義仲の墓所 大津膳所の義仲寺 (ぎちゅうじ)  


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義仲寺はJR琵琶湖線の膳所駅(京阪石坂線の京阪膳所駅)から歩いて5分ほどの距離(大津市馬場1−5−12、地図)にある。拝観は9〜17時(冬は16時)で祭日以外の月曜休み、拝観料は200円、たぶん今でも変わっていないと思う。周辺の道路が狭いうえに駐車場も少ないので琵琶湖沿いの商業施設の有料Pを利用する方が間違いない。西武かパルコ、いずれも300円/1時間ほど。
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旧東海道に面した山門を入ると右に受付と資料館と朝日堂、左に手洗いと粟津文庫と無名庵が続く。中央の中庭には手前から巴塚と義仲の墓と芭蕉の墓、突き当たりに木曽八幡社。狭い庭には俳人の句碑が点在している。今では義仲の墓がある寺としてよりも、芭蕉の墓や所縁の句碑などを見るファンの方が多いらしい。
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ともあれ、大津の一帯は都にも近いため古くから交通の要所として繁栄し 比叡山延暦寺園城寺(三井寺)石山寺瀬田唐橋(wiki)、今井兼平の墓平等院堅田浮御堂 など、心惹かれる名所旧跡も多い。(浮御堂のみサイト内リンク、wikiの表示以外は公式サイト)


     

        左: かつては琵琶湖畔の景勝地で粟津が原と呼んだ大津膳所の義仲寺。寿永三年(1184)1月、宇治で義経勢に敗れた 木曽義仲は瀬田を突破し
大津の打出ヶ浜で 今井兼平と合流。残る300騎を率いて甲斐源氏 一條忠頼 の6000騎と最期の死闘を繰り広げ、粟津の松原で自刃しようと
したが馬が深田に入って動けなくなった。ここで三浦の石田為久の矢に射取られ(平家物語)、首のない死体が埋葬された。
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六条河原に晒された義仲首級の正確な情報はないが、慰霊墓の他に数ヶ所の首塚あり、その一つ京都の 高台寺(外部リンク)を紹介しておく。
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今井兼平の墓は膳所から4kmほど南東のJR石山駅近く(地図)にあるが、江戸時代の膳所藩二代藩主本多俊次が建てた慰霊墓を今井家の
子孫が再建したもの。胴塚としては離れすぎている。また兼平が開基と伝わる川中島の切勝寺そばの今井神社(地図)にも兼平塚がある。
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※石田為久: 三浦義継三男の葦名為清(三浦義明 の弟で 岡崎義實 の兄)の嫡子為景の子で、相模国石田郷(現在の伊勢原市)を本拠とした。
義仲を討った恩賞として近江国石田村を得て土着、石田三成が子孫を称している。平家物語と吾妻鏡は石田為久が討ち取った、
愚管抄は義経郎党の 伊勢義盛 が討ち取った、と書いている。
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【吾妻鏡 元暦元年1月20日】
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蒲冠者範頼九郎義経頼朝 の代官として義仲追討のため数万騎を率いて上洛。範頼は勢多から、義経は宇治から攻め上った。
義仲は 志田義廣義朝の弟)や今井兼平らと防戦したが敗北した。範頼と義経は 河越重頼 と嫡男重房 ・ 佐々木高綱畠山重忠
渋谷重国 らを伴い御所を警護、一條忠頼 らが前線に向かい、近江国粟津で相模国の住人石田次郎が義仲を討ち取った。
錦織義広(近江源氏山本義経の子)らは行方不明になった。
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        中: 朝日堂の前から義仲の墓を見る。背景に立つ樹の奥に芭蕉の墓があり、その前が心字池となる。境内はよく手入れされているが如何にも狭い。
伝承に拠れば、義仲討死の数年後に美しい尼僧が義仲の墓近くに庵を結んで供養を続けた。里人が由縁を尋ねると「無名の女」と答えるだけ
だったが、実は落飾した義仲愛妾の 巴御前だった。庵は「無名庵」と呼ばれ、尼の死後に巴寺→ 木曽寺→ 木曽塚→ 義仲寺と名を変えた。
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ちなみに巴の名が現れたのは平家物語が最初で、源平盛衰記などに載っている記事は全て平家物語に脚色を加えたフィクションに過ぎない。
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        右: 義仲の墓は土壇の上に建つ宝篋印塔。戦国時代に近江国守の佐々木氏が荒廃を嘆いて再建したと伝わるが、宝篋印塔はその頃の物か。
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【平家物語 巻九 木曽最期】 (主要部分のみ、抜粋)
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義仲の300騎は一條忠頼率いる6000騎に突入し散々に戦って残るのは50騎ほどになった。更に 土肥實平 の3000騎と戦うなど激戦を
繰り広げて残ったのは主従五騎のみ、その中には巴もいた。義仲は「自分は討死するか自害する覚悟だが、最期の戦いが女連れだったと
言われるのは心外だから落ち延びよ」と巴を説き伏せた。巴が最期の一戦を、と考えたところに武蔵国で剛勇を誇った御田八朗師重の30騎と
遭遇、組み付いて馬から引き落とし首をねじ切ってから甲冑を捨てて東国へ落ちた。残るのは義仲と今井四郎兼平のニ騎だけになった。


