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文永二年(1265)
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天皇
月日
記事
西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月1日
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吾妻鏡
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辛未。 日蝕の筈だったが昨夜から雨となり蝕の確認はできず、従って御所を裹む必要もなかった。
左典厩(北條時宗)の沙汰による椀飯あり。ただし御簾を巻き上げず、将軍家(宗尊親王)も出御しなかった。土御門大納言顕方卿が控えたが準備のみ。
御剣役人は越後守北條実時、御調度は越前前司北條時広、御行騰沓は秋田城介安達泰盛
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   一の御馬は  陸奥十郎北條忠時 と 工藤次郎左衛門尉
   二の御馬は  越後四郎北條顕時 と 兵衛尉武藤三郎頼泰
   三の御馬は  城六郎兵衛尉安達顕盛 と 同、九郎長景
   四の御馬は  筑前四郎左衛門尉二階堂行佐 と 同、五郎左衛門尉行重
   五の御馬は  相模七郎北條宗頼(宗顕) と 工藤三郎左衛門尉
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   ※御所を裹む: 日蝕・月蝕の際に御所全体を蓆(むしろ)で覆って日光・月光の穢から隠す習慣があった。
平安時代には帝の清浄を守るためのみに行われていたが、鎌倉時代中期以後は将軍に対しても恒常的に行なわれた.。王権は東国と西国の両方に存在するとの認識が定着していたらしい。
ちなみに、室町時代には天皇と足利将軍が同じ京都で同様に御所を覆っていた、と伝わる。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※調度(ちょうど): 弓箭。将軍の代理として武具を携える。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。
   ※出御なし: 北條執権と将軍家の関係が相当悪化していた、と考える説がある。.

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   ※年令: 前年に北條長時を継ぎ七代執権に任じた北條政村は61歳、 八代執権になる北條時宗は13歳7ヶ月、
時宗の同母弟宗政は11歳10ヶ月、異母兄で庶長子の時輔は16歳6ヶ月、
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秋田城介安達泰盛は34歳、  足利氏四代当主泰氏は49歳、 古参の評定衆二階堂行義は61歳、
実務に堪能な評定衆二階堂行方は58歳、 弘安八年(1285)に権力を握る御内人平頼綱は23歳、
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六代将軍の宗尊親王は19歳、第90代亀山天皇は12歳、先帝の後深草上皇は18歳、
先々帝の後嵯峨上皇は41歳、        (表示は1月1日現在・満年齢)
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月2日
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吾妻鏡
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壬申 晴。 (執権の)相模守北條政村の沙汰による椀飯あり。御簾(の巻揚げ)は前大納言。
献上品の儀、御剣は中務権大輔北條教時、御調度は左近大夫将監北條公時、御行騰は備中守二階堂行有
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   一の御馬は  越後四郎北條顕時 と 鵜沼次郎兵衛尉国景
   二の御馬は  式部太郎左衛門尉伊賀光政 と 隼人三郎左衛門尉光範
   三の御馬は  城六郎兵衛尉安達顕盛 と 同、九郎長景
   四の御馬は  出羽七郎左衛門尉二階堂行頼 と 備中次郎左衛門尉二階堂行藤
   五の御馬は  越後六郎北條實政 と 戸田兵衛尉茂平
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月3日
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吾妻鏡
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癸酉 晴。 越後入道圓勝の沙汰による椀飯あり。御簾(を挙げる)は前黄門(花山院中納言長雅卿)、献上品の儀、御剣は越前前司北條時広、御調度は右馬助北條時親、御行騰は相模四郎北條宗房、御馬は五疋。
未刻(14時前後)に将軍家(宗尊親王)が左典厩北條時宗の邸に御行始め(外出初め)あり。御引出物の儀は通例の通り。御剣は左近大夫将監北條義政、砂金は左近大夫将監北條時村、鷹羽は左近大夫将監北條公時
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   一の御馬は 相模四郎北條宗政 と 武藤左衛門尉頼泰(景頼の三男)
   二の御馬は 三浦介頼盛(盛時の6男で三浦当主) と 同、七郎時連
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   ※越後入道圓勝: 寛元五年(1247)1月30日の吾妻鏡に「越後入道勝圓(北條時盛)の佐助邸背後の山に光
る物が飛び、対応して祈祷を催した。」との記載があり、他に該当する人物が見当たらないので圓勝=勝圓だと思う。
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   ※北條宗房: 北條政村の四男。同じ相模四郎を通称とする北條宗政との混同に要注意。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月5日
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吾妻鏡
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乙亥 晴。 亥刻(22時前後)に六波羅の飛脚が到着し、延暦寺と園城寺の紛争について報告した。
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   ※北條九代記: 北條時宗が従五位上に叙された。
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      時宗は弘長元年(1261)12月に従五位下・左馬権頭となっている。今回は左馬権頭のままで変更なし。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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1月6日
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吾妻鏡
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丙子 晴・陰。 延暦寺と園城寺の紛争について、昨夜到着した六波羅の使者が右少弁経任朝臣(後嵯峨上皇の側近)の奉書(通達文書)と注進状(報告書)および去年から使節として在京している伊勢入道(二階堂)行願の書状などを提出した。 今年の評定始め以前ではあるが急を要する事項なので急遽の評定開催となった。
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ただし状況に考慮して布衣(略礼服)と宴席は例外措置として省略している。
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尾張入道見西(北條時章)・越後守北條実時・出羽入道道空(二階堂行義)・秋田城介安達泰盛・縫殿頭中原師連・太宰権少貳入道心蓮(武藤景頼)・伊賀入道道圓・対馬前司三善(矢野) 倫長・勘解由判官(太田)康有 (三善(太田)康連の七男で弘長二年から評定衆)が参集した。佐藤民部次郎業連が秘書を務めた。 泰盛と心蓮が書状などを持参し将軍家が上覧した後に使者を評議の席に呼んで返状を渡した。使者は直ちに帰洛の途に就いた。
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   ※佐藤業連: 得宗被官で建治二年(1276)4月に評定衆、翌年に寄合衆に任じて幕政の中枢を担った。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月7日
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吾妻鏡
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丁丑 晴。 将軍家(宗尊親王)が鶴岡八幡宮に御参宮。還御の後に椀飯の儀あり。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月12日
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吾妻鏡
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壬午 晴。 御弓始めあり。
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  射手    一番  二宮弥次郎時元 vs 横地左衛門次郎師重
   二番  波多野八郎朝義 vs 早河六郎祐頼
   三番  松岡左衛門次郎時家 vs 柏間左衛門次郎行泰
   四番  小沼五郎兵衛尉孝幸 vs 海野弥六泰信
   五番  渋谷新左衛門尉朝重 vs 平嶋弥五郎助経
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今日評定始めを行なった。去る六日は臨時であり、改めて吉日にこれを開催した。師連と泰盛が事書(手順の箇条書き)を持参した。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月14日
