に対応して、七人の碩徳(徳の高い僧)による七座の法(祈祷)を行なった。安祥寺僧正・松殿法印・勝長寿院法印・左大臣法印らによる。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月12日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)の病気に対応して、相模太郎北條時宗殿の御沙汰として将軍家と等身の薬師像を造立した。開眼供養の導師は尊家法印、同時に薬師法を催した。
.
今日六波羅に通達あり。御教書の内容は次の通り。
.
問注(訴訟の対決)以後に提出された追進状(追加の上申書)については、證文を提出する以外の訴陳(訴訟内容の陳述)は不受理とする。裁判記録の具書(証拠書類)を確認する毎に追進状の提出があっては審理が煩雑になるため、今後は證文以外の訴陳状提出は受け付けない。
簡要(簡潔に纏めた状態)に準備した證文があれば準備して、覆問(二回以後の質問)以後に提出すること。
.
    文応元年八月十二日  武蔵守北條長時 相模守北條政村
                          陸奥左近大夫将監(六波羅北方の北條時茂)殿
.

.
   ※薬師法: 薬師如来の功徳である病気の平癒・災厄の除去などを祈願する法事。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月15日
.
吾妻鏡
.
.
晴。鶴岡八幡宮の放生会あり。将軍家(宗尊親王)は赤痢の病状が軽くないため御参宮せず、武蔵守北條長時使者として代参した。舎弟の左近大夫将監北條義政・相模四郎北條宗政・和泉前司二階堂行方・太宰権少貳武藤景頼・壱岐前司後藤基政・縫殿頭中原師連・上総前司大曽祢(安達)長泰らが廻廊に控えた。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月16日
.
吾妻鏡
.
.
曇。武蔵守北條長時の参宮は昨日に同じ。将軍家の出御はなく、馬場の儀と桟敷などは通例の通り。
大夫判官二階堂行有・大夫判官佐々木広綱・大夫判官二階堂行有らが馬場を警固した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月17日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)の病気に対応して御鞠の壺(蹴鞠の小庭)で天文博士為親朝臣による如法泰山府君祭(8月7日を参照)を催した。相模太郎北條時宗殿から鞍置き馬一疋・鎧・弓箭などを呈上、御双紙箱(錦袋入り)を御所から贈られた。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
正元二年
.
8月20日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)の病状がやや回復に向かった。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月25日
.
吾妻鏡
.
.
二所詣の予定に備えて供奉人についての沙汰があり、先日と同様に付点するための名簿を書いて提出せよと指示し、二階堂行方を介して小侍所に命じられた。
また宗像六郎の子息で童形(元服前)の如意丸が御調度懸け(弓箭の携帯役)として供奉するように定めた。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月26日
.
吾妻鏡
.
.
雨。将軍家(宗尊親王)が服喪明けとなり、亥刻(22時前後)に御祓いを行なった。陪膳(給仕)は讃岐前司嶋津忠時朝臣(布衣)、役送(運び役)は近江前司季實(誰?)。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
8月27日
.
史 料
.
.
深夜になって日蓮の草庵が襲われ、焼き討ちされた(日蓮宗の言う松葉ヶ谷法難)。
.
実行者の主体は念仏衆(浄土宗)を中心にした暴漢で、背後で画策したのは浄土宗信者の北條重時と、重時に招かれて鎌倉に入り庶民宗教界の指導的立場になりつつあった真言律宗の忍性と考えられている。
.
その他に関与したのは建長寺の開山を務め禅宗の指導的立場にあった渡来僧の蘭渓道隆、浄土宗の指導者念阿良忠、重時の子で執権の長時、重時の弟政村らが画策した(と、日蓮宗の信者は信じている)らしい。
.
右画像は草庵跡地を主張する一つ・安国論寺の山門。
右手に「日蓮上人草庵跡」の石碑。  画像をクリック→ 拡大表示
.
個人的には、最高権力者の北條時頼に献じた立正安国論の中に、「正法のためには邪宗の者を殺すことも躊躇すべきではない」とまで書いて憎しみを煽った日蓮の方にも、責められるべき部分はあるのだが。
.
いずれにしろ、辛うじて難を逃れた日蓮は千葉氏の被官で日蓮に帰依していた富木常忍の本拠下総国八幡荘若宮(現在の市川市北部)に避難し、暫くしてから再び鎌倉に戻って布教を再開、弘長元年(1261)5月には捕縛され伊豆伊東に流罪の処分を受けることになる。
.
日蓮が草庵を構えていた松葉ヶ谷は現在の妙法寺安国論寺長勝寺(いずれもwiki、周辺地図)の一帯で、各々の寺が「本当の話、草庵はここにあったんだよ」と主張しあっているのが面白い。
.
私は宗教心皆無なのでどうでも良いのだが、日蓮宗と書くと日蓮正宗(公式サイト)を連想するかも知れないので、法華宗が正しい表示なのかも。日蓮宗の別称ではあるが、全宗派を含んだ総称になるらしい。
.
右画像は日蓮が逃げ込んだ法性寺の山門扁額。
両側に白猿を配している。  画像をクリック→ 拡大表示
.
もちろん、権力との癒着を忌避した日蓮の生き様を倣わず国家権力に擦り寄って海外派兵や秘密保護法やカジノ法案や治安維持法の再現とも言われる共謀罪(名前は美しい「テロ防止法」)成立に全面協力する創価学会(代行は公明党)も、残念ながら法華宗に含まれる。本来なら邪宗のカテゴリーなのだが。
.
話を戻して...松葉ヶ谷から逃げた日蓮は三匹の白猿に導かれて山道(多分名越切通しだろう)を辿り、法性寺の洞窟に避難し、ここで白猿が運んできた食事や水で飢渇を防いで時を稼ぎ逗子方面に脱出した、とされる。
実に馬鹿な話だと思っても、日蓮最初の法難として本心から信じきっている人もかなり多い。
.
   法性寺周辺の詳細は大切岸と法性寺(サイト内リンク・別窓)で。
.

