甲斐源氏の原点 常陸国吉田郡武田郷 

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那賀郡武田郷 左:甲斐武田氏の原点 常陸国那賀郡武田郷の鳥瞰   画像をクリック→拡大表示
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八幡太郎義家 が後三年の役で苦戦を続けているのを知った 新羅三郎義光 は応援のため東下を願ったが許されず、寛治元年(1087)に官職を辞して足柄峠を越え陸奥国に向かった。同年の末になって戦役は義家と清原清衡(後の藤原清衡)連合軍の勝利で終ったものの私戦と判断されたため、義家と清衡は恩賞も官位も得られなかったが、清原一族で唯一生き残った32歳の清衡は陸奥六郡を領有権を得た。
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一方の義家は私財を投じて東国の将兵に恩賞を支給し、結果としてはこの行為が源氏の名声を高め100年後に挙兵した 頼朝 に味方する関東武者を増やす結果になった、と伝わっている。
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さて...後三年の役後の新羅三郎義光は刑部丞(司法権に関わる官職)を経て常陸介・甲斐守に任ぜられた。この過程で常陸国への進出を図り、長男の家業を久慈郡佐竹郷(現在の常陸太田市)に、三男の義清を那賀郡武田郷に土着させた。家業は常陸平氏の吉田清幹の娘を妻に迎えて常陸国に勢力を広げるが、二男の 義清と嫡子の 清光 は土地の支配圏を巡るトラブルに関与し吉田清幹に訴えられて甲斐に流され、巨摩郡市河荘(平塩岡・別窓)に土着した。常陸国も甲斐国も義光の勢力の及ぶ範囲だから、実質は配置転換に近い処置と思われる。
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台地の先端には義清・清光親子の館跡と伝わる湫尾(ぬまお)神社と、資料館の「武田氏館」が建っている。地図は こちら、住所はひたちなか市武田566。

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武田館周辺の標高 右:伝・常陸武田館周辺の地形と標高      画像をクリック→拡大表示
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ちなみに義光二男の実光の詳細は伝わっていない。東北に土着して福士氏の祖になったとの異説もあるが、個人的には早世したのだろうと思う。四男の盛義は信濃国平賀郷(現在の佐久市平賀)に土着して平賀氏の祖となり、盛義−義信朝雅北條時政の娘婿、時政失脚に伴って粛清)と続く。
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義光四男の覚義は帯刀先生 源義賢義朝 の長男 悪源太義平 に討たれた大蔵合戦の際には義賢と共に 大蔵館(別窓)にいたが辛うじて甲斐国に逃れ、市河別当刑部卿阿闍梨として市河氏の祖となった。市河荘は甲斐天台宗の本拠・白雲山平塩寺を中心に繁栄しており、義清親子が甲斐源氏として勢力を伸ばす地盤があった。
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長秋記(権中納言源師時の日記)の大治五年(1130)に 「常陸国司が仔細を添えて清光の濫行を訴えた」 とある。背景には義家係累の人気を警戒した白河上皇が寛治五年(1091)に発布した 「義家一族への田畑寄進禁止令」 があり、これを利用した吉田清幹(常陸平氏嫡流・大掾氏)が義清親子の排除を画策したらしい。
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一方で吉田清幹の婿となった家業は勢力を広げて常陸源氏の祖となり、家業の嫡子・昌義は佐竹氏の初代となって常陸国全域を制覇したが、50年後の治承四年(1180)の頼朝挙兵に際して平家に与したため所領を失い、文治五年(1189)の奥州合戦で功績を挙げ御家人参列を許され、辛うじて命脈を保った。江戸時代に至って秋田に移封されて久保田藩として勢力を保ち、2011年現在は佐竹氏(北家)21代当主の敬久氏が秋田県知事に任じている。


     

        左: 伝・武田氏館跡は那珂川の約1km北、高低差10mの段丘南端にある。常陸北西部を支配していた大掾氏は奥州藤原氏とは縁戚関係iにあり、
義清も大掾氏を牽制しつつ南の志田氏や相馬氏(千葉氏)の進出を警戒していたのだろう。
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        中: 地元では武田神社と呼ぶ湫尾(ぬまお)神社、祭神は素盞鳴尊(すさのお)。創建は不詳だが拝殿は慶安元年(1648)の再建と伝わる。
義清が館を造営した地域ではあるが特に神社との関係はなかったらしい。もちろん武田の名称も地名を転用したもの。甲斐国に移転した後の
清光の二男 信義 が武田を名乗ったのは常陸の武田の踏襲か、釜無川西岸の地名が元々武田だったのか、これが良く判らない。
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        右: 水戸光圀も崇敬したと伝わる社殿の横を抜けて「武田氏館」へ。発掘資料を根拠にして建てたものではなく、一般的な地方豪族の館を
参考にして建てている。まぁ観光施設だと考える方が妥当だ。


     

        左: 「武田氏館」の見学は9時〜16時半、無料。休館は月曜(祝日の場合は翌日)と年末年始、数台が停められる駐車スペースがある。
        中: 敷地の内側から門を通して湫尾神社の方向を。寝殿造りの主屋と厩・納屋は平安時代に倣い1間7尺の間隔で柱を建てている、という。
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        右: 甲冑姿の義清(左)と嫡子清光(右)。甲斐流罪の直前と仮定すれば義清は55歳で清光は20歳、右の甲冑は後に武田氏累代の重宝に
なる「盾無」を模したものか。...ところで、「盾無」が義光嫡男の家業(佐竹氏祖)ではなく次男の義清に伝わったのは何故だろう。

この頁は2019年 7月29日に更新しました。