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吾妻鏡
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甲申 晴。 御所での御鞠始めを行なう旨の招集に応じて数輩が参上したが風が強かったため中止・退出となった。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月15日
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吾妻鏡
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乙酉 晴。 午刻(正午前後)地震。 今日、御鞠始めがあり将軍家(宗尊親王)も薄香の狩衣で参加された。
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参加者は土御門大納言(布衣)・二條三位教定卿(布衣)・同、少将雅有朝臣(布衣、一番の名人)・中務権大輔北條教時・越前前司北條時広・右馬助北條清時・木工権頭藤原親家・備中守二階堂行有・武藤左衛門尉頼泰(景頼の三男)・加藤左衛門尉景経・鎌田次郎左衛門尉行俊・内記左衛門尉・同兵衛三郎(以上は布衣)。
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全員で概ね16人、夕刻になって椀飯の沙汰があった。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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1月20日
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吾妻鏡
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庚寅 雷雨。 稲妻が天を輝かし、雹(ひょう)を降らし地を動かすほどだった。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月24日
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吾妻鏡
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甲午 雲。 今日の椀飯の際に馬数疋が近習および医陰の輩((医師と陰陽師)に賜えた。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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1月30日
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北條九代記
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北條時宗が但馬権守を兼任。
西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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2月2日
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吾妻鏡
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壬寅 晴。 御息所(将軍正室の近衛宰子)が相模守北條政村に入御した。将軍家(宗尊親王)が二所詣に備えた精進潔斎に入るためである。
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   ※北條政村邸: 鎌倉駅の約2km西(地図)が北條常盤邸跡と確認されている。詳細は文化遺産オンラインで。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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2月3日
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吾妻鏡
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癸卯 晴。 将軍家(宗尊親王)が二所詣に伴う精進潔斎のため由比ヶ浜に出御。土御門大納言顕方卿・左典厩北條時宗・越前前司北條時広・越後右馬助北條時親らが供奉、医師の施薬院使忠茂・陰陽道少允晴宗らが従った。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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2月7日
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吾妻鏡
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丁未 晴、風が静まった。 将軍家(宗尊親王)が二所詣でに御進発、供奉人が垣根のごとくに連なった。
その中で後陣の随兵一騎が中の下馬橋で落馬する事件があった。
午刻(正午前後)に御息所が突然の体調不良となって人々が集まったが、特に重事とはならなかった。
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   ※中の下馬橋: 鎌倉駅に近い二の鳥居西側(地図)に扇川の古い欄干
が残っている。扇川の源流は扇ヶ谷の奥にある海蔵寺の裏手。現在は小町通りの西で暗渠になり、若宮大路の下を通って滑川に流れ込んでいる。
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若宮大路の向い側にあった鎌倉青年団建立の下馬碑(右画像)はスタンドが駐車場に変わると共に撤去され2016年秋現在は移転先を検討中だった。もう移転したかも知れないが...。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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2月9日
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吾妻鏡
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己酉 晴。 丑刻(深夜2時前後)に前長門守で従五位上の藤原朝臣時朝(笠間(塩谷・宇都宮)時朝)が死去した(62歳)。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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2月12日
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吾妻鏡
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壬子 終日雨。 戌刻(20時前後)に将軍家が二所詣から還御した。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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2月25日
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吾妻鏡
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乙丑。 着到(出勤を記録する文書)について中原師連が(将軍家から)命じられた。結解(年貢などの出納簿)の言葉を使うのは好ましくない、と。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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3月1日
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吾妻鏡
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庚午 風雨が強く、戌刻(20時前後)に雷鳴あり。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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3月4日
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吾妻鏡
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癸酉 晴。 今日、将軍家が御所の鞠の御壺(小庭)で童舞(児童による舞楽)を観覧した。
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これは鶴岡八幡宮法会の際に奉納した舞楽を再現したもので、舞童はまず南北に分かれて着座(西が上座)した。土御門大納言顕方卿・花山 院大納言長雅卿らは簾中に控えた。
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  出居(居間に続く客間と同じ意味)
    公卿   従二位顕氏卿  従二位基輔卿
    殿上人  一條中将能基  八條中将信通  八條兵衛佐盛長  六條少将顕名  唐橋少将具忠
六條侍従顕教
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    左 三臺(雅楽の曲名)は甘州、 太平楽と散手と陵王
太平楽は乙王と夜叉王と松若と禅王と瑠璃王と幸王   散手は乙王  陵王は松若
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    右 長保樂と林歌と狛桙と貴徳と納蘇利   狛桙は萬歳と金王と千手と乙鶴と金毘羅と竹王