.
   ※名越切通し: 10年ほど前に一念発起して長勝寺から法性寺までを
ないので)歩き回った。厳密には(適当な駐車場所が法性寺参道入口に駐車して大切岸から「まんだら堂」を通り、長勝寺まで下ってからまた同じ道を引き返したのだけれど、撮影データの殆どを失ってしまった。
.
PCのトラブルや外付けHDのパンクなど色々あったから自分を恨むしかない。勿体なかったなぁ...
.
典型的なアフター・フェスティバル(笑・後の祭り)だね。
.
右画像は法性寺裏手の遺跡「大切岸」。三浦勢に対する防壁説もあったが実際は石切場跡らしい。  画像をクリック→ 拡大表示
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
9月5日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
晴。辰刻(朝8時前後)に将軍家が病の穢を落すため御沐浴、御験者と医師・陰陽師らが鞠の御壺で褒賞を得た。
.
権侍医の(丹波)長世と前陰陽大允安倍晴茂朝臣には各々御衣一領と御剣一腰、坊門三位清基卿(直衣)が御衣を取って両人に与え、薩摩七郎左衛門尉宇佐美祐能が鞍を置いた御馬を引いた。
.
更に両人を中御所に召して御衣を与え、続いて大膳亮為親朝臣を召して女房別当局から銀作りの剣一腰を与えた。先に退出した松殿法印良基には二階堂行方を使者として御衣と御剣と鞍置きの御馬一疋を宿坊に届けさせた。
.
また、御所に於いて7日間の北斗法(守護と招福を如意輪観音に祈る修法)を若宮別当僧正隆弁に担当させた。
.

.
   ※丹波長世: 医師の家系である丹波氏の名が吾妻鏡に載ったのは、正治元年(1199)5月7日が最初。
朝廷直属の医師である丹波時長(長世の父)が頼朝の次女乙姫(三幡)の病気治療に派遣され、その後は嘉禄二年(1226)1月の四代将軍頼経就任に伴って朝廷の施薬院(wiki)から丹波良基が鎌倉に派遣されて頼経の主治医に任じ、京都の医術が鎌倉に定着した。
.
建長四年(1252)に頼経の嫡子で五代将軍の頼嗣が廃されて後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が皇族出身の六代将軍になり、朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、医術の知識は北條氏にも提供され始めた。長忠の長世は近い血縁だと思う。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
10月8日
.
吾妻鏡
.
.
小早河又三郎が小侍の番帳に加えられ、太宰少貳武藤景頼を介してこれを伝達した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
10月15日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
相模守北條政村の息女に妖気が取り憑いて今夕には特に深刻な状態になった。
.
自ら判官(比企能員)の娘・讃岐局の霊による祟りと称して、比企谷の地中で角を持つ大蛇に化身し常に身を焼かれるような苦しみを受けている、と語った。これを聞いた人々は身の毛もよだつ思いだった。
.

