清衡が建立した平泉最初の堂塔群、中尊寺 

 
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中尊寺は単独の寺院ではなく、本坊の本堂の他に17の別院に加えて多くの堂塔が点在する関山全体の施設を差している。
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ただし現在は別院の何処までが公開されているのかは確認していない。世界遺産に登録される前の平泉は観光地として多少の混雑はあったが、「酷い混雑や渋滞」と表現する程ではなく、狂気のような現在とは隔世の感があった。観光地の商業主義を非難するつもりはないけれど、明らかに受容限度を超えている。登録から数年が過ぎた今、少しは落ち着きを取り戻しただろうか。
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落ち着いた散策を望むなら旅行シーズン以外のウィークデーを選ぶのがベストだろう。中尊寺の参道(月見坂)の左手には町営の広い駐車場(普通車400円)があり、繁忙期でも早めに到着する限り満車の心配は要らない。今はただ世界遺産ブームの騒乱が鎮まるのを待つのみ。

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左:中尊寺の堂宇と僧坊、周辺の地図      画像をクリック→拡大表示
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個人的に有料駐車場と有料道路は好きじゃないから、私はいつも国道4号(奥州街道・陸羽街道)の反対側にある 平泉レストハウス を利用する。ここは食事をすれば駐車は無料、構内併設の 平泉文化史館 は陳腐なので薦められないが、世界遺産登録記念で入場無料(現在は310円)だから時間つぶしもできる。
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いずれにしても、セルフのフードコートで安上がりの食事を済ませ国道下のトンネルを潜ればすぐに月見坂の入口に着く。どうせ観光地の昼食、最低限をクリアする味と空腹を満たす量があれば良い。
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月見坂に近い町営駐車場を囲む数軒の食事処も(食事すれば)駐車は無料だが、ここも混雑するし団体客向けのメニューがメインになる。多勢の中で高い飯を食うぐらいなら空腹を我慢する方がマシだ(笑)。
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そうそう、ずっと昔に法隆寺参拝後に寄った門前の「冨之里」は最悪だった。店内を喪服の家人がウロウロしてるし(法事か?そういう日は休業が常識だろ!)、注文した天丼は薄味のタレが多すぎて「お茶漬け」状態だし、妻が注文した「柿の葉寿司」は酢飯が硬くなっていた。前日の売れ残りを平気で出せるのも観光ブームの悪影響、何度も来る客じゃないってか。
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ネットで調べたら今でも潰れずに営業しているらしい。「斑鳩商人のモラルは...」なんて書くつもりはないが、二度とあの辺で食事などするものかと思ったのも事実。こんな経験を経て観光地の食事ポイントを選ぶコツを覚え、「危険を察知する嗅覚」も少しづつ磨かれていくのだろうね。
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参考までに...いつか平泉&衣川再訪用に作った 史跡案内地図 も参考に。かなり重いし今後もポイントを追加する予定だけど、ご利用を。