各々浅黄の直垂を着す。 貴徳は萬歳  納蘇利は禅王と幸王と豆王
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また左近将監中原光氏が廻雪と賀殿を奏し、能基朝臣を介して禄物(褒賞。五衣・五枚重ねの衣)を得た。
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   ※雅楽: googleで検索すれば舞曲の明細は理解できる。無意味だし冗長なので、ここでの記述は省いた。
末尾の「廻雪」は舞の代名詞で、風に吹かれた雪が輝きつつ舞い上がるような袖の動きを表す言葉。
文治二年(1186)4月8日の吾妻鏡に「再三の命令を受けた静が白い袖を翻して黄竹の歌を演じた。」との記載があったのを思い出させる。この原文が「憖廻白雪之袖。発黄竹之歌。」だった。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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3月5日
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吾妻鏡
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甲戌。 鎌倉市内に散在する商店を一旦停止させ改めて七ヶ所を認可し、掘の上や大路に突き出して建てた家屋も禁止した。各々の保(町会)にその旨を通告するよう奉行人の小野澤左近大夫入道に命じた。
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認可する場所は次の通り。
   大町  小町  魚町  穀町  武蔵大路下  須地賀江橋  大倉辻
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   ※認可場所: 建長三年(1251)12月3日に同様の規制を発していた。
その時は大町・小町・米町・亀谷辻・和賀江・大倉辻・気和飛坂山上の七ヶ所だった。右側の地図には前回の建長三年と文永二年の両方を落とし込んである。
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   ※小野澤左近: 小野澤氏は現在の長野県坂城町を本拠にした御家人。建長三年に七ヶ所を定めた時の奉行は
小野澤左近大夫入道仲実(法名を光蓮)、今回は息子の小野澤左近大夫入道時仲。
仲実は鎌倉御家人であると共に三代執権北條泰時と五代執権時頼の被官でもあり、村上源氏の子孫を称している。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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3月7日
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吾妻鏡
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丙子 晴。御所の彼岸御懺法が結願した。布施の配布は公卿中御門三位(公寛、直衣)と殿上人九人(束帯または布衣(狩衣)を着す)・諸大夫二人(押垂掃部助と信濃蔵人)。
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御息所(将軍の正室近衛宰子)が今日から七日間、鶴岡八幡宮に参籠するため夜になって御輿で参宮、女房の東御方と一條局尼と卿局および下臈(身分の低い僧)三人が供奉した。縫殿頭中原師連を奉行として宮寺に派遣し、今夜から高位の女房らを付き添わせた。
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別当僧正(隆弁)が60人を越える工匠を集めて至急の工事を行わせ、熱田神宮や三嶋大社神前の回廊と同様の施設を構築して参籠の場所とした。西二間が御寝所および読経の部屋、東二間が居間、東廻廊と横廊との中間の敷板部分が台所である。東廊の北端が東御方局、次の一間を卿局、南端の二間を一條殿局の部屋とし、次の一間が湯殿。また局の背後の敷板を下口(裏口または焚き口)と湯殿、白幕五帖を廻廊北軒に曳き回して通路とした。
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   ※彼岸御懺法: 犯した罪業を懺悔する天台宗の重要法会。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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3月9日
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吾妻鏡
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戊寅 晴。 亥刻(22時前後)に大地震。今夜、鶴岡若宮の神前で管弦講(音楽を奏して行う仏事)を催した。別当僧正隆弁が作法に従って八幡講を読み、その後に御神楽の奉納あり。指揮は松若丸、本拍子(主唱者)は萬歳・末拍子(下手の主唱者)は禅王・和琴(千手)・篳篥(しちりき・yahoo画像)は乙鶴・太笛は夜叉王である。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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3月11日
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吾妻鏡
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庚辰 晴。 鶴岡上宮に於いて法華経による供養あり。導師は権少僧都慈暁。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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3月13日
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吾妻鏡
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壬午 晴。 御息所(将軍正室の近衛宰子)の参籠に伴う御局らへの丁寧な対応について、別当僧正隆弁を招いて感謝の言葉があり、縫殿頭中原師連を介して南廷(銀の延べ板)を三・砂金を十両・銀作りの剣などが贈られた。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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3月22日
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吾妻鏡
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辛卯 晴、強い南風。 今日、大田民部大夫従五位下の三善朝臣康宗が死去した(54歳)。
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   ※三善康宗: 三善(太田)康連の子。引付衆を経て建長八年(1256)には父の跡を継い問注所執事、正嘉二年
(1258)からは評定衆を兼任していた。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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3月28日
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北條九代記
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北條時宗が相模守を兼任、北條政村が右京権大夫に任じた。
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   ※官暦: 時宗の前職は但馬権守・左馬権頭(従五位上)、政村の前職は相模守(従四位上)で左京権大夫は
従来と変わらず。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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4月21日
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北條九代記
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北條時輔が式部丞に任じ、従五位下に昇叙。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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4月22日
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吾妻鏡
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辛酉 晴。 将軍家(宗尊親王)の夢の告げにより御所南庭で泰山府君祭を行ない、主殿助業昌朝臣が束帯を着してこれに任じた。御都状(祭文・祈りの言葉)は廣範が起草。
奉行の縫殿頭中原師連を介して褒賞の鞍置きの馬一疋・御剣一腰・絹十疋が下賜された。
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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4月16日
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続史愚抄
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乙卯。  前左大臣の関白良実(二条良実・wiki)が辞職した。突然のため上表(文書で上奏)せず。
        (良実は前々将軍藤原頼経の兄。次の摂政関白は弟の一条実経・wiki)