.
   ※讃岐局: 北條時政が比企一族を滅ぼした建仁三年(1203)9月の吾妻鏡には讃岐局の記載はなく、比企氏
の一部系図に載っている讃岐局も吾妻鏡の文応元年10月15日の記述に依拠して付け加えた可能性があり、頼家の愛妾で嫡子待遇だった一幡を産んだ若狭局との混同が疑われる。
.
また一幡殺害は記録にあるが若狭局死没の記載は見当たらないので生き延びた可能性もある。
.
武蔵国比企郡の伝承(サイト内リンク・別窓)は、頼家が修禅寺で暗殺された後の若狭局が比企禅尼と共に比企地区に隠棲したと伝えており、修禅寺本尊の大日如来体内に収められていた二筋の女性の髪と併せて想像を巡らすのも面白い(伊豆の古刹 修禅寺(サイト内リンク・別窓)の中段に記載)。
.
なお、政村息女狂乱の話は今年の11月27日に続いている。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
10月22日
.
吾妻鏡
.
.
晴。朝廷に貢上する馬の御検覧があり、相模守北條政村と武蔵守北條長時以下の出仕は通例の通り。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月8日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
深栖兵庫助の孫・平嶋蔵人太郎重頼が小侍所の名簿に加えられ、和泉前司二階堂行方が仰せを受けて小侍所に通達した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月10日
.
吾妻鏡
.
.
明日の御的始めの射手が定められ、相模太郎北條時宗殿と越後守北條実時が奉書(通告書)を発した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月11日
.
吾妻鏡
.
.
二所詣での精進潔斎は来る19日からと決まり、併せて供奉人の召集について和泉前司二階堂行方が仰せを受けて越後守 北條実時と相模太郎北條時宗殿に通達した。
.
しかし卿相雲客(公卿と殿上人)の招集は御所奉行の職責であり、通例通り二階堂行方を介して催促するのが順序だが、小侍方奉行に任せて招集さるのは少々手順から逸脱している。 これは両人(実時と時宗)として納得し兼ねる部分なので、卿相雲客を召集する名簿に以下の書状を添付して行方に返却した。
.
   二所御参詣供奉人についての仰せは理解し兼ねる内容なので頂いた書類は返却します。恐々慎言。
        十一月十三日      時宗   和泉前司殿(御返事)      実時
.

.
   ※招集の職責: 実時は文暦元年(1234)から将軍に近侍して御家人の宿直・供奉・警備を担当する小侍所別当
の職にあり、この文応元年から時宗が別当に追加されて複数制になった。これは思慮の深い実時を手伝いながら執権を継ぐための経験を積ませようとした北條時頼の配慮と考えられる。
.
御所奉行は将軍の社寺参詣や年中行事など御所の雑事を担当した職で、この時は中原師連が任じていた。今回のトラブルは満9歳の時宗が発案できる内容ではなく、将軍の越権行為を牽制する姿勢を時宗に示そうとした実時または時頼の考えと判断すべきだろう。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月16日
.
吾妻鏡
.
.
晴、亥子(23時前後)に雨、時々雷鳴あり。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月18日
.
吾妻鏡
.
.
二所御詣でに伴う精進潔斎について、明日の予定を延引し22日に変更と決まり、武蔵守北條長時から使者の周東兵衛五郎を通じて小侍所に通告した。
また来る22日に御息所(将軍正室近衛宰子)が初めて浜を御見物のため密かに出羽前司小山長村の若宮大路邸に出御する。二所詣でに従う者を除いて供奉人を手配せよとの仰せにより、併せて武蔵守の指示があった。
.