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三衡画像 右:毛越寺別院の白王院収蔵の三衡画像(江戸時代)   画像をクリック→拡大表示
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他の大寺と同じく、中尊寺や毛越寺にも多くの別院がある。全てが拝観可能ではないが、中尊寺釈尊院には日本最古の刻銘(仁安四年・1169年)を持つ五輪塔が現存している(参考サイト・公開の有無を含めて詳細は要確認)。上の略地図を参考に。毛越寺の場合は東北道が本来の寺域を分断して南北に走っているのが興醒めだが、南西側の十数ヶ所に支院が点在している。
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中尊寺の創建は平安時代後半の嘉承三年(850)、150年後の長治二年(1105)に藤原氏初代の 清衡 が堂塔を整備し、12世紀初頭の戦乱(1051~1087年の前九年+後三年戦役)の死者を弔い、陸奥国に極楽浄土の実現を願って壮大な寺院を建立した。言葉は美しいが、以後の歴史も同族の血で彩られている。
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清衡は棟梁の座を巡って義理の兄 清原真衡 と争った末に妻子を含めた近親を殺され、後には真衡と異父弟の 家衡 を殺して陸奥六郡の実権を掌握した。頼朝 も同じだが、平安・鎌倉時代の武士は「理不尽に殺してから菩提を弔う」を繰り返す。この二面性は何だ?と思うのは再三である。
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清衡の父は 源頼義 に従っていた陸奥国亘理郡に所領を持つ在庁官人 藤原(亘理)経清、途中から妻の実家である安倍氏に合流し、頼義の率いる官軍と前九年の役を戦った人物である。当初は有利だった安倍一族も最終的には出羽国(山形県)の俘囚長 清原武則 の応援を得た頼義軍により厨川柵(盛岡市天昌寺町・地図)で全滅、首魁の 安倍貞任 は重傷を負って頼義の前で死亡、捕虜の経清は罵られた末に錆刀で惨殺された。丸太に釘付けした敵将三人(安倍貞任・重任(貞任の弟)・経清)の首級が京に運ばれ、この例に倣って頼朝も攻め滅ぼした 藤原泰衡 の首を釘で打ち付けている。
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  陸奥話記に拠れば、
生け捕りになった経清は頼義の前に引き出された。「先祖代々我が家の下僕だったお前が朝廷と昔の主人を蔑ろにしたのは大逆無道である、お前は今でも白符(私的な徴税票)を使う事ができるか」と責めた。経清を深く憎んだ頼義は苦痛を長引かせるため錆刀でゆっくりと首を斬らせた。
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父の経清と同様に殺される筈だった七歳の嫡子清衡は母が敵将 清原武貞 に再嫁したため助命され、武貞の養子になった。勝者の武則・武貞親子は敗者との戦後融和を考えたのかも知れないが...やがて成長した清衡は「後三年の役」で義父武貞の兄弟や一族ら敵対勢力を滅ぼして奥州の覇者となり、名乗りを清原から父の姓・藤原に戻した。清衡の跡を継いだ二代目の 基衡 もまた、兄の惟常一族を皆殺しにして家督を相続した。
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さて...覇権を握った清衡は嘉保年間(1094~1095)に本拠を豊田館(奥州市江刺区岩谷堂(地図)から平泉に移し、政権の基盤を整備した。中尊寺供養願文には長く続いた戦役の死者を弔うと共に極楽浄土の実現を目指したと書いているが、彼もまた多くの為政者と同様に血塗られた手で平和を祈っている。血塗られた手だからこそ平和を祈ったのも事実だろうが、その祈りは嫡子基衡には伝わらなかった。

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    【中尊寺供養願文】  本編の記述と重複するが、清衡の意図を語る上では欠かせないので...(施設の明細記述は略した)
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二階鐘楼の鐘の音は全ての生き物の苦悩を除いて安楽を与え、あまねく世界に響き渡る。官軍か蝦夷かを問わず、古来から多くの命が失われた。獣も鳥も魚も多くが殺され、魂は霊界に去り骨は朽ちて土塵に帰した。鐘の音が響くたびに罪もなく死んだ霊魂を慰め菩薩の浄土に導こうと願う。
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この善根の趣意は、偏に鎮護国家を願うためである。由縁を言えば、弟子(清衡)は東夷の長の係累であり、合戦のない帝(禅定法皇、白河法皇)の治世に生れて仁恩の多くを受けた。東夷の郷では騒乱も少なく、俘囚も平和に暮らすことができた。その中で私は俘囚の長として先祖の遺業を引き継ぎ、今や出羽と陸奥の人心は風になびく草のように従順であり、周辺の蛮族も陽に向う向日葵のように温和である。
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あるがままに国を治めて三十余年、納貢を怠らず生業に励んで過ごし、鳥の羽毛や獣の牙や毛皮などの献上を違えることもなかった。これらによって朝廷の厚情を受け多くの恩を蒙って既に杖郷の齢(60歳)を過ぎた。人の運命を考え恩に報いるためには善根を積むのが最も望まれることであるから、納税の残余を調べ蓄えを投げ打って吉運の地に堂宇を建て、金泥を以って阿弥陀の経典を写し納めた。
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経蔵・鐘樓・大門・大垣を造り、高い場所には築山を・低地には池を設け、(作庭記の理に適う)四神具足の地を造り上げた。これによって蝦夷は仏善に帰依し、いわばこの地に極楽浄土が現れたことになる。
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清衡は嘉承三年(1108)に中尊寺建立に着手し、天治元年(1124)に金色堂を、大治元年(1126)には主な堂塔を完成させ、大治三年(1128)に病没して金色堂の中央壇に葬られた。ちなみに、後に増設された左壇には二代 基衡 の遺骸と、首桶に入った四代 泰衡 の頭骨、右壇には三代 秀衡 の遺骸を納めている。
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父の遺志を継いだ二代基衡は更に毛越寺の造営を開始し平泉全域の整備を目指したが未完成のまま保元二年(1157)に病没、妻は毛越寺の東隣に観自在王院を建立している。平泉全域が完成したのは三代秀衡の治世で、政庁の柳之御所・無量光院・私邸の伽羅御所などもこの頃に出来上がった。残念ながら当時の建造物で現在も残っているのは金色堂のみ。


