北條時政が建立した願成就院 

 
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NHKが1979年に放映した大河ドラマ「草燃える」の最初の舞台が守山の東麓にある願成就院の周辺で、平安末期〜鎌倉時代の黎明期の物語には必ず登場する記念碑的な存在(地図)である。吾妻鏡には「頼朝の奥州征伐成就を祈った時政が文治五年(1189)6月に上棟し大伽藍を建てた」と書かれているが、本尊を含む諸仏の造像は上棟三年前の文治ニ年(1186)5月3日に運慶が着手したと思われるため、実質的には時政による北條の氏寺建立だろう。
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時政が文治五年(1189)に大御堂・承元元年(1207)に南塔を建て、二代執権 北條義時 が時政没後の建保三年(1215)に南新御堂を建て、三代執権 泰時 が嘉承元年(1235)に北塔を建てた記録が残っている。50年以上の年月を費やして壮大な堂塔群と庭園が完成した、とされる。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 6月6日】 
北條時政 は奥州征伐の成功を祈願するため伊豆の国北條に寺の造営を計画した。願成就院と名付け、日取りが良いこの日に柱を建て上棟式を行った。本尊は阿弥陀三尊であり、不動明王と多聞天の像は既に造られ準備されている。時政は北條に出向いて周到に準備の指示を済ませた。北條は田方郡内にあり、南條と北條と上條と中條が境を接している。先祖の事跡を尊んで寺の姿を整えたものである。
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北條のルーツは第五十代 桓武天皇 の皇子 葛原親王、その子が 平高望 と伝わっている。その子が 国香、そして維将−維時−直方(この辺から根拠が乏しくなり偽称疑惑が濃厚になる)、維方・・・・・・時政。時政が主張する曾祖父の直方は「熱見(熱海)の和田に住んで和田四郎太夫と名乗り、後に韮山に移住した。直方の子・時直も 伊豆山走湯権現(別窓)に宝塔一基を寄進した、と走湯山縁起には記録されているが、ほとんど経歴詐称の世界だ。

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守山周辺の鳥瞰 右:大部分が願成就院の苑地だったと伝わる守山の東麓  画像をクリック→拡大表示
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韮山挙兵当時の 北條時政 の実力は微々たるもので、石橋山に於ける頼朝の全兵力300騎の一部・30騎ほどを動員したに過ぎなかった。三浦・比企・狩野・千葉一族の軍事力に比べればとても打倒平家の主力とは成り得なかったが「将軍頼朝の外戚」の地位を利用して徐々に発言力を増していく。
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そして奥州藤原氏が滅び頼朝が没した後に幕府の実権を掌握した時政は...半生を賭けた覇権の夢が実現して氏寺の更なる整備に着手した。500mほど北、堀越御所跡(別窓)の更に先まで苑池の跡や礎石が残る、まさに 平等院や平泉の毛越寺(別窓)に匹敵する巨大寺院で、古川の水を引き込み守山を借景に利用した一帯の全てが寺域だったらしい。
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幕府執権の座に就いた北條時政だが、三代将軍実朝の元久二年(1205)7月に後妻 牧の方が産んだ娘の婿 平賀朝雅(信濃源氏の名門 平賀義信 の子)を将軍にしようと画策して実子の 政子・義時連合に全権を剥奪された。出家を強要されて故郷の北條に隠居し、その10年後に波乱の生涯を終えた。共に出家した牧の方(頼朝助命を嘆願した平清盛の継母 池禅尼 の実の姪)は京に帰り、嘉禄三年(1227)には時政の十三回忌を盛大に執り行っている。その際に一族を連れて豪奢な寺社詣をしている様子が 藤原定家の明月記には批判的に描かれている。
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康正三年(1457)に室町幕府の八代将軍足利義政は弟の政知を鎌倉公方(将軍の代行)として関東に派遣したが情勢不穏のため鎌倉に入れず、伊豆韮山の堀越に留まって御所を建てた。敵対した鎌倉公方の足利成氏も鎌倉を放棄して下総古河に移り、鎌倉は駿河守護今川範忠が制圧。2人の鎌倉公方(厳密には堀越公方と古河公方)が東国に並立する状態となった。政知は延徳三年(1491)に病死、後継に指名された次男の潤童子(後妻の子)は生母の円満院と共に異母兄の茶々丸が殺して公方の座を奪取した。
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そして明応二年(1493・異説あり)に駿河興国寺城の伊勢新九郎(後の北条早雲)が公方家の内紛を鎮める名目で堀越に攻め込み、茶々丸は御所に放火して自殺(現在は追放説が有力)。この動乱の時か茶々丸が異母弟を殺した時かは明確ではないが、願成就院はほぼ全焼した。更に100年後の天正十八年(1590)には秀吉小田原攻めの兵火で堂宇の全てが焼き尽くされ、辛うじて寺僧が本尊と諸仏を避難させたが、その他は全て灰燼に帰した、と。


     

