北條時子の菩提寺・法玄寺 

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【法玄寺の伝承と五輪塔の発見について】  物語の展開に作為を感じるので、どこまで真実か判らないけれど...
 
足利義兼が鎌倉に滞在中に正室である時子の腹が大きくなり、側女の密告もあって不義による妊娠が疑われた。建久七年(1196)に時子は「死後に身体を改めよ」と遺言して自殺、腹を開いてみると大量の蛭(ヒル)が充満していた。時子が花見に出かけた際に飲んだ野水を調べると無数の小蛭が泳いでおり、この水を時子に飲ませたのは義兼の寵愛独占を策した側女の藤野だった。仔細を知った義兼は藤野を殺し、自らは出家して鑁阿寺を開いたと伝わる。
 
時子がここに葬られた旨は寺伝に残っているだけで経緯は不明だったが、墓地の一角に無縁仏の廟を造成した昭和六年に巨大な五輪塔が出土し、これが時子の墓と推定されて現在に至っている。事件の発端となった野水は鑁阿寺本堂の右手に古井戸となって残っており、境内北西の一角には時子を祀った蛭子堂(お蛭子さま・鑁阿寺の項を参照)が建っている。
 
鑁阿寺の伝承は一部が異なり、側女の藤野が慕っていたのは客分として館に逗留していた藤姓足利氏の忠綱で、彼が藤野を無視したため忠綱と時子の密通を捏造し蛭の入った水を飲ませた...と、週刊誌っぽい話になっている。このネタ元は判らないが、藤姓足利忠綱は寿永二年(1183)2月の野木宮合戦で頼朝方の 小山朝政連合軍に敗れて西国に逃げた後は消息不明、そもそも藤姓(藤原秀郷の子孫)足利氏と源姓足利氏(源義国の子孫)は足利荘南部の領有を争った関係だし、13年も後に義兼の館に逗留する筈がないだろうに。細かい事を言うみたいだけど、邸内の井戸が「花見の際に飲んだ蛭の棲む野水」ってぇのも変だよね。
 
その後に義兼の庶長子義純畠山重忠の未亡人を娶って畠山の名跡を継承)が法玄寺を建立して時子の菩提を弔った。寺伝では義純の母=時子としているが、義純の誕生は安元元年(1175)で時子が義兼に嫁したのが治承五年(1181)なので、これも年代的に合致しない。義純の実母は不明で、当時21歳の義純が継母の時子を弔って法玄寺を創建したと考えるべき、だろう。
 
義兼庶長子の義純は新田荘で新田義重が養育していた事実、義重孫娘(新田義兼の娘)と結婚して男子二人がいた義純が「畠山の名跡を継ぐ」ため離縁し重忠の未亡人(北條時政の娘)と婚姻した事実、義兼の正妻時子(北條時政の別の娘)の死に纏わる伝承...歴史の裏に隠された複雑な秘密がありそうだ。


     

        左: 南向き斜面に広がる墓地の裏は織姫山。足利のシンボル織姫神社(公式サイト)や織姫公園が広がっている。法玄寺にも参拝用駐車場はあるが、
北1kmの法楽寺参拝を兼ねて裏側から織姫神社の駐車場まで入り、石段を下って法玄寺に行くのも可能、のんびり散策も楽しめる。
 
        中: 墓地には書家・詩人の相田みつを氏(wiki)の墓や足利市東部にある栗田美術館(公式サイト)の創設者・栗田英男氏の墓もある。
 
        右: 鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけての法玄寺は荒廃したが、江戸時代初期の慶長十一年(1606)に天領となり、代官小林十郎左衛門が
尽力の末に浄土宗寺院として再興した(中興和尚は寂蓮社照誉芳陽)。その後は明治十八年(1885)に全焼したが同二十二年(1189)に再建、
現在の本堂は既に110年の星霜を経ている。


     

        左: 本堂の左を進むと石段手前右の覆い屋に巨大な五輪塔が納めている。無縁墓地の祭壇を造る際に出土し時子の墓と推定されている五輪塔だ。
        中&右: 2007年に訪問した頃には方形の地輪が二つあるだけで補修の途中だった。土中に長く埋まっていたためか、表面の劣化が著しい。

この頁は2019年 6月5日に更新しました。