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文永三年(1266)
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天皇
月日
記事
西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月1日
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吾妻鏡
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乙未 晴、風が静まった。
相模守北條時宗(前年3月28日に相模守に就任)の沙汰による椀飯あり。御簾を揚げたのは前大納言土御門顕方卿、御剣役は越前前司 北條時広、御調度は右馬助清時(時直の嫡子)、御行騰は秋田城介安達泰盛
(献上の)御馬は五疋。  暗くなってから西の空に彗星が現れた。
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   ※椀飯(おうばん): 饗応のための献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
   ※調度(ちょうど): 弓箭。将軍の代理として武具を携える。
   ※行騰(むかばき)と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像(wiki)を参考に。

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   ※年令: 前年に北條長時を継ぎ七代執権に任じた北條政村は62歳、 八代執権になる北條時宗は14歳7ヶ月、
時宗の同母弟宗政は12歳10ヶ月、異母兄で庶長子の時輔は16歳6ヶ月、
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秋田城介安達泰盛は35歳、  足利氏四代当主泰氏は50歳、 古参の評定衆二階堂行義は62歳、
実務に堪能な評定衆二階堂行方は59歳、 弘安八年(1285)に権力を握る御内人平頼綱は24歳、
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六代将軍の宗尊親王は20歳、第90代亀山天皇は13歳、先帝の後深草上皇は19歳、
先々帝の後嵯峨上皇は42歳、        (表示は1月1日現在・満年齢)
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月2日
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吾妻鏡
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丙申 晴。 左京兆北條政村の沙汰による椀飯あり。御簾を揚げたのは前大納言土御門顕方卿、御剣は左近大夫将監 北條公時、御調度は左近大夫将監北條顕時、御行騰は備中守二階堂行有、献上の御馬は五疋。
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椀飯の後に将軍家(宗尊親王)が相模守北條時宗亭に御行始めあり。御引出物は通例の通り、御剣は左近大夫将監北條時村、砂金は左近大夫将監 北條公時、鷹の羽は左近大夫将監北條顕時、御馬は二疋。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月3日
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吾妻鏡
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丁酉 晴。椀飯陸奥孫四郎北條義宗の沙汰による椀飯あり。御簾を揚げたのは前大納言土御門顕方卿、御剣は右馬助清時 (時直の嫡子)、御調度は刑部少輔北條時基、御行騰は対馬前司佐々木氏信、献上の御馬は五疋。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月7日
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吾妻鏡
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辛丑 晴。 佐々目法印権大僧都守海(人物の詳細不明)が死去した(62歳)。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月11日
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吾妻鏡
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乙巳。昨夜から雪、午刻(正午前後) になって晴。 今日、御弓始めあり。
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  射手
   一番  伊東刑部左衛門尉 vs 渋谷新左衛門尉
   二番  横地左衛門次郎 vs 小沼五郎兵衛尉
   三番  早河次郎太郎 vs 柏間左衛門次郎
   四番  海野弥六 vs 堤又四郎
   五番  山城三郎左衛門尉 vs 平嶋弥五郎
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  今朝、相模守北條時宗が鶴岡八幡宮に参宮した。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月12日
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吾妻鏡
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丙午 晴。 彗星の変異に対応した祈祷あり。金剛童子法は大僧正隆弁、如法尊星王法は安祥寺僧正、天地災変祭は業昌、将軍の使者は伊達蔵人大夫。陰陽道による属星祭は安倍国継、使者は池伊賀前司。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月13日
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吾妻鏡
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丁未 晴、未刻(14時前後)に雨・酉刻(18事前後)になって晴。
将軍家(宗尊親王)の蚊觸れ(かぶれ)により今日の御鞠始めが延期となった。
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戌刻(20時前後)に彗星の変異に対応した祈祷あり。陰陽少允安倍晴宗が御所の西庭で如法泰山府君祭を催した。雑事(費用負担?)は左近大夫将監北條宗政朝臣。鞍を置いた馬一疋・裸馬一疋・銀造りの剣一腰を奉献し、他に紺の絹を納めた手箱二個・草紙の箱が御所から提供された。将軍の使者として立ち会うのは常陸前司北條時朝、将軍家も祈祷の場に出御した。
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神でもある。
天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。如法は決め事に従って正しく行なう。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月17日
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吾妻鏡
