柿木川沿いの狩野城址 

 
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狩野城は東を流れる狩野川と北を流れる柿木川に挟まれた独立峰を利用して築城されている。攻撃を受けた時に立て籠もる「詰めの城」で、平時は城跡の西側・本柿木周辺の平坦地が館だったらしい。本城あるいは古屋敷の地名が残って、垣を巡らした館があった事から垣城→柿木に転じた、と。
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また流人時代の頼朝が訪れた伝承もあり、城址西側の月見山で開いた狩野茂光の観月会には頼朝も再三招かれた、と。狩野城址の地図は こちら
柿木に築城する以前は狩野川東岸の日向(ひなた)館(地図・旧日向区公民館(道路造成のため移転)の北側)を本拠にしていたが、工藤維景か維次の頃に更なる要害の地を求めて柿木に移ったらしい。

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        左: 狩野川の東(右岸)に日向館跡、右(上流)3kmの左岸(西岸)に柿木城址、画像左側は狩野川の支流大見川の中流域に田代信綱砦の跡。
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        中: 現在の狩野氏旧蹟・日向館跡。以前は日向地区公民館があり、その北側の崖沿いに館跡の表示があったが道路工事で完全に消滅した。
居館跡は南北77m×東西58m、南北に堀と土塁があり西側は現在は崖だが当時は緩傾斜で古い墓地もあった。背景は修善寺の城山(248m)、
鎌倉に攻め上る足利尊氏を迎えて、関東管領の命を受けた畠山国清が籠城して戦った修善寺城の跡である。
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        右: 狩野川の東側・右岸から見た狩野川と柿木川に挟まれた狩野城址。上空から見ると尾根が途中で分断されているのが判る。

平安中期の仁寿年代(850年前後)に、宮廷の建築や家具調度の製作から土木まで担当する「木工助」を務めた藤原南家の為憲が、職責にちなんで「工藤大夫」(木工の藤原)を名乗ったのが工藤氏の始まり。為憲から四代後の工藤維景が駿河守となり、その子の維次が在庁官人として狩野城を築いた。その子祐隆(家継・家次・工藤祐隆・狩野四郎太夫)は四男の茂光に狩野荘(当時は後白河院領)の支配権を譲って伊豆東海岸に移り、伊東氏の祖となった。
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伊東一族の本家筋に当る 狩野茂光 は狩野川流域に勢力を広げ、伊豆屈指の牧草地だった牧之郷を領有して多くの良馬を産出し伊豆介(四等官の二位(守→介→掾→目)。通常は守は領国に赴任しないため現地では実質的な最上位)となった。本来の支配地に含まれた伊豆大島に流されてなお乱行を止めなかった為朝征伐の総大将を務めた実力者だったが、時勢は彼に味方しなかった。
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頼朝 に従った打倒平家の緒戦 石橋山合戦(サイト内リンク・別窓)は壊滅的な負け戦となり、落ち延びる途中の 函南で自刃 (別窓)、同行した 北條時政 の嫡男 宗時も落命した。伝承に拠れば平家軍は伊豆一帯の残兵を掃討して狩野城も攻め落とし、女子供も全て殺されるか狩野川に入水して果てたという。
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茂光の長男宗茂は御家人として頼朝に重用された。その長男の詳細は不明だが二男は丹那盆地北部(現在の函南町)を領有して 田代信綱 を名乗り、同様に御家人として働いた。宗茂二男の兼光の詳細は不明、三男行光は養子に迎えた甲斐分家の工藤景任の曾孫、との説がある。詳細は左フレームの「伊東氏系図」で。
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茂光四男の 五郎親光 は文治五年(1189)8月の奥州・阿津賀志山合戦で戦死、共に戦った行光は奮戦して功績を挙げた。ちなみに、五郎親光の三女が 満劫。伊豆目代の源仲成( 源三位頼政 の嫡男 仲綱 の乳母子)に嫁して一男一女を産み4年目に離別、 河津三郎祐泰に再嫁して一萬(後の< a href="linkjinmei.html#idou-252" style="text-decoration:none;"> 十郎祐成)と箱王(後の 五郎時致)の曽我兄弟を産み、夫の横死後に 曽我祐信の後妻となった女性である。
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その後の狩野一族についての史料は少ないが、室町時代の明応ニ年(1493)に伊勢新九郎(後の北条早雲)が堀越御所を襲って足利茶々丸を殺し伊豆の覇を得た際に、柿木城主で狩野介を名乗っていた狩野道一が抗戦の末に自刃した記録があり、以後の一族は後北条氏に従ったらしい。現在残っている土塁などは殆どがこの頃の遺構だろう。


