平貞能隠棲の地 益子の安善寺  

 
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平貞能 は康治元年(1142・推定)〜文暦元年(1234・伝承)を生きた平家の武者。平清盛 の忠臣として「平家一ノ郎等」(愚管抄)と称された家貞の二男である。兄の家継は寿永二年(1183)7月の平家都落ちに同行せず本領の伊勢に下り、元暦元年(1184年)7月に平信兼(山木判官兼隆 の父)らと三日平氏の乱で決起している。玉葉に拠れば、二人の父・家貞は寿永三年(1184)3月の一ノ谷合戦以前に死没したらしい。家貞・家継・貞能の親子三人は栄華の時代と動乱の時代を通して清盛と 重盛 の二代に仕えた、平家にとって無二の忠臣だった。
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源平合戦時代の貞能は治承四年(1180)11月に近江で反平家の兵を挙げた山本義経を討伐、翌養和元年(1181)には九州の治安が乱れ肥後の豪族・菊池隆直が大宰府を襲ったため、その鎮圧に派遣された。苦闘の末に乱を平定して寿永二年(1183)6月に京に戻った直後には 義仲 の大攻勢に遭遇、貞能らは都での決戦を主張するが、清盛の跡を継いだ 宗盛 は義仲入京前の都落ちを決めた。侍大将クラスの武者が多勢残っていた平家が決戦を選んだら違う歴史を辿った可能性もあったが...寿永三年(1184)2月には奇襲に近い一ノ谷合戦で戦力の大部分を失なってしまう。
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貞能は 後白河法皇 の命令を受けた資盛に従って宇治田原の防衛に出陣、25日に戻った時には平家一門は既に都を捨てて西海に逃げ去っていた。平家物語に拠れば、平家の醜態を嘆いた貞盛は敵に蹂躙されぬよう重盛の遺骨を掘り起こして高野山へ送り、周辺の土を鴨川に流してから一門の後を追った。その後も九州で転戦して平家の再興を図ったが、豊後の有力武士である 緒方惟栄 の寝返りなどで戦意を失い、ついに出家して戦線を離脱した。
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      石橋山合戦(1180年9月).....頼朝vs大場景親 頼朝勢の惨敗。
      富士川合戦(1180年11月)....頼朝・武田信義vs平惟盛 平家軍の敗走。
      墨俣川合戦(1181年4月).....行家・義円連合軍vs平重衡 行家軍の惨敗。
      倶利伽羅峠合戦(1183年6月)..義仲vs平惟盛・行盛 平家軍が壊滅。
      平家都落ち(1183年7月).....木曽義仲入京。平家一門は福原を経て太宰府へ、更に地元の緒方維義軍に追われ屋島に落ち着く。
      水島合戦(1183年11月) .....義仲勢の足利義清・海野幸広vs平重衡・通盛  勝利した平家軍は福原まで進んで入京を窺う。
      粟津合戦(1184年3月) ......義仲vs一條忠頼ら。 義仲戦死、義仲勢壊滅。
      一ノ谷合戦(1184年3月) .....範頼・義経軍vs宗盛・知盛軍 惨敗し指揮官クラスの多数を失った平家軍は屋島へ撤退。
      三日平氏の乱(1184年7月)...平信兼・平家継軍vs大内惟義・佐々木秀義軍 激戦の末に鎮圧。
      屋島合戦(1184年3月) ......義経軍vs宗盛・知盛軍  敗北した平家一門は厳島神社を経て長門国彦島へ。
      壇ノ浦合戦(1185年3月) .....平家一門が滅亡。

