権五郎景政を祀る 鎌倉坂ノ下の御霊神社 

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御霊神社の鳥瞰 右:鎌倉坂ノ下地区 御霊神社に登る石段     画像をクリック→拡大表示

第50代 桓武天皇 の皇子 葛原親王 が臣籍に下って平姓を名乗り、六代後の章名が(推定1040年前後に)相模に定住し、相模国郡司の丸子氏の婿となって鎌倉を領有した。章名の四男景成の子が当時 満18歳ながら 後三年戦役の最終局面となった 金澤の柵攻防(別窓) で有名を馳せた 権五郎景政 である。
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奥州から凱戦した景政は相模国中部の荒地開拓に尽力し、広大な農地を伊勢神宮に寄進して大庭御厨を立荘した。これが梶原氏を含む鎌倉党の始まりで、梶原郷は章名の二男景通の曾孫景時が継承して梶原氏を名乗った。従って景時から見ると権五郎景政は大叔父に当る(坂東平氏の系図を参照)。
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頼朝が鎌倉入りして東国の覇権を握るまでの梶原郷は 梶原景時 の本拠だったと思うが、その後の経過が良く判らない。相模国一ノ宮の館(別窓)に本拠を移したのが頼朝の東国支配権確立直後だったのか、建久三年(1192)に侍所別当に就任した前後だったのかは調べる必要がありそうだ。更には 鎌倉章名(wiki)を共通の先祖にしながら同族の 大庭景親 の風下に甘んじた感のある景時が平家を見捨てた経緯などを調べるのも面白そうだ。
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鎌倉時代の梶原郷には 八幡宮〜窟小路〜化粧坂を越えて源氏山公園の南を抜け、相模国府のあった現在の大磯に向かう鎌倉街道(後世の呼称・地図)が通っていた。当時の主要道であり、元弘三年(1333)の鎌倉陥落の際には 新田義貞率いる倒幕軍と金沢時盛率いる防衛軍が化粧坂で死闘を繰り広げる。
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  ※六代: 桓武平氏の梶原氏系図は 葛原親王−平高望−良文−忠光−忠通−鎌倉章名(景名)−景通−梶原景久−景清−景時 と続いている。
ただし平高望の存在を否定して鎌倉章名を五代目と考える説も多い。
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良文 の長兄 国香 の子孫 に清盛 や北條氏(系図は不明確)、次兄良兼 の子孫に越後の 城資永、次々兄 良将 の子に将門 がいる(「平氏の系図」を参照)。章名は(1040年頃に)相模に定住し、郡司の丸子氏の婿となって鎌倉を領有、梶原郷は章名の二男景通の曾孫景時に継承されている。
四男景成の子が 義家に従って後三年の役を戦い、後に相模の荒地を開拓して大庭御厨(伊勢神宮領)を立荘した権五郎景政に続く。
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新編相模国風土記「坂ノ下の御霊神社は鎌倉景政を祀った祠で、元々梶原村にあった社をここに勧請した。祭礼には梶原村の神主が来て勤める」と書いている。また鎌倉攬勝考では「坂ノ下の御霊神社は葛原親王を主祭神とし権五郎景政を合祀した。最初は鎌倉権守忠通が葛原ヶ丘(源氏山)に先祖の葛原親王を祀り、後に梶原村に遷して御霊社と称した。景経の代になって坂ノ下に勧請し景政を合祀した。」と書いている。
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  ※新編相模国風土記: 天保十二年(1841)に昌平坂学問所の編纂、稿鎌倉攬勝考は文政十二年(1829)に八王子千人同心組頭植田孟縉が編纂。
  ※鎌倉攬勝考: 文政十二年(1829)に八王子千人同心の家筋に生まれた郷士・原胤縉が同心組頭植田孟縉の指示を受けて編纂した地誌。