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辛亥 晴。 将軍家(宗尊親王)の体調に配慮して今日の鶴岡御参宮は延期となった。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月25日
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吾妻鏡
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己未 晴。 将軍家(宗尊親王)の若宮(後の七代将軍惟康親王・1歳9ヶ月)が御魚味。左京兆北條政村と相模守北條時宗以下の人々が出仕した。丑刻(深夜2時前後)に佐々目谷(現在の笹目町・地図)一帯が焼失した。
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   ※御魚味: 通常は百日目に行なう食い初めを差す真魚(まな)始めとも。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月29日
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吾妻鏡
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癸亥 曇または小雨。 今日、御息所(将軍正室の近衛宰子)並びに若宮(後の七代将軍惟康親王)と姫宮(前年9月21日誕生の掄子)が初めて左京兆(北條政村)の小町御亭に入御した。明日から将軍家(宗尊親王)が二所詣でに対応した精進潔斎に入るためである。
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   ※政村の小町亭: 北條執権邸(公邸)を差す。現在の宝戒寺(サイト内リンク・別窓、地図)の一帯とされているが
正確な範囲は不明。鎌倉陥落と共に滅亡した北條一族の菩提を弔うため後醍醐天皇の勅命を受けた足利尊氏が執権邸の跡地に建立したのが宝戒寺の原型。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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1月30日
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吾妻鏡
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甲子 晴。 将軍家(宗尊親王)が鶴岡八幡宮に御参宮。還御の後に二所詣での精進潔斎が始まった。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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2月某日
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史 料
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   ※日向伊東氏系図: 左衛門尉伊東八郎祐光(工藤祐経祐時-六男で嫡子の伊東祐光、信濃守)が死没。
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祐光は伊東荘の地頭として流罪になった日蓮を管理し後に帰依した人物で日向伊東氏の祖。
屋敷跡と伝わる現在の仏光寺(サイト内リンク・別窓)に墓石が残る。
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ただし寺伝では朝高、文永九年(1272)の二月騒動で北條時章を討った際の傷が元で建治元年(1275)に三浦で没したことになっている。伝承の錯綜だろうか。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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2月1日
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吾妻鏡
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乙丑 陰、雨。 夜になって泥まじりの雨が降った。
希代の怪異であり、古い記録を調べると垂仁天皇十五年丙午(西暦15年)に星が雨のように降った。第45代聖武天皇の天平十三年辛巳(西暦741年)6月戊寅の夜に洛中に飯が降った、同十四年壬午(742年)11月に陸奥国に丹雪(赤い雪)が降った。第49代光仁天皇の寶亀七年丙辰(776年)9月20日には石と瓦が雨の如く降った。同八年(777年)には日照りのため井戸が枯れた。
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これ等の変異は上古の事件ではあるが時代の災厄である。泥の雨は初めてとは言え、有り得ない事とは言えない。
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   ※垂仁天皇: 第11代天皇で在位はBC29年~AC70年、神話と伝説と史実が混在した時代である。垂仁天皇
の15年は卑弥呼の時代より200年ほど前、西暦15年に該当する。
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   ※洛中に~: 平安京を洛陽と呼び、その区域内が洛中・京都市内を差す。でも西暦741年と742年の都は奈良
から恭仁京(wiki)に遷都しているから、洛中の呼び方は不合理...まぁどうでも良いけど。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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2月5日
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吾妻鏡
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己巳 晴。 二所詣での奉幣御使(将軍の代理として派遣する奉幣使)が鎌倉を出発した。
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   ※奉幣御使: 将軍の代理として神社に奉幣する使者。ただし将軍も必要な精進潔斎を行なう。
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余談だが、治承四年(1180)の挙兵の際して神慮を得た三嶋大社を深く信仰した頼朝は三島から5kmほど南に住む七人の農民に三嶋大社例祭の際には必ず奉幣使として代参するように命じた、と伝わっている。
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在庁と呼ばれた彼らは頼朝と同じ装束で代参する役目を世襲し、奉幣に歩いたルートの一部が在庁道の名で古い下田街道の跡、間眠神社の参道に重なっている。
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       右画像をクリック→ 間眠神社の明細へ(サイト内リンク・別窓)。
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この神社は大社本殿から約2km南、流人時代の頼朝が参拝の際に昼寝した伝承から間眠(まどろみ)神社、と。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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2月9日
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吾妻鏡
