授福廃寺の跡 文覚上人所縁の毘沙門堂 

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何でこんな場所に大きな寺を建てたのかと思うほど、ここもまた山の中である。手前の国清寺に車を停めて歩くのも悪くないけれど、人家の全くない登り坂が約1.5kmも続くのを念頭に置く必要がある。毘沙門堂のすぐ下までは車で入れるから濡れた路面や対向車にさえ注意すれば問題ないが、せめて一の鳥居前から300mほどの参道をゆっくりと歩くのを薦めたい。この途中には良く知られた 文覚上人の護摩石もあるし(実はここが瑞龍山授福廃寺の跡)、平安時代から変らず残っている石畳を歩いて昔人の過ごした時の流れを共有するような気持ちに浸るのも悪くない。
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平家物語に拠れば、文覚の前身は北面の武士(上皇に仕える警護職)遠藤盛遠。同じ渡辺党の武士で同僚である渡辺亘の妻に横恋慕した挙句に、自ら夫の身代わりに出向いた妻を斬り殺して逐電、出家したという壮烈な過去を持つ。その後は荒廃した京都の 高尾山神護寺(公式サイト・有名な頼朝像を所蔵)の再建に尽力し、その勧進を後白河法皇に対して強引に迫ったため勅勘を受け伊豆に流されたという...桁外れにムチャクチャな人物である。
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平家物語では伊豆流人時代の 頼朝に接近して挙兵を勧める大きな役どころを担っているが、実際にどの程度の接点を持っていたのか判然としない。愚管抄「頼朝とは伊豆で4年間馴れ親しんだ人物」と書いているから存在価値はそれなりに高かったらしい。幕府の樹立後は義朝の遺骨を京から持ち帰ったことなどが吾妻鏡にも記載されているが、頼朝没後は庇護者を失って失脚し朝廷によって佐渡や隠岐へ流され、最期は鎮西(九州)で没した。鎌倉の 大倉御所跡 から勝長寿院(南御堂・別窓)跡に向って滑川の大御堂橋を渡った右手が館の跡、と伝わっている(地図)。
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  ※渡辺党: 五十二代嵯峨天皇の子孫で光源氏のモデルとなった源融も始祖の一人。淀川河口付近を本拠にした摂津源氏で、頼政家臣として活躍した。
  ※愚管抄: 承久二年(1220)頃に成立した史論書で著者は摂関家(公家の頂点で藤原氏の嫡流五家を差す)の一族である天台宗の 慈円(天台座主)


     

        左: 正面奥が毘沙門堂のある谷。舗装道路の突き当りが国清寺、その左方向が畑毛温泉郷、撮影場所の右手に頼朝挙兵の際に 平兼隆と同様に
討ち取られた後見の堤信遠館跡(推定)がある。
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        中: 毘沙門堂へと続く道の途中に残る伝・文覚上人の住居跡。この地に流されたのではなく、かなり自由に伊豆各地を歩いていたらしい。
        右: 文覚の伊豆流罪は承安三年(1173)で恩赦されたのが治承二年(1178)。その後の寿永元年(1182)まで頼朝の近くにいた、らしい。


     

文覚の住居跡から毘沙門堂の300m北東の山中まで、七つ石と呼ばれる巨石が点在している。それぞれに梵字や仏像などが刻まれており、この谷全体が真言密教の霊場として信仰されていたことを伝えているという。麓から見て蛇石・夫婦石・谷響石・弘法石・大日石・護摩石・冠石だが、谷響石と冠石は参道から外れた山道にあるため今回はパスした。

        左: 蛇石。書体や彫り方は鎌倉時代初期の特徴を備えるという。この石に棲んでいた白蛇を国清寺の高僧が封じ込めたと伝わる。
        中: 夫婦石。挙兵前の治承年間、毘沙門堂近くの文覚庵を頼朝と政子が訪れ、この石に腰掛けて休んだ、と伝わっている。
        右: 大日石。宝塔内の蓮華座に座り錫杖と珠を持つ地蔵菩薩が線刻されている。宝塔の扉に明徳二年(1391)の年号が刻まれている。