.
   ※小山邸: 長村の祖父小山朝政亭が下馬橋の南で多分この辺(地図)、当時の海岸線はこの辺で、現在よりも
標高で6m前後・距離にして約500m内陸部に入り込んでいたらしい。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月19日
.
吾妻鏡
.
.
来る21日の精進潔斎に潮に浴するため将軍家(宗尊親王)が浜に出御する事、および潔斎に伴って御息所(将軍正室近衛宰子)が明日中に他所に移る事、その二件の指示があった。供奉人は各々直垂と折烏帽子を着する。
.
今夕に二所御参詣のに伴う歩行供奉人などについて御前で指示が下され、新右衛門督・花山院中納言・壱岐前司後藤基政・太宰少貳武藤景頼らがそれを承る。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月20日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(宗尊親王)の二所詣への供奉を諒承した者の中から支障の申し出があった。後藤次郎左衛門尉は軽服(軽い服喪)であるとの事、上総三郎左衛門尉は突然の病気である、との事。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月21日
.
吾妻鏡
.
.
将軍家(宗尊親王)が二所詣の精進潔斎を始めるため陸奥入道(北條重時)邸に入御した。
.
  供奉人
    相模太郎北條時宗   同四郎重政   同三郎時利(北條時輔
    同七郎宗頼   越前前司北條時広   尾張左近大夫将監北條公時
    遠江右馬助清時(北條時直の嫡子)   陸奥左近大夫将監北條義政   弾正少弼北條業時
    越後四郎時方   木工権頭藤原親家   壱岐前司後藤基政
    上総前司長泰安達(大曽祢)長泰   太宰少卿武藤景頼    出羽大夫判官二階堂行有
    式部太郎左衛門尉伊賀光政   城六郎安達顕盛   和泉三郎左衛門尉二階堂行章
    周防五郎左衛門尉嶋津忠景(忠綱の三男)   左衛門尉武藤頼泰(景頼の三男)
    信濃次郎左衛門尉時清(佐々木 泰清の二男で嫡子)   左衛門尉大曽祢太郎長頼
    薩摩七郎左衛門尉宇佐美祐能.

.
   ※重政と宗時: 一部系図では時頼の三男宗政は1253年生まれだから当年満7歳、弟の四郎重政と七郎宗頼
が供奉を務めるのは不自然で、しかも翌文応二年には笠懸けの射手を務めている。文面の通りとは考え難いから年令の食い違いがある、かも。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月22日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)が二所参詣に備えて精進潔斎で潮に浴するため由比浦に出御し、中御所(将軍正室)は出羽前司 小山長村の若宮大路亭に入御した。
.
  御輿
     三浦六郎左衛門尉頼盛   遠江十郎左衛門尉三浦頼連   佐々木対馬太郎左衛門尉頼氏
          各々は御輿の左右に列歩
.
  御後の供奉人(騎馬)
     新相模三郎北條時村   遠江七郎北條時基(以上御輿寄せ)
     宮内権大輔長井時秀   秋田城介安達泰盛   対馬前司佐々木氏信   加賀守二階堂行頼
     丹波守安達頼景   城四郎左衛門尉安達時盛   同弥九郎長景(泰盛の異母弟)
.
申刻(16時前後)に御手水(顔や手を洗い清める)して騎馬の供奉人に列した。供奉の卿相雲客(公家・殿上人)は全員が水干(糊を使わず水張りした布の狩衣)、武蔵守北條長時と相模太郎北條時宗殿らは直垂(ひたたれ)。
還御の際には公私共に浄衣を着した。
.