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癸酉 晴。 午刻(正午前後)の二所奉幣の御使が鎌倉に戻った。
その後に御息所(将軍正室の近衛宰子)および若宮(後の七代将軍惟康親王)が左京兆北條政村亭から御所に還御、弾正少弼北條業時と中務権大輔北條教時御輿寄せに控え、その外数輩が供奉した。
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還御の際には左京兆政村が若宮に引出物を献じ、御剣は弾正少弼業時・鞍を置いた馬は左近大夫将監北條時村と伊賀左衛門次郎光清が引いた。また裸馬一疋は相模六郎政頼と伊賀左衛門三郎朝房が引いた。
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御息所には砂金と南廷(銀の延板)などを献じた。
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   ※六郎政頼: 北條時頼の子で時宗の弟とする説と、政村の子とする説の二つがあり、判然としない。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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2月10日
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吾妻鏡
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甲戌 雨、日中になって晴。 将軍家(宗尊親王)鞠の御坪(蹴鞠に使う庭)で御馬を観覧した。
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薩摩七郎左衛門尉伊東祐能・伊東刑部左衛門尉祐頼・波多野兵衛次郎定康らが騎乗し、土御門大納言顕方卿と八條三位が公卿の席に座した。一條中将能清・中御門少将公仲らの朝臣と左近大夫将監北條義政と弾正少弼北條業時以下は北の広廂に控えた。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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2月20日
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吾妻鏡
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甲申 晴。 寅刻(午前4時前後)に御所で変異に対応する祈祷があり、主殿助業昌・大学助晴長・修理亮晴秀・晴憲・大蔵権大輔泰房・晴平・大膳権亮仲光らが南庭に列座し七座の泰山府君祭を行なった。将軍家(宗尊親王)が出御し、縫殿頭中原師連がこれを奉行した。去る10日と12日に将軍家と源亜相(土御門顕方を差す、亜相は大納言の唐名)が同時に同じ夢を見た、その事件を恐れたためである。
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   ※泰山府君祭: 七座は七人。仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る
神でもある。天曹・地府を中心とした十二座の神に金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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3月2日
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史 料
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   ※北條九代記: 北條政村が従四位上に昇叙した。.

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   ※政村昇叙: 従四位下に昇ったのが寛元二年(1244)6月。来年(文永三年)3月には正四位下に昇っている。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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3月5日
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吾妻鏡
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戊戌 晴と陰、小雨。 午刻(正午前後)に雷鳴が南から北に移動、李(すもも)ほどの雹(ひょう)が降った後に晴れたが、酉刻(18時前後)に再び雷鳴が鳴数声あり、天候が落ち着かない。占いに拠れば春の雹は兵乱の予兆で穀物が実らず人民の餓死を招く、と。ただし戌巳の雷鳴は良い知らせであると宥める者もいる。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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3月6日
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吾妻鏡
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己亥 晴。 今暁に木工権頭藤原親家が内々の使者として上洛の途に就いた。
また、訴訟に関して引付衆による決裁を停止し、問注所が原告と被告の陳述書を受け取って是非を判断する事となった。訴訟内容を書類にして9人の評定衆に割り当てるため組織(番)と担当の日を整備した。
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  一番は  3日 13日 23日
     尾張入道見西(北條時章)  越前前司北條時広  宮内権大輔長井時秀
     伊賀入道道円(小田時家)   和泉入道行空(二階堂行方
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  二番は  6日 16日 26日
     越後守北條実時  中務権大輔北條教時  出羽入道道空(二階堂行義
     信濃判官入道行一(二階堂行忠)  対馬前司三善(矢野)倫長
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  三番は  10日 20日 30日
     秋田城介安達泰盛  縫殿頭中原師連   少卿入道武藤景頼  伊勢入道行願(二階堂行綱
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  他に出勤するべき日は、 一番衆(1日と15日)、二番衆(5日と21日)、三番衆(11日と25日)
  政所執事と問注所執事は毎日出仕し、また問注所からは毎日文士(奉行人か)2名を出仕させること。
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   ※裁判制度: 建長元年(1249)に北條時頼が設置した引付衆は形骸化が顕著となり決裁遅延が深刻化した。
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弘長元年(1260)3月13日の吾妻鏡に「訴人(原告)から引付衆による裁判の遅滞を嘆く声が高まり云々」の記載があり、幕府はこの苦情に対応して同20日に引付衆の改編・拡充を発表した。
これで順調に推移する筈だったが、従来の欠陥部分を払拭できず改革は不完全だったらしい。