     

        左: 弘法石。大日石と同じく錫杖と珠を持つ地蔵菩薩が線刻されている。宝塔の扉に至徳二年(1385)の年号が刻まれている。
        中: 弘法石を正面から。刻まれた宝塔の高さは187cm、すぐそばに近づけるし保存状態も良いため最も見応えがある。
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        右: かつては授福寺(廃寺。別名を那古谷寺)の参道、現在は鳥居が毘沙門堂の入口となっている。更に200m先に専用の駐車場があるが、
鳥居の前に車を停めてここから古い参道を登る方が趣があり、本来の雰囲気を味わえる。


     

        左: すぐ前に国清寺の末寺(菩薩林)が建つ壱の鳥居を潜り金剛力士像の残る山門へ登る。かなり「文覚っぽい(笑)」雰囲気の石段だ。
        中&右: 山門の左側に立つ金剛力士像・阿行。鎌倉時代初期(13世紀初頭)の作とされ、県指定の文化財である。

二体の金剛力士像は静岡県指定の文化財で、鎌倉初期に彫られたらしい。打倒平家の大願成就を成し遂げた後に頼朝あるいは文覚が寄進したと推定されている。作風はやや粗野で洗練されておらず、文治二年(1186)に源頼朝の発願により運慶・湛慶父子が造立したという説は信じ難い。地方仏師の作と考えるべきだろうが、12世紀末から13世紀初頭(1195〜1210前後)には多数の慶派仏師が鎌倉幕府や御家人らに招かれて関東に下向しており、多少の年代のズレを勘案すれば慶派仏師の作である可能性も残る。力士像の背板には延慶三年(1310)・仏師描門大弐法眼印照の銘と江戸中期の修理記録が墨書されているが、全面的に信頼できるか否かは議論の分かれるところ。
保存状態が良いとは言えないが、衣の裾の裏側には微かに朱色の跡が残っている。現在では堂と仏像・金剛力士などは国清寺の管理下にある。


     

        左: 両袖に収められた金剛力士像と同じく山門も(もちろん何回もの補修を経ているが、)13世紀初頭の建造と考えられている。
国清寺の寺伝では文治ニ年(1186)に頼朝の発願によって運慶と湛慶の父子が造立したとされるが、額面通りには信じ難い。
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        中&右:山門の左側に立つ金剛力士像・吽行。鎌倉時代初期(13世紀初頭)の作とされ、県指定の文化財である。


     

        左&中:山門を抜けると更に急峻な石段が続く。鎌倉時代どころか平安時代中期から殆ど変っていない風景なのかも知れない。
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        右: 文覚上人の護摩石(別名を硯石、鏡石とも)。山門と二の鳥居の中間左手にある。ここに授福寺(遠い昔に廃寺。別名を那古谷寺)があり、
毘沙門堂は寺の鬼門(北東)を守る毘沙門天を祀っていたのだろう。


     

        左: 石の上部には約50cm四方の穴があり、文覚が護摩を焚いて祈祷した跡とも硯として使った後だとも伝わっている。
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        中:穴の縁には石鑿の痕跡が残っているため授福寺の礎石の一部と推定される。元々は慈覚大師が開いた安養浄土院(後の那古谷寺)の
跡で、覇権を握った頼朝が荒廃していた寺を授福寺として再興。その際に慶派の仏師を招いて造仏したと伝わるが...。
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        右: 200m先の弐の鳥居。ここから毘沙門堂まで50mほどの急峻な参道を登る。山門から続く古い参道が車道で切られているのが残念だ。


     

        左: こちらは弐の鳥居から毘沙門堂へ登る更に急峻な石段。周囲の光景に似合わない手摺りが設けられており、これはこれで有り難い。
        中: 毘沙門堂は勿論往時の面影のない無住の堂である。本尊は毘沙門尊天像(伝・慈覚大師の作)、25年に一度開帳される秘仏。
        右: ただし25年毎は中開帳で、大開帳は50年に一度となる。前回の大開帳は昭和50年だから次回は2025年、ですか...。

この頁は2019年 6月21日に更新しました。