.
   ※浄衣: 宗教儀礼などに用いる正常な衣服、通常は白・無紋の狩衣。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月24日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)が中潮に併せて浜に出御。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月26日
.
吾妻鏡
.
.
晴。玄蕃頭の丹波長世が去る15日ら従四位上に叙され、今日その除書を御所に持参した。これ去る8月(9月5日に治療の褒賞あり)将軍家の病気に対応した医療を行なった褒賞で、末尾にその旨の記載あり。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月27日
.
吾妻鏡
.
.
晴。卯刻(朝6時前後)に将軍家(宗尊親王)が鶴岡八幡宮に御参宮、辰刻(朝8時)に二所詣に出発した。
.
  供奉人(行列を立てず)
    先陣の随兵十騎  次に御引馬(替え馬)  次に御弓袋差し  次に御甲着け  次に御冑持ち  次に御小具足持ち
    次に御調度懸け  次に御先達として伊豫法眼教尊
       ※行列を立てず: 通常は先頭を進む検非違使を今回は省略している。
.
  次に御駕
.
    後藤壱岐左衛門尉基頼   薩摩七郎左衛門尉祐能   同十郎左衛門尉
    周防五郎左衛門尉忠景   上総太郎左衛門尉長経   甲斐五郎左衛門尉為定
    大須賀五郎左衛門尉信泰   武石新左衛門尉長胤   隠岐三郎左衛門尉行氏
    同、四郎兵衛尉行廣   伊東次郎左衛門尉盛時   佐渡左衛門太郎基秀
    鎌田三郎左衛門尉義長   平賀四郎右衛門尉泰実   葛西又太郎定廣
    萩原右衛門尉定仲   鎌田次郎左衛門尉行俊   小河左衛門尉時仲
    大泉九郎長氏   平岡左衛門の尉實俊   以上は歩行で御馬の左右に列す。
.
  次に御剣役人  太宰少貳景頼
  次に御後
    新右衛門督顕方   花山院中納言長雅   讃岐守忠時朝臣
    中御門新少将實隆朝臣   二條少将雅有朝臣   陸奥左近大夫将監北條義政
    弾正少弼北條業時   越前前司北條時弘(時広)   尾張左近大夫将監北條公時
    相模四郎北條宗政   同三郎時利(時輔)   同七郎宗頼(11月21日を参照)
    越後四郎時方(時親の子)   武蔵五郎時忠   壱岐前司後藤基政
    木工権頭藤原親家   刑部権少輔那波政茂(大江広元-宗元-政茂と続く。引付衆)   伊賀前司時家
    周防前司島津忠綱   上総前司安達(大曽祢)長泰   出羽大夫判官二階堂行有
    隠岐大夫判官二階堂行氏   甲斐守為成   千葉介頼胤
    図書頭忠茂朝臣   権天文博士為親朝臣   玄蕃頭長世朝臣
    安芸右近大夫親経   能登右近蔵人仲家   上野三郎国家
    阿曽沼小次郎光綱   大須賀新左衛門尉朝氏   鎌田図書左衛門尉信俊
    進三郎左衛門尉宗長
.
  後陣の随兵十騎

今日、相模守北條政村が一日経を頓写した。息女に妖気が取り憑き、判官 比企能員の娘の祟を受けての苦しみを救うためである。夜になって若宮別当僧正隆弁を招いて祈祷を唱導、説法の最中に息女は更に狂乱、舌を出し唇を舐めながら体を動かして足を伸ばして恰も蛇が苦しむ如くに身を捩った。祈祷で霊気が来臨したためである。
.
僧正は更に加持祈祷を続け、やがて息女は気抜けしたような状態で沈黙し眠るが如く元の状態に戻った。
.

.
   ※一日経: 一日で経文(法華経の例が多い)を頓写(急いで写経)することで、法華経を大勢で分担書写する例
が多い。この話は家族思いの政村を描いたものとして伝わっている。
.
   ※妙本寺: 寺伝では、讃岐局は比企の乱で井戸に身を投げて死んだ
怨みから蛇となり人を害するようになったらしい。
.
更に後世になって戦火が寺に迫ったため日蓮上人直筆の本尊絵図を井戸に隠したところ、一匹の大蛇が現れて黒雲を呼び迫ってきた戦火を消した。その後に「蛇形の井戸」、戦火を免れた本尊を「蛇形の本尊」と呼んだという。
.
図らずも本尊を守った功徳で讃岐の局の霊も苦しみを逃れ成仏したと思われる事から、この祠を蛇苦止堂と呼ぶようになった。癌や腫瘍・精神病など患った箇所を井戸の水で洗うと霊験がある、という。
.
右画像は妙本寺の旧境内にある蛇苦止堂の蛇形の井戸(画像をクリック→ 拡大表示)。更に詳細は妙本寺・比企一族滅亡の跡(サイト内リンク・別窓)で。何でも宗祖日連の霊験にするのは法華宗の愚かさだね。
まぁ法華宗に限らず宗教は多少ともカルトの要素を内含しているから、法華宗だけは笑えないが...
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月28日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家宗尊親王が筥根に御奉幣。箱根権現の衆徒らが湖上に船を浮かべて延年(演芸)を披露、垂髪(幼い稚児)が廻雪の袖を翻して歌舞の曲を演じた。
.

