吾妻鏡から見る宝治合戦(三浦の乱)の記録 

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【吾妻鑑 宝治元年(1247) 3月17日】    
黄色の蝶が鎌倉中に飛んだ。これは将門の乱や安倍貞任の乱の際も現れた兵乱の前兆と古老が訝るところである。
 
【吾妻鑑 同年 4月4日】    
秋田城介入道覚地(俗名を安達景盛、盛長の子)が高野山から鎌倉甘縄の安達邸に入った。<
 
【吾妻鑑 同年 4月11日】    
入道覚地が執権時頼邸に入り、打ち合わせなどのため長い時間留まった。また子息の義景また子息秋田城の介義景に向って厳しく三浦泰村への対応を指示した。三浦の一族は武威を振りかざし傍若無人の態度が著しい、これを放置すれば我が一族は衰退の道を辿る。義景や泰盛(義景の三男)が何の対応もしないのは怠惰に過ぎる、と叱責した。
 
【吾妻鑑 同年 5月21日】    
八幡宮鳥居の前に立て札が置かれ人々がこれを見た。三浦泰村は傍若無人が過ぎて将軍の命令にも背いているため近日中に討伐されるだろう、と。
 
【吾妻鑑 同年 5月27日】    
執権時頼が服喪(同月13日に将軍頼嗣の正室檜皮姫が病没)のため三浦泰村邸に立ち寄った。三浦一族は集まっている様子だが御所には参上せず、ただならぬ様子が窺えた。夜になり三浦邸で鎧腹巻の気配がする旨の知らせが幾つか届いた。時頼は自邸に戻ったが、後でこれを知った泰村は驚いて陳謝した。
 
【吾妻鑑 同年 5月28日】    
世の中が落ち着かないのは三浦一族が謀反を企んでいるのを警戒しているためである。官位にも所領にも不満はない筈だが、主戦派の光村(三浦泰村の弟)と懇意にし起居を共にしていた前将軍九条頼経が(退位して)京に帰ってしまったため、いろいろと頼経復帰の策謀を巡らしている。これが世の乱れる原因である。執権時頼は泰村と周辺に使者を派遣し様子を窺ったところ、軍備を整えている上に安房・上総の所領から船で武具を運びこんでおり、既に企ては秘密の域を脱しているとの報告があった。
 
【吾妻鑑 同年 5月29日】    
三浦盛時(佐原盛連の五男)が時頼邸を訪れて曰く、去る11日に津軽の浜に死人のような大魚が流れ着いた。先日の由比ガ浜や奥州の海水が赤くなった事に関係があるのかを古老に聞いたところ、文治五年の夏にもこの魚が流れ着き秋には泰衡が殺された、建仁三年も同様で秋には頼家が殺された、建保元年4月に現れた翌5月には和田義盛の乱があった、大きな事件の前触れである、と。
 
【吾妻鑑 同年 6月1日】    
執権時頼は使者として京極氏信(佐々木信綱の四男で母は北条泰時の妹)を三浦泰村邸に派遣した。面会を待つ間に氏信が周辺を見ると弓矢や鎧の類が数多く置いてある。これを怪しんで郎従の友野太郎に邸内を探らせると厩などに鎧櫃が百二三十も置いてあった。やがて泰村は氏信を居室に招き入れて用件を聞き、その後は雑談となった。泰村が言うには「世間の騒乱は困ったものだ、わが一族は他家に比べて繁栄し官位や領地も多くを得て栄達を極めている、そのためか多くの讒訴もまた受けている」、と。氏信は時頼邸に戻り用件に対する泰村の返答を報告、同時に邸内の様子を周辺に伝えた。これによって御所の警戒は更に高まった。
 
【吾妻鑑 同年 6月2日】    
近国の御家人多数が懸け付け旗を揚げて時頼邸の周囲に集結した。相模の御家人は南方に、武蔵・駿河・伊豆らの御家人は東西北に布陣して鎌倉の四門を閉鎖し、荷車などを辻に並べて防御線とした。佐原盛連の子は全て時頼邸に入った。同じ一族ではあるが三浦泰村に同調せず、盛連の三男光盛・四男盛時・五男時連は北條時氏(泰時の長男・早世)との旧交を重んじて二心を持たず、兄二人(広盛と盛義)も同調していた。彼らは門が閉ざされる前に加わったが盛時だけは少し遅れてしまった。兄弟は狼狽したが、盛時は塀を乗り越えて兄弟と合流した。喜んだ時頼は入道蓮佛(得宗被官を統率していた諏訪盛重)を介して賞賛し、招いて甲冑を与えた。
 