     

        左: という訳で、これが狭い義仲寺境内の一角に残る巴塚。平家物語は「義仲は信濃を出る時から 山吹 という名の便女二人を伴っていた。
山吹(清水義高の生母説あり) は病のため今回の戦陣に加わらず都に留まった。巴は色白で髪が長く、優れた容貌で強弓を使う一騎当千の兵
(つわもの)である。」
と描いている。巴の出自についての確証はなく、架空の人物と考えるのが定説。木曽で義仲を養育した中原兼遠の娘で、
もし実在であれば義仲の腹心だった樋口兼光と今井兼平の妹とするのが一般的。
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源平盛衰記では「強弓を引き荒馬を乗りこなす。粟津原の合戦で 畠山重忠 に組み付かれた際には自分の鎧袖を引き千切って逃れた。
街に東国に下って 和田義盛 の妻となり、強力で知られる 朝比奈義秀 を産んだ
という、嘘を並べたダイナミックなヨタ話もある。
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※便女とは: 身辺の世話をする女性。まぁ言葉通りに直訳して「便利な女」とするのも間違いではないだろうが、少しイメージが悪い。
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※義秀を産んだ: 朝比奈義秀の生誕は安元二年(1176)、義仲が木曽にいた頃なので巴が義盛の子を産める筈がない。
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        中: 一瞬の輝きを残した義仲を深く愛した俳人松尾芭蕉の墓。芭蕉は元禄四年(1691)に無名庵を建てて再三滞在し元禄七年(1694)の
10月2日に大阪で死没、遺体は淀川を舟で遡り、遺言に従って義仲の隣に葬られた。弟子の丈草が墓守として生涯を送ったと伝わっている。
義仲忌は1月の第三日曜日、芭蕉忌(時雨忌)は11月の第二土曜日に開かれる。
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      芭蕉の辞世句  この道や ゆく人なしに 秋の暮れ   生前最期の句 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐ
      元禄四年秋に無名庵に滞在中の芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・又玄(ゆうげん)の句が有名  木曽殿と 背中合わせの 寒さかな
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        右: 昭和54年(1979)11月に改築された義仲寺本堂である朝日堂。本尊として正面に聖観世音菩薩の木像を祀る。


     

        左: 朝日堂の内部。右側の厨子に木曽義仲と 清水義高親子の木像を収蔵し、左側に義仲・今井兼平・芭蕉・丈草などの位牌31柱を祀る。
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        中: 芭蕉の七十回忌に義仲寺を訪れた俳人の僧・蝶夢が寺の荒廃を嘆いて境内を整備し、明和六年(1796)に翁堂を再建した。
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        右: 正面に芭蕉の坐像・左右に丈草と去来の木像、横に陶器の蝶夢像を安置し、左右の壁に俳人36名の画像を掲げている。
天井画の四季花卉図は日本画家の伊藤若冲(1716〜1800)が翁堂の完成翌年に描き、安政三年(1856)に類焼して失われた。
現在の画は明治二十一年(1888)に俳人の穂積永機(1823〜1904)が再製作して奉納したもの(参考画像)。

この頁は2019年 8月11日に更新しました。