        左: 願成就院の山門。宗派は高野山真言宗で山号は天守君山、右側突き当りに挙兵の際に 頼朝 が本陣を置いた 守山八幡(別窓)の鳥居が見える。
背後の山を越えた狩野川の右岸が北條館跡の発掘現場。
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        中: 参道正面の大御堂は昭和33年の建立で伝・運慶作の仏像を納めた宝物殿を兼ねる。本堂は左手、萱葺きで寛政元年(1789)に建立された。
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        右: 山門横の古い石塔群の裏手に北條時政の墓所がある。政子も義時も泰時も含め北條一族は誰も葬られていないから、時政個人の氏寺だ。


     

        左: 現在の墓石は江戸時代に再建されたもの。鎌倉時代に建てた筈の墓石は行方不明で、これはいくら調べても手掛かりさえ見付からない。
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        中: 品格の欠片も見られない御影石の柱は、1979年のNHK大河ドラマ「草燃える」の放映記念。時政の法名・願成就院殿明盛大禅定門に加えて
765年遠忌と刻んであった。こんな物を並べて建てる神経は理解できない。これは2005年に撮影したした画像。
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        右: こちらは2015年11月の撮影。また誰かが新しい宝鏡印塔を寄進したようで、左画像の背後にあった層塔がどうなったのか全く判らない。
古い記録に拠れば時政の墓は「願成就院門前の畑の中にあった高さ3尺5寸(約106cm)の自然石」で願成就院殿明盛大禅定門と刻まれていた、
との記録があるが、天正十八年(1590)の秀吉小田原攻めの戦火の中で失われたらしい。
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時政42歳の時(挙兵した治承四年・1180年)に自分で<彫った坐像なんて信用できないし、明らかに後世の修復を受けた痕跡がある。


     

        上: 山門の左手に残っている南塔跡。竹垣で囲まれた10m四方ほどのエリアが基壇で礎石が置かれているが、これは発掘された状態なのか
造り直されたものなのか不明。住宅密集地が続く400mほど北に建つ光照寺付近まで池や島が造られていたことが一部の発掘で判明しており、
1200年代初頭には背後の守山まで借景に取り入れた浄土式の庭園を持つ壮大な伽藍配置が完成していたらしい。


     

        上: この南塔は、嫡男の義時に執権の座を奪われて失脚した時政が北條に隠居した二年後に完成供養を行っている。建仁二年(1207)11月19日の
吾妻鏡に「遠州禅門(時政)の御願として、伊豆国の願成就院の南の傍らに塔婆を建立せらる。今日供養を遂げらる。」との記載がある。
これが五重塔か三重塔か、或いは多宝塔なのかは確認できず、山門の位置から判断して南塔なのは間違いないが規模も形状も不明。せめて
伽藍配置程度の解説は欲しいものだ。


     

        左端: 阿弥陀如来像  木造142cm  国の重要文化財 → 国宝
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        中: 毘沙門天像  木造148cm、不動明王と同様に阿弥陀如来の脇侍  国の重要文化財 → 国宝
不動明王像(木造137cm)と脇侍の二童子像(左の制咤迦(せいたか)童子が82cm・右の矜羯羅(こんがら)童子が78cm、いずれも重文) → 国宝
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        右端:参考・・・美術品オークションで話題になった、建久四年(1193)作とされる運慶作の大日如来像(真如苑蔵)、66cm

左の三体は願成就院の所蔵。運慶青年期(35歳頃)の作で、当時はまだ父康慶の元で働いていた叙位のない小仏師だった。この三像が父を離れた初めての大仕事と言われているが、一部の損傷や後世の彩色などがあり国宝の指定に至っていなかった。不動明王胎内の銘札は江戸期の解体修理で取り出された形跡があり運慶作は疑問視された。その後にニ童子の胎内にあった銘札が横須賀の 浄楽寺(参考サイト)が収蔵する運慶作の不動明王像と毘沙門天像から見付かった銘札と同じだった事を根拠にして真作と認められた。運慶初期の作品が三体も一緒に戦火から守られたのは奇跡的なのだが...。