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改革を充実させるための引付廃止と問注所拡充だったが、廃止された引付衆は文永五年(1268)に執権に就任した北條時宗が翌文永六年に復活させた。これは蒙古から届いた牒状によって組織整備の必要を感じた時宗の意思が働いていた、とされている。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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3月11日
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吾妻鏡
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甲辰 晴。 弾正少弼北條業時朝臣の室(左京兆北條政村の娘)が男子を平産した。
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   ※政村の娘: 文応元年(1260)10月15日に乱心事件を起こした娘(婚姻前)の可能性がある。もし彼女なら
当時の業時は19歳、むしろ15歳だった弟の顕時かな。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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3月13日
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吾妻鏡
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丙午 晴、夕暮れに雨。 今日、(将軍家の)姫宮の御五十日百日の儀式があった。
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また訴訟の取り扱いについて、箇条書きの定めを発表した
  一.(問注所での)評定への出仕については、事前に理由を含めて勘解由判官太田康有に報告する事。
  一.事書(決定事項)については、評定後に草案を確認して内容に相違がなければ対馬前司三善(矢野)倫長
(評定衆)に報告する事。
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   ※五十日百日: 読みは「いか・ももか」。姫宮誕生は前年9月21日、嬰児死亡率が高かった時代の発祥。
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   ※太田康有: 父の三善(太田)康連から問注所執事を継いだ兄・康宗の死没したため、弘長二年(1262)に
問注所執事に任じ、評定衆を兼任した。評定衆は(1282)12月まで・問注所執事は弘安六年(1283)6月までの共に約21年間も幕政の中心で働いている。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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3月27日
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吾妻鏡
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庚申 晴。 相模左近大夫将監北條宗政の家務(家政事務)が无行(杜撰な状態)らしい。
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   ※宗政の家務: 家政管理の杜撰説と、宗政の素行不良説がある、らしい。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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3月28日
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吾妻鏡
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辛酉。 以前から通達している鷹狩りの禁止について、改めて諸国の守護人に通達した。内容は次の通り。
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鷹狩りについて、神事に供する以外は禁止されている。また神事であっても神領以外では許されず、神領であっても神官以外は鷹狩りへの関与は許されない旨を国内に周知させよ。違反がある場合は姓名を記録して報告するように、仰せにより通達する。
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   文永三年三月二十八日    相模守北條時宗  左京権大夫 北條政村    某殿(守護人各位)
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   ※鷹狩りの禁止: 寛元三年(1245)11月10日の吾妻鏡に諏訪大社の鷹狩りについてコメントを載せてある。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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3月29日
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吾妻鏡
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壬戌 晴。 この間刑部卿宗教朝臣が蹴鞠についての勘状(意見書・上申書)を作り、将軍家(宗尊親王)が非公式に宗教を召し出して内容を見た。
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去る文応二年(1261)正月10日の御鞠始めに際して、廷尉の二階堂行有を除いた結城廣綱(朝廣の嫡子で結城氏三代当主)と足利家氏が蹴鞠に上括りで参加したため刑部卿宗教が異議を呈した。その時はどちらが正しいとは言えないとの結論に至ったが、同年8月19日の蹴鞠には廣綱が再び上括りで参加したため、古い時代の例を挙げて吉凶を指摘するために勘状を書いた、と。
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   ※上括り: 単純に袴の裾を括る位置の問題。wikiの画像を参照されたし。
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この後に第53代淳和天皇(在位: 823~833年)の時代の例から宝治元年(1247)に胡(モンゴル)が高麗王朝を江華島(wiki)に駆逐した朝鮮半島のの例まで、「上括り」で公事に関与したのが悪い結果を招いた、と主張している。要するに行有は宗教の難波流で廣綱と家氏はライバルの二條流、単なる勢力争いのためと考えられる。馬鹿々しくて詳細を記述する気にもならない。
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   ※刑部卿宗教: 北條時頼の蹴鞠の師匠として鎌倉で何回も蹴鞠の会を催した従二位の公卿・難波宗長の嫡子。
父親と同様に蹴鞠を介して定住していた可能性が高い。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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3月30日
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吾妻鏡
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癸亥 晴。 御所で当座(即席・予定外)の和歌の会が催された。
