籘九郎盛長の所領 鴻巣の放光寺 

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墓地の碑文には次の文字が刻まれている。
 
放光寺の開祖・盛長公は藤原北家魚名に系譜をひき、小野田三郎兼広の子で陸奥国安達郡一帯を支配していた豪族で、盛長公の時に安達を称した。代々源氏の家人で盛長公は常に頼朝の側近として挙兵を助け鎌倉幕府の創建に尽力後は上野奉行職・三河守護職を歴任、頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に参加し、治承年間に源氏の祈願所として放光寺を開山した。しかし安達家は盛長公より四代後の安達泰盛のとき霜月騒動(弘安八年・1285)が起こり平頼綱によって滅ぼされた。一族は足立・伊達などの姓に替えて逃れ、現在に至っている。なおこの墓地の台座・囲石などは伊豆修善寺町に安達藤九郎盛長の墓として安置されていたものを修善寺町関係各位並びに川口市金山の安達勝治氏のご協力ご寄進によりこの地に復元した。

籐九郎盛長以後の系図はかなり明確だが、盛長以前に関しては確定できるものがなく、数種類の系譜が伝わっている。上記の小野田三郎兼広を先祖とする説が多いが、流人 頼朝 に仕えていた頃には自分の従者を持っていた形跡が皆無で、とても名のある武士の雰囲気ではない。直轄の所領を得たのは頼朝が鎌倉に入った以後。所領も家名も持たない人物が比企郡の郡司職として下向した比企掃部允の娘婿となり、なにがしかの縁があった安達(足立)を名乗った、そのレベルだと思う。
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墓所(慰霊墓)は所領の一つだった蒲郡市の 長泉寺 (東三河紹介サイト)にもあり、建久五年(1194)に初代の三河守護に任命された時に頼朝の指示を受けて社寺の再興と運営に尽力した名残らしい。

     

        左:放光寺の山門から本堂をのぞむ。籐九郎盛長は藤原北家魚名流の血筋とも言われるが出自は疑わしい。無名の武士だった可能性も...
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        中:安達盛長の墓と一族の墓所。放光寺の地図は こちら、10km南には範頼を隠れ住まわせたと伝わる石戸宿があり、所領かなり広大だった。
石戸宿と蒲桜の由来など範頼の伝承については別項で詳細を書こうと思う。
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        右:墓所に建てられた石碑。修善寺から墓石の一部を寄贈された礼も刻んである。子孫の一人が川口市に住んでいるらしい。

この頁は2019年 6月12日に更新しました。