【吾妻鑑 同年 6月3日】    
時頼は大納言法印隆弁に命じて祈祷を行った。今日、泰村邸の南庭に泰村を非難する落書きの板が見付かった。泰村が時頼側に申し入れて「野心はないが武装した者を集めたのが世の讒訴を受けたと思う、ご不審があれば早々に退去させるし、他に問題があれば指示に従うつもりである」と。時頼は「申し入れを疑おうとは考えない」と答えた。去る5月27日の時頼来訪以後の泰村は寝食を忘れるほど悩んでいた。
 
【吾妻鑑 同年 6月4日】    
西御門の泰村邸周辺は各地の所領から集まった武装兵が人垣を作っていた。また時頼に加わる御家人や家臣も日を追って同様に数を増し、鎌倉中に溢れるような状態になった。重大な局面を迎えているため、それぞれの指揮官が責任を持って解散させる旨の幕府命令が出た。関政泰はこれに従い常陸国に帰ろうとしたが途中で泰村追討すべきとの情報を聞き、泰村に加わるため夜になって再び鎌倉に入った。これは泰村の妹を妻にしているため連座を免れないためである。深夜、毛利入道西阿(毛利季光)の妻(泰村の妹)が泰村邸に入り西阿が協力して決起し勝利を得るよう婉曲に励ました。
 
【吾妻鑑 同年 6月5日】    
早朝から鎌倉中が益々騒がしくなっている。時頼はまず使者を三浦泰村の許に派遣して郎従らを鎮めるように申し入れ、次いで書状を送り泰村らを討伐するべきだと考えている訳ではない、害心を持たず和平を求めるのが真意である、と。泰村は喜んで賛意を表し使者を帰した。その後に妻が湯漬けを運び酒と一緒にこれを勧めたが、泰村は一口食べて直ぐに嘔吐する有様だった。
 
覚地入道(安達景盛)は使者の派遣を聞き子息の義景と孫の泰盛を呼んで「和平の手紙を泰村に送ったのは、今後の三浦一族が奢り昂って栄華を極めわが一族を侮蔑するのは疑いがない。こうなれば運を天に任せて雌雄を決すべきで、問題を先送りにしてはならない。」と。これによって泰盛・大曽祢長泰・武藤景朝・橘公義らが軍勢を率いて甘縄の館を出て東に向い若宮大路の下馬橋を北に折れて八幡宮の赤橋を渡り軍容を整えた。時頼の書状を届けた使者の盛阿が帰るのを待たず八幡宮寺の門外で鬨の声を挙げ、公義五石畳紋の旗を掲げて筋替橋の北から鏑矢を放った。御所を警護する兵も悉くこれに加わった。驚いた泰村は郎従らに防戦させ双方に負傷者が出た。
 
盛阿は御所に戻って使者としての経緯を報告したが、泰村側も戦闘準備を済ませていた上に既に戦端も開かれたため、既に和平を勧めるの余地は無くなってしまった。 とりあえず北條実時(義時の六男実泰の嫡子で金沢流北条氏の初代)に御所を警備させ、次に北條時定(義時の異母弟)を三浦泰村討伐の総大将に任命、辻々で激しい市街戦が展開された。 10時頃に毛利入道西阿(時頼を後見していた毛利季光)が武装して御所に加わろうとしたところ妻(泰村の妹)が泰村を見捨てて時頼に属くのは武士にあるまじき振る舞いであると説得、西阿は思い直して泰村の陣に加わった。隣に住む甲斐守長井泰秀(廣元の孫で連署)が御所に馳せ参じようとして西阿入道に行き会ったが、武者としての理が通っているため制止できなかった。
 
これを知った得宗被官の万年馬入道が騎馬で時頼邸の庭に駆け込み、毛利入道が敵陣に加わったとあっては一大事だと報告。時頼は北の風が南に変わったのを確認して三浦邸の南にある人家に放火した。火と煙に追われた泰村一党は館から脱出し頼朝法華堂に籠った。泰村の弟・光村は80余騎を率いて永福寺に布陣しており、使者を泰村に送って永福寺の方が防御に有利だから合流して敵を迎え討とうと申し出た。泰村は「鉄壁の城であっても運命からは逃げられない、故将軍頼朝の肖像前で共に最期を迎えよう」と伝えた。
 
光村は途中の小競り合いで敵味方とも負傷しつつ法華堂に入り、西阿・泰村・光村・家村・資村・大隅の前司重隆・美作の前司時綱・甲斐の前司實章・関左衛門の尉政泰らと共に頼朝絵像の前に列座、昔話や最期の言葉を交わした。西阿が念仏を唱え、光村をはじめ一同がこれに唱和した。やがて時頼の軍勢が攻め込み三浦の武者がこれに応戦、1時間半にも及ぶ激戦の末に三浦勢力は力尽き、泰村以下主だった者276人・総勢500人以上が自殺した。確認して記録した者は260人だった。
 
