義仲所縁の班渓寺と鎌形八幡 

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以下は具体的な根拠の乏しい伝承の類だが...如何にもありそうな話なので悪くない。吾妻鏡とも概ね辻褄が合うし、ね。
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木曾義仲が近江粟津ヶ原で討死したとき側室の山吹は京都で病床にあり、近くの 北野天満宮(公式サイト)で回復を祈願していた。やがて側室の巴も捕まったと知った山吹は尼の姿で京を脱出、縁を頼り信濃路〜木曽〜佐久〜上野国多胡を経て鎌形に庵を結び、義仲の菩提を弔うため住み着いた。義仲の父・帯刀先生義賢が住んだ大蔵館も近く、義賢側妾の小枝御前が義仲を産んだ地でもある。山吹は鎌倉の義高に会う機会があるか、とも考えたのだろう。
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という訳で義高は寿永三年(1184)4月21日鎌倉を脱出し鎌形を目指して逃げたのだが、結果は前述の通り。
4月26日に入間川で渡った所で討手に追い付かれ、堀籐次親家の郎党・籐内光澄に殺されて首級は鎌倉に運ばれた。
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【吾妻鏡 寿永三年(1184)4月21日  (4月16日改元して元暦元年)】  この部分は入間川の清水八幡宮(サイト内リンク・別窓)の項と重複する。
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昨夜から御所が騒がしくなった。志水冠者義高 は頼朝の婿であるが父の義仲は勅勘を受けて既に討たれ、その子も殺すべきであると頼朝は考えた。
側近の武者にその旨を話しているのを女房(女官)が聞いて大姫に報告したため、志水冠者は今朝早くに逃亡した。女装した義高を女房が囲んで館を抜け出し、隠しておいた馬の蹄に布を巻き音を消して鎌倉を出た。義高の忠実な近習で同年の 海野小太郎幸氏 が寝床から髪だけ出て義高を装い、日中は義高を真似て双六を打って過ごしたため誰も気が付かなかったが、夜になって露見した。頼朝は激怒して幸氏を拘束し、堀籐次親家以下の軍兵を方々に派遣して討ち取るように命じた。大姫 は見るも哀れな状態だった。


     

        左: 南側から見た鎌形一帯。90度に蛇行する都幾川の左岸に沿ってAとBに班渓寺と義賢下屋敷跡、下流の@に鎌形八幡宮の森がある。
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        中: 鎌形八幡神社縁起に拠れば、平安時代の延暦年間(782〜806年)に 坂上田村麻呂 が日向の 宇佐八幡宮(公式サイト)を勧請して祀ったのが
始まり、とされる。年譜に従えば、征夷大将軍となった田村麻呂が蝦夷を従えるため陸奥国に赴き、阿弖流為 と母礼を降伏させた前後、である。
周辺には駐車できるスペースが充分にあり、特に日差しの強い季節なら木蔭に停められるのがありがたい。
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        右: 昭和41年(1966)の台風(24号と26号)のため境内の大杉は全て倒れたという。今では若木が多いが、往古の雰囲気は残っている。


     

        左: 鳥居と本殿の中間にあるのは舞殿を兼ねた神門だろうか、見慣れない配置である。左側の鳥居は石段手前の境内社に続いている。
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        中&右: 社殿に登る石段手前の手水舎(ちょうずや)に竹筒から流れ込むのは義仲産湯の清水。鎌形には湧水が七ヶ所あり、その一つの鎌形八幡の
清水を義仲の産湯に利用したと伝わっている。ちなみに義高が生まれたのは現在の松本市清水で、槻井泉(つきいずみ)神社に湧く清水を
産湯に使って志水(清水)冠者を名乗った(槻井泉神社の地図)。イオンの駐車場から約200m、地名の清水は「しみず」ではなく「しみづ」。


     

        左: 石段の上は拝殿を兼ねた覆い屋で、その内部にある本殿は寛延二年(1749)の建立とされる。一部の建築材は更に古いらしい。
        中: 拝殿の前から参道を。無住の神社だが良く管理され清浄な雰囲気に満ち、古木が多かった頃は素晴らしかっただろうと思わせる。
        右: 拝殿の裏手には境内社の祠が三棟、他に石段前の左右に一棟づつ。周辺には台風後に植樹した樹齢50年前後の杉林が続く。


     

        上: 都幾川左岸に建つ威徳山班渓寺(曹洞宗)。鎌形八幡入口の舗装道路経由で約700mだが、川沿いの細道500m強を歩くのも良い。
威徳山の扁額が架る山門の右側には「木曽義仲公誕生之地」の石碑が建っている。山吹が義仲と義高の菩提を弔って建てた寺が母体で、創建した
当初は真言宗か天台宗だろう。参拝用の駐車場はないが前面道路が広く交通量も少ないので長時間の駐車も問題ない。


     

        上: 山吹の法名は威徳院殿班渓妙虎大姉。質素な佇まいの本堂には班渓寺の扁額が架る。山門左手の粗末な鐘楼に吊られている梵鐘には
【 木曽義仲長男 清水冠者源義高為 阿母 威徳院殿班渓妙虎大姉 創建スル所也 】 と刻まれている。うっかりして鋳造年代や寄進者の詳細などを
確認し忘れてしまった。近くを通った際にはもう一度立ち寄らねばならない。


     

        上: 墓地の一角、歴代住職の墓石に囲まれて山吹の墓と伝わる五輪塔が建っている。現代風な観音菩薩や豪勢な御影石の柱は場違いな雰囲気だが、
まぁご愛嬌と考えるべきか。山吹の死没は建久元年(1190)と伝わるが、五輪塔建立の年代については確認できない。


     

        左: 班渓寺西側の竹薮一帯が義仲の産まれた義賢下屋敷跡と伝わっている。現在の班渓寺敷地を含むエリアで、当時を思わせる遺構などは
確認されていないが、南側を流れる都幾川を天然の壕に利用した平城の機能を持つ館の雰囲気が残っている。
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        中: 都幾川の河原に降りて班渓寺と下屋敷跡の森を撮影。川筋は館の敷地に突き当たって直角に右折し、500m下流で再び直角に左折する。
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        右: 左岸の土手から班渓寺方向を。都幾川を横切る赤い欄干は寺のすぐ横に架る班渓寺橋。下屋敷跡から義賢の大蔵館までは都幾川沿いに
約2.5km、遊歩道もあり緑豊かな公園なども点在しているので時間があれば遊歩道の散策を楽しむのも面白い。


この頁は2019年 6月12日に更新しました。