修善寺温泉のシンボル 独鈷の湯 

 
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桂川は川巾の狭い急流のため石組みの部分が流れを阻害し、豪雨には引っ掛かった樹木などが堆積して近隣の旅館に泥水が流れ込むなど再三の被害をもたらした。また独鈷の湯の施設もたびたび流失したが、2010年に大規模な修復を加えて災害の発生は一段落した、らしい。毎年4月21日の弘法忌には空海の偉業を称えて温泉の繁栄を祈念する湯汲み祭が行われている。

空海像 右:空海(弘法大師)像 京都 教王護国寺(東寺)蔵 重文    画像をクリック→拡大表示
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参考...京都の 東寺 (公式サイト)は伝・延暦十五年(796)、国家鎮護の寺として創建された。弘仁十四年(823)に
第52代嵯峨天皇が空海に下賜し、真言密教の根本道場となった。東寺と教王護国寺、二つの名称がある。
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「修禅寺奥の院」に水を差すようで多少は心が痛むが、延暦二十三年(804)12月23日、留学僧の空海(31歳)は 最澄 (38歳)らと共に長安に入っている(第16次遣唐使)。本来は20年の留学期間を定められていたにも拘らず2年間で全ての学業をマスターし、33歳の大同元年(806)10月に帰国して九州大宰府に入っている。
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     厳密には、空海の船は帰国途中に嵐に遭遇し、五島列島の福江島大宝の浜(地図)に吹き寄せられた。
近くの 大宝寺(wiki・大宝元年(701)創建)を真言密宗に改めている。ここで我が国で初めて真言密教の講義を行った経緯から「西の高野山」と呼ばれているらしい。
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しかし許可なく留学期間を短縮して帰国したため直ぐには入京の許可が得られず、大同四年(809)に許されて高雄山寺(現在の神護寺・公式サイト)に入るまで大宰府の 観世音寺(公式サイト)に滞在している。従って修善寺地区の伝承が語り継いでいる「大同二年(807)に修善寺の山奥で修行していた」筈はないし、帰国以後の空海は既に修行僧の域を遥かに越えて日本宗教界の寵児になりつつあった。当時は辺境の「遠流の地・伊豆」まで足を伸ばす余裕はあり得ない。
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ついでに書くと、空海と共に唐に入った最澄は延暦二十四年(805)・つまり渡航翌年に空海より早く帰国して比叡山に天台宗を開いている。なぜ早く帰ったのに入京できたのか等の経緯は面倒なので調べていないが、当時の最澄は既に宗教界で一定の権威を確立しており、修行僧に準じていた若年の空海とは別扱いされる高僧だったと考えられる。

左:2014年10月、独鈷の湯がない!また流された?   画像をクリック→拡大表示
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と思ったら、台風19号の接近に備えて川岸に避難していた。さすがに何度も流失と再建を繰り返すと、解体して一時的に撤去できる構造に改める、そんな知恵が働いたらしい。
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本題に戻って...かつては混浴の共同湯だった独鈷の湯は現在では観光客向けの足湯として利用され、入浴は禁止されている。今でも入れると思ってバスタオル片手に覗き込んでいる観光客も見かけるが、周囲から丸見えなので禁止されていなくても入浴を楽しめるような環境ではない。
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とは言え、10数年前の夕暮れ(まだ明るかった、と)にはタオル一枚で入浴した若い女性がいた、との話も聞いた。既に伝説と化しているらしいけど、もし本当なら尊敬に値する豪傑だね!
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独鈷の湯のすぐ下流、修禅寺門前に架かる虎渓橋そばにあった筥湯(はこゆ)で入浴中の頼家が暗殺された、と伝わっている。既に失われて久しいが、今では有料の立ち寄り湯として復活している(詳細)。また独鈷の湯に渡る小橋の横にも無料の足湯が設けられている。
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その他、修禅寺周辺の情報は  修禅寺指月殿頼家廟所範頼の墓所修禅寺奥の院安達籐九郎の墓横瀬八幡社 を参考に。(全て別窓)
関連して、2003年7月19日に修禅寺で行われた 頼家八百年忌の風景(別窓) で。


     

        左: 2回目の流失後に再建した独鈷の湯(2005年頃か)。この三年ほど後には台風の出水で石組みと共に跡形もなく流失、現在の姿はこちら
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        中: 昭和初期に同じ角度で撮影した湯屋の写真。簡単な囲いと屋根があるだけで、当然この頃は混浴の共同湯だった。いいなぁ混浴。
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        右: これは最2011年初夏の独鈷の湯。周囲の川床を掘り下げて出水に対処しているらしい。今後は大丈夫かなぁ...と思う。
工事の前はこの辺が少し深くなっていて我が家の犬御用達の水浴場だった。今ではすっかり浅くなって、残念そうに眺めている。

この頁は2019年 9月28日に更新しました。