     

        左: 中央は中尊寺本尊・阿弥陀如来坐像(重要文化財)。平安末期の定朝様式で桂の寄木造りに漆箔、高さ268cm。光背も造像当時のまま。
右は峰薬師堂の本尊だった薬師如来坐像(重文・願成就院蔵)。様式・材質・仕上げは阿弥陀如来に同じ、高さ266cm。光背は頭部のみ。
左は旧閼伽堂にあった薬師如来像(重文・金色院蔵)。平安末期の定朝様式で桂の寄木造りに黒漆塗り(当初は金箔)、高さ265cm。
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          ※峰薬師堂: 中尊寺本堂西側に隣接する別院。元は700mほど南東の金鶏山北麓にあったが荒廃し、江戸中期に現在地に再建された。
          ※旧閼伽堂: 中尊寺の坂下駐車場の位置にあった別院で礎石が残っている(近くに兼房松の跡もある)。閼伽は仏前に捧げる水のこと。
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        中: 紺紙金銀字交書一切経(中尊寺経)。紺色に染めた紙に金字と銀字で一行毎に書写している。
清衡(1056~1128年)は永久五年(1117)2月に書写事業を始め、9年後の天治三年(1126)3月に完成して中尊寺に納められた。
完成当初は推定で5390巻近かったらしい。その内の4479巻が現存するが、中尊寺に伝わっているのは15巻。残る4296巻(国宝)が高野山、
166巻(重文)が河内長野市の観心寺(公式サイト)に、12巻(重文)を 東京国立博物館(公式サイト)が収蔵している。その他、民間を含めると
現存しているのは4600巻程、だろうか。
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        右: こちらは三代秀衡が完成させた紺紙金字一切経(国宝)。資料保護のため通常は讃衡堂で複製が展示されている。


     

        左: 東北天台宗の総本山・関山中尊寺の表参道(月見坂)入口。この参道が平安時代の奥州街道で、白河の関から青森の外浜(陸奥湾)まで続いて
いた古道「奥大道」である。南から来た全ての旅人は壮大な伽藍が立ち並ぶ関山中尊寺の寺域を通って北を目指していた。
画像左側の白い雌犬は2010年の暮れに、右の牡犬は2013年の夏に死んでしまった。今でも、写真を見るたびに涙が止まらない。
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        中: 月見坂を三分の一ほど登って振り返る。掲載した画像は全て世界遺産登録前の2006~07年、今でも酷い混雑を呈しているだろうか。
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        右: 国道沿いから約500m登った右側、金色堂の200m手前が中尊寺の本堂。月見坂沿いを含めて全山に多くの塔頭(僧坊)が点在する。
中でも仁安四年(1169)4月23日銘のある最古の五輪塔がある釈尊院)を収蔵する(参考サイト・今は非公開?)などもあるから時間を掛けて
散策したい。世界遺産登録と引き換えに、静けさを含め如何に多くのものを失うか、個人的にはそれを危惧しているのだが...。