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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4月25日
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吾妻鏡
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甲子。 執柄( 摂政・関白の異称)の二条良実が辞職した。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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閏4月7日
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吾妻鏡
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乙亥 晴。 遠江四郎平(北條)政房が死去した。
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   ※北條政房: 北條時房朝直-朝房-政房と続く。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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閏4月20日
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吾妻鏡
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戊子。 御所(の警備)が無人になったとの報告があり、左典厩北條時宗から「直ちに該当する当番を報告し罪科に処す」との命令が小侍所(将軍近習を司る部署)下された。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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閏4月25日
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吾妻鏡
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癸巳 晴。 (将軍家の)特別の希望により御所で若宮別当僧正隆弁と伴僧10人による五大尊合行法が始まった。
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   ※五大尊合行法: 五大明王(不動明王・ 降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)を一つの壇に
祀って行なう行法。別々の壇で行なう場合は五壇法。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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5月2日
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吾妻鏡
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己亥。 先月22日に新・関白(一条実経・wiki)の拝賀あり。去る16日の二條殿((前関白二条良実・wiki)に伴う着任である。
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   ※拝賀: 叙位叙任を受けた際に朝廷や神仏に礼を奏すること。建保七年(1219)1月に将軍実朝が暗殺された
のは鶴岡八幡宮での右大臣拝賀を終えた直後だった。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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5月3日
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吾妻鏡
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庚子 曇。 日中に五大尊合行法が結願した。今日、故武州禅門(北條長時)の一周忌
泉谷新造堂(現在の浄光明寺・wiki)で仏事があり、導師を若宮僧正隆弁が務めた。
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   ※長時一周忌: 死去は8月21日。放生会前後を避けたということか。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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5月5日
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吾妻鏡
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壬寅 晴。 御所で大般若読経が始まった。読経に任じる僧は10人。
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   権少僧都兼伊
   権律師房譽   房盛 景弁 實雅 浄昭 頼弁 盛弁 兼弁 賢弁 弁盛 兼朝 信勝 頼意 弁譽 房朝
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   僧名と人数にギャップがある理由は判らない。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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5月10日
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吾妻鏡
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丁未 晴、夕刻から終夜激しい雨。 御息所(将軍正室近衛宰子)御懐孕(妊娠)に対応して業昌朝臣による祈祷(天冑地府祭)を行なった。将軍家の代参は押垂掃部助
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   ※押垂氏: 嘉禎二年(1236)に押垂左衛門尉(時基)の記載がある埼玉県東松山市押垂を本領とした武士。
掃部助は従六位上相当の官職だが今年の3月7日には諸大夫(五位相当)として記載があるので、親子の可能性もありそうだ。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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5月23日
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吾妻鏡
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庚申。 高柳弥次郎幹盛と縫殿頭(安倍)文元が所領について争っている。
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不和が嵩じた末に幹盛は「文元は陰陽師でありながら息子らは太刀を帯びて武士の如く振舞っている。 早急に本来の姿に立ち返るよう仰せを下すべきである。」と述べたため、今日評議が行われた。
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安倍文元の子息である大蔵少輔文親と大炊助文幸は陰陽師の子孫ではあるが右筆を兼任しており、更に七條入道大納言家の時代には幕府に勤めて宿直や格子の上下役に任じている。武州前史禅室(北條長時)と最明寺禅室(北條時頼)の二代を通じてこのような業務での奉公を命じられており、今になって変更はできない。
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ただし官位を得た場合には官職の陰陽師を辞するのが道理である。文親は本道の陰陽師を兼任し、文幸は右筆に専従せよとの結論が下った。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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6月3日
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吾妻鏡
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己巳 日中に夕立あり。 故秋田城介安達義景の十三回忌法事があり、一日から今日まで、無量寿院に於いて十種供養や一切経供養が催され、今日の正命日には多宝塔一基の完成供養となった。導師は若宮別当僧正の隆弁、布施は被物十重・太刀一振・南廷(銀の板)五・砂金三十両・銭百貫文である。
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伊勢入道行願(二階堂行綱)・武藤少卿入道心蓮(武藤景頼)・信濃判官入道行一(二階堂行忠)以下数輩が仏との結縁を求めて参席した。説法の最中に降雨車軸を傾けるような豪雨となり、山上に設けたの聴聞の仮屋が倒壊して人々が避難した。その中で男女二人が嶺北側の道に落下して半死半生となった。
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   ※無量寿院: 現在は扇ヶ谷一丁目だが感覚的には御成町で鎌倉駅の西口から歩いても約600m。
2012年の発掘調査により寺の痕跡が確認されている。
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ただし義景の屋敷跡に建立した本来の無量寿院は安達一族が滅亡した弘安八年(1285)の霜月騒動で焼失しており、その後に再建された無量寺と同じ規模だったか否かは不明、正確な地図はこちら