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権五郎景政 は梶原氏直系の先祖ではなく、鎌倉章名の二男景通の系が梶原景久→ 景清→ 景時に続き、鎌倉章名の四男景成の系が権五郎景政→ 景継→ 大庭景宗→ 景義に続いている。従って梶原氏よりも大庭氏の方が権五郎の直系となる。まぁ高望王の子(国香・良兼・良将・良文・良正)の次の代になると錯綜や僭称などもあって信頼できない部分が多く、参考程度にしかならない。まぁど〜でもいいや、のレベルでもあるが。
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坂東平氏には五族(鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏)があって互いに離合集散を重ねながら相模国で勢力を争った。坂東平氏五族の祖霊を祀ったから五霊神社、やがて呼び名が御霊神社に変わっていく。元より源氏ではなく平氏に近かったグループだったが前九年の役では源頼義に・後三年の役で義家に従って...保元平治の乱では再び平家、治承の合戦では更に勝ち馬の源氏に乗り換えた、無節操とも言える生き残り戦略ではあった。


     

        左: 境内に続く鳥居の直前を江ノ電の線路が横切る。元々の参道は極楽寺坂に続く由比ガ浜古道(現在の星の井通り・ 地図)から始まっていたと
推定できる。鎌倉には本来の参道や境内の一部を線路が分断している例が多くあり、明治43年(1911)に開通した江ノ電の片瀬江ノ島〜
鎌倉駅間だけでも御霊神社の他に腰越の満福寺や極楽寺が被害(?)を被っている。小さな古祠を併せると更に多いだろう。
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        中: 本殿に向かって左(西側)、江ノ電唯一の極楽寺トンネル(約200m)を抜け鎌倉駅行きの電車が近付いてくる。別々の国務大臣が銘板を揮毫した
経緯から極楽寺側では「極楽洞」 ・ 御霊神社側では「千歳開道」と呼ばれ、平成22年に鎌倉市景観重要建築物に指定された。
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        右: 創建は平安時代末期で元々は坂東平氏五族の鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の祖霊を祀っており、五霊の韻から御霊神社に
なった、と伝わる。後に祭神を鎌倉権五郎景政に集約し権五郎神社となった。権五郎景政の祖父は鎮守府将軍の平忠道、父鎌倉権守景成の
代から鎌倉に土着し、鎌倉党武士団を率いると共に現在の湘南地区(戸塚・鎌倉・鵠沼・藤沢・茅ヶ崎)を開拓した開発領主でもあった。
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※祖霊とは: 古神道では死者の霊魂はまず死霊となる。供養を重ねる事で個性を失い、30〜50年後に祖霊に祀り上げられると言う。


     

        左: 本殿の裏側は長谷寺に続く山並みが崖の様相を呈している。神徳は志の高さ、眼病平癒、厄除けなどに効果がある。例祭は9月18日、
神奈川県無形文化財の面掛行列が神輿渡御に従って練り歩く。頼朝 が寵愛した非人の娘が身分を隠すため面を着けたのが始まりで、
形状の異なる面を着けた10人の氏子がその様子を表し、孕んだ娘の姿を模した阿亀(おかめ)の面を着けた者も加わっている。
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権五郎景政は16歳で奥州後三年の役(永保三年(1083)〜応徳四年(1087))に初陣し、左眼に矢が突き立ったが返し矢で敵を倒して自陣に
戻った。矢を抜くため顔に足を掛けた三浦平太為次(三浦義明の祖父)を斬ろうとした逸話で名高い。一族の略系図は左側目次の「坂東平氏の系図」で、後三年戦役については 金沢の柵(別窓)に詳細を載せてある。
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        中: もちろん真偽は不明だが、境内には景政が所領を巡回の際に携えた弓を立て掛けたと伝わる松の残骸が残る。その他に境内末社として
稲荷神社・秋葉神社・第六天社・地神社・祖霊社・御嶽神社・石上神社・金毘羅社の祠が並んでいる。
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        右: 景政が鍛錬に使ったとされる16貫(右・約60kg)の袂石と26貫(約98kg)の手玉石。境内左手には鎌倉市天然記念物で神奈川県の名木
100選に載っているタブノキ(高さ20m・樹齢350年)が聳えている。

この頁は2019年 9月19日に更新しました。