.
   ※筥根: 現在の箱根神社(公式サイト)。訪問記はこちら(サイト内リンク・別窓)。
   ※廻雪の袖: 舞の代名詞。風が雪を吹き上げて煌めくような袖の動きを見せること。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月29日
.
吾妻鏡
.
.
曇。 夜半になって三嶋社に参詣し、暁の頃に御奉幣。
.

.
   ※三嶋社: 現在の三嶋大社(公式サイト)、訪問記は三嶋大社と周辺の風景(サイト内リンク・別窓)で。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
11月30日
.
吾妻鏡
.
.
雨。伊豆山に御参宮。
.

.
   ※伊豆山: 現在の伊豆山神社(公式サイト)、訪問記は伊豆山・走湯大権現の風景(サイト内リンク・別窓)で。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月1日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
雨。巳刻(10時前後)に伊豆山に御奉幣して鎌倉に向かう。土肥郷に宿泊し当所の御所で豪華な饗応あり。
豪雨のため土肥郷に御逗留。
.

.
   ※土肥郷: 現在の湯河原町。五所神社城願寺しとどの窟(共にサイト内リンク・別窓)などの史跡が残る。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月2日
.
吾妻鏡
.
.
曇。酒匂の駅に御止宿。相模国の御家人が群参した。
.

.
   ※酒匂の駅: 前夜宿泊した土肥からは約20km、鎌倉まで約36kmの
小田原市の酒匂川東岸、地図の付近に古い宿駅の伝承が残っている。地殻の変動があったのだろうか、当時に比べると相模川など多くの河川が流路を東に移動したため駅の正確な位置は確定できず、これは相模川橋供養(サイト内リンク・別窓)にも記述した。
.
酒勾駅は古くは治承四年(1180)8月23日に三浦勢が増水のため石橋山合戦に間に合わず、虚しく衣笠に撤退を余儀なくされた場所。
.
5年後の元暦二年(1185)には頼朝に鎌倉入りを許されなかった義経が腰越に続いて酒勾で待機を命じられ、兄弟の離反が決定的になった場所だ。
.
     右画像は広重の東海道五十三次・小田原酒勾。背後はかなり急峻にデフォルメされた曽我の山並み。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月3日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家(宗尊親王)が鎌倉の御所に還御。(三ヶ所の)御奉幣は無事に完了した、と。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月16日
.
吾妻鏡
.
.
明年正月の御弓始めを務める射手を選抜した。病気と称して支障を申し出た者が混じっているため、今日小侍所で相模太郎北條時宗殿と越後守北條実時が協議し、自由の対捍(身勝手な不服従)は受け付けず、改めて参上して仔細を申し出るよう命令書を発行した。
また、武蔵守北條長時(執権)が突然の病気で苦しんでいる。
.

.
   ※北條長時: 権力欲を持たない温和な人柄が買われ、重病に陥った北條時頼時宗への中継ぎとして執権に
抜擢した人物。ところが時頼は死ぬどころか元気を回復して独裁的実権を掌握し続け、長時は終生頭を抑えられ続けた。病気になるのも当然か。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月17日
.
吾妻鏡
.
.
梶原上野六郎が小侍所の名簿に加えられ、太宰少貳武藤景頼が将軍家の仰せを小侍所に通達した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月18日
.
吾妻鏡
.
.
晴。将軍家の御願により、八萬四千基塔供養を行なった。導師は尊家法印。
.

.
   ※八萬..: 紀元前5世紀前後に没した釈迦の遺骨を紀元前3世紀中盤
にマガダ国のアショーカ王が取り出し八萬四千の舎利に分骨して新たな仏塔を造ったことに由来する。
.
この仏塔を模した土製の小塔を供えて供養を行う風習が平安中期以降には盛んに行われ、京都の六勝寺や鳥羽離宮跡から多数出土している(右画像・クリック→ 拡大表示)
.
この円盤形はインド古代墳墓の形を模したのが原形らしい。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月20日
.
吾妻鏡
.
.
曇。酉刻(18時前後)に御所東側の陀羅尼衆の控え所に鳶(トビ)飛び込んだ。陰陽道がこれを占い、謙虚にあるべきとの結果を報告した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月21日
.
吾妻鏡
.
.
晴。入道右大弁葉室光俊(wiki)朝臣(法名は真観。葉室(藤原)光親卿の息子)が京都から下着した。
当世の歌仙(新三十六歌仙の一人)である。
.

