政子の供養墓が残る大町の安養院 

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    右:名越から大町四つ角を目指す。花季の混雑は凄まじい。  画像をクリック→拡大表示
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鎌倉駅周辺の中心街の南東、頼朝 が愛妾を呼び寄せた事で知られる小坪の近くを通って逗子・葉山へ続く県道311号沿い(古東海道ルート)、段葛から500mほど東側に建っている(地図)。比企一族が滅亡した妙本寺(別窓)のある祇園山丘陵の最南端に位置する。5km南東には鎌倉七つ口の一つ 名越の切り通しがあり、宝治合戦(宝治元年、1247年6月)で三浦一族が滅びるまで、北條一族にとって鎌倉を守る重要な防衛ラインだった。
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安養院は坂東三十三札所の第三番で宗旨は浄土宗、鎌倉でも有数の「つつじの寺」として知られ、5月連休の前後はラッシュアワー並みに混雑する。正面の観音堂は昭和三年(1928)の建立で本尊は阿弥陀如来、他に十一面千手観世音菩薩と四体の観音像(馬頭観音・准胝観音・不空羂索観音・聖観音)を祀っている。拝観は8〜16時半、拝観料は鎌倉の社寺としては異例に安い100円、もちろん参拝者用の駐車場は備えていない。
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見逃せないのは、本堂の裏手にある大小二基の宝篋印塔である。小さい宝篋印塔は室町時代建造の 北條政子 供養塔で、没年の嘉禄元年(1225)銘と「二位政子御法号安養院殿如実妙観大禅定尼」が彫られている。ただし元々無地だった石面に追刻した銘で、政子と直接の関係はない。
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大きい宝篋印塔は国の重文で鎌倉時代末期の徳治三年(1308)作、建造年の銘を持つ関東様式では最古の宝篋印塔(高さ335cm)、浄土宗名越派の開祖 尊観上人の墓である。ただし尊観は正和五年(1316)没とされているから存命中の建造か、「尊観」の文字が不明確な事から乾元二年(1303)に没した 忍性 の供養墓と考える説もある。
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建造に任じた石工は(追刻に拠れば)沙弥心阿、指導者の忍性に従って東国に入り多くの造塔と建設事業に尽力した技術者集団の指導者である。
忍性を含む彼らの業績については 箱根精進池の石仏群三村山清冷院極楽廃寺極楽寺坂の合戦(いずれも別窓)で紹介してある。
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  ※尊観上人: 暦仁ニ年(1239)〜正和五年(1316)の浄土宗の僧。二代執権 北條義時 の二男 朝時(母は 比企朝宗 の娘)の子と推定する説もあるが
史料では確認できず、「名越流北條氏の支持を得て布教した」ほどの関係だったと思われる。尊観は光明寺の三世 良忠(浄土宗の高僧)の弟子となり、名越に善導寺を建立して名越流念仏宗を広めた。善導寺は鎌倉陥落の兵火で焼失して廃寺となり、延宝八年(1680)に笹目谷(現在の御成中学校西側、地図)の長楽寺が焼失した際に焼け残った資材を集めて善導寺跡地に建てたのが現在の安養院である。

     

        左&中: 「ツツジの寺」安養院の山門。決して広くはない寺域には全部で500株を越す植え込みがあり、5月の連休の混雑はかなり激しい。
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        右: 元々は頼朝の菩提を弔って笹目ヶ谷)に建てた祇園山長楽寺をここに移した。更に長楽寺も延宝八年(1680年)に焼失したため
田代信綱が建立した田代寺(比企ヶ谷)の観音堂を併せて移設、数度の再建を経て現在に至っている。


     

        左: 左は北條政子慰霊の宝篋印塔で鎌倉幕府滅亡後の室町時代作と伝わる。右は最も古い関東様式の宝篋印塔で銘は徳治三年(1308)。
浄土宗名越派開祖・尊観上人の墓であり、追刻によれば造塔は忍性の率いた石工の心阿である。
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        中: 本尊は観音堂に祀られている阿弥陀如来像。素性は不明だが、それほど古い作風には見えない。
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        右: 本尊光背の後には田代寺本尊の田代信綱奉納の千手観音像を収蔵する。伊豆国司の下級官吏(掾または目)だった信綱の父 藤原為綱が
任期を終えて京へ戻る際に祖父の狩野信光は同行を許さず、信綱は為綱が与えた千手観音像を護持仏とした。源平合戦などの転戦後に
修善寺の田代地区に建てた叢林寺観音堂(地図)の本尊に祀った像が転々とした後に安養院の本尊となったらしい。

この頁は2019年 11月 1日に更新しました。