     

        左&中: 中尊寺本堂と観光客の群れ(金色堂周辺よりはマシだけど)。創建は嘉承三年(850)、天台宗総本山である比叡山延暦寺の第三代座主・
慈覚大師円仁(延暦十三年(794)~貞観六年(864))の開基による。(平安時代前期、貞観年代は十一年の大地震で著名になった)。
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奥州藤原氏初代の清衡が12世紀初頭の戦乱(前九年と後三年戦役・1051~1087)の死者を弔い、陸奥の極楽浄土実現を願って
長治二年(1105)に堂塔を整備し壮大な寺院を建立した。清衡には父の経清を始め多くの親族を戦乱で失った悲しみがあったのだろう。
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伽藍完成の際に清衡が読み上げた「中尊寺供養願文」(詳細は検索を)には 「官兵・蝦夷の兵・鳥・獣・魚の区別なく多くの命が失われた。
生きていた全ての魂を癒し極楽浄土に導くためにこの寺を建てた。」旨が書かれたと伝わる。残るのが写本だけで異論も多い、けれど。
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        右: 金色堂覆屋を背景に。右手入口から先の金色堂・讃衡堂・経蔵・旧覆堂の拝観は有料(800円)、 中尊寺拝観の栞 を参考に。


     

    右は中尊寺金色堂内陣(藤原氏三代の墓所)の配置図
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        左: 金色堂の参道。ここから先は有料拝観コースとなる。現在は無粋なコンクリート覆屋の分厚い
ガラスと24時間空調によって外気から遮断、近くで雰囲気に浸る事はできないが、創建当初は内壁・外壁・天井・床の全てが漆塗りの上に布を貼り更に総金の箔が貼られ、光堂あるいは金色堂と呼ばれた吊に恥じない豪華な姿だったのは容易に想像できる。
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        右: 金色堂の全体画像。前後・左右とも柱間三スパン・約5.5mの方形、一段高くなった内陣には
三つの壇(手前に清衡壇・奥右に基衡壇・奥右に秀衡壇が設けられ、それぞれの壇には本尊の阿弥陀如来を中心に観音菩薩・勢至菩薩・持国天・増長天・地蔵菩薩を配している。
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        右: 金色堂北西に移設された旧覆堂(さやどう)。当初は露天だった金色堂だが、劣化が始まった
40年後には風雨を避ける簡単な覆い屋でカバーされ、更に正応元年(1288)には鎌倉幕府七代将軍惟康親王(六代将軍宗尊親王の嫡男)の命により本格的な覆堂が建てられた。
この旧覆堂は当時のものではなく、更に後の室町時代(約600年前)の建築と推定されている。


     

左: 二代・基衡壇。左の奥に配されている。        中: 正面中央の初代・清衡壇。       右: 三代・秀衡壇。右の奥に配されている。

四天柱に囲まれた金色堂(阿弥陀堂)の中枢部分。金箔と螺鈿に彩られた堂内は「光堂」の名に相応しい輝きを見せている。
要所に配置された透かし彫りの金具と下地に置かれた緑青の対比も美しい。一部に使われた象牙も藤原氏の財力を如実に物語っている。
基衡壇のみ、左側の増長天像が失われている。


     

        上: 仏像が置かれた台座・螺鈿(らでん)八角須弥壇と、拡大部分。雲に乗る極楽鳥と輝く螺鈿細工が工芸技術の高さを物語っている。
三つの須弥壇内部に藤原氏三代当主(清衡・基衡・秀衡)のミイラ化した遺体と、四代泰衡の頭骨を紊めた首桶が保存されていた。
泰衡の最期と首級に関わる詳細はいずれ稿を改めて。泰衡夫妻が葬られた大館市の錦神社と比内の五輪塔にも足を伸ばしてみたい。


   

        左&中: 四方の柱(四天柱)の拡大画像。螺鈿細工を施した蒔絵部分と鍍金銀加工した珠文帯で区分された円柱が見事な調和を見せる。
一本の柱には漆の蒔絵で四体の仏画が三段に描かれているから四本全部を合わせると48体となる。
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        右: 三つの須弥壇に配置した仏像の集合画像。60年間の藤原氏三代それぞれの時代に一組づつ造られ、微妙な様式の変化が確認される。


