信州青木村 大法寺の国宝三重塔、そして東昌寺  

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     右:大法寺本堂の普賢菩薩立像  画像をクリック→拡大表示
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古くは大宝寺を名乗り、奈良時代初期の大宝年間(701~704)に藤原鎌足の子・定恵僧都が創建した。飛鳥の浄御原宮(明日香村)から藤原京に遷都したのが694年(持統八年)だからその直後、平城京(奈良)遷都(710年・和銅三年)の直前である。
東大寺の起源とされる金鐘寺が天平五年(733)の創建なのを考えるまでもなく、当時はこの地域が信濃国の中心だった。
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平安時代以後の信濃の国府は松本市近辺だが、律令制の当初は上田市近辺が国府と考えられており、実際に青木村から信濃国分寺(地図)までは直線で約10kmに過ぎない。千曲川を渡った東山道が小県郡に入って最初の宿駅である浦野驛が置かれたのが現在の青木村で、大宝律令発布の直後に創建された大宝寺(大法寺)は宿驛に関連した寺院と考えられている。
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   蛇足...信濃には科の木(榀、木目が美しく柔らか)が多く、昔は科野と呼ばれた。和銅六年(713)の風土記編纂の頃から
徐々に信濃に変り始めたらしい。
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その後は創建当初の繁栄を失ったが、平安初期の大同年間(801~810)に坂上田村麻呂の祈願を受けた義真僧都が再興したと伝わっている。年代から判断すると、坂上田村麻呂が勅命を受けて蝦夷を討伐し指導者の阿弖流為と母礼を都へ連行した頃、と推定される。義真は最澄と共に唐へ渡って仏法を学び、天長元年(824)に天台座主(官符(公文書)で正式に任命される比叡山のトップ)に就任した人物である。


     

        左&中: 天台宗の一乗山大法寺本堂。本来は観音堂の木造十一面観音立像の脇侍である重文の普賢菩薩立像が安置されている。
観音菩薩立像と同じく、平安時代後期・900年代前後の作と推定されている。
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        右: 金文字で「開運大悲閣」と書かれた本堂の扁額。その左は...毘門義氏と読めるが、詳細は判らない。


     

        左: 本堂から300mほど登った山裾の平場に建つ観音堂。江戸時代の建造で、本来の萱葺き屋根は改修され本来の味を失った。
        中: 拝観料金は100円。観音堂の仏像拝観には別途200円(だったか?)が必要。どうせ撮影禁止だろうから内部の拝観はパス。
        右: 東昌寺へ登る道から観音堂を振り返る。この右手に三重塔を裏から眺める小道が通じている。


     

        上: 観音堂の須弥壇は鎌倉時代の作、厨子は室町時代の作と推定される。資料に拠れば仏像に較べて厨子のサイズが不釣合いに小さいらしい。
造られた年代は、内部に納められた十一面観音像(重要文化財)の方が遥かに古い。


     

        左: 観音堂の奥、10mほど高低差のある斜面に国宝の三重塔が見える。急傾斜の正面参道からは全容の撮影はむずかしい。
        中: 東には田植えを待つ水田が眺められる。奈良時代には浦野驛が設置され、現在は国道143号が右手の青木村中心部へ続く。
        右: 境内から南側、鹿教湯温泉を経て美ヶ原高原方向を撮影。参道沿いに長閑な田園風景が続く。左の階段は郷土美術館への入口。


     

        左: 三重塔は南北朝時代の正慶二年(1333年、この年5月に鎌倉幕府滅亡)の建立。檜皮葺きで高さは61尺2寸7分(18.56m)、
高い技術を持つ大阪天王寺の寺社大工が建てたらしい。姿の美しさから、振り返りつつ山を下るため「見返りの塔」とも呼ばれる。
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        中: 細かい造作には確かに素晴らしいものがあるが、この塔の魅力は全体の美しさだ。特に背後から見る風情が実に素晴らしい。
        右: 扁額には「照庭《と書かれている。庭を照らす...天台宗では何らかの意味を持つ言葉なのだろうが...凡人には理解できない。


     

        上:一段目の屋根の出巾が大きいのが特徴とされる。青木村一帯を見下ろす斜面に建ち、須弥壇には大日如来坐像を安置している。


        

        上: 塔の本来は下から見上げるものとされるが、この三重塔に限っては背後から見ると更に身近に美しさが際立ち、「見返りの塔」と
呼ばれる理由が実感できる。(左端のみ、観音堂横の参道から撮影)





大法寺観音堂の横を登るとすぐ左に三重塔裏手に続く細道がある。ここまでが青木村でカーブの先が上田市の行政区、舗装道路を道なりに400mほど登ると萬年山東昌寺に至る。信濃の古代豪族・滋野氏から出た禰津氏の末裔で鎌倉時代からこの地域を支配した浦野氏の菩提寺である。浦野を吊乗った初代の重遠は源満政5代目の後裔だから頼政と概ね同年代、平安末期の武士である。鎌倉以降は村上氏→武田氏→上杉氏→真田氏に従い生き抜いた。南東の山裾一帯が代々の館跡と伝わる。東昌寺の創建は建長ニ年(1250)だから重遠の数代後の鎌倉中期、当時は臨済宗だったが天文十二年(1551)に曹洞宗に改めている。
 
鐘楼は上田市の文化財に指定されており、天保十二年(1841)に豊川稲荷などを手がけた諏訪の宮大工・宮坂常蔵の手による見事な彫刻が特徴とされている。急な傾斜の上に建つ10脚の山門の姿も、なかなか素晴らしい。


     

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