畠山重忠終焉の地 二俣川合戦 

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二俣川 右:鶴ヶ峰の旭区役所周辺、畠山重忠関連の史跡地図   画像をクリック→拡大表示
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畠山重忠 は僅か134騎を率いて鎌倉を目指した。腹巻程度は着けていた可能性はあるが、基本的に合戦を想定していない軽装である。鎌倉街道の鶴ヶ峰麓、帷子川と二俣川の合流点で 北條義時 の率いる鎌倉の大軍と向き合い、4時間の死闘の末に 愛甲三郎季隆の矢を受けて落命した。
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  ※愛甲季隆: 厚木市西部の愛甲石田、現在の円光寺周辺(地図)を本拠にした横山党出身の武士。
弓の名手として吾妻鏡の流鏑馬記録などに名が残る。建暦三年(1213)の和田合戦では縁戚関係の深い和田義盛 の軍に加わって敗れ、一族と共に滅亡した。
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重忠主従は菅谷館から現在の東松山〜狭山を通る鎌倉街道「上の道」で多摩川関戸(現在の聖跡桜ヶ丘)を渡り、鎌倉街道「中の道」から鎌倉に入るルートを選んでいた。
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義時の率いる鎌倉軍主力は「中の道」を下って帷子川南岸高台の牧が原(現在の万騎が原)に本陣を置き、搦め手の 北條時房軍は北側の「上の道」方向に廻り込んで関戸の渡し方向に撤退する道を塞ぎ、南北からの挟撃体制をとった。鎌倉軍の総勢は一万以上と伝わっており、それが「万騎が原」の地名に転訛した、らしい。実際には三割と考えても完全武装の御家人3000名vs軽装の134名、当時の合戦は矢戦がメインで、矢の準備が少ない上に防御の甲胄がなければ致命的な敗北を喫するのは必定である。
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戦場となった鶴ヶ峰一帯は昭和五十九年(1984)の帷子川改修工事などの影響で合戦の遺構は失われ、僅かに看板と戦場の後を示す石碑程度が残るのみ。従って史跡と呼べるのは六つ塚と駕籠塚程度で、残りは雰囲気を感じ取れば済むし一度歩けば事足りるので簡単な案内地図を作っておいた。
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駐車場が少なく、「A」のフードマーケット・マムに車を止めて歩く方が良い。一番離れた「F」の「矢畑・越し巻き」(ここが主戦場で、対岸の丘から放った鎌倉勢の遠矢が降り注いだ、あるいは重忠が包囲され最期を迎えた場所と)は脇道に路駐できるし、それ以外の区役所周辺は全部歩いても3km弱で済む。二俣川駅南側に広がる「万騎が原」などは(個人的な感想だけど)遠望すれば十分だ。


     

        左: 市役所裏手の「首洗い井戸」と「鎧の渡し」の標識(地図B)。河川改修と区役所建設の影響で木柱だけになった。愛甲三郎が討ち取った重忠の
首はこの近くにあった井戸で清め鎌倉に運んだ、と伝わる。また「鎧の渡し」の名は水量の多かった川を渡るため武士が鎧を頭に載せた故事
から名付けた、らしい。この近くにある筈の首塚(層塔と地蔵尊)は、残念ながら完全に見落としてしまった(涙)。
「鎧の渡し」は川沿いの公園辺りかな、という事で、(地図C)。市役所から緑道を歩いて水道道を潜ればすぐ近くだから、ね。
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        中: 水道道のすぐ下の緑地に建つ「畠山重忠公の碑」(地図D)。背後に帷子川、鎌倉軍が重忠主従を狙って遠矢を射た「万騎が原」が見える。
すぐ下が帷子川と二俣川の合流点、ここは何となく合戦場の風景が残っているような気がして悪くない。
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        右: 「畠山重忠公の碑」(地図D)。重忠没後750年の昭和三十年に鶴ヶ峰と川本町(生誕地)の有志が協力して建てたらしい。


     

        左: 同じく(地図D)の石碑横に生えている「さかさ矢竹」。討たれた重忠は「私の心が正しければ、矢から枝葉が出て繁茂せよ」と言い遺して
二本の矢を地に立てた。やがてこの矢が根付き、毎年2本づつ増えたと伝わる。もちろん場所も矢竹の種類も異なるし只の伝説だけど。
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        中: 重忠主従の亡骸を葬ったと伝わる薬王寺(地図E)。昔は土饅頭が六個あったと伝わるが現在は素性の判らない四個があるだけだった。
表示があったとしても信頼性は乏しいけどね。毎年6月22日の命日には慰霊祭が開かれている。
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        右: 最近になって御影石で囲ったらしい土饅頭@。


     

        上: 最近になって御影石で囲ったらしい、左から土饅頭A、B、C。


     

           上: 鶴ヶ峰神社の右手にある駕籠塚(地図G)。合戦の知らせを受けた重忠室の「菊の前」は菅谷から駆け付けたが重忠は既に討死していた。
菊の前は駕籠の中で自害し、そのまま埋葬されたため駕籠塚と名付けられた。昭和初期までは東側にあったが、浄水場の完成に伴ってここに
移設された。伝承に従えば菊の前のモデルは正妻の 北條時政 の娘(足利義純 に再嫁)ではなく、最初の妻 足立遠元の娘だろう。
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畠山の名跡は時政の娘が再嫁した足利義純が重忠の係累に代わって継承したが、遺領の大部分は(冤罪の判明にも拘らず)北條一族と
御所の女房たちと参戦した御家人が分配している。独裁に正義など有り得ないのは...現代でも変わらない。
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国会で圧倒的多数を占めた自公内閣に君臨する安倍晋三の政権運営を見れば判る。多数を背景にして不正を働く一党独裁だからね。
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         ※足立遠元: 武蔵国足立郡を本拠にした古参御家人で 安達盛長は年上の甥、頼朝死後は13人の合議制にも加わった。天野遠景 の父説あり。
四人の娘がそれぞれ藤原光能(院の近臣)・北條時政・畠山重忠・北條時房に嫁し、巾広い縁戚関係を持っていた。

この頁は2019年 10月 5日に更新しました。