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二條左兵衛督教定(飛鳥井(二条)雅経の嫡子)・宮内卿入道禅恵(?)・遠江前司北條時直・越前前司北條時広・左馬助北條清時(時直の嫡子)・右馬助時範・周防判官嶋津忠景・若宮大僧正隆弁らが参席し、僧正は風流一脚(中国の蓬莱山を模した作り物に和歌を添えたジオラマ?)を献じた。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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4月5日
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吾妻鏡
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戊辰 晴。 将軍家(宗尊親王)に小さな瘡(できもの)が見られ、医師らが集まって治療について協議した。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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4月7日
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吾妻鏡
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庚午 朝雨、後に曇、強い南風。 将軍家(宗尊親王)の御蚊触れ(かぶれ、皮膚病)に対応して蛭吃(ヒルに悪血を吸わせる治療)を施薬院使の忠茂朝臣が申し入れたため、三嶋大社に対する憚りの有無を陰陽道に問合わせた。参宮しない場合は問題なしとの返答があり神官も同じ意見だったため、その治療を行なった。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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4月8日
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吾妻鏡
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辛未 晴。
前左兵衛督正三位の藤原朝臣教定(飛鳥井(二条)雅経の嫡子)が死没、日頃から瘡(できもの)を患っていた。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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4月15日
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吾妻鏡
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戊寅。 長門国一宮の神人らが殺害と寄せ沙汰に関与したとの詳細な報告が守護人の小早川資平から届き、処理が行われた。資平からは狼藉に関する処分の権限も求められたが守護の権限は式目に定められており、朝廷が任命した検非違使の権限は侵害できない旨を通知した。
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   ※神人: 社務の補助や雑事を処理する下級神職や神領に従属した荘民。寺院が抱えた僧兵と同様に武装して
強訴などを行なった例(春日大社など)が多い。鎌倉時代中期以後には賦役の免除特権を得るために商人などが神人として脱法行為を行なった例も多い。長門国一宮は下関市の住吉神社(wiki)、管轄・管理権は京都朝廷にあり、地頭は置かれていない。
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   ※寄せ沙汰: 当事者能力に欠ける場合や勝訴の見込みが乏しい場合に、訴訟実務を担当する官僚や有力者に
原告または被告の権利を委託(沙汰を寄せる)して勝訴を狙う脱法行為。受託(沙汰を請ける)側の腐敗にも大きな原因がある。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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4月21日
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吾妻鏡
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甲申 晴。 数十人の甲乙人(武士以外の一般庶民)らが比企谷山の麓に集まり、未刻(14時前後)から酉刻(18時前後)まで石を投げ合い(石合戦)、やがて武具を持って喧嘩となった。警護の夜回りが駆け付けて首謀者数名を拘束し、残った者は全て逃亡した。
鎌倉では未だ起きなかった事件で、京都での石合戦は狼藉の原因として前武州禅室(北條泰時)が執権の時から 固く禁止するよう六波羅に命じている。ましてや鎌倉で起きるなど、飛んでもない事だ、と。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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4月22日
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吾妻鏡
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乙酉 晴。 将軍家(宗尊親王)の病気に対応して松殿僧正を験者とし護身護持の祈祷を行なうよう命令があった。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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5月1日
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吾妻鏡
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癸巳 曇。 昨夜から黒雲が広がったため日蝕は確認できなかった。
御祈りは三位僧都範乗で祈祷は玄應、御感(感動と訳すほど強くないだろうが...)を受けた将軍家から銀作りの剣一腰と鞍を置いた馬一疋を送り届けられた。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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5月24日
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吾妻鏡
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丙辰 晴。 (将軍家の)病気に対応して、広御所で五大尊合行法が始められた。若宮大僧正隆弁が伴僧八人を従えて奉仕した。
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   ※五大尊合行法: 五大明王(不動明王・ 降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)を一つの壇に
祀って行なう行法。別々の壇で行なう場合は五壇法。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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5月25日