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現在は敷地全体を含めて鎌倉歴史文化交流館として公開されている。発掘調査は新築工事に伴う学術調査だから、既に痕跡の大部分は失われた。そもそも鎌倉に残っている歴史遺産の大部分は只の「痕跡」に過ぎない。
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調査報告書は2000円程で入手できるし鎌倉市立図書館でも閲覧出来る。右画像は市役所上空からの鳥瞰図(クリック→ 拡大)。
背後の嶺を越えた100m先は寿福寺の墓苑なのだが、もちろん通行はできない。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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6月10日
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吾妻鏡
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丙子 終日豪雨。  亀谷および泉谷の各所で土砂崩れが発生し人馬の多くが巻き込まれて圧死した。土砂の中から掘り出された2名のみが助かったらしい。
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   ※亀谷と泉谷: 亀谷は扇ヶ谷四丁目を中心とする谷、泉谷は横須賀線沿いを流れる扇川を隔てた浄光明寺の
ある急峻な谷。旧暦の6月10日は現在の7月23日だから台風の被害だろう。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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6月11日
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吾妻鏡
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丁丑 晴。 評定衆に追加あり。前越前守平時広(北條時広)・中務権大輔平教時(北條教時)・宮内権大輔大江(長井)時秀の三人が評定衆に追加となった。
また引付衆二番に左近大夫将監平義政(北條義政)・弾正少弼平業時(北條業時)・左近大夫将監平公時(北條公時)、三番に備中守藤原行有(二階堂行有)・前対馬守源佐々木氏信・筑前三郎左衛門尉藤原行実(二階堂行泰の子、二階堂氏六代当主)が新規に加えられた。また執筆(書記)三番に高水右近三郎、これは壱岐五郎左衛門尉為忠が辞退した替わりとして新規に召し加えられた。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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6月13日
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吾妻鏡
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己卯 雨、午刻(正午前後)に晴。 今日御息所(近衛宰子)の安産を祈るため御所で尊家法印を導師として放光仏の供養法会を行なった。布施取りは左近大夫将監北條時村と左近大夫将監北條顕時。また、七瀬御祓いも行なった。
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   ※放光仏: 身体や白毫(眉間の上に生えている毛)から光を放つ仏、その姿を模した仏像。
   ※七瀬御祓: 吾妻鏡に数回の記載あり。雨乞いの祭祀を行なった承応三年(1224)6月6日を参照されたし。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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6月23日
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吾妻鏡
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己丑。 将軍家(宗尊親王)が最明寺亭に入御した。
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  供奉人(騎馬)
前大納言藤原為家  中御門少将藤原宗世  越前前司北條時広  中務権大輔北條教時
弾正少弼北條業時  遠江右馬助北條清時(時直の嫡子)  尾張右近大夫将監
越後左近大夫将監北條顕時  相模四郎北條宗政  木工権頭藤原親家  縫殿頭中原師連
宮内権大輔長井時秀  備中守二階堂行有  信濃大夫判官二階堂行綱
式部太郎左衛門尉伊賀光政(光宗-宗義-光政と続く)
常陸左衛門尉笠間朝景(時朝の嫡子、笠間氏二代当主)  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
和泉左衛門尉天野景氏  周防五郎左衛門尉嶋津忠景  城六郎兵衛尉安達顕盛
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  供奉人(歩行)
武蔵五郎北條宣時  武藤左衛門尉頼泰(景頼の三男)  美作左衛門蔵人家教  同、兵衛蔵人長教
隠岐次郎左衛門尉二階堂行景  同、四郎兵衛尉行長  肥後四郎左衛門尉(大見)行定
甲斐三郎左衛門尉為成  出羽八郎左衛門尉二階堂行世  信濃次郎左衛門尉二階堂行宗
武石新左衛門尉長胤  筑前五郎左衛門尉行重  三善太郎左衛門尉康定  薩摩左衛門四郎伊東祐教
嶋津周防七郎重賢  加藤左衛門三郎泰経
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最明寺亭の寝殿に入御し三献(正式な手順の酒宴)あり。左京兆相模守北條政村・越後守北條実時・秋田城介安達泰盛らが参候した。
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   ※尾張右近大夫将監: 左近大夫の間違いで北條公時だと思うが...。
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   ※左京兆: 左京権大夫の唐名。吾妻鏡の元本により右京兆(北條義時)と記載している。
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   ※最明寺亭: 北條時頼の私邸を北條時宗が聖禅寺として再興するのだが、これは時宗が八代執権に就任した
文永五年(1268)以後だろうと思う。聖禅寺の支院の一つだった名月庵が明治維新後に明月院となり、母体の聖禅寺は廃絶という変遷を辿っている。文永二年の頃は時宗が私邸か別業(山荘)として使っていたのではないかと思うが、想像の域を出ない。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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7月4日
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吾妻鏡
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庚子。 未刻(14時前後)に山内の御山庄(最明寺亭だろう)で侍二人が喧嘩の末に斬り合って共に落命した。これが鎌倉中に広がり、御家人が駆けつける騒ぎとなった。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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7月10日
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吾妻鏡
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丙午 晴。 御息所(将軍正室の近衛宰子)が御産所の左近大夫将監北條宗政朝臣亭に入御した。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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7月16日
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吾妻鏡
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壬子 晴。 夜になって将軍家(宗尊親王)が左京兆北條政村の小町邸に入御した。
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  供奉人
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源大納言土御門顕方  一條中将信能  中務権大輔北條教時  弾正少弼北條業時
越後左近大夫将監北條時国(時盛の子)  信濃大夫判官二階堂行綱  美作左衛門蔵人家教
同、兵衛蔵人長  式部太郎左衛門尉伊賀光政 和泉左衛門尉天野景氏  城六郎左衛門尉安達顕盛
周防五郎左衛門尉(嶋津忠景   甲斐三郎左衛門尉為成  三善太郎左衛門尉康定  伊東余一
薩摩左衛門四郎伊東祐教  加藤三郎泰経
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左京兆(政村)は庭にひざまづき、出居(客間)に迎え入れた。着座されるより前に、供奉人の前に至るまで御供御(食事・酒肴)が並び、更に三献の儀が済まないうちに秋田城介安達泰盛が砂金百両と鞍を置いた馬一疋を贈った。将軍家の入御を聞いての準備である。
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また戌刻(20時前後)になって亭主(政村)息女の嫁入りの儀があり、相模左近大夫将監北條宗政邸に入るため、出居(客間)で酒宴を催した後に姫は通常の居間から出立した。この間も政村は将軍の御前を起たず、これは大名として見事な配慮である。。暁更(夜明け近く)になって将軍家の還御となり、御引出物が献じられた。
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   ※小町邸: 幕府滅亡までの北條執権の公邸は現在の宝戒寺・(サイト内リンク・別窓)の一帯だった。当然ながら