.
   ※葉室光親: 承久の乱(1221)首謀者の一人として鎌倉に連行される途中の甲斐加古坂峠(現在の篭坂峠)で
武田 (石和)信光に斬られた公卿。実際には後鳥羽上皇の挙兵計画に反対し続け、決定の後には全面的に従った誇り高い忠臣だった。詳細は藤原光親斬首の地(サイト内リンク・別窓)で。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月23日
.
吾妻鏡
.
.
小雨。右大弁禅門(葉室光俊)が初めて(御所に)出仕した。和歌の催しが盛んとなっている。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月24日
.
吾妻鏡
.
.
寅刻(早暁4時前後)に武蔵守北條長時(執権)の病気が快方に向かい、大量の汗を流した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月25日
.
吾妻鏡
.
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
京上所役(大番役)についての協議があり、今日法としてこれを定めた。
.
  一.京上役(大番役)の付則。
諸国の御家人が銭貨や労務などの多くを好き勝手に貧民に負担させ、荘園に対しての厳しい責務を強いた結果として農民の困窮が著しいとの情報が届いている。
今後の大番役については一段当たり銭300文と、他に五町当たり荷馬一疋・人夫二人を充当し、その他にはすべて全て禁止とし、明細をを定めた後は員数を増やしてはならない。
.
  一.地頭として補任した御家人の大番役について。
御家人の大番役勤仕は守護人の召集に基づく。
.
また将軍家が明日行なう御方違えの供奉人については通例の通り付点によって召集する。
武蔵前司北條朝直と尾張前司北條時章と越後守北條実時は饗応を催す御所で待機するよう仰せがあった。
武蔵守北條長時からは病気である事、越後守北條実時からは心神に疲労が蓄積している旨の申し出があった。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月26日
.
吾妻鏡
.
.
晴。去る20日の鳶(トビ)が飛び込んだ怪異に対応して百恠祭を行なった。また今夜、将軍家(宗尊親王)が御方違えのため相模太郎北條時宗殿の家に入り、中御所(正室近衛宰子)も八葉の車に同乗した。
.
  供奉人
   刑部少輔北條教時   遠江右馬助北條清時(時直の嫡子)   弾正少弼北條業時
   相模三郎北條時輔   同、七郎北條宗頼   新相模三郎北條時村
   越後四郎時方   武蔵五郎北條 時忠(宣時)
   宮内権大輔長井時秀
   秋田城介安達泰盛   壱岐前司後藤基政   木工権頭藤原親家
   和泉前司二階堂行方   上総前司安達(大曽祢) 長泰   太宰少貳武藤景頼
   出羽大夫判官二階堂行有   隠岐大夫判官二階堂行景   式部太郎左衛門尉伊賀光政
   城六郎安達顕盛   信濃次郎左衛門尉佐々木時清   薩摩七郎左衛門尉宇佐美祐能
.
   加藤左衛門尉景経   周防五郎左衛門尉嶋津忠景
       以上は立烏帽子に直垂 を着す。.

.
   ※百恠祭: =百怪祭。怪異を避けるために行う陰陽道の祭祀。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月27日
.
吾妻鏡
.
.
晴。松殿法印良基が去る八月に将軍家が病床に伏した際の祈祷の褒賞として今月16日に権僧正に任じ、その聞書(叙書の写し)が届いた(末尾に御験者の賞と記載)。直ちに御所に報告し土御門中納言が申し継いだ。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
12月29日
.
吾妻鏡
.
.
明春正月に朔御行始め(外出初め)を行なうため供奉人の手配を行うよう、太宰少貳武藤景頼が仰せを小侍所に伝えたところ、新年の椀飯に出仕する人々が御所の庭で予め座席の配置を 示す札を並べていた。
光泰と実俊が札を確認して記録し名簿を提出、将軍家の付点を受けてその旨を通告した。
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦‬1260年
.
90代亀山天皇
.
文応元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.


前年・正嘉三年(1259)の吾妻鏡へ       翌年・文応二年(1261)の吾妻鏡へ