※国宝指定: 2013年2月27日、国の文化審議会が願成就の仏像五体(阿弥陀如来坐像・毘沙門天立像・不動明王像と脇侍の二童子)を国宝に指定
するよう文部科学省に答申した。「近年の研究進展により」との評価は「何を今更」の感はあり、異説が多い中でのやや強引な指定だった。主として胎内の銘札に「運慶作」と記してあったのが根拠らしいが、江戸時代に解体修理された痕跡があったらしい。これは逗子市芦名の浄楽寺の阿弥陀三尊像が運慶作と決まった例と同様で、答申の経緯にも胡散臭いものが感じられる。
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1969年に没した美術史家で仏師の様式研究の第一人者とされた小林剛氏の評論から、願成就院と浄楽寺の仏像に関する著述を転載する。
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近頃の一説としてこの浄楽寺の阿弥陀三尊像(右画像(重要文化財)・クリック→ 拡大表示)などを仏師運慶の作とする説がある。それはこの寺に文治五年(1189)に運慶が造ったという造像銘札を持つ毘沙門天像が伝えられている事によって、それをこの三尊像にまで押し及ぼした話であり、さして深い理由のあることではない。
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それよりも、いまこの三尊像の彫刻としての様式なり手法なりを振り返ってみると、その中尊はかなり写実的な要素の強いもので、これをやや肥満し過ぎたような一種の癖のある造形に仕上げ、また脇侍はいずれかと言えばかなり形式的な様式をもって、やや堅い感じのものにまとめられている。これらの特色は、ほぼ鎌倉前期あたりのものであろうが、いわゆる運慶とは程遠いものと言わなければならない。
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願成就院の落慶供養は文治五年(1189)6月6日、本尊として祀られた阿弥陀三尊像と不動・毘沙門天の両像はそれより少し前頃に造られたもので、文治二年(1186)に仏師運慶によってものされたものであったことが、今もなお寺に残っている二枚の造像銘札によって知られ、この不動明王像がその一つだと伝えられている。
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しかしこの像の様式にはかなり著しい写実があり、それがなかなか良くこなされてはいるが、これをすぐに巨匠運慶とするのはどうも少し憚られる。造立年代からして問題であろう。浄楽寺の寺伝に拠れば、この阿弥陀三尊像は文治五年(1189)に頼朝が父の菩提を弔って建立した勝長寿院の本尊とされているが、これはどこまで信用できるか疑わしい。
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上段(右側・四体並べた右側)の大日如来像は、願成就院の仏像を彫った6〜7年後に 足利義兼 の依頼を受けて彫った、鑁阿寺(別窓)奥の院の 樺崎寺(法界寺・別窓)の本尊。文治二年(1186)に韮山の願成就院、文治五年(1189)に三浦半島(横須賀)の浄楽寺、そして建久四年(1193)に足利の鑁阿寺と続く、関東に於ける運慶の造佛活動の一環である。
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この大日如来は明治維新の廃仏毀釈の際に流出し骨董商を経て個人の所有となり、2008年のクリスティーズ競売に出品されたもの。1280万ドル(当時のレートで約12億5千万円)で宗教法人「真如苑」が落札した。本来は信仰の対象だった仏像がこんな形で世に出た事には、何とも割り切れない思いがある。

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運慶の作を4点、年代順に左から・・・
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   左端: 奈良 忍辱山圓成寺(wiki)多宝塔の本尊・大日如来像。父の康慶から初めて任された仕事で、台座裏に「大佛師康慶實弟子運慶」の墨書がある。
安元元年(1175)11月24日に着手し翌年10月19日に完成。藤原時代の様式から力感の溢れる鎌倉彫刻への過渡期、運慶25歳前後の作品。
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   左中: 上のモノクロ写真のカラー版、伊豆願成就院の不動明王と二童子像。胎内には2枚の塔婆形造像銘札が残されている。
文治ニ年(1186)5月3日に着手し文治五年6月6日に落慶供養。運慶35歳頃の作とされるが異論もあり、国宝指定は平成25年となった。
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   右中: 奈良 東大寺(公式サイト)南大門の金剛力士像の阿形像。運慶・快慶(同年代を生きた慶派の佛師)を含む大佛師4人と小佛師16人の作。
建仁三年(1203)7月24日に着手し、70日後の同年10月3日に完成。力強さから最も典型的な鎌倉彫刻と評価される。50歳を過ぎた頃の作。
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   右端: 奈良 興福寺(公式サイト)北円堂四像の一つ・無著(むちゃく)像。藤原氏氏寺の興福寺造仏を従来の院派に替って初めて慶派が命じられた。
承元二年(1208)12月17日に着手し建暦二年(1212)頃に完成。運慶を主に、高弟の源慶・静慶と6人の子息が造った。60歳近い頃の作。
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蛇足..運慶の足跡をラフに表現すると
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1.父・康慶の弟子としての立場で蓮華王院や園城寺などの小さな仕事を仕上げていた、長寛〜文治(1163〜1189)の青年時代、
2.東大寺・興福寺・東寺・神護寺などで多くの造仏を手掛け、法橋→法眼→法印と昇位した建久〜建暦(1190〜1212)の壮年時代、
3.鎌倉で実朝持仏堂本尊や義時の大倉新御堂仏像や政子発願の勝長壽院仏像などを造り、また運慶自身が一門の繁栄を願って建立した京都の
  地蔵十輪院で多くの仏像を造った建保〜貞応(1213〜1223)の晩年時代、に分けられる。なお、鎌倉で彫った仏像は兵火などで全て失われた。
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八条高倉(京都駅東側、高倉跨線橋付近)に建てた地蔵十輪院の仏像は十輪院→栂尾の 高山寺(公式サイト)を移転する間に火災などで失われ、本尊だった
地蔵菩薩坐像(拡大画像)が 六波羅蜜寺(公式サイト)に伝わっているのみ。手元にあるのは白黒画像のみだが、運慶円熟期の作品(重文)として注目に値する。
なんで願成就院の仏像が国宝で地蔵菩薩が重文なの? と思うが、「十輪院にあった」と裏付ける資料が見当たらないのが理由らしい。

この頁は2019年 7月14日に更新しました。