執権政村の執務場所も小町邸だが、私邸は常盤邸(2月2日を参照)になる。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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7月18日
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吾妻鏡
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甲寅 晴。 前三河守・正五位下の清原眞人教隆が没した(67歳、在京)。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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7月23日
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吾妻鏡
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己未 曇。 将軍家(宗尊親王)が山内亭に入御した。
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   ※山内亭: 最明寺(6月23日を参照)と考えて良い、と思う。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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7月24日
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吾妻鏡
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庚申 晴。 (将軍家は)山内亭で相撲や競馬等を観覧して遊興を楽しみ、夕刻に御所に還御した。左典厩北條時宗が御贈物を献じ、供奉人も各々贈与を受けた。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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7月25日
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吾妻鏡
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辛酉 晴。 法印定親が没した。
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   ※法印定親: 鶴岡八幡宮別当隆弁の前任者。寛喜元年(1229)6月から別当に任じた。
妹が三浦泰村に嫁していたため宝治元年(1247)6月の三浦一族滅亡に連座して蟄居、上洛して東寺長者となり生涯を終えている。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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7月28日
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吾妻鏡
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甲子 小雨。 (将軍正室の)安産の祈祷として、晴茂・宣賢・業昌・晴長・晴秀・晴憲・晴宗・泰房・職宗・親貞が千度祓いを行なった。陪膳(給仕役)の左近大夫将監北條時村は萌黄の狩衣に紫の奴袴を、右馬助北條清時(時直の嫡子)は織物の狩衣と蘇芳の指貫を御所から支給された。
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役送(運び役)の10人は各々布衣、恪勤10人は各々白の直垂で補助を務めた。縫殿頭中原師連・備中前司二階堂行有(軽服(軽い服喪)となった式部太郎左衛門尉伊賀光政と急遽交代)が奉行に任じた。
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   ※千度祓い: 罪科や穢を除く大祓いの詞を神前で千度唱え身の汚れを清める修法。
   ※奴袴と指貫: 構造は概ね同じ、装束の種類(外部サイト)を参考に。 蘇芳は黒味を帯びた赤色。
   ※恪勤: 警護や雑役に任じる下級武士の総称。また、宿直を勤める番衆を呼ぶ場合もある。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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8月5日
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吾妻鏡
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庚午 曇、夕刻に小雨。 将軍家(宗尊親王)が馬場殿から御産所(北條宗政邸)に入御し、間もなく還御した。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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8月13日
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吾妻鏡
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戊寅 晴。 故武州禅門(北條長時)一周忌の仏事が行われた。また極楽寺奥州禅門(北條重時)の没後を追善供養するため五部大乗経18巻の書写を行なった。これは左典厩北條時宗が見た夢のお告げに従って一日での完成を目指したものである。
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   ※五部大乗経: 隋の煬帝の帰依を得た宗教家・天台大師智顗禅師(西暦597年没)が選んだ五部の大乗経典
(華厳・大集・般若・法華・涅槃)
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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8月15日
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吾妻鏡
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庚辰 晴。 鶴岡八幡宮の放生会あり、将軍家(宗尊親王)の出御も御奉幣使の代参もなく、催事の全ては宮寺に任せての挙行となった。 これは御息所(正室近衛宰子)の妊娠に伴う忌避である。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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8月16日
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吾妻鏡
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辛巳 晴。 将軍家(宗尊親王)が馬場の催事を観覧するため密々(非公式)に相模守北條政村の桟敷に入御した。
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御剣役は左近大夫将監北條顕時、中務権大輔北條教時と弾正少弼北條業時が御輿寄せに控え、他に10余人が供奉した。今年は相模守政村の桟敷(七間・七スパン)以外の桟敷設置は全て禁止されていた。これは将軍家の出御がない事と、倹約を目的とした措置である。
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流鏑馬の第三番射手が二、三射の的を外し、競馬の勝負は左京兆(政村)が宮寺の判断に任せる旨を申し伝え、神宴(神事芸能)は行わない事となった。馬場神事などの褒賞は諸大夫が、相撲の褒賞は神官が担当する。僧侶などへの布施は(儀礼を省いて)各々の房に送ることになる。
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戌刻(20時前後)に土御門大納言顕方卿が御息所(将軍正室近衛宰子)の安産を祈るため由比ヶ浜で業昌朝臣による霊気祭を奉仕した。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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8月25日
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吾妻鏡
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庚寅 陰。 将軍家(宗尊親王)が痢病(下痢)に罹ったが、程なくして平静に戻った。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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9月1日
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吾妻鏡
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丙申 曇、日中小雨。 今日辰刻(朝8時前後)に御息所(将軍正室の近衛宰子)に出産の気配があり、多くの人々が集まった。占いが行なわれ、申酉刻(17時前後の数時間)あるいは亥子刻(23時前後の数時間)だろうとの結果だったが、産気は収まって平常に戻り、集まった人々も退出した。
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この間のことは縫殿頭中原師連と式部太郎左衛門尉伊賀光政が奉行に任じた。光政が軽服(軽い服喪)だったため交代した二階堂行有も軽服の状態が出来し、結果として軽服期間の過ぎた光政が元通りの奉行を務めた。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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9月17日
