かつての義朝館跡、現在の壽福寺  

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鎌倉五山の三位の寺。そもそも京都と鎌倉の五山制度は鎌倉時代末期に定められた寺格で政権に対する協力度や為政者の好みを加味しており、宗教的な価値を示すものではない。ミシュランの制度よりもさらに基準が曖昧、と考えても良いかも。所詮は参考程度だね。
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鎌倉五山は別格上位として京都の 瑞龍山南禅寺(太平興国南禅禅寺・公式サイト)。京都五山と鎌倉五山の上位に置かれ最も格式が高い禅寺。
ただし、室町時代に 足利高氏(尊氏)後醍醐天皇 から決定権を付与されて定めたのが最初で、普遍的な価値判断の裏付けは存在ない。現代の創価学会に至るまで、政治と宗教の不合理な癒着が今も続いているのは情けない限りだが。
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別格上位に続いて、 一位に 巨福山建長寺(建長興国禅寺・公式サイト)、 二位に 瑞鹿山円覚寺(円覚興聖禅寺・公式サイト)、 三位に 亀谷山壽福寺(金剛壽福禅寺・wiki)、四位に 金峰山浄智寺(浄智荘厳禅寺・wiki)、五位に 稲荷山浄妙寺(浄妙廣利禅寺・wiki)と続く。()内は正式名。
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京都は別格上位の南禅寺は同じ、以下 一位 天龍寺、二位 相国寺、三位 建仁寺、四位 東福寺(以上公式サイト)、五位 万寿寺(東福寺の塔頭・wiki)。
 
社寺が宗教のあるべき姿を離れ軒並み俗化した感のある鎌倉の中では、五山の中にあって境内に観光客を入れずウェブサイトも持たない寿福寺や拝観料200円で頑張っている浄智寺は、個人的に好ましく思う寺である。それに比例して訪れる人の数も少ないが、八幡宮周辺や北鎌倉のように俗悪な雰囲気が見られないのは有難い。寿福寺や浄智寺は観光客を呼び込むツールなど意に介さない高潔さを保っているのか、単に孤高を気取っているだけかも知れないけど。
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いずれにしても昨今の鎌倉は原宿並みの騒がしさだから。以前は土日に限り一日500円で停められた市役所の駐車場も今では20分100円、一日(8時間)停めたら2400円だ。最近は「一日最大」1000〜1200円を売りにするコインパーキングが増えたのは嬉しいね。車で出かける前には是非検索しておこう。


     

        左: 小町通り北端にある鎌倉十井の一つ「鉄(くろがね)の井」の前から喧騒の小町通りを左に見て古道 窟屋小路を扇ヶ谷に向かう。古い映画ファン
なら見逃せない 川喜多映画記念館(公式サイト)が右手にある。遺族が旧宅を市に寄贈したのに予算不足のため長い間放置され、最近になって
格調の高い施設がオープンした。入館料はかなり良心的な300円、軽い飲食ができる設備があれば素晴らしいのだが...。
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        中: 川喜多映画記念館に続く天狗堂山には、かつて愛宕権現を祀る堂があった。太平記には「長崎親子の奮戦により 新田義貞 の兵は陣形を乱して
若宮大路まで撤退、人馬の息を整えた時に天狗堂と扇ヶ谷の方向で合戦と思われる馬煙が上がるのが見えた。との記載がある。
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        右: 不動明王を祀る窟堂は 頼朝 の鎌倉入り以前から近くの峠道にあったが、地震による崩落などにより現在の山裾に移転したと伝わっている。
現在は私有地らしく、茶屋っぽい貧相な店舗になっている。堂の名が転じた窟屋小路は鎌倉時代初期から亀ヶ谷や化粧坂に抜ける利用頻度の
高い道で、建暦三年(1213)の和田合戦の際にも記載がある。

【 吾妻鏡 建暦三年(1213) 5月3日 】    和田義盛の援軍に向かった土屋義清が流れ矢で死亡。
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(途中略) 土屋義清 は甘縄を経て亀ヶ谷に入り、窟堂前の路次を抜けて将軍が(和田義盛 の軍勢から)避難している仮御所(頼朝の法華堂)を
目指したのだが、八幡宮赤橋のそばで北から飛んできた流れ矢を受け落命した。これは神慮であろうか。従僕が首を落として寿福寺に葬った。この寺を最初に建立したのが義清の父 岡崎義實 だったためである。義清は岡崎義實の二男で母は 中村庄司宗平の娘である。