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吾妻鏡
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丁巳。 相模守北條時宗が御所に参上した。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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5月26日
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吾妻鏡
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戊午。 将軍家の病気について、御修法(五大尊合行法)が結願の日(七日目)に回復が見られる旨を大阿闍梨(高位の僧の尊称、隆弁を差す)が申し述べた。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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6月1日
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吾妻鏡
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壬戌 晴。 鬼宿曜(占星術の概念)により御修法が結願した。(将軍家の)病状に回復の気配があり、先日の阿闍梨隆弁の言葉が符号したな、との口遊み(独り言、軽口)があった。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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6月5日
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吾妻鏡
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丙寅 晴。 木工権頭藤原親家京都から鎌倉に戻った。仙洞(院の御所、後嵯峨上皇を差す)から中御所(将軍正室の近衛宰子に関して非公式の御諷諫(忠告)があった、と。
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   ※近衛宰子: 不義密通の噂が京都まで届いたか、それとも実際に宗尊親王に謀反の気配が見られたか。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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6月19日
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吾妻鏡
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庚辰 晴。 今暁諏訪三郎左衛門入道が飛脚として上洛の途に就いた。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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6月20日
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吾妻鏡
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辛巳 晴。 相模守北條時宗邸で極秘の協議があった。余人は入れず、相模守時宗・左京兆北條政村・越後守北條実時・秋田城介安達泰盛だけの会合である。
今日、事情があって松殿僧正良基が御所から退出し、そのまま行方不明になった。
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   ※極秘協議: 幕府の最高意思決定機関としての寄合衆の名が史料に現れた最初は正応二年(1289)5月で、
北條政村の嫡男で評定衆と一番引付頭人を兼任していた時村の就任が最初とされる。
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実際には五代執権時頼の時代から一部の重臣や得宗被官による私邸での秘密会合が再三開かれて寄合と呼ばれ、時代の経過と共に寄合が定例化され得宗専制を補佐するようになった。
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それと同時に、従来の執権政治を支えてきた評定衆の制度は形骸化することになる。
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   ※松殿僧正良基: 藤原基房の孫で定豪に師事した真言宗の僧。将軍宗尊親王の護持僧となり、親王の謀反に
加担して(非公式には将軍正室近衛宰子との不義密通が露見して)高野山に逃れ、断食の末に没した。個人的には密通の詳しい状況も知りたいところだが、記録は残っていない。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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6月23日
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吾妻鏡
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甲申 晴。 酉刻(18時前後)に御息所(将軍正室近衛宰子)と姫宮(前年9月21日に産まれた掄子女王)が突然山内殿(時宗別邸)に入御した。若宮(後の七代将軍惟康親王)は相模守北條時宗邸(執権公邸か)に入御した。
これにより御家人が(執権邸に)駆けつけ、鎌倉中が騒ぎになったが、誰もその理由を知らなかった。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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6月24日
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吾妻鏡
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乙酉 晴。 子刻(深夜0時前後)に大地震あり。 今日、左大臣法印厳恵(良基の同僚か?)遁世して姿を晦ました。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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6月26日
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吾妻鏡
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丁亥 晴。 近国の御家人が競って鎌倉に集まってきた。家から溢れ道に満ちている。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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7月1日
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吾妻鏡
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辛卯 雷雨。 御家人の中には関所を突破して鎌倉に駆けつける者や本道を迂回して密かに参上する者もあり、いずれも武器を携帯して辺鄙な民家に待機している。 酉刻(18時前後)になって突然騒動が勃発した。集結した者は小具足を付けて弓箭を携えているが、何事も起きずに日暮れを迎えた。