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史 料
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   ※続史愚抄: 壬子。 征夷大将軍・三品(親王としての位階第三位)の宗尊親王(一院(後嵯峨上皇)の皇子、
二十三歳)を一品(同じく、一位)に叙し、中務卿に任じた。
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   続史愚抄は江戸時代に編纂された編年体の歴史書。更に詳細はwikiで。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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9月21日
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吾妻鏡
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丙辰 夜になって雨。 今日寅刻(朝4時前後)になって御産気があり、辰刻(8時前後)に姫宮が誕生した。
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験者は松殿僧正と安祥寺僧正と尊家法印、医師は(玄番頭・丹波)長世朝臣、御祓いは(安倍)晴茂(束帯を着す)・宣賢・業昌・晴長・晴秀・晴宗・泰房 (以上は衣冠)。先ず陰陽師七人が序列に従って通例の褒賞(白の綾衣を各一領)を下賜され、次に御験者三人に御衣(重衣)・御馬一疋(侍六人が立烏帽子・直垂を着してを引いた)。
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次に長世朝臣が公卿の座の横で八條三位を介して御衣を与えられた。陰 陽権助安倍晴茂朝臣も同所で左近大夫将監北條公時を介して御衣を与えられた。
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   ※姫宮: この日に産まれたのは掄子(または棆子)女王。成長して亀山天皇の後宮に入り、後に後宇多天皇の
後宮に入って崇明門院(wiki)を産む。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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10月2日
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吾妻鏡
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丁卯。 前筑前守で従五位上の藤原朝臣行泰法師(二階堂行泰・法名行善)が死没した(55歳)。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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10月7日
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吾妻鏡
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壬申 晴。 御所で連歌の会あり。記録担当は参河阿闍梨圓勇。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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10月14日
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吾妻鏡
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己卯。 また連歌の会あり。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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10月18日
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吾妻鏡
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癸未 晴。 右大弁入道(真観)が京都から鎌倉に入り、兵部大輔範忠朝臣も同様に下着した。(将軍正室の)安産の祝賀だが、背後に(将軍家の)勅撰和歌集(続古今集)への選出内容を懸念している。
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   ※真観: 歌人で俗名は藤原光俊、(葉室光俊(wiki)、葉室(藤原)光親の息子)。藤原定家に師事したが定家の
死後は定家の跡を継いだ為家と対立して鎌倉に下り宗尊親王の和歌師範を務めた。
弘長三年(1263)の2月8日にも記載あり。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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9月17日
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史 料
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   ※続史愚抄: 壬子。 征夷大将軍・三品(親王としての位階第三位)の宗尊親王(一院(後嵯峨上皇)の皇子、
二十三歳)を一品(同じく、一位)に叙し、中務卿に任じた。
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   続史愚抄は江戸時代に編纂された編年体の歴史書。更に詳細はwikiで。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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10月19日
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吾妻鏡
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甲申。 御所で連歌の会があり、若宮別当僧正隆弁百種の懸物(勝負事に提供する金品)を用意して参上した。
日頃からの再三の召しに応じての参席である、と。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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10月25日
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吾妻鏡
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庚寅 朝は雨、午刻(正午前後)から晴。 今日、最明寺禅室(北條時頼)の三回忌法要が山内で行われた。導師は蘭渓道隆禅師(正しい命日は11月22日である)。
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   ※時頼命日: 正確には没後1年11ヶ月だから足掛け三年の仏事になる。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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10月26日
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吾妻鏡
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辛卯 晴。 朝廷に献上する馬の観覧あり。左京兆北條政村以下が水干に葛袴を着して庭に列座した。一の御馬は左京兆が提供した 騰馬(悍馬・気質が荒く跳ねる癖のある馬)で騎手は合田四郎である。
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引き手は抑えきれずに引き綱を放し、馬は何度も跳ね上がって合田を振り落とした。合田は再び打ち跨って御前を乗り回し、馬は20数回も跳ね上がった。近年稀に見る龍蹄(駿馬、大型の馬)である。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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11月13日
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吾妻鏡
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丁未 晴。 先日鎌倉に下向した京都朝廷の使者兵部大輔範忠朝臣が帰洛の途に就いた。(将軍正室の)安産祝賀と、勅撰和歌集についての連絡である。
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   ※続古今和歌集: 鎌倉将軍宗尊親王の歌も67首が載っている。仁治二年(1241)8月に没した当代で屈指の
歌人藤原定家の歌は56首、選考に政治的な意図が働いていた事は容易に想像できる。
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そもそも、最初の正元元年(1259)3月に後嵯峨院から撰進を任されたのは定家の嫡子藤原為家なのだが、弘長二年(1262)9月になって和歌についての理念が違う九条内大臣基家・衣笠内大臣家良・六条行家・葉室光俊(真観)の四人が新たに撰者に加えられた。
