分倍河原の合戦で敗れた新田義貞は25kmも北の堀兼まで退却 

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右:堀金(堀兼)と分倍を結ぶ鎌倉街道    画像をクリック→拡大表示
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分倍合戦で敗れた 新田義貞軍が鎌倉街道を25kmも退却して野営したのが狭山の堀金(堀兼)、義貞は本気で上野国に逃げ帰ろうかと考えたらしいが、大多和義勝の増援部隊が合流したため翌朝の攻撃を決めた、と太平記は伝えている。鎌倉街道の一本に面した現在の堀兼神社(地図)一帯がその地である。
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堀兼神社の創建は第十二代景行天皇四十年(実在すれば西暦330年前後か)、ヤマトタケルが蝦夷を討伐した帰路に立ち寄って旱魃に苦しむ人々を救うため富士山に祈り湧水を得たのが起源と伝わる。
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土地の人は湧水の地に浅間神社(富士山信仰)を建てて木花咲耶姫(ニニギノミコト(アマテラスの孫)の妻)を祭神とし、大山咋命ほか五神を祀った。その湧水が境内の「堀兼の井戸」という事らしいが同名の井戸は武蔵野の各地に点在しており、藤原俊成1104〜1204年)が詠んだ千載集の 「武蔵野の 堀兼の井も あるものを うれしく水の 近づきにけり」 にも歌われた井戸、都まで聞こえた名水かどうかは判らない。ただし武蔵野には水に関する多くの伝承や地名(水野・逃げ水など)が残っているから、灌漑用水を得にくい乾燥気味の台地だったのは確かだろう。
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堀兼神社は江戸幕府河越藩の初代藩主・松平伊豆守信綱が慶長三年(1598)に家臣の長谷川源左衛門に命じて小高い塚の上に祠を建てたのが最初、堀兼の農地は承応二年(1653)に拓かれた新田と伝わっている。随身門と両袖の二神像は江戸時代後期の作、狭山市の文化財に指定されている。


     

        上: 鳥居前には鎌倉街道枝道の一本が真っ直ぐ南北に伸びている。小手指ヶ原古戦場碑から直線で約5km北、早朝から合戦が行われた
分倍河原からは実に25kmの距離で、太平記は勝ち誇った幕府軍が「敵は大したものではない、義貞の首は武蔵・上野の武士が討ち取って
持参するだろう」
と鷹揚に構えて」特に追撃しなかったのだから、これ程遠くまで撤退する必要はなかったと思うのだが。


     

        左&中: 石段を登り一段高い本殿へ。平地が広がっているエリアなので円墳の跡を神社にした可能性もありそうだ。この日は春季例祭だった
ため普段なら空いている駐車場も満車に近く、随身門や二神像を含め落ち着いて撮影できなかったのが残念。
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        右: 直径8m×深さ2m弱の範囲を擂り鉢状に掘り下げ周囲を石柱で囲む堀兼の井。武蔵野で良く見られる「まいまいず井戸」の一種だろう。
底の中央には三尺ほどの石が井桁に組まれているが水は既に涸れている。
川越城主の秋元但馬守喬知が宝永五年(1708)に建てた「堀兼井之蹟の碑」があるため、ここが堀兼井の旧跡と呼ばれ始めたらしい。
くみてしる 人もありなん 自ずから 堀兼の井の底のこころを     西行法師

この頁は2019年 11月22日に更新しました。