頼朝挙兵を側面から支えた渋谷重国の本領 

 
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重国 の嫡子(二男)高重 は引き続いてこの地を支配し渋谷(または早川)二郎を名乗ったが、建暦三年(1213)に勃発した和田の乱で 和田義盛 に味方し一族滅亡に近い打撃を受けた。その後の宝治元年(1247)に勃発した宝治合戦では高重の長男光重が北條氏に味方し三浦一族と戦って復権、一部を渋谷早川に残して新たに得た薩摩の所領に移り土着している。薩摩の東郷を領有した實重の子孫から東郷平八郎が出ているため、公園の中には顕彰碑が建てられている。
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【吾妻鏡 建暦三年(1213) 5月2日】  義盛の挙兵
途中略す〜 申の刻(早暁4時前後)に和田義盛が与党を率いて将軍御所(大倉)を襲った。(与する人々の姓名が続き)、渋谷次郎高重(横山権守時重の婿)の名前が載っている。
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  ※横山時重:現在の相模原南部から八王子一帯を支配した横山党の棟梁。娘の一人は和田義盛に嫁し、弟の一人は愛甲に入って三郎季隆を名乗った。
彼が二俣川合戦で畠山重忠を射取ったった弓の名手 愛甲三郎、渋谷高重も横山党の一員として和田義盛軍に加わったのだろう。
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【吾妻鏡 同年 5月6日】  戦闘が終結し戦死者の中に高重の名がある。
二日と三日の合戦で討たれた渋谷の人々人々...渋谷(先三・意味不明)次郎、同三郎、同五郎、同小次郎、同子三郎、小山四郎、同太郎、同次郎。

     

        上: 城跡は目久尻川北東の広い台地に築かれており、全体に起伏が多くて変化に富んでいる。各所に残る土塁や空壕の痕跡は大庭城址を連想
させるが、公園としての整備が整い過ぎて遺跡を見学する面白味には乏しい。平安末期には現在の公園周辺までを含む広いエリアが荘園の
中心部だったと伝わっている。城址についての詳細説明が 綾瀬市のサイト(pdfファイル)に載っている。

この頁は2019年 7月 14日に更新しました。