甲斐源氏 武田氏のキーパーソン 石和五郎信光 

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治承四年(1181)3月7日には駿河に駐屯していた 武田信義が 「後白河法皇 から 頼朝 追討の指示を受けた」嫌疑により鎌倉に召還され「子孫に至るまで叛逆の意思なし」との誓詞を書かされた。元暦元年(1184)6月には嫡男の 一條忠頼 が鎌倉で謀殺、文治二年(1186)には棟梁の信義も失意の内に病没、文治四年(1188)には三男の 逸見有義 が頼朝に面罵されて失脚、建久元年(1190)には次男の 板垣兼信 が隠岐国に流罪、建久四年(1193)には信義の弟 安田義定 一族が謀反の嫌疑で追討された。少なくとも一條忠頼の暗殺と板垣兼信の冤罪には 石和信光 が関与し、逸見有義の失脚にも関わった可能性がある。
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更に義仲が頼朝と対立する一因を作ったのも信光だったと伝わる。木曽義仲 と信光は元々交流があり、義仲嫡子の 清水義高 に娘を嫁がせる意思があったが信濃国南部の支配権を巡ってトラブルがあり、これを恨んだ信光が讒訴して義仲追討令の発行に至った、と。
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本来は頼朝と対等の立場だった甲斐源氏は嫡男の信義と三男の安田義定が滅亡し、頼朝に従属する御家人の立場を甘受した次男 加賀美遠光 と末子 浅利義成 などが所領を安堵された。三人の兄の抹殺に手を貸した石和信光が武田嫡流となり、更に長兄忠頼の一條氏は信光四男の信長が継承した。甲斐源氏分割統治を狙った頼朝の思惑と家督相続を狙った信光の欲望が手を結んだ結果である。


     

        左: 第十二代景行天皇(実在なら西暦330年前後)の弟が東国巡察の際に一年間滞在したのが石和八幡宮の始まり。これはもちろん神話の世界で、
全く信頼に値しない。父の武田信義から石和を継承した信光が石和五郎を名乗り、建久三年(1192)に鶴岡八幡宮を勧請して石和の総鎮守とした。
父と兄弟を裏切って甲斐源氏の棟梁となり、併せて安芸国守護に任じた前後である。
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石和八幡宮の祭神は応神天皇・仲哀天皇・神宮皇后の三神、例大祭の4月3日に前後して騎馬随行や流鏑馬も奉納される。良く整備された市街地の
メイン街路に面しており、鳥居の右側を入った境内に駐車できる。時間に余裕があれば石和駅前のイオン駐車場や南側の勝沼バイパス沿いのアピタ
駐車場から歩いても500mほど(どちらも無料で駐車できる)。
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        中: 社殿などは天正十年(1582)の武田滅亡の兵火で焼失、後に徳川家康の寄進で再建したが数度の火災や明治四十年の洪水で失われ、最後には
昭和十八年(1943)の火災で全焼した。安永三年(1774)建築の随身門だけが辛うじて焼け残り、石和最古の建造物と言われている。
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        右: ピカピカの社殿は平成二十一年に完成したもの。摂社・末社なども全て失われたため境内は殺風景で、古社の面影はない(地図)。


     

        左: 信光の開基と伝わる、北杜市(旧・須玉町)の金瀧山信光寺の総門(地図)。家康の家臣三枝伊豆守源守晶が元和元年(1615)に新しく堂塔を
寄進した際に併せて建立したもの。三枝氏は平安初期に大和朝廷から派遣されて甲斐に土着した一族で、もちろん甲斐源氏より遥かに古い。
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その後に甲斐源氏を経て武田に臣従し、信玄に「合戦で私の両眼として働くのは一に三枝・二に真田・三に曽根である」と言わせたほどに働き、
武田滅亡後は徳川に仕えた。「塩川禅林」(寺域の東が塩川)の扁額は嘉永二年(1849)の修理の際に掲げられたもの。画像では不鮮明だが、
箱棟中央の武田菱と左右の三階松(三枝氏の紋)がこの寺の歴史を物語っている。総門横の空き地に駐車できる。
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        中&右: 途中で90度に曲がる参道には古い宝篋印塔や石塔が並んでいる。雰囲気は良いが、いずれも三枝氏が栄えた時代のもの。


