阿野全成の菩提寺 士詠山大泉寺 

 
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阿野全成義平朝長頼朝義門希義範頼 に続く 源義朝 の七男。美女で名高い側妾 常盤 が産んだ男子3人の長男で八男 義圓 と 九男義経 の兄、幼名は今若丸である。平治の乱で義朝が敗れた7歳の時に母・兄弟と共に吉野山で捕縛され 醍醐寺(公式サイト)に入って出家、今若→隆超→全成と名乗った。やがて成長するに従って源氏の子らしく勇猛となり、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師とも呼ばれたと伝わる。
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治承四年(1180)には 以仁王 の令旨発行を知り、頼朝挙兵に呼応すべく京都を抜け出して東国に下った。この時は頼朝が石橋山合戦に敗れた直後だったため相模国渋谷荘の 佐々木秀義 に匿われ、10月1日に下総鷺沼(現在の習志野市)で相模に向う頼朝の軍勢に合流。同年11月19日には武蔵国の長尾寺(威光寺)を与えられて住持した。長尾寺は既に廃寺だが、川崎市多摩区のJR南武線宿河原駅に近い 妙楽寺(川崎市のサイト・地図)の一帯が館だったと伝わる。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月1日 】
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甲斐源氏らが精兵を率いて駿河国に攻め下るとの風聞があり、駿河目代の橘遠茂は遠江と駿河の兵を招集して奥津(興津)に陣を張った。
石橋山合戦に敗れて分散していた者の多くは頼朝のいる鷺沼(習志野市鷺沼)の宿舎に合流した。また令旨を受けた頼朝が挙兵したのを京都で聞いた醍醐禅師全成も修行と偽って醍醐寺を抜け出し合流、頼朝はその志に打たれ感涙を流した。

    右:根方街道に面した大泉寺周辺の鳥瞰     画像をクリック→拡大表示
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その後は平家追討の功績により駿河国(静岡県)阿野庄を与えられ、阿野全成を名乗った。本拠は国道1号バイパスと並行して北側を走る根方街道沿いの石川から東原の一帯で、ほぼ中心の井出に館を構え敷地の一角に持仏堂を建てて先祖を祀ったのが 士詠山大泉寺(公式サイト・地図) の創建と伝わる。
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1km東の高台には後北条氏の始祖早雲(当時は伊勢新九郎)が初めて居城を構えた 興国寺城址(外部サイト)があり、併せて見学するのも面白い。
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  ※根方街道: 現在の静岡県道22号。道巾が狭い割に大型車が多くて好きじゃない道路だが、江戸時代
までは東海道の裏街道として利用頻度が高かったらしい。大泉寺のある井出から富士市吉原の一帯は「浮島」の名称通り沼と湿地が続いていたため、旧東海道は現在のJR東海道線の海側を通る千本松原沿いと、富士山の裾野を通る根方街道に分かれていた。
二つの道は黄瀬川で分岐しら約18km西の田子の浦で再び合流する。
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全成の子には頼全と道暁がいたが、政子 の妹 (阿波局 ・ 後妻か?)を妻として四男の時元を得た。阿波局は頼朝の次男千幡丸(後の 実朝) の乳母を務め、頼朝の信頼を得ていた全成は義経や範頼のように粛清もされず、頼朝の死没後は 北條時政 に近い立場を守っていたため二代将軍頼家の憎しみを受けてしまう。
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鎌倉将軍の地位を継承した頼家はわずか三ヵ月後の正治元年(1199)四月に訴訟決裁権を剥奪され、政治の主導権は有力御家人13人の合議制(実質的な北條時政主導体制)に移った。翌年1月には頼朝時代からの側近 梶原景時 が失脚して追討を受け、名目だけの傀儡将軍になりつつあった頼家は鬱積した怒りに任せて全成追討の愚挙に走った。全成を殺せば時政が萎縮し支配権を取り戻せるとでも考えたのだろうか。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 5月19日 】
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深夜、阿野全成に謀反の疑いがあるため御所に拘留した。武田信光 が生け捕って宇都宮四郎兵衛尉(五代 頼綱 の次男 頼業)に預けられた。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 5月20日 】
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頼家は 比企能員 を派遣し尼御台所政子に「反逆を企てたため全成を捕縛した。仔細を尋問するから妻の阿波局を出頭させよ。」と求めた。政子は「女の知る事ではない。全成は2月に駿河に下った後は連絡がないから疑惑には無関係である」と答えて引き渡さなかった。
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捕らえられた全成は5月25日に常陸国に配流、6月23日には頼家の命令を受けた 八田知家が下野国で彼を殺し、更に7月には共謀の疑いで 佐々木定綱 らが京都東山延年寺で全成の長男頼全を追討している。これらの事件を宣戦布告と受け取った(或いは若造が挑発に乗ったな、と笑ったか)北條時政は同年9月2日に比企能員を謀殺、その日のうちに比企一族を皆殺しにして頼家を修禅寺に幽閉(翌年暗殺)し實朝を時期将軍に擁立して幕府の実権を掌握した。
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阿野全成が殺されてから16年後の建保七年(1219)2月15日、死罪を免れて阿野庄で隠居していた全成の遺児時元(隆光・隆元とも)が兵を挙げた。頼家の遺児 公暁 が三代将軍 実朝 を暗殺した1月27日の直後である。北條九代記などは「将軍実朝の跡目を狙い宣旨を偽造して謀反を起こした」と書いているが、僅かな兵力で鎌倉の覇権を得られると考える筈がない。この事件は義朝直系の孫として源氏の血を継承している時元の存在を危険の芽と考えた 北條義時政子 連合による計画的な排除だろう。
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承久三年(1221)6月には承久の乱が勃発しているから、後鳥羽上皇の倒幕作戦の一環だった可能性や時元が覇権を夢見た可能性もあるが...いずれにしても追討軍に敗れた時元は自殺、わずか数日で騒動は鎮まった。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月15日 】
   夕刻に駿河国からの飛脚が到着。阿野時元が去る11日に多くの手勢を率いて山中の城郭に籠った。宣旨を受け、東国を支配する企てである。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月19日 】
   禅定二品(政子)の指示により 金窪行親 以下の御家人が駿河国に派遣された。これは阿野時元追討のためである。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月22日 】
   派遣された軍勢は駿河国阿野郡で阿野次郎と三郎入道を攻撃、時元とその一味は敗北した。
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【 吾妻鏡 建保七年(1219) 2月23日 】
   夕刻に駿河国から飛脚が到着し時元の自殺を報告した。


     

        左: 狭い割に大型車が多い根方街道(県道22号)沿い。広重の東海道五十三次に描かれた 原 朝之富士 の山裾に大泉寺が位置する。
        中: 県道に面して併設の幼稚園用と参拝客用の駐車場が設けられている。山門への参道は幼稚園の右側を迂回して坂を登る(地図)。
        右: 創建当初は真言宗、天正年間(織田信長全盛の頃)に曹洞宗に改めている。本堂の前は水子地蔵や仏像などでやや雑然としている。


     

        上: 一般の墓地は本堂の裏手にあるが、本堂左の一角に歴代住職の墓と並んで全成と時元の廟所が設けられている。五輪塔と宝篋印塔双方の
形を備えたような様式で、建造された時代は鎌倉初期から更に下ると推測される。

この頁は2019年 9月23日に更新しました。