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   ※関所: 元弘三年(1333)に幕府と北條氏が滅亡する前哨戦となった
関戸の合戦(サイト内リンク・別窓)に「霞之関」の記載がある。
武蔵国方面から鎌倉を目指す場合の要衝ではあるが、ここが該当するか否かは不明。
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右画像は関戸の熊野神社参道の霞之関の柱杭(レプリカ)。
画像をクリック→ 多摩・関戸の合戦(サイト内リンク・別窓)へ。
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   ※小具足: 籠手・脛当てなど、甲冑に付属する軽量の部分的防具。
更に鎧と兜を付ければ完全な防具になる。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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7月3日
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吾妻鏡
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癸巳 晴。 明け方に木星が五諸喉・第三星(?)の軌道を犯した。
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今暁から世間が落ち着きを見せず、戦火を恐れて家屋を壊したり資財を運び隠す者が頻発している。
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巳一点(朝9時過ぎ)に甲冑に身を固めた武士らが旗を揚げて東西から駆け付けて相模守北條時宗邸の門外に集結した。続いて政所の南大路で鬨の声を挙げ、その後に少卿入道心蓮(武藤景頼)と信濃判官入道行一(二階堂行忠)が相州時宗の使者として御所に入り、時宗邸と御所を三回も往復した。
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このような情勢の場合は将軍家が軍勢の動きを避けて執権邸に入御し然るべき人々が警護に任じるのが通例なのだが、今回はその動きが見られず、人々はこれを訝しく思った。
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やがて老若近臣の多くが御所を離れ、御所に残るのは周防判官嶋津忠景・信濃三郎左衛門尉二階堂行章・伊東刑部左衛門尉祐頼・鎌田次郎左衛門尉行俊・渋谷左衛門次郎清重らだけになった。
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   ※時宗邸: この場合は執権公邸だろう。御所との距離は最大でも200m程度。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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7月4日
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吾妻鏡
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甲午 晴、申刻(16時前後)から雨。 今日午刻(正午前後)に騒動あり。中務権大輔北條教時朝臣が甲冑の軍兵数十騎を伴って薬師堂谷の屋敷から塔の辻の宿所に進出、この行動によって周辺の緊張が更に高まった。
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相州(時宗)は東郷八郎入道を派遣して中書(中務権大輔の唐名)の軽率な行動と行粧(いでたち、装備)を戒め、教時は弁解もできず深く陳謝して引き下がった。
戌刻(20時前後)に将軍家(宗尊親王)が女房輿で越後入道勝円(北條時盛)の佐介邸に入御した。
これは(将軍を解任されて)京都への送還を前提とした措置である。
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  供奉人
     土御門大納言顕方卿  同、中将  同、少将  木工権頭藤原親家  同、子息左衛門大夫景教
同、兵衛蔵人長教
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  女房    一條局(追参)  別当局  兵衛督局  尼右衛門督局
  この他に  相模七郎宗頼北條 宗頼(宗顕)  太宰権少貳武藤景頼
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経路は御所北門から出御して赤橋を西へ、武蔵大路を経由した。赤橋の前で御輿を若宮の方向に向けて暫く祈りを捧げ、和歌を詠んだ。 右画像は北門から北條時盛邸までの記載ルート、約2km(クリック→ 拡大表示)。
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  供奉人
     相模七郎宗頼  相模六郎政頼  遠江前司北條時直
     越前前司北條時広  弾正少弼北條業時
駿河式部大夫通時(北條有時の五男)
尾張四郎篤時(北條時章の三男)  越後六郎北條實政
周防判官嶋津忠景  城弥九郎長景(義景の七男、泰盛の弟)
壱岐入道生西(佐々木泰綱
河越遠江権守経重(重頼-重時-泰重-経重)  小山四郎
和泉左衛門尉二階堂行章  伊東刑部左衛門尉祐頼
和泉籐内左衛門尉(行章の弟?)  武藤新左衛門尉景泰
甲斐三郎左衛門尉為成  出羽七郎左衛門尉
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  この他に
     土御門大納言顕方卿  同、中将  同、少将  木工権頭藤原親家  同、子息左衛門大夫景教
同、兵衛蔵人長教
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  女房   一條局  別当局  右衛門督局  民部卿局  小宰相局  侍従局  越後  加賀  但馬  春日
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   ※北條教時: 名越流北條氏の伝統として反得宗意識が強く、文永九年(1272)の二月騒動で兄時章北條時輔
らと共に時宗によって討伐される。謀反を企てた嫌疑に因る追討とする説が大半だが、実質的には一族内の異質な勢力を排除する単純な粛清だろう。今回の行動に軽率さは見られるが、むしろ時宗の冷静な対処を強調する吾妻鏡編纂者の北條得宗贔屓に留意したい。
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   ※御所北門: 江戸時代で言う不浄門。屋敷の鬼門(北東)にあり死人・罪人の出口とされる。
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   ※六郎政頼: 同名の人物は二人。一人は時頼の五男で七郎宗頼の兄だから序列が宗頼の下は有り得ない。
もう一人は北條政村の三男で政長の弟だから14歳前後、多分こちらだろう。
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   ※小山四郎: 三代当主の四郎朝長は寛喜元年(1229)に没している。嫡子で四代当主の五郎長村の間違い
じゃないかと思うが...。
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   ※武藤景泰: 景頼の嫡子。後に引付衆となり、霜月騒動で死没。
