文覚上人の足跡 伊豆霊場八十五番の大聖寺 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 壱」 の記載ヶ所へ       「索引」 へ   「旅と犬と史跡巡りと」のトップページへ

.
授宝山大聖寺は臨済宗円覚寺派、創建当初は真言宗だった。本尊は 文覚上人 の護持仏で、聖徳太子が刻んだと伝わる波切不動明王である。この本尊も那古谷の毘沙門堂と同じく60年に一度だけ拝見できる秘仏で、次回の開帳は2012年。2025年開帳の 毘沙門堂(別窓)に比べたら遥かに身近なのは嬉しい。
.
平家物語に拠れば、文覚は承安三年(1173)に神護寺再興の勧進を 後白河法皇 に強要して勅勘を受け、伊豆に流された。伊勢から出帆した流刑の船が嵐で難破しかけた時に護持仏に祈って龍神を退け西伊豆の八木沢村に無事辿り着いた、その護持仏が不動明王像である。文覚は伊豆に到着して暫くは八木沢村に住み、那古谷寺(慈覚大師が開いた安養浄土院)に入って一帯を支配していた近藤四郎國高に預けられた、と伝わる。
.
吾妻鏡の治承四年8月20日の条に、相模国土肥郷に向って出発する 頼朝の軍勢の中に近藤七國平(建久十年(1199)3月5日に讃岐守護に補任)と、那古谷橘次頼時(文治元年(1185)10月24日の長勝寿院供養に門外伺候の隋兵を務める)の名が見える。平家物語にあるように「文覚が 義朝 の髑髏を見せて決起を促した」のは兎も角として、頼朝挙兵の7年前に那古谷に住んだ文覚が彼らを通じて頼朝の知遇を得たと考えても不自然ではない。
.
当時は26歳だった流人頼朝は文覚流罪の承安三年(1173)に伊豆葛見(久須美)荘で伊東祐親 の娘に男児(千鶴丸)を産ませ、文覚が赦免された治承二年(1178)の前年には韮山に移って北條時政の娘(後の 政子)に女児(大姫)を産ませている。果たしてこの頃の頼朝に源氏再興を試みる意思はあったのか、それとも自由奔放な田舎暮らしに満足していたのだろうか。もしも 以仁王の令旨や頼政の挙兵が起きず 清盛 による源氏追討令が発布されなかったら...。
.
話を戻して...八木沢村を去る際に文覚は護持仏の不動明王を与え、村人は浜川上流2kmにある 神洞滝(外部サイト・駐車スペースあり)に像を祀った。ところが滝の近くからは海が良く見えるため霊力が漁師の舟に与える影響が大きく、やむを得ず現在の大聖寺が建つ地に移したという。
.
一番札所の植松院からスタートして八十八番の修禅寺で結願する伊豆霊場の八十五番だが昔は道路が通じておらず、巡礼者は八十四番法眼寺(仁科)〜八十五番大聖寺(安良里)〜八十六番安楽寺(土肥)〜八十七番大行寺(戸田)の間は舟を利用し、大行寺から戸田峠を越えて結願の 修禅寺へと向っていた。


     

        左: 交通の便は悪い。安楽里の信号を東(山側)に入って100mの多璽谷神社先を右折する。ガードレールのない川沿いの道が狭くて怖い。
        中: 深い山を借景にして、春には境内の桜が緑に映えて美しい。
        右: 川沿いに参詣者用の駐車場が設けてある。鐘楼の奥に本堂、右手の崖下に設けられた庭園にも不動明王が祀られている。


     

        左: 傾斜の急な石段を登って中腹の平場に建つ本堂へ。石段の脇にも不動明王像が建ち、石段の風情と併せて落ち着いた雰囲気を醸し出す。
        中: 本尊は波切り不動と呼ばれる坐像で御開帳は60年に一度の秘仏、右手の庭園にある像が本尊のレプリカだと教えられた。
        右: 左右に迫る山の間から西伊豆の海が輝く。国道136号の安良里漁港信号の山側だが道が狭くやや判りにくいので要注意だ。

この頁は2019年 6月22日に更新しました。