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これに臍を曲げた為家は嫡子の為氏に編纂を任せて関与を放棄、結果として撰者に統一的な観点を欠いた続古今和歌集は多種多様で一貫性にかけた結果になった、とされる。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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11月16日
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吾妻鏡
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庚戌。 明年正月の御弓始めを務める射手を定める運びとなり、相模左近大夫将監北條宗政と弾正少弼北條業時連署の奉書(命令書)が発行された。
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   ※連署の奉書: この時点で右近将監の宗政(満12歳)と引付衆の業時(満24歳)は共に将軍家の側近を束ねる
小侍所別当に任じている。
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西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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11月17日
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吾妻鏡
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辛亥 曇で冷気、霰(あられ)あり。 今日御息所(将軍正室の近衛宰子)並びに姫宮(掄子女王)が御産所の相州親衛(北條宗政)邸から御所に還御した。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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11月19日
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吾妻鏡
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癸丑。 去る八日の僧事聞書(僧侶の叙位の聞き書き)が届き、若宮別当僧正隆弁が大僧正(最高位)に転じた。
祈祷に伴う褒賞で、除書は一首の和歌を添えて御所から宮寺に届けられた。使者は鎌田次郎左衛門尉行俊。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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11月20日
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吾妻鏡
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甲寅。 信濃国の善光寺について、周辺の悪党を鎮圧し寺を警固するための奉行人として和田石見入道佛阿・原宮内左衛門入道西蓮・窪寺左衛門入道光阿・諏訪部四郎左衛門入道定心を任命していたが、権限外の行動により実施に支障が出ているとの訴えがあって今日の評議となった。以後はこの奉行人の業務を停止せよとの仰せがあり、この仔細を信濃国守護人の陸奥孫四郎に通告した。
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   ※陸奥孫四郎: 北條長時の嫡子で赤橋流北條氏の二代当主。文永八年(1271)11月に六波羅北方に赴任、
建治三年(1277)6月に鎌倉に戻り評定衆に就くが、二ヶ月後に死没した。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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12月5日
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吾妻鏡
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己巳 晴。 夜に入って左京兆北條政村邸(常盤邸・2月2日を参照)に於いて当座の続歌会あり。右大弁入道真親(葉室光俊・11月13日を参照)ら同好の人物が集まった。
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   ※当座の続歌会: 予め和歌の題を書いた短冊などを無作為に取り、それに従った和歌を即興で詠み上げる会。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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12月11日
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史 料
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   ※続史愚抄: 乙亥。 彗星が現れた。(視認した)長さは2尺(約60cm)。.
西暦‬1264年
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90代亀山天皇
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弘長四年
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12月14日
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吾妻鏡
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戊寅 晴。 今暁に彗星が東に見えた。掃部助範元が真っ先に御所に参上し、客星の出現を報告した。続いて晴茂朝臣が彗星の出現を報告し、その後に国継・晴平・晴成が彗星出現の上申書を提出した。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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12月16日
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吾妻鏡
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庚辰 晴。 将軍家(宗尊親王)が庇御所(廂番が宿直した部屋)に出御し司天(天文担当)数輩を呼んで変異について質問した。土御門大納言顕方卿・左近大夫将監北條公時・伊勢入道行願(二階堂行綱)・信濃判官入道行一(二階堂行忠)以下、多くの人々が縁先に控えた。
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司天らは、13日の曇天を確認した上で、席順に従って次のように述べた。晴隆は14日の夜明け近くに金星と共に空を窺ったが彗星は確認できなかった、と。範元は晴天だった旨を報告した。将軍家からは引き続いて観察し報告せよとの仰せがあった。太宰権少貳入道心蓮(武藤景頼)がこの件の奉行を務めた。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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12月18日
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吾妻鏡
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壬午 晴。 卯刻(朝6時前後)に彗星を確認、視認した長さは二尺余(60cm強)である。
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今日、小侍所で明年正月の御的始めの射手などについての沙汰があった。射手に選ばれた者が支障を申し出た際に認可すべきか否かが議論となり、この件は相模左近大夫将監北條宗政と弾正少弼北條業時が奉行に任じた。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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12月27日
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吾妻鏡
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辛卯 晴。 今夕、彗星が西の方向に確認した。室宿の位置にあって尾の部分は二尺余(60cm強)、色は白。
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   ※室宿の位置: ペガサス座α星を差し、北方玄武の第六星を差す。非科学的で論理的根拠に欠ける占星術には
コメントする気にならないが、占星術に興味があれば二十八宿(wiki)を参照されたし。
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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文永二年
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 月 日
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史 料
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記事
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西暦‬1265年
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90代亀山天皇
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西暦‬1265年
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