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   ※保暦間記は: 征夷将軍の上洛は良基僧正の件によるもの。 と書いている
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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7月20日
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吾妻鏡
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庚戌 晴。 戌刻(20時前後)に前の将軍家宗尊親王)が御入洛し(六波羅北方の)左近大夫将監北條時茂朝臣の六波羅邸に入った。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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7月24日
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史 料
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   ※北條九代記: 惟康親王が従四位下に叙され、同日征夷大将軍に叙任された。
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   ※五代帝王物語: 関白近衛兼経の娘が産んだ三歳の宮(御名は惟康)が7月24日に将軍宣下を受けた。
間もなく従四位下に叙任し、左少弁経任(中御門大納言)が使節として関東に下向した。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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10月
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史 料
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   ※続史愚抄: 前将軍宗尊親王が六波羅北方の左近将監北條時茂邸から土御門万里小路(wiki)邸(承明門院
後鳥羽上皇の後宮源在子)の旧邸)に移った。去る7月に(父親の 後嵯峨上皇との)御義絶の儀があり、その後に密かに御対面された。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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11月2日
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史 料
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   ※北條九代記: 中御所(近衛宰子)と姫宮(掄子女王)が御上洛、良基僧正は逐電し高野山で断食して死没。.

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   ※良基僧正: 弘長三年(1263)11月8日に北條時頼の病気平癒を祈り、千手観音像の開眼供養の導師として
伴僧十二人による千手陀羅尼の読誦を行なった記録がある。都では近衛宰子と夫婦になって仲睦まじく暮らしたとの噂もあったらしい。宰子の没年は不詳。
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   ※宗尊親王: 続拾遺和歌集に載る宗尊親王の和歌。
思ふにも よらぬ命の つれなさは 猶ながらへて 恋ひやわたらむ
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報われぬ思いの切なさよ それでもなお 想いを続けるのだろうけれど、  ほどの意味か。
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鎌倉で宰子と暮らしていた頃、宰子の密通を知らなかった頃の歌かと考えると、他人事ながら何ともやりきれぬ思いが残るね。男の女の間には暗くて深い河がある...
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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11月 日
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史 料
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   ※モンゴル帝国: 正元元年(1259)に高麗を征服し、翌年第五代皇帝に即位したクビライは日本国との接点を
求めて第一回使節団を派遣した。高麗に入った使節団は高麗王・元宗に仲介を命じたが、高麗は侵攻に伴う軍事費の負担を恐れて半島南端の巨済島(地図)まで案内して荒れた海を見せて航海の危険と日本人の非友好的な気質を説明して渡航の中止を訴えた。
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モンゴルの使節団はこれを受けて高麗の官吏を連れてクビライの元に帰国したが、クビライは高麗王に「万難を排して国書を届けよ」と命じており、更に絶対服従を誓っていた高麗王が渡航を妨げた事に怒って高麗王の責任で施設を派遣し返書を持ち帰るよう厳命した。
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二年後の文永五年(1268)1月、高麗による第二回使節団が大宰府に到着する。
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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2017年
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7月15日
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独言
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やっと吾妻鏡が終了、実質三年ぐらい費やしたのかなぁ...とりあえず少し気分転換しようっと!
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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 月 日
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史 料
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記事
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西暦‬1266年
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90代亀山天皇
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文永三年
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史 料
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記事
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