     

        左: 北側の国道136号から城址を見上げる。やや緩い傾斜の西(右手)以外は急峻な崖、東の狩野川本流と北の柿木川に挟まれた独立峰で、
南側に落ち込んだ崖の下にも小さな川が流れている。
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        中: 城址全体は軽いハイキングコースとして整備されている。農村公園には駐車場も整備されており、ここを拠点に歩くのが一般的だ。
        右: 農村公園にあった略図は南北が逆になっているから要注意。国道側から登る方が距離は長いが、土塁や郭の配置は判りやすい。


     

        左: 柿木川北岸から城址の尾根(右側)を。 狩野茂光頼朝 を招いて観月の宴を催したと伝わる館跡は柿木川の中流、本城・古屋敷の地名が残っている。
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        中: 画像左手の人家が集まっている付近から更に1kmほど上流が古屋敷地区。途中の法泉寺(無住)に樹齢400年近い枝垂れ桜が見られるが、
ここ数年で樹勢がかなり衰えてしまった。花の季節になったら狩野城訪問を兼ねて立ち寄るのも一興か。
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        右: 公園の東屋から狩野川方向を。国道から公園までは約600m、周辺に店舗などはないが芝生やベンチも整備され10台ほど駐車できる。


     

        左: 農村公園から城址へと続く遊歩道。国道沿いの入口から尾根沿いに辿るより距離はかなり短く、駐車場から約15分で本郭に登りつめる。
        中: 遊歩道から本郭方向への分岐点から公園を振り返る。茂光と頼朝は正面の山に懸る月を眺めていた...そんな感慨に浸ってみよう。
        右: 堰堤の横を通って本郭へ登る丸太の道が続く。国道側から登った画像(以下に掲載)と重複するため、今回はここで引き返した。


     

        左: 柿木川と国道が交差する近くに駐車スペースがあり休日には野菜の直売所も開く。国道沿いにある狭い石段が城跡の北東登り口になる。
        中: 東の出丸(外郭)へ登る途中から、北に流れ下る狩野川と修繕寺方向を撮影。3kmほど下流の右岸に日向館の旧蹟がある。
        右: 環境保全林に指定されているため眺望はそれ程良くないが、康安元年(1361)に畠山国清が籠った修善寺城のある城山が微かに見える。


     

        上: 急坂を登り詰めた平場が独立した東の出丸(外郭)となる。その先は再び谷となり急坂が東郭へと続く。左右は深く切り落とされた谷だ。


     

        上: 東郭も出丸と同様に独立した峰で、斜面の中腹を左へ迂回して登る。平場は狭く、両側は直登ができない険しい崖になっている。


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        左&中: 更に斜面を歩いて土塁に囲まれた中郭へ。ここが最も高所だが本郭(主郭)は更に西側にあり、南郭・西郭・東郭・中郭に囲まれている。
        右: 南郭は100平方mほどの平場で裏手は崖、更に数ヶ所の壕によって守られている。


     

        左: 南郭の更に南側。切り落としたような急斜面が落ち込んで防御線を構成している。攻め上るには最も厳しい部分だろうか。
        中: 本郭を挟んで南郭の反対側に位置する西郭。こちらも100平方mほどの平場で、掘り切りと土塁を経由して本郭に通じる。
        右: 西郭を隔てる掘り切りから本郭に登る斜面を撮影。犬は元気に登っているけれども傾斜はかなり急なので息が切れる。


     

        左: 本郭と中郭を隔てる壕と土塁。天然の崖と谷を利用して防御線を造っている。
        中&右: それぞれの郭の周囲には土塁や二重の壕が随所に配置されている。もちろん未だ銃器が使われていない頃の遺構である。


     

        左: 来た道を戻る。本郭の下から登ってきた方向を振り返る。右の斜面上が中郭で左の奥に見えるのが東郭から出丸へと続く稜線。
        中: 更に下って右側の中郭下から、登ってきた方向を振り返る。右の斜面上が中郭で左の奥に見えるのが東郭から出丸へと続く。
        右: 東郭まで下り、壕を隔てて中郭を見上げる。

この頁は2019年 6月11日に更新しました。