義経の胴を葬ったと伝わる栗原市の判官森 

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古書に拠れば、義経 に親しく仕えていたこの地の領主・藤原(沼倉)小次郎高次が葬儀の後に義経の遺体(胴)を山腹に葬って胴塚とし、五輪塔と石碑を建てた。石碑の中央には「上拝源九郎"官"者義経公」、左に「文治五年閏四月二八日」、右に「大願成就」と刻んである。「冠者」でなく「官者」となっている理由は判らないが、誤字だとしたら相当な低レベルで、これは他山の石と思わなければ。石碑自体にはかなりの経年劣化が認められる。
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五輪塔は兎も角として石碑は後世の作っぽい。また更に登った頂上近くには大岩が転々としている「弁慶森」、麓の小学校入口には義経の筆塚や鞭に使った桜の枝が育った義経鞭桜など、各地で見られる「史跡」も点在している。地元の伝承ではここに埋葬されたのは義経ではなく杉目小太郎行信(沼倉高次の弟)で、義経に似ているため身代わりとなって主人を北に逃がしたという。
杉目行信は湯の庄司 佐藤基治 の子で、平安時代初期に 行基 が建立した大仏寺を治承年間(1177〜1181)に杉妻城(大仏城とも。戦国時代以後の福島城)に改めて本拠とした、と伝わる人物(ただし佐藤氏系図には記載なし)。義経の影武者だったともされるから、義経北行伝説の世界である。宮城県の栗原市金成津久毛には沼倉高次が葬った行信の墓(地図)もあり、詳しく調査するのも面白そうだが、義経伝説に踏み込むと収拾が着かなくなるのでこの辺でブレーキを踏む。
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  ※出典古書: 封内風土記・奥羽観蹟聞老志・封内名蹟志など、いずれも江戸時代中期編纂の風土誌で、掲載内容は伝承の域を出ない。


     

        左: 国道457号から見た判官森の全景。画像の右側に栗駒小学校、頂上近くの弁慶森(撮影位置との標高差は約50m)がある。
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        中: 中腹の判官塚には五輪塔と石碑が建っており、かなり風化しているが石碑上部には笹竜胆の紋がある。現在では義経が笹竜胆紋を使った
との説ははほぼ否定されており、建造の意図とは逆に後世の建立である事の証明になっているとも言えそうだ。
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        右: 判官森から約12km南東の白馬山栗原寺。ここから平泉の秀衡館(伽羅御所)までは真っ直ぐ北に約26kmとなる。次回訪問する際には
発掘された金堂の礎石なども確認したい。


  

判官森周辺の鳥瞰図                 栗原寺周辺の鳥瞰図


この頁は2019年 9月11日に更新しました。