     

        左: 信光寺の南東2km(地図)には一時期の信光居館または石和を守る出城の一つと伝わる中尾城があり、その鬼門に当たるエリア(信光寺の北にある
斑山の麓)に建てた金剛院を永正年間(1504〜1520年、室町幕府11代将軍足利義澄の頃)に現在地に移設し、真言宗から曹洞宗に改めたのが
現在の信光寺らしい。従って開基は信光で開山和尚は華岳玄桃、永正三年(1505)の開創となる。信光の本拠が石和だった事を考えると、中尾は
居城ではなく、出城の一つだったと考える方が合理的か。
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        ※金剛院: 遺構はないが斑山南東麓・須玉町江草の見性寺辺りか(地図)。この一帯は石和信光の子で一條氏を継承した信長が領有しており、元享元年
(1321)と伝わる創建以前に甲斐源氏との関わりがあったと推定される。信光から九代後の信満の三男・江草信泰の坐像も収蔵している。
臨済宗妙心寺派、フルネームは集雲山見性寺。
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        中: 鐘楼を潜って本堂に至る伽藍配置。大正十年の火災で本堂は全焼したが鐘楼は類焼を免れた。総門と同じく元和元年の建造である。
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        右: 本堂は昭和十三年の再建。塩川筋三十三霊場の十一番で本尊は十一面観世音菩薩、信光の位牌・信光寺殿源翁公大居士を収蔵する。
信光墳墓の場所は不明だが斑山の麓にあったと伝わる金剛院か、その付近だろう。


     

        左: 伊豆韮山の願成就院に近い熊野山信光寺(曹洞宗)。寺伝に拠れば、建仁三年(1203)に修禅寺幽閉となった 二代将軍頼家 の動向は厳重に
監視され、逐一報告する役目を受け持ったのが石和信光。頼家の顔を刻んだ面を携え修禅寺から鎌倉に向う途中の韮山で頼家暗殺を知り、
世の無常を嘆いてその場で出家、持っていた面を近くの寺に納めて供養した。これが信光が開基した経緯であると伝わる信光寺である。
その面は火災で失われたが、近くの光照寺(伝・頼朝の別邸跡)には各所に残る十一枚の面の一枚が残っている、という。
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        中: 吾妻鏡に拠れば晩年の信光は武田の家督を長男信政に譲り、暦仁二年(1239)に出家して伊豆入道光蓮を称した。宝治二年(1248)には
鎌倉の名越邸で86歳の長寿を全うしている。甲斐源氏を統率する信光が頼家の監視という些細な任務を受け持つとも考えられないが、信光が
伊豆守に任じていたのも事実で、ここから頼家の面伝承が発展したのだろう。
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        右: 光照寺に伝わる頼家の面。一説に入浴中に漆を流し込まれ爛れた顔を写したともいう。修禅寺宝物殿も同様の伝承の面を収蔵しており、形状から
両方ともに神楽か田楽の面と推測できる。暗殺するのに漆を使う必然性はないからね。


     

        左: 2012年2月に再訪してもう一度撮影。工事は完了し、三十三観音周辺も整理が終わっていた。背後の急斜面も立派な石垣に変っていた。
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        中: 廟所の石碑と信光の墓(たぶん供養墓)。信光の墓所は一般的には北杜市の信光寺とされているがこの寺にも位牌があるだけ、数度の移転を
繰り返しているため既に墓石の所在は判らない。
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        右: 塔身の材質には違和感があるが、さすがに古色蒼然とした宝篋印塔。大きいものが一基と小型のものが二基(詳細は不明)建っている。

この頁は2019年 7月31日に更新しました。