続いて命令を受けた壱岐の前司泰綱・近江四郎左衛門の尉氏信らが景茂を討つため長尾の家に行ったところ抗戦はせず、父子ともに法華堂で自殺したが、行き会った子息の子息四郎景忠を捕獲した。途中で武装した10騎余りが道を塞いだが泰綱が誰何しても名乗らず、合戦にはならなかった。 夕刻に死骸を検分し飛脚を京に派遣し、六波羅の北條重時に二通の書状を託した。一通は朝廷に、一通は西国の守護地頭に通知するためである。
 
【吾妻鑑 同年 6月6日】    
泰村の妹を妻にしている上総権の介秀胤の討伐を大須賀左衛門の尉胤氏・東中務入道素暹らに命じた。また六浦の周辺に残党が集まっているとの噂があったため兵を送ったが、これは事実ではなかった。夜遅くに首実検を行った。光村と家村の首に疑義があり確認に至っていない。また大倉次郎兵衛の尉が残党捜索のため武蔵国に向った。
 
【吾妻鑑 同年 6月7日】    
胤氏・素暹らが上総国一宮大柳にある秀胤の館を襲撃、在地の御家人多数が加わった。秀胤は用意した薪などを館の周囲に積み上げ火を放ったため近づけず外から鬨の声を挙げて矢を放ち、秀胤軍も馬場の辺りに進出して矢を放った。この間に上総権介秀胤・嫡男時秀・次男政秀・三男泰秀・四男景秀は落ち着いて読経し念仏を唱えて自殺し、同時に屋敷に放火した。郎従は火煙を避けて逃走した。また胤氏の弟・下総次郎時常も昨夕からこの館に籠り同じく自殺した。父の下総前司常秀から相続した垣生庄を兄の秀胤に横領され憤懣を持っていたのだが、共に死ぬ道を選んだのは美談である。泰村が討たれた情報は5日の昼に伝わったらしい。
 
【吾妻鑑 同年 6月8日】    
常陸国で関政泰の郎従らと小栗重信が合戦に及んだ。郎従らは敗れて屋敷に放火し近隣の人家を全て焼き払った。 今日、法華堂の僧を一人召し出した。香と花を供えるため仏前に居たのだが泰村ら多勢が堂内に乱入したため逃げ損なって天井裏に登り、立て籠った連中の話を聞いた故である。盛時と万年馬入道が聴き取って記録し、それを披露した。泰村ら主だった者の顔は見知っていたがその他の大勢は知らない顔だった。堂内は騒がしかったため全ての話を聞くことはできなかったが、主な者は最期を迎えるにあたって日頃の思いを語っていた。
 
光村が言うには、将軍頼経の意向通りに覇権を求めるべきだった、なまじ泰村の優柔不断に従ったために別離のみならず一族滅亡を迎えるのは無念である、と。光村は刀で自分の顔を削り、人々に「これで顔が判別できるか」と聞いた。流血が頼朝絵像を汚した。泰村は法華堂への放火を制止したため火災には至らなかった。泰村は何事も穏便に済ませようとする傾向がある。
 
泰村が言うには、先祖の功績を考えれば子孫の罪は猶予されるべきで、まして義明から四代続いた忠臣の家である。また北條の外戚として政務全般を補佐してきたのに一時の讒言で長年の昵懇を忘れ討伐するとは恨みであり悲しみである。いずれそれが判る時が来るだろう。 ただし父の義村は他家の多くに死罪を申し渡しその子孫を滅ぼした、これはその罪科だろうか。冥途に旅立つ身であるが北條を恨もうとは思わない、と。
 
落涙し言葉も不明瞭だったが概略はこの通りだった。光村の首が不明瞭だったのは刀で自分の顔を削ったからだと判った。家村の首は未だ確認できない。この話をした僧は寺に帰らせた。もう一人の僧は床下に隠れたが兵士に殺されていた。
 
【吾妻鑑 同年 6月9日】    
武蔵国で左衛門尉景頼が金持次郎左衛門の尉(金持庄・沼津の武士)を生け捕って連行した。泰村に与して法華堂で戦い、自殺せずに逃げた者である。赤威の鎧をで鴾毛の馬に乗り法華堂の裏山から脱出し、翌日に武蔵国河簀垣(場所不明)の宿で景頼の郎従らが捕えた。
 
【吾妻鑑 同年 6月12日】    
筑後左衛門次郎知定が去る5日に筋替橋で泰村の郎従岩崎兵衛尉を討ち取った件について恩賞を願い出た。しかし知足は泰村の縁者として当日の朝まで泰村邸に詰めていた。勝敗が明らかになってから自殺した敵の首を獲り褒美を望むのはむしろ罪を問われるべきである。現場にいた者に確認させようとすると、知定はそれには及ばない旨を答えて退去した。
 
