発掘が進む守山北麓の北條館跡  

 
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元弘三年(1333) 5月22日、頼朝 が開いてから約150年間続いた鎌倉幕府が滅亡し、その後に九代執権 貞時 の側室だった覚海圓成が生き残った一族の女性を連れて伊豆北條へ移り、守山北部の谷にあった館の相続を許されて圓成寺(尼寺)に改めた。176年前の保元ニ年(1157)に 政子 が生まれ、治承四年(1180)に頼朝が挙兵し、建保三年(1215)には一族を繁栄に導いた 時政 が没した、北條氏に所縁の深い土地である。
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覚海圓成は弘安八年(1285)の霜月騒動で滅んだ安達一族庶流の出身で、通称は「大方殿」。正応六年(1293)になって一族は復権し、彼女は貞時の側室として十四代執権 高時 の生母となった。正中ニ年(1326)に高時が病気のため執権を退いた後は金沢貞顕が十五代を継承したが、大方殿などの圧力を受けて間もなく辞任、後任の十六代北條(赤橋)守時は得宗被官の長崎高資や前執権の高時らに実権を握られ、大方殿も幕府が滅びるまで強い発言力を持ち続けた。
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伊豆にあった高時の所領相続を安堵された圓成尼は幕府の滅亡と共に死んだ一族の菩提を弔って余生を送り、興国六年(1345)にこの地で没した。現在は発掘が一段落して埋め戻されているが、いずれは史跡公園として整備する予定らしい。
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残念ながら確認されたのは時政や政子が生きた時代の痕跡ではなく、大部分が圓成寺時代から室町時代に存在した堀越御所に関連する遺構である。ただし広報などに拠れば、市の教育委員会は「平安末期から鎌倉時代の遺構もある、圓成寺は江戸時代まで続いた」と考えている、らしい。
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いずれにしろ約2km離れた江川氏の菩提寺 本立寺(別窓)に圓成寺の梵鐘がある事から推測すれば、上杉氏の娘が落飾した記録が残っている1440年前後(室町時代)以降、本立寺(江川氏菩提寺)創建の永正三年(1506年、伊勢新九郎(北条早雲)相模進出の頃)までの60年間に廃寺になった、と考えられる。北條氏館は弘安八年(1285)に圓成寺・長禄二年(1458)に堀越御所へと変遷を辿った末に、延徳三年(1491)の伊勢新九郎による伊豆奇襲の兵火を受けて廃墟と化したのだろう。
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  ※堀越御所: 室町幕府八代将軍足利義政の弟・政知の館跡。永禄二年(1458)の夏、義政は僧籍にあった異母兄の政知を鎌倉に派遣した。
関東で勢力を拡大した同族の鎌倉公方足利成氏に対抗して東国鎮圧を目指したが鎌倉入りできる状況ではなく、やむを得ずこの地に館を建て情勢を見極めようとした。これが堀越御所設立の経緯である。500m四方に及ぶ広大な敷地の各所が発掘調査され、北條氏の館跡を含むエリアを利用して御所を造ったと推測される。関東が麻の如くに乱れた時代である。
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政知死後の家督相続には後妻の産んだ足利潤童子が選ばれたが、異母兄の長男茶々丸は継母と潤童子と与力する重臣たちを殺して実権を握った。その騒動に乗じた沼津興国寺城の伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が攻め込んで茶々丸を殺し、33年間続いた堀越御所の歴史も幕を閉じた。その後は天正十八年(1590)の秀吉小田原攻めまでの五代・150年の間、この地は韮山城を拠点とした後北条氏の支配を受けた。

     

         左: 守山の北西側の山裾、これは発掘が始まった05年頃の北條邸跡。守山に深く切れ込んだ谷間全体が調査対象となった。
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         中: 09年の初夏、発掘作業がほぼ終りに近づいた頃の現地。将来的には史跡公園として整備し公開する予定らしい。
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         右: 発掘現場を真上から撮影した画像。左側が狩野川で画面の上が北方向、右上の堀越御所方向には人家が密集している。


  

         左: 守山の東側。中央に 願成就院、左の山裾に 信光寺(頁の末尾)、右手の光照寺 墓苑の奥が 政子産湯の井戸(全て別窓)。
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         右: 北側から見た北條館跡と守山の全景。左下の道を進むと堀越御所跡と政子産湯の井戸を経て光照寺や願成就院に至る。

この頁は2019年 10月30日に更新しました。