鎌倉 鶴岡八幡宮と若宮大路の風景 

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鶴岡八幡宮は前九年の役が終った康平六年(1063)、京に戻る途中の 源頼義 が由比ガ浜近くの鶴岡に石清水八幡宮を勧請したのが最初、と伝わる。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 10月7日】   頼朝、鎌倉に入る。
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まず鶴岡八幡宮(現在の元鶴岡八幡宮)を遥拝し、続いて故左典厩(義朝)の亀谷旧邸の跡を訪れた。ここに新しく舘を建てる予定だったが敷地の広さが足りず、更に 岡崎義實が主人の義朝を弔って建てた寺があったため中止した。
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由比ガ浜若宮の当時の地名は鶴岡。現在の八幡宮がある場所は「北山の小林郷」だったが、再び石清水八幡宮を勧請して「鶴岡」の名称のまま源氏の守護神社とした。建久2年(1191)の火災を契機に上宮と下宮を備える現在の姿に整備された。現在の本殿は文政十一年(1828)に清和源氏の子孫を詐称する徳川家の第十一代将軍家斉が造営し寄進したもので、二代将軍秀忠が寛永元年(1624)に修復・再建した若宮(下宮)と共に国の重要文化財に指定されている。
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【吾妻鏡 同年 10月12日】.
寅の刻(早朝4時)、先祖を崇めるため小林郷の北山に社殿を建てて鶴岡若宮をここに遷し、専光坊を暫定の別当職に任じて詳細を差配を大庭景義に命じた。(中略)後冷泉院の時代、伊予守源頼義が勅命を受け安倍貞任を討伐して戻る途中の康平六年(1063)8月に石清水を勧請して由比郷に下の若宮を建て、永保元年(1074)2月には陸奥守義家が修復を加えた。いま再び小林郷に遷して奉幣し礼を尽くすものである。
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    前九年戦役は1051年〜1062年、頼義は鎌倉経由で凱旋したらしい。しかし義家修復の永保元年(1074)は後三年の役(1083年〜1087年)が
始まる9年も前だから無関係だし、1070年〜1075年の義家は下野守に任じていた。、陸奥守着任は永保三年(1083)だから吾妻鏡の記述には齟齬が見られる。これは吾妻鏡の編纂者が陸奥支配に強い拘りを抱いた頼義と義家親子に配慮した記述なのかも知れない。


     

        左: 現在の段葛はこの(現在の)一の鳥居ではなく、800m北の二の鳥居から始まって八幡宮入口の三の鳥居まで続いている。
頼朝が段葛を建設した当初のスタート地点は一の鳥居で、明治22年(1889)の横須賀線開通に伴って撤去され、今は若宮大路中央に単独で
立っている。建設当初は木造、徳川幕府二代将軍秀忠室・崇源院の夢に現れた弁財天のお告げに従って石造に建て替えた。
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平成二年(1990)には一の鳥居から約150m八幡宮側で鳥居の柱跡が発見され、これが小田原北条氏二代当主氏康(1515〜1571)が
再建した鳥居の跡、つまり頼朝が建立した一の鳥居鳥居の位置と推定されている。現在の若宮大路を横切る唯一の歩道橋の近く(地図)である。
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鶴岡八幡宮の社伝に拠れば、崇源院は八幡宮境内社の弁財天に祈願して三代将軍となる家光を産んだ、と伝わる。更に弁才天は「使用する石は
備前国(岡山県東南部)にある」と産地指定(笑)をしたため、完成は四代将軍家綱時代の1668年、つまり40年以上を費やす難工事だった。
西側の歩道沿いは 畠山重忠嫡男の重保邸跡とされ宝篋印塔と五輪塔が祀られている。
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明治三十七年(1904)に国宝に指定されたが大正十二年(1923)に関東大震災により根元部分を残して崩壊、昭和九年(1934)に古い工法を
取り入れ旧材を生かして江戸時代初期の姿に近い姿に再建された。高さは8.5m、この鳥居だけは朱に塗られていない。
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  ※崇源院: 浅井長政三女でNHK大河ドラマの主人公・江(ごう・淀殿の妹)。母は織田信長の妹・市、秀忠は三番目の夫。
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        中: JR鎌倉駅の近く、約500m続く段葛の桜並木が始まる地点に聳える二の鳥居。一の鳥居と同じ家綱寄進の石造だったが全ては復旧できず、
二と三はコンクリート製になった。若宮大路は防衛のためここから八幡宮にかけて徐々に道巾が狭くなり、また八幡宮に向って段葛の右側が
やや高く造成されていた、と伝わっている。
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        右: ここから八幡宮の境内となる三の鳥居。由比ガ浜から北上する若宮大路と大船から南下する鎌倉街道と朝比奈方面から来る金沢街道が合流
するため、行楽シーズン以外にも絶望的な渋滞を引き起こす地点である。石橋の正面に舞殿と、遠くに本殿が眺められる。