   その後の処置:同年11月11日に恩賞を得た記載がある。筑後知定は武藤景頼を証人に起請文を添えて戦闘の事実を訴えた。
 
【吾妻鑑 同年 6月13日】    
去る五日に法華堂の戦場から逃走した大須賀範胤が捕えられた。
 
【吾妻鑑 同年 6月14日】    
三浦側将士の妻と幼児を全て調べ上げた。三浦泰村の妻は鶴岡別当法印定親の妹で二歳の男子がいる、光村の妻は後鳥羽院北面の武士医王能茂法師の娘で無双の美女だった。光村は妻と小袖を交換して最期を迎えたため移り香が残っており悲嘆の涙に暮れていた、同じく赤子がいる。家村の妻は嶋津大隅の前司忠時の娘で妾腹を含め三人の幼児がいる。これらは全て落飾した。
 
また、三浦員村の童子が捕まり河津尚景に預けられた。夕刻、京から飛脚が到着。合戦を報告する飛脚が去る9日に入洛し、その返状が冷泉太政大臣を経て下されたもので、旧状に戻った事を悦ぶ内容である。
 
【吾妻鑑 同年 6月15日】    
去る五日に盛阿を経て泰村に届けた時頼の書状を泰村の妻が返却した。時頼が問い合わせたためで、大切な書状だから紛失しないように泰村から言い付かっていた、西御門の屋敷が焼けて逃げ出した際にも大切に携えていた、と。
 
【吾妻鑑 同年 6月22日】    
去る五日の合戦による戦死者などの明細が御寄合座で披露された。
  自殺および討死した者
若狭前司泰村  同子息次郎景村  同駒石丸  能登の前司光村  同子息駒王丸  駿河式部三郎  同五郎左衛門尉  同弟九郎重村  三浦又太郎式部大夫氏村  同次郎  同三郎  三浦三郎員村  毛利蔵人大夫入道西阿  同子息兵衛大夫光廣  同次郎蔵人入道  同三郎蔵人  同子息吉祥丸  大隅前司重隆  同子息太郎左衛門尉重村  同次郎  平判官太郎左衛門尉義有  同次郎高義  同四郎胤泰  同次郎  高井兵衛次郎實茂  同子息三郎  同四郎太郎  佐原十郎左衛門尉泰連  同次郎信連  同三郎秀連  同四郎兵衛尉光連  同六郎政連  同七郎光兼  同十郎頼連  肥前太郎左衛門尉胤家  同四郎左衛門尉光連  同六郎泰家  佐原七郎左衛門太郎泰連  長江次郎左衛門尉義重  下総三郎  佐貫次郎兵衛尉  稲毛左衛門尉  同十郎  臼井太郎  同次郎  波多野六郎左衛門尉  同七郎  宇都宮美作前司時綱  同子息掃部助  同五郎  春日部甲斐前司實景  同子息太郎  同次郎  同三郎  関左衛門の尉政泰  同子息四郎  同五郎左衛門尉  能登左衛門大夫仲氏  宮内左衛門尉公重  同太郎  弾正左衛門尉  同弟十郎  多々良次郎左衛門尉  石田大炊助  印東太郎  同子息次郎  同三郎  平塚左衛門尉光廣  同子息太郎  同小次郎  同三郎  同土用左兵衛尉  同五郎  得富小太郎  遠藤太郎左衛門尉  同次郎左衛門尉  佐野左衛門尉  同子息太郎  佐野小五郎  榛谷四郎  同子息彌四郎  同五郎  同六郎  白河判官代  同弟七郎  同八郎  同式部丞  上総権介秀胤  同子息式部大夫時秀  同修理亮政秀  同五郎左衛門尉泰秀  同六郎秀景  垣生次郎時常  武左衛門尉  同一族  長尾平内左衛門尉景茂  同新左衛門尉定村  同三郎為村  同次郎左衛門尉胤景  同三郎左衛門尉光景  同次郎兵衛尉為景  同新左衛門四郎  秋庭又次郎信村  岡本次郎兵衛尉  同子息次郎  橘大膳亮惟廣  同子息左近大夫  同弟橘蔵人  駿河式部大夫家村は生死不明
  捕虜になった者
駿河八郎左衛門尉胤村(出家)  金持次郎左衛門尉  毛利文殊丸  豊田太郎兵衛尉  同次郎兵衛尉  長尾次郎兵衛  美濃左近大夫将監時秀  大須賀八郎左衛門尉
  逃亡した者
小笠原七郎  大須賀七郎左衛門尉  土方右衛門次郎
 
【吾妻鑑 同年 6月23日】    
鶴岡八幡宮と頼朝法華堂など寺社に加領の沙汰があった。また去る五日の合戦の恩賞があり、全部で数十人に及んだ。筑後知定については、三浦泰村の郎従岩崎兵衛尉を討ち取りながら恩賞から漏れた。知定が泰村に同意していた疑いがあるためである。