城助職軍 対 木曽義仲軍 横田河原の合戦 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 弐」 の記載ヶ所へ      「索引」 へ   当サイト 「旅と犬と史跡巡りと」 トップへ 

 
   右:千曲川横田河原の合戦・地形図   画像をクリック→拡大表示
.
養和元年(1181)6月、出陣直後に病死した兄 城資永の跡を継いだ 助職(長茂) は公称10,000騎の大軍を率いて千曲川の「雨宮の渡し」北岸の横田城に陣を構えた。木曽義仲軍3000余騎は千曲川の南岸に布陣し、6月13日に横田河原(北の犀川と南の千曲川に挟まれた三角州)で激突する。雨宮の渡し旧跡
.
圧倒的な戦力の城軍だったが、赤旗を掲げて平家軍を装った井上光盛勢が妻女山から東へ迂回して背後を衝き、平家物語に拠れば「戦死と逃亡により9000余騎を失った」城軍は惨敗した。傷を負った助職はわずか数百騎に守られて越後に逃げ帰ったと伝わる。雨宮の渡しの 旧跡地図図像(共に別窓)を参考に。
.
雨宮の渡し付近は駐車場所に不自由しないが、横田城址(といっても辛うじて土塁が見られる程度だが)周辺は住宅密集地で路駐する場所も見付からない。最も確実なのは公共交通機関を利用するか、やむを得ず車の場合は隣接する 篠ノ井総合病院(公式サイト)の駐車場を利用すると良い。外部利用者は有料(1時間まで100円、以後1時間ごとに200円)、病可毛羽神社までは直線で350m、城址の外側を周回すると約1kmだから土塁などの遺構を全て廻っても1km前後、1時間程度で間に合うはずだ。
.
380年後に信玄と謙信が戦った川中島古戦場を見学するには約6km北東の 八幡原史跡公園(観光案内サイト)で。こちらは無料駐車場を完備している。


     

        左: 千曲川横田河原の合戦場周辺の地図。当時の千曲川は800mほど南を流れており、横田城から押し出してきた城軍と雨宮の渡しで渡河した義仲軍が
戦火を交えたのは現在の流れの北側辺りと想像される。井上光盛が城軍の背後を攻めるために迂回した妻女山(甲陽軍鑑では西條山)は信玄vs謙信
の川中島合戦でも重要な拠点として登場している。上杉謙信はここに本陣を置いて信玄との決戦に備えた。
.
        中: 城助職の軍勢が決戦に備えて陣容を整えた横田城の遺構地図。東西250m弱×南北180mは周囲に壕を巡らした典型的な環濠集落で、内側には
多くの水路が走っている。北西の古殿稲荷社周辺には現在も高さ2〜3mの土塁が残り、昭和初期までは社の北側に巾8mもの壕が残っていた。
西南端の可毛羽神社には「横田城燈」と彫った巨大な石灯籠があり、その南には「馬出」、東の地蔵堂付近には「土居沢」の古い地名が残る。
城の主郭は東側の宮内にあり、こちらは殿屋敷の字名だったと伝わる。
.
ただし平安末期と戦国時代の遺構区分が不明確で、最も激戦だった永禄四年(1561)の第四次川中島合戦(八幡原の合戦)で信玄の危機を救った
原大隅守虎吉が勲功によって横田城主に任じた頃の遺構が大部分なのだろう。次回訪問の際には全ての撮影を済ませたい。
.
         唯一確認できる遺構とも言える横田城跡北側の古殿稲荷社。土塁と石積みの痕跡がある。

この頁は2019年 6月18日に更新しました。