     

        上: 左は太鼓橋を正面から、中は右側から、右は常に混雑する三の鳥居と共に撮影した。太鼓橋は寿永元年(1182)に政子の発願を受けた頼朝が
源平池を造成した際に架けたもので、当初は朱塗りの木橋だったため「赤橋」と呼ばれていた。六代執権 北條長時義時の孫)はこの近くに邸を
構えて「赤橋」を名乗った、と伝わる。現在は通行禁止で、参拝客は石橋の左右を迂回して舞殿の方向へ進む。太鼓橋は関東大震災の際に
三の鳥居と共に崩壊し、その後にコンクリートで再建された。二の鳥居方向に向って左側が平家池、右側にやや大きい源氏池がある。


     

        左: 源氏池の北東から。左に旗上弁財天を祀る島に渡る赤橋が見える。ここにあった弦巻田(渦巻形に苗を植える神田)を放生池に改めたのが
源平池の起源で、吾妻鏡には「三町の水田を池に改めた」とある。当時の一町は3600坪で1.2ヘクタール、従って当初の面積は現在の約3倍、
付属幼稚園の北側で参道を東西に横切る流鏑馬馬場近くまでが池だった計算になる。
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一般には御台所 政子の願いを受けて東の池には白い蓮を植えて産(繁栄)に繋がる三つの島を造り、西の池には赤い蓮を植えて死(衰亡)に
繋がる四つの島を造った、と言われるが、源平池の名の初見は江戸時代中期で、蓮や島の数の語呂合わせは後世の当て嵌めらしい。
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残虐な殺戮を繰り返した割には当時の武士社会の信仰心は異常に思えるほど深かったから、買い求めた生き物を放鳥・放流して功徳を積む
「放生会」はかなり頻繁に、且つ定期的に行われていた。鎌倉幕府の儀式には欠かせない重要な場所である。
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ちなみに、貞享二年(1685年・徳川五代将軍綱吉の時代)に鎌倉を巡った水戸光圀が編纂した新編鎌倉志には東の池に三つ、西の池には
四つの島が描かれているが、源氏池・平家池の名称は書かれていない(参考サイト)。
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        中: この日は平日なので数えるほどしか出ていない屋台だが、休日や正月前後には軒を連ねる。もちろん神社公認の行事ではあるが、個人的には
鬱陶しくて好きになれない。観光地の側面も持つ八幡宮とは言え、神社が本来持つべき静謐な雰囲気には程遠い、と思う。
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ただし頼朝が建てた最初の八幡宮社殿(若宮)や静が舞った回廊があったのはこの平場であり、建久二年3月に全焼した後の11月21日に再建
して遷宮したのが現在の社殿(上宮)の位置である。市街地からの延焼を防ぎたかったのだろう。
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        右: 大石段に登る手前の右にあるのが若宮で、本宮(上宮)に対して下宮とも呼ばれる。その前ではお守りなどの頒布と祈祷の受付などを行う。