右:芳賀富士の南麓、平貞能の遺骨が眠る安善寺 鳥瞰   画像をクリック→拡大表示
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そして、平家が滅亡した三ヶ月後の文治元年(1185)6月、平貞能は 宇都宮朝綱 を頼って鎌倉に出頭した。かつて朝綱らが平家に仕えて京にいた時に 頼朝 挙兵の報を聞いて関東に帰ろうとした彼らの便宜を図った経緯があり、朝綱は「もし貞能が叛いたら我が一族の子孫を殺して下さい」と願って許された、、と伝わる。北関東の各所に重盛の供養塔が点在するのは貞能あるいは籘姓足利氏らによる供養の一環であり、滅亡した後までも主家を裏切ろうとしなかった誇り高い武士の生き様の痕跡でもある。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 7月7日 】  貞能が出頭
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前筑後守の平貞能は平家の一族で、故清盛入道腹心の郎党である。平家一門が西海で滅びる前に行方不明となっていたが突然宇都宮朝綱の元に出頭した。一門の運命が尽きるのを知って出家し滅亡の難を避けた。今は鎌倉の許しを得て静かに暮らしたいと願っている、と。
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朝綱がその旨を申し出ると 頼朝 は「彼は平家屈指の家人であり、その申し出には疑いもある」と不機嫌な態度を示して許す気配を見せなかった。朝綱は更に申し出て「平家に従って在京していた時に挙兵の情報を聞き、加わろうと思いましたが 宗盛 が許しませんでした。その際に貞能が説得してくれたため、朝綱は 畠山重能小山田有重 と共に頼朝旗下に加わり、平家を滅ぼす事ができました。これは私の問題だけでなく源家にとっての功績でもあります。もし彼が反逆を企てたら私の子孫を絶っても結構です。」と願った。今日この件が許され、貞能の身柄は朝綱に預けられた。
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平家物語には更に劇的な展開が書かれている。(以下、概略)
 
手勢の30騎ほどを率いて都に戻った。西八条にある屋敷の焼け跡で野営して後続の平家軍勢を待ったが、誰一人引き帰してはこなかった。翌朝になって貞能は主人だった亡き重盛の墓所へ走り、遺骨を掘り起こして周辺の土を賀茂川に流し、遺骨を高野山に納めてから東国に落ちた。
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寿永三年(1184)、貞能は 重盛 の念持仏・釈迦如来立像(1.2m)を背負い重盛の妹・妙雲禅尼を伴って宇都宮朝綱を訪ねて保護を求めた。東国武士の朝綱は平家都落ちの際に拘束され斬られる筈だったが知盛に助命された経緯があり、その時に尽力したのが貞能である、と。
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栃木〜茨城の伝承に拠れば...貞能は重盛の叔母妙雲禅尼と重盛の妻得律禅尼を伴い、朝綱の家臣である塩原家忠の配慮を受けて草庵を結び定住した。建久五年(1194)に妙雲禅尼が没すると甘露山妙雲寺(那須塩原市塩原665・地図)に九重塔を建てて弔い、重盛の念持仏を納めて供養した後に塩原を離れ、ここ大平山に鶏足山安善寺(益子町大平202・地図)を開いた。さらに重盛の遺骨(の一部)を30km東の茨城県城里町の 普明院小松寺(別窓、地図)に埋葬した。ここには重盛の墓標とされる宝筺印塔と、その傍らには得律禅尼の墓が残っている。
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貞能はその後も重盛夫妻の供養を続け、文暦元年(1234)に92才で没した。遺骸は安善寺境内の地蔵堂床下に葬られた、或いは墓の上に地蔵堂を建てたと伝わっており、寺の本堂には安善院室中大岩居士の位牌が保存されている。
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以前は安善寺の公式サイトで本堂内部や本尊の画像が閲覧できたが、既に消滅してしまった。ここは栃木百名山の一つ芳賀富士(大平山・272m)の南麓でハイキングコースの基点でもある。


     

        左: 安善寺に続く砂利道(車の通行可)から見事な枝垂れ桜の咲く遠景を。背景に続くのが栃木百名山の一つ芳賀富士(大平山・272m)。
        中: 山門はないが、参道の両側には立派な石柱が建てられている。寺域の右側に20台ほど停められる駐車場が設けられている。
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        右: 享保十五年(1730)棟板が残る五間四面の本堂はこの地の地頭河原小藤治光直の協力を得て建立、創建当初からの浄土宗である。
斗拱(柱上の組み物)、欄間、須弥檀は江戸時代中期の特徴を表しており、廊下は県内で栃木県内では唯一残っているウグイス張り。


     

        左: 本堂に架かる鶏足山の扁額。流石に300年を経た建物は老朽化が著しい。7km南東に、これも栃木百名山の鶏足山(431m)があるが
安善寺との関係は不明。鶏足はもちろん中華料理のもみじ(鶏の足)ではなく(笑)、古代インド仏教で釈迦の弟子が入寂した地を差す。
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        中&右: 本堂の左に向かい合う地蔵堂。文暦元年(1234)に没した貞能の遺骨はここに葬られ、その上に地蔵堂が建てられたのだろう。
本堂と同様に老朽化が進んでおり、多少の廃材などが床下に放置されているのが気にかかる。

この頁は2019年 8月18日に更新しました。