     

        左: 間口三間の経蔵。清衡の「中尊寺供養願文」によれば「二階瓦葺き」で、建武四年(1337)に焼け落ちた残材で平屋に造り直した。収蔵していた
紺紙金字一切経は国宝の讃衡蔵(宝物殿)に納められている。かつては二階瓦葺きだったが、経蔵は二階大堂(勝長寿院)ではない。
吾妻鏡に載っている二階大堂は現在の中尊寺支院・西谷坊(勝長寿院)で江戸時代末期の文久三年(1863)再建による。清衡が建てた当時は
高さ五丈(15m強)で本尊の阿弥陀如来は三丈(約9m強)、丈六(約4.8m)の阿弥陀像九体が並んでいた、と伝わる。
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        中: 現在は神楽殿(能舞台)になっている(旧)白山神社。吾妻鏡に書かれている「本堂の北に勧請して鎮守とした」白山宮が原型だろう。
元は秀衡持仏の観音像と義経持仏の毘沙門天像を置いたが嘉永二年(1849)に焼失、四年後に伊達29代藩主慶邦が再建した。
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        右: (旧)白山神社の前に二階大堂(勝長寿院)があったと伝わる。当時の鎌倉には二階建ての仏堂は存在せず、藤原氏を滅ぼして中尊寺を訪れた
頼朝は壮大な二階大堂の姿に深い感銘を受け、凱旋した文治五年10月24日直後の12月9日に中尊寺大長寿院を模した寺院の建設に着手した。
これが藤原一族と義経と奥州合戦の死者を慰霊した永福寺である。永福寺は応永十二年(1405)に焼失したが、二階堂
の地名とこの地に住んだ二階堂氏の姓が現在も残されている。永福寺の詳細とCGなどは こちら(外部サイト)で。
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奥州合戦に従軍した無骨な鎌倉御家人たちも無量光院や毛越寺の美しさに心を打たれ、帰国後の所領に競って仏堂と浄土庭園を造営した。
足利氏による樺崎寺(法界寺)、宇都宮氏による益子の 地蔵院 や鶴亀池など(共に別窓)がその例である。

平泉を制圧した頼朝が衆徒から聴取して記録した中尊寺に関する吾妻鏡の記載は下記の通り。
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寺塔四十余、禅坊は三百余。清衡が陸奥六郡を管領して最初に創建した寺である。
白河関から外浜(津軽半島)まで20余日の行程の1町(100m強)ごとに笠卒都婆を建て、その面に金色の阿弥陀像を描いた。
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陸奥国の中心に位置する山頂上に寺域を設け、中央に 多宝塔(wiki)を置き、釈迦如来像と多宝如来像を本尊として左右に安置した。
その中間に関道を通して旅人の往還路とし、釈迦堂には百余体の釈迦如来像を祀った。両界堂(金剛界と胎蔵界)の諸仏は全て木造金箔である。
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また二階大堂(大長寿院と称す)は高さ五丈(50尺、15m強)で本尊は三丈(15尺)の阿弥陀如来坐像、脇士は丈六(8尺)九体。
また上下と四壁が全て金箔の金色堂には螺鈿の三壇を設け、定朝が刻んだ阿弥陀三尊像と二天像と六地蔵を祀っている。鎮守として南に日吉社、
北に白山社を勧請している。
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他には宗から取り寄せた一切経を収めた経蔵、建物内部の荘厳な有様、付属する堂塔などは書き出せないほどある。清衡が暮らした30年の間に
我が国の延暦寺・園城寺・東大寺・興福寺などから震旦(中国)の天台山に至るまで、それぞれに千僧供養の費用を寄進した。
清衡は死期を迎えて自らの生前供養を行い、百ヶ日結願を迎え合掌して阿弥陀の仏号を唱え、病気もないのに眠るように没した、という。

この頁は2019年 9月3日に更新しました。