【吾妻鏡 建久二年(1191) 3月4日】   八幡宮(若宮)、焼失
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丑の刻(深夜2時前後)に小町大路付近から出火し江間(義時)邸・相模守(大内惟義)邸・村上判官代(源為国)邸・比企右衛門尉(比企能員)邸・
比企籐内朝宗邸 ・ 佐々木三郎盛綱邸 ・ 昌寛法橋(一品房昌寛)邸 ・ 新田四郎忠常邸 ・ 工藤小次郎行光邸 ・ 佐貫四郎広綱邸 など数十軒が
焼け落ちた。更に延焼し幕府庁舎・若宮神殿・回廊・経所などが全て灰燼に帰し、供僧の宿坊少々も被害を受けた。これは邦房が予言した通りの
出来事である。寅の刻に頼朝は 安達籐九郎盛長 の甘縄邸に入った。
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   ※邦房の予言: 火災の前日、侍所に出仕した廣田次郎邦房(大和守維業の息子・素性不明)が「明日鎌倉に大火があり八幡宮も幕府も焼け落ちる」と
予言して同僚などに笑われている。この記載にどんな意味があるかは判らない。
一方で若宮の火災を嘆いた頼朝は翌朝に鶴岡を参拝。(焼失した社殿の)礎石を拝して涙を流し、別当坊で再建について指示を与えた。
その結果13日に仮殿を建てて遷宮し、4月26日には「鶴岡若宮の上の地」に新たな社殿の造作に取り掛かっている。


     

        左: 大銀杏が健在だった2003年の秋に正面から撮影した舞殿。現在の南側に延びている庇は2006年に増築されたもの。
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        中: 神前結婚式もこの舞殿で、衆人環視(緊張するだろうなぁ)の中で行われる(初穂料は15万円)。衣装や披露宴は挙式する側が手配する。
もしも溜め息が出るような美男美女カップルならこんな挙式も楽しいかもね。滅多にない事だろうけど、大安吉日に参拝すれば見物できる
確率が高い。段葛から巫女さんの先導で歩いて舞殿に入る恥ずかしいパターンもあるらしいよ。
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治承四年(1180)に由比若宮から遷された最初の鶴岡若宮はこの付近で、翌・養和元年(1181)7月に本格的な社殿の上棟式が行われた。
建久2年(1191)3月の大火で社殿は全て焼失し、若宮のあった背後の現在位置に本殿(上宮)が新築され、同時に大石段が設けられた。
吾妻鏡に拠れば、若宮跡地の舞殿完成は建久四年(1193)2月27日、つまり静が舞を奉納した文治二年(1186)4月8日から7年も後となる。
白拍子 静 の生涯については長い物語になるので別項を設けたい、と思う。
現在の建物は廃仏毀釈に伴う明治三年の解体以後に再建したもの。さらに2006年には耐震を含む大々的な修理を施している。
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        右: 舞殿の横から大石段を経て本殿(上宮)を。創建当初は舞殿の場所が本殿(鶴岡若宮)で、現在の石段と本殿の一帯は只の裏山だった。
若宮創建の上棟式には 頼朝義経 の不和が始まる典型的な事件(下記)が勃発しているのが興味深い。
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   【吾妻鏡 養和元年(1181) 7月20日】
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鶴岡若宮の上棟式が行われた。手前東の仮屋に頼朝が着座し御家人はその南北に控えた。工匠に褒美の馬を与え、馬を引く役を九郎義経に
命じた。義経は「私が上手の手綱を引くと下手の手綱を引く役に見合う身分の者がいない」と答え、頼朝は重ねて「佐貫広綱畠山重忠 がいる。
この役を卑しんで従うのを渋っているのか」と。義経はその言葉を大いに恐れ座を立って二頭の上の手綱を引き、重忠が先の一頭・広綱が後の
一頭の下の手綱を引いた。その他に土肥實平工藤景光仁田忠常 ・ 佐野忠家 ・ 宇佐美実正(大見実政) らが手綱を引いた。