鉄の井     右:窟屋小路の入口に残る鉄(くろがね)の井」     画像をクリック→拡大表示
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正嘉二年(1258)1月17日の深夜、甘縄の安達邸(地図)から出火した炎は山を越えて壽福寺・窟堂・新清水寺(現在の浄光明寺付近、地図)、若宮(八幡宮)、宝物蔵、別当房まで延焼する大火となった。
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新清水寺は清水寺(門前会の公式サイト)の千手観音を信仰していた 政子 による創建で、鉄製の聖観音像を本尊として祀っていた。鎮火した後の捜索で観音像の胴体部分は見付かったが頭部は見付からず、そのまま行方不明になってしまった。新清水寺が焼け落ちた際に強い光が辰巳(南東)に飛び去った、そのまま別の世界へ去ったのではないか、そんな話まで囁かれた、と。
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それから500年が過ぎた江戸時代になって「鶴岡八幡宮の前にある井戸水を飲むと霊験があるとの風評から「聖観音像の首があるのかも知れない」との噂が立ち、井戸替えの際に発見された首は救い出されて西側の観音堂に祀られた。この事件があってから「鉄の井」と呼ばれ始めた、と伝わっている。
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更に明治九年(1876)の神仏判然令に伴って勃発した廃仏毀釈運動の余波を受けて由比ガ浜に廃棄されそうになった聖観音像の首は日本橋人形町の大観音寺(参考サイト)が引き取って本尊にした。頭部のみではあるが高さ170×巾54cmの巨大なもので、毎月17日のみ開帳されている。


     

        左: 小町通りの喧騒を逃れて300mほど、横須賀線の踏切を渡ると壽福寺の山門(総門)に至る。休日を避ければ静かな散策が楽しめる。
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        中: 山門前には鎌倉青年団の「源氏山」石碑が建っている。壽福寺は 頼義義家 が陸奥国の戦役に向う途中で立ち寄ったり 頼朝 の父 義朝
館を構えたりした、源氏とは縁の深い場所である。鎌倉に入った頼朝はここに館を建てようとしたが敷地が狭い上に 岡崎義實 が義朝を弔って
建てた堂があったため断念し、大倉(別窓)を選んだ経緯がある。
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        右: 古びてはいるが風格のある山門に架かる亀谷山(きこくさん)の扁額。八幡宮のある「鶴岡」に対して「亀谷」の言い回しが面白い。


        

        左&中: 寿福寺々域は国の史跡に指定されている。総門から中門に至る石畳の参道は木立に囲まれ、特に紅葉の季節が素晴らしい。
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        右: 参道突き当りの中門から先は公開されていない。GW中のみ、中門の木柵が外され仏殿に参拝できるらしいが、詳細は確認していない。


     

        左: 禅寺らしい質素で重厚な佇まいを見せる仏殿は江戸時代中期の建造で、雰囲気は良いが鎌倉の寺社としては特に古いものではない。
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        中&右: 2005年前後に撮影した墓域へ登る石段。鎌倉独特のやぐらを掘った岩壁は風情はあるが、崩落する恐れがあるため通行止め。


     

        左: 仏殿の左を迂回して裏山の「やぐら」へと小道が延びる。大仏次郎、陸奥宗光、高浜虚子など著名人の墓もこのエリアに点在している。
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        中: これは 政子 の五輪塔を納めた「やぐら」。実朝 の「やぐら」と併せて二つだけサイズが大きく、内部の壁には彫刻の痕跡が微かに残っている。
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        右: 政子の五輪塔と、やぐらの内部。ここに遺骨が葬られた訳ではなく、菩提寺の 勝長寿院(別窓)が焼失した後に建造した供養塔(慰霊墓)である。


     

        左: 墓地突き当りの「やぐら群」。大小あわせて10数個の横穴が掘られ五輪塔や石塔の残存が置かれているが、保存状態は良くない。
        中&右: 実朝の五輪塔。首は武常晴が 秦野 に持ち去ったため勝長寿院には遺髪と胴を葬った。従ってこの五輪塔も後世の供養塔にすぎない。

この頁は2019年 11月 2日に更新しました。