衣の関跡、衣の関道、接待館と七日市場跡 

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接待館は藤原氏初代の清衡が迎賓館として建てたと考える説もあり、二代基衡と親しかった鳥羽院の近臣 藤原基成 の屋敷がここにあったと考えられている。
藤原基成は康治元年(1143)4月に陸奥守・6月に鎮守府将軍を兼任して平泉に下向し、基衡と親しく交わった人物。久寿二年(1155)に任を終えて帰洛したが、平治の乱(1159)を主導した異母弟の信頼に連座して陸奥流罪となり、平泉に移住した実務官僚。娘が 秀衡 に嫁した関係から奥州藤原氏の政治面での顧問として、また秀衡の義父として陸奥国運営に大きな影響を与えている。
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    右:衣川の北側、奥州市に点在する史跡群      画像をクリック→ 拡大表示
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義経 の生母である 常盤義朝の側妾)の再婚相手 一條長成 は藤原基成の父の従兄弟であり、元服前の牛若丸(後の義経)が 鞍馬寺(公式サイト)から奥州に逃げたのも、平家滅亡後に 頼朝 と不仲になった義経が平泉に逃げたのも、共に常盤→ 長成→ 基成→ 秀衡のルートで話が通じていたから。
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この経緯などから、義経が住んだのは自刃の地と言われる高舘ではなく藤原基成の館で、義経主従が 泰衡 の兵と戦った「衣河の合戦」はこの一帯で行われたと考えるべきだろう。高舘は衣河から1km以上も離れているのだから、高舘で「衣河の合戦」として記録に残る理由がない。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 閏4月30日】
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今日陸奥国で泰衡が義経を襲撃した。これは朝廷の意向と同時に頼朝の意向でもある。
義経は藤原基成の衣河館にあり、追討に向った泰衡の兵数百騎を義経の家人が防いだが全て討ち取られた。持仏堂に入った義経は妻(22歳)と娘(4歳)を殺した後に自殺した。前伊予守従五位下・源朝臣義経(義行、義顕と改めた。31歳)、左馬頭 義朝 の六男、母は九條院の雑仕常盤、云々。
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  ※藤原基成: 平泉が陥落し泰衡が殺された二ヵ月後に3人の息子と共に出頭し捕縛された。その後に許されて京に戻ったが以後の消息は不明。
  ※義行、義顕: 行方が判らなかったから「義行」、早く顕(あらわ)れるように「義顕」と勝手に改名したのは鎌倉側らしい。笑える。
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北上川の水運を利用した物流の要所だった衣川一帯には接待館を中心にして六日市場と七日市場が定期的に開き、交易で繁栄した初期平泉のハブ的存在だった。清衡が創建した金色堂を初めとする中尊寺の堂塔群は平泉の南部からは見えず、関山の北を流れる衣川地区からは美しい輝きを見せていた。つまり中尊寺は奥六郡の北部を意識したからこそ創建された寺院であり、衣川の北側こそが初期平泉の都市機能を担った中心だったと考えて良い。
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平泉は初代清衡の後期から南東北の勢力との提携が進み、毛越寺や観自在王院の建立に伴って南へ中心を移しつつ発展した。平泉は衣川をはさんだ北と南の2つの市街地を持つ複合都市だったが、嘉保年間(1094〜1095)から始まった平泉の繁栄も文治五年(1189)9月、100年間の夢を残して滅亡してしまう。


  

        左: 中尊寺北部の鳥瞰図。奥大道は中尊寺本堂の左→金色堂の右→大長寿院の左を経て衣川南岸に下り、衣の関道を通って接待館へ。
大長寿院と衣川を結ぶ道は残っていない。文献に拠れば大長寿院から西へ200m進み、直角に北に折れ、約150m下れば衣川南岸、この河岸
付近に藤原氏時代の正式な関所が置かれていた。安倍氏時代の衣の関は更に1km上流になる。平泉再訪用に作った 史跡案内図(別窓)のほぼ
中央を参照。かなり重いし、今後もポイントを追加する予定だけど、利用はご自由に。
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        右: 遺跡発掘調査の概略図面(方眼は100m)。奥大道は「たたら石」付近で衣川を渡り、衣の関道となる。この辺は現在も発掘調査が続いている。
清衡が奥六郡の覇権を握り平泉を拠点にした頃の「衣の関」は関所としての機能よりも、水運を利用した物流拠点の性格が大きかったらしい。


     

        左: 本格的な発掘調査が始まって間もない2006年の接待館遺跡。画像の左側が衣川と関山中尊寺の方向、正面が衣の関道と七日市場の跡。
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        中: 接待館遺跡からは膨大な量の「かわらけ」が出土している。吸湿性が強くて脆いため一度使ったら廃棄した素焼きの酒盃で、同じ出土品が多い
柳之御所などと同様に宴会や接待などが日常的に行われていた証左となる。中には義経が使った盃があった、かもね。
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        右: 確認されている関道の北端地点。前方に七日市場跡、撮影場所の背後400mには町営の史跡見学用駐車場(今でも無料だと思う)がある。
その横には安倍氏の時代まで遡る長者ヶ原廃寺跡、基衡室が造営したと伝わる室の樹遺跡も近いから散策の拠点には最適だ。


     

        左&中: 衣の関道北端から関山の方向(南)を。中尊寺を通っていた奥大道の延長線である。関道左側の接待館遺跡から七日市場遺跡周辺には
藤原基成の居館があったから、この関道は基成の居館に住んでいた義経と正妻だった 河越重頼 の娘(郷御前)も歩いた道、という事になる。
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        右: 関道右側に残る伝・七日市場の跡。関道の周辺では最も繁盛した市場だったと伝わり、現在では字の名として残っている。
接待館を隔てた 600m東は六日市場遺跡だから、関道の周辺には当時の商業集積があったと推測できる。この先には藤原氏初代清衡が
伊勢神宮を勧請したと伝わる「関の神明」の小さな祠が建っているのだが...これは見逃してしまった。

この頁は2019年 9月 6日に更新しました。