本尊は「触れ不動」、脇屋義助の菩提を弔った呑嶺山明王院安養寺 

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明王院寺伝に拠れば、康平四年(1061)に後冷泉天皇の勅命を受けた 源頼義 が開基となり、南都 興福寺(公式サイト)から招いた頼空上人を開山と
して創建。平安時代末期に 新田義重 が中興し、更に元弘三年(1333)に倒幕に成功した新田義貞後醍醐天皇 の勅命を受け七堂伽藍十二坊を
整備して再興を果たした。
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明王院の参道正面に建つ二天門は左に持国天像、右に多聞天像を納めている。これは昔日の中門であり、大門は遥か南と伝わってるが既に痕跡は
不明。現在の上武道路を越えた更に南の早川に沿って東西に走る旧道の辺りか。
江戸期の絵図には二間巾(3.6m)の堀が囲む百余間(200m)四方の境内と十二坊の跡が描かれ、近隣では抜きん出た規模の寺院だった。
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二天門の正面に建つ現在の不動堂は宝永二年(1705)の建造で、新田一族の守り本尊である二体の不動明王像を厨子の中に納めている。
一体は高さ5.5cmの白金製で「新田の触れ不動」の呼び名で知られ、挙兵の際には山伏に姿を変えて越後まで飛び回り、新田の縁に繋がる支族に
義貞の挙兵を触れ歩いた、義貞挙兵を象徴する像。もう一体は高さ約76cmの御影不動明王木像で、新田義重(八幡太郎義家 の孫、源義国 の長男)
が楯に座して軍勢を指揮する姿を写している。通常の不動明王と違って背後に火炎を負わず、義重像が一夜のうちに不動明王像に変身したことから
御影不動と呼ばれた。両像とも絶対秘仏であり、拝観はできない。
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義重は父の義国と共に開拓して立荘した新田荘を更に拡張して一族の祖となった人物。明王院の本尊は絹本彩色の倶利伽藍不動明王像(絹本彩色)
であり、触れ不動と御影不動を併せた三体が新田氏相伝の守り本尊とされている。


     

        左: 参道入口から山門を。脇屋町の義助館跡から8km南西、近くを太田市街をバイパスする上武道路が走る。車の便は良いが環境は余り良くない。
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        中&右: 参道突き当たりの二天門。古刹の山門らしからぬ姿だがこれは昔の中門で、山門は更に南にあって既に失われたという。


       

        左2枚: 二天門の左に立つ持国天像(四天王の一人で東を守る)と右の多聞天像(毘沙門天とも。北東(鬼門)を守る)。制作年代は判らない。
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        中: 新田氏相伝の守り本尊二像を祀る不動堂は宝永二年(1705)建造。厨子に約6cmの白金製「触れ不動」と76cmの木製「御影不動」を
祀る。本尊は絹本彩色の倶利伽藍不動明王像、こちらは本堂に祀られている。共に開帳されることのない絶対秘仏である。
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        右: 参考までに、京都 大覚寺(公式サイト)の中尊不動明王像を。明円作の重要文化財、木造・彩色 で高さ51.5cm。
明円は平安末期から鎌倉初期に活躍した円派の仏師で大仏師定朝の系。平重衡 の焼き討ちで焼失した興福寺金堂の造像などを受け持ち、
京都を中心に優美な作風を主として活躍した。不動明王は密教の本尊・大日如来の化身、恐ろしい形相で仏法に逆らう者を諭し、従わない者は
右手の剣(倶利伽羅剣)・左手の綱(羂索)で脅し縛り上げても正しい教えに戻す役目を果す。
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        ※円派: 大仏師定朝の優雅な作風を継承し主に京で活躍した仏師グループ。武士の興隆と共に写実的な作風の慶派(祖は運慶の父康慶)が人気を
集め、特に東国と奥州で造仏の主流となった。明円以後の円派は衰退している。
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        ※南都焼討: 源氏の挙兵を受けた奈良の興福寺・東大寺の僧兵が平氏政権に対して反抗的な態度を続けたため、治承四年(1180)12月末に
平重衡 率いる平家軍が侵攻、兵火により興福寺堂塔の全てと東大寺の大部分が焼失し多数の死者を出した。
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清盛 の命令、重衡の独断、意図的な放火、単純な失火など諸説あるが真実は判らない。平家滅亡により重衡は捕虜として鎌倉に連行
され誇り高い態度を貫いたが、頼朝 は興福寺の強硬な申し入れに屈して身柄を引き渡し、重衡は奈良街道で衆徒に斬首された。
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        右: 不動堂の裏手、台座・光背を含め安山岩の一石で彫られた薬師如来像。南北朝時代中期(1360年前後か)の作で、かつて明王院十二坊の
一つだった薬師坊の本尊と推定される。西の農地に建つ小堂に祀られていたが区画整理に伴って安養寺に遷された。


       

        左4枚: 昭和八年に境内から出土した義助を弔う秩父青石の板碑。康永元年壬午六月五日生年四十二逝去とあり、正確な制作年代は不明。
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太田市指定文化財 源(脇屋)義助の板碑と拓本   以下、太田市教育委員会による解説   昭和五十二年三月
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呑嶺山明王院安養寺は真言宗の古刹で、新田氏の祖・義重以来の氏寺だったと考えられている。「太平記」によれば、元弘三年(1333)の
新田義貞鎌倉攻めの時、この寺の不動明王が越後一帯の新田一族に義貞旗挙げの知らせを一夜にして触れ回ったといわれる。
そのため「新田の触れ不動」として知られている。源義助は新田義貞の弟で脇屋(太田市脇屋)に館をかまえて脇屋次郎義助と称した。
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義助は義貞と共に鎌倉幕府を滅ぼし、京都に上って建武の新政を助け、武者所に列して駿河守となる。延元三年(1338)の義貞戦死後は
新田一族を率いて南朝方に尽くし刑部卿に任じられた。その後に四国と九州方面の兵を統率して奮戦したが、康永元年(1342年、南朝年号
の興国三年)に伊予国府で病没した。この板碑は義助の菩提を弔うために新田氏所縁のこの寺に建てられたものと判断できる。
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この板碑は昭和八年1月28日に明王院境内の樫の大木の下から出土したものである。緑泥片岩(秩父青石)の武蔵形板碑で高さ119cm×
巾35cm、上部に蓮華座と弥陀の種子キリークを彫刻し、その下方に梵字光明真言と次の銘文が刻まれている。(○は梵字)
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        ○○○○○○ 前刑部卿
        ○○○○○○  源義助
            康永元年 六月五日
        ○○○○○○ 生年四十二
        ○○○○○○     逝去
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        右: 不動堂の裏手には古色蒼然とした五輪塔や石造物が残る。いずれも鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての遺物と推定されている。


     

        左: 不動堂の裏手には古色蒼然とした五輪塔や石造物が残る。いずれも鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての遺物と推定されている。
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        中&右: 江戸期に流行した不動尊信仰に基づき小川宇兵衛重政なる人物が江戸の石工・和泉屋治良右衛門に造らせたピラミッド型の千体不動尊。
延享四年(1747)の建立で材質は伊豆小松石、底辺7.2m四方で高さは約6m。代金は85両だったと記録されている。
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小松石は伊豆半島の付け根・真鶴近辺で産出する高品質の安山岩。真鶴の 瀧門寺 や湯河原の土肥氏菩提寺 城願寺(共に別窓)でも
豊富に使われている。

この頁は2019年 11月19日に更新しました。