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馬を引くのはもちろん身分の高い者の仕事ではないが、頼朝としては御家人が揃った公式の場所で身分の違いを明らかにしたかったのだろう。
頼朝の心には専制君主としての自負心と源氏嫡流の誇りがあり、一方の 義経には鎌倉殿の弟だから他の御家人とは違うという甘えがあった。
この小さな溝はやがて頼朝の猜疑心を膨らませて異母兄弟の義経や範頼を殺し、更には同族の義仲や甲斐源氏の粛清・滅亡の悲劇を招いていく。


     

        左: 本宮は石段下の若宮と同じく徳川幕府十一代将軍家斉が文政十一年(1828)に造営・寄進したもの。両方とも国の重要文化財である。
祭神は十五代応神天皇・比売神(諸説あり)・神功皇后(14代仲哀天皇の皇后で応神天皇の母)の三柱、(公式サイト)を参考に。
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        中: 本宮(上宮)の前から舞殿を眺める。八幡宮境内の中で唯一、若宮大路の段葛まで展望できる場所だ。 白拍子 静 が舞った文治二年(1186)には
当然舞殿ではなく、舞殿の位置にあった本宮から左右に伸びる回廊だったと考えるのが定説。
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        右: 東の鳥居から流鏑馬道を。鳥居の右奥に三浦氏の館があり、実朝 の首を抱えた公暁 は北谷(現在の御谷)にあった備中阿闍梨の房から
八幡宮北の峰を越えて三浦邸に入ろうとした所で 長尾定景 に討ち取られた。地図で推定すると鳥居から300mほど、だろうか。


     

        左: 前回は時間がなくて入口で引き返した二十五坊旧蹟・御谷(おやつ)。八幡宮上宮から約200m北に位置するが、鎌倉時代には当時の主要道の
一つ・巨福呂坂切通しの手前まで僧坊が密集していた。近くには 県立近代美術館鎌倉別館鶴岡文庫(共に公式サイト)、承久の乱で流された
後鳥羽上皇 ・ 土御門上皇・順徳天皇の三柱を祀る新宮(今宮)神社がある。上皇と天皇を流罪にした幕府が怨霊を鎮めるため創建した社である。
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        中: 二十五坊創立などの概略は Wikipedia で確認すると早いが、神仏混淆の宗教施設「鶴岡八幡宮寺」の管理官として神官より上の地位にあった
供僧の僧坊群がこの谷に広がっていた。二代将軍 頼家 の遺児 公暁 は八幡宮寺の別当(長官)を務め、八幡宮で三代将軍 実朝 を殺した後に
「雪の下北谷の後見者備中阿闍梨の僧坊」に隠れ、三浦邸に向って八幡宮の土塀を越えた辺りで討ち取られた。御谷周辺の地図 を参照されたし。
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御谷僧房群は宗教面で鎌倉幕府の権威を支えたと同時に、八幡宮住僧の堕落や既得権の擁護など宗教の退廃によって結果的に時宗・禅宗や
新興の日蓮宗などの興隆を招いたという負の側面も持つ。
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        右: 近代の御谷はまた、無計画な乱開発を阻止する運動の発端となった場所である。昭和39年(1964)に御谷地区で大規模宅地開発計画が持ち
上がった際に住民を主体に展開した史跡と環境を保護する「御谷騒動」が勃発、結果として従来の環境を守ると共に、昭和41年(1966)には
古都保存法が成立して国の史跡に指定された。ナショナル・トラスト運動 の原点とも言うべき事件だが...。
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個人的には、地域エゴと紙一重じゃないか、とも思う。既存住民の家も二十五坊跡の上に(遺構を破壊して)建てた筈で、もちろん乱開発は排除
されるべきだけれど、先に入居した既得権の主張という側面はないのか。そもそも鎌倉市内全体が史跡じゃないか、と思う。


この頁は2019年 7月22日に更新しました。